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第五章:最後の戦《前編》

第一話「名を呼ばれる剣」


 霧が降りていた。

 春を越え、夏の気配がかすかに匂う季節だったが、この土地は肌寒い朝が続いていた。朝霧の中、幾人もの若い兵士が黙々と整列し、点呼を待っていた。沈黙のなかに、焚き火の残り香と、湿った土の匂いが立ち込めている。

 その部隊に、新しく二人の兵が加わった。

 ひとりは、名を知られた男だった。

 白装束の剣士。鬼神。神か、あるいは人かと囁かれる、奇妙な噂とともに広まった存在。

 もうひとりは、槍使いの青年だった。恵まれた身体に、端整な目元。静かに、その“剣”の背後に立ち続ける、もうひとつの刃のようだった。

 沖田静と、矢野蓮。

 年若いふたりが、霧の中を歩いてくると、整列していた若手の兵たちが、無言でその姿を見た。

 誰も、声をかけなかった。

 しばらくの沈黙ののち、年嵩の隊士がぼそりと口にする。「あれが……」

 語尾は、消えた。

     ※

「ようこそ。案内するよ」

 仮設の天幕の中、ひとりの青年が、沖田と矢野を迎えた。口元に人懐こい笑みを浮かべた、明るい印象の男だった。年は二十を少し越えたあたりか。

「俺は今村。副隊長の補佐をしてるけど、まあ雑用係みたいなもん。ここ、わりと自由だからさ。変な命令が飛んできたりはしないと思う。あんたがたが噂の……えっと」

 言葉を濁した。

「“白装束の”ってのは、呼ばない方がいい?」

「お好きにどうぞ」

 静が穏やかに返す。

 それが冗談なのか、本心なのか、今村には測れなかった。だが、穏やかで、硬質な声だった。音が剣のように鋭く、それでいて、礼節の膜で覆われているような不思議な響きをもっていた。

「じゃあ……静、って呼んでも?」

「もちろん」

 ひとつ微笑むと、沖田は天幕の端の床に腰をおろした。

 矢野も、何も言わずに隣に腰を下ろす。

 その場の空気が、やわらかく、けれどどこか張りつめたまま変わらなかった。

     ※

 最初の数日、誰も沖田を名前で呼ばなかった。

 “あの人”

 “白いの”

 “剣の”

 直接名を口にする者はいなかった。

 沖田が話しかけても、多くの者は目を逸らした。

 剣を交える様子を見た者の中には、膝を震わせる者もいた。

 ただ、矢野だけは、黙ってその傍らにいた。特に話すでもなく、笑うでもなく。ふたりが話しているところを、他の兵が見た記憶はほとんどない。

 だが、夕刻の食事のとき。

 ある兵が、ぽつりと言った。

「静、って……それがあの人の名前、なんですか」

 矢野が頷いた。

「名前で呼べばいい」

 たったそれだけの言葉が、風穴を開けた。

 翌朝、今村がぽつりと「おはよう、静」と言った。

 沖田はふわりと微笑んで、「おはようございます」と返した。

 それだけのやりとりが、沈黙に満ちていた部隊に、確かな波紋を投げかけた。

     ※

 ある日。

 小規模な斥候戦で、敵の伏兵と出くわした。部隊が包囲されかけたそのとき、沖田は前に出た。

 ひとりで、四人を斬り伏せた。

 血は、ひとしずくも肌に付着しなかった。

 剣は、まるで風そのもののようだった。

 矢野は背中を預け、後ろの部隊の盾となるよう動いた。

 誰かが叫んだ。

「静さん、戻ってください!」

 静かに、沖田は振り返った。

 その目は、澄んでいた。敵を斬った者の目ではなかった。

 それでも、矢野にはわかっていた。

 その“無色の瞳”の底に、なにかがあることを。

 何度目かの夜、矢野は火の前でぽつりと言った。

「おまえ、あまり怒らないよな」

「そうですか?」

「殺しても、怒らない。泣かない。……なにを斬ってるんだ?」

 沖田は、しばらく沈黙した。

 そして、ただこう返した。

「必要なものを、です」

     ※

 名前を呼ぶ者が、少しずつ増えていった。

 年上の隊士が敬語を外す日も来た。

 冗談を言う者もいた。

 食事のとき、黙って味噌を差し出してくれる者もいた。

 沖田も、冗談を返した。

 少しだけ、表情がやわらかくなった。

 だが、夜。

 ひとりで剣の手入れをする沖田の姿は、どこか別の空気を纏っていた。

 矢野はその夜、ぽつりと尋ねた。

「静。……なあ、今でも、恐いか?」

 矢野の声は火の爆ぜる音にかき消されそうなほど低かった。問いかけの形はしていたが、その声音には、返答を期待する色はなかった。むしろ、それはもう何度も繰り返された自問のように思えた。

 沖田は剣を拭う手を止めなかった。布の上に伝う油が、月光のわずかな照り返しを受けて、艶を帯びた。

「恐怖は……道具です。鈍れば死にます。研ぎすぎれば、心が裂けます」

 矢野が火越しに微かに息を吐いた。

「まるで剣みたいだな」

「ええ。恐怖は剣です。だから、正しく持たなければなりません」

 その声は、静かだった。けれどどこか、細く張られた糸のように、緊張感を孕んでいた。

「……なあ」

 矢野が、火をじっと見つめながら言った。

「おまえが“必要なもの”だけを斬ってるって言ったとき、俺は、正直、信じたくなかった」

 沖田は手を止め、顔を上げた。

「必要かどうかなんて、戦場で誰が決められるんだ。味方だって敵だって、皆、何かを背負ってる。生きる理由がある」

 その言葉に、沖田は少しだけ目を伏せた。

「……それでも、決めなければならないときがあります」

「そうだな」

 矢野は口元に笑みとも溜息ともつかぬものを浮かべた。

「だから、おまえが生き残ってる。俺もだ。……でも、たまに思うんだ。こうして火を囲ってると、全部、夢だったらいいのにって」

 静は剣を鞘に収めた。

「夢なら、いいですね」

 その言葉は、やさしく、けれど深く沈んでいた。

 ふたりのあいだに沈黙が降りた。その静けさは、たしかに安らぎに似ていたが、どこかでいつも、崩れる予感を孕んでいた。戦場にあるどんな沈黙も、いつか終わる。終わらせられる。

     ※

 ある雨の朝、今村が小走りに天幕へ入ってきた。

「伝令だ。……今日、前哨陣地の偵察に出る。五人、選ばれた。静、おまえもだ。矢野も」

 静と矢野が目を合わせるまでもなく、立ち上がった。

「他は?」

 今村は指を折るようにして数えた。

「水嶋、佐々木、そして……源田」

 名を呼ばれた三人は若かった。水嶋は二十一、佐々木は十九、そして源田はまだ十八。新兵に毛が生えた程度の少年だった。

 矢野がわずかに眉を寄せた。

「随分と若い顔ぶれだな」

「若いって……それでも、お前ら”二人”よりは年長だろう。それに、ベテラン組は昨夜の警備明けで休みだ。悪いが、任せる」

 矢野はひとつだけため息をつき、肩を回した。

「わかった。……静、どうする?」

「必要な距離まで進んで、必要な情報を得て、必要なだけ生きて帰ります」

 即答だった。

「相変わらず、合理主義者だな」

 矢野の笑みに、沖田もまた微かに口元を緩めた。

     ※

 前哨陣地は、浅い谷の向こうにあった。馬で行くには音が響きすぎ、歩いて進むには少しばかり距離がある。

 ふたりを先頭に、五人は湿った土を踏みしめながら、慎重に進んだ。木立が濡れ、葉が滴を落としていた。空気が重い。空はまだ朝なのに、どこか夜の名残のような鈍い色をしていた。

「……ねえ、あの沖田さんって、どんな人なんですか」

 背後で源田が小さく囁いた。誰にともなく投げた問いだった。

「人間だよ」

 佐々木がぼそりと返した。

「人間?」

「それ以外、なにがある」

 沖田は前を向いたまま、なにも言わなかった。矢野もまた黙っていた。

「でもさ、なんか違うじゃん。剣が……ちがう。なんか、あれだけ斬ってるのに、血がつかないって、本当なの?」

「つかないんじゃなくて、つけないんだ」

 その声は、矢野のものだった。

 源田が驚いたように声を呑む。

「……なにそれ。どうやってそんなこと……」

「俺にもわからない。ただ、あいつは、そうしてる。そうするって決めてる。それだけだ」

 沖田の背中は、揺らがなかった。

     ※

 斥候の任務は、滞りなく進んでいた。

 小高い丘を越え、敵の補給路の様子を確かめる。戦の前に、もっとも重要な“確認”だった。

 だが。

「……足音」

 沖田が、ぴたりと動きを止めた。

「六人。こちらの位置を把握していない。距離、百五十」

 矢野がすぐに佐々木へ合図を送った。

「伏せろ。源田、水嶋さん、こっちへ」

 風が、笹を揺らして通り抜けた。遠く、笑い声が聞こえた。

「敵兵、巡回ではない。軽装、弓兵中心。先遣隊の可能性あり」

 沖田の分析は、驚くほど速く、精緻だった。新兵たちは誰も声を上げられなかった。まるで別の空気を吸っているように、彼の言葉は重たく、鮮やかだった。

「どうする?」

 矢野の問いに、沖田は即座に答えた。

「殺さずに、退かせます」

「一人で?」

「はい」

 そう言って、沖田は剣に手を添えた。

「源田さん」

 名を呼ばれて、源田がびくりと身体を強ばらせる。

「あなたは、僕が戻るまで、決して剣を抜かないでください。……これは命令です」

「で、でも……」

「剣を持つのは、誰かを殺すためではない。誰かを斬らせないために、あなたはその場にいてください」

 沖田はそう言い残し、霧の中へ溶けていった。

     ※

 静の剣は、まるで霧を切り分けるようだった。

 敵兵の間にひとたび入ると、声が、叫びが、途切れた。だが、誰も死ななかった。

 斬り伏せられた者は皆、剣を折られ、手を傷め、肩を外された。

 ――命は、落ちなかった。

 それは、戦場において奇跡に近いことだった。

「……な、なんだ、あいつ……!」

「おい、逃げろ、あれは人じゃねえ……!」

 敵兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 沖田は、刀を鞘に収めると、静かに霧の向こうへ戻ってきた。

「終わりました」

 ただそれだけを告げて、黙って地面に座った。

     ※

 帰還の道すがら、源田がぽつりと呟いた。

「俺……俺、あんなの、見たことない。だって、ひとりも殺してないのに……全員、倒して……」

 誰も返事をしなかった。

 矢野が、静の背を見ながら、低く言った。

「俺も見たことないよ。……でも、ずっとそばにいても、あいつの本当の顔は、たぶん、まだ見たことがない」

     ※

 部隊に戻った夜、今村が言った。

「おかえり、静」

 静は、少し笑って「ただいま」と返した。

 そのやりとりが、天幕の中を、やさしく震わせた。

 名前を呼ぶ者が、またひとり、増えた。



第二話「雨音が名前を呼ぶ」


 火のない夜だった。

 濡れた薪はなかなか火がつかず、兵たちは各々の布に身を潜めて眠ろうとしていたが、眠りの気配はまだ薄かった。焚き火のない夜は、声のかわりに沈黙が会話をする。

 沖田静は、その夜も剣を拭っていた。

 刃の影に宿るものは、血ではなく、記憶だった。鈍色の鏡に映るものを、静はいつも見ている。それが何であるのか、誰にも話したことはなかった。

「おまえさ。そんなに毎晩剣を拭いて、飽きないのかよ」

 声をかけてきたのは、丸顔の兵士だった。名を水嶋という。年は二十一。沖田より四つ、矢野より三つ年上で、剣の腕はそこそこ。誰とでも気さくに話す性格だった。

「飽きるほど、生きていませんから」

 静は、冗談のように、そう返した。

「……それが冗談に聞こえねえのが、おまえだよ」

 水嶋は、苦笑しながら隣に腰を下ろした。

 その様子を、向こうの天幕で眠れぬまま起きていた者たちが、布越しにこっそり耳を澄ませている。

「なあ、沖田。“静”って呼んでいいか」

 火のない夜は、誰もが少しだけ素直になる。

 静は、一拍遅れてうなずいた。

「ええ、もちろん」

 それは、誰もが求めていた返答だった。

 少しずつ、彼の“名前”が、他人の舌に馴染みはじめる。

 それは、彼という存在が“鬼神”ではなく、“兵のひとり”として同じ地面に立ち始めていることを意味していた。

 ※

 この部隊は、奇妙な構成だった。

 年長の古参兵は前線で傷を負い、療養や別動隊に配属されていたこともあって、全体的に若い。

 最年少が沖田で、次が矢野。

 だが、静の振るう剣を一度見た者は、皆、自然と彼に敬意を抱いた。

 年上の者たちでさえ、「沖田さん」と口にするようになったのは、剣の強さだけではなく、その振る舞いに一種の静けさが宿っていたからだ。

 たとえば――。

「味噌、切れそうだったら言ってくださいね。多めにもらってくるので」

 ある朝、静が炊事当番の佐々木に、あたりまえのようにそう言った。

 たったそれだけのやりとりで、佐々木は夕暮れの水汲みのとき、ふとこう漏らした。

「……あの人さ、すごいのに、えらぶらないよな。なんでだろ」

 その言葉に、水嶋がぽつりと返す。

「“えらぶる”ってのはさ、自分がどこに立ってるか忘れる奴のすることなんだよ。あいつはいつも、地面見てる」

「地面?」

「ああ。――剣を抜いたあと、血が落ちた場所を、ちゃんと見る奴なんだよ。俺たちの中で、それができるの、たぶんあいつだけだ」

 ※

 静は、知らず知らずのうちに、人の輪のなかに立つようになっていた。

 囲炉裏の火に手をかざすときも、隊列を組んで歩くときも、誰かがさりげなく隣に並んでいた。

 特に、水嶋と、早坂(無口な弓兵)は、いつの間にか“近くにいる”存在になっていた。

「なあ、静。あんたさ、何が楽しくて戦なんてやってんだ?」

 唐突な問いだった。

 木陰で剣の手入れをしていた沖田は、少しだけ手を止めた。

「……楽しくて、やってるわけではありません」

「じゃあ、何のために?」

 沈黙が落ちる。

 静は、木の葉の揺れを見つめながら答えた。

「たぶん、誰かがやらないといけないことを、たまたま僕がやってるだけです」

「誰かがやらなきゃいけないこと、か……。でもさ、俺は正直、あんたがいてくれてよかったって思ってるよ。ほんと」

 水嶋の声には、飾り気がなかった。

 その飾り気のなさに、静は少しだけ微笑んだ。

「それは、ありがたいです」

 その笑みを見て、水嶋は心の奥で思った。

 ――ああ、やっと“人”になってきた。

 ※

 そのころ、隊内では誰もが口をそろえて言っていた。

「静がいれば、なんとかなる」

「沖田さんがいれば安心だ」

 戦場では不思議な“神話”が生まれる。

 だれかの勇名は、やがて人の心を縛り、拠り所になる。

 沖田静という剣士は、まさにその“安心”の象徴になりつつあった。

 それは、彼にとって、どこか居心地の悪いものでもあった。

 静は、ときおり木の根に座りながら考える。

 ――これは、“信頼”だろうか。

 それとも、“依存”だろうか。

 その境目を測れないまま、彼は“静さん”と呼ばれる日々のなかで、少しずつ心を緩めていた。

 笑った。冗談も言った。

 味噌汁の味が濃すぎると水嶋に文句を言った日もあった。

 その一瞬が、まるで“日常”だった。

 けれど――。

 その“日常”こそが、彼にとってもっとも恐ろしいものだった。

 ※

 ある雨の晩、沖田は矢野に言った。

「……僕、少しずつ、馴染んでしまってますね」

 矢野は、焚き火の灰を払ってから言った。

「悪いことか?」

「……わかりません。でも、僕は……こういう場所では、あまり馴染むべきではない気がするんです」

「なぜ?」

「だって、失うからです。……誰かは命を、失うから。――僕も含めて」

 矢野は答えなかった。

 そのとき彼の脳裏には、かつて失った顔がいくつも浮かんでいた。

 戦場で名を呼び合うということは、名を失う苦しみに繋がるということだった。

 静も、それを知っているのだ。

 だから、馴染んでしまうことに怯えている。

 それでも彼は、確実に――。

 “人の輪”のなかで、名前を呼ばれ、呼び返し、何かを手にしてしまっていた。

 笑い声、食器の音、布団の奪い合い、そして――

「静、こっち座れよ!」

「沖田さん、今夜の番、交代しましょうか?」

 それは、血ではなく、声で繋がった絆だった。

 その絆を、静は――剣で、守ろうとした。



第三話「水面の揺れは、先に沈む」


 春の雨が続いた。

 それは、季節の気まぐれというよりも、戦場の湿り気に呼応するように、断続的に降った。

 この土地に慣れてきた者たちは、布を編み直し、薪を乾かし、天幕の縫い目に油を差しながら、黙々と日常の手入れを繰り返した。

 戦の気配が遠のいていた。

 あるいは、嵐の前の静けさだったのかもしれない。

「なあ、静。……お前さん、傘って持ってた?」

 そんなふうに言葉を投げたのは、昨日の昼食時、今村だった。

 彼は濡れた薪を火にかけながら、火の起こり方よりも、静の返答の方に興味があるようだった。

「傘、ですか」

「うん。子供のころさ。紙でできたやつとか、父親の大きいやつとか、そういう……ほら、覚えてたりとかしねぇ?」

 静は、火に手をかざしながらしばし黙っていた。

 やがて、少し笑って言った。

「……憶えていません。でも、濡れても平気だったことだけ、憶えています」

「……はは。なんだそれ。強いな、おまえは」

 今村は笑いながら言ったが、静の目には、その笑いがほんの少しだけ、遠く見えた。

 雨が、火の軒を打つ音だけが、沈黙の隙間を繋いでいた。

     ※

 その日、静は矢野とともに、前線の補給路の再確認に向かった。

 足元はぬかるんでいたが、ふたりは慣れた歩幅で、ほとんど音を立てずに森を抜けていく。

 斥候と警戒の役目を兼ねていたが、実のところ、その任は“静と矢野であれば任せられる”という部内の空気が先行していた。

 戦術的には不適切だった。

 だが、実際、ふたりが向かえば、情報は確実に持ち帰られ、誰も傷を負わずに帰陣する。

 それは、信頼という名の慢心にもなり得た。

「……ずいぶん、静もこの部隊に馴染んできたな」

 森を歩きながら、矢野がふと言った。

 静は、前を向いたまま、穏やかに言葉を返す。

「……はい。気づいたら、そうなっていました」

「よかったじゃないか」

「ええ。でも――」

「でも?」

「どこまでが僕で、どこからが“ここに合わせている僕”なのか、たまにわからなくなります」

 矢野は黙った。

 静の言葉には、どこか、深い水底のような重さがあった。

 慣れるということは、時に、自分の輪郭を失うことでもある。

「……それでもいいと思うけどな。変わったって」

「そうですか」

「戦場にいるやつらなんて、皆、どこか変わっちまってるよ。だが、そうやって“変わった自分”で、生きてくしかないだろ」

 静は、わずかにうなずいた。

「……それでも、“変わること”と、“変えてはいけないもの”がある気がするんです」

 矢野はその言葉の意味を、咀嚼するように黙って歩いた。

 たしかに、静のなかには、“変えない”と決めているものがある。

 それは剣の使い方だったかもしれないし、命に対する線引きだったかもしれない。

 その芯が、彼の“白さ”であり――“孤独”の源でもあった。

     ※

 その夜、水嶋が静に話しかけてきた。

「なあ、静。……隊長が言ってたんだが、近くの谷に物資を送る任務、やっぱ俺たちのとこに回ってくるらしい」

「補給線が近い方が早いですからね」

「おまえも来る?」

「命令なら」

「命令じゃなくてもさ、おまえがいれば安心だって、皆そう言ってる」

 水嶋は、どこかそれを誇らしげに言った。

 静は少しだけ目を伏せた。

「……そういう言葉が、いちばん怖いんです」

「え?」

「“安心だ”とか“静がいれば平気”とか。……それが重なると、誰かが判断をやめてしまう。考えるのをやめて、命を預けるようになる」

「でもそれって、信頼だろ?」

「違います。信頼は、責任とともに成立します。でも、あれは……」

 静の声は、低く、少しだけ震えていた。

「……甘えです」

 水嶋は、その言葉に何も返せなかった。

     ※

 翌朝、霧が出た。

 視界は五十歩先が限度で、森の奥は白く染まっていた。

 その霧の中で、異変は起きた。

 哨戒に出ていた先遣隊が、戻らなかった。

 通常であれば、四刻もあれば帰還するはずの部隊が、五刻を過ぎても戻らなかった。

 天幕内に緊張が走った。

 隊長が指示を出すより早く、静が立ち上がった。

「行きます」

「ひとりでか?」

「足跡がまだ残っているはずです。矢野さん、もしよければ、あとから合流をお願いします」

 その言葉に、矢野が即座に立ち上がる。

「俺も行く」

「静、おまえ――」

 今村が言いかけたそのとき、静が振り返った。

「まだ、誰も死んでいません」

 その言葉に、誰も何も言えなくなった。

 そのとき、天幕の外で誰かが走ってくる音がした。

「帰還者です! ひとり、帰還しました!」

     ※

 佐々木だった。顔に裂傷、肩から血を流し、声にならないうめき声をあげていた。

 水嶋が彼を抱えたとき、佐々木はうわごとのように言った。

「囲まれた……三十、いや、四十……谷に……罠が……源田が……っ……」

 そこで言葉が途切れた。

 静がすぐに腰を上げた。

「矢野さん。行きましょう」

 矢野は言葉を交わさず、頷いた。

     ※

 濃霧の森の奥、静と矢野は、血の匂いを辿った。

 足跡はぐずれ、倒木の裏に蹲るように、ふたりの兵の亡骸があった。

 そして――。

 さらにその奥に、罠にかかり、負傷しながらも弓を構える源田がいた。

 彼の周囲には、十を越える敵影。

「矢野さん、僕が行きます」

「静――おまえ、待て、数が――」

 だが、次の瞬間には、もう姿がなかった。

 白装束が霧を裂いて舞う。

 剣が、叫びを残さず人を斬る。

 その音は、風だった。

     ※

 敵兵は十四名。

 すべて、成人の男だった。

 剣を握る手には力が宿り、目の奥には、ためらいのない殺意があった。

 ここは谷の入り口、木々の枝が折れて斜面に散らばり、雨水がぬかるみを作っていた。

 その真ん中に、源田がいた。

 左足を罠に挟まれ、身動きのとれないまま、片手で弓を構えていた。

 震える指先。擦り傷からは血が滲み、雨で濡れた頬に泥が張りついている。

 それでも彼は、諦めていなかった。

 だからこそ、静は、そこへ降り立った。

 白装束が、霧を裂いて現れる。

 その姿に、敵兵たちはわずかにたじろいだ。

 ――なにか、おかしい。

 そう直感した者がいた。

 だが、言葉にする前に、静は動いた。

「この人に、指一本触れさせません」

 静の声は、音ではなく、“斬撃の予兆”のようだった。

「なんだこいつ……」

 そう呟いた敵兵が、一歩踏み出そうとしたその刹那――

 空気が断たれた。

 白が、疾った。

 剣閃が、時間を裂いた。

 斬られた男の首が、音を立てるより先に落ちた。

 血は、静の装束に一滴も届かなかった。

「囲め! 一気にやれ!」

 叫んだ男が突進する。

 二、三、四。――複数の剣が同時に静へと振るわれた。

 だが、静は踏み出さない。

 ただ、立っているだけに見えた。

 しかし次の瞬間、敵兵の膝が折れた。

「ぐ……あっ!」

 剣を持ったまま倒れた男の肩に、深い裂傷が刻まれていた。

「後ろだ!」

 誰かが叫んだ。

 振り向いたときには、もう遅い。

 静の剣が、第二の男の胸元に、深く食い込んでいた。

 刃が抜かれたとき、血が霧と混じり合い、空中に細い紅の筋を描いた。

 剣戟の音が木霊する。

 斬られたのは敵ばかりだった。

 誰一人、静の身体に触れられなかった。

 その動きは、“殺意”ではなかった。

 ただ“止める”ための斬撃だった。

 踏み込みも、抜刀も、刃の角度も。

 すべてが、敵を“止める”ためだけに計算されていた。

「この……化け物が……!」

 三人目が叫びながら突き出した剣を、静は左手で鞘ごと受け止め、

 右手の剣でその腕を斬り裂いた。

「うわああっ!」

 男の叫びは霧のなかに溶けた。

 源田は、その光景を呆然と見ていた。

 まるで、芝居を観ているようだった。

 あまりにも現実離れしていた。

 戦っているというより、“演じている”かのようだった。

 静は、血を纏わぬまま、次々と人を斬っていく。

 怒りも、憎しみも、なかった。

 あるのは、たったひとつの意志――

 “この人を守る”。

 それだけだった。

 七人目が、後方から斬りかかる。

 静は振り返りもせず、体を斜めに傾け、背後に剣を差し出す。

 刃が、相手の顎を裂く。

 動きに、迷いがなかった。

 戦場で育った者ではない、なにか“それ以上”の存在。

 十三人目が尻餅をつき、剣を取り落とす。

「た、助けて……!」

 それを見た十四人目が、背を向けて逃げ出した。

 足がもつれ、斜面に転がる。

 静は、追わなかった。

 ただ、源田のもとへ戻る。

 ゆっくりと、ふたたび、白い布が揺れる。

 剣を鞘に納める音が、やけに鮮明に響いた。

 霧が、また静けさを取り戻す。

 敵兵たちは、動けなかった。

 生き残った者も、立ち上がる気力を失っていた。

 静は、剣の柄から手を離し、しゃがみ込む。

 源田と目を合わせる。

「……俺……俺……怖くて……!」

 源田の声は震え、頬には涙が混じっていた。

「怖くて、当たり前です」

 静は、泥で汚れた膝をつき、源田と同じ高さに目線を落とす。

「怖いという感情は、あなたの中の“生きたい”という願いの現れです。……それが、いちばん正しいことなんです」

 源田は、剣ではなく、言葉に泣いた。

 その夜のことを、彼はのちに語った。

 ――あの人は、敵を倒したから怖かったんじゃない。

 俺の“怖い”を、否定しなかったから、救われたんだ。



第四話「名もなきものたちの灯」


 夜が明ける少し前。

 薄闇に濡れた天幕の内で、誰かが火の番をしていた。

 薪は湿っていたが、それでも細く燃えていた。

 空がまだ鈍い色のまま眠っているころ、兵たちは眠っていた。

 いびきや寝言、布の擦れる音だけが、地に染み込むように漂っている。

 その静けさを、音もなく割って入ったのは――白い装束だった。

 沖田静が、霧に濡れた足元のまま、天幕の布をくぐる。

 顔に傷はなかった。血の匂いもなかった。

 だがその沈黙は、剣より鋭く、血より濃かった。

 矢野がそのあとに続いて入ってきたとき、火の番をしていた早坂が小さく言った。

「……帰ったのか」

「ただいま戻りました」

 静はそれだけを言って、腰を下ろした。

「源田は?」

「今村さんたちがすぐ連れて戻る。動脈は逸れてた。手当てすれば、なんとかなるだろう」

 矢野がそう言って、湿った布を取り出し、顔と手の泥を拭った。

「……斬ったのか」

 問いかけは、矢野の口からではなかった。

 水嶋だった。目覚めていたのか、あるいは眠ってなどいなかったのか――わからない顔をしていた。

 沖田は、ひと呼吸置いてから、答えた。

「必要なだけ」

 その答えに、水嶋は何も言わなかった。

 だが、それ以上を問おうとはしなかった。

     ※

 源田は、左足の罠の傷と、右肩の打撲で、数日は寝たきりとなった。

 だが意識ははっきりしていて、戻ってきた夜のうちに矢野と沖田の顔を見て泣き出した。

 うわ言のように「怖かった」「死ぬかと思った」と繰り返しながらも、はっきりと、こう言った。

「静さんが……来たとき、……俺、生きてていいんだって思いました」

 それは、たしかに“命の感触”のある声だった。

     ※

 霧の深い谷での出来事は、隊内に瞬く間に広がった。

 十四人の敵兵を、単身で制した。

 それも、返り血も浴びず、傷ひとつ負わず――。

 それは、事実として語られる前に、物語になった。

「白装束の鬼神、再び」

「目も見えぬ霧の中で、敵兵がひとり、またひとりと沈んでいった」

「最後に膝をついて泣いていた新兵の手を、静さんはそっと両手で包んだらしい」

 そのどれもが脚色を含んでいた。

 だが、隊員たちはそれを否定しなかった。

 信じたかったのだ――それが“事実以上の救い”であることを。

 戦場において、名を持たぬ兵士たちは、しばしば“語り”によって自分を保つ。

 その中心に、今は静がいた。

 静は、戸惑っていた。

 焚き火のまわりで自分の話がされるたび、笑い声のなかで名前が出るたび、

 それが自分のことだとは思えなかった。

「……まるで、他人みたいですね」

 そう言った夜に、矢野が少し笑って言った。

「ま、他人だよ。おまえが守ったのは、あいつらにとっての“静さん”なんだろうさ。……おまえが思ってるより、ずっと大きなもんになっちまったな」

 静は黙ったまま、火のなかを見つめた。

 燃えていたのは木だったが、揺れていたのは、己の内だった。

     ※

 その日の昼、源田が天幕の外に出た。

 足を引きずりながら、片腕に布を巻いていたが、顔には晴れやかな色が戻っていた。

 天幕の入口で立ち止まり、隊員たちに向かって頭を下げた。

「……ありがとうございました!」

 その声に、あちこちで食事をしていた者たちが顔を上げた。

 誰かが「よう戻ったな」と笑った。

 別の者が、「おまえ、また泣くなよ」と冗談めかした。

 源田は、そのひとつひとつに、頷きながら応えていた。

 沖田は、少し離れた場所からそれを見ていた。

 名を持たないはずだった兵士に、名がつきはじめる。

 “守られた者”としてではなく、“ここにいた者”として。

 それを、静は――どこか遠くの火を見つめるように、黙って見ていた。

     ※

 夕刻、薪を組み直していた水嶋が、ぽつりと漏らした。

「なあ、矢野」

「ん?」

「静ってさ、なんでああまでして“白く”あろうとするんだろうな」

 矢野はしばらく黙ってから、布を膝に置いた。

「たぶんな、“汚れること”そのものじゃなくて、“汚れていい”って思うことが、怖いんだろうな」

「……怖い?」

「汚れて、それを許せば、人はどんどん曖昧になる。

 その“曖昧”が、きっと、あいつにとっては地獄なんだ」

「でも戦場だぜ。曖昧どころか、真っ黒だろ」

「だからこそだよ」

 矢野は言った。

「ここで自分を信じられなかったら、どこで信じるっていうんだ」

     ※

 その夜、静は夢を見た。

 霧のなか、名もなき兵たちが倒れていた。

 自分の手は血に濡れていて、剣が黒く鈍く濡れていた。

 振り返ると、火が遠くで燃えていた。

 そこに、源田がいた。

 血まみれのまま、子供のように泣いていた。

「静さん、なんで……!」

「……どうして俺たちまで、斬ったんですか!」

 静は何も言えなかった。

 そのとき、火の中から誰かが囁いた。

 ――これは、守った末の結末だ。

 ――名前を持つということは、喪失の始まりだ。

 夢のなかで、静は膝をついて嘔吐した。

 血が、喉に逆流していた。

 喉の奥で、何かが泣いていた。

 目を覚ましたとき、天幕の外に雨の音がしていた。

 霧は、また濃くなっていた。



第五話「それでも名を呼ぶ者たちへ」


 霧の朝がまた訪れた。

 谷を吹き上がる風が草を撫で、濡れた葉を揺らしている。天幕の隙間から入り込んだ冷たい空気に、浅い眠りの者たちが目を開けはじめていた。

 だが、その日の朝の空気には、いつもと異なるものが混じっていた。

 ――何かが、変わり始めていた。

     ※

「おい、今村、聞いたか? 北の哨戒隊が戻らねえって」

「……またか」

 昼前。隊の中心に立てられた天幕の外で、数人の隊士たちが集まり、低い声で話していた。

 近隣の部隊が襲撃を受けた可能性があるという知らせが、早朝の伝令で届いていた。

 この数日、静かだった戦況にわずかな波紋が走り始めていた。

「どうする? 応援に出すか?」

「本隊の動きがまだ固まってない。焦って動くと逆に潰されるぞ」

「でも、もし生き残りがいるなら……」

 静が、黙って近くを通りかかった。

 隊士たちは一瞬、会話を止めたが、静は何も言わず、ただ頭を下げて通りすぎていった。

「……なあ、やっぱさ、静さんが動けばよくね?」

 その言葉は、冗談ではなかった。

     ※

 火を囲む夕刻、今村が矢野に言った。

「……ここ数日で、隊の空気が変わってきた。いい意味でも、悪い意味でも」

「悪い意味で、か」

「ああ。なんでも静に頼るようになってきてる。まるで――」

「信仰か、神頼みみたいだと?」

 矢野の口調に、皮肉はなかった。むしろ、冷静だった。

「……俺たちは、誰かを“名前”で呼びはじめたことで、はじめて人間に戻れた気がしたんだ」

 今村の声は、どこか迷っていた。

「でも、その“名前”が、いつの間にか“神話”になっていく。剣で人を守ったあいつが、今度は剣になってしまいそうで、俺は怖いんだ」

 矢野はその言葉に、すぐには答えなかった。

 しばらく火の粉を見つめてから、ぽつりと返した。

「……それでも、呼ぶしかないんだろうな。名前を、誰かの名を。そうでもしなきゃ、人は自分を保てないから」

     ※

 その夜、静は眠れなかった。

 天幕の外に出ると、草露の匂いが強く鼻を打った。

 冷たい風が頬を撫で、火の灯らない夜空には、月がぼんやりと浮かんでいた。

 ふと、遠くで声がした。

「静さん……」

 振り向くと、源田がいた。まだ歩き方はおぼつかないが、顔色は戻っていた。

「こんな夜に、どうしましたか」

「眠れなくて……でも、それだけじゃなくて、言いたかったんです」

「言いたかった?」

「俺、静さんが怖かったんです。……あの日も、助けてもらったあとも、正直、どこかでずっと、あのときの光景が焼きついてて……」

 静は黙って聞いていた。

 源田は続けた。

「でも、それ以上に、嬉しかったんです。守ってもらえたことが。名前を呼ばれたことが。――だから、俺、もう逃げたくないです」

「……それは、とても強い言葉です」

「違うんです、俺が強いんじゃなくて……静さんが、“怖くても立ってていい”って言ってくれたから、今の俺があるんです」

 源田の目には、涙がにじんでいた。

 けれどその顔は、あの日の泣き顔とは違っていた。

「ありがとうございます。……あの日、俺を斬らずにいてくれて」

 静は、そっと頷いた。

 それは、夜の霧のなかで交わされた、たった二人だけの契約のようだった。

     ※

 数日後。

 再び、補給路の確保任務が隊に課された。

「今度は、東の谷筋だ。地形が複雑で、出入りが限られてる。敵の残党が潜んでる可能性がある」

 今村が地図を示しながら説明する。

「静、矢野、おまえたちには先発して地形の確認と索敵を頼みたい」

 矢野がすぐ頷く。

 静も、何も言わずに腰を上げた。

 今村が、少しだけ躊躇うように言った。

「……本当に、すまない。またおまえたちばかりを前に出して」

 静は、少し笑った。

「命を張る順番を、決めるのは難しいものですね。けれど、それを考えてくださっている今村さんがいるなら、僕は、前に出ることに迷いはありません」

 今村は、しばらくその言葉を噛みしめていた。

     ※

 出発の前夜、隊員たちが、そっと集まっていた。

「……静さんに、何か渡せるものってないか」

「飯盒に餅、詰めとこう。あいつ、たまに一口で済ませるから」

「矢野にもだ。あいつ、一度腹壊してる」

「無口な早坂に描かせたお守り、持たせようぜ」

 くだらないようで、真剣だった。

 それぞれの想いが、小さな品に込められていた。

 翌朝、静と矢野が出発するとき、誰もがさりげなく手を上げて見送った。

 誰も「気をつけろ」とは言わなかった。

 それは――祈りの代わりに、名を呼ぶ者たちの、無言の誓いだった。



第六話「その谷には、言葉の届かぬ影がいた」


 霧の奥、踏み慣れた道はなかった。

 東の谷は地図に記されているよりも険しく、入り組んだ岩の裂け目や、倒木に塞がれた獣道ばかりが続いていた。

 静と矢野のふたりは、言葉少なに斜面を下っていく。

 草を踏む音と、鞘の揺れる微かな金属音だけが、沈黙を縫い合わせていた。

「……人の通った痕跡はないな」

 矢野が言った。足元の泥を指で撫でる。

「昨夜の雨で流されたか、もとより誰も歩いていないか……」

 静の声は淡々としていた。

「おまえ、こういう任務、嫌いじゃないだろ」

「ええ。敵と出会わなければ、自然の中を歩くのは、悪くありません」

「斬らずに済むからか?」

「……斬らずに済む道があるなら、それが最善です」

 それは信条ではなかった。

 祈りでもなかった。

 ただ静かに、彼の中にある“確かさ”だった。

     ※

 谷の奥は、さらに深く、日が差さなかった。

 水が岩に滲み、木々の根が絡まり、苔が厚く広がる湿地へと地形は変わっていく。

 小川を渡る丸太の橋が腐りかけていた。

「……誰かが設置したものだな」

 矢野が橋脚を蹴って確かめる。

「だいぶ古い。軍のものではありません」

「民家の跡か?」

「廃村があると聞きました。昔、疫病が流行ったとか……」

 ふたりは互いに言葉を途切れさせた。

 谷の空気が、変わっていた。

 風が止まり、音がなくなった。

「……何かがいる」

 静がそう言ったとき、矢野も同時に剣に手をかけていた。

 それは“気配”というより、“存在の痕”だった。

 この場を、誰かが通った。

 それだけで、ふたりは即座に察知していた。

     ※

 やがて、木立を抜けた先に、朽ちた小屋が見えた。

 瓦は落ち、壁は裂け、柱には斧の跡のような傷があった。

 かつて誰かが暮らしていた場所。

 いまはもう、名も記録も失われた、ただの“痕”。

 ふたりは小屋に近づく前に、辺りをひと巡りして確認をとった。

「……火は、使われた形跡なし。だが、足跡がある」

 矢野が地面を指さす。

「昨日のものですね。三人……いや、四人。軽装、靴のすり減り方からして、流浪の民か……兵の可能性もあります」

「どうする?」

「中を見て、痕跡だけ記録して戻りましょう。深入りは避けた方が良い」

 静がそう言いかけたそのとき、小屋の奥から乾いた枝が折れる音がした。

 矢野が剣を抜く。

 静は一歩、前へ出た。

 布の揺れと同時に、誰かが飛び出してきた。

 それは子どもだった。

 十にも満たない顔――髪は泥にまみれ、裸足のまま、こちらへ駆け出してきた。

「待て!」

 矢野が叫んだ。

 次の瞬間、小屋の影から三つの影が躍り出る。

 成人の男。手には粗末な鉈と、小型の狩猟用の弓。

 矢野が身を翻し、矢を弾いた。

 静は刃を抜くことなく、一歩で前に出る。

「待ってください。子どもがいます!」

 その声に、男たちは一瞬動きを止めた。

 小屋の脇で、子どもが転び、呻き声をあげていた。

「……関わるな。ここは、俺たちの土地だ」

 一人の男が低い声で言った。

「軍の者か?」

「そうです」

「なら帰れ。俺たちにとって、軍も敵も同じだ」

 敵意ではなく、疲労の色だった。

 乾いた声。血の匂いはない。

「ここで何を?」

「逃げてきただけだ。戦も、疫病も、飢えも、もうたくさんだ。……ここなら誰も来ないと思った。それだけだ」

 静は、剣を鞘に戻した。

「……子どもに、傷は?」

「ない。あいつは馬鹿で、逃げ出しただけだ。……俺たちが捕まるのが怖かったんだろう」

 男の目は、正面を見ていなかった。

 矢野が剣を下ろす。

「静、どうする」

「彼らが敵でないのなら、争う理由はありません。谷の奥に流民がいたとだけ記録して、立ち去りましょう」

「そういうわけには――」

 矢野が言いかけたとき、子どもが小さく叫んだ。

「……来る!」

 次の瞬間、谷の奥から、鈍い太鼓のような音が響いた。

 足音。

 兵のものだった。

 矢野と静は、同時に身構えた。

「追っ手か……!」

「……敵軍ではありません。味方、です。……後方部隊が、谷を掃討する計画だったと聞きました」

「おい、じゃあこいつらは……!」

 静は素早く男たちの前に立った。

「隠れてください。今、誰も死なせたくありません」

「おまえ、なにを――!」

「行ってください!」

 静の声に、男たちは一瞬の迷いののち、子どもを抱えて木立の奥へ消えた。

 霧のなかに、味方の旗が見えた。

 部隊長格の声が、谷に響く。

「確認せよ! この谷の奥に敵影ありとの報!」

「ここには敵はおりません!」

 静が、旗の前に立った。

「奥にいたのは、武装していない流民です。交戦の意思もない。今はすでに退去しました」

「本当か?」

「この目で確認しました」

 矢野が隣に立つ。

「俺も同じ報告をします。彼らは、ただ逃げてきただけだ」

 若い副官が不審げに睨んだが、上官は手を挙げて制した。

「……静、というのは、そなたか」

「はい」

「名は聞いている。今後、谷の掃討の範囲を再検討しよう」

 そう言って、部隊は谷を下っていった。

 霧が静かに戻ってくる。

     ※

 帰路、矢野がぽつりと呟いた。

「おまえ、あれが“正しい”って、言い切れるか」

「わかりません」

「俺もだ」

 ふたりは、しばらく何も言わずに歩いた。

 ただ、霧のなかで、見えなかったものの重さだけが、背にのしかかっていた。



第七話「語られなかったものを背負って」


 谷を出たのは、日が高くなりはじめた頃だった。

 霧はようやく薄れ、陽が地面に差しはじめていたが、ふたりの足取りは重かった。

 目立った戦闘はなかった。剣も抜かなかった。

 けれど、それはただの静かな任務ではなかった。

 斬らなかったという事実が、斬ること以上に、心に影を落としていた。

 矢野は何も言わなかった。

 静もまた、黙って歩いていた。

 ふたりの間にあったのは、名も形もない、“判断の痕”だった。

     ※

 天幕へ戻ると、今村がすぐに駆け寄ってきた。

「無事か! 報告だけ聞いて、何があったのか……」

「報告書にまとめます。口頭での説明よりも、正確に伝えられますので」

 静がそう言った。

 その声は落ち着いていたが、どこか湿り気を帯びていた。

 霧の残り香のように、言葉の端に迷いがあった。

 今村は頷いたものの、納得しきった表情ではなかった。

「わかった。……疲れただろ。今日は休め」

 静は一礼し、天幕へ戻っていった。 

 その背を見送っていた矢野が、今村の隣に立って言った。

「何も起こらなかったように見えるときほど、何かが壊れてるときがある」

「壊れたのか、あいつは」

「いや。……あいつは、守った。でも、守ることが全部正解じゃないってことも、知ってる」

     ※

 その夜、静は手帳を開いていた。

 谷の記録を書きつける。足跡の数、話した言葉、出会った目の色。

 どれも事実だが、どこか“言葉にできないもの”が、頁の余白に溜まっていった。

 筆が止まる。

 紙の上に、手がかすかに震えた。

 言葉にできないものは、次第に輪郭を持たなくなり、

 やがて“沈黙”という名の中に消えていく。

 静は筆を置いた。

 そして、ふと、ひとつ息をついた。

 それは、剣の手入れをするときの呼吸に似ていた。

     ※

 翌朝、報告書を受け取った副官が、眉をひそめて言った。

「敵影なし、流民と接触。交戦回避、指揮判断に基づく。……それだけか?」

 静は頷いた。

「他には?」

「ありません」

「敵とみなさなかった根拠は?」

「武装の状態と言動、子どもの存在、明確な敵意の不在。すべて現場で確認しました」

 副官はしばらく黙ってから、書類に捺印した。

「……了解した。上層部にそのまま回す。だが、今後、類似の判断は慎重を期すように」

「承知しました」

 そのやり取りを、矢野が少し離れた場所で見ていた。

 静の立ち姿は、揺るがなかった。

 けれどその背中は――静かに、疲れていた。

     ※

 その日の午後、源田が近くで鍋をかき回しながら、ぽつりと言った。

「なあ、矢野。静さんって……いつ寝てるんだ」

「……たぶん、寝てても、寝てない」

「え?」

「夢のなかでも、誰かを守ってるんじゃないか、あいつは」

 源田は少し黙ってから、味噌を入れすぎたことに気づいて舌を出した。

「それって、疲れるだろうな……」

「疲れるよ。だからたまに、何も言わずに焚き火の前にいたら、そっとしといてやれ」

「……わかった」

     ※

 夜、火のそばに座っていた静の前に、水嶋が酒の入った器を置いた。

「飲めるか?」

「少しなら」

 ふたりは並んで火を見た。

 言葉はなかった。

 けれど、沈黙の中には、たしかな“許し”があった。

「おまえ、さ」

 水嶋がぽつりと言った。

「この先、何人斬ることになると思う?」

「わかりません」

「そっか。……俺も、わからない。怖いよな」

「ええ、怖いです」

「でも、おまえが“怖い”って言ってくれると、なんか安心する」

 静は、微かに笑った。

 その笑みは、夜の火よりも、あたたかかった。

     ※

 その夜、風向きが変わった。

 遠くから、火薬と煙の匂いが届いた。

 敵軍の大規模な移動が始まったという情報が、夜明けとともに伝えられた。

 戦が、動き出す。

 静は、自ら剣を研いだ。

 その刃に、自分の顔が映る。

 映った顔は、たしかに“人”のものだった。



第八話「誰が、火の中を駆け抜けるか」


 その夜、風が変わった。

 南から吹いていた風が、夜明けを待たず東へ回り込む。

 焼けた土の匂い。遠くの湿地に火が放たれたのだと、誰ともなく囁かれた。

 天幕の中で目を覚ました者たちは、無言のまま衣服を整え、武器の手入れを始めていた。

 何も命じられていなかったが、皆、わかっていた。

 戦が、すぐそこまで来ていた。

     *

「先遣隊、壊滅したらしい」

 水嶋が呟いた。

 言葉は火の音に紛れて、風とともに天幕の骨組みに染み込んでいくようだった。

「……ほんとか?」

 源田の問いに、今村が頷く。

 表情に嘘はなかった。

「敵の規模が想定より大きい。斥候の報告じゃ、百五十から二百。散開して谷を潰すつもりだ」

「じゃあ、俺らは……」

「迎撃だ。命令はまだだが、おそらく今日のうちに出る」

 沈黙が落ちた。

 兵たちは、口を閉ざす。

 誰もが「来る」と知っていたものが、ついに「来るかもしれない」現実へ変わったとき――

 心は、言葉を失う。

     *

 その日、静は剣の手入れをしていた。

 朝から三度目の手入れだった。

 布で丁寧に油を拭き取り、微かな錆びの気配を感じ取るたび、目が鋭くなる。

「静」

 矢野の声が、火の外から届く。

「今村からだ。集合だと」

 静は頷き、鞘を腰に戻した。

「……戦ですか」

「わからん。でも、行けばわかる」

     *

 天幕の中央、地面に広げられた地図の上に、数本の矢印が置かれていた。

「敵はすでに東の尾根に達したとの報告がある。進軍速度は早く、我々の本陣を巻き込む形になる可能性が高い」

 今村が告げる声は落ち着いていたが、わずかに掠れていた。

「今夜、我々の部隊に先行しての迎撃命令が下る可能性がある」

「先行? 俺たちが?」

 水嶋が思わず口を挟む。

「斥候も、迎撃も――今夜、この谷を封じなければ、本隊に火が及ぶ。……つまり、“時間を稼げ”という命令だ」

 静が一歩前に出る。

「隊は、分けますか」

「分けるべきかと思うが……静、ひとつだけ訊く。もし、敵が数で押してきたら、おまえはどうする」

 今村の目が、静を捉える。

 静は、その目から視線を外さなかった。

「僕が斬るだけです」

 しん、と空気が止まる。

 その言葉は、誰もが心の奥にしまっていた“願望”だった。

 ――静が、斬ってくれる。

 ――あの白装束が、敵を止めてくれる。

 だが、それは同時に“依存”でもあった。

 静の言葉を肯定すればするほど、誰もが彼に背を預けすぎていく。

 その重さを、静は承知していた。

 けれど、黙って引き受けた。

「僕が行きます。……誰も死なせないために」

     ※

 出発は、夜半だった。

 月は細く、雲に隠れていた。

 矢野と静、そして水嶋、早坂、佐々木、源田。

 半数を選抜し、谷の防衛線へ向かう。

 誰も声を上げなかった。

 ただ装備を確かめ、足音を潜める。

 出発の合図がかかると、兵たちは一斉に頭を下げて見送った。

「静――」

 声をかけようとして、今村は言葉を飲み込んだ。

 その背中が、あまりに“遠く”に見えたからだ。

     ※

 谷の防衛線に到着したのは、夜がもっとも深くなる頃だった。

 焚き火を使えず、息が白く、濡れた苔の匂いが鼻を刺す。

 木立の奥で、敵の足音がした。

 矢野が息を潜めて呟く。

「……来る」

 静は剣を抜かず、ただ鞘に手を添える。

 その姿が、仲間の鼓動を整える。

 敵の姿が見えた。

 ――十、二十、三十。いや、それ以上。

 足音の密度が、空気を押し返してくる。

「数が、違う」

 源田の声が震えた。

「この数、さすがに……!」

「大丈夫だ」

 静が言った。

 その声には、恐れも、怒りもなかった。

「僕が斬ります。……皆さんは、死なないでください」

 言い終えると、静はひとり、前へ歩き出した。

 白装束が、木立の闇に揺れる。

「静! 待て、おまえひとりで行くな!」

 矢野が叫ぶ。

 だが静は振り返らない。

 その背を、風が押していた。

 まるで、“誰かの願い”が風になったかのように。

 敵が気づいた。

 ひとりの白い兵が、ただひとりでこちらへ歩いてくる。

 その異様さに、足を止めた。

「なんだ……あれは……」

 叫びとともに、矢が放たれる。

 静は走らない。

 ただ、一歩、また一歩、足を進める。

 矢が風を裂き、白布を掠める。

 次の瞬間、剣が抜かれた。

 “ひと振り”。

 風が切り裂かれたのは、剣の音ではない。

 それは、“意思”の音だった。

 敵兵がひとり、倒れる。

 次の刹那、静が動いた。

 まるで霧そのものが斬撃となって形を得たように、白い閃光が斬り込んでいく。

「止めろ! あいつを――!」

 叫びは間に合わなかった。

 静の剣は、誰にも見えなかった。

 ただ、倒れた音だけが、時間を刻んでいった。

 十、二十、三十――

 静は、斬り続けていた。

 誰の名も呼ばず。

 誰の声も聞かず。

 ただ、“この場所を越えさせない”という意志だけを持って。

 彼がいた場所には、血がなかった。

 血が落ちる前に、剣がすでに次の命を止めていたからだ。

 背後で、矢野が呟いた。

「静……おまえは……」

 その言葉は、風にさらわれた。



第九話「それは、“人間”の姿をしていたか」


 夜の谷は、死んでいた。

 風は止まり、鳥も鳴かず、ただ濡れた土の匂いが鼻腔に残った。

 人の血が、草を濡らし、樹の根を染め、石のくぼみに溜まっていた。

 静寂とは、音がないことではない――すべてが終わったあとに訪れる、“戻れない”沈黙のことを、そう呼ぶのだと誰かが言っていた。

 その中に、沖田静は立っていた。

 白装束は赤黒く染まり、右手には鞘に戻されていない剣。

 呼吸は静かだった。

 まるで、すべてを終えた“後”の者のように、静はそこにいた。

     ※

「……動けるか、源田」

 矢野の声に、源田がうなずいた。

「ああ、だ、大丈夫だ……っ」

 足元の血の海を避けるようにして、仲間たちは静のいる方へと向かっていた。

 だが、誰もすぐには声をかけなかった。

 静の背に、近づけなかった。

 あれほど多くの敵兵が倒れているのに――沖田静は、息一つ乱していなかった。

 剣は磨き抜かれた鏡のように、まだ濡れていた。

「静……おまえ、大丈夫か」

 ようやく矢野が言葉を絞り出した。

 静はゆっくりと振り返った。

 その瞳は、透明だった。

 深い湖の底を覗くような――もしくは、まったく何も映さない鏡のような。

「……はい。無事です」

 静の声は、あまりにも静かだった。

 それが恐ろしかった。

     ※

 兵たちは、後方へと下がる準備を始めた。

 敵軍の進軍を止めたという事実が、まず何よりも価値を持った。

 味方の主力が谷の反対側へと移動するまでの時間を稼ぐために――静は戦った。

 その結果として、彼の周囲には、屍が累々と積み重なっていた。

「……あれが、“白装束の鬼神”ってやつか」

 誰かがぽつりと呟いた。

 源田がふいに言った。

「違います。……あの人は、“鬼”じゃない」

「……じゃあ、なんだよ。あんな斬り方、人間じゃねえ」

 源田は唇を噛みしめながら答えた。

「“人間”ですよ。……俺、見ました。あの人が、敵を斬ったあと……一瞬、手を震わせてたの」

 誰も、言葉を返さなかった。

 震え。

 それは、恐れか。悲しみか。あるいは、罪か。

 それでも、沖田静は前を向いていた。

 誰よりも、人を護るために。

     ※

 後方への退却が始まった。

 戦闘不能者を運び、資材を回収し、道を塞ぐ。

 矢野は、その指揮をとる立場にいた。

「静、少し休め。おまえの手が必要なのは、これからだ」

「……はい」

 静は返事をし、岩の影で一人、腰を下ろした。

 剣はまだ鞘に納められていなかった。

 手が、乾いていた。

 何十人もの命を奪ったのに、血はもう乾いていた。

 指の関節が、かすかに震えていることに、静自身が気づいていなかった。

「……見ていた、んですか」

 声に気づき、顔を上げると、早坂が立っていた。

 無口な弓兵。

 矢はもう射尽くしており、背には空の矢筒だけが残っていた。

「見ていた。……でも、見えなかった」

「……?」

「おまえの剣は、見えなかった。……ただ、風が吹いて、音がして、人が倒れていた」

 静は、それを肯定も否定もしなかった。

 早坂は小さくうなずいて、こう言った。

「でも、ひとつだけ、見えたものがある」

「……なんでしょう」

「“悲しさ”だった」

 静は、何も返せなかった。

     ※

 夜が明けた。

 朝靄の中、谷を抜けて後方へ戻った部隊は、再び天幕を組み直していた。

 新たな戦地へ向かう前の、つかのまの停滞だった。

 その中で、兵たちは語りはじめていた。

「静さんがいなかったら、俺たち全滅してた」

「いや……俺、見ちまったよ。あの人の背中。……あれ、誰にも背負えないよ」

「でもさ、俺らが今ここにいるのは、あの人が斬ったからだ」

「じゃあ、おまえ、代わりに斬れるか?」

「……無理だよ」

 言葉が、交差する。

 誰もが、答えを持たないまま。

     ※

 静は、あの夜のことを記録しなかった。

 報告書は矢野が書いた。

「斬った」とは記さなかった。

 ただ、「敵軍を撃退」とだけ書かれていた。

 それが、あの夜の戦いのすべてだった。

 だが、兵たちの中には、刻まれていた。

 “白装束の剣士が、誰も死なせずに、敵を止めた夜”として。

     *

 その夜、火の前で、源田がぽつりと言った。

「静さんって、どうして斬れるんだろうな。……怖くないんだろうか」

 矢野が答えた。

「怖いさ。あいつは、怖くなくなったら、自分を殺せって言ったことがある」

「え……?」

「“僕が人の心を忘れたら、迷わず僕を斬ってください”ってな」

 静かな焚き火の音が、まるで返事のようにぱちりと弾けた。

 源田は、それ以上何も言えなかった。

     *

 誰かが、言った。

「あれは、本当に“人間”だったのか」

 その問いに、誰かが答えた。

「……違うよ。あれは、“人間であり続けようとしてる者”なんだよ」



第十話「この手が覚えているのは、誰の鼓動だったか「


 夜の底で、静は目を覚ました。

 天幕の内はしんとしていた。

 息づかいひとつ、衣擦れひとつ、眠る兵たちの命が音になって微かに揺れている。

 静は、立っていた。

 いつから立っていたのかわからない。

 寝ていたはずなのに、気づいたときには剣の柄を握っていた。

 濡れていた。

 布団ではない。剣の柄が。

 それが冷や汗か、幻の血か、あるいは――。

 静は、ゆっくりと剣を鞘に戻した。

 その音がやけに響いた気がして、周囲の誰かを起こしたのではないかと一瞬だけ怯えた。

 誰も動かない。

 誰も気づかない。

 だからこそ、余計に、怖かった。

     *

「静、起きてるか?」

 明け方、火の番を交代に来た矢野が声をかけた。

「はい」

 静は、火の傍らに膝を抱えて座っていた。

「眠れたか?」

「……わかりません。夢のなかに夢があったような気がして……起きてからも、どこが現実かわからないままです」

 矢野は、それを冗談と受け取らなかった。

 火の上で湯が沸く音がする。

 湿った薪の匂いが鼻を刺す。

「……なあ」

 矢野は、言葉を探していた。

 迷って、選んで、それでも結局、不器用な一言を落とした。

「つらいか?」

 静は、すぐには答えなかった。

 火が、ぱちりと爆ぜる。

「はい。……でも、それを“つらい”と言ってしまうと、斬った人たちが、ただの“痛みの数”になってしまう気がするんです」

「……じゃあ、どうしたい?」

「わかりません」

 静の声は、あまりにも穏やかだった。

 それが、矢野にはこわかった。

     ※

 日が昇った。

 軍は移動を始めた。

 敵軍が撤退した谷を超え、次の前線地へと向かうためだった。

 移動中、誰かが言った。

「静さん、顔色、悪くないか?」

「最近、食ってねえよな」

「水嶋さんが無理やり握った握り飯も、小さいのひとつしか口にしてなかったって……」

 誰も明言はしなかったが、皆が薄々、感じていた。

 静の様子が、どこかおかしい。

 たとえば、誰かが笑って冗談を言っても、静は反応しなかった。

 まるで、その言葉の意味が、遠く彼方の言語になってしまったかのように。

 誰かが怪我をしても、すぐに駆け寄ることができなかった。

 自分の足が、誰かを助けるために動くという、“当たり前”を忘れているように。

 ――静さん、どうしちゃったんだろうな。

 そう言葉にしてしまえば崩れてしまいそうで、誰も口に出せなかった。

     ※

 その夜、静は再び夢を見た。

 霧のなか、自分が剣を振っていた。

 倒れる人間の顔が、誰ひとり見えなかった。

 声もない。血もない。ただ、音だけがある。

 斬る音。骨の砕ける音。布が裂ける音。

 “生きるため”に斬っていたはずなのに、その剣の先には誰もいなかった。

 斬っても斬っても終わらない。

 地面には、名前のない屍ばかりが横たわっていた。

「静さん」

 誰かが呼んだ。

 振り返ると、そこに源田がいた。

 子どものような目をしていた。

「どうして、俺まで斬ったんですか」

 静は剣を見た。

 血がついていないはずの刃に、確かに、源田の声が染みついていた。

「あなたが……泣いていたからです」

 そう答えた自分の声が、誰のものか、わからなかった。

     ※

 翌朝、静は天幕の外で嘔吐した。

 矢野が気づいたときには、すでに膝をつき、背を丸めていた。

「静……!」

 駆け寄って背をさする。

 静の身体は、氷のように冷たかった。

「……ごめんなさい。……起こすつもりじゃ……」

「黙ってろ。……息、浅い。汗、冷たいな……」

 矢野が水を渡し、静はそれを受け取ったが、口元に運ぶ前に手が震え、水がこぼれた。

「病気か?」

「……違います。たぶん、心のほう、です」

 その答えを、矢野は笑えなかった。

「わかってる。……だって、おまえさ」

 矢野は、静の右手をそっと握った。

「ずっとこの手で、誰かの命を止めてきたんだろ。――おかしくならないわけ、ないんだよ」

 静は、反論しなかった。

 涙も流さなかった。

 ただ、黙って、自分の手を見ていた。

 その手が、まだ“何か”を覚えていることに、怯えるように。

     ※

 その日、静は戦列を外れた。

 命令ではなかった。

 今村が、申し出たのだ。

「すまん。しばらく静を、前には出したくない」

「俺が見る」

 矢野が即答した。

 誰も反対しなかった。

     ※

 その夜、隊は初めて、沖田静なしで陣を敷いた。

 不安はあった。

 けれど、誰もその不安を静に向けることはなかった。

 火のそばで、源田がぽつりと呟いた。

「静さんって、やっぱり……」

「人間だよ」

 水嶋が言った。

「化け物みたいなことをしてても、中身はちゃんと人間だ。……だから、おまえも、おれも、今、あいつを守る番なんだ」

     ※

 火の奥。

 静は、夢を見ていた。

 まだ、斬っていた。

 でもそのとき、誰かが手を握ってくれていた。

 そのぬくもりを、たしかに手のひらが、覚えていた。



第十一話「僕が人でなくなったなら、君は何をしてくれるか」


 夜の風が止んだ。

 いつものように木の葉を揺らさず、焚き火の炎をなぶらず、ただ地を這うようにして沈んでいた。

 その風の中で、矢野は眠らずに座っていた。

 静の天幕の近く。

 明かりも火も灯さず、じっと耳を澄ましている。

 寝返りの音、布のこすれる音、呻き。

 そして、短く、途切れるような吐息。

 静の夢が、また“戦場”へ引きずっている。

 何日目だろう、と矢野は思う。

 “あの夜”以来、沖田静は、どこかで“誰か”と交替してしまったようだった。

 笑わない。

 言葉の間が微妙に遅れる。

 誰かの名前を呼ぶとき、ほんの一瞬、迷うような表情を浮かべる。

 “人としての輪郭”が、音もなく削れていく。

     ※

 天幕の奥で、小さく呻く声がした。

 矢野は即座に立ち上がり、布をそっとくぐった。

 静は、身体を起こしていた。

 額に汗。息は浅く、喉の奥で吐息を繰り返していた。

「……夢か?」

 矢野の問いに、静は首を横に振った。

「……夢でした。でも……目が覚めても、まだ夢の中にいるような気がするんです」

「なにが見えた」

「……敵を斬りました。何度も。何人も。……でも、顔が、皆、源田さんだった」

 矢野は一瞬、言葉を失った。

 静の手が、掛け布の上で微かに震えていた。

 その指は、まだ“斬る感触”を、思い出していた。

     *

「俺が昔、初めて人を殺したときの話、するか」

 静がわずかに顔を上げる。

「……聞きたいです」

「三人目だった。最初の二人は、あまり記憶にない。でも三人目は……俺の顔、見てた。俺が槍を突き立てる瞬間まで、ずっとこっちを見てた」

 矢野の声は穏やかだった。

 語るというより、擦り切れた記憶を撫でるような声音だった。

「斃れたあとも、その目がこっちを見てる気がして、……しばらく飯が喉を通らなかった。誰かが喋ってても、その声が遠くなる。血の匂いだけが、いつまでも消えない」

 静は頷いた。

「……僕も、そうでした。初めて斬った相手の顔が、いまだに夢に出てきます」

「どう乗り越えた?」

「……乗り越えてません。忘れたふりをしてただけです。……でも、それが“積み重なった”結果が、今の僕です」

 矢野はそっと、静の手を取った。

「おまえの手は冷たいけど、まだ、生きてる。なあ静――“俺が人でなくなったら、斬れ”って、前に言っただろ」

「はい」

「……悪いが、無理だ。俺には、おまえを斬るなんてできねえ」

 静が目を見開いた。

 矢野は続けた。

「代わりに、おまえが“人じゃなくなりそう”になったら――引き戻す。何度でも。おまえが迷っても、震えても、全部支える。……だから、おまえは、生きろ」

 その言葉を、静はすぐに受け取れなかった。

 喉が詰まっていた。

 声が出なかった。

 それでも――

「矢野さん」

 ようやく掠れた声で名を呼び、静は、ぽつりと言った。

「それでも、もし……僕が、誰も助けられなくなって、誰の名も呼べなくなって、自分の存在が、ただの“剣”になったら――」

「なら、そのときは、俺が名を呼ぶ」

 矢野の言葉は、夜を照らす火だった。

「何度でも呼ぶ。静、おまえの名前を。“おまえは人間だ”って、言い続ける」

 静は、涙を流さなかった。

 けれど、肩の力がすっと抜けた。

 ようやく、眠れる――そんな顔をしていた。

     ※

 朝。

 いつもより静の目覚めはゆっくりだった。

 だが、その顔には微かに血の気が戻っていた。

 源田が声をかけた。

「……静さん、昨日より、ちょっとだけ顔が“人間”っぽいです」

 静は小さく笑った。

「それは、褒めていただいているんでしょうか」

「いいんです。褒め言葉です。……ずっと、怖かったから。静さんが、誰にも届かない場所に行ってしまいそうで」

「……大丈夫です。今、引き戻してもらったところです」

「……誰に?」

 静は、少しだけ目を伏せた。

「剣じゃなくて、“名前”で、呼んでくれる人に」

     *

 その日、軍の進軍が再開された。

 また新しい戦場が待っていた。

 敵の数も、規模も、見えないままだった。

 それでも、兵たちの足取りには、“名を呼び合う者たち”の覚悟が宿っていた。

 白装束はまだ乾いていなかった。

 けれど、そこに宿る者の目は、たしかに、前を向いていた。

 ――斬ることは、終わらない。

 ――でも、“斬るだけの存在”には、ならない。

 沖田静は、そう誓っていた。

 名を呼ばれた夜のぬくもりを、右手に残したまま。



第十二話「裂け目が呼ぶ声を、誰が拾うか」


 朝靄はまだ濃かった。

 空の色は青を帯びていたが、森は灰色のまま静かに立っていた。

 木柱には露が垂れ、苔むした石には雫が落ちていた。

 この朝の空気には、いつにも増して緊張の張力があった。

 兵たちは口に出さずとも感じていた。

 “裂け目”が近づいていることを。

     *

 隊の進軍は、いつもより遅れた。

 だれかが地図を確認し、だれかが地形を探り、だれかが心の準備を整えながら歩いていた。

 静は歩幅を意識して調整していた。

 右足の感覚がまだ完全ではない。

 剣を握る手も震えが残っていた。

 それでも――歩いていた。

 誰かが冗談を言っても笑った。

 誰かのふざけた歌声が後ろから聞こえても、顔を横にしないで聞いていた。

 歩くことは、“前進”ではあるが、同時に“確認”でもあった。

 ――まだ、僕はここにいる。

     *

 昼下がり。

 隊は、新たな前哨地となる小高い丘の上に差し掛かっていた。

 地図に記されていない小径を通り抜けると、眼下に廃屋と倒れた柵が見えた。

 遠い昔の平穏を遺したような、静かな痕跡。

 矢野が、指をさした。

「行ってみるか?」

「はい」

 ばらけず、二人は並んで丘を下りた。

     *

 廃屋の中は、風通しが良すぎるほど明るかった。

 屋根は崩れ、壁も抜け、ただ床板だけが残っていた。

 だが、その中央に石の祠が建っていた。

 苔に覆われ、埃をかぶり、かすかに煤の匂いがする。

 中には小さな仏像が収められていた――傷ついているように見えた。

「誰かが、ここで拝んでいたのか……」

 静の声は震えた。

 祠の中を覗いた目が、揺れていた。

 矢野が、慎重に近づき、地面を探った。

「ここにも、誰かが来た痕跡がある」

 足跡、小さな土の盛り上がり、朽ちた陶器の破片。

 誰のものかはわからないが、“人”の生活が、ここにあった。

 ふたりは祠の前に跪いた。

 静は手を合わせ、だが指先に震えが伝わる。

「誰かの想いを、傷つけたのかもしれない」

 静はそうつぶやき、自分の剣を見た。

 そこに宿る冷たさが、祠の温度とは異なっているように感じた。

     ※

 丘を再び登り、隊の本隊に戻ると、進軍の気配が変わっていた。

 隊は刃を研ぎ、矢を番え、布を結い直し、呼吸を整えていた。

 今村が声をかける。

「ここから先は、谷の先端部。地形は開けるが、背後に崖あり。敵の伏兵が入りやすい場所だ」

「了解」静が答えた。

 その声は、落ち着いていた。

「今夜、ここで迎撃があるかもしれない」

 今村の言葉に、無言のうなずきが返る。

 それは覚悟でもあり、緊張でもあった。

     ※

 空は夕焼けに染まっていた。

 斜光が森を通り抜け、木々の影が長く伸びる。

 その時間、森のざわめきが薄れていく。

 動物の声も、木々の匂いも、すべてが“予兆”を孕んでいた。

 誰かが、囁いた。

「敵が、動き出した」

 その声は遠かったが、すでに届いていた。

 足音が森に響いた。

 向こう側から、静かに、しかし確実に。

「…来る」

 矢野が呟いた。

     ※

 迎撃の布陣。

 弓兵が背後の樹々に張り付き、槍兵が前に散開する。

 静は中心。それは盾でも、槍でもなく、剣を持つ者として。

 水嶋がこっそり囁いた。

「…静、今日は頼んだぞ」

 静は軽く頭を垂れ、ただ剣に触れた。

 その刃は、昼の静けさと、夕の黄昏を映し出すように揺れていた。

     *

 敵が出た。

 足音。影。瞬きの後に見える、兵影。

 数は、ざっと三十。

 谷の狭間に、火薬の匂い。遠くでひび割れるような弦の音。

「交戦!」

 号令とともに、空気が振動した。

 静は、剣を抜いた。

 その刃が炎を呼んだ。

 仲間の鼓舞となり、敵の心を揺らす。

 最初の斬撃。

 次の気配。

 ――敵が割れる。その破片が地に落ちる。

 斬り続ける。

 剣を抜き、次々と命を止める。

 そのたびに、静の中の震えが小さく縮む。

 戦術ではない。

 ただ、“必要”だった。

 そのとき、静の視界が揺れた。

 敵影の群れが、ひとりの女兵に変わった。

 ――矢を抱えた、少女のような顔。

 心が一瞬止まった。

 剣を握る手が、左へ跳んだ。ただちにそれが幻覚だったと気づいたが、一瞬遅れた。

 その刹那、敵の槍が襲いかかった。

 蹴り出されたように、静は飛んだ。

 剣の刃を横に払う。

 しかし、浅く傷が入る。肩に初めての衝撃が走り、布に赤い染みが広がる。

 痛みが走った。

 だが、剣は揺るがなかった。

     *

 最後の一撃。

 仲間の怒声が周囲から上がる。

 剣が夜の影を裂き、敵を切り伏せた。

 斬り合いは、終わった。

 静は、膝をついた。

 肩を押さえる右手が重い。

 剣は、まだ鞘から抜けたままだった。

 夜気が、傷に染みた。

「静…しっかりしろ」

 矢野の声が近づく。

 源田、佐々木、水嶋、早坂――仲間たちが集まってきた。

 その目に映るのは、“斬る者”ではなく、“戻ってきた者”だった。

     *

 矢野は、静の剣を受け取り、そっと鞘に戻した。

「…剣、返させてくれ」

 静は、それを拒まなかった。

 剣は音なく納まった。

 仲間たちは、天幕へと静を運ぶ。

 支えられ、歩く。

 誰も言葉をかけなかった。

 ただ、その存在を支えるように、夜の闇が寄り添っていた。

 ――彼の名を呼ぶために、彼はまた歩いていた。

     ※

 夜明けには、風が戻っていた。

 空は白くなり、鳥が鳴き、露の音が落ちた。

 そんな静かな朝に、水嶋が口を開いた。

「斬った数を、誰も訊かなかったな」

 誰かが笑ったような気がしたが、皆は言葉を飲んだ。

 代わりに、矢野が言った。

「呼ぶ数でもなく、斬った数でもない。大事なのは、誰のそばにいたかだ」

 その言葉は、小さな灯のように、夜を照らしていた。



第十三話「その名を呼ぶために、夜を越える」


 夜が終わった――と、人は簡単に言う。

 だが、戦の夜明けには、何かを“越えた者”と、“越えられなかった者”の区別がある。

 あの戦いのあと、静の剣が鞘に戻されてから、ほんの数時間。

 天幕の外では、霧が晴れきらぬ朝が訪れていた。

 だが、その霧のなかで、彼はまだ、呼吸を整えていた。

     *

「起きてるのか?」

 低く、静かな声だった。

 矢野だった。

 布の向こうで、静はゆるく瞬きをし、まだ熱の残る額を覆った。

 肩の傷口は、鈍く痛んでいた。肉が裂けていると、応急手当をしてくれた早坂は言っていた。

「眠っていたと思ってた」

 矢野の声に、静は、かすかに笑みをにじませた。

「夢を見ていたようです」

「どんな?」

「誰かの声がしていて……僕の名を呼んでいました」

「名前か……」

 矢野は、火桶に薪をくべながらつぶやいた。

「それだけで、戻ってこれるような気がするときがある。夜の底でも」

 静は黙って聞いていた。

 名を呼ばれる。それだけで、自分が“ここ”にいるのだと、信じられる瞬間がある――

 矢野のその言葉は、まるで祈りのようだった。

     ※

 その日、隊の指揮が一時的に隊長から、副長補佐の今村へ移された。

 静は安静を命じられていたが、夕刻、天幕の外へと出た。

 火の周りに兵が集まり、手に湯を持ち、煙を浴びていた。

 そのなかに、水嶋、源田、佐々木、早坂の姿があった。

 誰も最初は声をかけなかった。

 だが、源田がふと気づき、立ち上がる。

「静さん……!」

 その言葉をきっかけに、火のまわりに空気が動いた。

 誰かが席を空け、誰かが湯を手渡した。

 静は微笑しながら、それを受け取った。

「ありがとう。……あたたかいですね」

 声はかすれていたが、温度があった。

「……あたたかくしてなきゃ、また倒れますよ」

 早坂がぼそっと言った。

「そうだそうだ」

 佐々木が笑った。「なんなら湯たんぽ作るか?」

 静は笑った。

 その笑いに、兵たちは安心した。

 “鬼神”ではない、“人間”が、そこにいたからだった。

     *

 夜半、森がざわめいた。

 風が変わるのを、静が感じたのは、その直前だった。

「動きます」

 静がつぶやくと、矢野が顔を上げた。

「どうしてわかる?」

「音が……森の音が、呼んでいます」

 それは感覚だった。

 理屈ではない、何かが――ずれている。

 直後、火点しの兵が叫んだ。

「西、森の斜面、何かいる!」

 剣が、音を立てて抜かれた。

 弓兵が起き上がり、槍が振りかぶられ、天幕がばたばたと押しのけられる。

「全員、布陣を!」

 今村の号令が飛んだ。

 空気が緊迫する。

 だがそのとき、静が低く言った。

「来ていません。……まだ、“試している”だけです」

「試す?」

「こちらの出方を、探っています」

 矢野が呟いた。

「……間者か」

 その場にいた全員が、凍るように黙った。

 “間者”。

 戦場では最も忌まれる言葉。

 つまり――誰かが、この中に。

     *

 翌朝。

 誰よりも早く、静が立っていた。

 その姿は白く、凛としていて、血の痕も消えていた。

 剣を腰に戻し、矢野の方を向く。

「――ここに、あの人がいないのなら、それでいいのです」

「誰の話だ」

「試してきた者。あの夜、気配は三つありました」

「三つ……?」

「敵の足音。風に紛れた呼吸。そして――こちら側にある“気配”」

 矢野は、ゆっくりと剣に手を置いた。

「……つまり、潜んでると」

「ええ。でも、斬るためではありません」

「どうしてだ」

「“怖い”からです。――僕を見て、斬れなかったんです」

 それは確信だった。

 矛盾していたが、静は“敵意”よりも“怯え”を感じたのだ。

 それが、もっとも恐ろしかった。

     *

 その日、隊は小規模の移動をした。

 廃村のあった谷を抜け、次の地点へ。

 だが、進軍の途中――異変が起きた。

 斜面の草むらで、火花が散った。

 罠。

 仕掛けられた火矢が、乾いた枝を突き抜けて爆ぜた。

 煙が立ち込め、視界が奪われる。

「伏兵だ! 槍隊、前へ!」

 今村の声が響く。

 しかし斜面の上から降り注ぐ矢の雨に、動きが封じられた。

 静が言った。

「矢野さん」

「……ああ。やるんだな」

 二人は、走った。

 霧の中、敵の伏兵十数名が迫っていた。

 だが、静の剣がその先頭に届いた。

 切っ先は、まるで迷いなく、“斬る”ことだけに集中していた。

 矢野の槍も、鋭く宙を裂いた。

 二人の動きが交差し、火と煙の中で敵の動きを遮った。

 ――だが。

 その時、静の背に、矢の気配が迫った。

 斜面の上、樹の陰から、一人の男が狙っていた。

 ――間者。

 こちらの服を着ていたが、その眼に宿る色は違っていた。

 静は振り返らなかった。

 矢野が気づいた。

 足を蹴り、槍を構えるが、間に合わない。

 その刹那――

「やめろ!」

 叫び声が飛んだ。

 木陰から、もうひとりが飛び出す。

「やめろ、撃つな!」

 それは、味方の服を着た青年だった。

 おそらく新兵。

 声は震え、涙を流していた。

「この人を……撃たないでくれ……!」

 その言葉を受け、男は沖田を横目で見る。

 その先の沖田は据わった目で、じっと間者の男を見ていた。

 静かな視線だった。しかし、視線に物量があるならば、人を殺せそうな目をしていた。

 男は静かに矢を下ろした。

 青年の言葉に――そして、白装束の鬼神の圧に負けた。

 森が静かになった。

 戦いが、終わった。

     *

 間者は拘束され、青年は引きずられるように戻ってきた。

 その目は泣き腫らし、誰の顔も見なかった。

 夜、静がその青年の天幕を訪れた。

「……怖かったでしょう」

 青年は答えなかった。

 静は膝を折り、ゆっくりと、新兵の青年の手を取った。

「でも、あなたは、人の命を……僕の命を守ってくれた。それだけで、十分です」

「俺……ただ……怖くて、あなたを失うのが。あなたはどう見てもこの部隊の核だから」

「その判断が、救いになることもあります」

 沈黙が降りた。

 だが、その静けさのなかで、新兵の青年は小さく声をもらした。

「名前……教えてくれませんか」

 静は微笑んだ。

「沖田静です」

 それは、夜を越えた者にだけ与えられる、名の重みだった。



第十四話「声を重ねる日々に、雪は降らない」


 名を呼ぶことが、誰かを救うことがある。

 だが、名を呼ぶには、その者の存在を認めねばならない。

 “人”として、そこに在ると、言葉にして肯わねばならない。

 それはこの戦場で、ときに命より重いことだった。

     ※

 事件の翌朝、新兵の青年――篠田は、自ら立っていた。

 無言のまま、天幕を畳み、槍を手に、整列の列に加わった。

 その背中は震えていたが、誰も笑わなかった。

 ただ、誰からともなく、その傍に並んだ者がいた。

 源田だった。

 次いで、早坂、そして佐々木。

 言葉なく、その隣に立ち、前を見た。

 まるで、「おまえも、ここにいろ」と言うように。

 矢野がそれを見ながら、ぽつりと呟いた。

「……変わったな、この部隊」

「ええ」

 静もまた、火の前で槍を研ぎながら、言葉を重ねる。

「皆さん、名前を、呼んでくれるようになりました」

「そうだな」

「けれど、僕自身が……そのことに、甘えてしまいそうで」

 矢野は顔を向ける。

「甘えていいんだ。そういう時期にきたってことだよ、静」

 しばらくの沈黙。

 そののち、静は小さく息を吐いた。

「……甘えて、いいんですね」

「いいさ。おまえの剣が、ずっと張ってたから、みんなも張ってたんだ。緩めても、いい」

 火の音が、はぜた。

     ※

 その夜、篠田が静に話しかけてきた。

「……あのとき、なぜ動けたんですか?」

 唐突な問いだった。

 静は剣を膝の上に置き、考えるようにまぶたを伏せた。

「動けない時の方が、多いんです。僕も」

「……え」

「でも……守るものが“ひとり”なら、迷いは減ります」

 静の目は、天幕の布を越えて、外の闇を見つめていた。

「矛先が多ければ、人は迷う。敵が十人いれば、どこを斬るべきか、選べなくなる。でも、護りたい者が“そこ”にいるなら、矛先はひとつになる」

 篠田は、言葉を失ったまま頷いた。

「でも、俺……あの敵兵を、止められませんでした」

「物理的には止められなかった。でも、声で止まってくれましたね?」

「……はい」

「それで十分です。あなたの声は届きました。声が、届いたんです」

 その言葉は、深く静かで、あたたかかった。

 篠田の肩が、かすかに震えた。

     *

 以後、篠田は静に付き従うようになった。

 訓練でも配置でも、矢野と交替で隣に立つことが多くなった。

 若い隊員たちのあいだでは、「静班」なる冗談が生まれたほどだ。

「沖田さんが真ん中にいれば、絶対死なないから」

「盾の外に出ても、静が飛んでくる」

「いやいや、静さんは瞬間移動するんだよ」

 そんな冗談に、静がふっと微笑をこぼす場面も増えた。

 最年少であるはずの沖田が、最も頼られ、最も静かに微笑む――

 それが、この隊の、奇妙な重心だった。

     *

 その翌週、偵察任務が与えられた。

 丘陵地帯を越えた先に、敵の新たな補給路があるという情報。

 危険な任務ではあったが、小隊規模での行動に適している。

 静と矢野、篠田、源田、早坂、そして今村の六人。

 この組み合わせに、誰も異を唱えなかった。

 出発の朝。

 篠田が、握り飯をふたつ持って、静の天幕前に現れた。

「ほら。朝、抜くって言ったでしょ」

「ありがとうございます。でも、半分でいいですよ」

「俺も怖いんです。だから一緒に食べてくれないと、食えません」

 静は少しだけ笑った。

「では、ありがたく」

 ふたりは並んで飯を食べた。

 空はまだ、灰色で、霧が立ち込めていた。

     ※

 丘陵地帯の尾根で、静は風の音を読んでいた。

「こちらです」

 迷いなく歩き、獣道のような隘路を抜けると――そこに、小さな木製の橋が架かっていた。

「橋だ」

「補給路、間違いありません」

 今村が地図を開く。

「こことここを塞げば、敵の物資は遮断される。だが……」

「すでに気づかれているかもしれません」

 矢野が呟いた。

 その瞬間。

 風が鳴った。

 地の底から這い出すような唸り声とともに、矢が降る。

 静が、すかさず篠田を押して地面に伏せさせる。

「矢野さん!」

「右側、潰す!」

 二人は同時に走り出した。

 木々の陰から現れたのは、十名の敵兵。

 背には荷を背負い、剣を握ったまま、悲鳴のような声を上げる。

「補給隊か……!」

 その声を聞いた瞬間、静の剣が走った。

 風とともに、滑るように敵の間を抜け、誰も触れることなく、肩口を斬る。

 致命傷ではない。

 “動けなくする”だけの、剣だった。

「静!」

 矢野の声。

 敵の指揮官らしき者が、斜面の上で旗を掲げようとしていた。

 この場所が見つかれば、本隊にすぐ報せが届く。

「行きます」

 静がそのまま斜面を駆け上がった。

 剣を振る音すらない。

 ただ、一閃。

 旗は、空を舞った。

     *

 日が沈みかける頃、任務は達成された。

 補給路は寸断され、敵の足は止まった。

 だが、矢野の肩からは血が流れていた。

 矢が、左の肩口をかすめていた。

「見せてください」

 沖田が手当てを申し出る。

 矢野は「大丈夫、かすり傷だ」と首を振るが、すぐに顔をしかめる。

「俺が見ます!」

 篠田が駆け寄る。

「言葉では強がっていても、顔に出ていますよ、矢野さん」

 皆が笑った。

 その笑いのなかで、静がようやく、力を抜いた。

     ※

 天幕のなか、夜が深くなる。

 静はうとうととしながら、ふと漏らす。

「……いいですね、皆さんの声」

「声?」

「名前を呼んでくれる。それが、僕を……ここに繋ぎとめてくれているようで」

 矢野は、その横顔を見ながら、静かに言った。

「おまえの名前は、俺たちの“旗”みたいなもんだからな」

 篠田が照れたように笑う。

「じゃあ、毎日呼びます。静さん、静さん、静さーん!」

「やめてください、照れます」

 皆が笑った。

 その笑いのなかに、戦場とは思えない、穏やかな風が吹いていた。



第十五話「沈黙の予感、夜を包む刃」


 霧が晴れ、草が芽吹き、山間の空気は日ごとに軽くなる。

 春は、この地にもたらされていた。

 だがその季節が、決して穏やかばかりでないことを、彼らは知っていた。

     ※

 補給路を断った作戦は、軍本隊から高く評価された。

 静を含む小隊の働きが、戦局の一角を確かに動かしたと、報告書にも明記された。

「おまえら、英雄だぞ」

 そう笑って言ったのは今村だったが、誰も「そうだ」とは言わなかった。

 源田はぼりぼりと頭をかき、篠田は「いやいや、たまたまですよ」と苦笑し、矢野は黙って剣の柄に指を添えた。

 静だけが、言葉もなく微笑んでいた。

 その微笑は、どこか“遠く”を見ているようだった。

     ※

 その夜。

 静はひとり、天幕を出ていた。

 風が枝葉を揺らす音だけが辺りに漂う。

 火も焚かれていない。月明かりも乏しい夜だった。

 静の手には、鞘に収めた剣。

 ただ、それだけ。

 彼は、草の上に膝をつくと、地面に額をつけるように、ゆっくりと頭を垂れた。

 しばらくそうしていた。

 やがて、呟くように声がこぼれる。

「……これが、終わる日が来たとして」

「僕は、どうすればいいんでしょう」

 その問いに、答える者はいなかった。

     ※

 次の日の朝、矢野が静に尋ねた。

「昨日、夜どこにいた?」

 静は少し驚いたように顔をあげる。

「気配、わかりましたか」

「おまえの気配は、変な消え方するからな。……夜、眠れなかった?」

「いえ、ただ……月を見ていました」

「ほんとかよ」

 矢野が眉をひそめる。

「最近、疲れてるように見える」

 静は微笑んだ。

「矢野さんは、よく見ていらっしゃる」

「それ、誉めてないからな」

 矢野は視線を外した。

 だが、そのまま、声を潜めて続ける。

「……もし、つらかったら、ちゃんと言え。全部ひとりで背負うな」

「……はい」

 その返事が、あまりにも静かだったので、矢野は胸の奥に言いようのないざらつきを覚えた。

     ※

 その日から、静は隊の訓練に加わらなくなった。

 表向きは休養という理由だったが、実際には、何かが違っていた。

 動けないのではない。

 むしろ、異様に整いすぎていた。

 矢野は見ていた。

 朝の手入れ、歩く姿、剣の扱い、言葉遣い……

 すべてが、ある種の“型”に収まりすぎていた。

「……戻りかけてるな」

 矢野はひとり、そう呟いた。

 “白装束の鬼神”と呼ばれていた頃の、あの氷のような静に。

 人の心が、“鎧のなかに引っ込む”ように。

     *

 その数日後。

 斥候のひとりが、前線の動きを報告に戻ってきた。

「……敵の動きが変です。いままで補給してた道、わざと見せかけで使ってます」

「囮か」

「たぶん、次は正面から来ると思います」

 その報告を聞いた瞬間、静が顔を上げた。

「では、僕が行きます」

「一人でか」

 矢野が声を荒げた。

「偵察じゃない、囮だぞ。あえて捕まる可能性すらある。おまえが行くべきじゃない」

 静は穏やかに、しかし確かに言った。

「僕の足跡なら、敵は騙されます」

 その瞬間、隊内の空気が変わった。

 ――確かに、それは“真実”だった。

 静がそこにいるだけで、敵の陣形は乱れ、戦術は崩れる。

「だとしても……!」

 矢野が前に出たが、その腕を、源田がそっと掴んだ。

「矢野さん」

「……っ」

「静さんを信じましょう。俺たちも、信じてもらったんですから」

 矢野は、悔しそうに唇を噛んだ。

 だが、やがて頷いた。

「……戻ってこいよ」

 静は、やわらかく笑った。

「必ず」

     ※

 偽の補給路に向かった静は、崖上の樹間に姿を潜めた。

 数刻後、敵兵が現れた。

 足音、息遣い、装備――

 斥候部隊だ。偵察ではなく、“追跡と討伐”を目的とした配置。

 静は、剣を抜いた。

 その瞬間、空気が変わった。

 剣が鞘から抜けた音すらないのに、すべての草が、風を避けるようにそよいだ。

「……誰かいる!」

 敵の声。

「出てこい! 知ってるぞ、“白装束の”――」

 その声が終わる前に、静は地から跳ねた。

 剣が閃く。

 声を上げる暇もなく、ひとり、またひとりと“封じられていく”。

 誰も死ななかった。

 ただ、“動けなくなった”。

 戦いではなかった。

 ただ、舞のようだった。

 それでも静の目は、ひとつの色も浮かべていなかった。

 光も、影も、なかった。

 矢野の言葉が、その脳裏に浮かんだ。

 ――おまえ、あまり怒らないよな。

 ――殺しても、泣かない。

 ――なにを斬ってるんだ?

 静は、剣を収めながら、呟いた。

「……まだ、僕は“人”でいられるでしょうか」

 その声に、答えはなかった。

     ※

 日が暮れるころ、静は無傷で戻ってきた。

 敵部隊の動きは止まり、本隊もその隙に布陣を再調整した。

 だが、矢野は静の顔を見て、すぐに気づいた。

「……遠くに行ってたな」

 静は答えなかった。

 だが、ほんの一瞬、視線を落とした。

 その眼差しは――“迷っていた”。

     ※

 夜、火のまわりに小さな影が集まる。

 源田も、篠田も、今村も、いつものように雑談を交わす。

 その輪のなかに、静がいた。

 だが、矢野は見逃さなかった。

 笑うその目が、わずかに“遅れて”いた。

 まるで、その場の空気に、自分を“合わせている”ようだった。

 “自然にいる”のではなく、“ここにいようと努力している”ようだった。

 矢野の胸が、締めつけられた。

 ――もう少しで、手が届いたのに。

 ――また、“遠く”に行こうとしてる。

 矢野は心の中で、ただ祈った。

 どうか、まだ“名前”に応えてくれますように。

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