瀬田 明の話 (8)
はやかわ園を出たのは、昼を過ぎてからだった。あれから伊智子さんは手作りのお昼ご飯をごちそうしてくれた。せっかくだから子どもたちと、と誘われたが、それは丁重にお断りをして、応接室でいただいた。久々にコンビニや飲食店以外の食事を口にした気がする。最近、実家に帰っていないことも思い出して、人の温かみが心に染みた。
車内に差し込む陽射しと、満腹感が相まって眠気に包まれてしまう。このまま帰ろうかとも思ったが、最後に一度、あのマンションを訪ねてみようと思った。誰か居るかもしれない。
すっかり見慣れた白い建物、まるで居住者のようにスムーズに部屋までたどり着けるようになってしまった。本当に通報されないか心配もある。件の角部屋のインターホンを鳴らす。誰か、誰か居ないか――
がちゃり、と扉が開いた。が、ドアガードが掛かっている。わずかな隙間から、誰かと目が合った。さきほどまで包まれていた眠気など、一気にどこかへ消えた。
「誰」
ハスキーな声だった。その声に驚き、わたしは一歩引いたが、合った目だけは逸らさずにいた。黒目が大きく、つけまつげをしているようで、それに目蓋がキラキラしている。――女か?
「あの、月城‥‥さんのお宅ですよね?」
「えー‥‥はい、そうですね」
女性らしきその人物の声は不機嫌そうだ。
「ちょっと待ってて」
隙間から揺れる茶髪が見えたかと思ったら、がちゃりと扉が閉められ、再び音をたてて開いた。ドアガードが外され、大きく開かれた扉、その室内からは甘ったるい香水のような匂いが漂ってきた。
「あの」
なんと切り出したらよいのか判らなくなった。
扉を開けた人物は若い女性だった。長い前髪をピンで留め、長いまつげと桃色に染まる頬。真っ赤なネイルが施された指で、同じく真っ赤な口紅を持っている。白いキャミソールに、羽織っている薄手のカーディガンは袖が長いらしく、グレーの生地は指の付け根まであって、手のひらをすっぽりと隠していた。ひょっとしたら夜のお仕事の人なのかもしれないと思った。思ったよりも高い身長で、細い肩にかかる茶髪。カーディガンの右ポケットが妙に角張って膨らんでいる。こっそり覗くとすべての面がきれいに揃っていた。
「どちらさま」
それはこちらの質問だ、と思ったが、この状況では明らかに部屋の主は彼女だ。
「あの、瀬田明と申します‥‥」
可愛らしいというよりは、美人な女性だと思った。化粧やネイル、茶髪に派手な印象を抱いてしまうが、上品さはある。それに、誰かに似ている気がした。
「有名人に似てるって言われたことありませんか? それか、前にわたしと会ったことないかな」
そのとき、ハッとした。月城の言う、陽多の女の影とはこの人物ではないか。
「古い口説き文句だね」
「そうじゃなくて‥‥いや、月城のことを聞きたいんだ」
「あたしはなにも聞いてない」
「じゃあ、陽多からは?」
「あ? おっさんなんなの。なんでそんなことまで」
ずい、と顔を近づけられた。吸った息を止めるので精一杯で、後退ることはできなかった。それよりも、おっさんという言葉がひっかかる。
「ふーん‥‥」
品定めするように頭の先から足の先までわたしを見まわし、ひとつニヤリと笑った。
「案外、男前だね」
「は?」
「だからあたしもうっかり扉開けちゃったのかも。いつもだったら管理人だろうが宅配便だろうが留守しちゃうのに」
それもどうなんだろうか。
「でも部屋にはあげないよ」
「いや、そういうつもりで訪ねたわけじゃない」
なにげなく部屋の奥を覗いてみたが、誰も居なかった。玄関に脱いである靴も、ハイヒールやらパンプスやら女性のものしかない。月城も陽多も居ないのだろうか。どうやら月城たちのことは知っているようだが、どうして彼女がひとりでこの部屋に居るのだろう。
「月城のことを知っているね?」
「まぁ、一応」
「最近、いつ帰ったかな」
「さぁ。あたしは関与しない」
‥‥関与? 妙な物言いだ。
「陽多のことは?」
「そいつこそ、あたしは関わらない。あたしは好きなときに出てきて、好きなことをする。それだけ」
「君は、ここに住んでいるの?」
「ねぇ」
急に彼女の声が鋭くなった。幅の広い二重でわたしを睨んでいる。
「確かにあたしはおっさんのことを男前だとは言ったけど口説いて良いとは言ってないよ」
「そういうつもりじゃない! わたしはただ月城のことを訊ねたいだけだ。彼は怪我をしている。それを心配しているんだ」
「あいつの怪我のことなんか放っておきなよ。いつも勝手に治るんだから」
いつも、か。やはり、彼女も月城の自傷癖を知っているのか。
「名前を、教えてくれないか。わたしは名乗ったぞ。予備校の講師をしている瀬田だ」
「ああ、あんたが瀬田さんね。あたしは綺音」
「わたしのことを知っているのか。やっぱりどこかで会ったかい?」
「会ってないよ。瀬田さんも面倒なことに巻き込まれたね。放っとけばいいのにさ。あいつも馬鹿、それに関わる瀬田さんも馬鹿。守るとか言ってイキってた陽多も馬鹿」
この歳になって久々に馬鹿と言われた気がする。しかもこんな歳下に....だが、いまはそれどころではない。
「ここは月城が陽多と一緒に住んでいる部屋では?」
「そうだよ。さっき言ったじゃん。好きなときに出てきて好きなことしてるって。あたしが好きなことしてるときがいちばん平和なんだよ」
綺音と名乗ったこの女は、すでに長いカーディガン袖を指先のほうに伸ばして手を引っ込めようとする。
「袖、伸びるぞ」
「いいの」
「寒いのなら、そんな格好じゃなくて、もっと着込めばいいだろう」
「いつも着込んでるからこれくらいがいいの。口出ししないで」
「‥‥このまま君と話していて、月城のことが判るのかな」
「あたしはなにも話さないよ。あいつからも陽多からもなにも言われてないからね」
「月城が行きそうな場所って判るかな。怪我の具合が心配なんだ」
「放っておけばいいって言ったでしょ。とにかく、瀬田さんは放っておけばいいの。尻拭いしてくれる人がほかにいるんだから」
「尻拭い?」
「だからあいつはあのゼミに通ってんの」
「今西悟か?」
「なるようにしかなんないんだから、放っておけばいい。なにか起きたら誰かがどうにかしてくれる。それだけのこと。それだけのことなのに、瀬田さんが首を突っ込んで引っ掻きまわしちゃってんの。あいつに頼まれたからってここまで関与することなかったのに。あたしは知らないよ」
「‥‥どういう意味だ?」
やはり、わたしのことを知っているのか。今回のことは、どこまで知っている?
綺音は口紅をカーディガンの左ポケットに入れ、その手でドアノブをぐいを引っ張った。
「次に会うときはもっと良い格好しとかないとね。そろそろ時間だから、さよなら。瀬田さん」
強引に扉を閉められてしまった。思ったよりも強い力だ。わずかに残った香水の風が、鼻先をかすめた。
***
時間の流れというのは早いもので、あっという間に一週間が経ってしまった。
放っておけばいい――綺音という女の言葉に従ったわけではないが、あれからわたしは急に脱力したようにずっと家のなかに居た。ハイム万願寺にも、はやかわ園にも、どこへも行かなかった。行っても、月城の姿は無い気がしたからだ。
あんなに追い求めていたのに、ここへ来てどうしていきなりこんな考えになったのかは、自分でも判っていない。もちろん、陽多にも会っていない。月城の痕跡を追いまわすよりも、ゆっくりと自分の時間を取ることを優先した。また、月城が登校してきてくれるのを気長に待つほかない。
たった一週間なのに、すっかり夏模様になった朝、いつものように出勤して自分のデスクで授業の準備を始める。長くも短くも感じられた休暇だった。わたしの生徒は月城だけじゃない、ほかにもたくさん居る。
「おはようございます」
講師室でいちばん最初に声をかけてくれたのは今西先生だった。わたしが休んでいるあいだも、いろいろと気にかけてくれた。
「おはようございます。本当にご迷惑をかけました‥‥」
「心からそう思うのなら、今回のようなことはもう二度と起こさないでくださいね」
今西先生の厭味も、いまなら穏やかな気持ちで受け止められる。
「また誘ってください、あの飲み屋さん」
わずかに口元を緩めたかと思ったら、今西先生は足早に部屋を出て行ってしまった。あとで大羽さんにもちゃんとお礼を言っておかないと。
予鈴にはまだ早かったが、わたしは軽い足取りで教室へ向かった。久々の授業に、妙に緊張している。背広のポケットにペンを入れてしまわないように気をつけなければ――なんてことを考えながら廊下を歩いていると、いちばん端の教室に今西先生が入ってゆくのが見えた。
一限は隣の教室なんだな、と思っていると、別の教室から背の高い男子が出てきて、件の教室へ入っていった。もしやいまのは、月城か? 見覚えのある黒髪と、紫色のトートバッグ。俯き加減の背中は、もしかしたらもしかするかもしれない。わたしは駆け足でその教室の前までゆく。
後ろの扉のガラス窓からそっとなかを覗いてみた。教壇に立つ今西先生と、教室のなかほどに立つ細い背中が対峙している。白い長袖を着ているその背中はゆっくりと今西先生に近づき、トートバッグからなにかを取り出した。
彼の右手に、カッターナイフが握られている。
「元気だったか?」
今西先生はわずかに構え、しかし冷静そのままに例の生徒に問う。彼は微動だにせず、キリキリとカッターナイフの刃を伸ばす。
「もうすっかり夏だな。夏期講習の準備で大変だよ、先生は」
「―――」
なにが起きている? 助けに入ったほうがよいのか? どのような状況でこんな事態になったのか判らないいま、わたしは黙って見つめているしかできない。非力な自らが憎い。額に、手のひらに、じっとりと汗をかく。
いろいろと考えを巡らせているあいだに、わずかだが動きがあった。彼が、カッターナイフの刃を自らの白い首筋にあてがったのだ。一瞬にして背筋が凍る。彼は、なにをするつもりだ。ひとことも発さない彼だが、大きく荒く呼吸しているのが肩の揺れで判る。
彼は無言で首を横に振る。その動作で切れてしまわないかびくびくする。
ふと、ガラス越しに今西先生と目が合った。だが、視線で訴えるでもなく、首を振るでもなく、わたしになにも合図してこない。
「愚かだ、君は。ここは勉強をする場であって、そんな醜いことをする場所ではないよ。図画工作の時間でもあるまいに、そんなものしまいなさい」
今西先生の言葉に、彼は刃をほんのすこし首から離して頭を大きく左右に振った。先生の言葉を否定するというよりも、煩わしいなにかを追い払うような動きだった。肩を大きく揺らしている彼は、再びカッターナイフの刃を首筋、白い肌へあてがった。
「傷つけるのか、また。それなら、この今西を刺しなさい。所詮は他人の痛み、その首を掻き切ろうとも今西を刺そうとも同じことではないか? その首を切ったところで、君は確実に後悔する。いままでのように、いままで以上に。どうせ傷つけるなら痛くないほうを選びなさい。ほら、ここを」
自らの胸をトントンと指す今西先生。わたしは必死に首を横に振り、それだけはやめろと願った。誰の血も流したくない。唇を噛み、声を殺し、必死に今西先生に訴える。先生はわたしを見たが、同じ言葉をくり返した。
「ほら、ここだ。ここを狙いなさい」
カッターナイフを握る手は震えていた。その震えを止めるように、左手でその右手を強く掴んでいる。彼は抗っているのか逡巡しているのか、嗚咽を漏らしていた。彼の左手の甲には、ちいさな傷が見えた。あの傷は――
「俺が、守らなくちゃダメなんだ」
彼が呟く。
「そうだな」
「でも、俺じゃダメだって言われた気がしたんだ」
「そうかもしれないな」
「あはは、非道いんだね」
「そうだな」
「‥‥守るのは、俺なのに、あいつが」
「そいつの心配はしなくていい」
今西先生がわたしを見た。鋭い眼差しに、わたしは呼吸することを刹那的に忘れてしまった。持っていた教材が手から離れ、床に落ちる。
そのとき。
今西先生の視線を追い、彼が振り返った。わたしと目が合う。黒く長めの髪、白い肌、見開かれた目。見覚えのあるその顔は、恐怖と哀しみにまみれていた。
「君は――」
わたしの言葉を待たず、彼は今西先生に向きなおり、その身体に突進した。声をかけ制する間もなく、彼は今西先生の腹部に刃を突き立てた。防御するでもなく、今西先生は震える彼の身体を抱きしめ、その場にくずおれた。
「今西先生!」
わたしがようやく声をふりしぼって、倒れる今西先生のもとへ駆けつける。
今西先生は彼の耳許でなにかを囁くと、震えるその肩を抱いたまま静かに微笑んだ。今西先生の笑顔を、こんな形で見たくはなかった。彼はそのまま先生の胸で静かに泣く。
「俺のまわりは、馬鹿野郎ばっかだ」
彼が今西先生から離れると、腹部にカッターナイフが突き立てられたまま身体は横に倒れる。紺色のスーツには赤黒いシミが広がる。力ない腕で先生は自らのポケットをまさぐる。それをぼうっと見おろす彼。
「ハンカチが、ポケット‥‥、ありませんか」
苦しそうな今西先生の声で、わたしはハッと我に返る。いまは今西先生を救わねば。
「いま、いま見つけますから」
「手袋も、あるので、それを」
息も絶え絶え、今西先生はわたしに告げる。ふいに先生の目がわたしの背後に向けられたので反射的にそちらを向いた。わたしらを見おろす彼の目は虚ろで、あふれ出る涙を拭うことなくただただ立っていた。
「どうして、こんなことを‥‥月城」
彼は、ただただ立っていた。