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第六章:記録にない死

第一話「終焉の名を呼ぶ者」


 それは、まるで夢から醒めたあとの静けさだった。

 軍の伝令が、「敵将、斃れたり」と口にした時、誰も歓声を上げなかった。兵たちは疲弊し、泥にまみれ、雨後の田に根を張ったままの雑草のように、じっとその報せを受けとめていた。

 今村秋一もそのひとりだった。

 風が止み、霧が晴れ、空が、ようやく本来の色を取り戻すかのような朝だった。だが、夜が明けたという事実だけが、彼の胸をひどく苛んだ。

 沖田静が、戻らない。

 それが現実として刻まれたのは、敵軍の撤退が正式に確認され、戦勝が認定されたその翌日、野戦本部の帳簿に、ひとつの名前が“保留”されたことによってだった。

 ──沖田静。

 彼の名の隣には、「生死不明」の四文字が記された。

「戦死」ではない。

 だが、「生存」とも書かれなかった。

 今村は、あの夜を思い出す。丘の向こうに沈んでいく背中。誰よりも強く、冷静で、そして……誰よりも深く、孤独だった。

「沖田さんが……帰ってこないとはな……」

 誰かがぽつりと呟いた声が、湿った空気に染み込んでいった。

 矢野は、何も言わなかった。医療テントの端に寝転び、空を見上げたまま、夜明けの淡い光を目に映していた。

 今村は知っていた。矢野が、何よりもその“沈黙”をもって沖田の不在を認めていることを。

 戦は終わった。敵将は死に、残兵も追撃され、最終報告は完了した。

 だが、そのどこにも、沖田静という男の姿はなかった。

 遺体は見つかっていない。誰も、その死を見ていない。

 ──なのに、誰もが、あれが「最期」だったと、わかっていた。

 それはきっと、予感ではなく、確信だった。名もなき戦場に咲いた、白き剣士の最期の剣閃。その終わりの美しさに、人は抗えない。

「お前さん……」

 今村は、剣の柄に手を添えながら、静かに呟いた。

「お前さん、本当に行ってしまったのかよ」

 雨が、止んでいた。風もなく、ただ鳥の声だけが遠くで響いていた。

 沖田静。

 その名は、戦の記録の中で、奇妙な空白をもって語られることになる。

「敵七十八名を斃した剣士、終戦の翌日、行方知れず」

 ──それが、記録に残った最後の言葉だった。

 だが、矢野にとっては、それが終わりではなかった。

 むしろ、それこそが始まりだったのだ。



第二話「名簿に残らぬ者」


 野戦病舎に、最後の血の匂いが消えたのは、春を迎えてしばらくのことだった。

 傷口の縫合、膿の処理、死亡報告と埋葬許可の署名――そのすべてが繰り返される一月のあいだ、看護長である私は、生きている者の声より、死者の名簿の整理に多くの時間を費やしていた。

 数百、数千に及ぶ犠牲者の名は、ひとりひとり手作業で照合される。前線での仮名簿、衛生班の搬送記録、伝令が持ち帰った走り書き、そして軍の正式報告。

 それらの束を捲るうちに、私はあるひとつの名に何度も目を止めることになる。

 ――沖田静。

 その名は、どの名簿にも“必ずあるのに”、どの名簿にも“確かな死が記されていない”名前だった。

「この者……遺体は?」

 私は軍医のひとりに訊ねた。眼鏡の奥の目が、乾いた帳面を見下ろす。

「確認されていません。目撃者もいません。戦死との報告は、ほとんどが状況証拠によるものです」

 彼の言葉は、いつも通り抑揚がなく事務的だったが、どこか一瞬だけ迷いを帯びたように見えた。

「戦死、未確定?」

「はい。報告書には、そう記されています。“敵七十八名を斃した剣士、行方知れず”と」

 私は、戦後の混乱のなかに埋もれていた別紙の目録を引っ張り出した。そこには、衛生記録とは異なる記述が綴られていた。

 一兵士の証言。名もない従軍炊事係が残した走り書き。どれもが曖昧で、しかし不思議な一致を見せていた。

 ――「仲間の死体の隣に、白装束の剣士が立っていた」

 ――「血にまみれ、何も言わず、その場から姿を消した」

 ――「傷ひとつ手当を受けた記録がないのに、常に戦場にいた」

 私たちの間で“白装束の剣士”と呼ばれていたその人の医療記録は、一枚も残っていなかった。

 どれほどの戦に身を投じても、沖田静の名が負傷者名簿に上がることは一度もなかった。衛生兵が接触した記録もなく、包帯ひとつ施したという証言さえ存在しない。

 まるで彼は、“癒されることを拒む身体”であったかのようだった。

「……名簿に残らぬ者、ですな」

 軍医が、静かにそう呟いた。

 私は、返す言葉が見つからなかった。記録をなぞることで初めて明るみに出る“不在”という存在。その名が何度も登場するのに、なにひとつ確定されない奇妙な人物。それが――沖田静だった。

 死は、確認されていない。

 生も、記録にない。

 私は記録者として、彼を「いた」と記すことができず、「いなかった」とも書くことができない。

 帳簿の最下段、その名前の右に、小さく震えるような字で書き添えた。

 ――未確認/記録不備/白装束目撃複数。

 それが、私にできたすべてだった。



第三話「血痕と鞘」


(一)

 雪解けの早かった年だった。

 山の猟師である源蔵は、例年よりも三日早く罠の見回りに出た。

 斜面の風はまだ冷たく、木々の幹には戦の残り香がこびりついていた。黒ずんだ血の痕跡、焦げ跡、踏み荒らされた獣道。それらは、まだ“山が平穏を取り戻していない”ことを告げていた。

 その日、源蔵がその場に足を止めたのは、罠でも獣でもなく、“静けさ”だった。

 ――この辺りだけ、音がない。

 鳥も鳴かず、風も立たず、葉擦れの音さえ凍ったように途絶えている。

 不意に、そこに「人の手が触れた痕跡」があった。

 雪を踏み分けた足跡――片方は深く沈み、もう片方はかすれたように浅い。片足を引きずる者の歩幅。斜面を這い上がるようにして残されたその軌跡は、ひとつの岩場で止まっていた。

 源蔵は息をのんだ。

 そこには、白布に丁寧に包まれた“剣の鞘”があった。

 古びたもので、刃は差されていなかった。ただ、布の裾ににじむ赤黒い血の痕だけが、それが“戦のもの”であったことを物語っていた。

 すぐ隣には、人が倒れ込んだような雪の凹み。

 だが、遺体はなかった。

 周囲には争った跡もない。獣に引き裂かれた形跡もない。ただ、“誰かがそこにいて、しばらく動かなかった”という気配だけがあった。

「……眠るようだったんだ」

 源蔵は、後にその場を訪れた衛生兵にそう語った。

「ほら、あるじゃろう、死人が出る時だけ、空気が沈む場所。あの感じに、そっくりだった」


(二)

 その話は、しばらく山里の間だけで囁かれていた。

 けれどもある日、戦から生還したひとりの兵士が、その話を聞いてぽつりと呟いた。

「ああ……それ……沖田さんだ」

 篠田という名の若い兵士だった。肩に深手を負って戻ってきた彼は、療養中に源蔵の証言を耳にして、確信をもって答えた。

「最後、あの人が山の方へ向かったのを見た。俺は動けなかったけど、矢野さんも源田も、その背中を見てた」

「それは、逃げたってことか?」

 誰かが無神経に問い返す。

 篠田は首を横に振った。

「違う。……あの人は、戻る気がなかったんだ」

「じゃあ、死んだのか?」

 今度は、問いが慎重に変わった。

 それにも篠田は即答しなかった。けれど、その顔に刻まれたものがすべてを物語っていた。

 静かに目を伏せ、彼は言った。

「……死ぬために、行ったんだよ。俺たちが“英雄にしてしまう前”に」


(三)

 それ以降、白布に包まれた鞘の話は、さまざまな尾ひれをつけて語られるようになる。

 ――「あれは慰霊碑だった」「あそこで眠っている」

 ――「あの剣を探せば、願いが叶う」

 ――「あの場所に近づくと、夢に“白い剣士”が出る」

 どれもが、確かではなかった。

 けれど、源蔵が見たもの、篠田が語った言葉、それらはどれもが“存在しないはずの最期”を確かに形作っていた。

 山には、墓標も名札もなかった。

 ただ、風だけが知っていた。

 あの剣士が、最後に見た空の色と、頬を撫でた風の温度を。



第四話「英雄にしないでくれ」

 

 “見ていない”ことほど、残酷なことはなかった。

 戦いの後、幾度となく同じ夢を見た。

 斜面を駆け下りていく白い背中。

 もう二度と戻ってこないだろうという、確かな直感。

 あのとき叫んだ。「静」と。

 振り返らなかった。振り返ってしまえば、たぶん彼は、死ぬことを諦めただろう。

 だから――そのまま、彼は消えた。

 

 終戦後、軍の報告書が編纂され始めた。

 戦果を整理し、誰がどこでどう命を落としたか、紙の上に“記録”されていく。

 矢野は、それを黙って見ていた。

 それが当然の務めであり、職務であり、名誉であり、そして誰かを“語る”ための形式だということも、頭では理解していた。

 だが、沖田静の名がその報告書に現れたとき、矢野の喉奥からひとつ、異物のような熱がせりあがった。

 ――「沖田静。戦功により、特級武功章を授与予定。戦死。最期の地は敵将との一騎討ち。名誉ある死」――

 笑えた。

 あの人が、そんなものを望んだとでも思っているのか。

 

 顕彰式典の打診があったのは、それからまもなくのことだった。

 軍本部の広報官が丁寧な手紙を添え、「遺族代行者としての出席を」と促してきた。

 矢野は返事を出さなかった。

 いや、出せなかったのだ。

 紙の上に「沖田静」という名が“戦功”として飾られているのを見るたび、

 胸のどこかがちぎれるように痛んだ。

 

 ある日、矢野はひとりで、軍の上層部のもとへ出向いた。

 命じられたわけでも、招かれたわけでもない。ただ、抑えきれなかった。

「……お願いです。沖田静を、英雄にしないでください」

 軍帽を脱ぎ、深く頭を下げる。

「その人は、そういうふうに語られることを、きっと望んでいません」

 上官たちは、最初こそ困惑の色を見せた。

 けれど矢野が話すに連れて、その顔が少しずつ、沈黙に沈んでいった。

「名誉は、生き残った者が与えるものではないと思います」

「彼は……あの人は、誰にも看取られずに、どこかへ行った。だからこそ意味があるんです」

「誰にも語られない死を、選んだ人なんです。だから……」

「英雄なんかじゃなかった。俺が、いちばんそれを知っている」

 過去の記憶が去来する。

 人を斬るたび、あの人は苦しそうだった。

 夜に膝を抱え、遠くの音に耳を澄ませるように、眉をひそめていた。

 それでも剣を握り続けたのは、他に道がなかったからだ。

 血の海に立つたび、「これでよかったんだ」と自分に言い聞かせていた。



 そんな人を、名誉で飾るなんて。

 あの人が“いなくなった”のは、そういうものから逃れるためだったのに。

 矢野は、最後にひとことだけ絞り出した。

 

「……お願いです。あの人を、そっとしてやってください」

 

 しばらくの沈黙の後、上層部の一人が口を開いた。

「記録は残す。ただ、顕彰の件は――見送りにしておこう」

 

 矢野は深く頭を下げた。

 何かを勝ち取ったつもりはなかった。ただ、それだけでよかったのだ。

 

 帰り道。

 雪が舞っていた。街道の屋根に、白く薄く積もっていた。

 その上に、ひとすじの風が吹いて、あとかたもなくさらっていった。

 矢野はふと、空を見上げる。

 雪は、音を立てずに、降りてくる。

 それがまるで、かつて白装束に身を包み、誰にも見送られず去っていった彼の――

 最後の足音のように思えた。



第五話「斜陽の影」


 ――あれは、夢だったのだろうか。



 地が、遠い。

 風が、音を失ってゆく。

 己が踏みしめるはずの足元が、かすかに、空へ浮いている。

 

 気づけば、そこは森だった。

 どこまでも灰色に沈む山道、湿った落ち葉が幾重にも積もる地面。

 木々の隙間から斜陽が、淡く、地を照らしていた。

 ――ここは、どこだ。

 自分の足が、どこに向かっているのかさえ、もうわからない。

 血の匂いが、する。

 だがそれが誰のものかも定かではない。

 衣は裂け、右の肩口にはまだ温もりのある傷。

 左わき腹と右胸はすでに、感覚すらなかった。

 一歩、また一歩。

 背中に剣があった気がしたが、もうそれも、どこかに落としてきた。

 腕が重い。目が霞む。

 けれど、足だけが止まらない。止め方を、忘れてしまったようだった。

 

 やがて、地が緩やかに傾斜し、そこに小さな窪みがあった。

 まるで誰かが、そこに眠るために掘ったような、自然な凹み。

 沖田は、静かにその場所に腰を下ろした。

 

 ……眠ってしまおうか。


 誰も来ない。誰も気づかない。

 それでいい。それを、望んでいたはずだ。

 

 けれど。

 目を閉じかけたそのとき――

 

 遠く、誰かの声が、した。

 

「……静」

 

 矢野の声だった。

 ふと、目の裏に浮かぶ。

 笑った顔、怒った顔、黙って剣を構える後ろ姿。

 

 戦場の光景が、断片的に去来する。

 咲き乱れる血飛沫。絶命の叫び。足元の死体。手に絡みついた髪。声。声。声――

 

 ……もう、いい。

 もう充分、見た。

 

 ああ、矢野さん。

 僕は、貴方に出会えてしまった。

 

 だからこそ、ここまで来てしまった。

 もし出会わなければ――

 もし誰にも見つけられなければ――

 

 ただの刃だった。

 ただの、名もなき剣だった。

 

 名は、要らない。

 人の世に、残す名など要らない。

 

 もし誰かが語るのなら、それは――

 生き延びた者の語りであってほしい。

 

 沖田は、そっと瞼を伏せた。

 風が、吹いた。

 

 その頬を、何かが伝った。

 涙ではない。もう、何も感じない。けれど。

 

 斜陽のなか、誰にも知られず、誰にも見られず、

 ひとつの命が、音もなく座していた。

 

「名を残すな……名を持たずに、逝け」

 

 それは、自分自身の声だった。

 どこからか聞こえた幻の声が、最後に彼の耳に届いた言葉だった。

 

 雪が降り始めていた。

 

 誰にも見送られずに、静かに、影が溶けていった。



第六話「名もなき剣、雪に還る」


 雪の深まる頃、山間にひとつの塚がある。

 名もなく、石碑もなく、ただ白く丸く盛り上がった土の影。

 誰が手向けたとも知れぬ木の枝が、そこに小さく挿してあるだけ。

 

 その場所には、ひとつの逸話が残っている。

 

 かつて、この山のどこかで「白の剣士」がいたという。

 

 それは鬼神だったと語る者がいる。

 それは聖者だったと語る者もいる。

 人ではなかった。

 あるいは、あまりに人だった。

 

 彼の名は、誰も知らない。

 彼の姿を、見た者がいるとも言われている。

 だがそれは誰もが別々の顔を語り、別々の眼差しを思い出す。

 

 ある者は言う。

 白装束のその剣士は、雪のように降りてきて、雪のように消えていったと。

 ある者は言う。

 その剣士は、剣の鞘だけを残して山のなかに消えたと。

 ある者は、ただぽつりと、こう呟いた。

「名もなき剣だった」

 

 伝えられるのは、地に残された赤い痕と、

 白い鞘がひとつ、枝にかかっていたということだけ。

 

 それを拾った者がいたのか、いなかったのかさえ定かではない。

 いずれにせよ、白鞘はいつのまにか失われ、雪とともに埋もれた。

 

 彼が何を願っていたのか。

 彼が何を護りたかったのか。

 誰も知らない。

 

 ただ、ある年の雪解けの頃、

 ふもとの村に、こんな風の便りが届いたという。

 

「山の奥に、誰かが静かに眠るような場所がある」

 

 それを探す者もいた。

 けれど誰一人、その場所を見つけられなかった。

 

 ある僧侶は言った。

「その者は、英雄にならぬために、名を捨てた」

 

 ある老婆は言った。

「その者は、ひとを斬りすぎて、声を失った」

 

 ある兵は言った。

「……俺の命を、あの剣が救った」

 

 真実は、雪に埋もれた。

 

 証拠も、記録も、痕跡もない。

 ただ、そこに誰かがいたのではないかという“気配”だけが、確かに残った。

 

 今もときおり、冬の夜更けに――

 白装束をまとい、森の奥を歩く影を見たという話が、村の子どもたちのあいだで囁かれている。

 

 それが誰なのか、誰も知らない。

 

 そして物語は、こう結ばれる。

 

 ――彼の名を、誰も知らなかった。

 

(完)

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