9.2人の旦那様(後編)
瑞樹は眠りから覚めると、飛び起きて
「すみません!」
と深くお辞儀をして謝った。
「大丈夫だよ。まだ目的地には到着していないから。あと30分くらいかな。もう少し寝ていて構わないよ」
佐伯は怒るどころか、笑いを堪えている様子だった。
瑞樹は恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいだった。
これから働きに行くというのに、何という気の緩み具合だろうか。
自分に課せられた仕事なのだから、しっかりしなければいけない。
瑞樹は気を引き締め直した。
車は緑の多い街中を走っている。
人の住んでいる家もあるが、時々空き家も目に付く。
コンビニも、スーパーも見当たらない。
かなり山奥の方へ進んでいる様子だった。
車は坂道をどんどん進んで行き、家も少なくなっていく。
電柱がある限り、人が住んでいる場所だと聞いた事があるが、本当だろうか。
坂を上りきった所で、車は停車した。
運転手がドアを開けてくれて、瑞樹は車から出た。
「長時間お疲れ様。ようやく着いたね」
佐伯の隣に立ち、目の前に立ちはだかる家を見つめる。
生垣で囲まれた、木造平屋の一軒家だった。
お世辞にも綺麗とは言えない家に、佐伯は入っていく。
家に入る途中、表札が目に入った。
「高橋」と書いてある。
弟と聞いているので、同じ苗字と思っていたが、何故違うのだろうか?
疑問に感じたが、とりあえず心の奥に留めておく事にした。
佐伯は何も言わず、古い玄関の戸をガラガラと、音を立てて開けた。
「とりあえず、ここの家主に挨拶をしに行こう」
瑞樹は頷き、失礼します、と小さく言って家へ上がった。
運転手は玄関に瑞樹の荷物を置き、
「私は外で待機しています」
と言って、丁寧に玄関を閉めて行った。
玄関を上がって、左に進むと長い廊下が続いている。
障子で間切りされた部屋が3つあり、真ん中の部屋で佐伯は立ち止った。
「和真、入るよ」
佐伯が障子をすっと開けると、部屋は本で敷き詰められていた。
その奥の一角に、男性が正座をし、机に向かって必死に何かを書いている姿が目に入った。
「相変わらずの光景だね」
佐伯が皮肉っぽく言うが、男性は気にせず書き物を続けている。
部屋の照明が若干薄暗いのではっきり見えないが、長く伸びた髪の毛が顔にかかり、表情が見えない。
後ろも無精に伸ばしている。
髪以上に気になるのが服装だ。
和装を着ている。
これに関しては、個人的趣味が大きいようだ。
「この間話したと思うが、新しい家政婦を連れてきたよ。家政婦と言うには、少し若いけどね」
瑞樹は佐伯と目が合い、手を前で合わせ、姿勢を正してお辞儀をした。
「小林瑞樹と言います。よろしくお願いします」
男性は瑞樹の顔をちらりと見た後、構わず書き物を続けた。
佐伯が瑞樹の背中に手を当てる。
それに反応して、瑞樹は体を起こした。
佐伯はため息をついた後、部屋の障子を閉めた。
佐伯と瑞樹は、玄関を上がってすぐの、正面の応接室へ入った。
テーブルを挟んで、佐伯の向かいに瑞樹は座った。
「弟はいつもあんな感じなんだ。不愛想ですまないね」
「いえ、全然気にしていません」
確かに不愛想ではあったけど、嫌な感じはしなかった。
好意的ではないけど敵対心は感じない。
いつも母からは嫌悪感を向けられていたから、それに比べれば何でもない。
「さっそくだけど、君を雇用する関係で、こちらを見てほしい」
そう言って、佐伯は一枚の紙を差し出した。
「簡単な契約書を作成した。ここには、すべての君の権限を私に委ねる、と書かれている。早い話が、君の保護者になる、という事だ。下を見てごらん。君の両親から署名を貰っている。だから、君の両親が君を連れ出そうとしても、私の許可がなければだめだという事だ」
瑞樹は思った。
もしかしたら、私の身の上を知っている?
だから、わざわざこういう契約書を作ったのではないか、と考えた。
どうあれ、瑞樹は家に帰る気はもうない。
ここで頑張るしか、道はないのだ。
「この契約書は、あくまでも君の両親が、私に君を託す意思がある、という事を書いただけであって、法的な効力は全くないんだ。これはコピーだから、君が持っているといいよ」
佐伯に差し出され、瑞樹は後でもう一度読んでおこうと思った。
きっと両親は、何も考えずにここにサインしたに違いない。
「さて、明日からの仕事だけど、基本的に、弟の三食の食事と、家の掃除洗濯をしてもらえば、後は自由にして構わない。好きな様にしていいよ」
「えっと、好きなように、とは?」
「そうだね。御覧の様に、この家は古いから、あちこちガタがきているんだ。だから気になる所があれば掃除して、修理が必要なら直してほしいし、素人目で無理なら、私に言ってくれれば業者を頼んで修理させるから。主に家のメンテナンス、かな?」
「はい。わかりました」
そういう事は嫌いじゃない。
むしろ、進んでやっていく性格なので、作業のし甲斐がある。
と、瑞樹は意気込んでいた。
「質問はあるかい?」
そう聞かれて、瑞樹は以前から考えていた事を口にした。
「佐伯様に一つ、お願いがあります」
佐伯は頷く。
「雇用する、という事は、お給料が貰えるという事ですよね?」
「ああ、そうだね。私が雇い主になる」
「そのお給料を、佐伯様に預かっていただきたいのですが、いいでしょうか?」
佐伯は少し考えた後、何故?と答えた。
「私は未成年でお金の管理ができないかもしれません。部屋に置いておくのも物騒なので、預かっていただきたいのです」
そう伝えると、佐伯はにっこり笑って、きちんと預かっておこう。と答えてくれた。
瑞樹はほっとした。
これでもし、両親が来て私の給料を万が一探す事になっても、ここにはないので安心できる。
佐伯が瑞樹の身の上を知っていたとしても、瑞樹の希望で預かって貰っているので、佐伯が悪者になる事はないはず。
何か言われれば、先ほど見せてくれた契約書のサインが効力を発揮するだろう。
佐伯に保護者としての役割を託すとサインしたのだから。
瑞樹は少しだけ安堵した。
その後、佐伯に家の中を案内してもらった。
浴室とトイレ、洗濯機の場所と、瑞樹の過ごす部屋を説明してもらい、最後に台所を見せてもらった。
瑞樹は一瞬、声を失った。
「こ、ここが台所、ですか?」
「申し訳ないね。綺麗な台所ではなくて。一応ガスコンロとか、冷蔵庫、レンジとか必要な物は揃えてあるけど、他にも必要な物があったら言ってほしい」
瑞樹は台所へふらふらと足を運んだ。
台所は土間になっており、一段下へ下がって、サンダルを履いて歩くスタイルになっている。
向かって右にはガス台、正面には外へ向かうドアと、冷蔵庫が置いてある。
一番左奥は、昔の名残なのか、かまどがそのままだ。
灰などは入っておらず、綺麗に掃除されている。
左側にはお皿や調理道具の備品が備わってる。
そして、真ん中には両手を広げた大きさの調理台が固定されていた。
「す・・・、素晴らしい台所です!」
瑞樹は目を輝かせた。
いつか田舎暮らしをしたら、こういう台所で調理をしたいと願っていたのだ。
その希望が実現するとは思いもよらず、瑞樹は感嘆の声を上げてしまった。
佐伯は瑞樹のその姿が意外だったのか、声を漏らして笑っていた。
「若い子には古い環境は酷だと思ったんだが、喜んでくれて安心したよ」
夕方になり、佐伯はそろそろ、と帰宅する事になった。
瑞樹は玄関の外まで出て、佐伯を見送った。
「近いうちにまた様子を見に来るから。よろしく頼むよ。瑞樹さん」
「分かりました。色々とありがとうございました」
佐伯にお辞儀した後、運転手とも目が合って、お辞儀をした。
車が見えなくなるまで見送ると、入れ違いでて出前が届いた。
今日は雇用期間ではないので、食事をしたらゆっくり休んで欲しいと、佐伯が気を利かして、近くの店から出前を頼んでいたのだ。
お金は払い終わっているので、瑞樹は2人分の食事を受け取って、家に入る。
一旦台所へ行き、お盆を探す。
食器棚にそれらしき真四角のお盆があったので、綺麗に拭いて届いた丼物を置く。
何か寂しかったので、棚を調べるとインスタントのお吸い物があった。
お湯を沸かして、吸い物にお湯を入れる。
急須にも茶葉とお湯を入れ、お湯のみをセットして、最後に箸をおいた。
18時になったら、弟にも食事を出してほしいと言われたので準備をしたが、こんな感じで良いのだろうか?
音を立てないようにそっと廊下を歩き、部屋の前にお盆を置いて、すぐ退散した。
廊下と台所の間にはドアがあるので、台所で多少音を立てても、あまりうるさくはならないだろう。
佐伯の弟は静かな空間を好むらしく、出来るだけ音を立てないようにと言われた。
人との関わりを嫌うので、必要以上に声をかけないように、と。
遠回しに注意されたが、早い話、邪魔をするなという事だ。
面倒だけどよろしく頼むよ、と佐伯に言われたが、瑞樹はまったく気にしていない。
母親に毎日罵倒される方が、苦痛で耐えられなかった。
それに比べれば好き勝手出来るし、相手を気にせず過ごせるならありがたい。
瑞樹は台所の椅子に座り、目の前にある丼物を前に、
「いただきます」
と手を合わせて蓋を開けた。
瑞樹は思わず、わあ、と声を上げた。
出汁をたっぷり含んだかつ丼が目に飛び込んできたのだ。
端を丁寧に取り、口に入れる。
柔らかいカツと卵が出汁に吸われて、とても良い味に仕上がっている。
瑞樹は思わず、泣きそうになってしまった。
昼間のアメリカンドックとおにぎりといい、今のかつ丼といい、おいしい物を食べられるのがこんなにも幸せな事だったなんて。
空腹が満たされる幸福。
お腹がびっくりしないよう、ゆっくり噛んで味わった。
最後に、手を合わせてご馳走様、と挨拶をし、洗い場に置いて食器を水につけた。
佐伯の弟、和真に出した食器も片づけ、一息つく。
19時を過ぎた所だ。
20時になったら浴室に入って構わないらしい。
それまで、台所のチェックをしておく事にした。
鍋や道具の場所、食材の確認をし、食器棚の引き出しを見ると、中に数冊のノートが入っていた。
めくると、今までここで勤めていた人達のメモが書かれていた。
中には、愚痴をつらつらと書いている人もいるけど、瑞樹にとってはこのノートはここで生活する上での説明書になる。
何も書かれていないノートが数冊入っていたので、気になった事をメモしていこうと決めた。
瑞樹は戸締りをし、明日に備えて早めに就寝した。




