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瀬田 明の話 (7)

 一週間ほど休みを与えられた。大羽さんは優しく、


「短くて申し訳ないけれど、ゆっくり休んでください」


 と、ほほ笑むだけだった。


 あれから月城はゼミに来ていないと今西先生が教えてくれた。わたしが受け持つ生徒たちには、身内に不幸ができて、とだけ説明したらしい。


 目覚まし時計よりも早く起きてしまったわたしは、ハイム万願寺に車を走らせていた。ナビはもう必要ない。スムーズに到着したが、月城も陽多も居なかった。部屋の鍵は開いておらず、ドアとエントランスに設置された郵便受けにはチラシやら郵便物がぎっしり詰まってはみ出していたので、これは帰宅していないなと思ったのだ。


 そうなると、当ては限られてくる。陽多が言っていた、はやかわ園という児童養護施設だ。わたしはさっそく車のナビにその名前を入れてみる。該当する建物が、市内ではあったがかなり外れのほうにあった。望みを託し、わたしは車を走らせた。


***


〝はやかわ園〟と看板が掲げられたその施設は小さな学校のような建物で、もともとは白かったのか、それとも最初から灰色の壁なのか判らないほど、外壁はなんとも言えない暗い色をしている。


 広い庭は、樹木と砂場がある以外は遊具らしいものは見当たらない。錆びた鉄の棒があちこちに点在していたが、とても遊具には見えないものばかりだ。外に人の気配はしないが、開け放たれた建物の窓から、子どもたちの声が聴こえる。


 わたしは、なるべく不審者に見えないように堂々と庭を進んでゆく。どこで買ったのか忘れたが、どこぞのブランドの黒いジャケットと、友人に半ば騙された形で購入したデニムのパンツ。服装は、そんなに悪くない、と思う。


 玄関と思しき重たそうなガラス扉。ご用の方はこちら、と書かれた紙が貼ってあるインターホンを押す。軽快なメロディののち、スピーカーから女性の声がした。こちらが用件を伝える間もなく、通話が切れた音がした。


 もう一度インターホンを押そうとしたら、絵の具まみれのエプロンと花柄のタオルを首からをかけた中年女性が廊下の奥から現れた。すこし苦戦しながらガラスの扉を開けるので、わたしはそれを手伝う。重くて立て付けが悪い。彼女は左手の薬指にくすんだ指輪をしていた。


「どちらさまでしょう」


 穏やかそうな女性だが、明らかに怪しいものを見る目でわたしを見ている。


「突然すみません。わたし、大羽ゼミという予備校の講師で、瀬田明と申します」


 わたしはジャケットの胸ポケットから名刺を取り出し、一枚差し出した。いまだ不審そうだが、受け取ってくれた。わたしの顔と名刺を交互に見ている。


「どうも、私はここの責任者の早川(はやかわ)伊智子(いちこ)です」


「突然お訪ねして申し訳ないんですが、伺いたいことがありまして‥‥」


 わたしを見る眼差しは変わらないが、目の前の女性はわずかに笑顔をつくってくれた。


「立ち話もなんですから、どうぞなかへ」


 わたしは頷き、彼女のあとをついてゆく。


「すみません、授業中、でしたか」


 こういう施設でも授業という言い方で合っているのだろうか。


「いいえ、大丈夫ですよ。ここは子どもたちもすくないですからね」


 小中学校の記憶はあまり覚えていなかったが、建物内はやはり学校そのものだった。廊下の掲示板には、子どもたちが描いたであろう絵や、見事な習字が貼られている。


 早川さんはひとつの古い扉の前で止まり、それを恭しく開いてわたしになかへ入るよう促してきた。応接室のようだった。よく磨かれた木のテーブルと、ベージュのソファ。なんの変哲もない部屋。壁にかけられている時計は、予備校の教室にかかっているのと同じ型だった。


「どうぞ、かけてください」


 そう言うと、早川さんは足早にどこかへ行ってしまった。


 腰かけたソファはすこしくたびれていたが、座り心地の良いものだ。外はわずかに汗ばむような陽射しの強さだったが、さすがに室内は涼しい。


 しばらくすると、早川さんが戻ってきた。絵の具にまみれたエプロンから、白くフリルのある可愛らしいエプロンにかけかえて、氷が入った、歪な形をした透明なグラスをふたつと、先ほど彼女が首からかけていたタオルと似た花柄が描かれた、麦茶らしき液体が半分ほど入ったピッチャーを盆に載せて部屋に戻って来た。


「麦茶でよかったかしら?」


「ありがとうございます、お気遣いなく」


 冷蔵庫から取り出されたばかりなのか、ピッチャーの表面が結露している。花柄のピッチャー、似たようなデザインのものを母が使っていたのを思い出した。早川さんはわたしの正面に座り、麦茶を注いでくれた。カラン、と氷が鳴る。


「麦茶を飲むと、夏感が増しますよねぇ。あ、このグラスね。変な形でしょう。昨年の秋に近くの工房で子どもたちと一緒に作ったんですよ。体験教室みたいなのをやっていて。工房の窯も熱いなと思いましたけど、やっぱり陽射しのほうがキツいですねぇ。変な形にはなっちゃいましたけど、倒れないようには作ってあるので安心してくださいね」


 早川さんは二人分の麦茶を注ぎ終え、ひとつをわたしの前に置くと、自分の分を一気に飲み干してしまった。


 二杯目を注ぎ、わたしがずっと黙っているのにようやく気がついたのか、早川さんは注いだばかりのそれを飲むのをやめた。


「ごめんなさいね、私ばかり喋っちゃって‥‥それで、どんなお話でしょう」


「あの、こちらの施設に月城みやびという男の子が居たことはありますか?」


 直球で訊いた。


「え。ええ、居ましたよ。今年の三月まで‥‥みやびくんがなにか?」


「ほんと、ですか」


 早川さんはゆっくりと、二度ほど頷いた。


 ありがたい情報を得たのはいいが、初対面の人間にずいぶんと親切すぎやしないか? いきなり訪ねてきたわたしが思うのも変だが‥‥。


「あの、わたしのこと‥‥」


「心配なさらないで。大羽ゼミなら知っていますよ。政人さんは知り合いですもの」


「あ、そう、なんですね」


 政人さん。古い知り合いかなにかだろうか。親し気な呼び方に、ついそう思ってしまった。


「それで、みやびくんがどうしたんですか」


「陽多という子は?」


「ひなた‥‥? いえ、そんな名前の子は居なかったような‥‥。私もこの仕事をもう三十年もやってますので、いろいろ昔のことは忘れてしまうんですよ」


 早川さんは手を口元に持っていき、照れ隠しのようにちいさく笑ったが、わたしは愛想笑いもする気になれなかった。


「この施設、古いんですよ。むかしは庭に遊具もたくさんあったんですけど、老朽化ですべて取り壊してしまいました」


「それで、錆びた棒だけ残されていたんですね」


「そうなんです。それでもなるべくお外で遊ばせようと、いろいろ工夫してるんですよ」


 早川さんが窓の外を見たので、わたしもつられて視線を追った。よく晴れている。


「月城は、いつからこの施設に?」


「そうですねぇ。あの子が八歳のときかしら。両親が離婚しましてしてねぇ。ものすごい大金と一緒にここへ置いていってしまったんです、父親が」


「はぁ」


「それで、高校を卒業するまで居ましたよ。大学のために予備校に通いたいと言うから、大羽ゼミを紹介したんです。政人さんのところですし。なにかあったときにすぐ声をかけてくださるから」


 早川さんは麦茶に反射する自らの顔を見つめて言った。


「なにか、というと?」


「ええと‥‥先生がどこまで知ってらっしゃるか判りませんけど、みやびくん、ちいさいときはいろいろあったんですよ。十歳になるかならないかのころから、壁に自分の頭を打ちつけてみたり、熱湯を自分でかぶったり、それはもう大変でしたわ」


〝本来、勉強をしなくちゃいけない時期に、みやびは自分を傷つけた〟


 陽多の言葉を思い出した。このことを言っているのか。まさか本当に、月城にそんな過去があったなんて。いや、普通は生徒ひとりひとりの家庭事情なんて深くは知っていないはずだ。普段の月城からは自傷行為をするなんて想像もできない。物静かですこし皮肉っぽくて、思春期の男子そのものだ。


「高校にあがるくらいになったとき、お布団の上で大変なことがありましてねぇ。図工用に保管しておいた彫刻刀をいつの間にか持ち出して、それで、こう――」


 早川さんは、自分の左手首を差し出し、右手の人差し指で横になぞった。


「それが一度や二度じゃなくて、何度もなんです。まわりの子たちを傷つけるわけじゃなかったのが救いと言いますか、だからといって自分の身体を痛めつけていいわけでもなくて‥‥。中学生のころはそんなこと一度も無かったんですよ」


 麦茶を飲む早川さんに合わせ、わたしもひとくちだけすすった。氷がすっかり溶け、薄い。


「小学生のころと、高校生のころに、自傷行為を?」


「そうなんです。理由を訊いても話してくれないし。画用紙と色鉛筆は肌身離さず持ってましたかねぇ。おとなしくてきれいな子なんですけど、あの手足に傷が残っているかと思うと可哀想で可哀想で‥‥」


 陽多の言うことは本当だった。月城には自傷癖がある。


「そんなことがありましたですから、ここを出ても大丈夫かどうかはスタッフみんなでたくさん話し合いましてね。そこで、政人さんのことを思い出して、あのゼミなら心配ないだろうってことで、ひとり暮らしを許可したんです。許可といっても、契約書やらなにやら、ひとりで勝手に用意していて、止めても無駄だろうって」


「ひとり暮らし? 月城がそう言ったんですか?」


 ふたりで住むためにあの部屋を借りたのではないのか。どういうことだ? 陽多の言うことと齟齬が生じている。


「まぁまぁ、私ばっかりお話してしまってごめんなさいね。それで、どうしてみやびくんのお話を? なにかあれば、政人さんのほうから私に連絡が来るのに」


「えっと、いや‥‥」


 まさか、シャーペンを自分の手に突き刺して行方不明になりましたよ、なんて言えない。それにしても、大羽さんから連絡が行くとなっているが、今回のことは伝えていないのだろうか。わたしが話してしまっても良いのか。


「いままで、月城のことで大羽さんから連絡が来たことはありましたか?」


「いいえ、そんな。だって入学してまだ一ヶ月くらいでしょう? 便りがないのは元気な証拠、とか言いません? そう思って安心していたんですけどねぇ‥‥今日あなたがいらしたということは、やっぱりみやびくんになにか?」


「あー‥‥いえ。その、月城がここのことを話すものですから、どんなところなのか興味が沸いたんです、個人的に」


 我ながら苦しい言い訳だ。マシな文言が出てこない自らの脳が恨めしい。


「そうでしたか。懐かしんでくれてるのかしら」


「ええと、お元気にされているかな、とか‥‥」


「まぁ。そんなことを言うのならみやびくんも一緒に来たらよかったのに。恥ずかしいのかしら」


 早川さんは納得したようだった。わたしだったら怪しむところだが、いまはこの早川さんのどこか抜けている感じに助けられた。


 月城の話を聞けたのはいいが、彼がいまどこに居るのかを探っているのに、これではどう切り出したら良いか困ってしまった。気まずさを紛らわすために、グラスの麦茶を一気に飲み干す。氷で薄まっているが、渋さが喉をすべってゆく。


 そのとき、早川さんのエプロンのポケットから大きな電子音がした。いまじゃなかなか聴かないどこか懐かしいようなメロディだった。携帯電話か。


「ごめんなさいね。音を消しておくやり方が判らなくって」


 早川さんが取り出した携帯電話は、二つ折りの分厚いものだった。わたしに軽く会釈をして、部屋から出てゆく。扉が閉まりきったのを確認すると、わたしはソファの背もたれへ思い切り背を預けた。


「どうしたものか」


 すこしだけ月城の過去が判った。――だから、どうしろと言うんだ。いまはただ、病院に行って怪我の具合を診てもらいたい、また授業に出てきてもらいたい、それだけなのに。ここまで彼の深い部分に触れてしまってもよいのだろうか。自分でも、なにが動力でここまで来てしまったのか判らない。


 早川さんにしても、初対面のわたしにここまで赤裸々に語ってくれるというのが、すこし気にかかる。いくら大羽政人の知り合いだからと言って、いきなり訪ねてきた男にあれこれ喋ってしまうだろうか。わたしがここに訪ねてきたことを大羽さんに話してしまわないだろうか。


 ぐるぐると考えを巡らせていると、部屋の扉が開いて早川さんが戻ってきた。


「すみません、お待たせしてしまって」


「いえ、もう帰りますから」


「あら、ゆっくりしてくださって構わないのに。居心地が悪かったかしら?」


「とんでもないです‥‥。ときに早川さん」


「伊智子、でいいですよ。みなさんそう呼びますから」


「――では、伊智子さん。わたしがもし、身の上を偽っていたらどうするのですか」


「はい? どういう意味ですか」


「わたしが嘘を言って個人情報をいろいろ聞き出そうとしている悪い人間だったらどうするのですか、と訊いているのです」


「そうですねぇ」


 伊智子さんは首をわずかに傾げながら考えている。彼女に意地悪を言いたいわけではない、彼女のこの――悪く言ってしまうと呆けた雰囲気を心配しているのだ。危機感がないというか、騙されやすいというか。


「あなた、瀬田先生、でしたっけ」


「はい」


「みやびくんのことでこちらに来てくださったのでしょう? 彼を気にかけてくれる人に悪い人はいませんから」


「―――」


 言いながら目を細めて笑う伊智子さんに、拍子抜けしてしまった。


「今度はみやびくんと一緒に来てくださいな」


 伊智子さんがそう言った瞬間、また彼女の携帯電話が鳴った。


「マナーモードのやり方、お教えしますよ」

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