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『老いの愛と禁じられた想い』

作者: 小川敦人

『老いの愛と禁じられた想い』


電話の呼び出し音が、雨の日曜の早朝六時に響いた。管理施設からの電話だった。今日は計画があったが、すべての計画の変更を強いられた。今日は懸案の起業のための事業計画の最終的な見直しをするつもりだった。結局正午になって帰宅した。雨は上がって六月らしい蒸し暑い午後だった。昼食後、しかたなく2010年に買った曽野綾子の『老いの才覚』をもう一度読んだ。


雨音が窓を叩く午後、私は書斎の椅子に深く沈み込んでいた。机の上には、もう何度目かになる曽野綾子の『老いの才覚』が開かれている。ページは既に黄ばみ、角は折れ曲がり、私の指紋がいくつもの箇所に残っている。しかし今日という日まで、私はこの本の真の意味を理解していなかった。


妻の三津子が亡くなって十五年が過ぎた。七十二歳になった私にとって、これは人生最初の、そして最後の別れとなるはずだった。だが最近、私の心を占めているのは三津子への思いではない。頭から離れない、もう一人の女性がいる。


彼女は六十四歳。近所の図書館で知り合った。私が曽野綾子の本を探していた時、偶然隣にいた彼女が「その本なら、とても良い本ですよ」と声をかけてくれたのが始まりだった。


彼女は既婚女性だ。上品で知的で、話していると時間を忘れてしまう。最初は週に一度、図書館で顔を合わせる程度だった。それが月に数回の喫茶店での語らいになり、今では週に二度は会うようになった。


私は彼女を愛してしまった。七十二歳という年齢で、人生で二度目の、そして最も激しい恋に落ちた。しかし、彼女には夫がいる。この事実が私を深く苦しめている。


だが、この感情は絶対に許されないものだ。彼女は既婚女性なのだ。夫を持つ身でありながら、私のような老いた男に心を許してくれる彼女に、このような感情を抱くことは道徳的に許されない。三津子への裏切りであると同時に、彼女とその家庭への冒涜でもある。私は深い罪悪感に苛まれている。


曽野綾子は『老いの才覚』の中で、愛について厳しく語る。「愛とは自分の利益を度外視し、他者のために尽くすこと」と。だが、私が彼女に抱いている感情は、果たして真の愛なのだろうか。それとも、孤独な老人の身勝手な欲望なのだろうか。既婚女性に恋をするなど、どう考えても身勝手な感情としか言いようがない。


第一章「なぜ老人は才覚を失ってしまったのか」を読み返す。曽野綾子は老人が自制心を失い、分別を忘れることの危険性を説いている。「老いてなお、理性を保ち続けることこそが、真の品格である」と。私はまさに、その品格を失っているのだ。既婚女性に恋心を抱くなど、七十二歳の老人がすることではない。


彼女と過ごす時間は、私にとって至福のひとときだ。彼女の笑顔を見ているだけで心が軽やかになり、彼女の声を聞いているだけで生きる喜びを感じる。しかし、彼女には家庭がある。夫がいる。私はその事実を忘れてはいけないのに、彼女といると、すべてを忘れてしまう。これほどまでに人を想う気持ちが、七十二歳の今になって湧き上がってくることに、私自身が戸惑い、そして深く恥じている。


三津子に対しては、失ってから愛に気づいた。しかし彼女に対しては、生きている今、リアルタイムで愛を感じている。この違いが私を苦しめる。三津子への愛は静かで深い海のようなものだったが、彼女への愛は激流のように私の心を揺さぶる。そして何より、彼女は既婚女性なのだ。この事実が、私の想いをより一層苦しいものにしている。


昨夜、彼女の夢を見た。若い頃の私たちが手を繋いで歩いている夢だった。目が覚めた時、自分の愚かさと罪深さに呆れ、同時に切ない喜びに包まれた。七十二歳の老人が、ましてや既婚女性に対してこのような夢を見るなど、恥ずべきことだ。だが、この感情を偽ることはできない。


『老いの才覚』の第五章「孤独と付き合い、人生を面白がる力」を開く。曽野綾子は孤独を受け入れることの大切さを説く。「人は最終的には一人である。その現実を受け入れることから、真の自立が始まる」と。


だが、私はもう孤独でいたくない。彼女といると、孤独が癒される。しかし、それは許されない癒しなのだ。彼女には夫がいる。家庭がある。私が彼女に依存し、彼女から慰めを得ることは、彼女の家庭を脅かすことになるかもしれない。それは甘えなのだろうか。老人の身勝手なのだろうか。いや、それ以前に、道徳的に許されないことなのだ。


彼女は私の気持ちに気づいているのだろうか。時々、彼女の視線が合う時がある。その眼差しには、何かを訴えかけるような温かさがある。だが、それは私の一方的な解釈かもしれない。いや、そうであってほしい。彼女まで私と同じような気持ちを抱いているとしたら、それは彼女にとって不幸なことだ。彼女には守るべき家庭があるのだから。


曽野綾子の第六章「老い、病気、死と慣れ親しむ力」を読む。「老いとは諦めることを学ぶことである」という言葉が胸に刺さる。私は諦めるべきなのだろうか。この燃えるような想いを諦めて、静かに余生を送るべきなのだろうか。


だが、諦めることができない。彼女を想う気持ちは日に日に強くなる。彼女に会えない日は、心に穴が開いたような虚しさを感じる。彼女の声が聞こえない時は、世界が色褪せて見える。


これは恋なのだ。七十二歳の、そして人生で最も苦しい恋なのだ。なぜなら、この恋は絶対に実ってはいけない恋だから。彼女は既婚女性で、私にはその事実を尊重する義務がある。


しかし、この想いを彼女に伝えることは絶対にできない。もし伝えたら、彼女を困らせてしまう。彼女の家庭を壊してしまうかもしれない。それは私が最も恐れていることだ。今の友情すら失うかもしれない。それは耐えられない。しかし、それ以上に、彼女の平穏な生活を乱すことは、私には許されない。


『老いの才覚』の第七章「神さまの視点を持つ力」を読み返す。曽野綾子は「個人的な欲望を超越し、より高次の愛を理解することが重要だ」と説く。だが、私にはその境地には達することができない。私はあまりにも人間的で、あまりにも彼女を愛している。そして、この愛は決して表に出してはいけない愛なのだ。


三津子に対して、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。夫として、十五年間彼女を想い続けるべきだったのかもしれない。だが、心は正直だ。彼女への想いを消すことはできない。しかし、この想いは既婚女性に向けられたものであり、道徳的に許されない感情なのだ。


曽野綾子の第二章「死ぬまで働く力」を思い出す。老いてなお生きる意味を見つけ続けることの大切さが説かれている。彼女は私にとって、生きる意味そのものになっている。彼女のために身だしなみを整え、彼女のために本を読み、彼女のために生きている。しかし、これは既婚女性に対する感情として適切なのだろうか。


これは健全なことなのだろうか。一人の人間に、しかも既婚女性に依存しすぎているのではないだろうか。だが、この年齢になって、これほどまでに生きる喜びを感じることができるのは、彼女のおかげだ。しかし、その喜びは道徳的に間違っているのかもしれない。


第三章「夫婦・子供と付き合う力」では、家族関係の大切さが語られている。彼女との関係が私にとって唯一の人間的な絆なのかもしれない。しかし、彼女には夫がいる。家族がいる。私はその家族の絆を最も尊重しなければならないことである。


私は彼女に重荷をかけてはいけない。彼女には彼女の人生がある。夫との生活がある。私の一方的な想いで、彼女の平穏な日々を乱してはいけない。


それでも、この想いを抱えて生きていくしかない。彼女を愛していることを彼女に伝えることは決してできない。七十二歳の老人の告白など、滑稽に映るかもしれない。だが、それ以前に、既婚女性への告白など、道徳的に許されない。この想いは私の胸の奥に永遠に秘めておかなければならない。しかし、この想いは真実だ。


曽野綾子の第四章「お金に困らない力」を読む。物質的な豊かさよりも、精神的な豊かさが大切だと説かれている。彼女といる時間こそが、私にとっての真の豊かさだ。しかし、その豊かさは禁じられたものなのかもしれない。


今夜も、彼女の夢を見るだろう。そして明日も、彼女のことを想い続けるだろう。この苦しくも甘い想いと共に、残された人生を歩んでいく。しかし、この想いは決して口にしてはいけない秘密として、私の心に留めておかなければならない。


曽野綾子は言う。「老いとは、様々なものを失っていく過程である。だが、その中でも得られるものがある」と。私が得たものは、彼女への愛だ。この想いは、私の最後の宝物かもしれない。しかし、それは決して表に出してはいけない宝物なのだ。


老いの才覚に、私は新しい一章を加えたい。「禁じられた想いと共に生きる力」を。それは苦しいが、同時に美しい。人生最後の恋は、実ることなく、告白することもなく、ただ心の奥で燃え続ける。それでも、その炎は私の心を豊かにしてくれる。


雨が上がり、夕日が書斎に差し込んできた。明日、彼女に会う約束がある。その時、私は何を感じ、何を思うのだろうか。きっと今日と同じように、愛おしさと罪悪感の間で苦しむのだろう。


七十二歳の禁じられた恋は、永遠に秘密のままで終わるだろう。それでも、この想いは私の生きる支えとなっている。


日本は超高齢社会を迎え、これからさらに高齢の社会へと進んでいく。生きることの意味を、生きがいを見つけることが最も重要なことになるはずだ。私は思う——誰かを愛することは、生きることそのものなのだと。たとえその愛が秘められたものであろうとも、禁じられたものであろうとも、人を想う心こそが人生に光を与えてくれる。愛することをやめた時、人は生きることをやめてしまうのではないだろうか。


高齢者が増え続ける社会で、私たちに必要なのは、愛する心を失わないことだ。それが誰かへの想いであれ、何かへの情熱であれ、心に灯る炎を消してはいけない。老いとは諦めることではなく、新しい愛の形を見つけることなのかもしれない。

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