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瀬田 明の話 (5)

 あの部屋に三十分はいた。次の授業には充分間に合う。お天道様にずっと晒されていたわたしの車は、ボンネットに生卵でも落とせばきれいに目玉焼きができそうなほど熱せられていた。梅雨を飛ばして夏がもうすぐそこまで来ていると思わざるを得ない。


 それにしても、妙なふたりだ。互いに想い合っているのに、すれ違っている。しかも、顔を合わせていないという。最後に顔を見たのはいつだか訊けばよかった。


 月城は恋愛感情を抱いているが、陽多の愛情はまるで保護者のようなものだ。これを、そのまま月城に告げてしまってよいものか。出入りしているという女のことも謎のままだ。それに、気になることが増えてしまった。自傷行為だ。いまもやっているのかは訊きそびれたが、ヒントがはやかわ園という施設にあるというから、そこへも行かねばならないか。


 ひとりでぐるぐると考えていて、良い答えが導き出せるのだろうか。


 予備校に戻った。冷房の効いた講師室へ入り、自分のデスクにつくと、作業をする今西先生と目が合った。わたしのデスクの向かい、立てかけられた教材たちが間仕切りの役割をしていて、椅子に座ってしまえば互いの頭部しか見えないが、ふとしたときに目元が見えることがある。それがいまだった。


 今西先生は、ずれてもいないのに眼鏡の位置をなおし、再びわたしを見た。


「‥‥なんでしょう」


「いえ。長いお昼休みでしたね」


 わたしは腕時計を見た。確かに、昼休みの時間は過ぎている。だが、授業が入っていないのであれば、なにをしようとわたしの時間なのではないか。


 ふいに見まわしてみると、講師室にはわたしと今西先生しか居なかった。冷房の音と、その風によってそよぐ観葉植物の葉の音。せっかくこんなに涼しい部屋に居るのに、今西先生と相対していると妙な汗が出てくる。


「今西先生は、月城みやびを知っていますか?」


「ええ、受け持っていますよ」


 今西先生は自らのデスクに視線を落とし、作業を再開したようだ。わたしも次の授業の教材を取り出してみる。


「数学の授業中はどんな感じでしょうか」


「どんな、とは? 真面目に受けていますよ。決まって窓際のいちばん前の席です。板書をしていたり、ぼんやりと窓の外を眺めていたり」


 わたしの授業中と変わらない。だが、あの恐ろしい顔をしたときを思い出し、そのことについても問おうと思ったら今西先生がすぐに言葉を続けた。


「さっき、帰りましたけどね」


「え?」


「一限が終わったらすぐにです。具合が悪いとかで。確かに顔色は悪かったですかね」


「そう、ですか」


 じゃあ、もしかしたらあのマンションで陽多と鉢合わせるかもしれない。


「医務室があるのでそこで休んでいたんですがね、ここでは落ち着かないと言って帰ってしまいました」


「そうでしたか‥‥ご迷惑をおかけしました」


「は? 瀬田先生は、月城みやびとなにかあるのですか」


 再び目が合う。


「いや、あるといいますか、ないといいますか‥‥」


 思えば、今西先生とこうしてじっくり会話をしたことがなかった。いつも業務連絡のみで、それ以外の話をしないし、別にしなくても仕事が成り立っていたからだ。


 三十五歳の同い歳で、片や一児の父、わたしは独身。この男がどんな人物かなんて考えたことがなかったが、いまになって気になってきた。同じ職場で働き始めて二年が経つというのに。今西先生は新年会や忘年会に顔は出さない。個人的な飲みの席にも必ず居ない。酒がダメなのだろうか。


「今西先生、今晩お時間ありますか」


「どういう意味ですか」


「そんな身構えないでくださいよ、ちょっと先生とお酒が飲みたいなって」


「どうして自分と?」


 眼鏡の位置をなおし、わたしを見つめる今西先生の目は泳いでいた。こんな先生の姿を見るのは初めてだ。なにか誤解されてもたまらないので、素直に今西先生が飲みの席に居ないことが不思議だと伝えると、すこしは落ち着いてくれた。


「家族がいるもので、お酒はちょっと」


「そうですよね。お子さん、まだちいさいんでしたっけ」


「来年から幼稚園です」


「可愛いでしょうね。子どもかぁ....わたしも結婚したほうがいいんでしょうか」


「ご自由にどうぞ」


「じゃあ判りました。お酒じゃなくて、食事はどうですか? 今西先生とお話がしてみたくなりました」


「いまだってお話してるじゃないですか」


「そういうことではなくてですね‥‥」


 なかなかに判らない人だ。同僚と食事がそんなに厭なのか。人付き合いが苦手なのか。――得意そうには見えないが。


「‥‥飲んだことがないんですよ、お酒を」


「はい?」


 今西先生が立ちあがった。わたしを見おろすその表情は、どこかバツが悪そうだった。


「いろんな人から誘われるんですが、どうにも、その場に自分がどう居たらいいのか判らないんです」


「食わず嫌いならぬ、飲まず嫌い‥‥ということですか?」


「そのようなものです。これから先もきっとこういうお誘いはあるだろうし、その度に自分は断り続けるんだろうなと思っていましたが、あなたを見ていたらお酒というのも悪くないかもしれないと思いました」


「それは、褒められているのですか」


「褒めているつもりも、(けな)しているつもりもありませんが」


「それで、今晩いいのですか」


「今晩なら、いいです。それで今後、自分がお酒とどう付き合ってゆくのかを決めます」


「責任重大じゃないですか、わたし」


「自分を誘うということは、そういうことなんですよ」


***


 すべての授業を終えたわたしらは駅の反対側、すこし寂れている飲み屋街に行った。今西先生はこちら側に来たのは初めてだと、ちいさく怯えていた。あまり路地に入り込むのは可哀想かと思い、駅がすぐ見えるちいさな居酒屋を選ぶ。


 わたしもここに来るのは久々だ。予備校のある側にチェーン店の居酒屋が軒を連ねているため、こういう個人経営の店には騒がしい大学生も酩酊して暴れるサラリーマンも居ない。気楽に長居ができるし、顔を覚えてもらえばサービスもしてくれる。


 カウンターも座敷も空いていた。店員も含め人の視線が気にならない座敷席を選ぶ。薄汚れたメニュー表を手渡しつつビールをすすめたが、今西先生は日本酒の熱燗を頼んだ。それを聞いたわたしは、とりあえずビール、を取りやめて同じく日本酒を注文した。


「今西先生は、飲めないとかではなくて、ただ飲んだことがないんですよね?」


 お通しの小皿、イカの塩辛をまじまじと見つめる今西先生に話しかける。


「そうです」


「えーと‥‥もし、気分が悪くなったらすぐ言ってくださいね。もしかして本当にアルコールに弱いとかだったら大変ですし」


「瀬田先生のお手を煩わせることはありませんよ」


 今西先生は、わたしの目を見て言ったあと、再び小皿に視線を落とした。


「初めてのお酒が、こんな大衆酒場みたいなところじゃなくて、もっとこう‥‥バーとかのほうが良かったですかね?」


「瀬田先生がここを選んだのなら、ここが自分には良いと思ってくれたということなんですよね?」


「はぁ、まあ‥‥」


「自分、実家が酒蔵なんですよ」


「へえ! それでお酒を飲んだことがないんですか? もったいないですねぇ」


「実家といっても、兄の実家です。兄はこちらへ来て医者をしているので、後継ぎが居ないと父が嘆いていました。それにしても、これはいったいなんですか」


 今西先生はイカの塩辛を割り箸でつまみ、気味の悪いものを見るように眉をしかめながら言った。割り箸を持つ手に、力が入っているのが判った。指先の色が変わるほど強く箸を持っている。


「塩辛、苦手ですか?」


「‥‥なめくじみたいですね」


「そんなこと言わないでくださいよ! とりあえず、食べてみてください」


 そんなやりとりをしていると、頼んだものが続々と届いたので、まずは乾杯をする。お猪口に注がれた液体をほんのすこし舐めただけで、今西先生は卓に置いてしまった。そして、おそるおそるイカの塩辛を口に放り込む。一瞬、表情が固まったがすぐに日本酒でそれを流し込んだ。塩辛を食べるのも初めてなのだろうか。


「見た目がグロテスクなものは、その外見に反して味は良いとよく言いますが、そうでもないことが判りました」


「美味しいと思う人には美味しいんです。食の好みは誰にも判らないものですよ。‥‥なめくじみたいだと思いながらも、よく食べましたね」


 スタイリッシュに仕事をこなし、無駄なおしゃべりはしないイメージの今西先生だったが、意外に面倒な人なのかもしれないと思った。数学を教える=理屈っぽい、とは思っていたが、不思議な感覚の人で裏表が存在しない――むしろ、裏や表などと考えたことがないのかもしれない。


 もう結構です、と今西先生は塩辛が載った小皿をわたしのほうに押しやってきた。わたしは無言でその小皿をつかみ、塩辛を口いっぱいに頬張ってやった。


「瀬田先生、月城みやびとなにかあるのですか」


 数時間前に言われた台詞を、また言われた。急いで咀嚼して飲み込む。今西先生はじっと黙って待ってくれていた。


「ないと言えば嘘になりますかね」


「なにがあるのですか」


「今西先生も月城となにかおありで?」


 今西先生は鳥軟骨のからあげにレモンを絞っていた。わたしは咄嗟に卓を軽く叩き、今西先生の気をひいてその手を止めさせた。


「今西先生、レモンをかける派ですか」


「え。瀬田先生はかけない派ですか」


「いえ、いや‥‥いいです。えっと‥‥月城がなんでしたっけ」


「月城みやびが瀬田先生になにを話したか判りませんが、あまり深入りしないほうがいいと、忠告だけしておきます」


「どういうことでしょう」


 月城について、この人もなにか知っているのか。もしや、陽多が言っていた〝奴〟とは、この今西悟のことか?


「月城の自傷行為のこと、ご存知なんですか」


「――そんなことまで知っているのですか、あなたは。入学してまだそんなに経っていないのに、月城みやびのことをそんなに詳しく知る人物がいるとは」


「あなたもなにか知ってるようですね、今西先生。では、陽多という若者を知っていますか」


 今西先生はわずかに驚いたようだったが、ふっと口元を緩めて笑った。この人の笑った顔を初めて見た。


「お酒も悪くないですね。大勢で飲みに行くのは厭ですが、あなたとならたまにはこうして酌み交わすのも良いかもしれません」


 それから今西先生は徳利をひとつ空にした。


「自分は、なるべく口出しをしませんから」


「はい?」


「月城みやびです。あなたが招いた事態は、あなたご自身でなんとかしてくださいね、瀬田先生」


「‥‥わたしが、なにかをすると思っているのですか」


「あなたが、とは思いませんがね」


 今西先生は、眼鏡の位置をなおした。

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