名を、喫茶やどりぎと言います
ここは雑居ビルの2階にポツンとたたずむ純喫茶。
名を喫茶やどりぎ、という。
オフィス街に程近く、多くの人々が行き交う、大通りに面した古ぼけたビル。
大都会のど真ん中で、気を付けないと見逃してしまうような控えめな体裁。
2階へ続く階段を上がると、アンティークランプがその入り口を教えてくれる。
扉を開けると、カランコロンと乾いた鐘の音が鳴る。
幼いころに、一度は聞いたことのある、あの心地いい音。
全身は珈琲の芳しい香りに包まれ、非日常のひと時と出会える場所だ。
カウンター6席とテーブル席が3つのこじんまりとした店内。
カウンターのテーブルはマホガニーの古木から切り出した一枚もので、優しくもシックな雰囲気を醸し出している。
なぞると、少し湾曲している。
この色調を中心とした統一感のある店内は、穏やかな時間と落ち着きに満ち溢れ、日常の喧噪を忘れさせてくれる。
決して有名店というわけではないが、昔から常連さんに愛される純喫茶。
たまに雑誌に載る程度には名を馳せた、自家焙煎の珈琲店。
それでも休日は人が途切れることなく来店があり、そこそこの儲けもあるようだ。
ここでアルバイトとして働く俺、小柳小鉄は、近くの大学に通う学生だ。
1年前に友人の紹介でこの店を知り、ここの珈琲と雰囲気の虜になった。
大学の帰りにバイト募集の張り紙を見かけ、すぐに応募した。
これまで、何の目的もなく、ただ周りに合わせて生きるだけの俺にとって、
この喫茶やどりぎとの出会いは人生の変化点と言ってもいい。
初めて、心の底からやりたい事が見つかったのだ。
一杯の珈琲を通じて、人を幸せにする。
そのシンプルな目的のために、店内の内装、外装、調度品、食器類、フードメニュー、接客に至るまで、全てが成り立っている。
その仕事の美しさに惹かれ、自分もやってみたいと思った。
そして、店長の珈琲を淹れる所作が、何よりも美しい。
ネルドリップで抽出される珈琲とそれを淹れる一挙手一投足に惚れてしまった。
ケトルからのお湯は絹の糸のように美しい直線で珈琲に注がれ、グラインダーで細かく挽かれた珈琲はお湯を受けてゆっくりと膨れていく。
店長は、お湯の着地点と落下点を結ぶようにまなざしを投げながら、少しづつ、湯を注ぐ。
直立の姿勢は丁寧さと気品に満ち、一切無駄がない。
ただ一杯の珈琲を点てるために、全神経を注ぐのだ。
温かで芳醇な香りが辺りに漂い、少し赤みのかかった黒が磨きをかけながら落ちていく。
初めてこれを見た時、この世界はこの瞬間のために用意されたのだと思った。
あぁ、美しい。
自分もこの空間を作れたら。
きっと、俺の人生にも、意味ができるのだろう。
そう思った。
この純喫茶は、ある意味、俺の理想を形にしたような場所だ。
美味しい珈琲と、それを彩るフードメニュー、そして店内の雰囲気。
来店するお客さんは、思い思いに時を過ごし、癒され、心地よい静寂に包まれるのだ。
しかしこの静寂は、一人の男によって破られる。
アルトゥーロ・ソサ・アルデバラン(日本人)と名乗る自称転生者によって。