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瀬田 明の話 (3)

 それからは月城になにを問うても、彼に会ってください、しか言わなかった。機嫌が悪くなったのかと思って横目で月城を見たが、授業中と同じようにぼんやりと窓の外を眺めているだけだった。


 諦めて運転に集中すると、あっという間にハイム万願寺に着いた。新築の高級マンションにしては薄暗い雰囲気の建物だった。晴れた昼間に見ればまた違う雰囲気なのだろうが。


 門柱にハイム万願寺と掲げられている。地名かと思いきや、管理者の名前らしい。車を降りて月城とふたりで建物へ近づく。白い壁の七階建てで、近くにコンビニや書店があるので住みやすそうではある。


 大通りからすこし外れた路地に面しており、立派な駐車場が建物の裏手にある。部屋のなかがどんな間取りになっているかは判らないが、好条件な物件に思える。なのに、どうもどんよりと薄暗く感じるのはなぜか。


 絶えず降る雨のせいだけではない、それだけではないなにかが、この建物を覆っているようだ。もしかして、新築にして心霊的ななにかや、事件が起きていたり――


 外壁をと同じ白を基調としたエントランスがあり、人の気配はないが管理室もあるようだ。新しいだけあって清潔感に溢れている。各部屋の郵便受けが設置されているが、オートロックらしきものはない。


 わたしがエントランスを見まわしていると、月城はポストの対面、管理室の隣に伸びる廊下を指差した。


「家賃が高いとオートロック付きなんですよ」


 彼の指差した廊下をよく見てみると、また別のガラス戸があり、同じように郵便受けが多数並んでいる。


「別なのか、玄関が」


「ここからでも上の階に行けますけどね。これが売りらしいですよ、このマンション」


「ふうん‥‥」


「あ、そうだ。会ってほしいとは言いましたけど、彼、今日はバイトでした」


 エレベーターに乗り三階を押した月城は、トートバッグのなかをごそごそと漁りながら言う。


「え。居ないのか」


「でも、先生に見てもらいたいものがあります」


 居ないなら早く言ってほしかった。送り届けるだけのはずだったのに。三階に着くと、月城は扉が閉まらないように手で押さえた。お先どうぞ、と視線で言われる。


 俺は月城が降りるのを待ち、そのほっそりとした背を追いかけて、廊下のいちばん奥の部屋まで来た。


「角部屋なんだな」


「風水とか気にされるんですか」


 扉が開き、どうぞ、と促される。薄暗い玄関。壊れたビニール傘が立てかけられているだけで、靴はひとつもない。狭い玄関をつい無言で見まわしていたら、早く行ってください、と背中を小突かれた。


 月城が部屋の電気をつける。どんな有名デザイナーだが知らないが、かなり良いマンションだと思ったが、とくに目を見張るものはない普通のワンルームだった。物がすくないからか、広さは感じる。


 使用している気配のないコンロとシンク。コンロの下には申し訳程度のちいさな冷蔵庫。造りつけのベッドにはシーツがわずかにシワになっている。それ以外の家具といえば、背丈の低い黒のテーブルが部屋の真んなかにぽつんと置かれているのみ。唯一異様だと思ったのは、テーブルの上にぐちゃぐちゃになったルービックキューブがひとつ置かれていることだった。月城もこういうもので遊ぶのか。


 枕のすぐ傍には幾冊かのノートやら教材がただ積まれているが、あれは予備校で使っているものだろうか。ひんやりとしたフローリングと広さが相まって寂しさが漂っている。本当にふたりで住んでいるというのか。


「わたしが昔住んでいた学生寮とあまり変わらないな。これで一ヶ月どれくらいだ?」


「さぁ。僕は支払ってないんで。でも、いちばん安い部屋にしたって陽多(ひなた)くんが言ってましたよ。四階から上が高い部屋だとか」


「陽多くん?」


「彼です。一緒に住んでる」


「ああ、会ってほしいって人か」


 男のふたり暮らしというから、もっとごちゃごちゃと散らかっている部屋を想像したが、思っていたよりも物がすくない。玄関と同じように見まわしていると、月城が缶コーヒーをふたつ持ってきた。冷蔵庫から取り出したらしい。ひとつ差し出されたので受け取ると非常に冷たかった。


「こんなもんしかないんです。僕も陽多くんも物に執着しないみたいで」


「陽多くんってのはいくつなんだ?」


「えー‥‥二十歳は過ぎてるんじゃないですかね、たまにお酒の匂いがしますし」


 ベッドの向かいのクローゼットから薄いクッションをひとつ取り出し、黒いテーブルの傍へ置いた。どうぞ、と月城が促すのでおとなしく従ってそこに座ることにした。月城はベッドへ腰かける。そして枕元のノートを一冊、わたしに差し出した。


「これ、読んでください」


 薄紫色の、なんの変哲もない大学ノートだった。五冊まとめて安く売られているようなものだ。使い古されている感じはしないが、表紙や角がすこしぼろぼろになっている。そっと表紙を開くと、書道をたしなんでいたであろうすばらしく達筆な字と、わりかしそうではない字でノート一面が埋め尽くされていた。


「上手な字だな」


 達筆な字を指でなぞってみた。


「陽多くんが書いたんです」


「読んでいいのか? 音読?」


「声には、出さないでください。恥ずかしいので」


 ノートには、こう書かれていた。


『四月一日 みやびへ


 予備校に通うための手続きをしてきた。みやびに通ってもらいたいからだ。俺が勝手に大学受験をさせて、失敗してしまって、落ち込んでいるみやびのことを思うと無理はさせたくないが、これもみやびのためだ。みやびが俺のためを想うなら俺に従ってちゃんと予備校に通ってほしい』


「これは?」


「陽多くんと僕の交換日記です。それは今年の四月からの。もっと前から続けてるんですけどね」


『四月二日 陽多くんへ


 ありがとう。大学のことは本当にごめんなさい。これからも陽多くんと一緒にいられるように勉強がんばるよ。僕には陽多くんしかいないから、ぜんぶ陽多くんのためにがんばるからね』


「この字は月城の?」


 わりかしそうではないほうの字をなぞる。


「そうです。交互に書いてるんです」


「はぁ」


 いまどきの若者にしてなかなかに古風な手段でやりとりをしているものだ。メールとか無料通信アプリとか、もっと簡単な方法はあるだろうに。


 月城が缶の口を開けたので、わたしも開けた。


「月城は、陽多くんが言うから予備校に通ってるのか」


「はい。誰のためでもなく、陽多くんのためです。彼が言うなら」


「お金は、彼が?」


「ここの家賃もそうです。バイトしてるからって。僕にはバイトもなにもさせてくれないんです。ただ勉強して大学に行けって」


「陽多くんは何者なんだ。これを読むだけじゃあ彼に従う理由が判らない」


「先生には判らないでいいんです」


「は? それでわたしにどうしてほしいんだ。こうしてやりとりをしているなら、同じように書けばいいじゃないか、月城が彼に対して想っていることを。それよりも、面と向かって本人に言えばいい」


 書かずとも、これでは恋人のやりとりそのものではないかと思ったが、あえて言わないでおくことにした。


「面と向かえないから困ってるんです。僕が大羽ゼミから帰ってきて、家に居る時間帯にバイトを入れてるんです、陽多くん」


「どんなバイトを?」


「知りません」


「なんだそりゃ。それ本当に一緒に暮らしているのか? 見ればこの部屋だってずいぶん物がない」


「陽多くんは、ちゃんとこの部屋に帰ってきてます。僕がノートに書いて眠ると、朝にはちゃんと返事が書いてあるんですから」


 そう言われ、まじまじとノートを見る。確かに、ほぼ一日おきにふたりでやりとりをしている痕跡がある。


「顔を合わせないのに、こいつのことが好きだと? 月城が帰ってくるのに合わせてバイトに行ってるってことは、月城のことを避けているとは考えられないか? どういう人間なのかわたしには判らないが。月城は会ったことはあるんだろう?」


「....一応は。家賃と授業料のために一生懸命なんです、陽多くんは」


 恋は盲目というが、まともに顔も合わせていない人物にここまで陶酔できるとは、若者の恋愛とは判らない。


「僕のことを避けているのか、それも含めて陽多くんに訊いてほしいんです。僕が居ると、ちゃんと喋ってくれないから」


「初対面のわたしにだって喋ってくれる可能性は低いぞ」


「僕よりはあります」


「どうして?」


 月城は身を乗り出し、カツン、とコーヒーの缶をテーブルの上に置いた。中身がすこし跳ねて外へ飛び出した。


「シフトを入れすぎてふたりが一緒になる時間がないって。そのノートに書いてあります。同じ部屋に住んでいるのに、僕たちは会えないんですよ、なかなか」


 月城が指差すので、適当にページをめくってみる。もうすこし先です、と教えてくれるから言われるがままページをめくってゆくと、そこです、と止められた。――確かに書いてあった。互いの自立のためには、距離を置くことが大切だ、というようなことも。


「その、陽多くんのことを好きなのはいつからなんだ?」


「いつ、って‥‥陽多くんとは、もうずっと一緒に居るから、気がついたらっていう感じです。十年くらいは、一緒に居ます」


 照れくさそうに言う月城を見ていたら、この陽多という人物がどんな人間なのか興味が沸いてきた。月城にここまで想われる男とは、どんな人間なのか。


「この部屋にはいつから?」


「四月からです。予約してたんです、陽多くんが。良いマンションが建つからそこで暮らそうって。――まぁこのやりとりも紙面でしかやってないんですけどね」


「それで部屋を借りられるのか?」


「陽多くんがぜんぶやってくれたので、僕には判りません」


 いよいよ怪しいではないか、その陽多という奴は。予備校の入学手続きも部屋を借りる手続きも、月城のためにそこまでやるだろうか。そのくせ、当人らは顔を合わせないという。こんなおかしな話があるのか。


「それで、なんですけど‥‥」


「わたしに、陽多くんと話せというんだな?」


「まぁ、そうなります‥‥」


「ほかにもまだなにか?」


「別に、僕の片想いだけなら、このままの関係で良いと思ってたんです。でも、最近になっておかしいんです」


「なにがだ」


「この部屋、僕ら以外の誰かが出入りしてるみたいなんです。女の」


 女の、という声がやけに低かった。量の多い前髪で目元がはっきりしないが、眉をしかめているだろうというのは、雰囲気で判った。


「陽多くんはうまく隠してるつもりなんでしょうけど、化粧品とか香水とか、僕らが使わないようなシャンプーとか、たまに部屋に置きっぱなしになってることがあって」


 言いながら月城は、クッションを取り出したクローゼットへ向かった。両手で抱えられる大きさのダンボール箱を取り出し、わたしの前へ差し出す。なるほど、男のふたり暮らしにはそぐわない、可愛らしい小瓶やら花柄のポーチやらが詰まっていた。少量とはいえ、この部屋にこんなものがあったら、確かに疑ってしまう。


「このクローゼットなんですけど、陽多くんが鍵を持ってて僕じゃ開けられない引き出しがあるんです」


「ははあ、それはなんとも怪しいな」


「そう思いますよね、やっぱり。だから、それも先生に訊いてきてほしいなって」


「それもわたしが?」


「僕が訊けるわけないじゃないですか」


「‥‥予備校に行くふりをして、そのままこの部屋に戻ればいい。そうすれば陽多くんとも会えるんじゃないか」


「それは試しました。でも、急いでどこかへ行ってしまうんです。僕、陽多くんのことが好きなんだなって思ってから、なんだか顔を合わせるのが恥ずかしくなってしまって。もしかしたらこの箱の中身のことでなにか後ろめたいのかもしれませんが」


 なんだそれは。ここまで話していても全体図がつかめない。月城は陽多のことが好きで、同棲までしているのに互いに顔を合わせていなくて、陽多は月城のためにバイトに明け暮れていて、でも距離を置きたくて、姿の見えない女の影があって‥‥。


「面倒だな、君たちは!」


「あはは、ホントそうですよね」


 月城が笑った。笑った顔を初めて見た。教室ではどこか浮いていて、しかし目立っているわけでもなく、私語もなく、真面目というよりは無関心というイメージを持っていたが、普通に笑うこともある。そんな月城を見て、なんだかホッとしてしまった。


「‥‥それで、いつなんだ、陽多くんが戻るのは」


「僕のお願いきいてくれるんですね」


「面倒だからな。放ってもおけないだろう」


 会うくらい良いだろう。会って話をするだけ。これもカウンセラーの仕事のうちだ。


「助かりました。瀬田先生にお願いしてよかった」


「それを言うのは、もうすこし先だ。わたしはまだなにもしていない」


 月城がまた笑った。


「好きな人とのやりとりが書かれたノートをわたしなんか見せてしまっていいのか?」


「いままで陽多くんのやることや言うことにはぜんぶ従ってきたんですけど、女がこの部屋に入ってるかもしれないって思ったらいてもたっても居られなくなっちゃったんです。我慢できなくて。それで先生に相談しました」


「そうか....」


「自分でもこんなにめんどくさい人間だなんて思いませんでした。僕ら付き合ってるわけじゃないのに」


 ノートを撫でる月城の指は、やけに細くて白かった。

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