瀬田 明の話 (2)
わたしが彼――月城みやびと出逢ったのは桜の季節だった。
月城みやびは色白で長身で、真っ黒い髪は前髪がすこし長め、無口な印象だった。顔はそれなりに良いらしく、入学当初は一部の女子生徒のあいだで騒がれていたが、月城はそれらをうまく躱し、彼女たちもいつのまにか静かになっていった。
あまり多くを語らず、授業中は質問も無ければ私語ひとつない。いつも決まって窓側のいちばん前の席に座り、ひとり静かに板書をノートに丁寧に書き留めている。
そんな彼の唯一派手だなと思うのが紫色のトートバッグだった。キーホルダーや柄もない、無地で濃い色の紫色。スプリングが付いたパスケースをバッグの内側にぶら下げているのを幾度か見かけはした。
白っぽい色の服を着ていることが多い彼は、いつもその紫色のトートバッグを持っていた。それがとても目立つ。背が高いこともあって、雑踏のなかに紛れても月城のことはすぐに見つけられそうだと思う。
***
その日は朝から雨だった。明日もその次の日も雨だと、テレビの予報は告げていた。花散らしの雨――このままだとせっかくの桜も散ってしまい、花見を楽しむ期間が短くなるとも嘆いていた。
今年の春は寒いため例年よりも開花が遅い。花見の最盛期はこれからだというのに。真昼の教室の窓にも、冷たい雨粒と一緒にどこからか飛んできた桜の花弁が、色を変えて張りついていた。
わたしには、気がつかないうちに授業で使うマーカーペンをポケットに入れてしまう癖がある。ホワイトボードに字を書き、そのまま粉受けや机の上に置けばいいのに、授業に夢中になっていると手に持ったペンをスーツのポケットに入れ、次に使うときに「どこへやったっけ」と毎回ちいさいパニックになる。
パニックと言っても顔には出さず、心のなかで大慌てしているだけだが、すでに在籍している生徒たちならわたしのこの癖を把握しているらしく、冗談まじりに指摘してくれる。
あるとき、新入生の幾度目かの授業のとき、わたしはこれをやらかした。青のペンを無意識にポケットに入れてしまい、自分では所在が判っていない。癖なのに自分ではそれを自分の癖と認識していないところが、またわたしの悪い癖であるのだが。どの授業でも毎回、というわけではないのが救いか。
この日こそ、月城みやびと初めて言葉を交わした日だった。内心で焦っているわたしに、月城がひとこと――
「ポケットですよ」
それまでわずかだかざわついていた室内が、月城の声ひとつで一気に静まり返った。みな、月城の声に驚いたようすだった。
わたしは、あっ、と声をあげ、慌てて自らの右ポケットに手を入れる。探していたものが現れ、ホッとする。青のペンを右手に、窓側の席の彼に笑いかける。
「すまない、ありがとう」
月城はちいさく会釈しただけで、窓ガラスに張りついて茶色くなった桜に視線を移した。その日は恥ずかしさもあり妙に緊張して、ペンが再びわたしのポケットに入ることは無かった。
授業は終わったのに、いまだ席に座る月城は頬杖をつき、窓に強く打ちつける雨粒を見ている。さきほどの花弁は流れてしまっていた。朝は曇り空だったのに、昼を過ぎたあたりから振りはじめ、本格的に雨空になった。傘を持ってきていない、と嘆く生徒の声が廊下で響いている。
「月城。さっきはありがとう」
「授業が滞っては困りますからね」
「あ、あぁ。そうだな‥‥」
初めて会話が続いた気がする。
「月城はどこの大学を目指しているんだっけ」
わたしの問いと同時に月城が、バッと立ちあがった。
「次の授業があるんで」
続いたと思った会話はすぐに終わってしまった。月城は、紫色のトートバッグをつかんで教室を出て行った。
それから、この不思議な少年のことを気にかけるようになった。
いつも白っぽい服を着ているなとは思ったが、トレーナーやパーカーと多少のバリエーションがあるようだった。紫色のトートバッグは相変わらずだ。
授業中はいつも窓の外を眺め、話を聞いていないかと思えば板書はしっかりしているようだ。居眠りをしているほかの生徒よりもちゃんと授業を受けている。
あるとき、奇妙なことが起こった。
「月城、次の文を現代語訳してみてくれ」
猫背気味にノートを取っていた月城に声をかけた。すると彼はバッと身体をおこし、信じられないほど恐ろしい顔でわたしを睨んだ。いままでの月城みやびの雰囲気とはまるで違う、攻撃的な目だった。
「邪魔すんなよ」
ひどく低い声で月城が言った。その繊細そうな身体から発せられているとは思えないほど鋭い声だった。
わたしは返す言葉を失い、どうしたらよいのかと考えているうちに授業終了の鐘が鳴った。助かったと思った。この予備校がチャイムの鳴る校舎でよかったと、心から思ったものだ。
月城は誰よりも先に立ちあがり、教室を出ていってしまった。その場に居た誰もが荒々しく出ていく彼を見つめるしかできなかった。まるで人が変わったような月城に、クラス内は徐々にざわめき出した。
それから数時間後、別のクラスの授業を終えたわたしは廊下で月城とすれちがった。彼はわたしを見ると控えめながらもニッコリ笑って「どうも」と言った。先程のことを忘れてしまったのだろうか。わたしは軽く会釈する程度で、なにも返事ができなかった。
***
初夏を迎えていたが、お日様を浴びる時間よりも雨に濡れる時間のほうが多い気がした。陽が落ちても雨は降り続き、予備校前の大通りも、街灯のまわりで雨粒がきらきらと反射している。
二十二時をまわって仕事を終えたわたしは、職員駐車場で同僚の今西悟先生と一緒になった。数学担当。一児の父。とてもわたしと同い歳とは思えないほど若々しい。曇りひとつないシルバーの眼鏡の向こうで、まばたきもすくなくわたしを見た。
「今西先生、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
わたしに会釈するのと同じタイミングで、今西先生の手に握られていたスマートフォンが震えた。先生はそっと目配せをし、スマホを耳にあてた。もしもし、と姿の見えない誰かに話しかける。それを見て、わたしは講師室に自分のスマホを忘れてきたことを思い出した。
今西先生に「それでは」とジェスチャーをして、急いで戻る。いまのボディランゲージで伝わったかは謎だが、あまり遅くなると施錠されてしまう。確か、まだ残っている講師はいたはずだったが、二十二時半には確実に鍵がかけられてしまう。警備員、もとい、校長の大羽さんが自ら施錠をしてまわるのだ。
非常灯のみで薄暗い校内を足早に進み、充電が半分のスマホを自分のデスクから無事に回収できた。講師室には誰もおらず、照明は消えていたが施錠はされていなかったので助かった。来た道を戻り、昇降口を横切ったとき、白い人影がひとつあるのに気がついた。まさか幽霊かと思ったが、濃い紫色が見えたため、安堵しながらその人影に近づいた。
だが、先日のことを思い出し声をかけるのをすこし躊躇ってしまった。またあの恐ろしい形相の月城みやびだったらどうしよう。しかし、彼もこちらに気づいたため声をかけざるをえなかった。
「月城」
「‥‥どうも」
月城は、ガラスの扉越しに雨空を見あげながら返事をした。外の街灯と、室内のわずかな灯りに照らされている彼は、失礼かもしれないが、とても不気味だ。
「どうした? 鍵をかけられたのか」
「いえ、まだ開いてます」
....よかった、いつもの月城だ。
「誰かを待っているのか」
「待ってはいますね」
「そうか。電車は大丈夫なのか?」
「僕が待ってるのは人じゃなくて、雨が止むのを、です」
「え。もしかして、傘がないとか」
「ほかの連中は濡れてもいいとばかりに雨のなかを走って行きましたけど、僕にはその勇気が無くて。どうにか止んでくれないかなって」
「それでは夜が明けてしまう。月城が厭でなければ、わたしの車で駅まで送ろう」
「あー‥‥それはとても助かりますけど、さすがに迷惑ですよね」
目蓋にまでかかる月城の黒髪が、まばたきでふわふわと揺れる。
「いつまでもここに居ると、施錠されて追い出されてしまうぞ。家族も心配するだろう、送ってゆくよ」
「‥‥じゃあ、駅まで」
そうは言ったものの、月城は駐車場に着くまで終始申し訳なさそうに背中を丸めてわたしのあとをついてきた。
今西先生の車は無かった。残っているのはわたしの黒い国産車だけで、あとは大羽さんの自転車のみだった。車の傍に来てもなお月城はいまだ渋っているようだったので、わたしは恭しく助手席の扉を開けて、乗るように促した。月城は乗り込むとトートバッグをお腹に抱えた。わたしはその扉を閉め、運転席に座ってエンジンをかける。
「十分もかからないと思うが、シートベルトはちゃんとやってくれよ」
隣で頷く気配だけを感じ、わたしもシートベルトを締め、車を発進させた。
走行音が耳に障るため普段は適当な音楽をかけているが、いまは月城を気遣って曲を停止させた。月城は窓の外――ガラス越しにサイドミラーをじっと見つめている。
窓にもミラーにもついた雨粒が、ネオンできらきらと輝く。タイヤが地面を滑る音と、エンジン音と、ワイパーが往復する音、すれ違う車の音。これらが、わたしはどうも苦手だ。この狭い空間にふたりも人がいるのに、その煩わしい静けさとうるささがいつもより際立っているように感じる。沈黙が気まずいというより、聴覚にかすかな刺激を受けるのがツラい。
「先生」
助かった、と思った。
「どうした」
「申し訳ないんですが、うちまで送ってくれませんか」
「どうした? わたしは構わないが‥‥」
「すみません、もう遅いのに。ちょっとお話があるんです」
「おう、わたしでよければ聞くぞ」
次の信号を左折すれば、もう駅前のロータリーというところで、月城からお願いされた。確かに遅い時間だが、帰ったってやることはないし、腹は減っているのでコンビニに弁当を買いに行くくらいで、明日は校舎の耐震点検だとかで予備校自体が休みだ。
「ナビ、入れてください。住所を言うので」
月城が言う。信号がちょうど赤で停止したので、わたしは急いで操作する。
「ハイム万願寺‥‥ここでいいのか?」
月城が口にした住所は建てられたばかりで、有名デザイナーが手掛けたとかいう高級マンションのものだった。わずかに驚いて月城を見る。
「青ですよ、信号」
慌てて車を発進させると、月城はカーナビの画面に触れる。行き先がハイム万願寺に決定された。案内を開始します、と無機質な女の声が言う。ここから三十分くらいらしい。
「良いところに住んでるんだなぁ。家賃すごいだろう」
「そう、ですね」
どこか他人事な返事だった。引っ越して家族で住んでいるのか、独り暮らしで家賃は親御さんが支払っているのだろうか。
「ご両親と一緒に住んでいるのか」
「いえ。家族‥‥じゃないですけど、一緒に住んでる人は居ますよ」
「まさかその歳で同棲か? ご両親はなんて?」
「さあ。しばらく会ってないので‥‥」
「そうか――」
ここで会話は途切れた。月城は話があると言ったが、なにを話したいのだろう。世間話のためにわたしの車に乗り続けているとは思えない。
「そういえば、どの大学に行きたいんだっけ、月城は」
「あー‥‥どこでしたっけ。すぐ忘れちゃうんですよ。なんだか判らないけど、ちゃんと考えてるので大丈夫ですよ。でも、僕は就職するつもりだったんですけど、気がついたら予備校に通ってました」
おかしなこと言う。冗談にしては、いろいろと浅い。
「成りゆきでここに居るというのか? 月城は面白いことを言うんだな」
はは、と笑ってみたが、月城は笑ってくれなかった。
「成りゆきもありますけど、無意識と言ったほうが正しいかもですね」
「なんだそれ」
「僕、好きな人がいるんです」
「え」
唐突にもほどがある。
「いままで誰かに好意を持たれたことはあっても、こちらから好きになるってことが無くて、それでどうしたらいいのか、いま困ってるんです」
「それが、わたしに話したいこと?」
「そうです」
「どうしてわたしに?」
「‥‥なんとなくです。あの予備校で僕に話しかけてくれるのは瀬田先生くらいなんで」
会話の途中も、いつあの恐ろしい月城になってしまうかビクビクしていたが、月城は淡々と話を続けてくれる。
「好きな人か‥‥どんな人なんだ?」
いかにも十代らしい悩みだ。わたしが力になれるかは判らないが、理由はどうであれ月城がわたしを頼ってくれているというのが嬉しい。
「強気で、ちょっと乱暴な言葉遣いをするけど、心は優しい人です。いつも僕の心配をしてくれて」
「歳上か? 月城くらいの年齢だと、歳上で面倒見の良い女性を好きになるの判るなぁ」
「いつ女性だと言いました?」
「え」
「男ですよ。一緒に住んでます」
「え?」
返答に困り、その焦りからか危うく信号無視してしまうところだった。停止線ギリギリにタイヤは止まり、事なきを得たが。
「一緒に住んでる男を好きになったのか‥‥?」
「いけませんか」
「いけないとは言わないが‥‥驚いているのは事実だ。‥‥わたしにどうしてほしいんだ?」
「会ってほしいんです、彼に」
「わたしが!?」
「はい。それで、僕のことをどう思ってるのか訊いてほしいんです」
月城のほうを見る。月城もわたしを見ていた。からかって物を申しているようには見えないが、こんな薄暗がりでは真偽のほどまでは判らない。
「一緒に住んでるのなら自分で訊けばいいだろう。見ず知らずのわたしがいきなり介入したらおかしなことにならないか?」
「青ですよ」
「あ、ああ」