第1話「勇者、畑を耕す」
かつて世界を救った勇者アルトは、いま畑に向かって鍬を振るっていた。
「ふぅ……やっぱり戦場より、土の匂いのほうが落ち着くな」
魔王を討ったあと、王から勲章も領地も渡されたが、すべて断って辺境に移り住んだ。
望むものはただ一つ。——のんびり農業生活。
鍬を入れるたびに土が返り、陽の光に照らされてしっとりと輝く。
その匂いに包まれると、剣を振っていた日々がまるで遠い夢のようだった。
「よし、人参の芽も出てきたな。……あ?」
抜いた一本の人参を見て、目を瞬かせた。
眩しいオレンジ色の根菜は、まるで宝石のように透き通っている。
ひと口かじってみると——身体の奥から光があふれた。
「な、なんだこれ……? HPが全回復だと!?」
ゲームのようなステータスを持つ彼だからこそ分かる。
この人参はただの作物ではない。完全回復アイテムだ。
翌日、今度はきゅうりを収穫した。
細長く青々とした実を握った瞬間、手に魔力の抵抗が走る。
「……これは、封印の力?」
振り回してみると、近くをうろついていたスライムが一瞬で固まった。
——魔封じの武器。
さらにトマトを摘んで投げると、着弾地点で爆炎が炸裂。
家の柵が吹き飛び、鶏がパニックになって飛び回る。
「お、おいおい……こんなの、農業って言えるのか?」
だが事態はさらに予想外の方向に転がった。
村の子供たちが噂を広め、やがて近隣の冒険者が訪れる。
「勇者殿、本当ですか!? 野菜ひとつで回復できるって!」
「お願いです、雇ってください! 食費だけでも払いますから!」
次は隣国の兵士が来て、「国王陛下がその畑を欲している」と言い出した。
さらに——馬車に乗ってやってきたのは、見覚えのある豪奢なドレスの女性。
「ごきげんよう、勇者アルト様。王女エリシアです。どうか、その野菜を我が国に——」
「……ちょっと待て。俺はただ、のんびり耕したいだけなんだ!」
叫ぶアルトの声は、広がり続ける噂と人の波にかき消されていった。
こうして「畑を耕すだけの生活」を望んだ勇者の農業ライフは、
本人の意思に反して——世界を揺るがすスローライフへと変貌していくのだった。
(続く)