第三章:戦友との邂逅
第一話「その背に立つ者」
乾いた風が吹き抜けた。水たまりには霜が降りている。小さく雪の降る朝だ。
瓦礫の多い野営地の端、岩と粘土が交じる斜面の上に、白い姿がひとつ、ぽつんと立っていた。
背には剣。肩には薄く剥げた布の外套。
足元には、倒れたまま回収されぬ壊れた荷車と、黒く乾いた血の痕。
――あれが、“沖田静”か。
その名を口にする者は、誰もいなかった。
だが、到着と同時に空気が変わったことを、矢野蓮は誰よりも敏感に察していた。
小さな部隊だった。もともと別の拠点で編成された寄せ集めで、人数も決して多くはない。
だからこそ、誰が来たかはすぐにわかる。
沈黙がひとつ増えた。
輪の外から、冷たいものが侵入してきた。
その中心にいたのが、件の男――
白装束の若者だった。
※
「“鬼神”が来るって噂、あれほんとだったのかよ……」
新兵のひとりが、薪を運ぶふりをして小声で言った。
周囲の者は顔を伏せたまま、誰も相槌を打たなかった。
噂は、届いていた。
――白装束の剣士、たったひとりで前線の斥候部隊を壊滅させた。
――敵兵八人を一撃で仕留め、返り血ひとつ浴びなかった。
――名前も階級もない、ただ「白い鬼神」とだけ呼ばれる兵がいる。
実際の話かは誰もわからない。だが、伝説は真偽よりも速く広がる。
「近づかねぇほうがいいぜ。見ただろ? あの目」
そう囁く兵たちのなかで、矢野は口を閉ざしたまま、ただその姿を遠巻きに見つめていた。
――あいつは、鬼か。
それとも、まだ人か。
答えはなかった。
※
初めて言葉を交わしたのは、翌朝だった。
前線の哨戒任務に選ばれたのは、矢野と、他二名の歩兵、そして“沖田静”。
簡素な地図と、方位磁石。携帯用の乾餉。
そのすべてを黙って受け取った沖田は、指揮官の指示が終わると、何も言わずにその場を離れようとした。
「おい、お前も、だろ」
矢野が声をかけた。
沖田は立ち止まり、ちらりとこちらを見た。
目が合った瞬間、矢野は自分の喉が少しだけ鳴るのを感じた。
深い。
濁っていない。
けれど、底がない。
まるで、誰の死を見ても何も感じなくなった者の目――いや、それともまだ、“何も知らない子ども”の目なのか。
「哨戒班、四人だ。合図くらい共有しろ」
矢野が短く言うと、沖田はふ、とだけ小さく息を吐いて、うなずいた。
「……了解です」
その声は、驚くほど静かだった。
※
任務の最中、沖田はほとんど言葉を発しなかった。
だが、行動は正確だった。
鳥の羽ばたき、風の向き、草の揺れ、すべてに耳を澄ませ、
一歩進むごとに足音の角度まで調整する。
誰よりも早く異変に気づき、誰よりも素早く身を伏せる。
その動きは、鍛錬の賜物ではない。
――生存本能の結晶。
矢野は、そのすべてを背後から見ていた。
“鬼神”と恐れられる者の、あまりに慎重で、あまりに孤独な歩き方。
それを知った瞬間、背筋を、冷たいものが走った。
この男は、戦っているのではない。
生き延びているのだ。
ただ、それだけのために。
※
敵兵との接触は、帰路の途中だった。
矢野と沖田が先頭、ふたりの兵が後方。
斜面の影から、五人の斥候が現れた。
刹那、空気が凍った。
誰かが叫びかける前に、
沖田の体が、矢野の前から消えた。
――音が、なかった。
一瞬のうちに、敵兵のひとりが崩れた。
その背後の男が振り返るより早く、白い刃が走った。
二、三――
そのとき、矢野は動かなかった。
いや、動けなかった。
初めて見る、あの“噂”の現実だった。
白装束のなかで、ただひとつだけ濡れていく“剣の軌道”に、目が奪われた。
音も、叫びもなかった。
沖田静は、まるで“演奏”でもするかのように、無音のまま、次々と敵を斬っていった。
残ったひとりが逃げようとしたとき――
「矢野!」
後方の兵が叫んだ。
矢野の名。
その瞬間、残りの斥候がこちらに弓を構えた。
だが、その矢が放たれる前に、沖田の体が滑り込んだ。
剣が弦を弾き、矢を断ち切る。
そのまま、静の背が、矢野の目の前に立った。
背中があった。
白く、濡れた布が揺れた。
風のなかで、まるで“盾”のように、その背が立っていた。
矢野は、その背中を、初めて見た。
斬るための背ではなかった。
護るための背だった。
ただ、それだけ。
※
戦いは、三分もせずに終わった。
誰も喋らなかった。
ただ、倒れた敵兵の懐から転がり落ちた、家族の印の入った小袋を、沖田が黙って拾い、
それを再び元の場所に戻したのを、矢野は見ていた。
※
帰還後、ふたりは並んで座っていた。
兵舎の裏手。焼け焦げた木材の影。
夕暮れの風が通り抜ける。
沈黙が、ただ在った。
「……お前、名前は」
矢野がようやく口を開いた。
沖田は、目を伏せて、小さく答えた。
「静。……沖田静です」
矢野は、ふっと笑った。
「名前、あるんだな」
その言葉に、静は眉を動かした。
「まさか……ないと思ってたんですか?」
「うん、ちょっとだけ」
笑って言う矢野の声に、静は、かすかに笑みを浮かべた。
※
その日以来、ふたりは互いの“背”に立つことが増えた。
名を呼ぶこともあった。
会話も交わした。
だが、心の奥までは、まだ届かない。
矢野は思っていた。
――この男は、誰の命も奪いたくないと思っている。
けれど、剣は、その手にある。
それは、優しさのようで、残酷だった。
※
夜。矢野は夢を見た。
無数の血と、砂のなか、ひとりで立ち尽くす白い鬼神の姿。
誰も近づけないその背に、自分だけが、呼吸を殺して立っていた。
その夢が、何を意味しているのかは、まだ知らない。
第二話「まだ名もなき信頼」
朝霧がまだ溶けきらぬ時刻、矢野蓮は薄明かりの中で立ち止まり、周囲を見渡した。
地を這うような靄が、草の葉にまとわりつき、気配を濁す。遠くから聞こえるのは鳥の鳴き声ではなく、風に運ばれた砲声。
それは、いずれ自分たちが踏み込んでいく音だった。
その日、彼は任務として補給路の迂回確認に出ることになっていた。道案内として同行するのは三人。うちひとりは、白装束の剣士――沖田静。
「……矢野さん、こちらで間違いないかと」
小声で、沖田が矢野の背後に並ぶ。敬語だが、硬くはない。親しみの温度が少しだけ上がった声音。
昨日の共闘を経て、少し距離が縮まったのかもしれない。けれど、まだ互いに探り合っているのがわかった。
矢野は頷いた。
「合ってる。たぶん二百メートル先の森が、地図で言う“切れ間”だな。行ってみよう」
静はそれ以上言わず、頷いて先を歩き出した。柔らかい足音。剣を背負った影は、濃霧の中でぼんやりと滲んでいた。
※
――静。
そう、呼ぶようになったのは、ほんの昨日のことだ。
最初は、白装束の男、と呼ぶ以外に言いようがなかった。何を考えているかわからない。何も語らない。だが剣だけは、すべてを語る。
矢野の中で、あの男は“恐怖”に近かった。
だが同時に、それは“感覚的な安心”でもあった。
敵を斬るのに一切の躊躇がない。
正確無比で、速い。判断も早い。
それでいて、斬った敵の遺体を見下ろすまなざしには、どこか――憐憫のようなものがあった。
そういう目をする奴を、矢野はこれまで戦場で見たことがなかった。
※
「矢野さん」
澄んだ呼び声に、矢野は思考から引き戻された。
足元の草が濡れている。朝露ではない――血だ。
「これは……昨日の戦闘とは別口か?」
静が小さく頷いた。
「たぶん、夜明け前にあった小競り合いですね。靴の跡がまだ新しいです。……敵もまだ近くにいるかもしれません」
「引き返すべきか」
「いえ……このまま進んでも大丈夫だと思います。痕跡は、森の南側へ抜けています」
静は膝をつき、地面に触れる。
その仕草が、妙に丁寧だった。まるで誰かに触れるように、地面の温度を感じ取ろうとしているかのようだった。
「静」
呼びかけると、静はふと顔を上げた。
「お前、そういうの……どこで覚えたんだ?」
「“どこで”というより……気づいたら、できてたんですよね。気配とか、音とか、そういうの」
「剣術の道場でも行ってたのか?」
「……ええ、少しだけ。兄弟子の真似をしてただけですけど」
そう答えると、静は口元に微かな笑みを浮かべた。けれど、その笑みは、どこか痛ましかった。思い出したくない記憶を、無理やり微笑みに変えたような――
矢野はそれ以上、何も訊かなかった。
※
戻った野営地では、小競り合いに巻き込まれて負傷した雑兵が運び込まれていた。
肩を深く斬られたらしい若者は、必死に叫んでいた。
「やめてくれ、頼む、まだ死にたくないんだ……!」
その声に、静がわずかにまなざしを落とす。
彼の隣に立っていた矢野は、その横顔を、しばらく黙って見ていた。
何も言わない静。けれど、胸の奥で何かが騒いでいるのが、確かに伝わってきた。
手のひらを、わずかに握っていた。
※
その日の午後。
矢野と静は、野営地外縁の補給口で監視任務についていた。
「なあ、静」
矢野がぽつりと声をかけたのは、日が傾き始めた頃だった。
「お前、名前、変わってるよな。静って。……誰がつけたんだ」
「……え」
静が振り向く。
予想していなかったらしい問いに、素直な顔をしていた。
「お世話になっていた道場の方です」
「ん……?」
「僕、小さい頃から……その、戸籍がないんです。拾われたみたいなもんで。正式な名前って、よくわからないんですよ」
淡々と語る口調のなかに、わずかな寂しさがあった。
けれど、それを矢野は責めようとは思わなかった。
「それで、道場でも“沖田”って名乗ってたのか」
「ええ。名乗らないと、いろいろ不便だったので」
「……なんで“静”なんて名前がついたんだろうな」
「……静かに生きてほしい、みたいな意味じゃないですか。皮肉みたいですけど」
静の言葉に、矢野はふと笑った。
「確かにな」
「でも、ほんとは――」
その先を、静は言わなかった。
けれど矢野には、十分だった。
※
その夜、野営地の南端で騒ぎが起きた。
物資を運ぶ別動隊の一人が、森に紛れていた敵兵と鉢合わせたというのだ。
駆けつけた矢野が見たのは、血まみれの雑兵と、倒れている敵兵。
そして、雑兵をかばうように立っていた沖田静の姿だった。
剣はまだ鞘に収められていた。
「静……お前が、やったのか?」
矢野の問いに、静はほんの少しだけ間を置いて、頷いた。
「相手が、剣を抜く前に踏み込みました。あれ以上、彼が叫んでいたら、敵兵の仲間が集まってきてたはずです」
言い訳ではない。ただの説明だった。
冷静で、静かで、穏やかで、それでも――
「矢野さん」
静が、はっきりと矢野を見た。
「……僕、人を斬るの、ほんとは嫌いなんです」
それは、これまで聞いたどんな言葉よりも、矢野の胸を刺した。
あれほどに剣を振るい、あれほどに迷いなく命を奪ってきた男の口から出た言葉が、それだった。
――なら、お前はなぜ、ここにいる。
喉まで出かかった言葉を、矢野は飲み込んだ。
そして代わりに、こう言った。
「知ってるよ。見てたからな、お前が斬ったあとの顔。……お前、泣きそうだった」
静が、目を見開いた。
矢野はそれ以上、何も言わず、その場を離れた。
※
その夜、矢野は眠れなかった。
白装束の背中が、脳裏に焼きついていた。
誰よりも剣を知り、誰よりも命を奪う術を持ちながら、
その実、誰よりもそれを嫌う者。
――こいつは、鬼神じゃない。
そう思った。
そうではなく、
“ただの人間”なんだと。
人を斬って、
生き延びることを選んだ、
まだ、若すぎるほどの。
※
そして、矢野はその晩、夢を見た。
白い霧の中。血の海。無数の死体。
そのなかで、ひとり立ち尽くす静の姿。
誰の手も届かぬところに立ち、それでも、誰かを斬り続けなければならない背中。
自分は、その背を、遠くから見ていた。
ただ、何も言えずに。
夢の中で、彼は静の名を呼ぼうとした。
けれど、声は出なかった。
第三話「深紅に濡れた問答」
その日、空は朝から曇っていた。
湿り気を帯びた灰の光が、地表に重たく降りていた。
霧ではなかったが、景色の輪郭はどこかぼやけて、遠くの音もいつもより遠く感じた。
矢野蓮は、斜め前を歩く白い背中を見つめていた。
その装束は、濡れた土で裾が重たげに沈んでいるはずなのに、なぜか風の中でふわりと浮くように見えた。
「静、剣は……鞘に?」
「ええ。まだ匂いがしませんから」
静はそう答えると、背負ったままの剣に指先だけを添えた。
矢野の目には、それがまるで“剣と話している”かのように見えた。
※
任務は、斥候の後詰だった。
前夜に進軍した小隊が、敵軍の集落に近づいたという報が届き、状況の確認と、必要であれば救援を行うために、矢野たちが送られたのだ。
――そして、
彼らが現地に辿り着いたときには、すでにそこには“戦”はなかった。
あるのは、屍だけだった。
斥候隊の兵士数名が倒れている。すべて、喉元を貫かれていた。
そしてその中央に――
敵兵が三十人以上。
全員が、同じように斬られ、積み重なっていた。
「……何だよ、これ……」
誰かがそう呟いた。
それは矢野ではなかった。だが、矢野の喉も同じ言葉で詰まっていた。
その場に、立っていた者がひとり。
斥候隊の一人と思しき男が、口をぱくぱくと動かしていた。
生きている。だが、正気ではなかった。
矢野は、そばに駆け寄った。
目の前にしゃがみこむと、男の瞳が虚空のまま焦点を結ばないまま、ぽつりと呟いた。
「ひとりだった……白い服の奴が……ひとりで全部……全部……」
矢野の背後から、足音が一歩近づく。
静だった。
彼は、斬られた遺体の山を黙って見下ろしていた。
そして、静かに言った。
「敵の剣士は三十六。斥候隊はこちらが七名。……全滅ですね。生きてるのは、彼ひとり」
「待て、それより――」
「ええ、見てますよ。……この斬り方は、全部、ひとつの剣筋で貫かれています。迷いがありません」
「まさか、全部――」
「ええ。……“ひとりで”斬ったんでしょうね」
静の声は、淡々としていた。
感情がないわけではなかった。けれど、必要以上に驚くことも、取り乱すこともなかった。
矢野は、その横顔を見た。
まなざしが、少しだけ濁っていた。
あるいは、何かを知っている者の目。
「……お前、まさか……」
問いかけかけた瞬間、遠くから砲声が響いた。
「矢野さん、戻りましょう。後詰に報告を。彼は僕が連れて行きます」
静はそう言って、斥候の男に布をかけ、立ち上がった。
そのとき、矢野ははっきりと見た。
静の背負った剣の鞘に、乾いた血がついていた。
※
夜、野営地に戻ったあとも、矢野は眠れなかった。
さっきの戦場跡が、脳裏から離れない。
なぜ、剣士ひとりで三十六人を斬れるのか。
なぜ、それを静が“当然のこと”のように受け止められるのか。
わからなかった。
けれど、矢野は“何かを恐れている自分”を確かに感じていた。
あの白装束の背中。
あの剣の鞘の乾いた血。
そして、斬られた者たちの顔に浮かんだ、驚愕と恐怖。
“斬られたこと”よりも、“斬ったものの顔”に、何かを見たような表情。
それは、獣を見るときのような、あるいは――
神を見るときのような。
※
翌朝。
矢野は静を探していた。
まだ日が昇る前だったが、直感的に「彼は外にいる」と思った。
野営地の背後、小さな丘の上。
木立の隙間から、白い装束が見えた。
「……おい、静」
声をかけると、静はゆっくりと振り返った。
「矢野さん。おはようございます。……寝られませんでしたか?」
「そっちこそ」
矢野は近づき、並んで腰を下ろした。
丘の向こうに、まだ眠っている野営地が小さく見えた。
しばらく、ふたりとも何も言わなかった。
そして、矢野はぽつりと口を開いた。
「……あの三十六人、お前がやったんじゃないよな」
静は、すぐには答えなかった。
けれど、否定もしなかった。
「……僕は、ただ、助けたかっただけです」
それだけを言った。
矢野は言葉を失った。
静が、真実を語っていることがわかってしまったからだった。
「お前……」
「怖いですよね、僕」
静が、少しだけ笑った。
その笑みは、寂しさと自嘲の混じった、鋭くも脆い表情だった。
「僕、自分でもよくわからないんです。……ただ、“ああすれば助かる”っていうのが、わかってしまうんですよ。身体が先に動くんです」
「……三十六人を?」
「斬っても、斬っても、終わらなかった。……気がついたら、周りは全部、倒れてて。……それだけです」
矢野は、しばらく何も言えなかった。
目の前にいるのは、自分と同じ兵士だ。
同じ若さで、同じように汗を流している。
だけど、あの剣筋。
あの速度。あの冷静さ。
そして、あのときの目。
人間のそれとは、思えなかった。
「なあ、静……お前は、剣で何を護ってんだ?」
それは、矢野の中でずっと渦巻いていた問いだった。
静が一瞬だけ目を伏せる。
「……僕にも、わかりません。ただ、“何かを護らなきゃ”って、ずっと思ってるんです。たぶん、それだけが残ってる。……何かの記憶みたいに」
「記憶?」
「ええ。夢かもしれませんけど……」
言葉がそこで途切れた。
丘の上に、朝日が差し込む。
静の白装束が、朝焼けに染まった。
その赤は、血ではなかった。
けれど、なぜか――
矢野は、あの戦場の血の色を思い出していた。
※
その日以降、矢野は静と行動を共にすることが増えた。
それは命令ではなかった。自然と、そうなったのだ。
矢野の中で、静に対する“恐怖”は、“信頼”へと変わりつつあった。
ただしそれは、“背中を預けられる”という意味において、である。
人間として、ではなかった。
――それでいいのか?
矢野の中の何かが、そう問いかけていた。
だが、彼にはまだ、その問いに答える術がなかった。
第四話「その剣は、奪わずに届いた」
雨が降ったあとだった。
あの夜の、ぬかるんだ土のにおいを、今も忘れられない。濡れた木の葉が兵の靴に貼りつき、剣の柄は泥で滑りやすく、炎の届かない山の斜面は、死体と、死にきれぬ呻き声と、空に帰れない魂でいっぱいだった。
俺は、捕虜になった。
戦いが終わったあとで、命を拾われた。
それがどういう意味を持つのか、最初はわからなかった。ただ、殺されなかった。あれだけ味方を斬り殺した者たちのあいだで、俺だけが、命を奪われなかったのだ。
それは赦しでもなければ、慈悲でもない。俺たちは、あまりにも無様だった。応戦もままならず、雪崩のような白装束の一団に呑み込まれて、壊れたように仲間が倒れていった。あれが、ひとりの剣士の手によるものだったと知ったのは、しばらく経ってからだ。
俺は、その男を見た。
名も知らぬその者が、ただ静かに歩いてきて、風のように抜き身の剣を振るい、命を絶たぬまま、俺の前に立った。
あれは――
本当に、人間だったのだろうか。
※
戦のあとは、記憶のなかでよく歪む。
どこから話せばいいのかわからない。思い出すと、喉が詰まるような息苦しさがある。それでも、語らねばならぬ気がしたのだ。あれは“何か”だった。確かに俺は、斬られなかった。命を奪われなかった。
だが、それは単なる「見逃された」とは違う。
剣が、届いたのだ。
心の奥に、深く。けれど、奪うことなく、貫かれた。
――目の前にいたのは、ひとりの少年だった。
否、少年と呼んでよいのかもわからぬ。
顔立ちは若く、年端もいかぬはずだ。だがその瞳だけは、酷薄な年月を生き延びた者のものだった。
その男は、静かだった。荒ぶることも、叫ぶことも、誇示することもなく、ただ、淡々と立っていた。白装束は、血で染まっていたが、本人のものかどうかはわからない。おそらく、多くの者の血が、あの布に沁み込んでいたのだろう。
――剣を持っていた。
それは鈍く光る刃で、鍔も柄も、軍の支給品のように質素だった。
何の飾り気もない。名もない。
だが、それは確かに“剣”だった。殺すためではなく、通すための道具だった。
俺がその場にひれ伏していたとき、その白い鬼神のような剣士は、歩を止めた。
そして、俺の目の前で、剣を構えた。
――来る、と思った。
首筋が冷える。次の瞬間には、すべてが終わる。そう、覚悟した。
だが、その剣は、振り下ろされなかった。
※
まばたきをした。
それだけの一瞬で、目の前の空気が、凪いだように感じた。
恐怖の向こう側で、何かが音もなくすり抜けた。
「……なぜ、俺を殺さない」
声に出たのは、そう問うような呟きだった。
自分の意思というより、身体が勝手に発した言葉だった気がする。
彼は答えなかった。
だが、代わりに、こう言った。
「――剣は、命を運ぶ道です。奪う道ではない」
そのとき、初めてその声を聞いた。
静かだった。澄んでいて、柔らかく、年齢の割に落ち着いていた。
だがそれは、“ひとを殺してきた声”だった。
すでに何十人、いや、百人以上の命を手にかけてきた者が持つ声。
それでいて、まるで何も背負っていないかのような、透明な音色だった。
「俺は、おまえを殺しても、何も得られない」
その言葉は、裁きではなかった。
宣告でもない。
それはただの、事実だった。
※
俺は震えた。
武器を握る手が汗で滑り、指先はもう感覚を失っていた。
敵として対峙したはずだったのに、その瞬間、俺はただの「ひと」だった。
生かされたことが、重たかった。
自分の存在が、値踏みされ、そのうえで「殺す価値もない」と見做されたこと。
それは惨めでもあったが――
同時に、どこか救いでもあった。
「名を、教えてくれ」と言おうとして、言えなかった。
なぜなら、そんなものは最初から、この戦場には存在していなかったからだ。
名を問うことすら、愚かに思えた。
そこにいたのはただ、“剣”だったのだ。
※
捕虜となった俺は、しばらく別の村で留め置かれた。
やがて、戦が終結したとき、解放された。
だが、その後の日々、俺のなかであの剣の記憶は、消えなかった。
いや、むしろ時が経つほどに、あの一太刀の“無”が、深く染み込んできた。
あれは、殺さない剣だった。
だが、届いていた。確かに、届いていた。
あの日の俺にとって、それは「命を奪われる」よりも、ずっと重かった。
――赦されたわけじゃない。
――救われたのでもない。
ただ、目を逸らされなかった。
それだけだったのに。
それだけだったのに――俺は、泣いてしまった。
※
その剣士の名は、最後まで聞かされなかった。
風の噂に、白装束の若き剣士の話を耳にしたことはある。
だが、それが彼だったのかどうかは、今となってはわからない。
人は“鬼”と呼び、“神”と呼んだらしい。
だが、俺はそうは思わなかった。
あれは、ただの“人”だった。
誰かのために、何かのために、剣を抜き、血の海を歩いてきた少年。
血に濡れた手で、なおも剣を握りつづけなければならなかった者。
だからこそ、あの剣は、
奪わなかったのだ。
何も、奪わずに、ただ、届いていた。
※
今でも、夢に見る。
ひらりと翻る白の布。
足音すら立てぬ、静かな足取り。
殺意も怒気も持たぬ、ただの剣の動き。
そのすべてが、今も、脳裏に焼きついて離れない。
俺は戦を離れたあと、武器を捨てた。
二度と、誰かに刃を向けることはなかった。
平凡な暮らしを選び、耕し、家族を持った。
けれど、心のなかには、今もあの剣がある。
届いたままの剣。
奪われなかった命。
あのときの、名もなき声。
もし、彼がまだ生きていたのなら。
もし、今どこかで、新しい名を持って生きているのなら――
俺は伝えたい。あの剣は、確かに、俺を変えたと。
奪わずに、届いたその一太刀が。
誰より深く、俺を貫いたのだと。
第五話「はじまりの横並び」
その日、空は透き通るように晴れていた。
春の冷気は名残を惜しむように地を這っていたが、陽光だけは、まるで何かを赦すように、戦場に降り注いでいた。兵たちはそれぞれ武具の点検を終え、集落の外れに設営された野営地で待機していた。けれど、誰の表情にも余裕はなかった。今日が「前哨」ではなく、「本戦」であることを、彼らの背筋が語っていた。
その中央、ほかの班から少しだけ距離を置いた場所に、ふたりの兵士が並んで腰掛けていた。
背中はまだ触れていない。けれど、互いの存在を否応なく意識する、そんな間合いだった。
ひとりは、白装束を上から羽織った細身の少年――沖田静。
もうひとりは、均整の取れた体格の槍兵、矢野蓮。
「……なんか、もう馴染んでるな。俺ら」
矢野が言った。口調は飄々としているが、内心は少しばかり戸惑っていた。
この二週間、彼らは同じ隊で複数の戦場に投入された。そのたびに、何故か編成上の理由で横並びに配置され、自然と共に動くことが多くなった。命令されたわけではない。ただ、そのほうが効率が良かった。
「どうですかね」
静は、陽の眩しさに目を細めながら、茶目っ気のある声で応じた。
相変わらず、敬語は崩れない。
「静、おまえさ、俺のこと“矢野さん”って呼ぶけど、ちょっと堅くないか?」
「……そうですか?」
「まあ、いいけどさ」
軽い笑いを交わし、ふたりは再び沈黙する。
その沈黙が、気まずくないことに、矢野はふと気づいた。
※
最初は、警戒心からだった。
白装束をまとう剣士。
鬼神と呼ばれ、名前も不確かだと噂される男。
最初の戦闘で矢野は、それが虚名でないことを知った。
静の剣は、冗談のように速く、致命を避けながら敵を崩していく。
刀身は濁らず、表情は動かず、ただ斬る。ただ、斬る。
だが――矢野には、それが“優しさ”だとは思えなかった。
殺さないための技ではなかった。
それは、殺しきることさえも拒絶した、“無関心の剣”だった。
あまりにも整っていた。
人を人として見ずに済ませるために、すべてを研ぎ澄ませたような剣だった。
「静……おまえ、怖くねえのか?」
それが、初めて矢野が問うた言葉だった。
夜の火の前で、二戦目を終えたあとのことだった。
「怖いですよ。――でも、斬らないと、僕らは生き残れません」
静は、遠くで鳴く夜鴉に視線を向けたまま、静かに言った。
「矢野さんは、僕の後ろを見てください。僕は、矢野さんの横を見ますから」
「……おい、なんだよその言い方」
「背中を任せるのは、まだ少し怖いです。でも、横なら、並べますから」
その夜、矢野は火を見つめたまま、長いこと眠れなかった。
※
三戦目の夜。
ふたりは初めて「一隊」として任務を任された。
敵斥候の捕縛。先鋒から後衛までをカバーしながらの哨戒行軍。
他の兵は三名。だが、実質的に動くのは、矢野と静だった。
泥濘の山道を越え、夜気に冷える橋を渡り、黒ずんだ林に足を踏み入れたとき、静がぴたりと足を止めた。
「右奥、三。……背中にひとつ残ります」
矢野は息を殺して構えた。
その言葉の意味を理解していた。
静が「残る」と言ったとき、それは“誰かが来る”という意味だ。
暗闇の中、斬撃音は風に紛れ、矢野は無言のまま槍を繰った。
彼の背を預けるのは、静ではなかった。
だが、彼の肩に寄り添うようにして、その剣士は常に斜めの間合いを保っていた。
まるで、ふたりで一枚の盾のようだった。
敵の姿が消えたあと、矢野はふと静の顔を見た。
「おまえ、息切れてないのか?」
「……切れたら、終わりますから」
その言葉に、冗談の響きはなかった。
※
その後の戦で、ふたりは常に「並ぶ」ように配置されるようになった。
誰に言われたわけでもない。だが、上官の目配せも、兵士たちの視線も、そうなることを当然としていた。
「沖田と組めるのは、矢野だけだろうな」
「なんつうか……あいつら、呼吸が合いすぎてて気持ち悪いくらいだ」
「でも、あれがいちばん無事で済む。誰かが斬られるくらいなら、あのふたりに任せとけって感じ」
そんな声が、次第に周囲で広がっていった。
矢野はそのたびに、肩のうしろがぞわりとするのを感じていた。
あの剣は、人を護っているのではない。
ただ、効率的に敵を排除しているだけだ。
斬らないように見えるのは、そのほうが次の一手が速くなるから。
そう思えてならなかった。
――このまま、あいつの“剣”に慣れていいのか?
そんな疑問が、矢野の中でかすかに膨らんでいた。
※
「矢野さん」
ある晩、静がふいに話しかけた。
「もし、僕が、あなたの背を見て斬ったら――怒りますか?」
「……どういう意味だ、それ」
「いえ、たとえばの話です。僕が、あなたの背中を“護る”つもりで、勝手に斬ってしまったら」
矢野は一瞬、言葉に詰まった。
「……怒る。そりゃ、怒る。背を護るのは、自分でやるもんだろ」
「ですよね」
静は少しだけ笑った。その表情は、どこか救われたようにも見えた。
「だから、僕はあなたの“横”で、斬ります」
「――……」
「それが、いちばん僕にとって、楽な位置なんです」
※
その夜、矢野は夢を見た。
泥まみれの戦場。血の海。
その中を、ただひとり歩いていく白い背中。
剣は、何かを護るためではなく、すべてを捨てるように振るわれていた。
矢野はその背中を追いかけた。けれど、どれだけ足を速めても追いつけなかった。
――その背中に、声が届かない。
目覚めたとき、額には汗が浮いていた。
息を吐きながら、矢野は思った。
――いつか、あの背中に並び、声が届く日が来るだろうかと。
第六話「静けさの中で呼吸するもの」
夜の山は、音を呑む。
それは、戦の直後にだけ訪れる沈黙だった。
風が途絶え、焚き火の炎さえ揺れず、兵たちの囁きも消え、ただ大気が息を潜めるように、冷たく静まる。
――それを矢野蓮は、何度か体験していた。
けれど、その夜の“沈黙”は、今までと少し違っていた。
息を詰めるような緊張ではなかった。
どこか、剥き出しの痛みを、土の底に隠しているような静けさだった。
新たな戦地への投入前夜。
矢野と沖田は、同じ隊の一角に身を置き、隣り合うようにして沈黙していた。
焚き火の火は、すでに炭に近い。
周囲では兵たちのうち幾人かがまどろみ、残りは武具の整備や物資の確認に追われていた。
矢野は槍を立て、背中を丸めるようにして座っていた。
視線は宙に浮かび、言葉は口に出なかった。
けれど、すぐ隣にいる男の“気配”だけは、ひどく濃かった。
※
それは昼間の戦でのことだった。
川沿いの小さな砦。斥候を送り込んだ敵の先遣隊が、林の陰から襲いかかってきた。
交戦は、短かった。
だが、問題はその“終わり方”だった。
沖田が、一撃で止めたのだ。
否、正確には、“止めてしまった”。
敵兵の一人が、後衛の仲間に向かって走り出したときだった。
静はふっと姿を消すように走り、次の瞬間にはその男の目の前に立っていた。
剣が、振るわれた。
斬ったようには見えなかった。
ただ、風が動いた。
次の瞬間、その敵兵は、のけぞるようにして膝をついた。
呻きもせず、声も発さず、ただ地面に両手をついたまま、目を見開いたまま、ゆっくりと動かなくなった。
――斬られていない。
だが、立ち上がれなかった。
倒れた男の身体には、傷ひとつなかった。
にもかかわらず、命の火は消えていた。
※
「……あいつ、斬ってないよな?」
戦のあと、矢野は思わず周囲の者にそう言った。
けれど、誰も明確な答えを返さなかった。
誰もが、“あれは見なかった”というような顔をしていた。
静は、何も言わなかった。
火のそばに座り、黙って柄を布で拭っていた。
刀身に、血はついていなかった。
矢野は言葉を飲み込んだ。
あれが何だったのか、訊くことができなかった。
――斬っていないのに、殺してしまった。
そんな剣が、あるのか。
それは技術の話ではなかった。
彼にはわかっていた。
あれは、“剣”そのものが、生き物のように命を奪ったのだ。
静の手を通して、あるいは、その手をすら通さずに。
※
「ねえ、矢野さん」
火がすっかり小さくなった頃、静が声を出した。
「ん」
矢野は返事をしたが、目は合わせられなかった。
あの昼の光景が、脳裏を焼いて離れなかった。
「今日、僕が何をしたのか、訊かないんですね」
その声は、妙に淡々としていた。
自白でも、弁明でもなかった。
「訊きたくない。訊いたら……全部、わかってしまいそうで」
矢野の言葉は、自分でも驚くほど正直だった。
「僕も、わかりたくありません」
静は、そう言った。
「でも、手は、動くんです。目が覚めると、立っているんです。……相手の前に」
矢野は、焚き火の火を見た。
かすかに、灰が宙に舞っていた。
そのひと粒が、静の頬に当たって、白い皮膚に消えていった。
「おまえ、どこまで行く気なんだ?」
「――え?」
「……いや」
言ってから、矢野は少し後悔した。
問いがあまりに曖昧だった。
どこまで“強く”なるつもりか、どこまで“狂って”しまうのか、あるいは、――どこまで“殺す”つもりか。
そのどれとも取れるような、問いだった。
静は、しばらく黙っていた。
そして、ごく微かに微笑んだ。
「たぶん、僕はもう……途中なんです。どこへ向かっているのかも、自分ではわかっていない。でも、それでも、――誰かの命を、もう増やさないために、進むしかない」
※
矢野は、その夜、眠れなかった。
それが初めてではなかったが、その晩の眠れなさは、質が違っていた。
静が言った言葉は、ずっと頭のなかを反芻していた。
誰かの命を“もう”増やさないために。
それは、ただの軍人の言葉ではなかった。
それは、“命を積んできた”者の言葉だった。
どれだけの命を、自分の手で終わらせてきたのか。
数えたことはないのか。
数えることを、やめたのか。
――矢野には、そこまでの世界はわからなかった。
でも、わからないままに、同じ場所に立っていることが、怖かった。
※
翌朝、編成表に目を通した上官が、隊員たちに言った。
「今回の前線、沖田と矢野は、そのまま組で動け。他の者は第三班に移動しろ」
自然な決定だった。
誰も疑問を持たなかった。
ふたりの名前は、常に並んで記された。
矢野は、紙の端に書かれた自分の名と、沖田の名を眺めながら、これが“信頼”なのだと知った。
戦場における信頼――それは、命を投げ出す準備があるということ。
相手の判断を、結果がどうであれ肯定する覚悟のこと。
でも同時に、それは、相手がどこかへ向かうのを黙って見送る“許可”でもある。
矢野は、そこにある危うさを、ようやく意識し始めていた。
※
戦が始まった。
敵地へ踏み込み、伏兵を退け、味方を導く。
いつものように静は前へ進み、矢野はそのすぐ脇を支えた。
剣と槍が交差し、動線が交わり、気配が波紋のように広がる。
ふたりはもう、目を合わせずに息を合わせることができた。
だが、矢野の胸の奥には、火がともり続けていた。
あの剣は、何を選び、何を拒み、誰を斬っているのか。
そのすべてを理解できないまま、自分はこの背に立っていいのか――。
※
その夜、矢野は再び夢を見た。
真っ白な戦場。
人の声も、死の匂いも、血の色も消えた景色で、
沖田静だけが、歩いていた。
彼の足元には、倒れた兵たちの影が、光のように広がっていた。
誰も彼を止められず、誰も彼に名を呼ばなかった。
矢野は夢の中で、何度もその名を呼んだ。
けれど、声は届かなかった。
その背中は、どこか“人間”ではなかった。
目覚めたとき、矢野は汗をかいていた。
胸の奥が、冷えていた。
――俺は、あいつの何を、見ていたんだろう。
そう思った。
第七話「刃の沈黙に降るもの」
戦の終わった夜ほど、静かな時間はない。
それは命が終わった夜でもあり、また命が繋がった夜でもある。
生き残った者たちは火を囲み、死んだ者たちは土に還る。
沈黙のなかで、焚き火の音だけが生きている。
時折、誰かの寝息と、剣の鍔に触れる指先の微かな音が混じる。
矢野蓮は、その焚き火のそばにいた。
沖田静は、少し離れたところで布に包まれた刀身を拭っていた。
血はほとんどついていなかったはずだ。
にもかかわらず、彼はずっとその行為を繰り返していた。
まるで、それが日常の呼吸であるかのように。
矢野はそれを、ただ見ていた。
いや、正確には“見ている”ふりをしていた。
静の背中は、日に日に遠くなっていた。
並んでいるはずの肩と肩に、目に見えぬ距離が生まれていた。
※
昼の戦は苛烈だった。
草木が密集する尾根道での攻防。
敵は森に紛れ、こちらの進路を分断する形で奇襲をかけてきた。
矢野は、槍を握ったまま視界を失った。
煙弾のような火薬が爆ぜ、黒いもやが視界を包んだ瞬間だった。
視えない。
聞こえない。
ただ、刃の空気だけが、すぐそこにあった。
――そのとき。
風が、通った。
あの剣だった。
沖田静の、剣の音。
実際に音がしたわけではない。
だが、空間が“切られた”ことが、矢野にはわかった。
それは殺意ではなく、ただ、刃だけが存在する場所。
何人もの敵が倒れていた。
矢野の周囲に、触れもしなかったはずの死体がいくつも転がっていた。
“視ずに、斬る”。
それがどういうことなのか、矢野はその時、はっきり知ってしまった。
――あいつはもう、“敵”と目を合わせていない。
命を命として見ないまま、すべての位置と速度だけを測り、
刃の届く範囲に入ったものを、自動的に排除していく。
それは、まるで人間の動きではなかった。
※
戦後、負傷者の運搬を終えたあと、矢野は隊長のもとへ呼ばれた。
「矢野。次の小隊再編でも、おまえは沖田と組だ」
「……ああ、了解です」
口ではそう言ったが、胸の奥に何かが沈んだ。
もう、驚きはなかった。
むしろそれが当然のように続いていることが、奇妙なほどだった。
隊長は紙をめくりながら、ふと呟いた。
「おまえと沖田を離す理由が、見つからん。あいつと噛み合う兵が他にいないんだ」
「……そうですね」
「おまえも、あいつが“変”だってことはわかってるだろ」
その言葉に、矢野は黙って頷いた。
「けど、あいつの剣は、隊を生かす剣だ。おまえがいるから制御できてるって話もある」
「……制御、ですか」
「ああ。あいつはな、剣を抜けば戦える。戦が終わっても、また剣を抜ける。けど“人間”に戻る場所が、いまのおまえしかないんだよ」
そのとき、矢野は思った。
――それは本当に“戻る場所”なんだろうか。
自分が今見ている沖田静は、果たして“戻って”きているのか。
それとも、ずっと“どこか”へ向かい続けているのか。
※
その夜、矢野は火のそばで尋ねた。
「静、おまえさ、いままで何人くらい斬った?」
静は顔を上げなかった。
ただ、手を止めることなく、剣を拭き続けていた。
「覚えていません。数えてもいません」
「……そうか」
「でも、数えなくなった日だけは、覚えています」
その言葉に、矢野は返す言葉を失った。
剣を持って戦うということは、そういうことだったのかもしれない。
けれど、彼にはそれが理解できなかった。
理解してしまったら、自分も“あちら側”に行ってしまう気がして。
「俺は……おまえのこと、尊敬してる。けど、少し……怖いんだ」
「怖がってください。正しいです、それは」
静はそう言って、はじめて矢野の方を見た。
その瞳は、まるで月のように、淡く、遠かった。
※
翌朝、風が強かった。
東からの風が、まだ枯れかけの木々を撓ませていた。
そのなかを、ふたりは並んで歩いていた。
地図にはない山道を辿る。新しい任地へと向かう道だった。
無言の時間が長くなったのは、いつからだったろう。
それでも気まずさはなかった。
呼吸の合わせ方だけは、もう馴染んでいた。
「矢野さん」
「ん」
「僕は、きっと……まだ人間でいられると思ってたんです」
「……」
「でも最近、自分の中に“人じゃない部分”が増えているのがわかる。あのとき、あなたが背を向けたまま、槍を振ってくれたこと、あれが、まだ“人間”に繋ぎ止めてくれていた」
矢野は答えなかった。
ただ、歩みを止めずに、その言葉を背で受けた。
風が吹いた。
白装束が揺れた。
音はしなかった。
けれど確かに、何かが揺らいだ気がした。
※
その夜、矢野は再び夢を見た。
静けさのなか、誰もいない戦場に、ひとつの背中だけが立っていた。
その手には剣がなかった。
けれど、剣よりも鋭い沈黙が、全身を包んでいた。
矢野はその背中を呼んだ。
声は届かなかった。
けれど、ただ、背中を見つめつづけていた。
目覚めたとき、胸の奥が痛んだ。
まるで、自分の剣が、どこかに置き去りにされたようだった。
第八話「その背に、人の影はあるか」
霧が出ていた。
それは、ただの気象ではなかった。
あの朝、山全体が何かに沈黙を強いられたような、異様な気配を孕んでいた。
風もない。鳥の声も聞こえない。木々の枝は、霧の膜の向こうでまるで絵のように静止していた。
矢野は、槍の石突きを地に立てたまま、吐く息の白さを眺めていた。
まだ陽が昇りきる前だった。
隣には、沖田静がいた。
白装束の裾が、かすかに霧を掻く音を立てている。
それ以外に、動くものはなかった。
「気味悪いな」
矢野は思わず、声を出していた。
静は応えなかった。
ただ、剣の柄に指を添えたまま、森の奥を見つめていた。
霧の向こうに、何かがいる。
そう感じたのは、直感ではなく経験だった。
――敵が来る。
それだけは、ふたりとも疑っていなかった。
※
その日、部隊は峡谷地帯を進んでいた。
南側から敵軍の補給路を断つための進軍だったが、相手は先に気づいていた。
伏兵。
四方からの包囲。
地形を熟知した者の動き。
すべてが、味方にとって不利だった。
「矢野さん、三秒で斜面を超えて」
静が、指一本で前方を指した。
矢野は即座に頷き、斜面の土を蹴った。
敵影が森の縁から姿を現す。
それを、静がひとりで受け止めた。
矢野の背中で、あの剣が鳴る音がした。
剣が空気を切り裂き、血飛沫も声も上げずに、ただ命を止める音。
それが、五度、六度と繰り返された。
矢野が斜面を駆けあがって振り返ったとき、
静は、たったひとりで七人の敵を倒していた。
すべての敵は、正確に急所だけを封じられていた。
斬り伏せられたというより、“眠らされた”ように沈んでいた。
「……おまえ、何者だよ」
思わず漏れた矢野の声に、静は微笑んだ。
その笑みに、矢野は戦慄した。
それは、“安堵”の表情ではなかった。
“正しく処理できた”という、ただの確認のような笑みだった。
※
その後の交戦で、隊は散り散りにされ、再編が必要となった。
重傷者を担いで戻ってきた兵たちは、誰もが言った。
「あのふたりがいなければ、全滅してた」
「沖田が斬って、矢野が守った。あれがなかったら、誰も生きちゃいなかった」
「沖田は、矢野の“目”があるから斬れるんだろ」
その評価は、矢野にとって誇りではなかった。
それは、言い換えれば――“矢野がいなければ沖田は暴走する”ということだった。
矢野の中に、ひとつの疑念が生まれた。
――俺がいなければ、あいつはどこまでいく?
命の境界も、痛みの意味も曖昧にした剣を、
あの男は、どこまで振るい続けるのか。
その行き着く先に、
“沖田静”という“人間”は、まだ残っていられるのか。
※
夜、焚き火の前で、矢野は静に尋ねた。
「おまえ、疲れねえのか」
「疲れますよ」
「……そうは見えねえよ。昼間あんだけ斬っといて、目がまったく濁らねえ」
「濁らないようにしてるんです」
「……どうして」
少しの沈黙。
「目が濁ったら、斬れなくなりますから」
その答えは、正直だった。
けれど、矢野の心には重く響いた。
「そんなもんか」
「そんなもんです」
静は火に顔を照らされながら、ゆっくりと目を伏せた。
その横顔は、あまりに穏やかで、
まるで血など知らない者のようだった。
※
その夜、矢野は夢を見た。
静が剣を抜く夢だった。
何十人、何百人と斬っていく。
顔も名も知らぬ敵兵が、ただ“処理”されていく。
その最中、ふと静がこちらを見た。
その瞳のなかには、何も映っていなかった。
矢野の姿も、景色も、斬った命も、何も。
目覚めたとき、矢野は胸の奥をかきむしりたいような衝動にかられた。
――あれは、本当に、沖田静の目だったのか?
※
その翌朝、霧はすっかり晴れていた。
青空が広がり、鳥の声が戻っていた。
けれど、矢野の中には、霧が残っていた。
あの剣は、どこへ行こうとしているのか。
自分は、それに付き添っていいのか。
それとも、あれはもう、人の道を踏み外しはじめているのか。
だが――
「矢野さん、行きましょうか」
そう声をかけてくる静は、いつも通りだった。
年齢不詳の笑み。
丁寧な物腰。
他人行儀な言葉づかい。
けれど、その背に並びながら、矢野は心の奥で思っていた。
――この人は、いつか、どこかへ行ってしまう。
そのとき、俺は、背中に何を叫べばいいのだろうか。
第九話「声の届かぬ背中に」
夜明け前の静寂は、どこか異様に澄んでいた。
月はすでに沈み、空はまだ藍の底にあった。
兵たちは起き抜けの身支度を淡々とこなしていたが、その動きにはどこか緩慢さがあった。
近づきつつある“大規模戦”の気配を、誰もが本能的に察していた。
矢野蓮は槍の穂先を見つめながら、その朝の冷たさを、妙に身体に刻み込んでいた。
火のそばには沖田静がいた。
白装束の裾が風に揺れ、濃くなった夜明け前の闇のなか、彼の姿はまるで人ではない何かのようだった。
「静」
矢野が名を呼ぶと、沖田はゆっくりと振り返った。
「はい」
「……眠れてるか」
「夢は、見ました。でも眠っていたと思います」
「どんな夢だ」
沖田は少し考えて、それから言った。
「僕が……誰かの声を聞いていた夢です」
「誰かって?」
「わかりません。姿も顔もなかった。……ただ、遠くから“名前を呼ばれている”気がしたんです」
その言葉に、矢野は胸を突かれた。
――声が届いていた。
それは、誰のものだったのか。
自分ではないとしたら、静を“人間”に繋ぎ止めているのは誰なのか。
※
日中の交戦は、激しかった。
敵軍は数においても地形においても優勢だった。
味方の隊列は早々に乱れ、各班は散り散りになった。
それでも、矢野と沖田は同じ場所にいた。
無言で、互いを補いながら、複数の敵を相手に斬り、薙ぎ、押し返した。
沖田の動きは、もはや“剣術”の域ではなかった。
視線だけで、相手の動きの予兆を読み、間合いを制し、致命を避けて無力化する。
彼の剣が“殺さずに止める”ことを選び続けていることに、矢野は気づいていた。
だが、それが“優しさ”ではないことも、もう知っていた。
それは、単なる“最適解”だった。
無駄に殺さず、次の動きへ移れるように構成された戦闘理論。
相手を“人”としてではなく、“障害物”として扱った結果。
それでも、沖田は迷いなく斬っていた。
命を“扱う”ことに、なんのためらいもない動きで。
※
戦いのあと、矢野はひとりになった。
隊の仮設天幕に戻ると、静はまだどこかへ報告に出ているらしかった。
焚き火のそばに腰を下ろし、濡れた布で手を拭いながら、矢野は考えていた。
あいつの剣は、今、どこへ向かっている?
――あの戦い方は、もう“人間”のものじゃない。
だが、俺はまだ、あいつを“人間”として見ていたい。
それが、間違いなのだろうか。
ふと、火がはぜた。
小さな破裂音。
その音に、何かが弾けたように、矢野は低く声を出した。
「静――」
それは呟きだった。
呼びかけのようでもあり、問いかけのようでもあり、祈りのようでもあった。
その背中は、どこまで届くのか。
どこまで“こちら側”に留まっていられるのか。
――俺は、その背中に、もう声をかけられない日が来るような気がしている。
※
沖田が戻ってきたのは、そのしばらく後だった。
剣を手入れしたままの姿で、仮設天幕の端に腰を下ろした。
「……矢野さん」
「ああ」
「明日、また前線です。僕と、第三班の兵が主攻として回されるみたいです」
「俺は?」
「後衛の援護。僕のすぐ後ろで動け、とのことです」
矢野は頷いた。
それが当然のようになっていることが、もはや説明すら要らなくなっていた。
「静、おまえ……“人を斬る”って、どういう気分なんだ?」
沖田は、一瞬だけ手を止めた。
「それを“気分”として語れるなら、僕はもう少しまともだったと思います」
その答えに、矢野は目を伏せた。
「俺、夢を見たんだ。おまえが斬ってる夢。……ずっと斬ってて、途中で、振り向いた」
「……」
「そのときの目に、俺の姿が映ってなかった」
静は、目を閉じた。
火の音が、ふたりのあいだに淡く流れた。
「それでも、僕の背中を見ていてくれますか?」
「……わかんねえよ。
でも、たぶん俺は、どこまで行っても……見続けるんだと思う。
怖いけど、でも、それでもおまえのこと……“人間”として見てたいんだ」
静は、何も答えなかった。
ただ、その夜だけは、剣を拭く手を止めていた。
※
その背中に、声が届いたかどうかはわからない。
けれど矢野は、それでもなお、呼び続けるのだと心に決めた。
たとえ沈黙に吸い込まれても。
たとえその背が、別の世界へ向かって歩いていても。
て記録された夜だった。
第十話「名を呼ぶことで、まだ」
その戦場には、花が咲いていた。
戦いの始まる前に咲く花など、どこか不吉なものだった。
小高い丘を削るように造られた進軍路。
春の終わり、残った草花が、地を這うようにして黄色い花を咲かせていた。
風に揺れるそれは、まるで「まだ終わっていない」と主張するようだった。
人が命を落とす場所に咲くには、あまりにも鮮やかだった。
矢野蓮は、ただそれを見ていた。
――本当に始まるのか。
この丘の向こうで、また命が絶えるのか。
また、あいつは斬るのか。
その剣を握りしめたまま、何も見ずに。
「矢野さん」
そのとき、静かな声が耳に届いた。
振り返ると、白装束をまとう沖田静が、指先で風を避けるようにして立っていた。
風が、白い布をなぶっている。
その姿は、どこかもう、戦場の空気に馴染みすぎていた。
「準備は、整いましたか」
「ああ」
矢野は、手にした槍の重みを確かめながら、短く答えた。
沖田は何かを感じ取ったように、矢野の顔を見て、小さく目を細めた。
「……矢野さん、今日は、きっと少し、無理をします」
「……そうか」
「止めてもらえると、助かります」
その言葉は、冗談にも命令にも聞こえなかった。
ただ、静かに――“予告”のように置かれた。
※
敵軍は早かった。
丘の裏手を回るようにして迂回してきた斥候が、急角度で前衛を襲った。
味方は散開して応戦せざるを得ず、隊形は乱れ、隘路に追い込まれる形となった。
そして、そのときだった。
沖田が、ひとりで前へ出た。
矢野が気づいたときには、すでに彼の背中は、敵陣のただなかにあった。
剣が抜かれていた。
すでに、何人かが崩れ落ちていた。
沖田の剣は――速かった。
否、速いという表現すら、もはや不正確だった。
それは、空気を断つような動きだった。
人が動いているのではなく、何か“力”が形をとっているような動き。
――あいつが“人間”じゃなくなる。
矢野の脳裏に、その危機感が走った。
叫びたかった。
けれど、声が出なかった。
視線の先、沖田の目が、虚ろに開かれていた。
感情がない。
その瞳はもう、敵兵すら見ていない。
戦場すら見ていない。
まるで、“自分の中にある何か”とだけ戦っているようだった。
※
「静――!」
矢野は、叫んだ。
そのとき、沖田の動きが、わずかに止まった。
一瞬、振るわれかけた刃が、風に遅れをとった。
敵兵の一人が斬りかかってきた。
刃が静の横顔をかすめる。
だが、静は振り返らず、剣の角度を変えてそれを流した。
そして、斬らなかった。
敵兵の足を払っただけで、斬らなかった。
それを確認してから、矢野は駆けた。
霧がかかるように、戦場の空気がにぶかった。
血と泥と焦げた草の匂いが混じっていた。
沖田は、その場に立っていた。
まるで、“自分がいま、どこにいるのか”を理解していないように。
「おい、静!」
矢野が肩を掴むと、静は、はっと目を見開いた。
その瞳が、わずかに揺れた。
「戻ってこい。おまえ、今どこにいた?」
静は、何かを言おうとして――声にならなかった。
その代わりに、喉の奥でかすれた音が漏れた。
「……ごめんなさい」
それは、震えていた。
「斬っちゃいけないって、わかってたのに……手が……止まらなかった」
「止まってたよ。今、止まった。俺が呼んだから、おまえ、戻ってきた」
「……矢野さんの声が……すごく遠くにあって、でも、それが……」
「届いたんだろ?」
静は、頷いた。
そのとき、矢野は初めて、自分の中で何かが決まったのを感じた。
この剣士は、まだ人間だ。
まだ、声が届く。
届くなら――俺は、呼びつづける。
何度でも。
何度でも、この背中を、名前で呼び止める。
※
戦の終わったあと、ふたりは焚き火の前に座っていた。
いつもと同じように。
「矢野さん」
「ん」
「僕、やっぱり……怖いです」
「……何が?」
「自分の剣が。いつか、本当に人を殺すためだけに、振るうようになるんじゃないかって」
「そのときは俺が止める」
「止められますか?」
「止めるよ。おまえの手を掴んででも、呼び戻す。今日みたいに――おまえが、“戻ってこい”って言ってくれるうちはな」
火が、静かにはぜた。
空はまだ曇っていて、星のひとつも見えなかった。
けれど、矢野の胸の奥には、少しだけ光が差していた。
――俺はこの背中に、まだ声をかけられる。
まだ、“静”と呼べる。
それだけで、いまは充分だった。
第十一話「それでも、刃を持って」
夜の戦場は、火が消えると、すぐにすべての輪郭を失った。
焚き火の残り香だけが地面に滲み、鉄と血と湿った草の匂いが肌の上を這っていく。
静まり返ったあたりには、それでもまだ、わずかに呻き声と、寝返りの音と、兵士の低いうなりが漂っていた。
痛みは、誰にも癒されることなく、眠りの中に隠れている。
矢野蓮は、目を閉じたまま起きていた。
耳の奥で、さっきの戦の音が繰り返されていた。
刃が空を裂く音。
斬られた者が声もなく崩れる音。
そして――そのなかで聞こえた、自分の声。
“静”と、呼んだ。
それは、沖田静を“人間”に引き戻すための、ただ一言の名だった。
※
「……助けてくれて、ありがとうございました」
夜が更けてから、静が低く、そう言った。
焚き火の光が消えたあとも、ふたりは火の名残の横で背を並べていた。
矢野は目を開け、少しだけ横目で静の顔を見た。
「俺は、助けたっていうより……止めたかっただけだ」
静は頷いた。
「でも、助けられたんです」
それきり、またふたりのあいだに言葉はなかった。
夜は深く、静かだった。
まるで、戦の前も後も、この土地はもともとこうしていたのだとでも言うように。
風もない。月も隠れていた。
※
翌朝、矢野が目を覚ましたとき、空は鉛色だった。
夜明けと呼ぶにはまだ早く、だが、もう夢には戻れない中途の時間。
地面に敷かれた寝具の上で身を起こすと、すぐそばに沖田の姿がなかった。
「……静?」
起き上がり、あたりを見回す。
他の兵士たちはまだ眠っている。
霧が、夜の疲れを引きずるように草木のあいだを漂っていた。
見つけたのは、隊の荷車の陰だった。
ひとり、座り込んでいた。
「早いな。……いや、寝てなかったのか?」
矢野の問いに、沖田は目を伏せたまま首を振った。
「眠るのが、少し怖かっただけです」
「……昨日のこと、か」
「……はい」
返答が小さくて、耳を傾けなければ聞こえないほどだった。
「僕は……斬ることしか、できないんです」
それは、事実だった。
だが、あまりにも痛ましい響きだった。
「斬る以外のことは、剣ではできませんから。誰かを救うことも、導くことも、抱きしめることも……全部、できない」
矢野は黙って座った。
言葉ではどうにもならない感情が胸の奥にあった。
「でも、剣を置いたら、何も残らない気がするんです。僕が生きている意味も、ここにいる理由も、誰かと繋がる手段も……全部、消えてしまう」
「……」
「だから、斬ることをやめられない。でも斬りつづければ、きっと、僕は僕じゃなくなる。そのあいだで、足場が崩れてるのが、わかるんです」
その声には、怯えがあった。
沖田静という存在が、“自分自身”を怖がっていた。
「それでも、持ってろよ。剣を」
矢野が言った。
「おまえが剣を置いたら、誰かがその穴を埋めようとする。おまえが斬らなきゃ、誰かが斬られる。そういう場所にいるんだ、今は」
「でも、それじゃあ……」
「おまえが壊れそうなときは、俺が止める」
矢野は、きっぱりとした声で言った。
「昨日だってそうだったろ。俺の声が届いた。だったら、俺はこれからも、何度でも呼ぶ。“静”って。……それだけで、おまえが帰ってくるなら」
沖田は、言葉を失ったまま、肩を震わせた。
何かを堪えるように、拳を握りしめていた。
「僕……もう、誰かに名前を呼ばれる資格もないって、思ってたんです」
「それは違う」
「僕は、あの日、殺してしまった人の顔を、まだ忘れられません。まだ、夢に見るんです。でも、戦場に立つときは、それを全部しまって、何も見えないようにしてる。そうしないと、怖くて斬れないから」
「それができるなら、おまえはまだ人間だよ」
「でも、矢野さん。もし、ある日、僕が何も感じなくなったら……そのときは、どうしますか?」
「おまえが感じなくなっても、俺が感じてる。だから、おまえがどこまで行こうが、俺が止める」
その言葉に、沖田はそっと、目を伏せた。
ゆっくりと吐いた息が、空に吸い込まれていった。
※
昼前、前線の再編が通達された。
矢野と沖田は、また同じ班に組まれた。
もう驚く者はいない。
「沖田と組めるのは、矢野しかいない」
それは、もはや上官たちの共通認識になっていた。
命令ではなく、配慮でもなく、単なる“構造”として定着していた。
「……変な話だな。戦場で、相棒とかさ」
矢野がぽつりと呟くと、静は少しだけ笑った。
「でも、助かってます。矢野さんが横にいると、視界が狭くなりすぎなくて済むんです」
「視界が?」
「人を“敵”としてしか見られないとき、矢野さんの存在が、“ただの人間”を思い出させてくれる」
「おまえにとって、俺は“ただの人間”かよ」
「はい。それが、いちばんありがたいんです」
※
夜になり、焚き火を囲んだふたりは、それぞれの武具を手入れしていた。
静は、いつものように剣を拭いていたが、手つきがわずかに柔らかくなっていた。
「矢野さん。もし僕が、“これ以上斬りたくない”って言ったら、そのときも、僕の名前を呼んでくれますか」
「呼ぶさ。何度でも」
「……ありがとうございます」
その言葉が、本当に救いになっているのかどうかは、わからなかった。
でも、少なくとも今、沖田静の剣は、まだ“戻れる場所”を知っていた。
その事実だけが、ふたりを、戦場の真ん中に立たせていた。
第十二話「斬らずに、立ち尽くすために」
その日、空はひどく低かった。
曇天というには重すぎる雲が、山の稜線をなぞるように垂れ下がり、灰色の気配を野営地の上に流し込んでいた。
風もなかった。
しかし、兵たちの胸には、空気がぴりつくような気配があった。
――嵐のように、何かが来る。
そんな直感が、矢野蓮の皮膚のすぐ裏側にまとわりついていた。
指先は冷たく、呼吸は浅くなる。
戦に慣れてしまったはずの自分の身体が、何かを拒絶するように動こうとしなかった。
「矢野さん」
声がした。
低く、どこか柔らかなその声を聞き取ったとき、矢野はようやく呼吸を深くした。
白装束の影。
沖田静が、濃い雲を背負って、ただそこに立っていた。
「今日の配備、少し変わりました。僕たちは第三班の補佐に回されます」
「本隊じゃないのか」
「本隊は中央の峠。僕たちは右の崖沿いです」
矢野は頷いた。
任地が辺縁になるということは、何かしら“読み”があるということだった。
「囮か、要所か、どっちだと思う?」
「……両方、でしょうね」
静は笑わなかった。
しかし、その口調に、不安も焦燥もなかった。
それが、むしろ矢野には不気味だった。
※
戦は、乱戦だった。
崖沿いの道――それはもともと獣道のようなもので、兵が複数名並ぶにはあまりにも狭かった。
その地形を活かす形で、敵は複数方向から矢を放ち、追撃を仕掛けてきた。
矢野は、一度槍を折られた。
反応は早かった。
だが、敵兵の手元を見誤った。
折れた穂先が泥に沈む音を聞きながら、すぐに柄の部分を投げ捨て、拾った小太刀で応戦に転じた。
視界の端に、白い衣が踊っていた。
静が斬っていた。
否――“流していた”。
刃が動いているのではない。
気配だけがそこにあり、兵たちの身体が自然に沈んでいく。
その場にいた兵士の誰もが、一瞬、その現象を“風”と錯覚した。
風が通った――ただ、それだけの感覚だった。
だが、それが剣だった。
「矢野さん、まだ動けますか」
「……なんとか、な」
「じゃあ、あと七人。僕が引きつけます」
「おまえ、一人で七人なんて――」
「全部、斬るわけじゃありません。……ただ、止めます」
静の言葉には、もはや“人間”の尺度がなかった。
だが矢野は、何も言えなかった。
※
敵の足音が近づく。
崖沿いの狭い道に、五人が並ぶ。
静は、その中央に立った。
一歩踏み出す。
刃が抜かれる。
その音すら、もう聞こえない。
敵兵のひとりが最初に崩れた。
何が起きたか、誰にもわからなかった。
二人目は、膝をついた。
三人目は、刃を抜く前に、静に手首を取られていた。
矢野は、遠目にそれを見ていた。
そこにいたのは、沖田静だった。
だが、“戦場の沖田静”だった。
――もう、誰にも届かない場所にいる。
その背中に、叫びたかった。
“戻れ”と、“名前を思い出せ”と。
けれど、矢野は叫ばなかった。
叫ぶ必要がなかった。
なぜなら――静が、自分から剣を引いたのだ。
※
敵兵がすべて退いたあと。
静は、剣を地面に突き立てたまま、肩で息をしていた。
珍しかった。
彼が、こうして“疲労”を見せるのは。
「静……」
「……怖くて、斬れませんでした」
「なに?」
「本当に“人を殺す”感触が、来る直前だった。……怖くなって、手が震えました」
矢野は、それを聞いて、胸の奥で何かがふっと軽くなった気がした。
「いいじゃねえか。……人間じゃん、それ」
静は、何かを考えていた。
しばらく、黙っていた。
「矢野さん。僕は、戦っているうちは“人間”でいられると思っていたんです。でも、いちばん怖いのは……自分が“人間の顔をしている”って思い込んで、本当はもう人間じゃなくなってることかもしれないって……今日、思いました」
矢野は、地面に座り込んだ。
そして、背中で静にもたれかかった。
「だったら、おまえが怖がってるうちは、俺がそばにいる。怖いって言えるうちは、まだ帰ってこれる。だから、おまえが剣を握ってるうちは――俺が“名前”を呼ぶ」
静は、笑わなかった。
ただ、深く頷いた。
「……呼ばれたら、帰ってこれるようにしておきます」
「それでいい」
「でも、矢野さん。僕、きっとこれからも――たくさん、斬ります」
「ああ。わかってる」
「人も。……心も」
「それでも、“名前”は呼ぶ」
※
その夜。
風が吹いた。
灰色の空に、星が一つだけ顔を出した。
静は、剣を鞘に収めながら、その小さな光を見上げた。
遠い。
届かない。
それでも、自分がどこにいるのかを教えてくれる光だった。
――呼ばれる名前がある限り、
僕は、まだ、ここに立っていられる。
第十三話「それは命を選ぶということ」
冷たい風が吹いていた。
夏の気配が微かに混じる山間の早朝。
兵たちの気配は、いつになく薄かった。
それは怯えや緊張というよりも、確信――
「今日、生きて帰れる者は半分にも満たないだろう」という、静かな諦念だった。
矢野蓮は、槍の穂先を見つめながら、まだ乾ききっていない夜露のにおいを吸い込んでいた。
背後に、音もなく気配が近づいた。
「矢野さん」
聞き慣れた声。
けれど、その声に宿る温度が、どこか薄くなっているように感じた。
「……静。今日もか」
「ええ。主攻――先鋒です」
「また、“おまえと俺”だけか?」
「第三班から二人、付きますが、実質、矢野さんと僕の編成になります」
矢野はため息をついた。
もう、それに対して怒る気力もなかった。
「沖田と矢野で斬ってくれ」
それはもはや、命令というより、祈りのようなものになっていた。
――あのふたりなら、生き残れる。
――あのふたりなら、戦場を制御できる。
それは誉め言葉ではなかった。
彼らにすべてを預けてしまう側の“逃げ”でもあった。
「無茶すんなよ」
「……矢野さんが見ててくれるなら、たぶん、大丈夫です」
その言葉を、どこまで信じていいのか、矢野にはもうわからなかった。
※
敵は、待ち伏せていた。
崖と渓谷に挟まれた狭道。
上からの矢と、正面からの斬り込み。
動線は塞がれ、退路もなく、味方は瞬く間に混乱に陥った。
「矢野さん、右! 一手下がって!」
静の声が飛ぶ。
矢野は反射的に動いた。
その瞬間、背後から斬りかかってきた敵兵の刃が空を切る。
静が、斬った。
刃先は敵兵の手首を払い、剣を落とさせる。
そのまま脚を払って、相手を崩す。
殺していない。
けれど、その技には、“慈悲”ではないものが宿っていた。
必要最小限。
命を奪わず、ただ排除する。
それは、まるで誰かの“意志”ではなく、動作だけがひとりでに動いているようだった。
「……静、息してるか?」
「していますよ、まだ」
答えが軽かった。
だが、それがかえって、矢野には重く感じられた。
※
敵兵のひとりが、静の死角から斬りかかった。
「静――!」
矢野が叫ぶより早く、敵の刃は振り下ろされた。
だが、静は振り返らなかった。
すでにそこに“いなかった”。
“横にずれた”というより、
“その場から消えた”ようにさえ思えた。
次の瞬間には、敵兵が膝をついていた。
身体には傷がなかった。
けれど、動けなくなっていた。
その光景に、矢野は恐怖した。
――あいつは、もう“敵の顔”を見ていない。
戦っている相手を、“人間”として見ていない。
それでも。
「静――!」
呼び止めた声に、沖田が一瞬だけ振り返る。
その目には、光があった。
かすかに――ほんのわずかに、“矢野”を映していた。
※
だが、その直後だった。
矢野の横にいた味方の新兵が、刺された。
敵の矢が、崖上から一直線に落ちてきたのだ。
新兵は、小さく呻き、崩れた。
矢野は、咄嗟に駆け寄った。
「大丈夫か……!」
「いたい……みぎ……足が……」
足の付け根に深く刺さった矢。
抜けば出血で即死。
だが、刺さったままでは動けない。
次の瞬間、敵が来た。
三人。
斜面を駆け下り、こちらへ殺到してくる。
「静、――!」
叫ぼうとした。
けれど、静はすでに、別の場所で敵を引きつけていた。
間に合わない。
矢野は、倒れた新兵を庇って、前に出た。
槍はない。
足場も悪い。
敵は三人。
――斬るしかない。
矢野は、小太刀を抜いた。
そして、生まれて初めて――
“命を奪うつもりで斬った”。
※
ひとり、倒れた。
脇腹を切った。
相手は叫び声を上げて後退した。
二人目は、矢野の肩を斬り裂いたが、返す刀で首筋を傷つけられ、沈んだ。
三人目。
刃を構えた矢野の目を見て、足を止めた。
そのとき、沖田が現れた。
斬ったのではない。
“届かせた”だけだった。
相手は崩れた。命は奪われていなかった。
「……矢野さん、怪我を……!」
「あとでいい!」
矢野は叫んだ。
胸が痛いのは、傷のせいではなかった。
――自分が、斬った。
自分の意志で、命を断とうとした。
静の剣を“怖い”と思っていた。
けれど今、自分もまた、同じ場所に立った。
それが、恐ろしかった。
※
戦が終わったあと。
火のそばで、矢野は座り込んでいた。
傷は深くなかった。
だが、胸の奥が、ずっと締めつけられていた。
「矢野さん」
静が隣に座った。
彼の手には、血のついていない剣があった。
「……見てたか」
「はい」
「……ついに俺も、斬っちまった」
静は、否定しなかった。
頷きも、しなかった。
ただ、黙っていた。
「人を斬るのが、こんなに……嫌なもんだとは思わなかった」
「でも、それで矢野さんは、命を守った」
「おまえも、そう思ってんのか?」
静は、ようやく目を伏せた。
「僕は……矢野さんが、斬らなくて済むように戦ってたんです」
「……」
「でも、今日、わかりました。誰かが斬らなければならないとき、“誰か”のままじゃ、駄目なんだって」
矢野は、火を見つめた。
赤い光が、ふたりの影を揺らしていた。
「それでも、俺は人でいたい。おまえにも、人でいてほしい」
「そのために、剣を握るんですね」
矢野は、頷いた。
「そうだ。斬るんじゃなくて、……人でいるために、握るんだよ」
第十四話「沈黙の火のなかで」
火が静かに揺れていた。
息を潜めるように、黙って、ただそこに燃えていた。
まるで、言葉のかわりを引き受けているかのように。
矢野蓮は、その炎を見つめていた。
何も考えていないはずだったのに、思考が止まることはなかった。
肩の包帯の下で、傷がひくつく。
昨日の戦いの記憶が、未整理のまま脳の隅に貼りついていた。
あれは“自分”だったのか――
斬ったのは、この手だったのか――
問うたところで、返ってくるものはなかった。
ただ、手のひらに残る汗の湿りと、刃の重さの記憶だけが、確かだった。
※
静はまだ戻ってきていなかった。
矢野の記憶の中では、いつだって彼は“先に”そこにいた。
火のそばに、あるいは戦場の道の上に。
だが今日は違った。
“矢野のほうが先に火の前に座り、静を待っている”――
それが、なぜだかわからないが、とても奇妙なことに思えた。
沈黙は時間を曖昧にする。
火の揺れが“今”を奪っていく。
矢野は、あえて口を開かなかった。
そこに誰かがいてもいなくても、言葉を発すれば“何か”が崩れる気がした。
そして、崩れてはいけないものが、この火の中には確かにあった。
※
足音がした。
柔らかく、草を踏みしめる気配。
振り返らずとも、誰なのかはわかっていた。
「……遅かったな」
「すみません」
そう返す声に、乱れはなかった。
矢野は、炎を見つめたまま言った。
「少しは……眠れたか」
「少し、だけ。……矢野さんは?」
「……夢は、見た」
「どんな?」
矢野は、それには答えなかった。
代わりに、火にひと枝をくべた。
小さく火が爆ぜた。
ふたりの間にあった空気が、わずかに動いた。
「夢のなかで、俺は“斬らなかった”。本当は、あれだって……避けられたんじゃないかって、何度も考えた」
「……避けられませんでしたよ」
「でも、もしかしたら、俺は“斬りたかった”んじゃないかって思った。怖かったんだ、自分の中の、どこかでそれを“許してる”ことが」
沈黙があった。
だが、それは拒絶のそれではなかった。
静は、炎に手をかざすようにして、ぽつりと言った。
「僕は……斬らなければならないときのことを、先に“許してしまう”癖があるんです。斬る前に、“これは仕方がない”って、心の奥で勝手に決めてしまう。そのせいで……“斬ってしまう”ことに、抵抗が鈍くなる」
「……」
「でも矢野さんは、昨日、斬ることに“痛み”を残しました。だから、まだ大丈夫です。“そのまま”じゃなくなることを、きちんと、怖がれるから」
矢野は、初めて顔を上げて、静を見た。
その目は、少しだけ赤かった。
眠っていないことより、泣いたあとのようにも見えた。
けれど、言葉にはしなかった。
沈黙のなかにあるものを、無理に名づけてはいけないと、矢野は知っていた。
※
しばらくのあいだ、ふたりは火のそばにいた。
仲間たちは離れた場所で休んでいた。
野営地の夜は静かだった。
虫の声も風の音も少なく、ただ草が乾く音だけが微かにあった。
「静、おまえはさ」
「はい」
「斬ることのない戦が、来ると思うか?」
「……思いたいです。でも、それを“自分の剣で終わらせる”ことは、きっとできません」
「おまえが終わらせなくてもいい。でも、おまえが斬らずに“立ち尽くして”いてくれたら、それだけで意味がある」
「……矢野さん、そういうの、ずるいです」
「ずるいって?」
「そう言われると、斬れなくなるじゃないですか」
ふたりは、そこで笑った。
短く、声に出さず、どこか喉の奥で転がるような、
戦場で何も奪わなかった、ひとつの笑いだった。
※
その夜、矢野は火が消えるまでそこを離れなかった。
静もまた、最後の火の粉が地に落ちるまで、剣に手を伸ばさなかった。
斬ることも、言葉にすることも、何も必要ではなかった。
ただ、そこにいた。
“剣を持たずに座る”ということが、こんなにも難しく、
そしてこんなにも赦されることだと、ふたりは同時に知っていた。
――それでも、明日が来る。
また誰かが剣を抜き、誰かが命を落とす。
けれどその前に、こうして焚き火を囲む夜があることを、
彼らは決して忘れてはならなかった。
第十五話「この刃のまま、どこへ」
戦の終わる音がした。
それは、剣が折れる音でも、旗が倒れる音でもなかった。
ただ、遠くからゆっくりと、風が戻ってくる音だった。
空は鈍く曇っていた。
太陽の位置さえ曖昧な空の下、兵たちの動きが止まっていた。
立ち尽くす者、倒れる者、ただ息をしている者。
その全員が、いまひとつの同じ風に包まれていた。
戦場だった場所は、ただの静かな斜面に還ろうとしていた。
だが――彼だけは、まだその“境”に立っていた。
沖田静。
剣を手に立ち尽くす、その姿は、もはや人のものではなかった。
※
矢野蓮は、血に濡れた地面に膝をついていた。
味方が破れ、敵軍が押し返され、双方が損耗しきって散り散りになるなか、
彼と静は再び“最前”にいた。
ただ、ふたりだけが、斬ることも、斬られることもせず、そこに立っていた。
「……静」
ようやく、名を呼んだ。
それは声ではなく、ただ“気配”をぶつけるような呼びかけだった。
静はゆっくりと振り返った。
その目は、霞んでいた。
焦点が定まらず、どこを見ているのかわからない。
「……矢野さん」
呼ばれた名は、確かに矢野に届いた。
だがその声音には、“疑問”の色が混じっていた。
まるで、自分が誰を呼んでいるのかすら、確信できていないような声だった。
「ここにいる。……俺は、ここにいるぞ」
矢野は、立ち上がろうとした。
けれど、足が言うことをきかなかった。
戦の中で受けた裂傷が、ようやく痛みとして現れ始めていた。
「静、……帰ろう。もういい」
静は、剣を見た。
刃に、血はついていなかった。
それでも、その剣が“命を奪ったことがある”と知っている者ならば、
その“静けさ”こそが、もっとも恐ろしいものだとわかるはずだった。
「……あと、少しでした」
「なにが?」
「全部、斬ってしまうところでした。
敵も、味方も、自分も。……すべてが、どうでもよくなりかけていた」
「……」
「でも、聞こえたんです。あなたの声が」
矢野は、その言葉に胸の奥がしめつけられるのを感じた。
「それでも、まだ、届くんだな。俺の声」
「はい。まだ、です。……いつまで届くか、わからないけど」
「届くうちは、叫び続ける。俺は、そう決めてるから」
※
戦のあと、野営地には奇妙な静けさがあった。
生き残った者たちは、言葉を交わさなかった。
戦況がどうなったのか、勝ちなのか負けなのか、それすらわからなかった。
だが、もう誰もそれを訊こうとはしなかった。
矢野は、火の前にいた。
その隣に、静がいた。
ふたりとも、いつもより少しだけ間を空けて座っていた。
それが、いま必要な“距離”だった。
「静」
「はい」
「おまえ、……これからどうする?」
静は、わずかに目を伏せた。
「斬りたくないです。でも、剣を置く気は、ありません」
「そっか」
「僕が斬ることで、誰かが斬らずに済むなら。
その誰かが、矢野さんなら……僕は、そのためだけに剣を振れます」
矢野は、火を見たまま言った。
「なら、俺は、おまえが人間でいられるように、ずっと見てる。
背中も、横顔も、目も。……名前も、呼ぶ」
「ありがとうございます」
それきり、静はそれ以上言わなかった。
火の粉がひとつ、舞い上がった。
その行き先を、誰も知らなかった。
※
その夜、矢野は眠れなかった。
だが、目を閉じて、あの戦場を思い出すことはしなかった。
かわりに、明日の風景を想像した。
剣を持たず、ただ火のそばにいる静の姿を。
何も起こらない日。
斬らずに済む一日。
戦が終わる予感だけを抱いたまま、日が暮れていく時間。
たぶん、それは訪れない。
けれど、願うことはできる。
――あいつが、もう“斬らずに済む日”が、いつか来るかもしれない。
そのとき、俺はなんと呼びかけるのだろう。
「静」と呼ぶその声が、“戦場”ではなく、“人間”としての名前を意味する日が来たら――
その日まで、俺は何度でも、あいつの背を呼びつづける。