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朝。
目を開けると、一瞬の白い世界ののちに目に入るのは、その昔そこの大樹の一部を借りた、木々の温もり。
窓を開けると澄み渡った青空の空気と小鳥の囀りが室内に混ざる。
表の畑には花が咲き、蝶が舞う。蝶の幼虫は害虫であるのに、成虫となった蝶はこんなにも美しい。そう考えて、なぜだかほんの少し、胸が温かくなった。
腕にのしかかる水瓶の重さ。こんな感覚はいつぶりだろう。普段のように魔法で運べば簡単なはずなのに、わざわざ魔法で飛ばずにこの足で歩き、さらに自分自身の手で運びたくなったのはこの天気のせいだろうか。それとも麓の光景を思い出してか。
どっちにせよ、まだ自分にもまともな感性が残っていたのだと分かって、どこか安心する。
そうして辺りを見れば、いつも見ているようで目に入っていなかった荒野が映る。かつて一帯を覆っていた森は見る影も無く、よく家族と水浴びをした清流もどこかへ消えた。
今やこの荒野に見える緑といえば、ぽつぽつと生える小さな草木とこの手に包まれた瓶だけだ。
「ふう…」
水瓶を置き、肩を回す。一回で十分なほどに疲れが身体を覆う。
魔力切れの時とも似ているが、少し違う。魔力が尽きるとその日一日は一歩も動けないほど疲れるが、もっとこう、気力まで持っていかれて、抜け殻のようになる。説明しづらいが、単純な身体の疲れとは違う。この疲れの方が、どこかやり遂げたような気になって、気持ち良い。もしかしたらそれもこの天気だったり気分の問題だったりするのかもしれないが。
なんにせよたまにはこういうのも良いだろうが、あまりにも時間がかかりすぎるのは考えものだ。
時間があったといってやることがあるわけではないのだが、できれば家を空ける時間は短くしたい。色々な意味で。
生々しい感覚が手に感じる。血液が手から指へと伝う。
ざく切りにした肉にはよくスパイスを練り込むことで、野生の動物独特の臭いを減らすことができる。中くらいの鍋を出して、そこに肉と、うちの畑で取れた新鮮な野菜をたっぷりと。
そうそう、先に油をしいておくのだが正直この油、いつ買ったのか覚えてないほど古いようで、粘っこくて不安になる。
全体的にお野菜がしんなりするまで炒める。
その後先ほどの水をはり、沸騰したら灰汁をとる。
そしたらいい感じになるまでひたすら煮込む。
これまたちょうど良さげなところでいもを入れて、軽く煮る。昔、いもを先に入れてしまったら崩れてどろどろになってしまったことがある私だからもう一度言う。いもはここで入れること。
まあそんでもって最後に近くで採れたスパイスやら塩やらなにやらで味を付けたら…。
「完成だな」
きっと今の私は得意気な表情だろう。もしかしたら早く食べたくて仕方がない、まるで尻尾を振る犬のような顔かもしれないが。
まあ兎にも角にも、幼い頃に教わった母直伝のシチューである。まず味は間違いない。
不思議なもので、どんなに新しくて斬新な料理でも、はたまた贅沢の塊のような料理でも、これには勝てない。それらももちろん大抵は美味しいのだが、だからといってほとんどのメニューはなかなか二度と作らない。
暇つぶしに作った謎の味に始まり、街の有名店のたしかに素晴らしい味でも、通りがかりの商人から教わった懐かしの味でも、このシチューに勝ち目は無い。だからいつもこの通い慣れた、野菜ごろごろの思い出の味に帰ってきてしまう。
そのとき。近くの草むらが揺れた。家が狭いために外に設けた簡易的な焚き火が、ゆらゆらと揺れる。その火に照らされてぼんやりと浮かび上がるいくつかの影。
どうやら匂いにつられて獣どもが集まってきてしまったようだ。
さて、どうして追い払ったものか。焚き火をみても答えは出ない。炎系の魔法は威力が強いが山火事の危険があるために戦闘時など大規模な魔法行使の際は使えない。
水や氷系さらに風魔法だって畑への被害が出る可能性があるからだめだ。この間も初心者の冒険者が近くの山で害獣退治だと暴れたものだから山の半分が禿げた。本末転倒である。少なくとも植生保護とかに関しては逆効果だろう。
そう考えを巡らせていると、鍋が悲鳴をあげた。どうしたどうしたと見に行くと並々と煮込まれた鍋が勢いよく白い息を吐いている。
そんな鍋を宥めるかのように火を調節しつつ眺めていると、ふと気づいたことがあった。
目の前にはまるでこれから宴会でも始まらんばかりの大きな大鍋に、たっぷりのシチュー。
「作りすぎたな…」
なんというミス。ついに私もボケたか。そう思うほど、いくらなんでもこれは作りすぎた。
このままではせっかくの森の恵みを腐らせてしまうことになってしまう。そう悩んでいると、今度は先ほどからじわじわと集まり続ける野獣どもにやればいいのではとまで思えてくる。はたして本当に食べるのかは分からないが。
そうしてその獣の集団の方を向いた時。
ついに痺れを切らしたのか、ガサガサというノイズとともに光に照らされにくるように近づくひとつの影。
「……こんばんは」
その影の正体は果たして獣か。
否。それは人間であった。
痩せ細った少年の年齢は五、六歳といったところか。ボロボロの服に手には折れた剣。
色々と聞きたいことはあったが、まあなんにせよ作りすぎたシチューの行き先が決まったことにほっと胸を撫で下ろすのが私という生き物であった。
「……あの…すみません、わざわざ。…あと、美味しかったです」
黙々と後片付けをする私たちの静寂を破ったのは少年の声だ。
「いや、全然。ちょうど作り過ぎてしまってね。余らせても勿体無いから困ってたところなんだ」
「そう、ですか。…でもーー」
「そうだ。こっち手伝ってよ」
「は、はい」
彼との奇妙な共同生活が始まったのはこの日からである。
私たちの朝は早い。毎朝日の出とともに起きる。
起きたあとは水を汲みに行く。水汲みは一人で、当番制。今日は彼の当番だ。
水を汲みに行くとどんなに急いで飛んでいっても三時間はかかる。だからその間に一人が別の仕事をした方が効率が良いし、正直お互い一人になる時間があった方が良いだろうと、出会った次の日に決めた。
ちなみに水は魔法で生み出せないことはないのだが、魔力は不測の事態に備えて温存しておきたいので基本使わない。物質を動かしたり変形させたり、そういう魔法はまだ良いのだが、無から生み出すというのはどうも魔力を使いすぎる。
お昼ごろになると、ようやく本日最初の食事を摂る。硬いパンひとつと肉。たまに川で採れた魚。これだけだ。
しかしパン。パンなんてものは以前は滅多に食べなかったのだが、ある時から彼がパンを食卓に出すようになったのだ。
わざわざ麓の街まで買いに行っていたのだろうか。そのパンは表面はカチカチで中身もボソボソとしていて決して美味しいとは言えなかったが、前日に余ったスープに付けて食べるのだと聞いて初めてそれをやったときは痛く感動したものだ。
飯を食べたら農作業。
終わったらひたすら修行。これも彼が強くなりたいからと私に稽古を頼んだことがきっかけで、それから毎日やっている。
修行の内容は日に日に過酷になっていく。
彼もつい最近までは野うさぎ一匹狩るのに苦労していたはずなのに、最近ではジャイアントベアーなんて狩ってくるものだから、私も調理台で試行錯誤する日が増えた。
そうそう、修行といっても稽古だけではつまらないので魔法を教えたり、食べられる山菜の見分け方を教えたり、さらには文字の読み方と最低限の算術も教えたりと、私の教えられる限りのことを教えた。
彼は彼で私から学んだことをすぐに吸収して実践してくれるから、私としても少々調子に乗っていたことは否めない。
しかしそうやって単調な、しかし充実した日々が過ぎて行って、実に十年の月日が流れた時。すでに二人にとって当たり前となっていた日々は唐突に終焉を迎えた。
そう、たしかその日は珍しく新しい魔導書の物色でもしようかとまる一日かけて麓の街まで行ったのだ。
彼は終始どこかそわそわした様子だったが、私がどうかしたかと訊くとなんでもないと無理して笑みをつくった。
その日の昼飯は普段の私たちでは考えられないようなくらいには豪華なものだったのだが、そんな食事をしていてもやはり彼は上の空であったように思う。だから私は予定を変更して久々の都会観光もそこそこに、目当ての魔導書やら自給自足では補い切れない生活必需品やらを買い漁って、彼の手を引いて家路を急いだ。まあ以前はひとつの大国であった街がいつの間にか貧相な村となって、大した見どころも無くなってしまっていたからというのも少しはあるが。
家へ帰り、暗くなる前にと土産を物置にしまっていると、彼の影が無いことに気づいた。
まさか…。最悪な想像が頭に浮かんだからか。私は必死になって彼を探した。似合わないほどの大声で探し回った。
彼が大樹の足下に腰掛けていたことに気づいたのはそれから間も無くのことで、少々の羞恥心が私を襲ったが、こちらを振り向く彼の顔を見るとその気持ちもどこかへ飛んだ。
一瞬、彼が消えてしまうような予感がした。
差し込む夕陽が彼を背景に溶かしてしまう気がした。私はそこへ駆ける。駆けながら言う。
「何してるんだ!こっちへ、来なさい」
後半は、震えていたかもしれない。そんな風に口に出してしまってから気づく。動きが止まる。そんな私を見かねてか、それとも沈黙に耐えられなかったのか、彼が口を開いた。
「師匠。俺ーー」
そこから先を言わせてはいけないと全身が言った。なのに口は動こうとしない。
「俺、あの村の出身なんだ」
そんなこととうの昔に知ってる。
「あの国ーージェミナがさ、近年崩壊していってること。知ってるか」
分かるさ。それこそ神話の時代から見守ってきたんだ。
「近年の魔王領拡大に伴う魔物の大量発生で、国はじわじわと弱っていった。それに加えて魔王による魔力災害の余波で異常気象が続き、川は枯れて、森は消えた。みんな一気に貧しくなって、生きて行くのも苦しくなった」
もう良い。やめてくれ。
「だから二十年前。ここら一帯で一番大きいラウモア国へ援助を求めた。だがしかしラウモアはそれを拒否し、あろうことか我らのデモ隊をはじめとした民衆を武力で捻じ伏せた。国家間の関係は悪化し、ジェミナは経済的に困窮を極め、そしてーー」
「……っ」
「破綻した。国は崩壊し、住民は散り散りになった。その住民たちがはたして隣国に無事に移住できたのかは分からないが、そうやって逃げた友だちから、手紙が返ってくることは一度でも無かった」
生ぬるい汗が首筋を伝って、服に染みた。
「俺は次男だったから、口減らしに山へ捨てられた。あれが十年前ーー俺がまだ六歳の時の話だ。酷いものさ。一日分の食糧に、錆びた剣。これだけ渡されて山にポイだ。今思い出しても腹が立つよ。そう、腹が立つ」
泣いていた。大粒の涙をぼろぼろと溢して立ち上がり、泣いていた。
そりゃそうだ。まだ十六歳の彼には荷が重すぎる。
「俺は腹が立っているんだよ。なのに……俺を捨てた親も、この理不尽な世界も、思い出せば思い出すほどに憎めない。師匠。……教えてくれ。この気持ちの、やり場を」
気づけば彼を抱きしめる私がいた。その涙を隠すように、強く、抱きしめていた。
しばらくすると、彼も落ち着いてきて気恥ずかしくなったのか、私を振り払って再び座ると、目を逸らすように崖の下ーー麓の村を見る。
「師匠。俺、師匠に会えて良かったよ。こうして、強くなれた。きっとあのままあの村に残ったって家族とともにのたれ死んでいたんだ。だから、これで、良かった。俺の人生はこうなる運命だったんだ」
青年の言い聞かせるように話す声は確かに痛々しかったのに、私はそれに何も言い返すことができなかった。
彼がこの地を発ったのはそれからひと月後の事である。
別れ際、私たちは約束を交わした。あの日の質問には答えられない私からのせめてもの償いだ。
「冒険者になって、魔王を倒すために、俺、頑張るから」
そういう彼に、私は告げる。
「じゃあ、約束してほしい。君は将来幸せになるべきだ。だから、幸せになった姿を私に見せに来てよ」
それからは、淡々と過ごす日々が続いた。彼を待ち続ける、長い長い日々。
○
こうして思い出してみると思っていたよりもよく覚えていることに気づく。それが、嬉しいことなのか、悲しいことなのか、まだ分からない。
しかし、こうしてしっかりと思い出す機会も、この記憶に残る十年間を誰かに話す日が来ることも、彼女が来なければあり得なかっただろう。
彼と過ごした十年間。あっという間に過ぎ去った十年だった。
今は緑を取り戻したこの丘も、大国となった麓の国も、荒れ果てて、無残な光景だったはずなのに、今よりもずっと色づいて見えた。
あの日、彼が語った言葉。涙でぐしゃぐしゃの顔。言い聞かせるような震えた声。そのどれもがはっきりと思い出せる。
そんな彼は何にでも一生懸命で、ちょっと抜けてるところがあって、挫けそうにもなって、それでも必死に立ち向かって…。
そんな、私の知る誰よりも人間らしい人間だろう。
そう、彼は神でも無ければ救世主でも無い。御伽噺なんかじゃ無い。
そしてきっと、勇者なんて大層なものでは無かったのだ。
彼はただの、ちょっと運が悪かったために家族を失って、これまたちょっと運が良かったために私と出会って、くだらない事に一喜一憂する、そんな平凡な人間。幸せに天寿を全うしなければならない、私の家族。
「……」
眼下に広がる美しい国。眩し過ぎるほどに色とりどりの屋根が並ぶその様は、その国が平和であることを象徴しているかのようだった。
ここもいつだったか人もほとんどいない小さな村だったこともあった。崩壊寸前になったこともあった。
しかし今は違う。時が流れるのは思っているよりもずっと早い。人間の生活を見てると何よりも実感することだ。
今日も彼は来ない。
この日々がいつまで続くのか、それも分からない。
彼が帰ってくれば、私を攫って何処かへ連れて行ってくれるのだろうか。それは私の望みであり、同時に恐れることでもある。
この日常がどうかいつまでも続くようにーー。そう、願うの自分を見て、まるで人間みたいだな、なんて思う。
はらり、と音を立てるように一枚の花びらが宙を舞った。
小さな丘の上にまた、次の春が訪れようとしていた。
この作品は短期連載です。
Side-Bを明日の20:00に投稿予定。
明日の投稿で最終回となります。お楽しみに!
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