第四章:命を奪わぬ剣
第一話「鬼神、空を裂く」
最初にそれを見たのは、山岳の斥候兵だった。
霧の深い朝、谷間を見下ろす斜面の上で、彼は不意に足を止めた。
静寂の中に、音があった。
それは馬の蹄でも、弓の弦の軋みでもなかった。
ただ、ひとつずつ間隔を空けながら、斬撃が地面を裂くような音。
敵襲かと目を凝らし、彼は凍りついた。
白い。
その兵は、まるで神事の装束のような白い衣をまとっていた。
剣を携え、地面を踏みしめ、ただひとり、山道を下ってくる。
すでにその背後には、転がる者たちがいた。
味方の兵――四人、五人、いや、十人を越えていた。
だが、誰ひとり、首を斬られた者はいなかった。
剣は振るわれている。確かに速く、鋭く、正確に。
けれど、殺していない。
なぜかはわからない。ただ、殺していない。
だが、倒されている。
その白き剣士は、誰も殺さずに、道を開いていた。
※
「……神か、あれは」
捕虜となった兵士が、火の前でそう呟いたのは、それから三日後のことだった。
彼の足にはまだ踏み込みによる打撲の痛みが残っており、
胸には一本の竹のような骨折がある。
「死ななかったのが、不思議でならなかった」
そう語る彼の視線の先に、誰もいなかった。
夜営の灯が揺れて、ただ湿った風が吹いているだけだった。
「剣が、止まったんだ。寸前で。……斬れたはずだったのに」
「手加減されたのか?」
「いや、ちがう。……“裁かれた”んだと思った。あれは、命を取るか取らないかを、“判断する者”の眼だった。……あの眼が、自分を赦したような気がして、それが……怖かった」
捕虜兵は、しばらく言葉を失った。
「いっそ斬られていた方が、気が楽だったかもしれない」
※
沖田静が、再び“白装束の鬼神”と呼ばれ始めたのは、この戦域に移ってからだ。
白い袴、白い着流し、白鞘の剣。
装束は軍服の規定に準じていないが、上層部は黙認していた。
誰もが、そこに踏み込むことをためらった。
というより、彼がそう在ることに、意味があるように思えていた。
「白は、罪を隠さない。目立つのに、隠さない」
誰かがそう評した。
血の一滴すら映えるその装束で、戦場に立つこと――
それは、罪を負う覚悟の証に見えた。
だが、実際の沖田は、以前より斬らなくなっていた。
兵十人を、二十人を、剣一本で倒しても、致命傷を負わせた者はいなかった。
彼の剣は、殺すためにではなく、止めるために振るわれていた。
――それが、かえって恐ろしい。
そう敵兵は語った。
※
ある日の戦で、敵の先鋒隊四十人を、沖田ひとりで退けたという報があった。
矢野もまた、その場にいた。
崖上からの強襲。
先頭を駆ける白装束の剣士が、敵の波にそのまま突入する光景を、
味方全員が“見届けるしかなかった”。
足音が、一切乱れなかった。
斬る音より、歩く音の方が静かだった。
そして、すべてが終わったあと、そこにはただ、倒れ伏した兵士たちと、
剣を納める白い姿があった。
「誰も死んでいない」と、救護兵が震えながら言ったとき、味方の誰もが黙り込んだ。
そして、ある兵士が小さく呟いた。
「……あれはもう、“人”じゃないのかもしれねぇな」
※
だが、その“神格化”に、本人だけは何の実感も抱いていなかった。
夜、ひとり火のそばにいた静は、矢野の問いかけに答えなかった。
「斬らずに済んだ。すげぇことだよ。……なあ、静」
「……あれは、剣じゃないんです」
「え?」
「ただの、意思です。……斬りたくないっていう、祈りに近いものです」
「でも、あの速度で、寸止めしてるんだろ? そんなの――」
「だから、僕じゃないんですよ。……あれは、僕が僕に負けないようにするための、手段です」
「……」
「いつか、届かなくなるかもしれない」
その声は、どこか幼さを残していた。
「そのときは――」
「そのときは、俺が止めるよ」
矢野は、火に薪をくべた。
ぱちりと爆ぜた音に、静は顔を上げた。
「約束ですよ?」
「ああ、何度でも。おまえが、“人”でいられるように、何度でも」
そして、その夜、二人は互いに火の音を聞いていた。
それが、まだ剣の音に変わっていないことを、心から願いながら。
第二話「四十の影、白刃の中に」
風が止んでいた。
午前の霧が尾根を這い、谷を浸していた。
斥候が駆け戻ってきたのは、まさにその霧の濃さが限界に達したころだった。
「敵、四十。北斜面の獣道から侵入――!」
誰かが顔をしかめ、別の誰かが剣に手をかけた。
小さな部隊だった。十数人に過ぎない。備えはあっても、数の差は歴然だった。
「……持たないな、こりゃ」
誰かの呟きに、誰も返さなかった。
ただひとつ、風に揺れた音があった。
それは衣擦れの音だった。
す、と音を立てて、ひとりの兵が立ち上がった。
白の装束に、白の鞘。
草履の音すら立てずに、彼は歩き出した。
名を、沖田静という。
※
斜面を駆け下りる敵兵たちの列は、ある一点で突然乱れた。
まるで、見えないものに突き当たったかのように。
それはひとつの白。
風も音も吸い込むような、その白の中で、剣が振るわれていた。
戦列が崩れる。声が上がる。剣が地を裂き、木々をかすめる。
だが、叫びは「死」ではなかった。
斬られていない――
倒された兵の誰もが、意識を保っていた。
剣が首を掠めたと感じた者も、ただ仰向けに倒れ、息をしていた。
「何が、起きてる……?」
尾根の上から、味方の兵のひとり――吉村という若い兵士が、息を呑んだ。
斬らずに、倒している。
それも、一撃。すべてが、たった一閃で。
その白装束の背が、敵兵をなぎ倒しながら、次第に森の奥へ消えていく。
「静……」
矢野が息を呑むように名を呼んだ。
返事はなかった。もう届かない距離にいた。
※
敵兵の視界に、白い影が差したのはその直後だった。
砂利を踏む音、斜面に跳ねた草の水滴。
そのすべてが、剣戟の合間にあった。
男は思った。――見えない。
刃が、視界の外にいた。
次の瞬間、自分の手から剣が弾かれていた。
痛みではなかった。感覚そのものが切り取られたような、空虚な衝撃。
「斬れ……いや、違う。違う、これは――」
敵兵はよろめきながら、膝をついた。
白い剣士の姿が、すぐ近くにあった。
その顔は、静かだった。怒りでも、哀しみでもない。
ただ、一瞬のためらいがあった。
それは確かに、剣を振るう者の迷いだった。
「……あんた……」
男は言葉を紡げなかった。
白き刃は、男の肩口で静止していた。
「なぜ、斬らなかった……?」
問いの代わりに、風が吹いた。
それが、唯一の答えだった。
※
その後に続く二十人を相手に、沖田は後退せず、真っ向から立ち塞がった。
敵の叫びが上がる。突撃。槍の列。
それでも沖田は剣を構え、ただ静かに、ひとつずつ迎撃した。
左の腕を打たれ、頬に傷を負い、それでも止まらなかった。
吉村が、その後の光景を「白い火柱のようだった」と語っている。
「斬ったのに、誰も死んでなかった。なのに、皆動けなくなってた」
矢野がその場に駆けつけたのは、すべてが終わった直後だった。
地に伏した敵兵たちの間を、白装束の背中が歩いていた。
「静……!」
声に、背が一瞬、止まった。
だが振り返らなかった。
そのまま、沖田は静かに鞘に剣を収めた。
鞘音ひとつなかった。
※
「……届かないんですよ」
夜の焚き火の前で、静がぽつりと呟いた。
「さっきの、三十五人目……届かなかった。だから、一瞬……心が、揺れた」
火が、ぱちりと爆ぜた。
矢野は、その言葉の意味を探った。
「迷ったのか」
「ええ。……斬らない理由が、わからなくなったんです。……何のために、止めるのか」
「――それでも、止めたじゃないか」
「……奇跡ですよ。次はできるか、わかりません」
静は焚き火の揺らぎを見ていた。
目の奥に、何かがあった。
それは恐怖ではなかった。寂しさでもなかった。
……罪。
矢野は言葉を探した。
だが、沈黙がそれを許さなかった。
「矢野さん」
「ん」
「次に……僕が、届かなかったら。剣が、止まらなかったら――」
矢野は、火に小枝をひとつ落とした。
「ああ、止める。俺が止める。必ず」
「……ありがとう」
それ以上、言葉は続かなかった。
夜風が吹いた。
火の粉がひとつ、空へ舞い上がって、闇に溶けた。
そして翌朝、沖田はまた白装束をまとい、
誰よりも早く、戦地への道を歩き始めていた。
第三話「その剣に、名は要らぬ」
あの夜、月は出ていなかった。
空は雲に覆われ、野営地の焚き火が照らすのは、土の色と剣の影ばかりだった。
静が背を向けて歩き出したとき、その背中はいつになく遠く見えた。
剣を研ぎ終えたばかりの矢野は、炭の燃え残りを灰に埋めながら、声をかけるか否かを迷っていた。
呼び止めたとして、何を言えばよかったのだろう。
お前は正しい。
あるいは、お前は間違っている。
それとも、疲れてるなら休めとでも?
どれも意味をなさない気がして、言葉は喉元で潰えた。
それでも、足は自然にあとを追っていた。
※
谷を越えた先に、尾根の端がある。
小さな社の跡地のような、風の通り道。
静は、そこで座っていた。
白装束のまま、背中を丸めず、両膝をきちんと折りたたんで。
剣は傍らに、眠るように置かれていた。
月のない空を仰いでいたその横顔に、矢野はためらいながら声をかけた。
「静」
小さく、応えたような気がした。
だが、それが返事だったのか、ただ風の音だったのかは判然としなかった。
「……お前、今日は変だったな」
無言。
けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。
矢野は地面に腰を下ろし、距離を取らずに隣に座った。
「斬らなかったのは、すげぇと思った。あれだけの人数を、殺さずに止めたなんて、普通じゃない」
静かにうなずいた気配があった。
しかし、続く言葉がなかった。
「でも、お前……途中、目が違ってた」
静の呼吸が、一瞬だけ止まった。
矢野は気づいていた。
最後の三人、止めた剣の軌道がわずかに乱れていたことを。
「殺してない。でも、ギリギリだったろ。……あのまま剣が止まらなかったら、どうするつもりだった?」
しばしの沈黙。
やがて、静がゆっくりと口を開いた。
「……あのとき、心が、間に合わなかったんです」
「……間に合わなかった?」
「はい。……剣の速度と、心の速度が、ずれてしまって。僕は、たぶん、迷っていました。殺すべきかどうかを」
その声は、いつもと同じく穏やかだった。
けれど、どこか震えていた。
「僕が……人の心を、忘れたら」
言葉が、夜気のなかにひとつずつ落ちていく。
「――迷わず、僕を斬ってください」
矢野は目を見開いた。
静の声に、恐れはなかった。悲しみもなかった。
ただ、自分を縛りつける鎖の重さに、自らを叩きつけるような、冷徹な響きがあった。
「……馬鹿言うな」
ようやく絞り出した言葉が、それだった。
「斬るわけないだろ。そんな簡単に……そんな、簡単に言うな」
「簡単ではないから、お願いしているんです」
淡々とした返答。
けれど、その淡さの奥にあるものを、矢野は見逃さなかった。
静は、本気で自分が「人でなくなる」ことを怖れている。
それは、これまでのいくつもの戦場で、彼が奪わずに“止めてきた”ものの重さが、彼自身をすり減らしている証だった。
「俺は……」
言葉を切って、夜空を仰いだ。
雲が流れていた。わずかに、星の気配が覗く。
「……そんな約束、できねぇよ」
「……どうしてですか」
「だって、それってさ……お前がもう“静”じゃなくなってるってことだろ。俺が知ってる“静”が、そこにいないってことだろ。そんなの、嫌に決まってる」
静がゆっくりと、横を向いた。
「それでも……斬ってください。そうでなければ、僕が誰かを殺してしまいます。もし、僕が『止める』ことに失敗したら――」
矢野は息を詰めた。
そのとき、かすかに夜がざわめいた。
静が、右手を膝に置き、その拳をそっと握った。
「……怖いんです。矢野さん」
そのひとことが、すべてだった。
「自分が、いつか、何かを越えてしまうんじゃないかって。大切な何かを、剣の重みに流してしまうんじゃないかって。……それが、怖い」
矢野は、隣の白装束の肩に、そっと拳を置いた。
「だったら……俺が忘れさせねぇよ」
「……え?」
「お前が自分の人間らしさを忘れそうになったら、俺が全部、思い出させる。……だから、お前はお前でいろ」
夜風が、ふたりの間を吹き抜けた。
静はしばらく黙っていた。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……難しい約束ですね」
「お前が最初に言ったんだろ。斬れって」
「言いました。……でも、できれば斬られたくないんです」
「だろ?」
ふたりの間に、ようやく小さな笑みが灯った。
戦場ではない、兵ではない、ただの人としての顔が、そこにはあった。
※
その夜、静は再び尾根の先に立った。
誰もいない空。誰もいない風のなか。
そして、ひとりごとのように、ぽつりと呟いた。
「……矢野さんは、強いですね」
それは、強さの本質を見抜く者の言葉だった。
剣ではなく、心の強さ。
人を傷つけずに、誰かのなかに留まり続ける力。
静は、もう一度だけその言葉を胸に刻んだ。
――僕が人の心を忘れたら、迷わず僕を斬ってください。
でも、そうなる前に。
まだ、自分にはやるべきことがある。
この手を、誰かの命を“奪う”ためでなく、“届かせる”ために使う限り――
剣に、名は要らない。
その刃に刻むべきものは、たったひとつ。
心を、失わないこと。
第四話「その眼が、すべてを赦していた」
生き残った理由が、わからなかった。
あの夜、あの戦場で。
敵がこちらを囲み、仲間が斃れ、空気が血のにおいに染まった瞬間――
俺は、もう駄目だと思った。
後ろから誰かが喉を鳴らして崩れ落ちる音。左の影が崩れると同時に、右手に持っていた短槍が手の中で震えた。握っていたはずなのに、掌に感覚がない。
次の瞬間、目の前に現れたのは――白だった。
月でも、霧でもない。
人間の形をした、白。
血を浴びた白装束が、夜の闇に溶けながら、ぬるりと動いていた。
誰かが、「白い鬼だ」と叫んだ。
声にならない声。
誰が叫んだのかもわからない。俺だったかもしれない。
そいつは、斬った。
いや、“斬る”という言葉では足りなかった。
跳ねるように地面を走り、沈むように膝を折り、風のように身を滑らせ、
――そして、剣が止まる。
止まった。
俺の、喉元に。
斜め下から突き上げるように伸びていたその剣は、俺の首をほんの紙一枚分だけ裂いて、止まった。
冷たい。
痛くはないのに、冷たい。
動けなかった。声も出なかった。
ただ、その眼だけを見ていた。
それは――人間の眼だった。
けれど、普通の人間のそれじゃない。
沈んでいた。
ひどく深い、静かな湖みたいな。底が見えない。
何も映さず、何も求めず、それでいて、すべてを見ていた。
俺はその眼に、赦されていた。
理由もなく。条件もなく。
だからこそ、怖かった。
生き延びるために命乞いをしたわけじゃない。
立ち向かったわけでもない。
ただ、目の前で斃れるべきだったのに――赦された。
それが、何より怖かった。
※
その後、俺は捕虜になった。
同じように“斬られなかった”者たちとともに、後方の野営地に移送された。
医師が喉の切り傷を洗ってくれた。
傷は浅く、血もすぐに止まった。
「運がよかったですね」と言われた。
俺は笑えなかった。
生き残った者は少なかった。
だが皆、口を揃えて言った。
「止まった」と。
白装束の剣士の剣は、誰かの骨を砕く前に止まり、
喉元に届く寸前に止まり、
振り下ろした軌道の中でわずかに手首を返して止まった、と。
「何かの術じゃないのか」と、ある者は言った。
だが違う、と別の者が首を振った。
「あれは……あの目は、人の目じゃない。けど、神の目でもない。まるで、何百人を斬ってきた手で、いま初めて人を赦そうとしたような――そんな、目だった」
誰もが、その目を忘れられなかった。
斬られなかったのに、命を握られていたことを、骨に刻まれていた。
※
夜、ひとりの男が俺のいる仮設天幕にやってきた。
彼も捕虜だった。
俺より年上に見えたが、左肩を深く斬られ、動かぬ腕を布で吊っていた。
「……あの白い剣士、見たのか?」
問われて、頷いた。
男は、笑った。
疲れ切った笑いだった。
「俺は、斬られた。……いや、斬られかけた。でもな、その瞬間、見えたんだ。あいつ、泣きそうな顔してた」
――泣きそうな顔?
その言葉に、鼓動がひとつ跳ねた。
男は天幕の隅で膝を抱え、続けた。
「あいつ、誰かを殺したくないんだ。けど、誰かを守るために、殺す。……だから苦しいんだ。剣を振るたび、命の重さがあいつに積もっていくんだ」
俺はそのとき、自分の胸に残っていた“冷たさ”の意味を知った気がした。
あれは、剣の冷たさじゃない。
俺の命が、誰かに選ばれて“残された”ことの冷たさだ。
命を奪わぬ剣は、剣以上に、心を裂く。
※
何日か経ったあと、俺は訊いた。
「あの白装束の剣士の名を、知っているか?」
周囲の誰も、答えなかった。
名を知る者はいなかった。
ただ――
「……沖田、という名らしい」
若い兵士が、ぽつりと言った。
どこかの部隊の生き残りが、そう呼んでいたのを聞いた、と。
沖田。
それが、本当の名前かどうかは、わからない。
だがその音は、剣の軌道よりも深く、静かに胸に残った。
※
その後、俺は故郷へ送還された。
戦争はまだ続いていた。
けれど、俺の戦いは終わっていた。
剣を振る手が、震えるようになっていた。
「また戦え」と言われても、もうできなかった。
あの夜、あの目に見られたときから、俺の中の何かが変わっていた。
赦された命をどう使うべきか、それを考えることが、俺の戦後だった。
あの目は、剣より鋭かった。
剣よりも優しかった。
そして、誰よりも――人間だった。
第五話「それでも、剣はまだ温かかった」
その夜、火の粉が小さく舞っていた。
湿った薪がときおり弾けるたびに、焚き火の周囲に座る者たちの影が、地面に淡く滲んだ。
戦場の片隅、敵兵の遺体を野に葬った翌夜。
俺たちは小隊の囲みに戻り、残された干し肉を分け合っていた。
沈黙が続いていた。
皆、言葉よりも、焼けた肉の匂いと木の爆ぜる音に耳を澄ませていた。
そのうち誰かが、ぽつりと呟いた。
「……斬らなかったんだってな。あの白い鬼神が」
その一言に、場の空気が震えた。
誰もが知っている。
誰もが、見たわけではない。
だが、斬られなかった敵兵の噂は、煙のように野営地をめぐっていた。
「斬られそうになって、止まったって。喉元で。あと一寸で……」
「そう言えば、生き残った敵兵が震えてたって……夜にうなされて泣いてたらしい」
「泣くのはこっちだっての。斬られるより怖えぇよ、そんなの」
皆が笑い、けれどどこか引き攣っていた。
冗談めかした口調の裏に、理解できないものへの畏れがにじんでいた。
“奪わぬ剣”は、剣よりも深く、兵士の心に傷を刻んでいた。
※
矢野は、静の背中を見ていた。
火の明かりが届かない少し離れた場所。
彼は、焚き火から距離を置いて、膝を抱えて座っていた。
うつむいたその姿勢には、疲れが滲んでいる。
だが、それ以上に――沈黙の色が濃かった。
矢野は、ゆっくりと近づいた。
焚き火の明かりが彼の白装束の背に柔らかく届くころ、静は少しだけ顔を上げた。
「……矢野さん」
声は穏やかだった。
けれど、その響きの奥にある空白を、矢野は聞き取っていた。
「寒くないか?」
「ええ。……風が止みましたから」
「ここ、空いてるぞ」
矢野が腰を下ろすと、静は小さく笑った。
「矢野さんは、夜も賑やかな方々と焚き火を囲むのが似合いますよ」
「おまえも、もうちょっと“普通”にしてくれよ。気が張ってしかたない」
静は、肩を揺らした。
それが笑いか、息か、疲れかはわからなかった。
しばらくして、矢野は切り出した。
「……なんで、止めた?」
「え?」
「剣だよ。あの敵兵の喉元で止めたって話。ほんとか?」
静は視線を地面に落としたまま、答えなかった。
火の粉がぱちりと音を立てた。
「命令じゃない。誰かに止められたわけでもない。……自分の判断か?」
「……はい」
その短い返答のなかに、全てが詰まっているようだった。
矢野は、彼の横顔をじっと見た。
「怖くないか?」
「何が、ですか?」
「次は斬れなくなるかもしれない、って」
静は、わずかに眉を寄せた。
「矢野さんは、僕が“斬れなくなる”のを怖れてるんですか?」
「……ああ」
即答だった。
それが、兵士としての本音だった。
「でもな」
続けた矢野の声は、どこか苦かった。
「斬れるおまえも、こわいんだよ。……どこまで人間なんだって、見失いそうになる」
沈黙が降りた。
その沈黙の中で、静は、自分の指先を見つめていた。
剣を握っていない、赤く擦れた手。
血を洗っても、剣を下ろしても、震えの止まらぬその掌。
「……矢野さん、約束、覚えてますか?」
「ん」
「僕が、人の心を忘れたら。……迷わず、僕を斬ってください」
焚き火の光に照らされた彼の横顔は、どこまでも静かだった。
悲しみも怒りもない。
ただ、そうあるべきだと信じる者の顔だった。
「……おまえ」
矢野は、言葉がつまった。
火の粉が、ふたりのあいだにひとつだけ、音もなく落ちた。
「静」
名を呼ぶと、彼は一度だけ目を細めて笑った。
「大丈夫ですよ。……まだ、“僕”はここにいますから」
その笑顔が、ひどく遠く見えた。
※
夜が更ける。
野営地の外れで、見回りの兵士がすれ違った静に、ぽつりとつぶやいた。
「……今日の剣、見てました」
静は立ち止まる。
「……すげぇな。あんたの剣。あれがあったら、俺ら、怖いもんなしだ」
「……そうですか」
静は、小さく頭を下げた。
「でも、あんた……なんか、剣が……温かかった」
その言葉に、静は一瞬、呼吸を忘れた。
温かい?
誰かを斬った剣が?
人を赦したその刃が?
兵士はもう振り返っていなかった。
背中だけが、闇のなかに溶けていく。
静は、手袋越しに自分の掌を握った。
たしかに、まだ温かかった。
……それでも、剣は――まだ、温かかった。
第六話「そして剣は、風に還る」
白い霧が、朝の野を覆っていた。
濃く、重く、吐息よりも冷たいその霧は、かつての戦場の血の気配を覆い隠し、そこに刻まれた叫び声や足跡をすっかり飲み込んでいた。
その中心に、ひとりの男がいた。
沖田静――白装束の剣士。
味方からは神格化され、敵からは「斬らずに討つ鬼神」と呼ばれた男。
けれど、その肩に羽織られた布は湿気を含み、剣を帯びた腰の影は、夜明けとともに揺れていた。
※
あの戦いのあと、いくつもの噂が流れた。
斬られずに退いた敵兵の話。
味方の傷ついた兵をかばい、たった一人で突撃してきた白い影の伝説。
すれ違いざま、誰ひとり傷を負わせずに四十人を退けたという、戦場ではありえぬ奇跡。
その名は、もはや“剣士”というより、風の噂に乗った“異形”だった。
敵の捕虜が語った。
「奴は、斬る前に見る。目を、深く深く覗き込むんだ。……魂の奥に、触れるみたいに」
「それでも、おれは斬られなかった。あの目を見て震えたけど……死ななかった。あれは、本当に“人間”だったのか?」
彼らは、命を奪われなかったことに感謝しながらも、心に剣を残されていた。
静の剣は、殺さない。
けれど、それ以上に、決して忘れられないものを刻んでいた。
※
「……どうしてもさ。あいつを見ると、背筋が伸びる」
矢野がそう言ったのは、野営地の片隅だった。
いつものように、彼は少し煙草の火を借りに来て、俺の隣に座った。
視線の先には、焚き火から外れて木立の間に立つ静の背中がある。
「信頼してる。背中を預けられるって、思ってる。でも……同時に、距離を置いてしまう自分がいる」
俺は何も言わなかった。
矢野の声は、答えを求めていない。
「斬らないって、すごいことだ。生きてる限り、そいつはまた刃を持つかもしれない。それでも止めたって、あいつは――」
矢野の喉が、ふいに震えた。
言葉にならなかった。
「……“おまえは誰だ”って思うんだ。時々。何でそんなに……全部抱えられる?」
静の背中は、ゆっくりとこちらを向いた。
だが、こちらには気づいていないようだった。
その顔はただ、夜明け前の霧を見つめていた。
※
数日後、敵地を抜けた我々は、一時的な駐屯を命じられた。
静は、普段よりもさらに静かだった。
皆が冗談を交わす夜も、焚き火を囲む輪に加わらず、遠巻きにその笑い声を聞いていた。
それでも、誰も彼を咎めなかった。
彼は、そこに「いてくれる」だけで十分だった。
誰かがそっと呟いた。
「あの人がいれば……きっと、死なない」
第六話「そして剣は、風に還る」
その言葉が、周囲に安心ではなく、奇妙な緊張をもたらすことに、本人だけが気づいていないようだった。
※
夜中、矢野はふいに目を覚ました。
静の姿が見えなかった。
寝台を出て外に出ると、霧の残る野辺に、白い影が立っていた。
「……静」
名を呼ぶと、彼は振り返った。
「……眠れなくて」
それだけ言って、微笑んだ。
「ここ、夜でも風が通ります。……少し寒いですね」
「風邪ひくぞ」
矢野はそう言って、彼の隣に立った。
月が雲の切れ間から顔を覗かせる。
その光のなかで、静の顔は、まるで少年のように見えた。
「ねえ、矢野さん」
「なんだ」
「僕は……本当に、人間に見えますか」
その声は、風の中でかすれそうだった。
矢野は答えなかった。
答えたら、どこかが壊れてしまう気がした。
けれど、次の瞬間、静の口元がほんのわずかにほころんだ。
「……冗談ですよ」
そう言った彼の目は、少しだけ泣きそうだった。
※
明け方、霧が晴れた。
隊が動き出す頃、静はひとり、野の端に立っていた。
腰に佩いた剣の鞘を、ゆっくりと地に下ろす。
その仕草に、誰も気づかない。
彼はしばし、それを見つめていた。
何かを手放すように。
あるいは、預けるように。
そして、またそれを拾い上げて、何もなかったように歩き出した。
風が吹いた。
その白装束の裾を、やわらかく撫でていった。
第七話「夜の静寂、遠い光」
夜が深くなっていた。
幕営の帳の下、焚き火はとうに熄え、わずかに炭の匂いが残っている。草いきれと焦げた布地のにおい。血の気配の混じる土の臭いが、眠ることをためらわせた。
沖田静は、天幕の中でひとり目を覚ましていた。
枕元の布に水滴のようなものがあることに気づいたが、汗か涙かはわからなかった。夜気が思いのほか冷たく、薄手の軍衣の上から静かに背筋を這っていく。
外には何の音もなかった。
隣の天幕では、兵たちが静かに寝息を立てているはずだった。いや、もしかすると、誰かが同じように目覚めて、この沈黙に耳を澄ませているかもしれない。だが、誰もそれを言葉にすることはない。この戦の野では、「夜中に目が覚めた」などということすら、命に関わる情報である。
(今夜は……眠れそうにありませんね)
小さく息を吐く。
その呼気が胸の奥に染みこんでくるようで、思わず目を閉じた。闇の中に、ふと、自分でも意図せぬままに浮かび上がってきたものがあった。
――未来のこと、だった。
それはまるで、夢の切れ端のように唐突だった。
これまで、未来というものを想像したことはなかった。死が先にある戦場で、終わりのあとを思い描くことは、傲慢であり、ある種の“裏切り”でもあると思っていた。
どこかで、それを自分に禁じてきたのかもしれない。
けれど今夜は、なぜかそれが禁じられた思考に思えなかった。
(もし……戦が終わったら)
それは、あまりに遠い仮定だった。
だがその仮定は、静かに、確かに、心の奥へと忍び込んできた。
(僕は、どこに行くんでしょうか)
戦が終わった世界に、はたして自分という存在があるのだろうか。
戦を剥がしたあとに残るものが、“沖田静”という人間にあるのだろうか。
誰かの名を呼ぶ声も、誰かに呼ばれる声も、すべてはこの戦の中で生まれては消えていった。
未来に手を伸ばした先に、自分の影がないことを、静は直感していた。
だが、それでも――。
(……誰かが、生き延びてくれるのなら)
その思いだけは、濁らず胸の奥にあった。
矢野が、槍の若者が、あの負傷した兵士たちが、生きていてくれるのなら、それでいいと、静は思っていた。
言葉にすれば簡単すぎるが、それは、生を選び取れない者だけが抱く願いだった。
(生きて、戦のあとの世界にいてくれるのなら)
それだけで、未来というものは、じゅうぶんに価値を持ちうる。
自分がそこにいなくても、――いや、自分がいないからこそ、彼らの未来は、より確かなものになるのだと。
※
ふと、天幕の布が微かに揺れた。
誰かが近くを通ったのか、それとも風が通ったのか。静はそっと身体を起こし、敷布の端に手を置いた。
夜の風が、遠くで草を揺らしていた。
その音は、かつて聴いた夏の蝉の声にも似て、どこか懐かしい響きを持っていた。
あのとき――
道場の縁側で、夜風を浴びながら、遠くを見ていた兄弟子の後ろ姿。
誰もいない廊下で、師範が黙って立っていた日の気配。
道場の床を拭いていたあの人の、ぬるんだ手の感触。
それらが一斉に蘇ってきて、静の胸をひたひたと満たしていく。
記憶というものは、ある瞬間、なだれのように押し寄せる。
(僕は、たぶん――)
生きて帰らないだろうと、心のどこかでは思っていた。
だが今夜だけは、その予感の影に身を潜ませながら、ほんの少しだけ、未来という幻を見せてもらってもいいのではないか――そんなふうに思えた。
静は、膝を抱えて、天幕の片隅に身を寄せた。
息をする音が、自分にしか聴こえないことが、不思議だった。
この夜、誰とも言葉を交わしていないのに、心がやけにざわついていた。
不意に、呟いた。
「……どうして、こんな夜に」
その声は、宙に吸い込まれていった。
※
朝が近づく。
空はまだ墨色のままだったが、東の端がごくわずかにほつれていた。
夜の帳がほどける前の、ほんの一瞬。
世界が完全に沈黙する直前、沖田はひとつだけ、願うように目を閉じた。
――どうか、この命が、誰かの明日につながりますように。
そして、静かに目を開いた。
その瞳の奥には、ひとつの約束が宿っていた。
口には出さずとも、誰に伝えることもなくとも、あの夜、彼は確かに“生きて戦のあとを見たい”と、そう思ったのだ。
それが、彼がはじめて考えた“未来のこと”だった。