瀬田 明の話 (6)
翌日、教室を出たところで、隣の教室から出てきた月城に背後から腕を掴まれてしまった。よかった、ちゃんと登校してきた。具合が悪いと聞いていたが、そんなようすは微塵もなく、見たことがないほどテンションが高くわたしに話しかけてきた。まだ朝の一コマめが終わったばかりだというのに、待ちきれないといったようすだ。
「どうでした、陽多くんは」
相も変わらず前髪が長い。
「月城、前髪を切ったらどうだ」
「人と目を合わせなくても済むように、わざとこの長さにしてるんです。それで、陽多くんは? 部屋に居ました?」
「居たぞ。話をしてきた」
「それで?」
「‥‥本人から直接、月城に話すって」
「約束が違うじゃないですか! 僕を避けているのか、僕のことをどう思っているのか、女のこととか、それを訊いてきてほしいって頼んだのに!」
廊下で大きな声を出さないでほしい。注目されては困るのは、月城もじゃないのか。わたしの厭な予感が的中し、向かいの教室から今西先生が出てきて、わたしと目が合った。
「彼から話は聞いた。それは本当だ。ただ、わたしの口から言うことじゃないと、そう思っただけだ。本人もそう言ってる」
「そんなの嘘です。僕に言いづらいからって、陽多くんのせいにしようとしてませんか?」
「おいおい、わたしのことも陽多のことも信用すると、言ったのは月城だぞ」
気になって今西先生を見ると、先生は教材を片手にわたしのほうを睨んでいた。眼鏡の位置をなおし、傍へ寄ってきた。
「感心しませんね、瀬田先生」
「これは、わたしと月城の問題です」
わたしが言うと、驚いたことに月城も賛同してきた。身体を寄せ、わたしと腕を組む。
「そうです! 僕が瀬田先生に頼んだんです」
「誰のためだと‥‥」
言いかけて、今西先生は止めてしまった。続きが気になったが、視界に入った月城の腕のほうが気になってしまった。本当に、自傷行為の跡があるのだろうか。わたしの視線などに気にせず、月城はじっとこちらを見てくる。自分と同じかそれより背の高い人間に、しかも男にこんな至近距離で見つめられることは、いままでに経験がない。
「瀬田先生、本当のことを言ってください。ふたりで話したことを僕に教えて。陽多くんはなんて言ってたんですか?」
「‥‥月城のことを、想ってると」
恋愛感情ではないが。
「僕を避けてはいないんですか?」
「シフトの関係で、仕方なく、だそうだ」
わたしは嘘は言っていない。
『ノーだ。俺はみやびのために生きているが、そういう感情は持ったことはない。みやびを守るために俺は存在している。それだけだ。なにかを想い合うとかじゃない』
陽多の言葉を反芻する。
「ちゃんと顔を合わせて話をしよう。それがいちばん良い。ふたりきりで気まずいなら、わたしも同席する」
「‥‥判りました。ありがとう瀬田先生」
思っていたよりあっさりとわたしの腕を離した。とても納得したとは思えないが、するりと温もりがわたしの腕から消えてゆく。嬉しいとも哀しいともつかない、なにもない表情だった。――わたしは、どう言ってあげれば良かったのだろう。
「今西先生も、ごめんなさい。僕、もういいから」
それだけを言い残し、月城は廊下を歩いていってしまった。
「あの子が不安定なの、判りますよね瀬田先生」
今西先生の声は鋭いままだった。いまだわたしを睨んでいる。
「判り、ます」
「いいえ、判っていない。あの子にとって陽多は唯一の支えだ。代わりはありえないんです」
「やっぱり、陽多のことを知っているんですね今西先生」
「――次の授業がありますので」
その声と同時に予鈴が鳴った。
***
午後のわたしの授業に、月城は出席してくれた。いつもと変わらず、窓際いちばん前の席。頬杖をついて窓の外を眺めている。ちょっと前まで薄紅色の花を散らしていた桜の樹は、いまでは青々とした葉をそよがせている。艶のある葉に、太陽の光が反射して眩しい。
〝をとこもすなる日記といふものを‥‥〟
ホワイトボードに書いた自分の字を見る。日記。今日のことを、月城はあのノートに書くのだろうか。それを読んだ陽多は、どう返事を書くのだろう。わたしの言葉は、彼らの絆にヒビを入れてしまったのではないか。
ぼんやりと考えていると、突然、悲鳴があがった。女子生徒の悲鳴。わたしは咄嗟に振り向く。真ん中のいちばん前に座るふたりの女子生徒が、互いに手を取り合ってなにかに怯えている姿が目に入った。彼女たちの視線の先には、月城。月城は額が机につきそうなほど、上半身を伏せて震えていた。
「どうした?」
彼女たちのまわりの生徒らも月城の異変に気がつき、騒然としはじめた。そして、漂ってくる鉄分を含んだにおい。
「つきしろ」
月城の肩に手をかけ、顔を見ようとする。だが、ゆっくりと半身を起こした月城の顔よりも先に視界に入ってきたものに、わたしの表情は引きつった。
彼自身の身体の陰になり見えなかったそれは、月城の左手、白い手の甲にシルバーの細いもの――シャーペンが突き刺さり、まっすぐ立っていた。とめどなく血液が溢れ出し、教材やノートを真っ赤に染めていた。色の白い月城の手に、その赤はとてもよく映えている。
「おい、どうした」
シャーペンが自立するほど深く突き刺さっていると脳が理解したとき、初めて月城の顔を見た。その顔は苦痛で歪んでいたが、痛みで苦しんでいる様子とはすこし違うように思えた。眉間にしわを寄せ、わたしを恨めしそうに見つめる。
わたしが再び声をかけようとしたとき、彼は自らの手でそのシャーペンを握り、そのまま一気に引き抜いた。血が飛沫となってわたしのスーツを汚した。
混乱する生徒たちをなだめ、いまだ席に座る月城と向かい合った。
「先生、すみません。スーツ汚れちゃいましたね」
虚ろな目でわたしのスーツを見る月城。その表情はもう苦痛にまみれてはいなかったが、どこか哀しげだった。
「月城、どうして‥‥」
ほかに、どう訊ねてよいか判らない。スーツのポケットから青色のハンカチを出し、月城の手を押さえてやった。これは自分でやったと言い張る月城はきょろきょろと教室内を見渡し、いきなり立ちあがった。
そしてわたしに赤黒く染まったハンカチを投げつけ、紫色のトートバッグを手に教室を出ていってしまった。月城の背中が扉から見えなくなって、そこでハッとなった。追わなければ。なにを静観しているのか。
「月城、待ちなさい!」
慌ててあとを追おうとしたが、混乱する教室内の生徒たちも放ってはおけず、ほかの先生が来るまで静かに待ちなさいと声を荒げ、急いで月城の背を追った。
どうしてあんなことを....。やはり、わたしが原因なのか。わたしはどうするべきだった?
わたしは、月城の姿を見失っていた。おそらく校舎の外へ出ただろうと、昇降口までやってきたが、人の往来に紛れてしまい、月城が判らない。雑踏のなかでも目立つような容姿をしていると思っていたのに。
追いかけなければと思うのに、足が動かない。月城の血を見たショックと、見失ってしまった喪失感。飛び散る血液の映像が頭から離れない。そして、月城の表情。その場に呆然と立っていると、背後から声をかけられた。
「愚かですね、あなたは」
今西先生が、血で汚れたわたしのハンカチを持って立っていた。
「教室のほうは鎮めておきましたよ」
「ありがとう、ございます‥‥」
「自らの手を刺したとか。なにか言っていましたか?」
「いえ‥‥。あの傷で、放っておくことはできない。なのに、わたしは追いかけられなかった‥‥捜さなければ」
「待ちなさい。生徒たちを放って行くのですか」
「でも、月城は怪我をしている‥‥!」
「彼は大丈夫です。死んだりしない」
「は? 今西先生は月城のなにを知っているんですか!」
「あなたよりも知っていることは多いですよ。それに、捜しにゆくというのならここで悠長に喋ってないで、さっさとゆけばいいじゃないですか。なぜそうしないのですか」
「‥‥っ、それは‥‥どこへ行ってしまったか判らないから、闇雲に動かないほうがいいかなと‥‥」
「そうです。あなただって馬鹿じゃないはずだ。‥‥忠告したでしょう、深入りしないほうがいいと――忠告が遅すぎましたかね」
「――これはわたしと月城の問題です」
「いいえ、違います。彼はもっと別のことで苦しんでいるんです。あなたが簡単に首を突っ込んでいい問題ではなかった。傍に居ながら、簡単にあなたを近づけさせた自分の罪です」
「なにを言っているか判りませんよ、今西先生。月城はわたしに頼んだのです。わたしはカウンセラーもやってるんですよ、話を聞いてあげなくちゃ」
「‥‥あなたもしばらく休んだほうがいい、瀬田先生。大羽先生に話をしておきます」
「どうして。わたしが休んでしまったら、登校してきた月城の話を聞いてあげられないじゃないですか。どうして今西先生が口を出すのですか」
「あなたのいまの精神状態では、正しい判断ができないと言っているのです」
知ったようなことを言わないでほしい。わたしが、月城に相談されたのだ。この人になにが判るというのか。
「頼る大人がわたししか居ないんですよ、月城には。偉そうにしてなにかを含んでなにも言わないあなたではなく」
自分でも、どうしてここまで月城のために心が動かされるのかは判らない。だが、彼を放っておけるはずもない。
「とにかく、休むべきです。それなら、月城を捜しにゆくことだってできるはずだ。このまま授業を放置していかれるよりは良い。古文の講師はほかにもいます」
普段のわたしなら、生徒が怪我をして居なくなったくらいで仕事を休むなんてことはしないだろう。だが、確かに今西先生の言うことは正論だと思った。その他大勢の生徒たちよりも、いまは月城のことのほうが重要に思える。
わたしは今西先生からハンカチを受け取る。月城の血液が付着したハンカチ。青色だったのに、血液を重く含んで赤黒く変色してしまっていた。