第五章:最後の戦《前編》
第一話「名を呼ばれる剣」
霧が降りていた。
春を越え、夏の気配がかすかに匂う季節だったが、この土地は肌寒い朝が続いていた。朝霧の中、幾人もの若い兵士が黙々と整列し、点呼を待っていた。沈黙のなかに、焚き火の残り香と、湿った土の匂いが立ち込めている。
その部隊に、新しく二人の兵が加わった。
ひとりは、名を知られた男だった。
白装束の剣士。鬼神。神か、あるいは人かと囁かれる、奇妙な噂とともに広まった存在。
もうひとりは、槍使いの青年だった。恵まれた身体に、端整な目元。静かに、その“剣”の背後に立ち続ける、もうひとつの刃のようだった。
沖田静と、矢野蓮。
年若いふたりが、霧の中を歩いてくると、整列していた若手の兵たちが、無言でその姿を見た。
誰も、声をかけなかった。
しばらくの沈黙ののち、年嵩の隊士がぼそりと口にする。「あれが……」
語尾は、消えた。
※
「ようこそ。案内するよ」
仮設の天幕の中、ひとりの青年が、沖田と矢野を迎えた。口元に人懐こい笑みを浮かべた、明るい印象の男だった。年は二十を少し越えたあたりか。
「俺は今村。副隊長の補佐をしてるけど、まあ雑用係みたいなもん。ここ、わりと自由だからさ。変な命令が飛んできたりはしないと思う。あんたがたが噂の……えっと」
言葉を濁した。
「“白装束の”ってのは、呼ばない方がいい?」
「お好きにどうぞ」
静が穏やかに返す。
それが冗談なのか、本心なのか、今村には測れなかった。だが、穏やかで、硬質な声だった。音が剣のように鋭く、それでいて、礼節の膜で覆われているような不思議な響きをもっていた。
「じゃあ……静、って呼んでも?」
「もちろん」
ひとつ微笑むと、沖田は天幕の端の床に腰をおろした。
矢野も、何も言わずに隣に腰を下ろす。
その場の空気が、やわらかく、けれどどこか張りつめたまま変わらなかった。
※
最初の数日、誰も沖田を名前で呼ばなかった。
“あの人”
“白いの”
“剣の”
直接名を口にする者はいなかった。
沖田が話しかけても、多くの者は目を逸らした。
剣を交える様子を見た者の中には、膝を震わせる者もいた。
ただ、矢野だけは、黙ってその傍らにいた。特に話すでもなく、笑うでもなく。ふたりが話しているところを、他の兵が見た記憶はほとんどない。
だが、夕刻の食事のとき。
ある兵が、ぽつりと言った。
「静、って……それがあの人の名前、なんですか」
矢野が頷いた。
「名前で呼べばいい」
たったそれだけの言葉が、風穴を開けた。
翌朝、今村がぽつりと「おはよう、静」と言った。
沖田はふわりと微笑んで、「おはようございます」と返した。
それだけのやりとりが、沈黙に満ちていた部隊に、確かな波紋を投げかけた。
※
ある日。
小規模な斥候戦で、敵の伏兵と出くわした。部隊が包囲されかけたそのとき、沖田は前に出た。
ひとりで、四人を斬り伏せた。
血は、ひとしずくも肌に付着しなかった。
剣は、まるで風そのもののようだった。
矢野は背中を預け、後ろの部隊の盾となるよう動いた。
誰かが叫んだ。
「静さん、戻ってください!」
静かに、沖田は振り返った。
その目は、澄んでいた。敵を斬った者の目ではなかった。
それでも、矢野にはわかっていた。
その“無色の瞳”の底に、なにかがあることを。
何度目かの夜、矢野は火の前でぽつりと言った。
「おまえ、あまり怒らないよな」
「そうですか?」
「殺しても、怒らない。泣かない。……なにを斬ってるんだ?」
沖田は、しばらく沈黙した。
そして、ただこう返した。
「必要なものを、です」
※
名前を呼ぶ者が、少しずつ増えていった。
年上の隊士が敬語を外す日も来た。
冗談を言う者もいた。
食事のとき、黙って味噌を差し出してくれる者もいた。
沖田も、冗談を返した。
少しだけ、表情がやわらかくなった。
だが、夜。
ひとりで剣の手入れをする沖田の姿は、どこか別の空気を纏っていた。
矢野はその夜、ぽつりと尋ねた。
「静。……なあ、今でも、恐いか?」
矢野の声は火の爆ぜる音にかき消されそうなほど低かった。問いかけの形はしていたが、その声音には、返答を期待する色はなかった。むしろ、それはもう何度も繰り返された自問のように思えた。
沖田は剣を拭う手を止めなかった。布の上に伝う油が、月光のわずかな照り返しを受けて、艶を帯びた。
「恐怖は……道具です。鈍れば死にます。研ぎすぎれば、心が裂けます」
矢野が火越しに微かに息を吐いた。
「まるで剣みたいだな」
「ええ。恐怖は剣です。だから、正しく持たなければなりません」
その声は、静かだった。けれどどこか、細く張られた糸のように、緊張感を孕んでいた。
「……なあ」
矢野が、火をじっと見つめながら言った。
「おまえが“必要なもの”だけを斬ってるって言ったとき、俺は、正直、信じたくなかった」
沖田は手を止め、顔を上げた。
「必要かどうかなんて、戦場で誰が決められるんだ。味方だって敵だって、皆、何かを背負ってる。生きる理由がある」
その言葉に、沖田は少しだけ目を伏せた。
「……それでも、決めなければならないときがあります」
「そうだな」
矢野は口元に笑みとも溜息ともつかぬものを浮かべた。
「だから、おまえが生き残ってる。俺もだ。……でも、たまに思うんだ。こうして火を囲ってると、全部、夢だったらいいのにって」
静は剣を鞘に収めた。
「夢なら、いいですね」
その言葉は、やさしく、けれど深く沈んでいた。
ふたりのあいだに沈黙が降りた。その静けさは、たしかに安らぎに似ていたが、どこかでいつも、崩れる予感を孕んでいた。戦場にあるどんな沈黙も、いつか終わる。終わらせられる。
※
ある雨の朝、今村が小走りに天幕へ入ってきた。
「伝令だ。……今日、前哨陣地の偵察に出る。五人、選ばれた。静、おまえもだ。矢野も」
静と矢野が目を合わせるまでもなく、立ち上がった。
「他は?」
今村は指を折るようにして数えた。
「水嶋、佐々木、そして……源田」
名を呼ばれた三人は若かった。水嶋は二十一、佐々木は十九、そして源田はまだ十八。新兵に毛が生えた程度の少年だった。
矢野がわずかに眉を寄せた。
「随分と若い顔ぶれだな」
「若いって……それでも、お前ら”二人”よりは年長だろう。それに、ベテラン組は昨夜の警備明けで休みだ。悪いが、任せる」
矢野はひとつだけため息をつき、肩を回した。
「わかった。……静、どうする?」
「必要な距離まで進んで、必要な情報を得て、必要なだけ生きて帰ります」
即答だった。
「相変わらず、合理主義者だな」
矢野の笑みに、沖田もまた微かに口元を緩めた。
※
前哨陣地は、浅い谷の向こうにあった。馬で行くには音が響きすぎ、歩いて進むには少しばかり距離がある。
ふたりを先頭に、五人は湿った土を踏みしめながら、慎重に進んだ。木立が濡れ、葉が滴を落としていた。空気が重い。空はまだ朝なのに、どこか夜の名残のような鈍い色をしていた。
「……ねえ、あの沖田さんって、どんな人なんですか」
背後で源田が小さく囁いた。誰にともなく投げた問いだった。
「人間だよ」
佐々木がぼそりと返した。
「人間?」
「それ以外、なにがある」
沖田は前を向いたまま、なにも言わなかった。矢野もまた黙っていた。
「でもさ、なんか違うじゃん。剣が……ちがう。なんか、あれだけ斬ってるのに、血がつかないって、本当なの?」
「つかないんじゃなくて、つけないんだ」
その声は、矢野のものだった。
源田が驚いたように声を呑む。
「……なにそれ。どうやってそんなこと……」
「俺にもわからない。ただ、あいつは、そうしてる。そうするって決めてる。それだけだ」
沖田の背中は、揺らがなかった。
※
斥候の任務は、滞りなく進んでいた。
小高い丘を越え、敵の補給路の様子を確かめる。戦の前に、もっとも重要な“確認”だった。
だが。
「……足音」
沖田が、ぴたりと動きを止めた。
「六人。こちらの位置を把握していない。距離、百五十」
矢野がすぐに佐々木へ合図を送った。
「伏せろ。源田、水嶋さん、こっちへ」
風が、笹を揺らして通り抜けた。遠く、笑い声が聞こえた。
「敵兵、巡回ではない。軽装、弓兵中心。先遣隊の可能性あり」
沖田の分析は、驚くほど速く、精緻だった。新兵たちは誰も声を上げられなかった。まるで別の空気を吸っているように、彼の言葉は重たく、鮮やかだった。
「どうする?」
矢野の問いに、沖田は即座に答えた。
「殺さずに、退かせます」
「一人で?」
「はい」
そう言って、沖田は剣に手を添えた。
「源田さん」
名を呼ばれて、源田がびくりと身体を強ばらせる。
「あなたは、僕が戻るまで、決して剣を抜かないでください。……これは命令です」
「で、でも……」
「剣を持つのは、誰かを殺すためではない。誰かを斬らせないために、あなたはその場にいてください」
沖田はそう言い残し、霧の中へ溶けていった。
※
静の剣は、まるで霧を切り分けるようだった。
敵兵の間にひとたび入ると、声が、叫びが、途切れた。だが、誰も死ななかった。
斬り伏せられた者は皆、剣を折られ、手を傷め、肩を外された。
――命は、落ちなかった。
それは、戦場において奇跡に近いことだった。
「……な、なんだ、あいつ……!」
「おい、逃げろ、あれは人じゃねえ……!」
敵兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
沖田は、刀を鞘に収めると、静かに霧の向こうへ戻ってきた。
「終わりました」
ただそれだけを告げて、黙って地面に座った。
※
帰還の道すがら、源田がぽつりと呟いた。
「俺……俺、あんなの、見たことない。だって、ひとりも殺してないのに……全員、倒して……」
誰も返事をしなかった。
矢野が、静の背を見ながら、低く言った。
「俺も見たことないよ。……でも、ずっとそばにいても、あいつの本当の顔は、たぶん、まだ見たことがない」
※
部隊に戻った夜、今村が言った。
「おかえり、静」
静は、少し笑って「ただいま」と返した。
そのやりとりが、天幕の中を、やさしく震わせた。
名前を呼ぶ者が、またひとり、増えた。
第二話「雨音が名前を呼ぶ」
火のない夜だった。
濡れた薪はなかなか火がつかず、兵たちは各々の布に身を潜めて眠ろうとしていたが、眠りの気配はまだ薄かった。焚き火のない夜は、声のかわりに沈黙が会話をする。
沖田静は、その夜も剣を拭っていた。
刃の影に宿るものは、血ではなく、記憶だった。鈍色の鏡に映るものを、静はいつも見ている。それが何であるのか、誰にも話したことはなかった。
「おまえさ。そんなに毎晩剣を拭いて、飽きないのかよ」
声をかけてきたのは、丸顔の兵士だった。名を水嶋という。年は二十一。沖田より四つ、矢野より三つ年上で、剣の腕はそこそこ。誰とでも気さくに話す性格だった。
「飽きるほど、生きていませんから」
静は、冗談のように、そう返した。
「……それが冗談に聞こえねえのが、おまえだよ」
水嶋は、苦笑しながら隣に腰を下ろした。
その様子を、向こうの天幕で眠れぬまま起きていた者たちが、布越しにこっそり耳を澄ませている。
「なあ、沖田。“静”って呼んでいいか」
火のない夜は、誰もが少しだけ素直になる。
静は、一拍遅れてうなずいた。
「ええ、もちろん」
それは、誰もが求めていた返答だった。
少しずつ、彼の“名前”が、他人の舌に馴染みはじめる。
それは、彼という存在が“鬼神”ではなく、“兵のひとり”として同じ地面に立ち始めていることを意味していた。
※
この部隊は、奇妙な構成だった。
年長の古参兵は前線で傷を負い、療養や別動隊に配属されていたこともあって、全体的に若い。
最年少が沖田で、次が矢野。
だが、静の振るう剣を一度見た者は、皆、自然と彼に敬意を抱いた。
年上の者たちでさえ、「沖田さん」と口にするようになったのは、剣の強さだけではなく、その振る舞いに一種の静けさが宿っていたからだ。
たとえば――。
「味噌、切れそうだったら言ってくださいね。多めにもらってくるので」
ある朝、静が炊事当番の佐々木に、あたりまえのようにそう言った。
たったそれだけのやりとりで、佐々木は夕暮れの水汲みのとき、ふとこう漏らした。
「……あの人さ、すごいのに、えらぶらないよな。なんでだろ」
その言葉に、水嶋がぽつりと返す。
「“えらぶる”ってのはさ、自分がどこに立ってるか忘れる奴のすることなんだよ。あいつはいつも、地面見てる」
「地面?」
「ああ。――剣を抜いたあと、血が落ちた場所を、ちゃんと見る奴なんだよ。俺たちの中で、それができるの、たぶんあいつだけだ」
※
静は、知らず知らずのうちに、人の輪のなかに立つようになっていた。
囲炉裏の火に手をかざすときも、隊列を組んで歩くときも、誰かがさりげなく隣に並んでいた。
特に、水嶋と、早坂(無口な弓兵)は、いつの間にか“近くにいる”存在になっていた。
「なあ、静。あんたさ、何が楽しくて戦なんてやってんだ?」
唐突な問いだった。
木陰で剣の手入れをしていた沖田は、少しだけ手を止めた。
「……楽しくて、やってるわけではありません」
「じゃあ、何のために?」
沈黙が落ちる。
静は、木の葉の揺れを見つめながら答えた。
「たぶん、誰かがやらないといけないことを、たまたま僕がやってるだけです」
「誰かがやらなきゃいけないこと、か……。でもさ、俺は正直、あんたがいてくれてよかったって思ってるよ。ほんと」
水嶋の声には、飾り気がなかった。
その飾り気のなさに、静は少しだけ微笑んだ。
「それは、ありがたいです」
その笑みを見て、水嶋は心の奥で思った。
――ああ、やっと“人”になってきた。
※
そのころ、隊内では誰もが口をそろえて言っていた。
「静がいれば、なんとかなる」
「沖田さんがいれば安心だ」
戦場では不思議な“神話”が生まれる。
だれかの勇名は、やがて人の心を縛り、拠り所になる。
沖田静という剣士は、まさにその“安心”の象徴になりつつあった。
それは、彼にとって、どこか居心地の悪いものでもあった。
静は、ときおり木の根に座りながら考える。
――これは、“信頼”だろうか。
それとも、“依存”だろうか。
その境目を測れないまま、彼は“静さん”と呼ばれる日々のなかで、少しずつ心を緩めていた。
笑った。冗談も言った。
味噌汁の味が濃すぎると水嶋に文句を言った日もあった。
その一瞬が、まるで“日常”だった。
けれど――。
その“日常”こそが、彼にとってもっとも恐ろしいものだった。
※
ある雨の晩、沖田は矢野に言った。
「……僕、少しずつ、馴染んでしまってますね」
矢野は、焚き火の灰を払ってから言った。
「悪いことか?」
「……わかりません。でも、僕は……こういう場所では、あまり馴染むべきではない気がするんです」
「なぜ?」
「だって、失うからです。……誰かは命を、失うから。――僕も含めて」
矢野は答えなかった。
そのとき彼の脳裏には、かつて失った顔がいくつも浮かんでいた。
戦場で名を呼び合うということは、名を失う苦しみに繋がるということだった。
静も、それを知っているのだ。
だから、馴染んでしまうことに怯えている。
それでも彼は、確実に――。
“人の輪”のなかで、名前を呼ばれ、呼び返し、何かを手にしてしまっていた。
笑い声、食器の音、布団の奪い合い、そして――
「静、こっち座れよ!」
「沖田さん、今夜の番、交代しましょうか?」
それは、血ではなく、声で繋がった絆だった。
その絆を、静は――剣で、守ろうとした。
第三話「水面の揺れは、先に沈む」
春の雨が続いた。
それは、季節の気まぐれというよりも、戦場の湿り気に呼応するように、断続的に降った。
この土地に慣れてきた者たちは、布を編み直し、薪を乾かし、天幕の縫い目に油を差しながら、黙々と日常の手入れを繰り返した。
戦の気配が遠のいていた。
あるいは、嵐の前の静けさだったのかもしれない。
「なあ、静。……お前さん、傘って持ってた?」
そんなふうに言葉を投げたのは、昨日の昼食時、今村だった。
彼は濡れた薪を火にかけながら、火の起こり方よりも、静の返答の方に興味があるようだった。
「傘、ですか」
「うん。子供のころさ。紙でできたやつとか、父親の大きいやつとか、そういう……ほら、覚えてたりとかしねぇ?」
静は、火に手をかざしながらしばし黙っていた。
やがて、少し笑って言った。
「……憶えていません。でも、濡れても平気だったことだけ、憶えています」
「……はは。なんだそれ。強いな、おまえは」
今村は笑いながら言ったが、静の目には、その笑いがほんの少しだけ、遠く見えた。
雨が、火の軒を打つ音だけが、沈黙の隙間を繋いでいた。
※
その日、静は矢野とともに、前線の補給路の再確認に向かった。
足元はぬかるんでいたが、ふたりは慣れた歩幅で、ほとんど音を立てずに森を抜けていく。
斥候と警戒の役目を兼ねていたが、実のところ、その任は“静と矢野であれば任せられる”という部内の空気が先行していた。
戦術的には不適切だった。
だが、実際、ふたりが向かえば、情報は確実に持ち帰られ、誰も傷を負わずに帰陣する。
それは、信頼という名の慢心にもなり得た。
「……ずいぶん、静もこの部隊に馴染んできたな」
森を歩きながら、矢野がふと言った。
静は、前を向いたまま、穏やかに言葉を返す。
「……はい。気づいたら、そうなっていました」
「よかったじゃないか」
「ええ。でも――」
「でも?」
「どこまでが僕で、どこからが“ここに合わせている僕”なのか、たまにわからなくなります」
矢野は黙った。
静の言葉には、どこか、深い水底のような重さがあった。
慣れるということは、時に、自分の輪郭を失うことでもある。
「……それでもいいと思うけどな。変わったって」
「そうですか」
「戦場にいるやつらなんて、皆、どこか変わっちまってるよ。だが、そうやって“変わった自分”で、生きてくしかないだろ」
静は、わずかにうなずいた。
「……それでも、“変わること”と、“変えてはいけないもの”がある気がするんです」
矢野はその言葉の意味を、咀嚼するように黙って歩いた。
たしかに、静のなかには、“変えない”と決めているものがある。
それは剣の使い方だったかもしれないし、命に対する線引きだったかもしれない。
その芯が、彼の“白さ”であり――“孤独”の源でもあった。
※
その夜、水嶋が静に話しかけてきた。
「なあ、静。……隊長が言ってたんだが、近くの谷に物資を送る任務、やっぱ俺たちのとこに回ってくるらしい」
「補給線が近い方が早いですからね」
「おまえも来る?」
「命令なら」
「命令じゃなくてもさ、おまえがいれば安心だって、皆そう言ってる」
水嶋は、どこかそれを誇らしげに言った。
静は少しだけ目を伏せた。
「……そういう言葉が、いちばん怖いんです」
「え?」
「“安心だ”とか“静がいれば平気”とか。……それが重なると、誰かが判断をやめてしまう。考えるのをやめて、命を預けるようになる」
「でもそれって、信頼だろ?」
「違います。信頼は、責任とともに成立します。でも、あれは……」
静の声は、低く、少しだけ震えていた。
「……甘えです」
水嶋は、その言葉に何も返せなかった。
※
翌朝、霧が出た。
視界は五十歩先が限度で、森の奥は白く染まっていた。
その霧の中で、異変は起きた。
哨戒に出ていた先遣隊が、戻らなかった。
通常であれば、四刻もあれば帰還するはずの部隊が、五刻を過ぎても戻らなかった。
天幕内に緊張が走った。
隊長が指示を出すより早く、静が立ち上がった。
「行きます」
「ひとりでか?」
「足跡がまだ残っているはずです。矢野さん、もしよければ、あとから合流をお願いします」
その言葉に、矢野が即座に立ち上がる。
「俺も行く」
「静、おまえ――」
今村が言いかけたそのとき、静が振り返った。
「まだ、誰も死んでいません」
その言葉に、誰も何も言えなくなった。
そのとき、天幕の外で誰かが走ってくる音がした。
「帰還者です! ひとり、帰還しました!」
※
佐々木だった。顔に裂傷、肩から血を流し、声にならないうめき声をあげていた。
水嶋が彼を抱えたとき、佐々木はうわごとのように言った。
「囲まれた……三十、いや、四十……谷に……罠が……源田が……っ……」
そこで言葉が途切れた。
静がすぐに腰を上げた。
「矢野さん。行きましょう」
矢野は言葉を交わさず、頷いた。
※
濃霧の森の奥、静と矢野は、血の匂いを辿った。
足跡はぐずれ、倒木の裏に蹲るように、ふたりの兵の亡骸があった。
そして――。
さらにその奥に、罠にかかり、負傷しながらも弓を構える源田がいた。
彼の周囲には、十を越える敵影。
「矢野さん、僕が行きます」
「静――おまえ、待て、数が――」
だが、次の瞬間には、もう姿がなかった。
白装束が霧を裂いて舞う。
剣が、叫びを残さず人を斬る。
その音は、風だった。
※
敵兵は十四名。
すべて、成人の男だった。
剣を握る手には力が宿り、目の奥には、ためらいのない殺意があった。
ここは谷の入り口、木々の枝が折れて斜面に散らばり、雨水がぬかるみを作っていた。
その真ん中に、源田がいた。
左足を罠に挟まれ、身動きのとれないまま、片手で弓を構えていた。
震える指先。擦り傷からは血が滲み、雨で濡れた頬に泥が張りついている。
それでも彼は、諦めていなかった。
だからこそ、静は、そこへ降り立った。
白装束が、霧を裂いて現れる。
その姿に、敵兵たちはわずかにたじろいだ。
――なにか、おかしい。
そう直感した者がいた。
だが、言葉にする前に、静は動いた。
「この人に、指一本触れさせません」
静の声は、音ではなく、“斬撃の予兆”のようだった。
「なんだこいつ……」
そう呟いた敵兵が、一歩踏み出そうとしたその刹那――
空気が断たれた。
白が、疾った。
剣閃が、時間を裂いた。
斬られた男の首が、音を立てるより先に落ちた。
血は、静の装束に一滴も届かなかった。
「囲め! 一気にやれ!」
叫んだ男が突進する。
二、三、四。――複数の剣が同時に静へと振るわれた。
だが、静は踏み出さない。
ただ、立っているだけに見えた。
しかし次の瞬間、敵兵の膝が折れた。
「ぐ……あっ!」
剣を持ったまま倒れた男の肩に、深い裂傷が刻まれていた。
「後ろだ!」
誰かが叫んだ。
振り向いたときには、もう遅い。
静の剣が、第二の男の胸元に、深く食い込んでいた。
刃が抜かれたとき、血が霧と混じり合い、空中に細い紅の筋を描いた。
剣戟の音が木霊する。
斬られたのは敵ばかりだった。
誰一人、静の身体に触れられなかった。
その動きは、“殺意”ではなかった。
ただ“止める”ための斬撃だった。
踏み込みも、抜刀も、刃の角度も。
すべてが、敵を“止める”ためだけに計算されていた。
「この……化け物が……!」
三人目が叫びながら突き出した剣を、静は左手で鞘ごと受け止め、
右手の剣でその腕を斬り裂いた。
「うわああっ!」
男の叫びは霧のなかに溶けた。
源田は、その光景を呆然と見ていた。
まるで、芝居を観ているようだった。
あまりにも現実離れしていた。
戦っているというより、“演じている”かのようだった。
静は、血を纏わぬまま、次々と人を斬っていく。
怒りも、憎しみも、なかった。
あるのは、たったひとつの意志――
“この人を守る”。
それだけだった。
七人目が、後方から斬りかかる。
静は振り返りもせず、体を斜めに傾け、背後に剣を差し出す。
刃が、相手の顎を裂く。
動きに、迷いがなかった。
戦場で育った者ではない、なにか“それ以上”の存在。
十三人目が尻餅をつき、剣を取り落とす。
「た、助けて……!」
それを見た十四人目が、背を向けて逃げ出した。
足がもつれ、斜面に転がる。
静は、追わなかった。
ただ、源田のもとへ戻る。
ゆっくりと、ふたたび、白い布が揺れる。
剣を鞘に納める音が、やけに鮮明に響いた。
霧が、また静けさを取り戻す。
敵兵たちは、動けなかった。
生き残った者も、立ち上がる気力を失っていた。
静は、剣の柄から手を離し、しゃがみ込む。
源田と目を合わせる。
「……俺……俺……怖くて……!」
源田の声は震え、頬には涙が混じっていた。
「怖くて、当たり前です」
静は、泥で汚れた膝をつき、源田と同じ高さに目線を落とす。
「怖いという感情は、あなたの中の“生きたい”という願いの現れです。……それが、いちばん正しいことなんです」
源田は、剣ではなく、言葉に泣いた。
その夜のことを、彼はのちに語った。
――あの人は、敵を倒したから怖かったんじゃない。
俺の“怖い”を、否定しなかったから、救われたんだ。
第四話「名もなきものたちの灯」
夜が明ける少し前。
薄闇に濡れた天幕の内で、誰かが火の番をしていた。
薪は湿っていたが、それでも細く燃えていた。
空がまだ鈍い色のまま眠っているころ、兵たちは眠っていた。
いびきや寝言、布の擦れる音だけが、地に染み込むように漂っている。
その静けさを、音もなく割って入ったのは――白い装束だった。
沖田静が、霧に濡れた足元のまま、天幕の布をくぐる。
顔に傷はなかった。血の匂いもなかった。
だがその沈黙は、剣より鋭く、血より濃かった。
矢野がそのあとに続いて入ってきたとき、火の番をしていた早坂が小さく言った。
「……帰ったのか」
「ただいま戻りました」
静はそれだけを言って、腰を下ろした。
「源田は?」
「今村さんたちがすぐ連れて戻る。動脈は逸れてた。手当てすれば、なんとかなるだろう」
矢野がそう言って、湿った布を取り出し、顔と手の泥を拭った。
「……斬ったのか」
問いかけは、矢野の口からではなかった。
水嶋だった。目覚めていたのか、あるいは眠ってなどいなかったのか――わからない顔をしていた。
沖田は、ひと呼吸置いてから、答えた。
「必要なだけ」
その答えに、水嶋は何も言わなかった。
だが、それ以上を問おうとはしなかった。
※
源田は、左足の罠の傷と、右肩の打撲で、数日は寝たきりとなった。
だが意識ははっきりしていて、戻ってきた夜のうちに矢野と沖田の顔を見て泣き出した。
うわ言のように「怖かった」「死ぬかと思った」と繰り返しながらも、はっきりと、こう言った。
「静さんが……来たとき、……俺、生きてていいんだって思いました」
それは、たしかに“命の感触”のある声だった。
※
霧の深い谷での出来事は、隊内に瞬く間に広がった。
十四人の敵兵を、単身で制した。
それも、返り血も浴びず、傷ひとつ負わず――。
それは、事実として語られる前に、物語になった。
「白装束の鬼神、再び」
「目も見えぬ霧の中で、敵兵がひとり、またひとりと沈んでいった」
「最後に膝をついて泣いていた新兵の手を、静さんはそっと両手で包んだらしい」
そのどれもが脚色を含んでいた。
だが、隊員たちはそれを否定しなかった。
信じたかったのだ――それが“事実以上の救い”であることを。
戦場において、名を持たぬ兵士たちは、しばしば“語り”によって自分を保つ。
その中心に、今は静がいた。
静は、戸惑っていた。
焚き火のまわりで自分の話がされるたび、笑い声のなかで名前が出るたび、
それが自分のことだとは思えなかった。
「……まるで、他人みたいですね」
そう言った夜に、矢野が少し笑って言った。
「ま、他人だよ。おまえが守ったのは、あいつらにとっての“静さん”なんだろうさ。……おまえが思ってるより、ずっと大きなもんになっちまったな」
静は黙ったまま、火のなかを見つめた。
燃えていたのは木だったが、揺れていたのは、己の内だった。
※
その日の昼、源田が天幕の外に出た。
足を引きずりながら、片腕に布を巻いていたが、顔には晴れやかな色が戻っていた。
天幕の入口で立ち止まり、隊員たちに向かって頭を下げた。
「……ありがとうございました!」
その声に、あちこちで食事をしていた者たちが顔を上げた。
誰かが「よう戻ったな」と笑った。
別の者が、「おまえ、また泣くなよ」と冗談めかした。
源田は、そのひとつひとつに、頷きながら応えていた。
沖田は、少し離れた場所からそれを見ていた。
名を持たないはずだった兵士に、名がつきはじめる。
“守られた者”としてではなく、“ここにいた者”として。
それを、静は――どこか遠くの火を見つめるように、黙って見ていた。
※
夕刻、薪を組み直していた水嶋が、ぽつりと漏らした。
「なあ、矢野」
「ん?」
「静ってさ、なんでああまでして“白く”あろうとするんだろうな」
矢野はしばらく黙ってから、布を膝に置いた。
「たぶんな、“汚れること”そのものじゃなくて、“汚れていい”って思うことが、怖いんだろうな」
「……怖い?」
「汚れて、それを許せば、人はどんどん曖昧になる。
その“曖昧”が、きっと、あいつにとっては地獄なんだ」
「でも戦場だぜ。曖昧どころか、真っ黒だろ」
「だからこそだよ」
矢野は言った。
「ここで自分を信じられなかったら、どこで信じるっていうんだ」
※
その夜、静は夢を見た。
霧のなか、名もなき兵たちが倒れていた。
自分の手は血に濡れていて、剣が黒く鈍く濡れていた。
振り返ると、火が遠くで燃えていた。
そこに、源田がいた。
血まみれのまま、子供のように泣いていた。
「静さん、なんで……!」
「……どうして俺たちまで、斬ったんですか!」
静は何も言えなかった。
そのとき、火の中から誰かが囁いた。
――これは、守った末の結末だ。
――名前を持つということは、喪失の始まりだ。
夢のなかで、静は膝をついて嘔吐した。
血が、喉に逆流していた。
喉の奥で、何かが泣いていた。
目を覚ましたとき、天幕の外に雨の音がしていた。
霧は、また濃くなっていた。
第五話「それでも名を呼ぶ者たちへ」
霧の朝がまた訪れた。
谷を吹き上がる風が草を撫で、濡れた葉を揺らしている。天幕の隙間から入り込んだ冷たい空気に、浅い眠りの者たちが目を開けはじめていた。
だが、その日の朝の空気には、いつもと異なるものが混じっていた。
――何かが、変わり始めていた。
※
「おい、今村、聞いたか? 北の哨戒隊が戻らねえって」
「……またか」
昼前。隊の中心に立てられた天幕の外で、数人の隊士たちが集まり、低い声で話していた。
近隣の部隊が襲撃を受けた可能性があるという知らせが、早朝の伝令で届いていた。
この数日、静かだった戦況にわずかな波紋が走り始めていた。
「どうする? 応援に出すか?」
「本隊の動きがまだ固まってない。焦って動くと逆に潰されるぞ」
「でも、もし生き残りがいるなら……」
静が、黙って近くを通りかかった。
隊士たちは一瞬、会話を止めたが、静は何も言わず、ただ頭を下げて通りすぎていった。
「……なあ、やっぱさ、静さんが動けばよくね?」
その言葉は、冗談ではなかった。
※
火を囲む夕刻、今村が矢野に言った。
「……ここ数日で、隊の空気が変わってきた。いい意味でも、悪い意味でも」
「悪い意味で、か」
「ああ。なんでも静に頼るようになってきてる。まるで――」
「信仰か、神頼みみたいだと?」
矢野の口調に、皮肉はなかった。むしろ、冷静だった。
「……俺たちは、誰かを“名前”で呼びはじめたことで、はじめて人間に戻れた気がしたんだ」
今村の声は、どこか迷っていた。
「でも、その“名前”が、いつの間にか“神話”になっていく。剣で人を守ったあいつが、今度は剣になってしまいそうで、俺は怖いんだ」
矢野はその言葉に、すぐには答えなかった。
しばらく火の粉を見つめてから、ぽつりと返した。
「……それでも、呼ぶしかないんだろうな。名前を、誰かの名を。そうでもしなきゃ、人は自分を保てないから」
※
その夜、静は眠れなかった。
天幕の外に出ると、草露の匂いが強く鼻を打った。
冷たい風が頬を撫で、火の灯らない夜空には、月がぼんやりと浮かんでいた。
ふと、遠くで声がした。
「静さん……」
振り向くと、源田がいた。まだ歩き方はおぼつかないが、顔色は戻っていた。
「こんな夜に、どうしましたか」
「眠れなくて……でも、それだけじゃなくて、言いたかったんです」
「言いたかった?」
「俺、静さんが怖かったんです。……あの日も、助けてもらったあとも、正直、どこかでずっと、あのときの光景が焼きついてて……」
静は黙って聞いていた。
源田は続けた。
「でも、それ以上に、嬉しかったんです。守ってもらえたことが。名前を呼ばれたことが。――だから、俺、もう逃げたくないです」
「……それは、とても強い言葉です」
「違うんです、俺が強いんじゃなくて……静さんが、“怖くても立ってていい”って言ってくれたから、今の俺があるんです」
源田の目には、涙がにじんでいた。
けれどその顔は、あの日の泣き顔とは違っていた。
「ありがとうございます。……あの日、俺を斬らずにいてくれて」
静は、そっと頷いた。
それは、夜の霧のなかで交わされた、たった二人だけの契約のようだった。
※
数日後。
再び、補給路の確保任務が隊に課された。
「今度は、東の谷筋だ。地形が複雑で、出入りが限られてる。敵の残党が潜んでる可能性がある」
今村が地図を示しながら説明する。
「静、矢野、おまえたちには先発して地形の確認と索敵を頼みたい」
矢野がすぐ頷く。
静も、何も言わずに腰を上げた。
今村が、少しだけ躊躇うように言った。
「……本当に、すまない。またおまえたちばかりを前に出して」
静は、少し笑った。
「命を張る順番を、決めるのは難しいものですね。けれど、それを考えてくださっている今村さんがいるなら、僕は、前に出ることに迷いはありません」
今村は、しばらくその言葉を噛みしめていた。
※
出発の前夜、隊員たちが、そっと集まっていた。
「……静さんに、何か渡せるものってないか」
「飯盒に餅、詰めとこう。あいつ、たまに一口で済ませるから」
「矢野にもだ。あいつ、一度腹壊してる」
「無口な早坂に描かせたお守り、持たせようぜ」
くだらないようで、真剣だった。
それぞれの想いが、小さな品に込められていた。
翌朝、静と矢野が出発するとき、誰もがさりげなく手を上げて見送った。
誰も「気をつけろ」とは言わなかった。
それは――祈りの代わりに、名を呼ぶ者たちの、無言の誓いだった。
第六話「その谷には、言葉の届かぬ影がいた」
霧の奥、踏み慣れた道はなかった。
東の谷は地図に記されているよりも険しく、入り組んだ岩の裂け目や、倒木に塞がれた獣道ばかりが続いていた。
静と矢野のふたりは、言葉少なに斜面を下っていく。
草を踏む音と、鞘の揺れる微かな金属音だけが、沈黙を縫い合わせていた。
「……人の通った痕跡はないな」
矢野が言った。足元の泥を指で撫でる。
「昨夜の雨で流されたか、もとより誰も歩いていないか……」
静の声は淡々としていた。
「おまえ、こういう任務、嫌いじゃないだろ」
「ええ。敵と出会わなければ、自然の中を歩くのは、悪くありません」
「斬らずに済むからか?」
「……斬らずに済む道があるなら、それが最善です」
それは信条ではなかった。
祈りでもなかった。
ただ静かに、彼の中にある“確かさ”だった。
※
谷の奥は、さらに深く、日が差さなかった。
水が岩に滲み、木々の根が絡まり、苔が厚く広がる湿地へと地形は変わっていく。
小川を渡る丸太の橋が腐りかけていた。
「……誰かが設置したものだな」
矢野が橋脚を蹴って確かめる。
「だいぶ古い。軍のものではありません」
「民家の跡か?」
「廃村があると聞きました。昔、疫病が流行ったとか……」
ふたりは互いに言葉を途切れさせた。
谷の空気が、変わっていた。
風が止まり、音がなくなった。
「……何かがいる」
静がそう言ったとき、矢野も同時に剣に手をかけていた。
それは“気配”というより、“存在の痕”だった。
この場を、誰かが通った。
それだけで、ふたりは即座に察知していた。
※
やがて、木立を抜けた先に、朽ちた小屋が見えた。
瓦は落ち、壁は裂け、柱には斧の跡のような傷があった。
かつて誰かが暮らしていた場所。
いまはもう、名も記録も失われた、ただの“痕”。
ふたりは小屋に近づく前に、辺りをひと巡りして確認をとった。
「……火は、使われた形跡なし。だが、足跡がある」
矢野が地面を指さす。
「昨日のものですね。三人……いや、四人。軽装、靴のすり減り方からして、流浪の民か……兵の可能性もあります」
「どうする?」
「中を見て、痕跡だけ記録して戻りましょう。深入りは避けた方が良い」
静がそう言いかけたそのとき、小屋の奥から乾いた枝が折れる音がした。
矢野が剣を抜く。
静は一歩、前へ出た。
布の揺れと同時に、誰かが飛び出してきた。
それは子どもだった。
十にも満たない顔――髪は泥にまみれ、裸足のまま、こちらへ駆け出してきた。
「待て!」
矢野が叫んだ。
次の瞬間、小屋の影から三つの影が躍り出る。
成人の男。手には粗末な鉈と、小型の狩猟用の弓。
矢野が身を翻し、矢を弾いた。
静は刃を抜くことなく、一歩で前に出る。
「待ってください。子どもがいます!」
その声に、男たちは一瞬動きを止めた。
小屋の脇で、子どもが転び、呻き声をあげていた。
「……関わるな。ここは、俺たちの土地だ」
一人の男が低い声で言った。
「軍の者か?」
「そうです」
「なら帰れ。俺たちにとって、軍も敵も同じだ」
敵意ではなく、疲労の色だった。
乾いた声。血の匂いはない。
「ここで何を?」
「逃げてきただけだ。戦も、疫病も、飢えも、もうたくさんだ。……ここなら誰も来ないと思った。それだけだ」
静は、剣を鞘に戻した。
「……子どもに、傷は?」
「ない。あいつは馬鹿で、逃げ出しただけだ。……俺たちが捕まるのが怖かったんだろう」
男の目は、正面を見ていなかった。
矢野が剣を下ろす。
「静、どうする」
「彼らが敵でないのなら、争う理由はありません。谷の奥に流民がいたとだけ記録して、立ち去りましょう」
「そういうわけには――」
矢野が言いかけたとき、子どもが小さく叫んだ。
「……来る!」
次の瞬間、谷の奥から、鈍い太鼓のような音が響いた。
足音。
兵のものだった。
矢野と静は、同時に身構えた。
「追っ手か……!」
「……敵軍ではありません。味方、です。……後方部隊が、谷を掃討する計画だったと聞きました」
「おい、じゃあこいつらは……!」
静は素早く男たちの前に立った。
「隠れてください。今、誰も死なせたくありません」
「おまえ、なにを――!」
「行ってください!」
静の声に、男たちは一瞬の迷いののち、子どもを抱えて木立の奥へ消えた。
霧のなかに、味方の旗が見えた。
部隊長格の声が、谷に響く。
「確認せよ! この谷の奥に敵影ありとの報!」
「ここには敵はおりません!」
静が、旗の前に立った。
「奥にいたのは、武装していない流民です。交戦の意思もない。今はすでに退去しました」
「本当か?」
「この目で確認しました」
矢野が隣に立つ。
「俺も同じ報告をします。彼らは、ただ逃げてきただけだ」
若い副官が不審げに睨んだが、上官は手を挙げて制した。
「……静、というのは、そなたか」
「はい」
「名は聞いている。今後、谷の掃討の範囲を再検討しよう」
そう言って、部隊は谷を下っていった。
霧が静かに戻ってくる。
※
帰路、矢野がぽつりと呟いた。
「おまえ、あれが“正しい”って、言い切れるか」
「わかりません」
「俺もだ」
ふたりは、しばらく何も言わずに歩いた。
ただ、霧のなかで、見えなかったものの重さだけが、背にのしかかっていた。
第七話「語られなかったものを背負って」
谷を出たのは、日が高くなりはじめた頃だった。
霧はようやく薄れ、陽が地面に差しはじめていたが、ふたりの足取りは重かった。
目立った戦闘はなかった。剣も抜かなかった。
けれど、それはただの静かな任務ではなかった。
斬らなかったという事実が、斬ること以上に、心に影を落としていた。
矢野は何も言わなかった。
静もまた、黙って歩いていた。
ふたりの間にあったのは、名も形もない、“判断の痕”だった。
※
天幕へ戻ると、今村がすぐに駆け寄ってきた。
「無事か! 報告だけ聞いて、何があったのか……」
「報告書にまとめます。口頭での説明よりも、正確に伝えられますので」
静がそう言った。
その声は落ち着いていたが、どこか湿り気を帯びていた。
霧の残り香のように、言葉の端に迷いがあった。
今村は頷いたものの、納得しきった表情ではなかった。
「わかった。……疲れただろ。今日は休め」
静は一礼し、天幕へ戻っていった。
その背を見送っていた矢野が、今村の隣に立って言った。
「何も起こらなかったように見えるときほど、何かが壊れてるときがある」
「壊れたのか、あいつは」
「いや。……あいつは、守った。でも、守ることが全部正解じゃないってことも、知ってる」
※
その夜、静は手帳を開いていた。
谷の記録を書きつける。足跡の数、話した言葉、出会った目の色。
どれも事実だが、どこか“言葉にできないもの”が、頁の余白に溜まっていった。
筆が止まる。
紙の上に、手がかすかに震えた。
言葉にできないものは、次第に輪郭を持たなくなり、
やがて“沈黙”という名の中に消えていく。
静は筆を置いた。
そして、ふと、ひとつ息をついた。
それは、剣の手入れをするときの呼吸に似ていた。
※
翌朝、報告書を受け取った副官が、眉をひそめて言った。
「敵影なし、流民と接触。交戦回避、指揮判断に基づく。……それだけか?」
静は頷いた。
「他には?」
「ありません」
「敵とみなさなかった根拠は?」
「武装の状態と言動、子どもの存在、明確な敵意の不在。すべて現場で確認しました」
副官はしばらく黙ってから、書類に捺印した。
「……了解した。上層部にそのまま回す。だが、今後、類似の判断は慎重を期すように」
「承知しました」
そのやり取りを、矢野が少し離れた場所で見ていた。
静の立ち姿は、揺るがなかった。
けれどその背中は――静かに、疲れていた。
※
その日の午後、源田が近くで鍋をかき回しながら、ぽつりと言った。
「なあ、矢野。静さんって……いつ寝てるんだ」
「……たぶん、寝てても、寝てない」
「え?」
「夢のなかでも、誰かを守ってるんじゃないか、あいつは」
源田は少し黙ってから、味噌を入れすぎたことに気づいて舌を出した。
「それって、疲れるだろうな……」
「疲れるよ。だからたまに、何も言わずに焚き火の前にいたら、そっとしといてやれ」
「……わかった」
※
夜、火のそばに座っていた静の前に、水嶋が酒の入った器を置いた。
「飲めるか?」
「少しなら」
ふたりは並んで火を見た。
言葉はなかった。
けれど、沈黙の中には、たしかな“許し”があった。
「おまえ、さ」
水嶋がぽつりと言った。
「この先、何人斬ることになると思う?」
「わかりません」
「そっか。……俺も、わからない。怖いよな」
「ええ、怖いです」
「でも、おまえが“怖い”って言ってくれると、なんか安心する」
静は、微かに笑った。
その笑みは、夜の火よりも、あたたかかった。
※
その夜、風向きが変わった。
遠くから、火薬と煙の匂いが届いた。
敵軍の大規模な移動が始まったという情報が、夜明けとともに伝えられた。
戦が、動き出す。
静は、自ら剣を研いだ。
その刃に、自分の顔が映る。
映った顔は、たしかに“人”のものだった。
第八話「誰が、火の中を駆け抜けるか」
その夜、風が変わった。
南から吹いていた風が、夜明けを待たず東へ回り込む。
焼けた土の匂い。遠くの湿地に火が放たれたのだと、誰ともなく囁かれた。
天幕の中で目を覚ました者たちは、無言のまま衣服を整え、武器の手入れを始めていた。
何も命じられていなかったが、皆、わかっていた。
戦が、すぐそこまで来ていた。
*
「先遣隊、壊滅したらしい」
水嶋が呟いた。
言葉は火の音に紛れて、風とともに天幕の骨組みに染み込んでいくようだった。
「……ほんとか?」
源田の問いに、今村が頷く。
表情に嘘はなかった。
「敵の規模が想定より大きい。斥候の報告じゃ、百五十から二百。散開して谷を潰すつもりだ」
「じゃあ、俺らは……」
「迎撃だ。命令はまだだが、おそらく今日のうちに出る」
沈黙が落ちた。
兵たちは、口を閉ざす。
誰もが「来る」と知っていたものが、ついに「来るかもしれない」現実へ変わったとき――
心は、言葉を失う。
*
その日、静は剣の手入れをしていた。
朝から三度目の手入れだった。
布で丁寧に油を拭き取り、微かな錆びの気配を感じ取るたび、目が鋭くなる。
「静」
矢野の声が、火の外から届く。
「今村からだ。集合だと」
静は頷き、鞘を腰に戻した。
「……戦ですか」
「わからん。でも、行けばわかる」
*
天幕の中央、地面に広げられた地図の上に、数本の矢印が置かれていた。
「敵はすでに東の尾根に達したとの報告がある。進軍速度は早く、我々の本陣を巻き込む形になる可能性が高い」
今村が告げる声は落ち着いていたが、わずかに掠れていた。
「今夜、我々の部隊に先行しての迎撃命令が下る可能性がある」
「先行? 俺たちが?」
水嶋が思わず口を挟む。
「斥候も、迎撃も――今夜、この谷を封じなければ、本隊に火が及ぶ。……つまり、“時間を稼げ”という命令だ」
静が一歩前に出る。
「隊は、分けますか」
「分けるべきかと思うが……静、ひとつだけ訊く。もし、敵が数で押してきたら、おまえはどうする」
今村の目が、静を捉える。
静は、その目から視線を外さなかった。
「僕が斬るだけです」
しん、と空気が止まる。
その言葉は、誰もが心の奥にしまっていた“願望”だった。
――静が、斬ってくれる。
――あの白装束が、敵を止めてくれる。
だが、それは同時に“依存”でもあった。
静の言葉を肯定すればするほど、誰もが彼に背を預けすぎていく。
その重さを、静は承知していた。
けれど、黙って引き受けた。
「僕が行きます。……誰も死なせないために」
※
出発は、夜半だった。
月は細く、雲に隠れていた。
矢野と静、そして水嶋、早坂、佐々木、源田。
半数を選抜し、谷の防衛線へ向かう。
誰も声を上げなかった。
ただ装備を確かめ、足音を潜める。
出発の合図がかかると、兵たちは一斉に頭を下げて見送った。
「静――」
声をかけようとして、今村は言葉を飲み込んだ。
その背中が、あまりに“遠く”に見えたからだ。
※
谷の防衛線に到着したのは、夜がもっとも深くなる頃だった。
焚き火を使えず、息が白く、濡れた苔の匂いが鼻を刺す。
木立の奥で、敵の足音がした。
矢野が息を潜めて呟く。
「……来る」
静は剣を抜かず、ただ鞘に手を添える。
その姿が、仲間の鼓動を整える。
敵の姿が見えた。
――十、二十、三十。いや、それ以上。
足音の密度が、空気を押し返してくる。
「数が、違う」
源田の声が震えた。
「この数、さすがに……!」
「大丈夫だ」
静が言った。
その声には、恐れも、怒りもなかった。
「僕が斬ります。……皆さんは、死なないでください」
言い終えると、静はひとり、前へ歩き出した。
白装束が、木立の闇に揺れる。
「静! 待て、おまえひとりで行くな!」
矢野が叫ぶ。
だが静は振り返らない。
その背を、風が押していた。
まるで、“誰かの願い”が風になったかのように。
敵が気づいた。
ひとりの白い兵が、ただひとりでこちらへ歩いてくる。
その異様さに、足を止めた。
「なんだ……あれは……」
叫びとともに、矢が放たれる。
静は走らない。
ただ、一歩、また一歩、足を進める。
矢が風を裂き、白布を掠める。
次の瞬間、剣が抜かれた。
“ひと振り”。
風が切り裂かれたのは、剣の音ではない。
それは、“意思”の音だった。
敵兵がひとり、倒れる。
次の刹那、静が動いた。
まるで霧そのものが斬撃となって形を得たように、白い閃光が斬り込んでいく。
「止めろ! あいつを――!」
叫びは間に合わなかった。
静の剣は、誰にも見えなかった。
ただ、倒れた音だけが、時間を刻んでいった。
十、二十、三十――
静は、斬り続けていた。
誰の名も呼ばず。
誰の声も聞かず。
ただ、“この場所を越えさせない”という意志だけを持って。
彼がいた場所には、血がなかった。
血が落ちる前に、剣がすでに次の命を止めていたからだ。
背後で、矢野が呟いた。
「静……おまえは……」
その言葉は、風にさらわれた。
第九話「それは、“人間”の姿をしていたか」
夜の谷は、死んでいた。
風は止まり、鳥も鳴かず、ただ濡れた土の匂いが鼻腔に残った。
人の血が、草を濡らし、樹の根を染め、石のくぼみに溜まっていた。
静寂とは、音がないことではない――すべてが終わったあとに訪れる、“戻れない”沈黙のことを、そう呼ぶのだと誰かが言っていた。
その中に、沖田静は立っていた。
白装束は赤黒く染まり、右手には鞘に戻されていない剣。
呼吸は静かだった。
まるで、すべてを終えた“後”の者のように、静はそこにいた。
※
「……動けるか、源田」
矢野の声に、源田がうなずいた。
「ああ、だ、大丈夫だ……っ」
足元の血の海を避けるようにして、仲間たちは静のいる方へと向かっていた。
だが、誰もすぐには声をかけなかった。
静の背に、近づけなかった。
あれほど多くの敵兵が倒れているのに――沖田静は、息一つ乱していなかった。
剣は磨き抜かれた鏡のように、まだ濡れていた。
「静……おまえ、大丈夫か」
ようやく矢野が言葉を絞り出した。
静はゆっくりと振り返った。
その瞳は、透明だった。
深い湖の底を覗くような――もしくは、まったく何も映さない鏡のような。
「……はい。無事です」
静の声は、あまりにも静かだった。
それが恐ろしかった。
※
兵たちは、後方へと下がる準備を始めた。
敵軍の進軍を止めたという事実が、まず何よりも価値を持った。
味方の主力が谷の反対側へと移動するまでの時間を稼ぐために――静は戦った。
その結果として、彼の周囲には、屍が累々と積み重なっていた。
「……あれが、“白装束の鬼神”ってやつか」
誰かがぽつりと呟いた。
源田がふいに言った。
「違います。……あの人は、“鬼”じゃない」
「……じゃあ、なんだよ。あんな斬り方、人間じゃねえ」
源田は唇を噛みしめながら答えた。
「“人間”ですよ。……俺、見ました。あの人が、敵を斬ったあと……一瞬、手を震わせてたの」
誰も、言葉を返さなかった。
震え。
それは、恐れか。悲しみか。あるいは、罪か。
それでも、沖田静は前を向いていた。
誰よりも、人を護るために。
※
後方への退却が始まった。
戦闘不能者を運び、資材を回収し、道を塞ぐ。
矢野は、その指揮をとる立場にいた。
「静、少し休め。おまえの手が必要なのは、これからだ」
「……はい」
静は返事をし、岩の影で一人、腰を下ろした。
剣はまだ鞘に納められていなかった。
手が、乾いていた。
何十人もの命を奪ったのに、血はもう乾いていた。
指の関節が、かすかに震えていることに、静自身が気づいていなかった。
「……見ていた、んですか」
声に気づき、顔を上げると、早坂が立っていた。
無口な弓兵。
矢はもう射尽くしており、背には空の矢筒だけが残っていた。
「見ていた。……でも、見えなかった」
「……?」
「おまえの剣は、見えなかった。……ただ、風が吹いて、音がして、人が倒れていた」
静は、それを肯定も否定もしなかった。
早坂は小さくうなずいて、こう言った。
「でも、ひとつだけ、見えたものがある」
「……なんでしょう」
「“悲しさ”だった」
静は、何も返せなかった。
※
夜が明けた。
朝靄の中、谷を抜けて後方へ戻った部隊は、再び天幕を組み直していた。
新たな戦地へ向かう前の、つかのまの停滞だった。
その中で、兵たちは語りはじめていた。
「静さんがいなかったら、俺たち全滅してた」
「いや……俺、見ちまったよ。あの人の背中。……あれ、誰にも背負えないよ」
「でもさ、俺らが今ここにいるのは、あの人が斬ったからだ」
「じゃあ、おまえ、代わりに斬れるか?」
「……無理だよ」
言葉が、交差する。
誰もが、答えを持たないまま。
※
静は、あの夜のことを記録しなかった。
報告書は矢野が書いた。
「斬った」とは記さなかった。
ただ、「敵軍を撃退」とだけ書かれていた。
それが、あの夜の戦いのすべてだった。
だが、兵たちの中には、刻まれていた。
“白装束の剣士が、誰も死なせずに、敵を止めた夜”として。
*
その夜、火の前で、源田がぽつりと言った。
「静さんって、どうして斬れるんだろうな。……怖くないんだろうか」
矢野が答えた。
「怖いさ。あいつは、怖くなくなったら、自分を殺せって言ったことがある」
「え……?」
「“僕が人の心を忘れたら、迷わず僕を斬ってください”ってな」
静かな焚き火の音が、まるで返事のようにぱちりと弾けた。
源田は、それ以上何も言えなかった。
*
誰かが、言った。
「あれは、本当に“人間”だったのか」
その問いに、誰かが答えた。
「……違うよ。あれは、“人間であり続けようとしてる者”なんだよ」
第十話「この手が覚えているのは、誰の鼓動だったか「
夜の底で、静は目を覚ました。
天幕の内はしんとしていた。
息づかいひとつ、衣擦れひとつ、眠る兵たちの命が音になって微かに揺れている。
静は、立っていた。
いつから立っていたのかわからない。
寝ていたはずなのに、気づいたときには剣の柄を握っていた。
濡れていた。
布団ではない。剣の柄が。
それが冷や汗か、幻の血か、あるいは――。
静は、ゆっくりと剣を鞘に戻した。
その音がやけに響いた気がして、周囲の誰かを起こしたのではないかと一瞬だけ怯えた。
誰も動かない。
誰も気づかない。
だからこそ、余計に、怖かった。
*
「静、起きてるか?」
明け方、火の番を交代に来た矢野が声をかけた。
「はい」
静は、火の傍らに膝を抱えて座っていた。
「眠れたか?」
「……わかりません。夢のなかに夢があったような気がして……起きてからも、どこが現実かわからないままです」
矢野は、それを冗談と受け取らなかった。
火の上で湯が沸く音がする。
湿った薪の匂いが鼻を刺す。
「……なあ」
矢野は、言葉を探していた。
迷って、選んで、それでも結局、不器用な一言を落とした。
「つらいか?」
静は、すぐには答えなかった。
火が、ぱちりと爆ぜる。
「はい。……でも、それを“つらい”と言ってしまうと、斬った人たちが、ただの“痛みの数”になってしまう気がするんです」
「……じゃあ、どうしたい?」
「わかりません」
静の声は、あまりにも穏やかだった。
それが、矢野にはこわかった。
※
日が昇った。
軍は移動を始めた。
敵軍が撤退した谷を超え、次の前線地へと向かうためだった。
移動中、誰かが言った。
「静さん、顔色、悪くないか?」
「最近、食ってねえよな」
「水嶋さんが無理やり握った握り飯も、小さいのひとつしか口にしてなかったって……」
誰も明言はしなかったが、皆が薄々、感じていた。
静の様子が、どこかおかしい。
たとえば、誰かが笑って冗談を言っても、静は反応しなかった。
まるで、その言葉の意味が、遠く彼方の言語になってしまったかのように。
誰かが怪我をしても、すぐに駆け寄ることができなかった。
自分の足が、誰かを助けるために動くという、“当たり前”を忘れているように。
――静さん、どうしちゃったんだろうな。
そう言葉にしてしまえば崩れてしまいそうで、誰も口に出せなかった。
※
その夜、静は再び夢を見た。
霧のなか、自分が剣を振っていた。
倒れる人間の顔が、誰ひとり見えなかった。
声もない。血もない。ただ、音だけがある。
斬る音。骨の砕ける音。布が裂ける音。
“生きるため”に斬っていたはずなのに、その剣の先には誰もいなかった。
斬っても斬っても終わらない。
地面には、名前のない屍ばかりが横たわっていた。
「静さん」
誰かが呼んだ。
振り返ると、そこに源田がいた。
子どものような目をしていた。
「どうして、俺まで斬ったんですか」
静は剣を見た。
血がついていないはずの刃に、確かに、源田の声が染みついていた。
「あなたが……泣いていたからです」
そう答えた自分の声が、誰のものか、わからなかった。
※
翌朝、静は天幕の外で嘔吐した。
矢野が気づいたときには、すでに膝をつき、背を丸めていた。
「静……!」
駆け寄って背をさする。
静の身体は、氷のように冷たかった。
「……ごめんなさい。……起こすつもりじゃ……」
「黙ってろ。……息、浅い。汗、冷たいな……」
矢野が水を渡し、静はそれを受け取ったが、口元に運ぶ前に手が震え、水がこぼれた。
「病気か?」
「……違います。たぶん、心のほう、です」
その答えを、矢野は笑えなかった。
「わかってる。……だって、おまえさ」
矢野は、静の右手をそっと握った。
「ずっとこの手で、誰かの命を止めてきたんだろ。――おかしくならないわけ、ないんだよ」
静は、反論しなかった。
涙も流さなかった。
ただ、黙って、自分の手を見ていた。
その手が、まだ“何か”を覚えていることに、怯えるように。
※
その日、静は戦列を外れた。
命令ではなかった。
今村が、申し出たのだ。
「すまん。しばらく静を、前には出したくない」
「俺が見る」
矢野が即答した。
誰も反対しなかった。
※
その夜、隊は初めて、沖田静なしで陣を敷いた。
不安はあった。
けれど、誰もその不安を静に向けることはなかった。
火のそばで、源田がぽつりと呟いた。
「静さんって、やっぱり……」
「人間だよ」
水嶋が言った。
「化け物みたいなことをしてても、中身はちゃんと人間だ。……だから、おまえも、おれも、今、あいつを守る番なんだ」
※
火の奥。
静は、夢を見ていた。
まだ、斬っていた。
でもそのとき、誰かが手を握ってくれていた。
そのぬくもりを、たしかに手のひらが、覚えていた。
第十一話「僕が人でなくなったなら、君は何をしてくれるか」
夜の風が止んだ。
いつものように木の葉を揺らさず、焚き火の炎をなぶらず、ただ地を這うようにして沈んでいた。
その風の中で、矢野は眠らずに座っていた。
静の天幕の近く。
明かりも火も灯さず、じっと耳を澄ましている。
寝返りの音、布のこすれる音、呻き。
そして、短く、途切れるような吐息。
静の夢が、また“戦場”へ引きずっている。
何日目だろう、と矢野は思う。
“あの夜”以来、沖田静は、どこかで“誰か”と交替してしまったようだった。
笑わない。
言葉の間が微妙に遅れる。
誰かの名前を呼ぶとき、ほんの一瞬、迷うような表情を浮かべる。
“人としての輪郭”が、音もなく削れていく。
※
天幕の奥で、小さく呻く声がした。
矢野は即座に立ち上がり、布をそっとくぐった。
静は、身体を起こしていた。
額に汗。息は浅く、喉の奥で吐息を繰り返していた。
「……夢か?」
矢野の問いに、静は首を横に振った。
「……夢でした。でも……目が覚めても、まだ夢の中にいるような気がするんです」
「なにが見えた」
「……敵を斬りました。何度も。何人も。……でも、顔が、皆、源田さんだった」
矢野は一瞬、言葉を失った。
静の手が、掛け布の上で微かに震えていた。
その指は、まだ“斬る感触”を、思い出していた。
*
「俺が昔、初めて人を殺したときの話、するか」
静がわずかに顔を上げる。
「……聞きたいです」
「三人目だった。最初の二人は、あまり記憶にない。でも三人目は……俺の顔、見てた。俺が槍を突き立てる瞬間まで、ずっとこっちを見てた」
矢野の声は穏やかだった。
語るというより、擦り切れた記憶を撫でるような声音だった。
「斃れたあとも、その目がこっちを見てる気がして、……しばらく飯が喉を通らなかった。誰かが喋ってても、その声が遠くなる。血の匂いだけが、いつまでも消えない」
静は頷いた。
「……僕も、そうでした。初めて斬った相手の顔が、いまだに夢に出てきます」
「どう乗り越えた?」
「……乗り越えてません。忘れたふりをしてただけです。……でも、それが“積み重なった”結果が、今の僕です」
矢野はそっと、静の手を取った。
「おまえの手は冷たいけど、まだ、生きてる。なあ静――“俺が人でなくなったら、斬れ”って、前に言っただろ」
「はい」
「……悪いが、無理だ。俺には、おまえを斬るなんてできねえ」
静が目を見開いた。
矢野は続けた。
「代わりに、おまえが“人じゃなくなりそう”になったら――引き戻す。何度でも。おまえが迷っても、震えても、全部支える。……だから、おまえは、生きろ」
その言葉を、静はすぐに受け取れなかった。
喉が詰まっていた。
声が出なかった。
それでも――
「矢野さん」
ようやく掠れた声で名を呼び、静は、ぽつりと言った。
「それでも、もし……僕が、誰も助けられなくなって、誰の名も呼べなくなって、自分の存在が、ただの“剣”になったら――」
「なら、そのときは、俺が名を呼ぶ」
矢野の言葉は、夜を照らす火だった。
「何度でも呼ぶ。静、おまえの名前を。“おまえは人間だ”って、言い続ける」
静は、涙を流さなかった。
けれど、肩の力がすっと抜けた。
ようやく、眠れる――そんな顔をしていた。
※
朝。
いつもより静の目覚めはゆっくりだった。
だが、その顔には微かに血の気が戻っていた。
源田が声をかけた。
「……静さん、昨日より、ちょっとだけ顔が“人間”っぽいです」
静は小さく笑った。
「それは、褒めていただいているんでしょうか」
「いいんです。褒め言葉です。……ずっと、怖かったから。静さんが、誰にも届かない場所に行ってしまいそうで」
「……大丈夫です。今、引き戻してもらったところです」
「……誰に?」
静は、少しだけ目を伏せた。
「剣じゃなくて、“名前”で、呼んでくれる人に」
*
その日、軍の進軍が再開された。
また新しい戦場が待っていた。
敵の数も、規模も、見えないままだった。
それでも、兵たちの足取りには、“名を呼び合う者たち”の覚悟が宿っていた。
白装束はまだ乾いていなかった。
けれど、そこに宿る者の目は、たしかに、前を向いていた。
――斬ることは、終わらない。
――でも、“斬るだけの存在”には、ならない。
沖田静は、そう誓っていた。
名を呼ばれた夜のぬくもりを、右手に残したまま。
第十二話「裂け目が呼ぶ声を、誰が拾うか」
朝靄はまだ濃かった。
空の色は青を帯びていたが、森は灰色のまま静かに立っていた。
木柱には露が垂れ、苔むした石には雫が落ちていた。
この朝の空気には、いつにも増して緊張の張力があった。
兵たちは口に出さずとも感じていた。
“裂け目”が近づいていることを。
*
隊の進軍は、いつもより遅れた。
だれかが地図を確認し、だれかが地形を探り、だれかが心の準備を整えながら歩いていた。
静は歩幅を意識して調整していた。
右足の感覚がまだ完全ではない。
剣を握る手も震えが残っていた。
それでも――歩いていた。
誰かが冗談を言っても笑った。
誰かのふざけた歌声が後ろから聞こえても、顔を横にしないで聞いていた。
歩くことは、“前進”ではあるが、同時に“確認”でもあった。
――まだ、僕はここにいる。
*
昼下がり。
隊は、新たな前哨地となる小高い丘の上に差し掛かっていた。
地図に記されていない小径を通り抜けると、眼下に廃屋と倒れた柵が見えた。
遠い昔の平穏を遺したような、静かな痕跡。
矢野が、指をさした。
「行ってみるか?」
「はい」
ばらけず、二人は並んで丘を下りた。
*
廃屋の中は、風通しが良すぎるほど明るかった。
屋根は崩れ、壁も抜け、ただ床板だけが残っていた。
だが、その中央に石の祠が建っていた。
苔に覆われ、埃をかぶり、かすかに煤の匂いがする。
中には小さな仏像が収められていた――傷ついているように見えた。
「誰かが、ここで拝んでいたのか……」
静の声は震えた。
祠の中を覗いた目が、揺れていた。
矢野が、慎重に近づき、地面を探った。
「ここにも、誰かが来た痕跡がある」
足跡、小さな土の盛り上がり、朽ちた陶器の破片。
誰のものかはわからないが、“人”の生活が、ここにあった。
ふたりは祠の前に跪いた。
静は手を合わせ、だが指先に震えが伝わる。
「誰かの想いを、傷つけたのかもしれない」
静はそうつぶやき、自分の剣を見た。
そこに宿る冷たさが、祠の温度とは異なっているように感じた。
※
丘を再び登り、隊の本隊に戻ると、進軍の気配が変わっていた。
隊は刃を研ぎ、矢を番え、布を結い直し、呼吸を整えていた。
今村が声をかける。
「ここから先は、谷の先端部。地形は開けるが、背後に崖あり。敵の伏兵が入りやすい場所だ」
「了解」静が答えた。
その声は、落ち着いていた。
「今夜、ここで迎撃があるかもしれない」
今村の言葉に、無言のうなずきが返る。
それは覚悟でもあり、緊張でもあった。
※
空は夕焼けに染まっていた。
斜光が森を通り抜け、木々の影が長く伸びる。
その時間、森のざわめきが薄れていく。
動物の声も、木々の匂いも、すべてが“予兆”を孕んでいた。
誰かが、囁いた。
「敵が、動き出した」
その声は遠かったが、すでに届いていた。
足音が森に響いた。
向こう側から、静かに、しかし確実に。
「…来る」
矢野が呟いた。
※
迎撃の布陣。
弓兵が背後の樹々に張り付き、槍兵が前に散開する。
静は中心。それは盾でも、槍でもなく、剣を持つ者として。
水嶋がこっそり囁いた。
「…静、今日は頼んだぞ」
静は軽く頭を垂れ、ただ剣に触れた。
その刃は、昼の静けさと、夕の黄昏を映し出すように揺れていた。
*
敵が出た。
足音。影。瞬きの後に見える、兵影。
数は、ざっと三十。
谷の狭間に、火薬の匂い。遠くでひび割れるような弦の音。
「交戦!」
号令とともに、空気が振動した。
静は、剣を抜いた。
その刃が炎を呼んだ。
仲間の鼓舞となり、敵の心を揺らす。
最初の斬撃。
次の気配。
――敵が割れる。その破片が地に落ちる。
斬り続ける。
剣を抜き、次々と命を止める。
そのたびに、静の中の震えが小さく縮む。
戦術ではない。
ただ、“必要”だった。
そのとき、静の視界が揺れた。
敵影の群れが、ひとりの女兵に変わった。
――矢を抱えた、少女のような顔。
心が一瞬止まった。
剣を握る手が、左へ跳んだ。ただちにそれが幻覚だったと気づいたが、一瞬遅れた。
その刹那、敵の槍が襲いかかった。
蹴り出されたように、静は飛んだ。
剣の刃を横に払う。
しかし、浅く傷が入る。肩に初めての衝撃が走り、布に赤い染みが広がる。
痛みが走った。
だが、剣は揺るがなかった。
*
最後の一撃。
仲間の怒声が周囲から上がる。
剣が夜の影を裂き、敵を切り伏せた。
斬り合いは、終わった。
静は、膝をついた。
肩を押さえる右手が重い。
剣は、まだ鞘から抜けたままだった。
夜気が、傷に染みた。
「静…しっかりしろ」
矢野の声が近づく。
源田、佐々木、水嶋、早坂――仲間たちが集まってきた。
その目に映るのは、“斬る者”ではなく、“戻ってきた者”だった。
*
矢野は、静の剣を受け取り、そっと鞘に戻した。
「…剣、返させてくれ」
静は、それを拒まなかった。
剣は音なく納まった。
仲間たちは、天幕へと静を運ぶ。
支えられ、歩く。
誰も言葉をかけなかった。
ただ、その存在を支えるように、夜の闇が寄り添っていた。
――彼の名を呼ぶために、彼はまた歩いていた。
※
夜明けには、風が戻っていた。
空は白くなり、鳥が鳴き、露の音が落ちた。
そんな静かな朝に、水嶋が口を開いた。
「斬った数を、誰も訊かなかったな」
誰かが笑ったような気がしたが、皆は言葉を飲んだ。
代わりに、矢野が言った。
「呼ぶ数でもなく、斬った数でもない。大事なのは、誰のそばにいたかだ」
その言葉は、小さな灯のように、夜を照らしていた。
第十三話「その名を呼ぶために、夜を越える」
夜が終わった――と、人は簡単に言う。
だが、戦の夜明けには、何かを“越えた者”と、“越えられなかった者”の区別がある。
あの戦いのあと、静の剣が鞘に戻されてから、ほんの数時間。
天幕の外では、霧が晴れきらぬ朝が訪れていた。
だが、その霧のなかで、彼はまだ、呼吸を整えていた。
*
「起きてるのか?」
低く、静かな声だった。
矢野だった。
布の向こうで、静はゆるく瞬きをし、まだ熱の残る額を覆った。
肩の傷口は、鈍く痛んでいた。肉が裂けていると、応急手当をしてくれた早坂は言っていた。
「眠っていたと思ってた」
矢野の声に、静は、かすかに笑みをにじませた。
「夢を見ていたようです」
「どんな?」
「誰かの声がしていて……僕の名を呼んでいました」
「名前か……」
矢野は、火桶に薪をくべながらつぶやいた。
「それだけで、戻ってこれるような気がするときがある。夜の底でも」
静は黙って聞いていた。
名を呼ばれる。それだけで、自分が“ここ”にいるのだと、信じられる瞬間がある――
矢野のその言葉は、まるで祈りのようだった。
※
その日、隊の指揮が一時的に隊長から、副長補佐の今村へ移された。
静は安静を命じられていたが、夕刻、天幕の外へと出た。
火の周りに兵が集まり、手に湯を持ち、煙を浴びていた。
そのなかに、水嶋、源田、佐々木、早坂の姿があった。
誰も最初は声をかけなかった。
だが、源田がふと気づき、立ち上がる。
「静さん……!」
その言葉をきっかけに、火のまわりに空気が動いた。
誰かが席を空け、誰かが湯を手渡した。
静は微笑しながら、それを受け取った。
「ありがとう。……あたたかいですね」
声はかすれていたが、温度があった。
「……あたたかくしてなきゃ、また倒れますよ」
早坂がぼそっと言った。
「そうだそうだ」
佐々木が笑った。「なんなら湯たんぽ作るか?」
静は笑った。
その笑いに、兵たちは安心した。
“鬼神”ではない、“人間”が、そこにいたからだった。
*
夜半、森がざわめいた。
風が変わるのを、静が感じたのは、その直前だった。
「動きます」
静がつぶやくと、矢野が顔を上げた。
「どうしてわかる?」
「音が……森の音が、呼んでいます」
それは感覚だった。
理屈ではない、何かが――ずれている。
直後、火点しの兵が叫んだ。
「西、森の斜面、何かいる!」
剣が、音を立てて抜かれた。
弓兵が起き上がり、槍が振りかぶられ、天幕がばたばたと押しのけられる。
「全員、布陣を!」
今村の号令が飛んだ。
空気が緊迫する。
だがそのとき、静が低く言った。
「来ていません。……まだ、“試している”だけです」
「試す?」
「こちらの出方を、探っています」
矢野が呟いた。
「……間者か」
その場にいた全員が、凍るように黙った。
“間者”。
戦場では最も忌まれる言葉。
つまり――誰かが、この中に。
*
翌朝。
誰よりも早く、静が立っていた。
その姿は白く、凛としていて、血の痕も消えていた。
剣を腰に戻し、矢野の方を向く。
「――ここに、あの人がいないのなら、それでいいのです」
「誰の話だ」
「試してきた者。あの夜、気配は三つありました」
「三つ……?」
「敵の足音。風に紛れた呼吸。そして――こちら側にある“気配”」
矢野は、ゆっくりと剣に手を置いた。
「……つまり、潜んでると」
「ええ。でも、斬るためではありません」
「どうしてだ」
「“怖い”からです。――僕を見て、斬れなかったんです」
それは確信だった。
矛盾していたが、静は“敵意”よりも“怯え”を感じたのだ。
それが、もっとも恐ろしかった。
*
その日、隊は小規模の移動をした。
廃村のあった谷を抜け、次の地点へ。
だが、進軍の途中――異変が起きた。
斜面の草むらで、火花が散った。
罠。
仕掛けられた火矢が、乾いた枝を突き抜けて爆ぜた。
煙が立ち込め、視界が奪われる。
「伏兵だ! 槍隊、前へ!」
今村の声が響く。
しかし斜面の上から降り注ぐ矢の雨に、動きが封じられた。
静が言った。
「矢野さん」
「……ああ。やるんだな」
二人は、走った。
霧の中、敵の伏兵十数名が迫っていた。
だが、静の剣がその先頭に届いた。
切っ先は、まるで迷いなく、“斬る”ことだけに集中していた。
矢野の槍も、鋭く宙を裂いた。
二人の動きが交差し、火と煙の中で敵の動きを遮った。
――だが。
その時、静の背に、矢の気配が迫った。
斜面の上、樹の陰から、一人の男が狙っていた。
――間者。
こちらの服を着ていたが、その眼に宿る色は違っていた。
静は振り返らなかった。
矢野が気づいた。
足を蹴り、槍を構えるが、間に合わない。
その刹那――
「やめろ!」
叫び声が飛んだ。
木陰から、もうひとりが飛び出す。
「やめろ、撃つな!」
それは、味方の服を着た青年だった。
おそらく新兵。
声は震え、涙を流していた。
「この人を……撃たないでくれ……!」
その言葉を受け、男は沖田を横目で見る。
その先の沖田は据わった目で、じっと間者の男を見ていた。
静かな視線だった。しかし、視線に物量があるならば、人を殺せそうな目をしていた。
男は静かに矢を下ろした。
青年の言葉に――そして、白装束の鬼神の圧に負けた。
森が静かになった。
戦いが、終わった。
*
間者は拘束され、青年は引きずられるように戻ってきた。
その目は泣き腫らし、誰の顔も見なかった。
夜、静がその青年の天幕を訪れた。
「……怖かったでしょう」
青年は答えなかった。
静は膝を折り、ゆっくりと、新兵の青年の手を取った。
「でも、あなたは、人の命を……僕の命を守ってくれた。それだけで、十分です」
「俺……ただ……怖くて、あなたを失うのが。あなたはどう見てもこの部隊の核だから」
「その判断が、救いになることもあります」
沈黙が降りた。
だが、その静けさのなかで、新兵の青年は小さく声をもらした。
「名前……教えてくれませんか」
静は微笑んだ。
「沖田静です」
それは、夜を越えた者にだけ与えられる、名の重みだった。
第十四話「声を重ねる日々に、雪は降らない」
名を呼ぶことが、誰かを救うことがある。
だが、名を呼ぶには、その者の存在を認めねばならない。
“人”として、そこに在ると、言葉にして肯わねばならない。
それはこの戦場で、ときに命より重いことだった。
※
事件の翌朝、新兵の青年――篠田は、自ら立っていた。
無言のまま、天幕を畳み、槍を手に、整列の列に加わった。
その背中は震えていたが、誰も笑わなかった。
ただ、誰からともなく、その傍に並んだ者がいた。
源田だった。
次いで、早坂、そして佐々木。
言葉なく、その隣に立ち、前を見た。
まるで、「おまえも、ここにいろ」と言うように。
矢野がそれを見ながら、ぽつりと呟いた。
「……変わったな、この部隊」
「ええ」
静もまた、火の前で槍を研ぎながら、言葉を重ねる。
「皆さん、名前を、呼んでくれるようになりました」
「そうだな」
「けれど、僕自身が……そのことに、甘えてしまいそうで」
矢野は顔を向ける。
「甘えていいんだ。そういう時期にきたってことだよ、静」
しばらくの沈黙。
そののち、静は小さく息を吐いた。
「……甘えて、いいんですね」
「いいさ。おまえの剣が、ずっと張ってたから、みんなも張ってたんだ。緩めても、いい」
火の音が、はぜた。
※
その夜、篠田が静に話しかけてきた。
「……あのとき、なぜ動けたんですか?」
唐突な問いだった。
静は剣を膝の上に置き、考えるようにまぶたを伏せた。
「動けない時の方が、多いんです。僕も」
「……え」
「でも……守るものが“ひとり”なら、迷いは減ります」
静の目は、天幕の布を越えて、外の闇を見つめていた。
「矛先が多ければ、人は迷う。敵が十人いれば、どこを斬るべきか、選べなくなる。でも、護りたい者が“そこ”にいるなら、矛先はひとつになる」
篠田は、言葉を失ったまま頷いた。
「でも、俺……あの敵兵を、止められませんでした」
「物理的には止められなかった。でも、声で止まってくれましたね?」
「……はい」
「それで十分です。あなたの声は届きました。声が、届いたんです」
その言葉は、深く静かで、あたたかかった。
篠田の肩が、かすかに震えた。
*
以後、篠田は静に付き従うようになった。
訓練でも配置でも、矢野と交替で隣に立つことが多くなった。
若い隊員たちのあいだでは、「静班」なる冗談が生まれたほどだ。
「沖田さんが真ん中にいれば、絶対死なないから」
「盾の外に出ても、静が飛んでくる」
「いやいや、静さんは瞬間移動するんだよ」
そんな冗談に、静がふっと微笑をこぼす場面も増えた。
最年少であるはずの沖田が、最も頼られ、最も静かに微笑む――
それが、この隊の、奇妙な重心だった。
*
その翌週、偵察任務が与えられた。
丘陵地帯を越えた先に、敵の新たな補給路があるという情報。
危険な任務ではあったが、小隊規模での行動に適している。
静と矢野、篠田、源田、早坂、そして今村の六人。
この組み合わせに、誰も異を唱えなかった。
出発の朝。
篠田が、握り飯をふたつ持って、静の天幕前に現れた。
「ほら。朝、抜くって言ったでしょ」
「ありがとうございます。でも、半分でいいですよ」
「俺も怖いんです。だから一緒に食べてくれないと、食えません」
静は少しだけ笑った。
「では、ありがたく」
ふたりは並んで飯を食べた。
空はまだ、灰色で、霧が立ち込めていた。
※
丘陵地帯の尾根で、静は風の音を読んでいた。
「こちらです」
迷いなく歩き、獣道のような隘路を抜けると――そこに、小さな木製の橋が架かっていた。
「橋だ」
「補給路、間違いありません」
今村が地図を開く。
「こことここを塞げば、敵の物資は遮断される。だが……」
「すでに気づかれているかもしれません」
矢野が呟いた。
その瞬間。
風が鳴った。
地の底から這い出すような唸り声とともに、矢が降る。
静が、すかさず篠田を押して地面に伏せさせる。
「矢野さん!」
「右側、潰す!」
二人は同時に走り出した。
木々の陰から現れたのは、十名の敵兵。
背には荷を背負い、剣を握ったまま、悲鳴のような声を上げる。
「補給隊か……!」
その声を聞いた瞬間、静の剣が走った。
風とともに、滑るように敵の間を抜け、誰も触れることなく、肩口を斬る。
致命傷ではない。
“動けなくする”だけの、剣だった。
「静!」
矢野の声。
敵の指揮官らしき者が、斜面の上で旗を掲げようとしていた。
この場所が見つかれば、本隊にすぐ報せが届く。
「行きます」
静がそのまま斜面を駆け上がった。
剣を振る音すらない。
ただ、一閃。
旗は、空を舞った。
*
日が沈みかける頃、任務は達成された。
補給路は寸断され、敵の足は止まった。
だが、矢野の肩からは血が流れていた。
矢が、左の肩口をかすめていた。
「見せてください」
沖田が手当てを申し出る。
矢野は「大丈夫、かすり傷だ」と首を振るが、すぐに顔をしかめる。
「俺が見ます!」
篠田が駆け寄る。
「言葉では強がっていても、顔に出ていますよ、矢野さん」
皆が笑った。
その笑いのなかで、静がようやく、力を抜いた。
※
天幕のなか、夜が深くなる。
静はうとうととしながら、ふと漏らす。
「……いいですね、皆さんの声」
「声?」
「名前を呼んでくれる。それが、僕を……ここに繋ぎとめてくれているようで」
矢野は、その横顔を見ながら、静かに言った。
「おまえの名前は、俺たちの“旗”みたいなもんだからな」
篠田が照れたように笑う。
「じゃあ、毎日呼びます。静さん、静さん、静さーん!」
「やめてください、照れます」
皆が笑った。
その笑いのなかに、戦場とは思えない、穏やかな風が吹いていた。
第十五話「沈黙の予感、夜を包む刃」
霧が晴れ、草が芽吹き、山間の空気は日ごとに軽くなる。
春は、この地にもたらされていた。
だがその季節が、決して穏やかばかりでないことを、彼らは知っていた。
※
補給路を断った作戦は、軍本隊から高く評価された。
静を含む小隊の働きが、戦局の一角を確かに動かしたと、報告書にも明記された。
「おまえら、英雄だぞ」
そう笑って言ったのは今村だったが、誰も「そうだ」とは言わなかった。
源田はぼりぼりと頭をかき、篠田は「いやいや、たまたまですよ」と苦笑し、矢野は黙って剣の柄に指を添えた。
静だけが、言葉もなく微笑んでいた。
その微笑は、どこか“遠く”を見ているようだった。
※
その夜。
静はひとり、天幕を出ていた。
風が枝葉を揺らす音だけが辺りに漂う。
火も焚かれていない。月明かりも乏しい夜だった。
静の手には、鞘に収めた剣。
ただ、それだけ。
彼は、草の上に膝をつくと、地面に額をつけるように、ゆっくりと頭を垂れた。
しばらくそうしていた。
やがて、呟くように声がこぼれる。
「……これが、終わる日が来たとして」
「僕は、どうすればいいんでしょう」
その問いに、答える者はいなかった。
※
次の日の朝、矢野が静に尋ねた。
「昨日、夜どこにいた?」
静は少し驚いたように顔をあげる。
「気配、わかりましたか」
「おまえの気配は、変な消え方するからな。……夜、眠れなかった?」
「いえ、ただ……月を見ていました」
「ほんとかよ」
矢野が眉をひそめる。
「最近、疲れてるように見える」
静は微笑んだ。
「矢野さんは、よく見ていらっしゃる」
「それ、誉めてないからな」
矢野は視線を外した。
だが、そのまま、声を潜めて続ける。
「……もし、つらかったら、ちゃんと言え。全部ひとりで背負うな」
「……はい」
その返事が、あまりにも静かだったので、矢野は胸の奥に言いようのないざらつきを覚えた。
※
その日から、静は隊の訓練に加わらなくなった。
表向きは休養という理由だったが、実際には、何かが違っていた。
動けないのではない。
むしろ、異様に整いすぎていた。
矢野は見ていた。
朝の手入れ、歩く姿、剣の扱い、言葉遣い……
すべてが、ある種の“型”に収まりすぎていた。
「……戻りかけてるな」
矢野はひとり、そう呟いた。
“白装束の鬼神”と呼ばれていた頃の、あの氷のような静に。
人の心が、“鎧のなかに引っ込む”ように。
*
その数日後。
斥候のひとりが、前線の動きを報告に戻ってきた。
「……敵の動きが変です。いままで補給してた道、わざと見せかけで使ってます」
「囮か」
「たぶん、次は正面から来ると思います」
その報告を聞いた瞬間、静が顔を上げた。
「では、僕が行きます」
「一人でか」
矢野が声を荒げた。
「偵察じゃない、囮だぞ。あえて捕まる可能性すらある。おまえが行くべきじゃない」
静は穏やかに、しかし確かに言った。
「僕の足跡なら、敵は騙されます」
その瞬間、隊内の空気が変わった。
――確かに、それは“真実”だった。
静がそこにいるだけで、敵の陣形は乱れ、戦術は崩れる。
「だとしても……!」
矢野が前に出たが、その腕を、源田がそっと掴んだ。
「矢野さん」
「……っ」
「静さんを信じましょう。俺たちも、信じてもらったんですから」
矢野は、悔しそうに唇を噛んだ。
だが、やがて頷いた。
「……戻ってこいよ」
静は、やわらかく笑った。
「必ず」
※
偽の補給路に向かった静は、崖上の樹間に姿を潜めた。
数刻後、敵兵が現れた。
足音、息遣い、装備――
斥候部隊だ。偵察ではなく、“追跡と討伐”を目的とした配置。
静は、剣を抜いた。
その瞬間、空気が変わった。
剣が鞘から抜けた音すらないのに、すべての草が、風を避けるようにそよいだ。
「……誰かいる!」
敵の声。
「出てこい! 知ってるぞ、“白装束の”――」
その声が終わる前に、静は地から跳ねた。
剣が閃く。
声を上げる暇もなく、ひとり、またひとりと“封じられていく”。
誰も死ななかった。
ただ、“動けなくなった”。
戦いではなかった。
ただ、舞のようだった。
それでも静の目は、ひとつの色も浮かべていなかった。
光も、影も、なかった。
矢野の言葉が、その脳裏に浮かんだ。
――おまえ、あまり怒らないよな。
――殺しても、泣かない。
――なにを斬ってるんだ?
静は、剣を収めながら、呟いた。
「……まだ、僕は“人”でいられるでしょうか」
その声に、答えはなかった。
※
日が暮れるころ、静は無傷で戻ってきた。
敵部隊の動きは止まり、本隊もその隙に布陣を再調整した。
だが、矢野は静の顔を見て、すぐに気づいた。
「……遠くに行ってたな」
静は答えなかった。
だが、ほんの一瞬、視線を落とした。
その眼差しは――“迷っていた”。
※
夜、火のまわりに小さな影が集まる。
源田も、篠田も、今村も、いつものように雑談を交わす。
その輪のなかに、静がいた。
だが、矢野は見逃さなかった。
笑うその目が、わずかに“遅れて”いた。
まるで、その場の空気に、自分を“合わせている”ようだった。
“自然にいる”のではなく、“ここにいようと努力している”ようだった。
矢野の胸が、締めつけられた。
――もう少しで、手が届いたのに。
――また、“遠く”に行こうとしてる。
矢野は心の中で、ただ祈った。
どうか、まだ“名前”に応えてくれますように。