鬼ヶ島
鬼さん、こちら。
手の鳴る方へ。
今は昔。
と、いうと少し語弊がある。これは平成の話である。
郊外の住宅街の一角に立つ一軒家に暮らす、とある夫婦。
お母さんは川へ、お父さんは山へお散歩に出かけました。
夫婦になって早10年。
二人の仲は良くもなく、悪くもなく。
互いに良い意味でも悪い意味でも無関心。
程度としては、休日に二人ともお散歩に行くのに、行き先は別々なほど。
お母さんは川に到着するや否や、川辺の石を積み始めました。
何とまぁ、よろしくない。
無表情で黙々と。
すると、川の下流から何やら大きなものが登ってきました。
鯉でしょうか。いいえ、違います。
桃です。
お母さんは、一度無視しました。
何せ、石を積んでいましたから。
すると、川の上流から何やら大きなももが下ってきました。
視界の端に入って邪魔。
お母さんの集中力が途切れ、同時に積んでいた石が崩れてしまった。
大きなおおきな桃です。気にならないはずがありません。
好奇心が抑えられないお母さんは、川の中に入ると大きな桃を陸にあげました。
大きさもさることながら、持ち上げてみると異常な重さです。
これはただの桃の実じゃない。
これは得をした。
そう思いつつも、味が気になり端を少し齧ってみる。何とも微妙な味がします。
水臭い桃の味がする。やはり非常に大味です。
だが、確かにこれは桃である。
今晩のデザートにでも出そうか。
お母さんは大きな桃をお家へお持ち帰りすることにしました。
しかし、これがただの桃の実ではない事は明らかです。
途中、街の研究施設に寄りました。
CTスキャンで桃の中身を確認してもらう為です。
こんな桃は見た事がないと、研究員たちも大興奮です。
いざ。調べてみると。すると、どうでしょうか。
何故か知りませんが、桃の中で胎児が育っているようです。
驚くお母さんと研究員たち。必死に寄贈する様、説得されたお母さんですが、無視してお持ち帰りすることにしました。
この夫婦に子どもはいませんでした。
別にいらないと思っていたわけではありません。
むしろ、お母さんは子どもを望んでいました。
単に恵まれなかったのです。
なので、お母さんは良い機会を得たと喜びました。
必死に寄贈を呼びかける研究員たちを巻いて、やっと家に戻ることができました。
おかげで、スーパーマーケットで今晩のお買い物をするのを忘れてしまいました。
お母さんが家に戻ってからしばらくして、お父さんが山から帰ってきました。
お散歩をしていただけの割には帰りが遅いし、ただ歩いていただけの割には着衣の乱れが激しく気になりましたが、今はそんな事どうでも良いです。
お母さんはお散歩中の出来事を語ります。
最初はつまらなそうに聞いていたお父さん。
川への散歩に価値を見出していないのです。
しかし、桃の話が進むにつれ、お父さんの眼の色が変わっていきました。
ただの大きな桃じゃない。
その話を聞いた刹那で桃の価値を悟ったからです。
これはすごい。とんでもない珍品だ。世界に一つだけの桃だろう。
研究機関なんかに寄贈しないで大正解だ。
この情報をマスコミに売れば飛びついて取材にくるだろう。
S N Sでも拡散されて話題になる。
噂を聞いて押し寄せて来る大衆に展示して見せびらかし、愚民どもから見物料として金を巻き上げて。
その金で俺は遊び放題だ。仕事も辞めて一生贅沢して暮らせるぞ、と。
その言葉を聞いたお母さんは、実はずっと前から用意していた一枚の紙を差し出します。
三行半。離縁状。離婚届です。
お母さんは今まで別れるべきでは無いと我慢していました。
ずっと、ずっと。今ではない。今じゃない。いまじゃない。
失敗が許されない社会の中でバツがつく事を恐れていたのです。
仲が良くも悪くもない二人でも、それが続いてくれるのならそれで良いと。
しかし、この大きな桃から生まれてきてくれるであろう胎児の人権を、子どもの事を考える事も無く、さらには「俺たち」では無く、「俺」という自己中心的な言葉。
これは、良くも悪くもない仲ではいられなくなる。
この先も一緒に居たら、これまで以上に恨みつらみが募っていってしまうであろう。
お母さんは、ついに決心しました。
短くはない10年という夫婦生活の中で生じてしまった溝の深さ、壁の高さは、お母さんがお散歩でよく行く川よりも深く、お父さんがよく遊びに行く山の上の「お城」より高かったのです。
お父さんは三行半に対して何も反論する事なく、大人しく離婚届に署名したのです。
しかし、大きな桃の事となると態度が一変しました。
お前はこの桃を上手く扱えない。
持っていても腐らせるだけ。無駄にするだけ。
仮にこの桃から子どもが生まれたとしても、稼ぎがない、働いてもどうせ薄給のお前じゃ幸せにできない。
子どもが不幸になるだけだ。
この桃は俺のものだ。いいや、この子は俺のももだ。
お母さんは呆れ、そして最終手段に出ました。
S N Sです。
夫の不倫、D V、モラハラ。
世間は一切、お父さんを守ってくれませんでした。
お父さんは社会的地位を失いました。
そして、桃はお母さんの元で大切にされ、守られたのです。
時は流れて。
お父さんは山にいました。
S N S上でのお父さんの炎上が飛び火したのか、あるいは時代の流れか、単に無能経営だったのか。廃業に追い込まれた山の上の「お城」にて。
廃墟と化した荒城には、お父さんと他にも。
犬・猿・雉です。
「お城」の城下山に住まう、野犬・野獣・野鳥をお父さんが捕獲したのです。
何のために。復讐の為です。
朝早くに山から街に降りて日雇いの仕事をして。夜更けに山へ帰ってくる生活をしているお父さんは、夜な夜な犬・猿・雉に人を襲う訓練を施しています。
かつて、お父さんを貶めたお母さんに。世間に。そして全ての元凶である、もう生まれたであろうあの桃の子どもに復讐するために。
今日もお父さんが街で拾ってきた生ゴミに群がる畜生共。
彼らは所詮、お父さんに餌付けされた存在です。
どんなに劣悪なものでも食事を与えてくれるから従っているだけ。
犬・猿・雉に罪はありません。
悪いのは自業自得だというのに復讐心に囚われ、未だ私利私欲だらけのお父さんです。
お父さんが内に秘められず、溢れ出ている想いは、人の道を外れた、まるで「鬼」のものです。
鬼が住まう鬼ヶ島は私たち人間の醜い心の中に存在するのでしょうか。
時は流れて。
無事、桃の子どもは生まれた。
可愛いかわいい女の子。
桃から生まれた子どもは桃子と名付けられました。
出生の秘密は、拾い主のお母さんと元夫のお父さん以外、誰にも知られることなくすくすくと育った。
お母さんに望まれて生まれてきた桃子。
しかし、決してその生活は幸せななものとはいえなかった。
離婚成立後、貯蓄はある程度あったが経済的な支えを失ったのでお母さんは働き始めた。
だが、学歴は高卒。就労経験は学生時代のアルバイトくらいしかなく、どんなに頑張っても正社員にはなれなかった。
良くて派遣、基本はバイト。
加えて、どの仕事も長続きしない。続けられない。
多くはなかった貯蓄がものすごい勢いで消えていった。
桃子の出生のこともあって誰にも頼れない。
二人では大きいと、暮らしていた一軒家を手放したが大した金にはならなかった。
家賃3万のボロアパート、手取り十万円以下で親子二人暮らし。
無念にも、かつてのお父さんが言っていた通りになってしまった。
桃を持っていても無駄にする。
子どもが生まれても幸せにできない。
子どもが不幸になるだけ
桃子に人間として最低限の生活なんてさせてあげられなかったお母さん。
桃子が物心つく前に精神的に限界を迎えていた。
なんと、日々の鬱憤を桃子相手に晴らしたのだ。
暴行された幼い桃子の身体はアザだらけになった。
だけど、不思議な事に翌日にはすっかり治ってしまっている。
だから、誰にも知られる事はなかったお母さんのD V。
何も跡が残らないから、歯止めが効かなくなってくる。
段々だんだんと、日に日にエスカレートしていった。
アザでは収まらず、出血、さらには骨折するまで暴行される事もあった。
だけど、不思議な事に翌日にはすっかり治ってしまっている。
しかし、傷は残らずとも痛みを感じない訳ではない。
アザになる程度の暴行ならどうにか我慢していられた桃子だが、エスカレートしていくにつれて耐えるのが厳しくなっていった。
だが、怪我も傷跡も残らない。
相談しても信じてもらえない、証拠がない。そもそも相談できる相手がいない。
桃子はお母さんの大きなおおきな悪意にさらされ続け、そしてどんどん心に内に溜め込んでいった。
一つの桃から狂った二人と生まれた一人。
桃になんて出会わなければ、当たり障りがない、つまらないが平和な夫婦でいられたのかも知れない。
せっかくこの世に生まれて来た桃子の心にもいつしか鬼が住まい、終いにはその姿を現わすのでしょうか。
鬼が住まう鬼ヶ島は私たち人間の醜い心の中に存在するのでしょう。
終わり
人の心に鬼が棲む。
仏教的な考えか、教訓的なものか。
昔から良く言われることである。
でも、本当に「人の心」に「鬼」が棲むのだろうか。
否。
「人の心」がすなわち「鬼」なのではないか。
「鬼」とは「人」のことではあるまいか。
居もしない、幻の生き物をそんなに考えても仕方がない。
優しくなりたいものである。
NEKO