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第五章:最後の戦《後編》

第十六話「崖っぷちの影、それでも剣は」


 風の音が、遠ざかった――と思った瞬間、耳を切るように音が舞い戻った。

 森の奥深くで、弦が張られ、矢が放たれる。その音が、一瞬で夜の気配を切り裂いた。

 ――敵の動きが、静寂を破る。

 天幕にいた兵たちは、一斉に息を止めた。

 この音は、ただの“罠”ではなかった。

 人を狙う決意を持った“意図”だった。

     ※

「全員構えろ!」

 今村の声が震えた。

 号令は静かだったが、胸を揺らす音だった。

 矢が飛んできた。

 火桶を割り、薪を弾き、衣服を揺らした。

 誰もが身構えた。その瞬間、第二の矢が届く。

「伏せろ!」

 天幕の影から飛び出したのは、水嶋と早坂だった。

 弓を構え、矢を放った。

 だが、その狙いは――こちらにも、敵にも向けられていた。

 小さな、鋭い“裏切りの声”。

 静に向かって、矢が放たれた。

 だが、それは静を刺さなかった。

 地面に落ち、砂塵を巻き上げて砕けた。

 矢は、避けられたのでも、外れたのでもなかった。

 ――誰も斬れない決意だけが残った。

     ※

「どういう…ことだ?」

 矢野が怒声に近い声を出した。

「裏切りだ。間者のひとり…静を狙ったやつがいる」

 今村は冷たく言った。

 ――この中に――間者がもう一人。

 森の影が揺れた。

 誰かが、火桶の隙間から消えた。

 耳もとで、布が裂ける音。

 矢野は身をひねり、剣を抜いた。

 その視線の先で、細い影が消えていった。

     ※

「静、大丈夫か!」

 矢野が飛び込むと、静は膝をついていた。

 静は答えなかった。

 ただ肩を押さえて、微かに震えていた。

「おまえ…!」

 矢野は静の胸元の札袋を探った。それは――早坂さんの作った護符か。

 無傷だった。

「傷はなく済んだ。敵意は…斬られるより、怯えだった。狙った者は、“斬らせなかった”。それが…裏切りの本質かもしれません」

 静はぼんやりと剣を見た。

 ――自分の手を信じてくれた仲間が、同時に自分を狙ったこと。そして、自分を“守ろうとしてくれた”こと。

 矛盾は、痛みよりも鋭かった。

     ※

 その夜。

 天幕の外に、雨が落ちはじめた。

 細かく、冷たい雨が、夜の闇を洗うように降った。

 だが、天幕の内は異様に静かだった。

 誰も、言葉を交さない。

 ただ、剣が一度も納められず、天幕の中央に立っていた。

 乾いた衣の上に、赤いしずくが落ちていた。

 その剣には、まだ誰の鼓動も映っていた。

     ※

 翌朝。

 動きがあった。

 篠田が、目を充血させながら止まった。

「……あの人、夜中に天幕を出た」

「何の用だ?」

「わかりません。でも、剣を持って、雨の中を消えていきました」

 誰かが呟いた。

「あいつは…誰かを探してたのか?」

 ――誰を。

 静の姿は、そこになかった。

     ※

 急行隊が組まれた。

 矢野、水嶋、源田、早坂、佐々木。

 五人が、夜の森を追う。

 夜露が草を濡らし、霧は視界を奪う。

 だが、彼らは知っていた。

 誰が、何のために動いているのかを。

「探せ…できるだけ静に近づけ」

 矢野の声が、闇を割るようだった。

     ※

 森深く。

 誰かが剣を握る呼吸と、雨の匂いが混じっていた。

 枝が揺れる。足音が近づいた。

「静…俺たちだ」

 返事はない。

 そのとき、剣が浮かび、白装束が闇から現れた。

 ――そこには、血に濡れた静の姿だけがあった。


 顔には泥と涙の跡。

 目は伏せられ、刃を持つ手が、震えていた。

「どうして…」

 矢野は剣を下ろしながら、静の横に膝をついた。

「俺たちを、裏切ったわけじゃないんだろ?」

 静は答えなかった。

 ただひとつ、呟いた。

「……僕に、名を呼んでください」

「……?」

 矢野は言葉を失った。

「静…」

 その名が、夜を震わせた。

 静は肩を震わせて、小さく頷いた。

「ありがとうございます」

 その声に、静を探してきた五人は皆言葉を失った。

     ※

 その夜、剣は鞘に納められた。

 だが、名前は何度も呼ばれていた。

 雨の滴が、名の響きを伴って、夜空に消えていった。

 剣を持つ手が覚えているのは――怒りでも、痛みでもなく、呼ばれる温度だった。



第十七話「信じる者を、斬る覚悟」


 深い霧が山峡を包み、木々の葉はまだ露に艶めいていた。

 だが、朝の光を含んだ白はどこか重く、沈黙がすべてを覆い尽くしているようだった。

 そんな朝であるにもかかわらず、静の心には――重苦しい沈黙よりも深い虚無があった。

 ――味方に扮した間者から命を狙われたのは、自らの不注意のせいだった。

 信じたがゆえに、剣を無防備に晒した結果だった。


 静は、その思いを胸に秘めながら剣を手入れしていた。

 ざらりと響く研ぎ石の音が、虚空に木霊していた。

     ※

 昼下がり、森のざわめきが急速に薄れていったときだった。

 それに気づいたのは、沖田だった。

 大気の密度が、ほんの一瞬だけ緩んだ。

 それは気配の狂いとして、剣先の神経を張らせる。

 その気配は次の瞬間、刃と化した。

     ※

 一本の矢が沖田の背に向かって放たれる。

 その瞬間、沖田は身を翻してその矢を断ち切った。

 すぐさま、矢の飛んできた方向を確かめる。

 ──佐々木だった。

 仲間の中で最も温かな笑みを持つその顔が、静の前に現れた。


「うおおおおあああ!」

 佐々木は半ばやけになったように、沖田に向かって剣を振りかざす。

 しかし静は一拍遅れた剣をかわし、刃を合わせずとも、その意思を跳ね返した。

 佐々木の肩から、血が静かに滴り始めた。

 彼が持っていた小柄な剣は宙を切り、地面に音もなく落ちた。

 静は静かに彼を押し倒し、その身体を押し込むようにして地面へと縫い付けた。

     ※

 その瞬間、仲間たちが駆け込んできた。

 火袋を置き忘れ、槍を素手で握り、天幕から真っ先に飛び出した顔は青ざめていた。

 何があったのか、語られずとも、みな把握した。

 先日から隊内をかき乱していた間者。――裏切り者の正体は佐々木だったのだ。

「……佐々木」

「なんで、お前が……」

 その声が、小さく割れて地に落ちた。

 誰もが、信じられない想いに震えていた。

     ※

 静は剣の柄を穏やかに握り、佐々木の首筋へ冷たい刃先を向けた。

 その眼には怒りも憐憫もなく、ただひたすらに——意思だけが透き通っていた。

 一方で、佐々木の表情には——涙と笑みが入り混じっていた。

 その笑いは、皮肉でもなく嘲りでもなく、むしろ泣き声に似ていた。

「この人殺しが!」

 これまで聞いたこともないような佐々木の罵声は、鮮明に響いた。

 彼の心の内には、深い後悔と、己が踏み越えた道への絶望が燻っていた。

 重苦しい沈黙のなか、佐々木は口の端を歪めて笑った。

 その見開かれた目から大粒の涙を流しながら。

 「最後に教えてやるよ……お前たちの敵軍の中ではなぁ、“沖田静を潰す”計画が動いている」

 その言葉は血の匂いを伴って、静の胸に染み込んだ。

     *

 その瞬間だった。

 佐々木の身体が激しく震えた。

「うおああああ」

 佐々木は声を荒らげながら、沖田の制止から逃れようと身をよじった。

 それは彼なりの抗議だったのかもしれない――

「沖田さん、俺を殺せ、迷いなく」と。

 身体をひねらせ、地を蹴り、最後の抵抗を示すかのように暴れた。

 静は瞬時に動いた。

 刃先が空気を切ったその刹那、迷いはなかった。

 ──静かな、致命の一振りだった。

     ※

 剣が肉を裂き、血が淡く光った。

 佐々木は大きく息を吸ったまま、動かなくなった。

 その瞳に、怒りも哀しみもない。

 ただ、切ないほど澄んだ終幕の色だけだった。

 仲間たちは無言のまま、立ち尽くしていた。

 言葉はどこにもなかった。

 ただ、呼吸だけが不規則に乱れていた。

     ※

 静はただ一言──呟いた。

「……これで良かったのだろうか」

 その言葉は重く、澄んだ痛みをもって胸に落ちた。

 剣を握る手には、血の温度がまだ残っていた。

 それを触れるたびに、彼は自分の過ちと決意を確かめた。

     ※

 今村がそっと近づき、声を落とした。

「戻ろう……剣を鞘に」

 それは、呟きにも似た言葉だった。

 誰もが頷き、静はゆっくりと剣を納めた。

 夜が深く染まるなか、隊は歩き始めた。

 足音は、泥と血を踏む音すらも静かだった。



第十八話「囁かれた標的」


 夜が明けきらぬ時刻、空にはまだ闇の名残があり、墨を流したような雲が東の空を覆っていた。兵たちは沈黙のなか、火の気の残る鍋の脇に集まっていた。かすかに湯気が立ちのぼるだけの、静かな幕舎の朝。

 佐々木の死は、隊にとってあまりに重かった。味方だと思っていた佐々木はいつからか敵軍の間者としてこちらの隊で過ごしていた。――いや、もしかしたら最初から敵軍のスパイだったのかもしれない。

 いずれにせよ、味方だと信じていた者から襲撃されたという事実は、理屈では消化できても、感情のほうが後を引く。信頼していた者の裏切りは、信頼そのものを腐らせる。静はそれをよく知っていた。

「……敵軍が、動き始めてる、今村さん! 静が狙われている!」

 矢野の言葉に、誰かが息を呑んだ。

 焚き火の奥、夜明けの冷気のなかに現れたのは、副隊長補佐の今村だった。灰色の軍衣にしっとりと夜露を含んだ彼の髪が、少しだけ白く見えたのは気のせいではなかった。

「佐々木の遺言……いや、口走った最期の言葉が確かならば、敵軍は“沖田静”を最優先で潰す計画を進めている」

 名が呼ばれても、静は動かなかった。

「“白装束がいれば勝てない”。それが、あいつらの結論なんだとよ」

 あの場にいなかった兵たちはざわめいた。いや、声を上げたわけではない。肩がわずかに揺れ、息が荒くなり、目が彷徨った。

「このままじゃ、静が危ない……! 援軍を」

 矢野の声は、地を踏むような焦りを含んでいた。迷いも、怒りも、その奥にある“どうか、守りたい”という叫びも。

 今村はすぐに手配した。伝令兵を呼び寄せ、作戦本部へと走らせる。

「静を最優先で狙っていると伝えろ! 行軍経路も変更が必要になる! 急げ!」

 その兵士は無言でうなずくと、地を蹴った。東の空がかすかに白み始めたのを背に、彼は走っていった。

 だが、それは、ほんの数分前の話でしかない。

     ※

 次に見たのは、その兵の“首”だった。

 斜面の向こう、木々のあいだから不意に現れた敵兵のひとりが、片手に掴んでいたのは、それだった。首筋から血を垂らし、まだ表情の凍りついたままの顔。

「っ……く、そ、あいつら!」

 源田が叫び、早坂が矢を番えようとしたが、もはや遅かった。

 四方から、土を踏み鳴らす音が押し寄せる。木立の奥、霧のなかから浮かび上がる影。十、二十、三十……数えきれないほどの兵が、静かに包囲を始めていた。

 敵将の戦略は的確だった。伝令を断ち、状況把握を封じたうえで、一点突破を図る。その“一点”が沖田静であることを、彼らは疑っていなかった。

 まるで、白装束だけがこの戦場の要だとでもいうように。

「下がれ、全員! 布陣を整え――!」

 今村が叫ぶと同時に、矢野は咄嗟に横を見た。

 ――静が、いない。

 白の姿が、いつのまにか、どこにもなかった。

     ※

 それは、沖田静が自ら選んだ判断だった。

 佐々木を斬ったその瞬間から、静の表情は氷のように固くなった。

「味方のなかに敵がいた」という衝撃が、彼の信頼を削いだのではない。

「沖田静の傍にいれば安全だ」とされていたが、状況は移り変わっていた。

「沖田静が狙われている」この状況下においては、「沖田静の傍にいる」ことはむしろ命の危険と隣り合わせだということだった。

(……僕が、ゆるんでいた)

 たとえ味方に紛れていたとはいえ、間者の気配を察知できなかった。自分に情けがあったとすれば、それは斬られたも同然。剣士として、剣の先に迷いがあってはならない。

 だから静は、距離をとった。

 あの人たちを危険に晒したくはない。

 来るなら、来い。

 俺はここだ。


「ここにいる――!」


 沖田は丘のその先、小山のてっぺんに立った。

 白装束は目立つ。囮になるにはうってつけなのだ。

 敵軍は山の上に立つ、無防備な白装束を目掛けて次々と駆け出した。

 静は、意図して本隊から離れた。

 それを察していた者は、矢野だけだった。

     ※

 敵襲は本隊にも押し寄せた。

 白装束の姿が見えないまま、戦況は急転する。四方から押し寄せる敵兵に、本隊は散り散りになりながら、必死の抵抗を続けた。

 だが、敵は知っていた。“白”がいない今こそが好機であると。

 今村が陣形の再構築を命じるも、その声がかき消されるほどの喧騒のなか、水嶋が肩口を斬られて倒れた。彼の得意とする斥候術も、乱戦では活かせなかった。



第十九話「囁くは、死を数える風」


 ざわり、と。

 空気の層が、別の相に変わった気がした。

 草の匂いを孕んでいた風から、血と火薬の臭いが立ち昇る。

 最初に気づいたのは、源田だった。弓の手をわずかに緩めて、細く目を細める。

「……囲まれたな」

 誰かが呟いた言葉が、奇妙に遠く聞こえた。

 隊は、すでに全方位からの包囲を受けていた。

 高地の小道、森の切れ間、足元の窪地に至るまで、すべてが敵の射程にある。

 伝令を走らせた直後、敵が伝令の首を携え現れたとき、今村の心には“判断の遅れ”という痛みが走ったが、それすらも許されぬ時間だった。

「構えろ!」

 今村の怒号が空気を割る。

 篠田が腰を低くし、槍を左右に滑らせる。早坂は弓矢を構え、指先の震えを制御するように唇を噛んだ。矢野は背を丸め、前方の斜面を見据える。

「……静は、まだ戻らない」

 誰ともなくそう言った。

 静――沖田静。

 隊の希望であり、神話であり、そして、まだ戻らぬ剣だった。

     ※

 その瞬間、風が変わった。

 耳鳴りのような沈黙が、鼓膜を打ち破るように破られる。

 最初の一撃は、矢だった。

 森の奥から放たれた矢が、今村の頬を掠めて、後ろの木に突き刺さった。

「くるぞ!」

 怒号とともに、地鳴りが始まる。

 兵が走る音、盾のぶつかる音、武器が鳴る音。

 敵が雪崩れ込むように姿を現した。

 百――それ以上。

「位置を取れ!」

 今村の号令に従い、篠田と源田が左右に開く。矢野は後衛に回り、早坂と水嶋が中央を支える。

 だが、すでに陣形は整ってはいなかった。

 敵の数が、想定を超えていた。多すぎた。

「ちくしょう……これは潰すつもりだ、最初から!」

 早坂が叫び、弓を引く。

 轟音とともに、一人、二人と敵が崩れる。

 だが、すぐに次の波が押し寄せる。

 海のように、途切れず、怯まず。

「水嶋、下がれ!」

 矢野が叫んだが、水嶋は踏みとどまった。

 弓を捨て、腰の刃を抜いて前に出る。

「後衛がやられる!」

 叫びながら、真正面から斬り結ぶ。

 が、敵兵三人に取り囲まれ、刃は弾かれ、腹に突き立てられた槍が、水嶋の身体を折った。

「……っ、うそ、だろ……」

 誰かが呟く。

 水嶋の身体は、音もなく、地に落ちた。

     ※

 続いて、早坂が倒れた。

 矢が尽き、懐から刀を抜いたその瞬間、後方から回り込んだ敵兵の刃が、背中を裂いた。

 よろめきながらも振り返り、敵兵の首筋を斬るが、今度は腹に槍。

 鮮血が、地面に放物線を描く。

「はや……さかっ!」

 矢野の叫びが木霊する。

 だが、そこに時間は与えられない。

 敵の陣形はすでにこちらを囲み、数の差は歴然。

「源田! 弓、もうないか!」

「あと一本……だが、風が……」

 風向きが変わっていた。矢は逸れ、狙いは外れ、希望は遠ざかる。

 今村が叫ぶ。

「崩すな! あと少し、静が――」

 言いかけた言葉が、槍の柄に潰された。

 横から突き出された槍が、今村の脇腹をかすめる。

 今村は呻きながら敵兵を斬るが、そのまま片膝をついた。

「くそ、……くそっ」

 誰もが限界だった。

     ※

 篠田の腕が血に染まる。源田の足が矢に貫かれる。

 敵兵は、兵というより、ただの暴風のようだった。

 矢野も、すでに左足を打ち抜かれていた。

 立ち上がろうとしても、踏み込めない。

 あばらが折れていた。呼吸のたびに肺が悲鳴を上げる。

 それでも、矢野は叫んだ。

「静……っ! 無事か……ッ!?」

 どこにいる。

 もう、間に合わないのか。

 だが、その瞬間だった。

     ※

 音が、変わった。

 押し寄せる敵兵の奥で、一人が斬り伏せられる。

 続けて、また一人。

 白。

 風を裂くような、白。

 沖田静だった。

「……遅れて、すみません」

 息を切らせもせず、静は言った。

 足元には、倒れた敵兵の影。

 背後に揺れるのは、赤く染まった夕暮れの陽ではない。

 それは、剣の返り血。

「静……!」

 矢野が名を呼ぶ。

 が、静はそれに応えず、ただ、味方たちの亡骸を見つめた。

 水嶋。

 早坂。

 その名を、目でなぞる。

 そして、小さく目を伏せた。

 誰にも届かぬ、小さな声で、何かを告げた。

 それは、祈りだったのかもしれない。

 あるいは、ただの――別れだったのかもしれない。

 次の瞬間、静は、剣を抜いた。

「僕が行きます」

 そう言って、敵軍のただ中へ。

 彼の背中には、どこか安心感があった。

 戻ってくる、そう思える何かがあった。

 だがその日だけは、違った。

 全員が、それを“最期”だと悟った。

「……静!」

 口から血を迸らせながら矢野が叫ぶ。

 だが静は、振り返らなかった。

 丘の下。

 七十八の敵兵。

 その中心へと、白き鬼神が、駆けていった。



第二十話「戻らぬ者の背に、雪が降る」


 その瞬間、誰もが理解した。

 もう、あの背中は還ってこないかもしれない、と。

 呻くような風が丘の上をかすめた。焼け焦げた松の香が微かに漂い、血と泥が混じる土の匂いと混ざり合って、どこか現実味のない空気が、戦場の空を包んでいた。

 沖田静の白装束は、もうかつてのように凛とした純白ではなかった。剣戟による破れや焦げがあり、風に舞うたび、ところどころが赤黒く染まっていた。にもかかわらず、彼の歩みは静かだった。凪のように、恐ろしいまでに穏やかだった。

「静……」

 誰かの声が震えていた。矢野のものかもしれなかったし、別の誰かのものかもしれなかった。ただ、その呼びかけを沖田は振り返らなかった。

 視線の先には、視界いっぱいに広がる敵軍――七十八の兵。密集し、布陣し、今まさに包囲を固めつつある敵兵たちが、無意識にほんの一歩、沖田から退いたようにも見えた。

 彼らは気づいていなかった。静が、戦場に立っていることに。

 否。彼らは探していた。彼の姿を。

「白装束を潰せ」という作戦のもと、何より優先すべき標的として名を挙げられた白の剣士――沖田静。

 彼らは、そこに立つ返り血にまみれ、煤に汚れた静を、ただの兵のひとりと思い、見逃した。

 そしてその錯誤の数秒間こそが、地獄への門を開け放つ猶予だった。

 ひとつ、深く息を吐く。

 その刹那、静の姿が風に紛れ、消えた。

「ッ!?」

 気づいた時には、既に敵兵の首が跳ね上がっていた。

 鋭い金属音が連なり、悲鳴が上がるよりも早く、三、四、五――視界が血飛沫で染まる。

 静は迷わなかった。剣を横に払うたび、肉が裂け、骨が折れ、声にならぬ絶命の痙攣が地面に転がった。

 それは、まるで“舞”のようだった。

 ひと振りの剣が描く軌跡に、無駄な力はなかった。止めるでも、押し返すでもなく、ただ“流す”ように、命を断ち切る。

 斬るのではない。

 ただ、命を“零す”。

 敵兵の一人が恐怖に足を止め、反射的に槍を振るう。

 しかし、すでにそこには静の姿はなく、気づけば背後を取られていた。刃が背筋を裂き、喉元を貫いた。

 静の瞳には、もはや人間としての逡巡がなかった。

 慈悲ではない。狂気でもない。

 それは、“確信”だった。

 ここにいる七十八の兵を、自分ひとりで断たねばならぬ――その覚悟が、既に心身に染み渡っていた。

 彼の動きに、迷いはなかった。

 ひと太刀ごとに、死が積み重なる。だがそこに、過去のような“激情”はなかった。

 ただ冷たく、淡々と、機械のように剣が命を削る。

 敵軍がようやく静の正体に気づき、陣形を組みなおす頃には、既に十七が倒れていた。

「白装束だ……!あれが、“白の剣士”……!」

 叫びがあがる。だが、それは鼓舞ではなかった。

 恐怖がにじむ、震えた報せだった。

 最前列の兵が退いた。

 その背を追って、後列の兵が動いた。

 しかし、静は一切それを逃さなかった。

 右手で剣を斬り下ろし、瞬時に左手で槍を奪い取り、くるりと回転しながら腹部を突く。

 一人が倒れる。

 血が大地に浸み、後方の者が足を滑らせる。

 静は、その隙すら見逃さなかった。

 地を蹴る。

 膝を使い、滑るように進み出ると、斜め上から斬りつけられた剣を、上体を逸らして回避。

 そのまま懐に潜り込み、胴を一閃。

 斬ったのではない。

 “納めた”。

 剣の軌跡が、敵兵の命を“しまい込む”ように吸い取っていく。

「人間じゃねえ……」

 誰かが呻いた。

「なんだあれは……化け物だ……」

 もう、誰も前へ出ようとしなかった。

 士気は崩れ、足は震え、言葉は途切れがちになる。

 だが、静の足は止まらなかった。

 その表情に、焦りも怒りもなかった。

 ただ一点――“沈黙の怒り”だけが、氷のように燃えていた。

 ――守れなかった者たち。

 ――届かなかった声。

 ――信じ、背を預けたはずの者の裏切り。

 そのすべてを、静は背負っていた。

 戦場の向こうに、いまだ踏ん張る味方たちの姿があった。

 あの丘の下、泥にまみれ、呻き声をあげている仲間たちの姿が、遠く見えていた。

 矢野。

 今村。

 源田。

 篠田。

 そして、早坂、水嶋。――佐々木。

 その名を、彼は一人ひとり思い浮かべながら、歩みを進めていた。

「――っ……!」

 誰かが、堪えきれず声を上げた。

 背を見送ることしかできないその無力さに、拳を握る者がいた。

 膝をついて叫ぶ者もいた。

 その声を背に、静は風のように沼地を蹴った。

 それは、まるで“遺影”だった。

 生ける者の姿ではなく、戦場に刻まれし幻のような白。

 戦場を駆け巡る足音は、誰にも届かぬ祈りのようだった。

 このとき、誰もが知っていた。

 あの背中は、もう戻らない。



第二十一話「鬼神の剖裂」


 なぜだろう。

 その夜は、風が吹かなかった。

 山々に囲まれた谷間の空は、黒曜石を溶かしたような漆黒に沈み、どこか不吉な静けさを纏っていた。枝を震わせる気配もなく、空気は不気味に澱んでいた。まるで、何かが訪れるのを待っているかのようだった。

 それは、沖田静が斬り込んだ夜である。

    ※

 敵軍は油断していたわけではなかった。

 斥候の報告で“白装束の剣士”が現れたことは、すぐさま本陣に知れ渡っていた。だが、信じていなかったのだ。たった一人で戦局を覆すなど、常識的にありえないと。

 常識は、沖田静を前にしては砕けるものだった。

 敵軍の側面を突いた沖田は、闇夜にまぎれ、獣のように駆け、剣を振るい、突き、斬り裂いた。

 最初に斬られた敵兵の首が、暗い草むらに沈んだとき、その場にいた者たちはようやく“それ”がただの剣士ではないことを理解した。

 白装束の影が、風のように動いた。

 誰も叫ばなかった。声すら出なかった。斬られた者は息の根が止まるまで、自分がやられたことにすら気づかない。

「っ、まて……囲め、囲めッ!」

 誰かが叫んだ。だが遅い。

 沖田の足取りは、踊るようだった。踏み込みも、斬撃も、跳躍も、異様なまでに静かで、そして正確だった。斬るために生まれた肢体。戦場でのみ呼吸を許された鬼神。

 敵軍の輪は、瞬く間に崩れた。

 斬って、踏み砕いて、蹴り払って、倒した。

 返り血で染まった白装束が、月の光を受けて煌々と輝いた。濡れたように濃く、そしてなによりも恐ろしかった。

 それは、もはや“人間”の形をしていても、“人間”ではなかった。

(……やっぱり、いるんだ……化け物が……)

 敵の一人がそう呟いた瞬間、その胸元に剣が届いていた。断末魔はなかった。肺ごと貫かれたからだ。

 沖田は、喘がなかった。叫ばなかった。無言のまま斬り続けた。

 斬り、斬り、斬り……。

 それは儀式のようでもあり、呪詛のようでもあった。

 息を吐く音すらなかった。

 沖田静は、もう何本目かの刀を手にしていた。

 最初に携えた軍の支給刀は、すでに刃こぼれし、鍔元から割れていた。血脂と肉片がこびりつき、鞘にすら戻せぬほどだった。

 彼はそれを捨てた。

 振り返りもせず、落ちた刃を投げ捨て、足元に転がる亡骸の武器を拾い上げる。

 敵の太刀、味方の槍、折れかけた脇差。

 手に馴染まなければそのまま地に置く。自分の動きに遅れが出るものは選ばない。

 戦場の音は、もう剣戟の音ではなかった。

 それは、獣の咆哮でも、兵の怒声でも、断末魔でもない。

 ただ、土と鉄がこすれる音だった。

 それだけが、あの白装束の剣士の「進撃」を知らせる印だった。

 四十。

 その数は、誰が数えたわけでもない。

 ただ、戦場の残骸の中に「そこにいた者が、確かに減っていく」だけだった。

「白が来た。白が──」

 誰かがそう言った瞬間、また一つ影が地に沈む。

「逃げろ、もう無理だ!」

 そう叫んだ兵もいた。

 だが、逃げようとした背中に、迷いなく刃が突き立った。

 沖田の目は、すでに人のそれではなかった。

 焦点の合わぬ虚ろな目。

 だがその奥には、燃えるようなものがあった。

 怒りでもない。

 悲しみでもない。

 それは、絶望の奥にある「諦念」に近かった。

「ここで終わると、もう、分かっている」──その理解が、逆に沖田を突き動かしていた。

「終わりの場所」へ向かう、その覚悟。

 誰もが予感していたこと。

 それでも、人々は叫んだ。

「戻ってこい! 静! お前は、まだ!」

「沖田さん! 待ってください、あんたは……!」

 叫び声が届かぬ丘の下で、沖田は振り返らない。

 ただ黙って、もう一振り、また一振りと、剣を振るう。

 敵将は、震えていた。

 武者震いだった。

 あの剣士が、人を斬るたびに、何かを削っているのがわかった。

 それは「人としての何か」だった。

 このまま斬り続ければ、きっと彼は戻ってこられない。

 そのことを、敵将である自分が、一番理解してしまっている。

(……戻れぬ道を、歩いている)

 そう感じたとき、敵将の唇から、声にならない祈りが漏れた。

「……せめて、終わらせてやる」

 それは、敵としての誓いではなく──人間としての決意だった。



第二十二話「剣の向こう、聲の彼方」


 剣が、鳴いた。

 風の音よりも静かに、鉄の重みよりも儚く。あれほどまでに濃密だった殺気が、ふと、霧散するように揺らいだ瞬間があった。

 沖田静の剣先は、地を穿つでも、空を裂くでもなく、ただその一点に沈んでいた。足もとに積まれた亡骸の、そのうちの一人が、まだ完全に絶命していなかったのか、小さな咳をした。

 その音に、沖田の目が細められる。

 息を吸い、吐く。ただ、それだけの行為でさえ、剣となる気配をまとっていた。剣を持つ手の力は衰えておらず、むしろ研ぎ澄まされている。だがその手のひらには、わずかに震えがあった。

 地面に転がる兵の一人が、刃を向けてくるでもなく、ただ身体を起こそうとしていた。既に肋骨は砕け、視界は血で濡れている。その目が沖田を見たとき――

「……やっぱり、おまえ、化け物だ」

 血を吐くような声で、男が言った。

 沖田は何も答えない。ただ、目を伏せ、ひとつ、息を吐いた。

 そのまま、足元の小太刀を拾い上げる。もはや最初に携えていた剣は砕け、次に使った刀も、敵兵の腹を断ち割ったあとで刃こぼれしていた。

 刃は折れても、戦いは終わらない。

 敵兵がひとり、またひとりと、沖田に向かってきた。彼らは沖田を見失っていた。剣の閃きが、視界のどこにもないのだ。斬られてから、自分が斬られたことに気づくような、それが“沖田静”という存在だった。


 沖田は、斬るという行為に感情を乗せなかった。

 ただそこに敵がいて、ただそこに剣があった。

 それだけのことだった。

 しかし、戦場に満ちていくその匂い――血と脂と、泥と、焼けた肉の混じった濃厚な臭気――だけが、沖田の意識の縁をじりじりと焼いていった。

 ――六十。

 その数に達したとき、沖田の掌に握られた小太刀は、ぬるりと血を吸い、手の感覚を奪っていた。もはや柄と刃の境すら見えない。ぬめる感触を、ただ制御だけで受け止めながら、沖田はまだ一歩も退いていなかった。

 丘の斜面を駆け下りたまま、彼は止まらず、止まれずにいた。

 敵兵のひとりが逃げようとする。

 その背を、沖田は追う。かつての彼なら見逃しただろう。だが今、敵を逃がすという判断は、“味方の命を敵に晒す”ことと等価だった。

 生き残った矢野の声が、遠く耳に残っていた。

 静、と呼ぶ声。

 幻聴ではなかった。

 それはたしかに、あのとき、呼び止めるように届いた聲だった。

 だが今、沖田の中にはもう、自我の声よりも、戦の鼓動が優先して鳴っていた。

 沖田の咆哮が空に割れる。大地のエネルギーを全身に吸い込んでいるかのような叫びだった。

 人間が、人間として許されぬほどのものを背負った末に放つ、魂の裂ける音だった。

 その叫びと共に、沖田の身体は跳ぶ。

 刃こぼれした剣を捨て、地に落ちていた槍を奪い取る。

 そのまま槍の柄を逆手に持ち、迫る敵兵の顔面を砕く。

 鮮血が弾ける。

 脳漿が飛ぶ。

 地に転がったその顔が、自分と同じような年齢だったことに、沖田は目を伏せることすらしなかった。

 生き残るためではない。

 護るためでもない。

 赦されぬ命を、命のままに葬るために。

 沖田静はそこにいた。

 踏みつけた大地の感触は、もはや泥でも土でもなく、柔らかなものだった。

 斬られた兵士の、潰れた胸。のたうち、呻き、命の名残を押し出していた喉元。

 沖田は目を伏せない。目を逸らさない。ただ、覚えておく。

 自分の刃で断ち切った者たちの顔と声を、記憶の底に留めておく。

 そうでなければ、自分という人間の形が、いよいよ崩れてしまうから。

 ――あといくつ。

 数えていた。

 殺した数ではなく、生きて戻るために、斬らねばならぬ数を。

 七十六、七は、おそらく超えていた。

 それでも終わりは訪れない。

 沖田の脚がわずかにもつれた。瞬間、左方から飛来した刃が、彼の白装束の右肩を裂く。

 反射で身体をねじったため致命傷にはならなかったが、布が裂け、白が赤に染まった。

 視界の端に、敵将の姿が見えた。

 漆黒の甲冑。深紅の鉢巻。両手に握った長槍。

 その佇まいは、静かに沖田のすべてを見据えていた。

「……」

 沖田は、息を吸い込む。

 地に落ちた太刀を拾う。刃は既に、血脂と肉の繊維で黒ずんでいた。

 その剣を――なおも握る。

 もはや技ではない。理でもない。

 剣と身体とが同化し、ひとつの衝動だけで動く。

 そのとき、敵将のまなざしがわずかに揺れた。

「……間違いない。こいつは――」

 敵将の唇が震え、言葉にならない声を吐いた。

「――化け物だ」

 それは、恐怖ではなかった。

 畏怖でもない。

 ただただ、「人ではない」という、生き物としての認識だった。

 静寂。

 次の瞬間。

 沖田は跳んだ。

 敵将に向かって。

 それが、地獄の終わりであり――

 さらなる地獄の幕開けだった。

     ※

 沖田は跳んだ。

 地に転がる血と骨の層を飛び越え、敵将の胸元を狙って。

 その剣が届く刹那――

 ふ、と。

 耳の奥に、風でも声でもない何かが走った。

「……静」

「静、戻ってこい……英雄になんかならなくていいんだ、静……」

 誰かが、自分の名を呼んだ。

 遠く、すでに届かないはずの場所から。

 だがその響きは確かに、沖田の胸の底、言葉にならぬ場所を震わせた。

 

 まぶたの裏に、微かに焼きついていた景色が揺らめく。

 汗に濡れた額。呼吸の浅い音。夕日を浴びた笑顔。

 あの男が――あの戦場の、唯一の同胞が言った言葉。

 ――お前が人の心を忘れそうになったら、俺が呼び止めてやるよ。

 あれは夢か、幻か。

 それとも、今この瞬間、本当にどこかから届いた聲だったのか。

 沖田の脚が、わずかに止まった。

 刹那の隙。

 敵将の目が、鋭く閃いた。

「そこだ」

 低く唸るような声とともに、槍が放たれた。

 風を割き、寸分の揺らぎもなく、一直線に沖田の胸を貫く。

 ――ず、と。

 深く、鈍い音が空気を裂いた。

 沖田の身体が、その場に凍りついたように動きを止める。

 白装束の胸元に、深紅の花が咲いた。

 一瞬置いて、沖田の口からどっと鮮血がこぼれ落ちる。

 敵将の顔に、勝利の色はなかった。

 そこにあったのは、ただ圧倒的な沈黙と、神への礼のような、深い黙祷。

 沖田は、ゆっくりと足元を見下ろす。

 突き刺さった槍、その柄の先にある手、そして……自らの胸に滲む鮮血。

 痛みは、なかった。

 ただ、身体の奥が、遠ざかってゆく。

 その奥で――

「静……」という聲が、もう一度、確かに聞こえた気がした。

 そして、彼は倒れなかった。

 剣を握ったまま、まだ前を向いていた。



第二十三話「魂の檻を越えて」


 刹那――風が凍った。

 敵将の槍が沖田の胸を貫いた瞬間、あたりの音という音が、すべて遠ざかったように感じられた。

 血の匂いも、誰かの叫びも、地鳴りのような戦場の足音も。

 何もなかった。

 ただ、沖田の身体を槍が貫き、その切っ先が背を抜けたとき、

 彼自身の身体の中にあった“何か”が、音もなく砕けた気がした。

 ぐらり、と視界が傾ぐ。

 腹の奥で、骨と肉が震えた。肺が、音もなく潰れていく感覚。

 それでも、沖田は膝を折らなかった。

 ぐ、っと槍を握った敵将が、言葉を発するより早く――

 沖田は、自らの身体に突き立てられた槍を、無理やり抜いた。剣を振るうのに邪魔だったからだ。

 胸から、音を立てて血が噴き出す。

 まるで、心臓がそのまま破れたかのように。

 敵将の瞳が揺れる間もなく――沖田の足が地を蹴っていた。

「……まだ」

 吐息のように零れた言葉が、風に紛れて、散っていった。

 血飛沫を曳きながら、沖田は剣を振るった。

 倒れ込むかのように低く身を沈め、敵将の足元に斬り込む。

 刀身がぶつかる音。火花が散る。

 敵将が大太刀で受けた。

 その膂力は強靱だった。だが、剣筋が揺れていた。

 まるで、恐れが腕に伝わっているかのように。

 二合、三合、四合――

 刃が鳴るたび、沖田の口から、また血がこぼれた。

 それでも構わず、斬る。

 生き残った味方の名を脳裏に浮かべる。

 今村、篠田、源田、そして……矢野。

(ここで、終わってたまるか)

 膝が震える。

 視界が白む。

 それでも、沖田の剣は止まらない。

 敵将は、目の前の青年が血を撒き散らしながらも、なお一歩も退かずに立っていることに、理解が追いつかずにいた。

 それは、剣技でもなければ、戦術でもない。

 ただ――魂の咆哮だった。

「……おまえは、何者だ」

 思わず、そう零れた敵将の問いに、沖田は微かに眉をひそめた。

 だが答えなかった。答えるだけの気力を残していなかったのかもしれないし、

 あるいは、その問いこそが、沖田自身がいまだ答えを持たぬ“問い”だったからかもしれない。

 ふらり、と沖田の身体が揺らぐ。

 血が地を染める音がする。

 敵将は斬りかかった。

 沖田も、応じた。

 刃と刃がぶつかり合うたびに、世界が震えたように思えた。

 一太刀ごとに、沖田の白装束は赤く染まっていく。

 それでも、彼の眼は曇らなかった。

 いや、むしろ――澄んでいた。

 まるで、すべてを受け入れているような、静かな覚悟の光。

「お前のような者を……俺たちは……」

 敵将の声が、苦痛に滲む。

「英雄と呼ぶのか、それとも……鬼神と、呼ぶべきなのか……!」

「……どちらでも」

 沖田の声は、細く、途切れそうだった。

 それでも、はっきりと届いた。

「どちらでも、構いません。僕は、ただ……」

 そこまで言って、沖田の膝が崩れた。

 剣が地に落ちる音。次いで、咳き込む音。そして――

 血の吐息。

 敵将が構え直す。その瞳には、恐れと、哀しみがないまぜになっていた。

 だが、沖田はまた立ち上がった。よろめきながら、刀を拾い、前を向いた。

「……まだ終わっていません」

 それが――魂の声だった。

 戦場の空気が、裂けるようだった。

 人の体温の残る土が、膝に伝う。

 それでも沖田は、膝をついたまま敵将を見据え、再び立ち上がろうとしていた。

 ――もういい。もう、斬らなくていいんだ。

 どこからか、そんな声が聞こえた気がした。

 けれど沖田は、かすかに首を振った。

 まだ、守りきれていない。

 まだ、終わらせてはならない。

 敵将は、満身創痍の青年に剣を向けながら、一瞬だけ躊躇した。

 それは“戦”を司る者としてあるまじき迷いだった。だが、迷わずにはいられなかった。

 この青年の姿が、人のものとは思えなかった。

 鬼でもなく、神でもなく――

 ただ、ひとつの魂のかたちをしていた。

 剣を構え直し、沖田が踏み出す。

 ふたりの刃が、互いの距離を裂いた。

 そして、――相打ち。

 敵将の胸元を、沖田の剣が深く穿ち、沖田の脇腹には、敵将の刀が届いていた。

 もつれ合うように、ふたりの体が崩れる。

 敵将は、仰向けに倒れたまま、血の海に沈む視界で、かろうじて沖田を見た。

「……とどめを、させ……」

 敵将の口元が動く。

 沖田は、剣を引き抜き、最後の力を振り絞って敵将の上に立った。

 そして両手で敵将の喉元を狙う。

 そうしたところで、身を捩り激しく血を吐いた。

 沖田の右手が小さく震える。喘ぐように酸素を求めるその背に、敵将は目をつりあげて咆哮した。


「何をためらう! お前は、……お前はァ! 何百、何千とこれまで斬ってきただろう! 我々の同志を――――!」


 沖田は仰臥する敵将の傍で背中を丸め、肩を震わせていた。

 ようやく、呼吸が落ち着いたところで、顔を上げる。返り血や自らの血液のその先にある彼本来の肌は、紙のように白かった。

「……あなたは、まだ、生きたいですか」

 その問いに、敵将は驚いたように目を見開いた。

「……わからん。わからんが……戦う者には、終わりを告げられることが必要だろう。……悔しいが、お前には、その資格が、ある」

 沖田は震える手で再び敵将の喉元に剣先を構えた。

 その両手の震えがだんだん増してくる。

 ふと、敵将の頬に――ぽたりと、涙が落ちた。

 それは、敵将のものではなかった。

 沖田は、ふっと小さく目を閉じ、静かに剣を地に突き刺すと、それをそのまま置いた。

 敵将が「なぜ……」と呻いたその傍らで、沖田はそっと、背を向けた。

 その背には、もはや戦意も鬼気もなく――ただ、ひとりの若者が、生に抗うように歩む影があった。

 血を引きずりながら、沖田静は、ずるりずるりと山の奥へと姿を消していく。

 振り返ることはなかった。

 誰にも看取られず、名も刻まれず。

 ただ、ひとつの魂が、雪のように――

 静かに、消えていった。



第二十四話「雪、帰るべき名を持たず」

 敵将は、剣を手放すこともできず、ただ沖田の背中を見送っていた。

 雪のようだった。

 もはや白装束も、返り血と土埃に染まりきっていたというのに、それでもなお、彼の背は美しかった。

(……あれが、人か……)

 己の胸に深く刺さった剣の熱が、まだ脈打つ鼓動を伝えていた。

 命は確実に、削れている。

 肺にたまった血が、気道を塞ぎ、言葉すら出せぬまま、視界は暗く沈んでいく。

 敵将は、最後の力でわずかに首を持ち上げようとした。

 だが動くのはまぶたと唇だけで、それ以上は、叶わなかった。

 その視界の片隅――山の斜面の向こうに、ふと揺らぐ影があった。

(誰だ……)

 目の錯覚か、風が運んだ幻か。

 ひとつの人影が、沖田の後を追うように、茂みのなかに消えていった。

 それはもはや兵ではなく、黒衣の少年とも見えたし、

 戦場に取り残された影の化身のようにも思えた。

(……誰か、見ていたのか)

 自分たちの決着を。

 沖田静という、存在そのものを。

 それだけを胸に、敵将はほんのわずかだけ目を細め――

 そして、静かに瞼を閉じた。

 最後に彼が思ったのは、敗北でもなく、名誉でもなかった。

 ――これは、物語になる。

 自分ではない。

 あの剣士の、生と死と、あまりに哀しい咆哮が。

 誰かが書き記すべき「名もなき者の記録」として、

 この戦場の片隅から、いつか語られるべき物語になる。

 そう、確信していた。

 その思念を最後に、敵将の意識は、ようやく沈んでいった。

     ※

 数日後。

 残党兵が、荒れ果てた戦場を訪れた。

 そこに、敵将の亡骸があった。

 ただひとり、剣を握ったまま、仰向けに。

 眼前には、地に突き立てられた剣が一本――

 沖田静が、その場に残していった、無銘の刀だった。

 それはのちに「雪降る野に遺された剣」と呼ばれ、

 名を持たぬまま、語り草となったという。

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