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第一章:道場の少年

第一話「草の匂いが消える日」


 草の匂いが、ふと途切れた。

 春から夏へと遷るころ、日毎に緑は濃くなっていたはずだった。なのに、その朝の空気は妙に白けていて、鼻先を抜けていった風が、どこか埃っぽく、土の奥にしまわれた何かを攪拌していた。

 その空気のなかに、少年がひとり、立っていた。

 まだ年は七つにも満たぬだろう。痩せぎすで、手足の骨がやけに浮いて見える。額には前髪がかかっていた。着古した藍染の袴と継ぎ当てだらけの羽織を身につけて、足袋はない。だが、その足は汚れていなかった。泥道を裸足で歩いたにしては、指の間まで白く、指の先まで静かだった。

 彼は、門の前に立っていた。

 村はずれにある古びた道場。瓦の端は欠け、白壁も煤けていて、近づいてみれば年数なりのひびや傾きが見えてくる。それでも、正面に掲げられた木札の文字はまだ新しく、「剣心館」と記されていた。簡素でありながら、筆の息遣いのようなものが宿っている書だった。

 門戸は閉ざされていた。彼はそこから一歩も動かなかった。声を上げることもせず、手をかけることもせず、ただ立ち尽くしていた。

 その姿に、道場の内で竹刀を振っていた少年たちが気づいた。五人、六人と、まだ年若い門下生たち。誰かが門の向こうを見て、顔をしかめた。

「あいつ、また来てる……」

 そう呟いた声に、誰もが返す言葉を持たなかった。

 それが、沖田静との最初の記憶だった。

     ※

 彼が初めて門の前に現れたのは、春先のことだった。

 野に花が咲き、木々がいっせいに芽吹く季節――その頃に、村のどこにも属していない少年がふらりと姿を見せるようになった。誰かの子でも、誰かの弟でもなかった。名前すらなく、どこから来たのかを誰にも語らなかった。

 最初の一週間は、ただ門の前に立っていた。二週間目には、門前に石を並べ始めた。三週間目、門を掃きはじめた。

 それに最初に気づいたのは、道場の裏手で薪割りをしていた中年の門弟――太一だった。五十を越えた体に、まだ幾分の現役の力が残る男だった。

「……おい、小僧。何してる?」

 太一が問いかけたその声に、少年は少しだけ顔を上げた。

 何の感情も浮かんでいなかった。

 怒りも、恐れも、媚びも、飢えすらなかった。

 そこにあるのは、ただの“空”だった。真冬の空のように、澄んで、何も映していない。

「……掃除です」

 少年は、そう言った。

「掃除……? 誰に言われて?」

「誰にも言われていません。でも、汚れていたので」

 太一はしばらく口を閉じたまま、少年を見下ろしていた。

 この子は何かを欲しているのだろうか。食べ物か、温もりか、それとも――と目を細めたが、思考はすぐに遮られた。

「剣、習いたいのか」

 その問いに、少年は少しだけ、頷いた。

 けれどその動きは、まるで「はい」と言うのではなく、「たぶん、そうだと思う」と言いたげな、曖昧で幼い確信だった。

 太一は小さく嘆息し、肩を竦めた。

「……剣は、ただ振ればよいものじゃねえ。斬られもする。血も出る。人の命を断つ道でもある。それでもやるってのか」

 その言葉に、少年はほんの少しだけ首を傾けた。

「命を、断つ……」

 口の中で、何かを転がすように呟いた。

 それは未知の言葉に対する反芻のようで、同時に、どこか覚えがあるような響きを帯びていた。

 太一は眉根を寄せ、少年の目を見つめた。

 そしてふと、背筋に冷たいものが走った。

 この子は――その意味を、知っている。

 血も、命も、斬るということも。

 言葉ではなく、体のどこかに刻まれた記憶として。

     ※

 その日の夜、太一は道場の師範――榊宗兵衛にその話をした。

 宗兵衛は五十路半ば、かつては名のある流派の剣士だったというが、今は隠居に近い生活を送りながら、村の若者に剣を教えていた。

「……名前もないそうです」

「拾われた子か?」

「それも違うようで……どこの家の者でもない。ただ、毎朝、門の前に立って掃除をしている」

 宗兵衛は黙って湯呑を持ち上げ、ぬるくなった茶をすする。

 目を閉じると、白い着物を着た子どもの幻が脳裏に浮かんだ。

「目の色が、変だった」と太一が言った。

「獣の目じゃない。炎もない。まるで……水の底みたいだった」

 宗兵衛は言葉を返さなかった。

 けれど、脳裏の像はしつこく残っていた。

 白い空気。白い衣。動かない眼。汚れぬ足。

 まるで、昔の“あの日”を思い出すようだった。

     ※

 翌朝、門が開いた。

 少年が立っている前で、軋むように、木戸が開いた。

 中から、宗兵衛が現れた。痩せた顔に深い皺をたたえた男。髷はゆるく結ばれ、黒い着流しの裾が朝の風に揺れていた。

 少年は一礼もせず、ただその目を見つめていた。

 宗兵衛も、挨拶を返すことはなかった。

 そのまま、数秒が経った。

「名前はあるのか」

 少年は首を横に振った。

「……いりません」

 その答えに、宗兵衛の眉がかすかに動いた。

「なぜ、名を欲さぬ」

「呼ばれなくても、生きていけます」

 風が草を鳴らした。朝の光が、木々の先から差し込んできた。

 宗兵衛は小さく息を吐き、門の内側を指した。

「では、入れ。――名は、ここで得ろ」

 少年は、ほんのわずかに頷いた。

 そして、それが――

 沖田静という少年の、“はじまり”だった。



第二話 「木漏れ日の稽古」


 門をくぐるということには、何かしらの“敷居”がある。

 それは物理的な段差のことではなく、見えない風や、誰かが積み重ねた年月のようなものでできている。だからこそ、足を踏み入れるには覚悟が要る。

 少年――静は、その朝、初めて道場の敷居を跨いだ。

 誰の手も借りなかった。誰にも背を押されなかった。

 何の音もなく、足音も立てず、するりと風のように地を踏んだ。

 朝の空気はまだ冷たく、土の上には露が残っていた。

 竹林の葉からぽたりと滴が落ちるたび、小さな音が響く。

 静はまるで、その音を聞くために歩いているようだった。

 裏庭へまわると、木刀が数本、壁際に立てかけられていた。

 柄が削れ、木のささくれが手に刺さりそうなほど使い古された稽古用のもの。

 静はそれを手に取った。

 重さを確かめるように、左から右へと持ち替える。

 ぐ、と腕に力を込めて構えてみる。右足が半歩、前に出る。

 まだ正しい構えではない。どこかぎこちなく、不格好。

 だが――彼はそこから、一歩も動かなかった。

     ※

 その朝の稽古を見ていたのは、年長の門弟である新藤だった。

 十七の若者で、近隣では名の知れた使い手だった。

 その剣筋は豪快で、師範の宗兵衛にも「剣の筋はいい」と評されていた。

 性格も快活で、弟弟子たちには慕われていたが、どこか誇り高い気配をまとっていた。 

 その新藤が、静を最初に見たとき、眉をひそめたのは当然だった。

「あの子が、入門したって……?」

 休憩中の縁側で茶を啜りながら、彼はつぶやいた。

「師範、何を考えているんだか。戦にも出られそうにない、小動物みたいな体じゃないか」

 それに答えたのは、同年代の門下生――榎本だった。

「まあまあ。別に本気で戦わせるわけじゃないんだろ。掃除とか手伝いとか、そういうのも大事ってことで」

「……だといいけどな」

 新藤は縁側から立ち上がり、ゆるく伸びをした。

 遠くで風が吹き、竹が鳴った。その音に、ふと視線を向ける。

 そして、目に留まった。

 木刀を持ち、地面に向かってゆっくりと剣を振るう、白い小さな影。

 新藤はしばし黙って見つめた。

 静の動きには、武道の型とは異なる“間”があった。

 振りは浅く、軌道もずれている。けれど、何かを探るような感覚――呼吸のように、剣を振っていた。

「……おい」

 思わず声をかけた。

 静はぴたりと動きを止め、背を向けたまま返事をしなかった。

 ただ、風が止んだように、沈黙があたりを包んだ。

「名前、あるのか?」

 静はゆっくりと振り返った。

 眼差しは変わらず、深く澄んでいた。どこか水底を覗きこむような、無音の視線。

「……ありません。でも、ここでは“静”と呼ばれるようです」

「静、ね……へぇ」

 新藤はひとつ笑った。それは冷笑ではなく、少しだけ興味を示した顔だった。

「ちょっと来てみろよ。構え、見てやる」

 静は一言も発さずに、歩み寄った。

 新藤は傍らの木刀を一本手にし、空の中段に構えた。

「こうやってな。両足は肩幅、左足を少し引く。腰は落としすぎない。刃はまっすぐ前。剣先は……」

 言いながら、静を見た。

 そして言葉が止まった。

 静が、完璧な構えをしていた。

 まるで見ているだけで、それを身体に写し取ったかのように。

 癖も力みもない。手の内の柔らかさ、膝の抜き、首の傾き、すべてが自然だった。

 新藤は口を開けたまま、しばらく動けなかった。

     ※

 午後の稽古の時間、宗兵衛が静の様子を見にやってきた。

 縁側の陰に立ち、黙って数刻のあいだ、静の動きを見守っていた。

 型を知らぬ子どもが、手探りで剣を振っている。

 だが、その一つひとつの動作が“無駄に美しい”。

「……思い出しているのだな」

 宗兵衛は、ぽつりと呟いた。

 そこにあるのは“学び”ではない。

 それは、眠っていた記憶の復元。

 あるいは、身体が勝手に覚えている動きの再現。

 静はまるで、何年も前に忘れていた誰かの言葉をなぞるように、剣を振っていた。

     ※

 数日後、静は“試される”ことになる。

 新藤の申し出だった。

「師範、この子、試してもいいですか?」

「……どういう意味でだ」

 宗兵衛は茶を啜りながら、軽く片眉を上げた。

 新藤は、わざとらしく両手を広げた。

「もちろん、木刀で、軽く。どこまで動けるかって話ですよ」

「剣を持った子どもに手を出すのは、褒められたものではない」

「なら、竹刀にしましょうか。面も着けて」

 静は黙って新藤を見ていた。

「……やります」

 言葉は淡々としていた。挑むわけでもなく、恐れるわけでもなく。

「ただ、斬りません。斬られるのも嫌です。けど――やります」

 新藤は笑った。

 その顔には、武人の血が滲んでいた。

     ※

 その日の夕刻、道場には門下生たちが集まった。

 静と新藤が向かい合う。

 面をつけた二人の間に、宗兵衛が立つ。

「構え」

 合図とともに、二人が竹刀を構えた。

「始め!」

 その声と同時に、新藤が動いた。

 竹刀が風を裂き、一直線に振り下ろされる。

 静は――動かなかった。

 かわしたのではない。受けたのでもない。

 ただ、一歩だけ足を動かし、わずかに軸をずらしただけ。

 新藤の竹刀は空を斬った。

 その一瞬、道場に風が吹いたようだった。

 次の瞬間、静の竹刀が、新藤の脇へするどく伸びる。

 それは、当たる寸前で止まった。

「一本!」

 宗兵衛の声が、静かに響いた。

     ※

 誰もが、言葉を失っていた。

 静の剣には、技術も流派もなかった。

 ただ、“気配を消す”という一点において、完璧だった。

「……なんだ、あの子」

 誰かがつぶやいた。

 新藤は面を外し、しばし静を見つめていた。

 やがて、深く頭を下げた。

「……強いな。お前」

 静は何も言わなかった。

 ただ、礼を返した。深く、丁寧に。

 その日から、道場の空気が少しだけ変わった。

 名もなき剣士が、そこに“存在”として刻まれた瞬間だった。



第三話 「沈黙の輪郭」


 剣を握る姿は、すでに板についていた。

 名もなき少年――沖田静が、道場に現れてからまだ一月も経っていないというのに、彼の背には妙な存在感があった。

 力を誇るわけでもなく、声を荒げるわけでもない。だが、ふとした瞬間に視線が彼へと吸い寄せられる。まるでそこだけ空気の密度が違うような、不自然な静けさ。

 ある門下生は、それを「水の底の音」と言った。

 あるいは、「生きている気配が希薄すぎる」と。

 だがそれでも彼は、朝になると必ず道場に現れ、稽古を始める。誰にも何も言わず、何の指示も受けずに。

     ※

 静が入門して十日が過ぎたころ、一つの出来事があった。

 その日、門下生のうち数人が、掃除をさぼって裏庭で遊んでいた。梅雨のはざま、湿った草の上で、誰かが持ってきた駒を回していた。

「なあ、あいつ、本当に人間なのかな」

 言ったのは、年少の門弟――小太郎だった。

 十二かそこら、少しませた顔立ちの少年だ。

「静、ってやつ。なんか……動きとか、変だろ? 音もなく動くし、目、こっち向いてないのに背中で見てるみたいだし」

 他の者たちが、なんとなく同意の空気を出す。

「斬ったこと、あるんじゃないのかな。人を」

 小太郎が言った。

 ざらりと空気が揺れた。

 それを聞いていたのは、縁側に座っていた榎本だった。年長の門弟の一人で、読書を好み、比較的物静かな性格だった。

「言葉には気をつけた方がいいぞ、小太郎」

「だって……」

「“だって”じゃない。そういうのは、口にしないほうがいい」

 榎本は静かに言ったが、その声には淡い緊張がにじんでいた。

 実際、榎本自身も思っていたのだ。

 静の剣には、“殺す”という所作の一歩手前のものが宿っている。

 それは、無自覚なものではない。むしろ意識の奥深くで“制御されている”ような感覚だった。

 静は、斬れる。

 だが、斬らない。

 その均衡のようなものが、周囲の者に薄い不安を与えていた。

     ※

 榎本は、ふと静のことを観察するようになった。

 彼は決して、強くはなかった。少なくとも、筋力では劣っていた。力負けもした。反応も、特段速いわけではない。

 それでも、負けない。

 竹刀を交えても、打たれず、外し、消える。

 攻めようとした瞬間に気が削がれる。

 それはまるで、目の前から「そこにいた存在」が霞のように消えていく感覚。

 剣というより、“空間の使い方”そのものが異質だった。

 榎本はそれを一冊の本にたとえた。

 ――何も書かれていないのに、意味だけが滲み出てくる書物。

 静は、そういう存在だった。

     ※

 夜、宗兵衛の部屋にて。

 榎本は静についての考察を、ぽつりぽつりと話した。

 宗兵衛は黙って聞いていた。

 盃に酒を注ぎ、口に含む。

「……あの子の目を、どう見た?」

 宗兵衛の問いに、榎本は少し迷った末、答えた。

「濡れた石のようだと思いました。冷たくて、でも生きている」

「ふむ」

「何も映っていないようで、全てを見ているような……」

 宗兵衛はまた、酒を口に含んだ。

 庭では虫の音が小さく響いていた。

「“生きているようで、生きていない目”というのは、戦場でよく見る」

 榎本が少し目を見開いた。

「死に慣れた兵か、あるいは死ねずに残った者か。生死の淵を越えた者が、時に持つ目だ」

「では、静は……」

「わからん。ただ――斬り方を、知っている者の構えだとは思う」

 その言葉に、榎本は背筋に微かな戦慄を覚えた。

「斬りたくて、剣を振るう者ではない」

 宗兵衛は続けた。

「それでも、必要があれば迷わず振るえる者だ」

 それは、かつて数多の剣士を見てきた宗兵衛だからこそ言える、厳然たる言葉だった。

     ※

 翌朝。

 静は、誰よりも早く道場に来ていた。

 稽古場の隅に正座し、目を閉じている。

 眠っているようでもなく、集中しているようでもない。

 ただ、そこに“在る”という静けさ。

 榎本は、そっと近づいた。

 声をかけようかと思ったが、やめた。

 代わりに、傍らに立ち、同じように正座をして目を閉じた。

 風が吹いた。

 朝の光が、柱の陰をゆっくりと移動させる。

 二人の影が、徐々に重なっていく。

「……何か、考えていたのか?」

 しばらくして、榎本が問うた。

 静は、少しだけ目を開けた。

「……わかりません。ただ、何かを思い出す気がして」

「夢でも?」

「夢なのか、昔のことなのか……。ときどき、刃の音がします。誰かの叫びも。でも、誰が斬ったのか、何を守ったのか……わかりません」

 榎本は言葉を失った。

 そしてようやく、この少年が抱えている“空白”の意味を、少しだけ理解した気がした。

 静は、思い出したくないのではない。

 “思い出す資格がない”と、自らを裁いているように見えた。

     ※

 その日から、榎本は静と稽古をともにするようになった。

 誰よりも多くの時間を過ごし、言葉を交わすようになった。

 だが、静は多くを語らなかった。

 聞かれたことには答えたが、自らを語ることはなかった。

 感情の起伏もほとんど見られなかった。

 それでも、榎本は彼の“輪郭”を知ろうとした。

 沈黙のなかにあるもの。

 言葉にならない記憶の痕跡。

 それらは確かに、“静”という存在の内側で息づいていた。

 彼は、何者なのか。

 どこから来たのか。

 なぜ、この道場に現れたのか。

 その答えは、まだどこにもなかった。

 けれど、榎本は信じていた。

 ――いずれ、その剣が語り始めると。



第四話 「外から来た声」


 梅雨はとうに過ぎたというのに、空の色は鈍く、空気はいつまでも湿気を含んでいた。

 朝から霧のような雨が降っていた。降るともなく、止むともなく、ただ景色の輪郭を柔らかく削いでいくような雨だった。

 その日の朝、道場には誰よりも早く静が現れていた。

 彼はまだ小さな背で、重そうな桶を二つ抱え、黙々と稽古場の板を濡らして拭いていた。

 その所作には迷いがなかった。丁寧ではあるが、妙な職人めいた無駄のなさがある。まるで彼の中には、そうすることしか残されていないかのように。

 “静は、生きることそのものが所作になっている”――

 そんなふうに、誰かがぽつりと言ったことがあった。

 何のために、誰のために、どうしてそこにいるのかを知らないまま、ただ整えるように、生きている。何も語らないくせに、どこまでも語っている背中だった。

     ※

 午前の稽古が終わる頃、道場の門が叩かれた。

 門下生たちは互いに目を合わせた。

 この時間に来客があるのは珍しい。宗兵衛のもとへ親族が来ることはあったが、こうした湿った朝の来訪は記憶にない。

 榎本が門を開けると、見慣れぬ男が立っていた。

 旅装に近い羽織と袴、雪駄にわずかに泥がついている。笠はかぶっておらず、髪は短く、目つきは鋭い。どこか、道場の空気とは違う匂いがした。

「……失礼、此方に榊宗兵衛殿はおいでか」

 声は低く、しかしどこか抑制のきいた柔らかさがあった。

 榎本は一礼し、奥へと案内した。

 男は道場に入ると、静かに全体を見回した。

 目の奥に、計測するような光があった。何かを“測っている”のだ。畳の幅、柱の太さ、弟子たちの身なり。視線が、すべてをひとつずつ確かめるように動いた。

 宗兵衛が縁側に姿を見せたのは、その直後だった。

「――このようなところへ、よくいらした」

 宗兵衛の声には、礼と警戒が滲んでいた。

「お噂はかねがね。剣心館の名、京の方にも届いております」

「名などございませんよ。ただの田舎道場です」

 男は笑った。だがその笑みにも、どこか冷めた陰があった。

「拙者、文月と申します。軍事視察の役目を仰せつかっております」

 その言葉に、榎本は小さく息を呑んだ。

 軍――それは、この静かな山村とは無縁に思えた存在だった。

 だが、道場の人々のなかには、かすかに緊張の色が広がっていた。

 文月は宗兵衛に軽く頭を下げると、道場の中央に立った。

「もし許されるならば、拝見したい。そちらで育てておられる門下の剣を――」

     ※

 午後の稽古が始まった。

 門下生たちの緊張は明らかだった。

 木刀を握る手がいつもより力んでおり、動きは不自然なまでに整っていた。彼らは“見られている”ということに過敏だった。視線が自分たちを値踏みしていると知るだけで、心が乱れる。

 そのなかにあって、静は変わらなかった。

 淡々と動き、汗をかき、木刀を握り、打ち合いを繰り返す。

 けれど、文月の視線はそこから離れなかった。

 やがて稽古が終わる頃、文月が宗兵衛に声をかけた。

「ひとつ、お願いできますか」

「なんでしょう」

「先ほどの、あの白い少年――名をお聞きしても?」

 宗兵衛は静かに目を細めた。

「沖田静。……と、呼ばれております」

「名は?」

「ございません。過去も、ございません。ですが、今はここにおります」

 文月の眉がわずかに動いた。

「――あの子の剣、見せていただけますか」

     ※

 道場の中央、再び構えが取られた。

 静の前に立ったのは、新藤だった。

「やれるか」と聞かれ、静はただ頷いた。

 文月が見つめるなか、二人が向かい合う。

「始め!」

 宗兵衛の号令。

 その一瞬、空気がすっと消えたように、静の姿が薄れた。

 新藤が竹刀を振る。が、当たらない。

 振り下ろしたはずの軌道を、静が避けていた。

 避けたというより、“ずれた”。

 それは空間がたわむような感覚だった。

 静の身体はごく微かに横へ流れ、その流れのまま、竹刀が新藤の右肩すれすれに止まった。

 息を呑む音が道場に広がる。

「一本……!」

 宗兵衛の声は淡々としていたが、その目には微かに何かが揺れていた。

 文月は、目を細めていた。

「……なるほど」

     ※

 その日の夕刻。

 門弟たちは稽古を終え、掃除をし、夕餉の支度に入っていた。

 静はひとり、縁側の端に座っていた。

 文月が、その傍に静かに腰を下ろした。

「……君は、何を守るために剣を振るう?」

 その問いに、静はすぐには答えなかった。

 彼の目が、遠くの山のほうを見ていた。けれど、何かを見ているというより、“何もない”ということを見ているようだった。

「――わかりません。ただ、振れるだけです」

「振ることに、意味を見いだしていない?」

 静は首を横に振った。

「意味があるのなら、それを教えてほしいです」

 その答えに、文月はしばし黙した。

 風が笹を鳴らす音が、微かに響いていた。

「君のような者が、今の世には必要だ」

 その言葉に、静はかすかに目を伏せた。

 文月は立ち上がり、足元に視線を落とした。

「名もなく、過去もなく、ただ剣を持っている者。戦があれば、最前に立てる」

 それは、褒め言葉ではなかった。

 ただの“事実”として言われた言葉だった。

 そして、静が初めて、わずかに息を吸った。

「――僕は、名前がないから、斬ってもいいのですか」

 その問いに、文月は何も答えなかった。

     ※

 文月が去ったのは翌日の朝だった。

 雨は上がり、空気は澄んでいた。

 榎本が見送りに出たとき、文月はふと立ち止まり、言った。

「……あの子を、“ここ”に置くには、大きすぎる」

「それでも、ここにしかいないのです」

 榎本の返事に、文月は少し笑った。

「そうだろうな。……だが、世界のほうが放っておかないかもしれない」

 それが、始まりだった。

 白装束の剣士・沖田静。

 その名が、外の世界の“目”に触れた、最初の朝だった。



第五話 「灰と硝子と、春を越える風」


 風は高く抜けていた。

 春の気配はまだ村に残っていたが、それは何かの名残のように、どこか所在なく漂っているだけだった。

 花は咲いても、香らなかった。木々は芽吹いても、柔らかな青さを見せることはなかった。

 その年、村の空はやけに“遠かった”と、人々はのちに語る。

 空を見上げる者は減り、風を読む者だけが、ただ目を伏せて耳を澄ました。

 何かが、変わりはじめていた。

 それは音もなく、匂いもなく、ひたひたと水が染みるように、静かに足元を満たしていく変化だった。

     ※

 視察役・文月が去ったあとの道場には、しばしの沈黙があった。

 言葉にできないものを、誰もが口に出そうとはしなかった。

 それは“空気”として残っていた。

 竹刀を振る音の裏に、掃除をする足音の影に、茶を啜る湯気のなかに。

 宗兵衛は、何も言わなかった。

 彼が言葉を飲み込むとき、それは往々にして「いずれ来る波に、先に立って抗っても無意味である」と見極めたときだった。

 老練の剣士にとって、剣とは“水に立つ橋”のようなものだ。

 重ねた稽古は力ではなく流れを知るためのものであり、技術とは己を律するための器に過ぎない。

 だから、彼はわかっていた。

 文月が最後に残した言葉――

「……あの子を、“ここ”に置くには、大きすぎる」

 それは警告ではない。

 ただの“予告”であり、“通知”であったのだと。

 嵐は、やがて来る。

 名もなき少年の周囲に、風はすでに巻きはじめていた。

     ※

 視察報告は、文月の手によって短く、端的に記された。

 彼は多くを語らなかった。

 だが、そのなかにいくつかの言葉だけが、印となって残された。

 ――“即応的天賦の剣筋を有する、無名の少年あり”

 ――“反応と間合いの判断、極めて異常。型に拠らず、殺の構えを制しておる”

 ――“白布のごとく、印象を持たぬ。然れど眼に映れば、強く焼きつく”

 報告は軍の書記局へと届き、そこから軍監察室を経て、中央の選抜局に提出された。

 わずか一週間後、白封筒が宗兵衛のもとへ届いた。

     ※

 その封筒を開くとき、宗兵衛の手はわずかに震えた。

 文字は端正だった。内容は短かった。

 しかし、その簡潔さが逆に、背筋を冷たくした。

 > 拝啓

 >

 > 当国軍部、選抜局より通知申し上げます。

 >

 > 剣心館において特段の技量を有する少年一名、当局の注視対象として登録するものといたします。

 >

 > 必要あらば、後日、召見の旨を別途通達いたします。

 >

 > 本通知は、貴道場における少年育成に不都合を与えるものではなく、今後の適正な配属検討のためのものであることを、特に申し添えます。

 >

 > 敬具

 そこには名前がなかった。

「沖田静」の文字は、どこにも記されていなかった。

 それでも、宗兵衛にはわかっていた。

 名が書かれていないことが、何よりも恐ろしかった。

     ※

 その夜、宗兵衛は榎本を呼んだ。

 縁側には夜の風が吹いていた。月は細く、山の端にかかっていた。

「……来たのですか」

 榎本の問いに、宗兵衛は頷いた。

「今のうちは“通達”に過ぎぬ。拘束力も、命令でもない。だが、布石にはなる」

「“布石”……」

「いずれ“徴”が来る。軍というものは、ひとたび目をつけたら逃さぬ」

 榎本は言葉を失った。

 宗兵衛が、決して冗談を言わぬことを知っていた。

「……僕に、何かできるでしょうか」

 その問いに、宗兵衛はしばらく黙していた。

 やがて、ぽつりと答えた。

「“見守る”ということが、どれほど重いかを知るがいい」

 それは、「助けろ」とも「守れ」とも言わない言葉だった。

 けれど、それこそが、最も深く、長く続く祈りのかたちだった。

     ※

 翌朝。静は変わらず、道場にいた。

 何事もなかったかのように、床を拭き、木刀を持ち、稽古を始めていた。

 外からの風など、届いていないかのように。

 だが、榎本はわかっていた。

 静も、気づいている。

 文月の視線の意味を、手紙の重みを、周囲の変化を。

 それでも、彼は言わない。何も語らない。

 なぜなら――

 彼は“名がないまま”、生きる覚悟をすでに決めていたからだ。

 それは、逃げではなかった。

 立ち向かうでもなかった。

 ただ、“そのまま在り続ける”という、生きる姿勢だった。

     ※

 その日の午後、静は珍しく、自ら宗兵衛に声をかけた。

「師範」

「……なんだ」

「僕の剣は、正しいですか」

 宗兵衛は、目を細めた。

「正しさというのは、何を指して言う」

「人を斬ること。守ること。選ばれること」

 静の言葉は、まるで石を積むようだった。

 一つひとつが慎重で、どこにも感情の色がない。

 宗兵衛は、しばし考え、ゆっくりと答えた。

「……おまえの剣は、おまえだけのものだ。誰のためでも、何のためでもなくていい。だが――“名”を持ったとき、その剣は違う意味を持ち始めるだろう」

 静は少し黙ったあと、問い返した。

「……では、名を持たなければ、僕は斬らずにいられますか」

 その問いに、宗兵衛は何も言わなかった。

     ※

 外の風が吹いていた。

 遠くの雲が、かすかに崩れはじめていた。

 季節はまだ春のはずだったが、空の色はすでに灰のようだった。

 静は、剣を握る手を見ていた。

 その掌のなかに、未来があるのか、過去があるのか、自分でもわからなかった。

 だが、彼は握っていた。

 ただ、静かに、指を閉じて。



第六話「言葉になる前の噂」


 物語になる前の噂は、たいてい風に似ている。

 決まったかたちを持たず、どこから来たのかもわからず、気づけば衣服の襞に忍び込んで、肌に冷たさを残す。

 言葉として誰かの口にのぼる頃には、もうそれは風ではなく“声”になっている。

 しかし、それが誰のものかは、決して明かされない。

 その日も、風が吹いていた。

 高く、細く、笹の葉を震わせながら、谷をひとつ超え、村へと抜けていくような風だった。

 そして、その風に混じって、ひとつの名前が――いや、“名もなき存在”が囁かれはじめていた。

     ※

 それが“誰”から始まったのか、誰も覚えていなかった。

 けれど、最初にそれを聞いたのは、村の集会所に出入りしていた若い役人だったという話がある。

 当時の記録には何も書かれていない。

 ただ、道場から数町離れた麓の町で、「白い着物を着た子どもが、剣を持っていた」という目撃談がいくつか重なっていた。

 いわく、「目の前に立ったと思ったら、次の瞬間には背後にいた」

 いわく、「音もなく動く。まるで影のようだった」

 いわく、「剣を振ったが、一度も人に当てていない」

 ――けれど、なぜか誰もが“打たれたような気がした”

 それは奇談のようでもあり、武勇伝の原型のようでもあった。

 しかも、それが“実在する少年”の話だというのだから、余計に人々の耳目を集めた。

 人は、“何者ともつかぬ者”に惹かれる。

 名前のない剣士ほど、語り継がれる素地があるものだ。

     ※

 道場の門下生たちがその話を耳にしたのは、文月の訪問から十日ほどが経った頃だった。

 小太郎が、麓の茶屋で出た話を持ち帰ってきた。

「なあ、知ってるか? “白い剣士”の話」

 夕方の稽古終わり、縁側で握り飯を食べていた榎本と新藤のもとに駆け寄るようにして言った。

「また妙なことを言いだしたな」

 新藤が口をしかめる。

「でも本当だって。町の人が言ってた。“山の上に、剣を持った影が現れる”って。しかも子どもだって。白い着物で、誰よりも早く動くって」

 榎本は手を止めた。

「……それが、静のことだと?」

 小太郎は肩をすくめた。

「知らない。でもさ、あの子って、いつも白い着物着てるし、声も小さいし、音もしないし、なんか、そういうの……本当に、ありそうでしょ?」

 その言葉に、榎本も新藤も答えなかった。

 ただ、視線を道場の奥に向けた。

 静は、ひとり庭の隅で黙々と素振りをしていた。

 その姿はいつもと変わらず、竹林の音をかき消すようでもなく、逆にその音のなかに溶け込むようでもあった。

 それは、風と同じだった。

     ※

 数日後、道場に珍しい訪問者があった。

 麓の町に住む、旅籠の女将である。

 彼女は宗兵衛の知人だったが、道場に足を運ぶのは年に一度あるかないかだった。

 その彼女が、珍しくお土産の団子を抱えて訪ねてきたのだ。

「……少し、気になることがありましてねぇ」

 茶を淹れた榎本が戸口で話を聞くと、女将は眉をひそめて言った。

「最近、変な連中が町に出入りしてるんですよ。旅の振りをして、ずいぶんと村の方まで来てるらしい。話を聞いてみたら、“白い剣士を見た”とか、そんなことを……」

 榎本の背筋が微かに震えた。

「噂です。確かに、噂。でも、あれは人の好奇心ってやつを煽りますからね。“本当にいるのか?”って、見にくる奴が増えるんです」

「……静のことだと?」

 女将は言葉を濁したが、ほぼ肯定だった。

「――誰かが、話を広げている」

     ※

 その夜、榎本は宗兵衛に報告した。

 縁側に座る師の背は、やはりどこか遠くを見ていた。

 静の姿を追っているようでもあり、追われているようでもあった。

「……放っておくのが一番だ」

 宗兵衛の言葉は短かった。

「ですが、外からの目が――」

「目を向けられぬようにできるほど、我々は器用ではない。静は、いずれ見つかる。ならば――」

 宗兵衛は少し黙し、夜空を仰いだ。

「ならば、誰の目にどう映るかを、見極めることだ。真実を語る必要はない。だが、嘘を重ねすぎれば、彼がいちばん傷つく」

 榎本は黙って頷いた。

     ※

 静自身は、その“噂”について、何も言わなかった。

 ただ、ある日、小太郎が好奇心に負けて尋ねたことがあった。

「静、お前ってさ、本当は何人か斬ったことあるんじゃないか?」

 庭掃除の最中だった。

 静は手を止めなかった。

 土を掃く音がつづいていた。

 しばらく経って、小さく言った。

「わかりません。でも、斬っても、忘れてしまうなら、それはしてないのと同じかもしれません」

 小太郎は返す言葉を持たなかった。

     ※

 夕方、道場に客が現れた。

 笠をかぶった、背の高い男。

 腰には刀、旅人の装束。

 しかし、どこか軍の者のような眼差しがあった。

「すまぬ。こちらに、白装束の少年がいると聞いた」

 宗兵衛が応対に出た。

「誰が、その名を語ったか」

「町の者が言っていた。“音もなく斬る子ども”がいると」

「そういう子はおらん」

 宗兵衛は即答した。

 男はしばらく黙っていたが、やがて礼をして去った。

 それで終わったのかは、誰にもわからなかった。

 だが、その日から、静はまた一層、言葉を失っていったように見えた。

     ※

 風が強まっていた。

 季節は変わろうとしていた。

 静は、それでも剣を振っていた。

 言葉を持たず、ただの影のように。

 けれど、いつしか“彼を見た”と語る者が増えていた。

 彼の剣は、物語になる準備を、もう終えてしまっていたのだ。



第七話「風の名を知らぬまま」


 その日、静は花を見ていた。

 境内の隅にある、誰にも世話されていない小さな木。春先に白い花をつけ、夏が近づくといっせいに散る。

 咲いた花よりも、落ちた花びらのほうが印象に残るその樹は、村では“祈りの木”と呼ばれていた。

 祈りとは何か。

 なぜ、咲くものよりも散るものに名がつくのか。

 静は、誰に教えられることもなく、ただその木を見ていた。

 風に吹かれて揺れる枝先の影が、地面にゆらゆらと模様を描く。

 彼の足元には花びらがひとつ、二つ、重ならずに落ちていた。

     ※

「……静は、本当に、ここにいるのかな」

 榎本がぽつりとそう言ったのは、道場の夜だった。

 灯りは小さく、釜に湯を沸かす音だけがしていた。

 向かいにいた新藤が、箸を止める。

「いるだろ。見てるじゃないか」

「そうなんだけど……でも、あの子、どこか別の場所にいるような気がするんだ」

 榎本の言葉には、焦点の定まらない遠さがあった。

「道場で動いていても、目の前に立っていても、触れられない。何かの膜みたいなものが、あの子を包んでる」

 新藤は、それ以上何も言わなかった。

 けれど、内心ではうなずいていた。

 静は、“ここ”にはいない。

 今までも、これからも。

 そしてその“感覚”を、皆がどこかで共有していた。

     ※

 封筒が届いたのは、六月の中旬。

 文月の報告から、一ヶ月ほどが過ぎていた。

 封筒は真白で、厚みがあった。

 宛名は、宗兵衛の名で。差出人のところには、国の印章だけが押されていた。

 それは、招待状ではなかった。

 通告でも、命令でもなかった。

 ただ、“通知”だった。

 > 指定認可者として登録済の者に対し、下記の要項に基づき、

 > 今後必要に応じて技術適正を精査のうえ、召集の可否を判断する。

 名前は、やはり記されていなかった。

 だが、書類の一番下に記された文言がすべてを語っていた。

 > 対象者:無戸籍につき、仮名「沖田静」として登録

 その一行が、世界を変えていた。

     ※

 宗兵衛は、封筒を机に置いたまま、夜まで何もせずにいた。

 誰にも見せなかった。

 門下生にも、榎本にも。

 ただ、夜になって、静が縁側を掃除している姿を見かけたとき、初めて声をかけた。

「静」

 静はほうきを止めた。

「……召が来た」

 それだけだった。

 それ以外に、伝えるべき言葉はなかった。

 静は、少し黙っていた。

 やがて、「はい」とだけ言った。

 その声には、驚きも拒絶もなかった。

 どこか、納得と諦念のあいだにあるような、乾いた響きだった。

     ※

 その夜、静は眠れなかった。

 部屋の窓を開け放ち、暗い天井を見ていた。

 風が吹いていた。草木の揺れる音が、耳に入りすぎるほど入り込んできた。

 彼は、自分の掌を見つめた。

 この手が、何を握ってきたのか。何を斬ったのか。何を護ったのか。

 すべてが曖昧だった。

 でも、体の奥にある“重さ”だけは、確かに残っていた。

 竹刀の重さではない。

 木刀でも、真剣でもない。

 人の命を乗せた“気配”が、今でも掌の線に沿って染みついていた。

     ※

 翌朝、榎本が静に話しかけた。

「……聞いたよ。召集のこと」

 静は、うなずいた。

「まだ“すぐ”ってわけじゃないだろ? 調査とか、書類とか、いろいろあるって」

「はい。……でも、決まったことです」

 榎本は言葉を詰まらせた。

「おまえは……怖くないのか」

 それは誰もが聞きたかった問いだった。

 でも、誰も口にしなかった問いだった。

 静は、ほんの少し考えたあと、言った。

「僕は、ここにいることのほうが、怖いです」

 榎本は眉をひそめた。

「どうして?」

「――何かを思い出してしまいそうで。ここにいると。道場にいると」

 榎本は、それ以上何も聞けなかった。

     ※

 六月の空は、色をなくしていた。

 晴れていても、白い。曇っていても、白い。

 色の濃淡ではなく、濁りだけが空を覆っていた。

 それは、静の心に宿る空とよく似ていた。

 言葉を持たぬまま、誰にも触れぬまま、静は日々を送った。

 だが、それでも彼のなかで何かが、少しずつ確かに動き始めていた。

 夜の夢に、刃の音がした。

 見知らぬ場所で、見知らぬ影と、剣を交えていた。

 誰が味方で、誰が敵かもわからなかった。

 ただ、音だけが、鮮やかに耳に残った。

 剣が交わる音ではない。

 剣が、骨を断つ音だった。

     ※

 数日後、正式な面談が道場で行われた。

 軍の使者が訪れ、宗兵衛と静を前に話した。

 形式的なものだった。

 けれど、それはもはや儀式のようなもので、内容など誰も重視していなかった。

「出自に関しては追及しない。だが、能力については正確に申告していただきたい」

 静は、うなずいた。

「今後、訓練期間を経て、適性を判断します。召集の正式な日程は後日通知します」

 その言葉が、“命を持っていく”音のように響いた。

     ※

 夜、榎本が縁側でぽつりとつぶやいた。

「本当に、行くのか」

 静は、竹刀を磨いていた。

「行きます。……それが、僕にできることなら」

「できるってことが、果たして――良いことなんだろうか」

 静は、何も言わなかった。

 風が吹いていた。

 境内の木々が揺れていた。

 枝の先で、小さな花びらがまたひとつ、落ちていった。

 それが何という名の花なのか、誰も知らなかった。

 けれど、その花の散る様だけが、やけに強く、誰かの胸に焼きついていた。



第八話「別れの稽古」


 六月の終わり、陽は長かった。

 空は澄んでいたが、どこか遠くに霞がかかっているようで、見えるはずの山の輪郭が曖昧だった。空気も乾ききらず、湿った風が地面を撫でていた。

 道場の床は、その日も静かに汗を吸っていた。

 夏が始まる。草木が黙って伸び、虫の声が聞こえはじめる頃。

 その日は朝から少しだけ涼しくて、まるで季節が名残惜しそうに、もう一度春の手触りを戻してくれたかのようだった。

 沖田静は、白い道着に袖を通していた。

 竹刀ではなく、木刀を手にしていた。

 それは、彼が初めて道場の門をくぐった日と、何も変わらない姿だった。

     ※

「最後の稽古なんだって?」

 新藤が、少しだけ声を潜めて言った。

 縁側で黙っていた榎本は、うなずくこともせずに、静のほうを見ていた。

「行くのか、本当に」

「決まったことだ」

「でもさ……」

 そのとき、新藤がそれ以上言葉を繋げなかったのは、静がこちらに歩いてきたからだった。

 彼はいつも通りの歩き方で、音もなく、風のように足を運んでくる。

 けれどその日だけは、どこか違って見えた。

 たとえば、背中。

 たとえば、歩幅。

 たとえば、手の握り方。

 ほんのわずかに、微かに、何かが違っていた。

 何が違うのかは、誰にも言えなかった。

 けれど、“これが最後だ”ということだけは、皆の体に染みつくように伝わっていた。

     ※

「お願いします」

 静がそう言って、木刀を持って正面に立った。

 相手は宗兵衛だった。

 それは予定されていたことではなかったが、自然とそうなった。

 誰も反対しなかった。誰も異を唱えなかった。

 道場の空気が、静まり返った。

 誰も声を出さなかった。虫の音も止んだかと思うほどだった。

 構えたのは、上段。

 静の構えには“流派”がなかった。

 けれどその一歩先には、血と死と、祈りと願いのすべてがあった。

 宗兵衛も、無言で構えをとった。

「始め!」

 号令もなかった。ただ、始まった。

 打ち合いではなかった。

 競い合いでもなかった。

 それは、対話だった。

 木刀を通して、自分が何者であったか、何をここに置いていこうとしているのか。

 静はその一太刀一太刀に、心を込めた。

 宗兵衛はそれを受け、捌き、返した。

 力ではない。型でもない。

 長い時間をかけて築いた“信”と“敬”のすべてが、そこにあった。

 やがて、ふたりの動きが止まる。

 構えを解いたその瞬間、誰かが小さく息をのんだ。

 静は、深く一礼した。

 宗兵衛も、同じように頭を下げた。

 言葉はなかった。

 それで、すべてだった。

     ※

 夕方、静は道場の掃除をひとりで始めていた。

 小太郎が声をかけた。

「……静」

「うん?」

「なあ……いつ、戻ってくるの?」

 静はほうきを止めなかった。

 その手の動きのなかに、答えがあった。

「帰ってこられるなら、帰ってきます。でも――」

 言いかけて、少しだけ微笑んだ。

「“戻ってこられる”って、思えるような剣を、まだ振ったことがないんです」

 小太郎は、何も返せなかった。

     ※

 夜、榎本と静が並んで縁側に座っていた。

 ふたりの間に、風が通っていた。

 言葉はなかった。

 それでも、伝わるものがあった。

 しばらくして、静がぽつりと呟いた。

「僕、名前がなくてよかったかもしれません」

「……なぜ」

「名を持っていたら、もっと誰かに何かを残したくなったと思うんです。僕は、誰のものでもないから、行ける」

「でも、誰かの記憶には残る」

 静は黙っていた。

 けれどその顔は、少しだけ安らいで見えた。

     ※

 翌朝、静は誰よりも早く起きていた。

 竹林のあいだから朝日が差し込むなか、彼は白い衣を着て立っていた。

 門の前には、誰もいなかった。

 けれど、彼はふりかえることなく、門をくぐった。

 何も言わなかった。

 何も持たなかった。

 ただ、剣だけを置いていった。

 それは木刀だった。

 道場の床に、静かに立てかけられていた。

 誰かがそれを見つけたとき、ふいに風が吹いた。

 強い風ではなかった。

 けれど、何かが確かに通り過ぎたあとだった。

 その日、誰も竹刀を握ろうとはしなかった。

     ※

 静は、いなかった。

 でも、確かに“いた”。

 その背中は、目に焼きついていた。

 その構えは、手に残っていた。

 その間合いは、風のなかにあった。

 そして――

 その静けさだけが、誰の言葉にもならずに、道場の空気のなかに残った。

 剣を置いて、去っていった少年。

 名を持たぬまま、誰かの心の奥深くに、確かに“剣”の形を残した者。

 その記憶は、のちに彼の最期を知る誰かの胸に、ゆっくりと降り積もることになる。

 まるで、花びらのように。

 あるいは、雪のように。


(第一章 了)

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