第二章:鬼神の出陣
第一話「軍道、白き影を連れ」
その日、馬の蹄の音はなかった。
道場を発って軍へと赴く静の足取りは、まるで“音”というものを拒絶していた。
白装束の上に簡素な外套を羽織り、背に一本の木刀だけを携えて。
彼は、誰にも手を振らなかった。
誰にも告げずに、ただ“行く”という行為だけを置いてゆくように、山道を下っていった。
誰も、止めなかった。
止められなかった。
すでに彼は、“名を持たぬ者”として、この世のどこにも属していなかったからだ。
※
軍の駐屯地は、麓の町からさらに馬車で半日かかる平野にあった。
砦というほどでもない。仮設の野営地に近い、未完成の軍営。
そこに静は連れてこられた。
十五になったばかりの少年としての身体に、与えられたのは粗末な兵衣。
洗っても落ちきらない血と泥の染みが、布地の底に沈んでいた。
それを羽織ることは、「おまえもまた“戦場のもの”だ」と言われるようなものだった。
木刀は、取り上げられた。
代わりに――剣が、与えられた。
本物の、鉄の剣。
誰かを斬り、血を吸い、また新たな命を奪うためだけに存在する道具。
静は、その重みを何度も握り直した。
何も言わず、誰にも問わず、ただ重さだけを確かめるように。
※
「名は」
隊長格の男が問うた。
声は硬質で、刃がこすれるような語調だった。
「沖田静、と呼ばれております」
「本名ではないな」
「……はい。僕は、戸籍がありません」
「剣は使えるのか」
「振れます」
その答えに、男は眉を動かさなかった。
ただ、一言だけ発した。
「なら、斬れ」
その言葉が、静の胸に重く落ちた。
斬れ、と言われた。
名も、過去もいらない。ただ斬ること。それが“戦場の役割”だと、告げられた。
静は頷いた。
拒まなかった。けれど、頷いた瞬間、どこかの空が少しだけ、色をなくした気がした。
※
初日は、何も命じられなかった。
ただ、座らされ、待たされた。
その静けさのなかにあっても、静は落ち着いていた。
むしろ、静寂を好んだ。
道場でもそうだった。声が交わされる前の沈黙が、静にはいちばん“落ち着く場所”だった。
だが、軍の沈黙には意味がなかった。
そこには“恐れ”も“怒り”も“感情”もなかった。
ただ、命令が下るのを待つだけの“生きた兵器”たちの、使われる順番を待つだけの空気。
その沈黙のなかに、静は少しだけ違和感を覚えた。
――ここには、「問い」がない。
そう思った。
剣は、問いかけるものだった。
誰かと向き合うとき、自分自身を写すとき、それは“答え”を求める手段ではなく、“問い”そのものとして在った。
だが、ここでは違った。
剣はただ“使われる”。
問いも、理由も、何もいらなかった。
※
翌日、命令が下った。
「周辺の斥候を掃討せよ」
「追撃部隊に参加せよ」
「必要であれば、斬れ」
配属されたのは“第六小隊”。
新兵と徴集兵で構成された、いわば“捨て駒”だった。
静は文句を言わなかった。
他の兵も、何も言わなかった。
最前線ではなかった。
だが、“いつ死んでもおかしくない場所”には、間違いなかった。
※
初陣は、森だった。
雨のあとの湿った草が靴のなかに入り込み、地面はやわらかく、歩を重ねるたびに“ぬるり”と土の手が足首を握ってくるようだった。
敵は、数人。
偵察中の部隊だったと記録にはある。
けれど、静の目には、まるで“闇”のなかに潜む獣のようにしか見えなかった。
初めて剣を抜いた。
その瞬間、自分の中で何かが変わった。
空気の流れが変わった。
指先が鋭くなる。
耳が、音の細部を捉える。
敵の息づかい、足音、空の雲の動きまでもが、全部“音”になった。
――斬れる。
そう、思った。
自分が、“斬れるように作られている”とわかってしまった。
その事実に、静は一瞬、息を呑んだ。
敵兵がこちらに気づくより早く、動いた。
歩を踏み出す。
斜めに跳ぶ。
剣を振る。
音はなかった。
一人、二人、三人。
誰も叫ばなかった。
ただ、倒れた。
血が跳ねた。
白装束の袖口が赤く染まった。
その赤を、静は見つめた。
“これは、自分の色ではない”
そう思った。
だから、振り返らなかった。
倒れた者を見なかった。
けれど、確かに、自分の剣が“命”を断ったことだけは、わかっていた。
※
その日から、噂が広がり始めた。
――「白い影が、森で兵を斬った」
――「音もなく、刃も見えず、ただ全員が倒れていた」
――「鬼神のようだった」
静は、自分が何をしたのか、誰を斬ったのかを、覚えていなかった。
斬ること自体が、記憶を曇らせるようだった。
だが、あるとき――雨の夜、ふと思った。
「……剣とは、何を護るためにあるのか」
その問いだけが、自分のなかにぽつりと残っていた。
斬った命の重みは感じなかった。
痛みも、熱も、怒りもなかった。
ただ、その問いだけが、ひとつの“切れ端”のように、自分の胸に貼りついていた。
第二話「兵営の影、歩く白」
軍営には、色がない。
泥のような茶と、すすけた布の灰。
鉄器の鈍い黒と、煤煙にまみれた空の鉛。
濁った水に映る兵の顔は、誰もが同じだった。
目元には疲労が影を落とし、口元には沈黙がこびりついている。
そんな場所に、沖田静は現れた。
白い衣を纏って。
軍から支給された兵服はあった。
しかし静は、あえてその下に、あの白い道着を着ていた。
本人に特別な意図があったかどうかは、誰も知らない。
だが、それはすぐに兵たちの目に留まった。
「……あいつか」
「白装束の、斬ったやつ……」
「鬼神の“噂”って、まさかあの餓鬼?」
新兵の中で、彼だけが異質だった。
名もなきまま戦果を挙げ、斥候部隊を一夜で壊滅させた少年。
まだ十六にも満たぬ細身の体に、血の記憶だけを纏っていた。
その背に噂が張りつき、名よりも先に“存在”として歩き出していた。
※
静は、何も言わなかった。
話しかけられても、聞き返すことはあっても、余計な言葉を足すことはなかった。
朝、誰よりも早く起きて、ひとりで兵営の外に出る。
木刀がない代わりに、兵器庫の訓練剣を借りて、素振りを続ける。
その姿が、奇妙なほど滑らかだった。
刃の重さを知っている者の振り方ではない。
けれど、それ以上に“正確”だった。
動きに感情がない。
動きにためらいがない。
まるで誰かの動きをなぞるように、静は“思い出すように”剣を振っていた。
そして、誰よりも早く帰営し、誰とも目を合わせず、黙って整備に入る。
“沈黙”が、彼の居場所だった。
※
小隊の副官である杉浦という男が、ある日ぽつりと洩らした。
「……おまえ、どこで剣を覚えた?」
静は、戸口の影から顔を上げた。
「道場で。名前のない村で、拾っていただきました」
「拾われた?」
「はい。生まれた場所はわかりません。名もなかったので」
杉浦はそれ以上、深く聞かなかった。
軍では、“過去を語らぬ者”は珍しくない。
だが、それにしても、沖田静の剣は“軍の型”から逸脱していた。
それは流派の問題ではない。
構えや間合い以前の、“動きの深さ”だった。
よく見れば、静の足運びは“撃つ”ではなく“躱す”に近い。
攻撃と見せて、同時に逃げ道を確保している。
殺すことと、生き残ることの両立を、最初から身体が知っている。
杉浦は、その異常なまでの“戦場性”に、背筋が冷えた。
この少年は――
「誰かを殺してきたんじゃない。“何度も死んだ”ような目をしている」
※
それでも軍という組織は、名のない者を放ってはおかない。
静には、役目が与えられた。
“単独斥候”
あるいは、“先遣の剣”
小隊の進軍前に、単身で前線へ出され、敵の動きを探る。
必要とあれば斬る。
それは本来、年季の入った兵が担うはずの役割だった。
だが、“音もなく斬れる”少年がそこにいたという理由だけで、彼は選ばれた。
拒否権はなかった。
拒まなかった。
静はただ、うなずいた。
彼が“斬れる”ということは、すでに軍の間で共有された“常識”だった。
※
その日の任務は、小さな丘を越えた森のはずれにある敵前哨を確認することだった。
静は、剣を一本、背に挿した。
草履の紐を締め、白い裾を兵衣の中へたたみ、襟元だけをあえて残した。
「……迷彩の意味がねぇな」と、誰かがつぶやいた。
けれど、誰もその白を脱がせることはできなかった。
兵の間には、薄く言い伝えができつつあった。
――白を着て戻ってきた者は、“死神”に好かれている。
――白い布が、死者の血を隠すのだ。
――あの少年に関わるな。あれは“人ではない”。
静は気にしていなかった。
ただ、言葉にできぬ空気だけが、自分の背に張りついているのを感じていた。
※
任務は成功した。
敵の動きを読む前に、一人の斥候兵を斬った。
声を上げられる前だった。血はほとんど出なかった。
その夜、兵営では“剣が通った痕が見えなかった”という噂が立った。
「目に映らないくらい、早かったってことか?」
「いや、もう斬ったあとだったんだ」
「でも、血は出てないんだろ?」
「もしかしたら、本当に幽霊じゃないかって……」
誰も確かめようとしなかった。
静がその話に加わることもなかった。
ただ、火を見ていた。
焚き火の前で、ゆらゆらと動く影を、何かのように見つめていた。
それは――まるで、炎のなかに“自分”がいるかどうか、確かめるような目だった。
※
夜の帳が下りてから、静はひとり、野営の外に出た。
月はなかった。
星だけが、遠くから無数の問いを投げかけてくるようだった。
剣を抜いた。
月光のない闇のなかでも、剣の刃先は音を立てずに空気を裂いた。
一太刀、二太刀、三太刀。
何も考えずに振っていた。
振ることだけが、考えることだった。
すると――ふと、胸の奥に響く音があった。
刃と刃がぶつかる音。
骨を断つ音。
何かが裂ける音。
知らない誰かの、叫び。
静は、息を止めた。
風が止まった。
木々が沈黙し、星の問いだけが、夜空に滲んだ。
「……僕は、護れたのか」
その問いに、誰も答えなかった。
だが、彼の剣先だけが、まだ震えていた。
第三話「白の影、血の花」
――戦場は、音を呑む場所だった。
最初の咆哮、矢の雨、金属のきしみと破裂音。
だがそのすべては、一瞬で“地鳴り”のような耳鳴りに呑まれていく。
砲声も、喉から洩れる断末魔も、湿った泥の上に落ちた瞬間に無音へ変わる。
沖田静が“その場所”に立ったとき、風は止んでいた。
吹き荒れるはずの火と煙の風向きが、まるで彼を避けるように逸れていた。
敵兵八名。
それは偵察任務中の小規模集団。
本来なら正面から斬り込むには無謀とされる数。
だが、静は迷わなかった。
彼は歩いた。
白い衣のまま。
ただ、歩いた。
※
兵営に戻ってきたのは、夜が深まる頃だった。
静の髪は泥に濡れ、袖口に乾いた血がしみ込んでいた。
白い道着は、裾から膝にかけて朱に染まっていた。
その血は、自分のものではない。
無傷で戻ったというのに、周囲は静まり返った。
誰も声をかけなかった。
ただ、視線だけが空気にぶらさがっていた。
「ひとりで、八人?」
杉浦副官の問いに、静はうなずいた。
「……いつも、そういうふうにやるのか」
静は答えなかった。
答える必要があるとは思わなかった。
質問に含まれていたのは驚愕ではなく、“異物”への畏れだったからだ。
「……斬っても、声を上げられなかったんだとよ。誰も」
それは、敵兵が“斬られたことに気づかないまま”絶命したという意味ではない。
反応する隙さえなかったという意味だった。
「最初の一人は、背後からだったんだろうけど……二人目も気づいてなくて、三人目も……」
それは、“鬼神”ではなかった。
“影”だった。
白い衣を纏った、影。
※
兵営の片隅に、新しい言葉が広がりはじめた。
「白い鬼神」
「白い剣」
「死を連れてくる子ども」
言葉は形を変えながら、静の背中に張りついていく。
本人はそれを知っていた。
けれど、否定もしなければ、肯定もしなかった。
ただ、焚き火の火に目を落とし、握った布を見つめていた。
「……血って、乾くと、黒くなるんですね」
ぽつりと落とされた言葉に、隣にいた兵士が息を飲んだ。
それは誰に向けられた問いでもなかった。
自分の掌に貼りついた血の記憶に対してだけ、静は語りかけていた。
※
その夜、静は一睡もできなかった。
横になり、目を閉じても、まぶたの裏にあったのは“断面”だった。
人の皮膚が裂ける瞬間。
骨が折れる手応え。
返り血の温度。
それでも、彼は一度も顔をしかめなかった。
感情が抜けていたわけではない。
あまりにも近すぎて、どこから苦しめばいいのか、わからなかっただけだ。
朝、誰よりも早く起きて、誰もいない兵舎裏で素振りを始める。
木刀ではなく、実戦用の剣で。
一振りごとに、空気のなかで過去が崩れていく。
「……護れたと思いますか」
自問だった。
誰もそこにはいなかった。
※
翌日、上官に呼び出された。
昇進の打診ではなかった。
ただ、報告書への署名と、負傷した敵兵の“処理”について確認するためのものだった。
「死因は、失血と衝撃。いずれにせよ即死」
「すべて単独で処理したということで、間違いないな?」
静はうなずいた。
その瞬間、将校の一人が呟いた。
「……まるで、刃そのものが人になったようだな」
誰かが茶化すように笑った。
「剣が歩いてた、ってか」
「違いねぇ、“護符”にしてもらいてぇくらいだ」
静はその笑いに、何も返さなかった。
ただ、そのとき彼は、初めて――
“自分が剣そのものに見られている”ことに気づいた。
斬る者。
殺す者。
武器の化身。
人ではない、何か。
「……僕は、何を護ったんですかね」
ぽつりと、そう口の中で転がした言葉は、誰にも届かなかった。
※
それから三日後。
静は再び前線に出た。
今度は夜間斥候。
気配だけを確認し、接触は避ける任務。
だが、事態は思わぬ形で変転した。
敵が、近すぎた。
森の中にふと、立ち尽くす一人の兵士を見つけた。
向こうも、こちらを見ていた。
何も言わなかった。
しかし、次の瞬間には、どちらも走り出していた。
静の剣が、相手の肩を斬る。
だが、致命傷にはならなかった。
敵兵は叫ぶ。
それが合図だった。
四方から、刃の音。
複数の気配。
包囲――
静は、下がらなかった。
むしろ、斬り込んだ。
前に。真っ直ぐに。
剣を振るいながら、彼は考えていた。
「……守るために、僕は前に出たはずなのに」
一人、二人、三人。
血が散るたびに、自分が“何か”を失っていく感覚。
“生き残ること”と、“護ること”は、別だ。
斬ってしまった時点で、もう“何か”は守られていない。
けれど、動きは止まらない。
止めれば死ぬ。
剣を握る手が、もはや自分のものではないように震える。
「剣って、なんですか」
問いかけるたびに、血が足元を濡らした。
※
静は、戻ってきた。
またしても、無傷で。
だが、口元には泥がついていた。
袖の内側に、裂けた布。
髪に、乾いた木の葉。
手のひらの皮膚が、薄く裂けていた。
報告は端的だった。
「五人を排除。位置確認、完了」
その夜から、兵営では“鬼神”の噂が定着した。
剣の音が聞こえないまま、敵が絶命していく。
姿を見た者は“白い影”を目撃したと証言した。
“あれは人じゃない”“あれは剣そのものだ”。
そして――その夜、ひとりの年配兵がつぶやいた。
「でもなぁ……あいつ、斬ったあと、笑ってねぇんだよな」
「むしろ、泣きそうな顔してたぜ」
第四話「沈黙の剣、夜の声」
風が止んだ夜だった。
月はまだ出ていなかった。
雲の層は厚く、遠雷が、まるで地の奥底で呻いているように響いていた。
沖田静は、その夜、ひとりで座っていた。
兵営裏、薪置き場の側の朽ちた丸太に腰かけて、古い布を膝に敷いている。
その上にあったのは、刃。
自らが使う軍刀。
油を含ませた布で、一本の剣を黙々と磨いていた。
研いでいるわけではない。
ただ、拭っている。
血の跡が残っていないことを、確認している。
それだけの行為を、静は三十分以上も繰り返していた。
あたりには誰もいない。
声をかける者はいない。
ここ最近、兵営では、静はひとりであることが多くなっていた。
“異物”への敬遠。
それが恐れと尊敬を併せ持つものだとわかっていても、
静の中では、それは「距離」のひとことでまとめられていた。
※
その数日前――
前線の小競り合いで、静は三度目の出撃を命じられた。
今度は、四人の兵士とともに移動。
小隊単位での奇襲掃討任務。
斥候の情報によれば、森の中に敵の少数部隊が潜んでいるという。
初めての“共同作戦”。
だが、隊を共にした三人は、終始、静と目を合わせようとしなかった。
作戦の確認も、食糧の分配も、すべて彼を除いた三人の間で完結していた。
誰も直接的な侮蔑の言葉は投げない。
ただ、剣が近すぎるように、静の存在そのものが“鋭利すぎる”のだ。
夜が明けて、作戦が開始された。
森は霧に包まれていた。
足元の草が濡れている。
鳥の気配が一切ない。
――つまり、何かがいる。
誰かが息を呑む音がした瞬間、霧の向こうから影が浮かび上がった。
敵だ。
四人。
気配が割れている。
だが、こちらも同数。
小隊のリーダー格である年長の兵士が、静の方を見た。
「……一歩も、出るなよ」
それだけ言って、剣を抜いた。
まるで、牽制のようだった。
だが、その言葉通りに、静は動かなかった。
他の三人が突撃していった。
敵の動きは速くなかった。
練度の低さもあった。
それでも、接戦になった。
戦いは十数秒の応酬だった。
一人が負傷し、もう一人が倒れた。
残る一人も息が乱れていた。
そのとき、敵の残り二人が反転し、逃走を図った。
後ろ姿が、霧の奥へと消えかける。
「……沖田!」
静は、走った。
命令はなかった。
合図もなかった。
ただ、自分が行くべきだと判断した。
森の中。
霧の中。
草を掻き分け、土を蹴り上げて駆けた。
追いついたのは、敵の背が木に引っかかった瞬間だった。
斬った。
反射だった。
無意識だった。
刃が肩口から斜めに入り、沈んだ。
声がなかった。
ただ、肉が裂ける湿った音だけが、空間に残った。
振り返ると、もう一人が立ち尽くしていた。
驚愕していたのではない。
恐怖していたのでもない。
ただ、静の方を、見つめていた。
その視線に、静は足を止めた。
次の瞬間、敵兵は剣を捨てた。
ゆっくりと、腰に差していた剣を鞘ごと落とし、両手を上げた。
降伏だった。
抵抗の意思はなかった。
おそらく、仲間の死を見て、自らの限界を悟ったのだ。
静は、剣を構えたまま立ち尽くした。
目の前には、ただの人間がいた。
武器を捨てた敵。
呼吸の速い、少年のような兵士。
自分とそう変わらぬ年の――命。
斬れるか。
斬らねばならぬか。
“白い鬼神”という異名は、こういうときに、何を命ずるのか。
静は、剣を下ろした。
風が、霧をわずかに揺らした。
その中で、敵兵は数歩、後ずさった。
だが、逃げなかった。
逃げられないことを理解していた。
そのとき、静の胸に、はっきりとした感情が浮かんだ。
「この人間を、殺したら、何が残る」
名誉か。
異名か。
正義か。
それとも――
護るべきものは、どこにある。
斬らないことが、弱さなのか。
刃を振るうことが、正義なのか。
静は剣を収めた。
「降伏を、受け入れます」
そう呟いたとき、ようやく自分が人間であることを思い出した。
※
帰還後、捕虜を連れたという報告は大きな話題になった。
静の行動は称賛されなかった。
敵を殺さなかったことは「判断の危うさ」として記録された。
だが、彼の周囲では、新たな噂が囁かれはじめた。
「白い鬼神が、命を奪わなかった」
「剣を振るわなかった」
「敵を、見逃したらしい」
そして、それを聞いた他の兵士の一人が、ぽつりと呟いた。
「……それが一番、こええよ」
その言葉が、静の心に残った。
斬らないことが、恐怖を生む。
沈黙が、戦場を凍らせる。
剣とは何か。
正義とは何か。
そして、沈黙とは何か――
第五話「剣に名はなく、ただ斬るばかり」
――風が、ない。
その晩、兵営の空は、まるで息を潜めていた。
雲は低く垂れ込め、月は見えず、虫の音もなかった。
ただ、遠くで誰かが火を焚いている匂いが、湿った夜気に混じっていた。
沖田静は、その静けさの中にいた。
天幕の隅で、彼は剣を膝に置いて座っていた。
灯りは落としていた。
この夜の暗さを、自分の目で測りたかったのだ。
先日の戦で、敵兵を斬らずに“見逃した”という噂は、あっという間に広がった。
それが事実であるかどうかは、もはや問題ではなかった。
――“白い鬼神が、剣を止めた”。
その事実だけが、一種の異常として、兵たちの間に伝播していた。
沈黙が、静の居場所を蝕みはじめていた。
最初に変化が現れたのは、配属された中隊の編成だった。
以前までは三人の班と共に行動していたが、次の任務から静は単独行動を命じられるようになった。
理由は「機動性の確保」とされた。
だが、静にはわかっていた。
彼は「集団に属さぬ剣」として扱われはじめていたのだ。
※
初めての単独任務は、山間の廃村の偵察だった。
敵の斥候が拠点にしているという情報があり、様子を探れという命令だった。
廃村の集落は静かだった。
風に揺れる戸板の音と、崩れかけた屋根の影が、午後の陽を裂いていた。
静は歩を進めながら、心の中に奇妙な違和感を抱いていた。
ここには、誰もいない。
けれど、何かがいた気がする。
誰かがここに、生きていた気配――
土間の跡に残った足跡、灰になりかけた炭火、誰のものともわからぬ、子どもの靴。
戦は、人の営みを壊す。
だが、壊されたその跡にも、人が、生きていた。
ふと、自分が手にする剣が重く感じられた。
自分は、何を護ったのか。
何を壊したのか。
今、自分が立っているこの地に、“命”があったというだけで、背負っているものが、見えない重さを帯びてくる。
※
任務を終えて戻った翌朝。
兵営の食堂で、静はひとりで粥を啜っていた。
そのとき、隣の卓で、二人の兵士が話しているのが耳に入った。
「なあ……あいつ、ほんとに人か?」
「なにがだ」
「いや、“白いやつ”。……斬らねえで帰ってきたって噂だろ」
「でも、死なずに帰ってくるんだぜ。どいつも……あいつが行った後は、敵がいなくなってんだ」
「それが、よけいに怖えんだよ……」
笑い声ではなかった。
ただ、恐怖と不確かさの滲む囁きだった。
静は、それに何の感情も抱かなかった。
怒りも、哀しみも、安堵もなかった。
ただ、粥の味がわからなくなっていた。
※
その夜、静は剣を持って歩いた。
兵営の裏から森へ、そしてさらに奥へと。
誰にも言わなかった。
命令でもない。
ただ、歩きたかった。
土を踏みしめる音、
葉が衣擦れに触れる音、
自分の呼吸。
そのすべてが、剣の音に聞こえた。
なぜ、斬るのか。
なぜ、斬らぬのか。
なぜ、剣を持たねばならないのか。
静は、その問いを口にはしなかった。
声にした瞬間、
その問いが“言葉に堕ちる”ような気がしたからだ。
だが、心の奥には確かにあった。
――剣に名はない。
――けれど、誰かがそれに名前をつける。
鬼神。
剣鬼。
白い悪魔。
死神。
英雄。
どれも、自分ではない。
けれど、誰もがそう呼びたがる。
それは、恐怖をかき消すためだろうか。
あるいは、罪悪を誰かに預けるためだろうか。
静は、草の茂みに腰を下ろした。
夜風が吹いた。
頬にあたる風は、わずかに湿っていた。
そして、その風の音に紛れて、誰かの声がした気がした。
――「それでも、おまえは、剣を捨てぬのか」
静は立ち上がった。
返す言葉はなかった。
だが、剣を見た。
それは、沈黙していた。
何も語らない。
何も否定しない。
だからこそ、
その沈黙は、何よりも重かった。
※
翌朝、静は報告書を提出しに本部に向かった。
そこで、初めて言われた。
「沖田静――貴君を、前線の斥候隊へ転属させる」
前線。
つまり、それは“最も早く斬るべき場所”。
斥候――敵の影を探し、足跡を追い、死の香りを先んじて嗅ぐ者。
命令に逆らう権利はなかった。
静は、ただ頭を下げた。
そのとき、上官のひとりが、目を伏せたまま呟いた。
「……貴様の剣が、本当に“斬るためのもの”であることを、示せ」
静は、黙って頷いた。
何も言えなかった。
何も言わなかった。
だが、その沈黙の奥で、ひとつの声が確かに生まれていた。
「僕は、斬るためだけに、生きるのか」
第六話「斥候の夜、剣の沈黙」
夕餉の鐘が遠くで鳴っていた。
響きはかすかだった。まるで、誰かの祈りが地の底でくぐもったような音。
斥候としての初任務――その出撃前、沖田静は、隊の者とは別の天幕にいた。
すでに着替えを終え、装束を正し、帯刀していた。
薄鼠の旅装は、動きを殺すために襞が深く、外気を吸ってやや湿っている。
布の内側の冷たさが、身体を少しずつ戦いの温度に染めていった。
静の耳に届くのは、風音と、自分の鼓動だけだった。
軍の命令は簡潔だった。
――北東の尾根を越えた山道沿いに敵軍の移動がある。部隊数の推定と、行軍路の把握。
発見されることなく戻り、必要なら斬れ。
判断は任せる。
任せる、というのは、命を預けるという意味ではない。
判断を誤った時、誰も助けないという意味だった。
孤独は、命令よりも先に彼に付き従っていた。
静は顔を上げ、天幕の布を払って外に出た。
夜は深い。
黒ではなく、藍でもなく――どこか、鉛のような色をしていた。
風がないのに、空が揺れている気がした。
※
斥候の道は、ほとんど音のない時間だった。
落ち葉を踏まず、風にまぎれて移動する。
呼吸を抑え、目に映るものすべてから情報を拾う。
それは“戦う”というよりも、“消える”ことに近かった。
山道を進んで五里ほど、静は獣道の分岐を抜けた先で、敵の足跡を見つけた。
刃の先ほどの土の凹み。草のなぎ倒され方。
枝に触れた衣の繊維が微かに残っている。
すべてが、何人かの兵士が数時間前に通った証だった。
気配が、生温い。
まだ近くにいるかもしれない。
静は、息を吸った。
そして、森に身を溶かすように、一歩、踏み込んだ。
※
彼が見たのは、四人の敵兵だった。
おそらくは斥候の一隊。軽装、短剣と弓。
皆、若く、戦い慣れているというより、警戒の仕草に癖がない者たち。
ただ、そのうちのひとり――左の奥に控えていた若い男が、膝を抱えて震えていた。
疲労か、病か。
あるいは、恐怖か。
静は、彼らに気づかれぬよう、木立の陰に立ったまま、視線を注いだ。
剣には手をかけない。
命令通りなら、彼らを殺すべきだった。
気づかれる前に、一息で片をつける。それが“優秀な斥候”だった。
しかし、静の足は動かなかった。
声が聞こえた。
「……なあ、戻ろうぜ。もう、俺、無理だよ……」
「だめだ、あと少しで本隊と合流できる。地図だって半分しかないんだぞ」
「でもさ、あんたも気づいてるだろ……あっちの山道で全滅した部隊の話」
「“白い影に斬られた”ってやつか。迷信だろ」
「本当にいたんだよ……全部、一撃だったって……」
その会話を、静はただ聞いていた。
目を伏せ、耳を澄ませ、誰の呼吸が浅く、誰が斬る意思を持っていないか、すべてを感じ取っていた。
そして、最後に、心の中でつぶやいた。
――彼らは、斬られるべき存在だろうか。
※
その問いが、静の足を止めさせた。
戦いは続いている。
敵を見逃すということは、仲間が死ぬ可能性を増やすことだ。
“情”をかけることは、裏切りだと教えられてきた。
けれど、それでも。
目の前にいる者たちは、戦っていなかった。
誰も、剣を振るってはいなかった。
ならば――今ここで、何を以て、彼らの命を奪うのか。
静は、一歩、前に出た。
枯れ枝が折れる音が、夜に響いた。
敵兵が、一斉に振り向いた。
短剣を構え、弓を取った者もいたが、
そのうちのひとりが、静を見た瞬間、声を失った。
「……おまえ……!」
声が、宙で切れた。
そして、沈黙のなかに、剣の鯉口が切られる音だけが走った。
静は、剣を抜いた。
だが、それは、斬るためではなかった。
腰を落とし、柄を横に、刃を上に構え――
まるで、こちらが“敵意を持たぬこと”を示すように。
敵兵たちは固まった。
誰も動けなかった。
その静けさが、どれほど続いたか、誰にもわからない。
そして、次の瞬間、
静は、背を向けた。
一歩、また一歩。
夜の森に、音もなく歩いてゆく。
敵兵たちは、追わなかった。
斬られなかったことに、言葉も持たなかった。
ただ、その背中を見ていた。
月の光が、雲間からわずかに差した。
“白い”旅装が、森に溶けて消えた。
※
斥候任務からの帰還後、静は報告書を提出した。
「敵兵、四名。軽装。接触を回避し、移動方向のみ確認。交戦なし」
その文面に、誰も異議を唱えなかった。
だが、司令部の空気は冷えていた。
命令に反して敵を斬らなかった――その事実は、誰も明言せずとも、すでに知れ渡っていた。
静は、剣を手入れするため、道具箱を開いた。
布に油を染ませ、刀身をぬぐう。
今日、斬らなかった剣。
血を浴びていない刃。
その重さだけが、確かに、手に残っていた。
第七話「白い異端」
斬らなかったことについて、誰も何も言わなかった。
それが、最初に静が感じた“異変”だった。
報告書は形式通りに通され、命令違反とは記録されなかった。
しかし、それが正式な評価を伴わないまま通過した事実そのものが、むしろ彼を孤立させた。
言葉にならない空気が、目に見えぬまま、幕舎の隙間から、炊爨の煙の匂いに紛れて、じわじわと兵たちの間に染み渡っていった。
剣士・沖田静。
命令を下された斥候任務において、敵を斬らなかった。
命を救ったとも、戦果を挙げなかったとも言われないまま、
ただ一言、「斬らなかった」という行為だけが、ひとり歩きを始めていた。
※
「なあ、おまえさ、斥候の帰り、何があったんだよ」
声をかけてきたのは、先月から同じ第三中隊に配属された年長の兵、村上だった。
野良出の元狩人で、背が高く、言葉も粗いが、年下に妙に世話を焼く性格で知られていた。
静は、火番の交代で立ち寄った炊爨所の脇で、何も言わず薪をくべていた。
指の先に煤がついても、彼は黙ったまま薪を組み直していた。
村上は肩をすくめて、湯気の立つ釜のふたを片手で押さえた。
「俺ァさ、おまえみたいに“剣の筋”があるわけでもねぇけどよ。斥候帰りのやつが一言も口きかねぇのは、見りゃわかるんだよ。……何かあったろ?」
その声に、静はふと手を止めた。
火の粉が、ひとつ、薪の上で弾けた。
焚き火の熱が頬にあたり、沈黙がその上に降った。
「……何も、ありませんでした」
静の声は、まるで灰が舌先にかかったように、乾いていた。
「そうかよ」と村上は吐き出すように言った。
それ以上、何も訊かなかった。
ただ、湯が沸くまでの数分、彼はそばに座っていただけだった。
※
数日後。
中隊の若手のあいだで、噂が立った。
「あの白いやつ、敵兵を前にして、刀を抜かなかったらしいぜ」
「じゃあ何のために送り込まれたんだ? ただの見物人か?」
「いや……誰にも気づかれずに帰ってきたって話だろ? そっちのほうがよっぽど怖い」
「本隊の連中、皆“あいつが本気になったら誰も止められねぇ”って言ってるよ」
「じゃあ、斬らなかったんじゃなくて、“斬る必要がなかった”んじゃ……?」
囁きは、音にならぬまま、伝播していった。
やがて、静は“斬らなかった男”ではなく、“斬るまでもなかった男”として語られはじめる。
その噂の、どこに真実があり、どこが虚構だったか、誰も気にしていなかった。
“白い鬼神”――
まだ、誰もそうは呼んでいなかった。
だが、その片鱗は、静かに形をとり始めていた。
※
夕刻の剣の稽古。
静は、誰からも声をかけられなくなった。
元々、彼の佇まいは寡黙で、誰とも馴れ合うことがなかった。
けれど、それでも一緒に竹刀を交え、肩を並べる者たちはいた。
今ではそれが、いつの間にか、自然と遠巻きにされていた。
斬らない者は、信頼されない。
命令に背く者は、恐れられる。
その両方を背負った静は、剣の間合いの外側に追いやられていた。
ある晩、稽古場の片隅に立っていた静に、初老の指導役が声をかけた。
「沖田、おまえ、今日も誰とも組んでないのか」
「はい」
それだけを答えて、静は頭を下げた。
指導役は、何か言いたげに口を開きかけて、結局、言葉を飲み込んだ。
そして、わずかにうなずき、こう言った。
「なら、今日は俺が相手をしよう」
竹刀を握る手に、静は初めて、微かに熱を感じた。
斬らずにいたこと。
その行為が、誰かの命を救ったことになるのか。
それとも、それはただの“臆病”にすぎなかったのか。
答えは出なかった。
だが、その夜、静は、久しぶりに正面から誰かの竹刀を受けた。
その重さが、言葉より深く彼の胸に残った。
※
その数日後の夜――
哨戒から戻った兵士が、幹部テントに報告を届けに来た。
「昨夜の斥候区域に、敵軍の遺棄品がありました」
「遺棄品?」
「はい。武具はすべてそのままに、軍旗だけが折られておりました。……まるで、“戦わずに退いた”ような」
報告を受けた上官は、黙って地図の上を睨んでいた。
「……あのとき、斬っていたら、奴らは応戦しただろうな」
それだけを呟き、上官は地図を巻き、封をした。
その報告は、静の元には届かなかった。
けれどその夜、彼は一人、寝台の上で、剣の柄を胸に置いて眠った。
夢の中で、誰かが剣を抜こうとして、抜かずに去っていく背を見た。
その影は、夜の中に溶けていった。
斬らぬという選択。
それは、世界から拒絶されるということ。
だがその拒絶が、彼にとって、最初の“赦し”だったのかもしれない。
第八話「鬼神の影、野を駆ける」
夜だった。
月は翳り、曇天の裂け目から、灰色の光がわずかに洩れていた。
風は湿っていたが、生ぬるい。
焼けた土の匂いと、血の気配が、交互に地面を這っているようだった。
その夜、彼は確かにいた――と、彼らは言った。
「……白かったんだ。ほんとに、白かった。……人間の色じゃねえ」
斥候として先行していた敵軍の一兵、若い兵士が、布で口を拭いながら語る。
彼の手は、細かく震えていた。
「光もねえのに、見えたんだ。月の明かりじゃない。……あれは、“剣の光”だったんだと思う」
別の兵は、腰を抜かしていた。
「動かなかった。ずっと、立ってただけなんだ。けど、気づいたら……俺たちは全員、逃げてた。背を向けた奴が斬られたわけじゃねえ、なのに――誰もが、“自分が次に斬られる”って確信してた」
語られた話は、次第に尾ひれをまとっていく。
“森の白い影”
“声を持たぬ鬼神”
“剣が抜かれぬまま、斬られる”
“目があった瞬間に、心を折られる”
“影が動いたと思ったら、もう誰かが倒れていた”――
名前はなかった。だが、確かにそこに“何か”がいた。
そして彼らはそれを、こう呼んだ。
**「白い鬼神」**と。
※
同じ夜、静は野営地の外れにいた。
炊爨の匂いを避けて、小さな小川の近くに座っていた。
湯に通した布で顔を拭いながら、しばし、水の流れる音に耳を澄ませる。
剣を手にしていたわけではない。
だが、腰にあるそれは、身体の一部のように重く、静かだった。
斬らぬという選択のあと、彼はより一層、沈黙のなかに沈んでいった。
あの夜の敵兵の顔を、彼は覚えていた。
殺せなかった、のではない。
斬る意味が見いだせなかった。
ただ、剣を抜く理由が、どこにもなかった。
あの者たちは、剣を交える準備をしていなかった。
その気配が、彼の足を止めた。
だが、それは彼個人の感覚であって、軍の命ではなかった。
命令を逸脱した自覚はある。
それでも、どうしてもあのとき、斬れなかった。
あの冷たい風の夜に、剣を振るえば、それは“自分の意志”ではなかった気がした。
己の剣は、誰のために在るのか。
この問いが、数日、静の内部で燃えていた。
燻る火種のように、消えかけては再び息を吹き返す。
※
「おい、沖田。……今夜、ちょっと話せるか?」
静が水場から戻ろうとしたとき、呼び止めたのは村上だった。
「野営の裏に、焚き火ひとつ持ってきた。……黙ってるだけでも構わねえ。お前さんの顔、最近誰もまともに見てねぇだろ」
静はわずかに目を伏せた。
「……ありがたいです」
その夜、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。
村上が猪の干し肉を串に刺し、火にかける。
静はその焚き火の温度を、じっと指先で測るように見つめていた。
「なあ、沖田。……お前さ、“剣ってのは護るもん”だと思うか?」
唐突な問いだった。
だが、静はすぐには答えなかった。
その沈黙を咎めることなく、村上は少し目を細めた。
「俺はさ、正直わからねぇ。剣で護れるもんなんて、ほんの一握りだ。……けどな、お前の斬らなかったって話、俺は聞いても怖くねぇ。むしろ、ちょっと……ホッとしたんだよな」
「……なぜですか?」
「わかんねぇよ。けどよ、“斬らなかった”ってことが、“斬られなかった奴ら”の心を救ってることもあるんじゃねぇかと思ってさ」
静は、火を見つめながら、わずかに目を細めた。
剣とは、誰かを救うためにあるのか。
それとも、誰かを断つためにあるのか。
斬らないことが、救いである日があるならば、
斬らなければ、救えない日もまた、来るのだろう。
ただ、その境目が、いまはまだ、わからない。
己の心が、その線を定めるのかもしれない。
だとすれば――剣とは、つねに“問うもの”でなければならない。
※
翌朝、ひとりの伝令が本陣に駆け込んできた。
「敵方の野営地にて、複数の兵が“白装束の剣士に遭遇した”と証言しております!」
「斬られたのか?」
「……いえ。“目が合っただけで逃げ出した”、“影に睨まれた気がした”という者ばかりです」
幕僚たちは顔を見合わせた。
「そんな者、本当にいたのか? ただの噂ではないのか」
「ですが……彼らは口を揃えて、“白い鬼神”と――」
その名は、兵たちの間で、もう既に一人歩きを始めていた。
沖田静――
その名を知る者よりも早く、
“白い鬼神”という影が、野を駆けていた。
第九話「名を持たぬ剣、語られる影」
風が、かすかに鳴いた。
低い草叢をかすめて、獣道をなぞるようにして過ぎていく。
戦場の音が消えたあと、残るのはたいてい、こうした名もなき自然の吐息だった。
それが、誰かの気配に変わるには、少しの沈黙と、少しの記憶があればよかった。
※
「お前、“あの白いやつ”を見たんだろ?」
「……いや。見たっていうか……気づいたら、俺らの方が逃げてたんだ」
「声は?」
「なかった。気配だけ。剣を抜いたかも、わかんなかった。……ただ、あの目。白装束の影の中で、目だけが光ってた気がした」
若い斥候兵たちが焚き火を囲み、言葉を交わしていた。
冬の前の晩秋、寒さが骨に触れ始める頃だった。
彼らの誰もが、命を長らえることの意味を探すように、夜な夜な“剣の影”について語り出した。
「“白い鬼神”ってやつ、あれ、味方だって言ってたけどよ……どこが味方なんだよ、味方だったら、あんな目しねえよ」
「でも、誰も殺さなかったんだろ?」
「それが一番怖いんだって。“殺せたのに殺さなかった”――つまり、“いつでも殺せる”って意味じゃねぇか」
言葉は恐怖の上に転がり、やがて信仰のように歪む。
“白装束の剣士”というただの影法師は、いつしか誰の手にも届かぬ存在となった。
※
同じころ、補給部隊の一人、湯浅という年配の男が、野営の裏で焚き火を焚いていた。
「……昔の話になるがな」
傍らにいた見習い兵に、湯浅は少しばかりの焼き芋を手渡しながら言う。
「わしが若ぇ頃に、京の近くの剣道場で手伝いしてたことがあってな。白装束の若ぇのがいた。名は……忘れちまったが、ずいぶんと“澄んだ目”をしてたよ」
「それが……今、戦場に出てるってことですか?」
「いや、同じ人間かはわからん。……だが、あの目だけは、覚えてる。人を斬るような目じゃなかった。……けどな、誰よりも強かった。誰よりも、静かだった」
見習い兵は、その“澄んだ目”という言葉に引っかかったように、火の揺れを見つめた。
「名前を……聞いてたら、よかったですね」
「ああ。聞いてたら……いや、もしかしたら、今のあの子には、もう名は残ってないかもしれん」
風が吹いた。
焚き火が少しだけ揺れ、赤く膨らんだ。
湯浅は、黙ってその火を見つめた。
「――名のない剣は、風に紛れて、生き延びるんだ」
※
沖田静という名を、誰も知らなかった。
兵たちは彼を“白い鬼神”と呼び、幹部たちは「沈黙の剣士」と記録し、斥候たちは「見えない影」と語った。
だが、そのどれもが、“人間”ではなかった。
ただの伝承、あるいは幽鬼。
剣の理を離れ、形を失い、“誰かの目撃談”として漂い続けるだけの存在。
そして、静自身は、それらの噂を知らぬまま、次なる戦の準備に入っていた。
補給を終えた彼は、野営地の端で黙々と木剣を振っていた。
人が近づけば止め、誰も見ていなければまた始める。
打ち振る音もなく、風を裂く音だけが草を鳴らす。
そこに在るのは、ただ一人の剣士だった。
鬼でもなければ、神でもない。
名もなく、声もなく、命令に従って生きるだけの、若い兵だった。
だが、その背中を見た者がいれば、
きっとこう言っただろう。
――あれは、鬼のように静かだった。
※
「“鬼神”って言葉、誰が最初に言い出したんだろうな……」
そうぼやいたのは、情報兵の男だった。
「誰だっていいさ。あいつが、あいつでなくなるなら。……怖さを言葉にして渡せるなら、それが一番、兵を動かす」
少尉が、空を見上げながら言った。
「伝説は、戦に必要だ。誰かが“死なずに戻ってきた”って、それだけで兵は信じる。それが、ひとりの少年だったとしても」
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
前線が動く合図だった。
「……白い鬼神、か」
少尉は、地図の端に印をつけながら、呟いた。
「名前があったとしても、それを使わない者は、もう“名を持たぬ剣”だ。――だが、そういう剣こそが、戦場では最後まで残ることもある」
※
夜。
焚き火の煙が、夜空に溶けていく。
ある斥候兵は夢の中で、白い影とすれ違ったという。
ある補給兵は、戦場でただ一人、“その影に膝をついて頭を垂れた”という。
名前は、ない。
でも誰もが知っている。
それが、
沖田静という剣士が、最初に“影”として記録された夜だった。
第十話「影の名を知るとき」
風が、南から吹いていた。
乾いた大地を撫でるように、かすかに砂埃を巻き上げながら、野営地の幕を揺らしていた。
その日、静は目を覚ましたとき、自分が夢を見ていたことに気づいていなかった。
ただ、右手の指が、剣の柄を握っていた。寝巻の上から、硬く、深く。まるで、誰かを斬り落とした直後のように。
彼はその手をゆっくりと開いた。手のひらの中には、爪の跡が半月のように残っている。
――名を呼ばれた気がしたのだ。
※
「……でさ、結局、いたんだよ。“白い鬼神”。」
飯盒炊爨の煙がたちのぼるなか、若い兵が言った。
「俺の兄貴の部隊のやつが見たってさ。まっしろな着物でさ、髪は一つに束ねてんだ。顔はよく見えない。でも、剣を抜いたら一瞬だったって。三人が倒れて、そいつはひと言も発さないで、またいなくなったんだって」
「顔が見えないってことは……?」
「見ない方がいいって、そういうことじゃね? 人間じゃないんだよ、あれは」
笑い混じりのようで、どこか本気の響きを孕んだ声。
煙の向こうに立つ彼らの姿は、どこか現実から浮いて見える。
それを、静は水汲み場の陰で聞いていた。
「“白い鬼神”……」
その言葉を口の中で転がしてみる。
舌に乗せても、重みはなく、味もない。ただ、どこか遠くのもののように感じた。
自分のことを、そう呼ぶ者がいるという噂は、幾度となく耳にしていた。
だが、目の前で、こうして誰かが“語る”のを聞いたのは初めてだった。
まるで、自分という人間がこの場にいないかのように、語られる。
実在の者ではなく、誰かの目撃談の登場人物として。
そして、気づいてしまった。
――誰も、彼の名前を知らない。
※
出陣の朝は、いつも静かだ。
天幕のなかで装束を整えながら、静は、自分の手の動きが少しだけ硬くなっていることに気づいた。
淡い生成りの下衣を身に纏い、胸に紐を結び、腰に帯を巻く。
その上から、真っ白な外衣――戦場で彼が着る、例の“白装束”を羽織る。
これを選んだのは、自分だ。
あの初陣の日、血の泥にまみれた衣服の重みを洗い流し、自ら布を手にとって“白”を選んだのは、他でもない、自分だった。
理由はただひとつ。
――死者にふさわしいからだ。
名を持たぬ剣士として、誰かのために斬り、誰にも知られず倒れるならば。
白は、その色として、相応しい。
帯に差したのは、名も無き一振りの剣。
刃文は流れるようでいて、どこか無骨な揺れを帯びていた。
徴兵された際に、軍から支給されたものだった。
天幕の外では、もう足音が行き交っていた。
槍を担いだ兵、荷車を引く者、司令を叫ぶ声――
それらが朝の空気に溶けていく。
静はゆっくりと顔を上げ、幕を押して外へ出た。
光が差し込む。
野営地の丘の上、朝の光がかすかに露を照らし、草を濡らしていた。
風が、白装束の裾を揺らす。隊列の端で立ち尽くすその姿に、何人かの兵が目をやる。
だが、誰も声をかけない。誰も、名を呼ばない。
沈黙が、彼の名になっていた。
※
出陣前の整列が始まった。
副隊長が兵を並ばせ、通達を叫ぶ声が空に響く。
だが、列の最後尾から、誰かがささやく。
「白い鬼神がいるぞ」
「前の部隊、全滅しかけたけど、あれに助けられたってよ」
「あの剣は、振り下ろされる前に終わるってさ」
それは崇敬でもあり、恐怖でもあり、羨望でもあった。
だが、どれも“人間”へのものではなかった。
静は列に加わる。
だが、そこにはいつも“間”があった。彼の隣には誰も並ばない。
剣の柄に手をかけているわけでもないのに、空気が張り詰めていた。
前を向く彼の目に、何の感情も浮かばない。
だが、誰も気づかない。
“鬼神”には、心がないと思われているから。
※
戦の始まりを告げる号令が、野に響いた。
隊がゆっくりと動き出す。砂を踏む音、鎧の擦れる音、唾を呑む音――すべてが、ひとつの流れになって、前へと進んでいく。
静は、最後列を歩いていた。
風のなか、白装束がひとりだけ、異質な光を放つ。
彼の歩みは軽い。
重ね着の下で、呼吸は深く、一定だ。
だが、彼の視線の先には、誰もいない。
戦場など、見ていない。彼は、彼自身のなかにある“問い”を見ていた。
――自分は、何を斬ってきたのか。
――なぜ、斬らずに済んだ命のほうが、記憶に残るのか。
――剣とは、本当に“護る”ものなのか。
問いに、答えはない。
だが、それでも歩みは止まらない。
※
昼を過ぎた頃、前線に着いた。
敵影はまだ見えない。
山の尾根を越えた先で、煙がひと筋上がっている。
それが敵軍の野営地だと、斥候が言った。
「……静」
その名を、誰かが呼んだ。
振り返る。
そこにいたのは、補給隊の湯浅だった。
「……本当に、来てしまったな」
そう呟いた彼の目に、静は何も言わずうなずいた。
「……お前のことを、みんな“鬼神”だなんて言う。けどな、俺は違うと思う。……お前は、ただの若者だ。少しだけ、剣が上手くて、他のやつより少し、静かなだけだ」
静は、小さく笑った。
「……それで十分です。ありがとうございます」
風が、ふたりのあいだを抜けていった。
次の瞬間、前線から矢文が届いた。
敵軍、進軍を開始。
明朝、激突の恐れあり。
※
その夜、静はひとりで剣を磨いた。
天幕の外には月が昇り、草むらに露が降りていた。
剣を見つめる。
その刃に、月の光がひとすじ映り込んだ。
それはまるで、彼の中にある“問い”を映すかのようだった。
――名がないということは、どういうことなのか。
それは、自由か。孤独か。罪か。赦しか。
誰も答えてくれない。
誰も、彼の本当の名前を知らない。
だからこそ、彼はまだ“斬れる”のかもしれなかった。
その夜、彼は、再び夢を見た。
剣を持たぬ自分が、誰かの名を呼び、呼び返される夢だった。
けれど、その名は――聞こえなかった。
第十一話「夜明けは、名を呼ばず」
乾いた空気が張りつめていた。
夜と朝の境に立つその時刻――人が最も無防備になるはずのその瞬間に、彼らは目を覚まし、甲冑を着け、命を背負った。
軍旗の赤が、濃い青の空の下で揺れていた。
まだ陽は昇らない。だが、空は既に明るみかけており、雲の隙間からほのかに光が滲んでいる。
その光が、白装束の裾に触れるたび、兵士たちは思わず視線を逸らした。
“あれ”が、また出る――
誰かの胸の内に過ったその言葉は、口には出されなかった。
出されなかったが、それは彼の周囲に半径数歩の「無音」を作った。まるで、そこだけ空気が抜け落ちているように、ぽっかりと間があった。
沖田静。
名を名乗ったことはない。
だが、兵たちは知っている。
この男が「名を持たずに立っている」ということを。
※
前夜のうちに、進軍命令は下っていた。
敵軍は小高い丘の向こう側、森に近い斜面に布陣しているという。
見張り塔を持たず、斥候の動きも遅いと判断され、奇襲をかけるには好機だった。
だが、最前列に立たされる部隊の顔ぶれを見て、兵の間には戸惑いが走った。
寄せ集めの新兵が多く、装備も万全ではない。
それでも、この部隊が選ばれたのは、彼がいたからだ。
“白い鬼神”が先頭に立てば、何十人分の威圧になる。
そこに合理はあった。
だが、正しさはなかった。
※
「出陣ッ――!」
短く、鋭く、号令が飛んだ。
鼓が鳴る。馬が嘶く。
地を蹴る音が、足並みの乱れと共に広がってゆく。
そして、その真ん中に、ただひとり立つ白装束。
剣を構えてもいない。口を開くこともない。
ただその存在が、他のすべての兵の背筋を正す。
誰もが、“何も言わぬその者”を見て、自分もまた沈黙のうちに生き延びようと願う。
命の行方を、祈る代わりに。
※
朝霧が地を這っていた。
乾いた土と混ざりあうそれは、まるで死者たちの吐息のように、足元から這い上がってくる。
先陣の兵が踏み込むたび、その霧が裂け、また閉じていく。
先頭を進む静の背中を、誰も追い越そうとはしなかった。
前を歩くその姿は、霧に溶けるように曖昧で、どこか現実味がなかった。
それはまるで――亡霊のようだった。
と、草むらが揺れた。
一瞬、誰かが「っ……!」と息を呑んだ気配がある。
次の瞬間、斜面の上から矢が放たれた。
一本、二本、三本――斜めに落ちてくるそれらは風を切り、朝の光に細い影を落とした。
が、静は止まらない。
矢が一閃、彼の頬を掠めた。
白い布地に、朱がひとすじ走った。
それでも彼は、剣を抜かない。
そのまま、霧のなかへと、消えるように歩いていく。
後ろにいた若い兵が、硬直したまま呟いた。
「……もう人じゃない」
※
先陣の戦闘が始まったのは、その直後だった。
斜面の上から、敵兵が一斉に押し寄せる。
霧を切って、足音が地を打つ。
剣の音が、叫び声が、ようやく戦場の空に届いた。
だが。
誰も見ていなかった。
“白い鬼神”が、最初に何をしたのか。
敵が斬られたのか、倒れたのか、消えたのか。
ただ、事実として残ったのは、
霧が晴れたとき、そこに五人の敵兵が横たわっていたということだけだった。
誰も、音を聞いていない。
誰も、声を聞いていない。
ただ、“気づいたら、終わっていた”。
それが、彼に与えられた「恐怖の形」だった。
※
戦が終わったのは、半刻後だった。
敵軍は退き、丘の上には負傷兵と倒れた者たちが残された。
風が吹く。日が昇る。
戦場には、あらゆる音があった。
泣く声、うめく声、地を叩く音、血を吐く音。
そして、その中に“何の音もしない場所”があった。
沖田静が、立っていた。
剣を収めたその手は、すでに血に濡れ、指の節が赤く染まっている。
だが、彼の目には、敵も味方も映っていなかった。
足元に、ひとりの敵兵が倒れていた。
まだ息がある。胸が微かに上下している。
その手に、小さく握られた紙切れがあった。
静は、それを拾った。
震える指で、開いた。
――子どもからの手紙だった。
「とうさま、はやくかえってきてくださいね。ふみをかいてくださいね。おうちにあるいてかえってきてくださいね」
稚拙な文字。にじんだ墨。
そのすべてが、“誰かにとっての帰り道”を意味していた。
だが、その父はもう、帰れない。
剣を振るったのは、自分だった。
※
その夜、野営地に戻った彼の白装束は、もはや白ではなかった。
返り血と泥が布地を重くし、肩がゆっくりと下がる。
彼は剣を置き、手を洗うでもなく、天幕の奥で座り込んだ。
誰も、彼に声をかけなかった。
誰も、彼の名前を知らなかった。
ただ、兵たちは口々に言う。
「……あれが、白い鬼神だ」
「人じゃない」
「もう、何人殺したのかもわからないってさ」
そう語られるたびに、彼のなかにあった“何か”が、ひとつずつ崩れていく。
それは、まだ名もつかぬ“問い”の形をしていた。
――剣とは、本当に、護るためにあるのか。
答えは、風の中にあった。
第十二話「問いを抱いて歩む者」
霧が降っていた。
雨にはなりきれず、空気のなかに溶けた白い水が、まるで沈黙の衣のように兵たちの肩を覆っていた。
夜明け前と同じ空。だが、その湿度は違っていた。
そこにあるのは、ただの水ではない。戦のあとの血と、煙と、焼けた木の香りが混ざりあって、どこか鈍い匂いを放っている。
野営地は静まりかえっていた。
朝には再び移動の号令がかかるはずだが、それを待つ者たちの間に、言葉はなかった。
誰もが焚き火を囲み、煙に目を細めていた。
沖田静は、その火の輪から、少し離れた場所にいた。
彼の背には、誰も立たない。
彼の名を呼ぶ者も、いない。
それは「孤独」ではなかった。
それは「敬意」でもなかった。
それは、「沈黙という形式」でしか保てない、危うい均衡だった。
※
夜、静は剣の手入れをしていた。
拭っても拭っても落ちぬ色を、彼は無言で磨き続ける。
その剣に、名はない。
それを渡されたとき、上官は言った。
「支給品だ。前の持ち主は……まあ、戻らなかった。名前はなかったが、切れ味は悪くない」
彼は何も返さず、受け取った。
そして今、こうして拭い続けている。
――名もなき剣。
――名もなき兵。
――名もなき戦い。
その連鎖のなかに、自分自身が落ちていく音を、静は確かに感じていた。
※
あの手紙のことが、頭から離れなかった。
「とうさま、はやくかえってきてくださいね。ふみをかいてくださいね。おうちにあるいてかえってきてくださいね」
それを読んだとき、自分の呼吸がどれだけ浅くなったかを、彼は覚えていない。
あの男は、敵だった。剣を持ち、自分たちの命を狙った。
けれど、父親だった。
誰かにとっての、帰り道だった。
そして、自分は――
何を護ったのだろう。
誰かの命を護るためだったのか。
それとも、ただの反射だったのか。
殺すことが、当然の動作になりかけていたのではないか。
「護るために、剣を振るっている」
そう思っていた。
だが、護るべき命の形が、日ごとに崩れていく。
敵を殺せば、その背後にいる誰かの涙が浮かぶ。
味方を護れば、他の誰かを殺す責任がついてくる。
勝てば、殺す。
殺せば、生き残る。
その簡潔すぎる構造のなかで、彼は何度も「正しさ」を失っていた。
※
翌朝、転属命令が下った。
新たに集結する部隊へ向かえ、とだけ。
理由は語られなかった。
だが、兵たちは皆、わかっていた。
――あの“鬼神”を、この地に長く置いてはおけない。
存在があまりに大きく、異質で、戦局をねじ曲げるほどの異物だった。
そしてそれは、軍にとっても「制御不能」という意味を含んでいた。
※
出発の朝。
霧雨が続いていた。
兵のひとりが、濡れた火打石を乾かしながら、小声で呟いた。
「……あの人、どこ行くんだろうな」
誰も答えなかった。
問いに意味がないことを、皆、わかっていた。
その時、天幕の奥から音がした。
白装束の裾が、濡れた土をすべるように進んでいく。
誰も声をかけない。誰も立ち上がらない。
彼は背を伸ばし、荷を最小限にまとめて、剣を背にして立っていた。
ただひとつ、彼が懐に収めていたものがある。
――あの、手紙だった。
それはもう、読めぬほどに滲んでいた。
だが、捨てられなかった。
名もなき剣よりも、名もなき戦よりも、そこにだけは、確かな「声」があったから。
誰かが、誰かを呼んでいた。
それを、自分は奪った。
※
見送りも、言葉もない。
ただ、雨と霧のなかを、彼は歩いていった。
足元の草は濡れており、泥が跳ねた。
だが、彼の歩みは一度も止まらなかった。
誰のために斬るのか。
何のために立つのか。
その問いは、まだ彼の胸のなかで形を成していない。
ただ、手の中の熱だけが、言葉の代わりだった。
やがて彼の姿が、霧の向こうに消えた。
残された兵のひとりが、火の前でぽつりと呟いた。
「……あれでも、まだ十六だってさ」
沈黙が返ってきた。
誰も、信じようとはしなかった。
白い鬼神に、年齢などあるものか。
※
霧の奥で、静は歩きながら思っていた。
名は、ない。
肩書きも、ない。
英雄と呼ばれることにも、重みを感じない。
ただ、守りたいものが、確かにどこかにあった気がする。
その輪郭が、霧のなかにぼんやりと浮かび上がっていた。
それを、思い出せる日が来るのだろうか。
それを、もう一度掴むことができるのだろうか。
その答えは、まだ遠い。
だが、歩みは止めなかった。
剣を背にし、手紙を懐に抱え、
白き鬼神は、まだ名のない地へと、
問いを抱いたまま、歩いていった。
(第二章 了)