3.星屑たちの夜明け
「食べる? おじさん」
必死に枝にしがみついていた枯葉が秋風に弄ばれ無念に散った。散った枯葉は公園から道路へと風に乗って緩やかに滑空していき、やがてアスファルトの上に舞い降りたかと思うと無惨にも通行人に踏みつけられる。
俺の人生もきっとあの落ち葉みたいなもんだ。なんて悲観的に、無性に、その落ち葉に感情移入してしまい胸の奥が熱くなる。
あれだけ激しく熱を感じた東京の空気も今じゃすっかり冷たい。流れる時に比例するように増していく虚しさ、そして秋風に冷やされた孤独感が少しずつ精神を蝕んでいって、心が壊れていくのをひしひしと感じていた。
「何だお前は」
惨めだ。俺は。
過ぎた時は戻らない。今を精一杯生きて、前に進む事のみを考えるしか無い。
人には散々そう言っておきながら、俺はいま過去を、かつての俺の事ばかりを考えている。世界に光差し込む朝も、清々しい大空広がる昼間も、そして茜色の黄昏時も、俺の心は常に闇夜のような感情でぐちゃぐちゃだ。
金も仕事も家も家族も、全てを失った。何も残っていない今の俺に、果たしてこの世を留まり続ける意味があるのだろうか。他人の人生を奪っていた俺に息をする権利があるのだろうか。
「何でも良いでしょ。別に」
真正面。俺の目の前に立つ少年を見る。ベンチに座っている自分と目の高さが合う、背が低く小学生に見える少年。彼は感情の読みにくい口元を少しだけ動かしてもう一度、俺に手の中の食べ物を差し出した。
「で、食べる? おじさん」
【星屑たちの夜明け】
1.
三日前、職を失った俺は瞬く間にホームレスになった。
潰れた会社は俺が二十四の時に作ったものだった。高校大学時代に稼いだ貯金を使い、当時の友人を集めて作った小さな会社だ。初めはとある会社の下請けを任せてもらえる事になり、新商品の製造と広告制作を主にして信頼を築き、やがては開発へと進展。十数年も経てば会社はどんどん大きくなり、その頃には下請けに入らずとも稼ぐ方法を習得し従業員も増えて鰻登りに成長していた。しかしその時、初め共に会社創設に関わった友人が全員辞めた事を俺は気にも留めておらず、そしてそれが間違いの始まりだった。
「いらねぇよ。そんなもん」
ため息をつき少年から視線を逸らす。
夕暮れが紅葉をより紅く、より鮮やかに照らす。
ここ都之橋公園には時計が設置されていないので正確な時間を把握することはできないが、冬の兆しが見え始めたこの時期で日がまだ地平線に届いていないのを見るに午後四時ごろと見て間違いないだろう。
「可哀想なおじさんにあげるために、わざわざ給食を残してきたんだけど」
そして学生であるはずのこいつが平日にこんな場所を彷徨いている事が俺の予想が正しいことを強く裏付けていた。
「それは余計なお世話ってやつだ。ガキはさっさと帰ってゲームでもやってろ」
「そんな素敵な環境が帰宅後に展開されるなら、最初からおじさんなんかに構わず帰路直行してるよ」
「あ?」一瞬、見た目と発言のギャップに理解が遅れる。「……おい、お前いくつだ?」
「九歳。ただの小三だけど」
ただの、と付け足すその言い回しも小三というよりは中二の語彙な気がするが、この会話をこれ以上掘り下げるのは面倒なのでスルーしておく。そもそも、見た目からして小三だというのは疑ってはいない。
「いいか。ガキが俺みたいなやつに無闇に近づくんじゃねぇよ。何か危ない事があってからじゃ遅ぇんだぞ」
「俺みたいなやつって……。別におじさん以外の人に話しかけるつもりはないけど」
「どっちにしてもだ。相手は知らない大人なんだからもっと警戒心を持て」
「おじさんは大丈夫でしょ」
「さあ、わかんねぇぞ? 腹減ってるし、お前みてぇなチビは焼いて食っちまうかもしんねぇぞ」
「良いよ。別に」
「いや良くねぇだろ」
ここで一度、会話が途切れる。
呼吸を整え落ち着くと、どうにも馬鹿らしくなってきた。俺は何故、顔も見たことのない小学生と問答を繰り広げているのだろう。ただでさえ俺は今とても余裕のある立場ではないのだ。自分の精神を削ってまで無理に付き合う必要はないはずなのに。
「わかった。とりあえずパンはここに置いておくけど、今日はもう帰るよ」
少年はそう言って大人の手にも余る大きさの焼きそばパンを俺の座るベンチの横に置いた。最初からずっと差し出していたのはこれだ。
そして少しの間を置くことも無く、踵を返して歩き出す。
てかこいつ、本当に人の話を聞かないな。
「いらねぇって言ってんじゃねぇか」
呼びかけるも彼はまるで俺の声など届いていないとでも背で語るかのように、一切振り返ることなく公道へと歩き出し、あっという間に姿を消してしまった。
まさかこの俺が小学生相手に強引に押し切られるとは。昔の俺からしてみればまるで考えられない失態だ。というところまで考えて、頭を掻く。
過去の事を振り返ってたって仕方がない。振り返ったところでどうにもならない。今の俺はただのホームレスで、あの頃はもう二度と戻ってこないのだ。
太陽に焼かれた空がその身を真っ赤に染める頃、俺はベンチの上で仰向けに寝転がっていた。
ホームレス生活が始まってから四日目。食事をほとんどしていないので空腹なのは相変わらずだが、今のところは丁度いい気候のおかげで毎日それなりに、特に大変なこともなく過ごす事ができている。
そんな環境にいるせいか、それともおかげか、四日前にこの公園を訪れてから今日に至るまで一度も外には出ていない。というのも都之橋公園は二年前に作られた近所でもかなり新しい公園で、男女別に二つずつ便所が設けられている上に、ウォータークーラーまで設置されているのだ。これで食事ができれば最高だ、と言いたいところだが贅沢は言えない。むしろホームレスが生きるには最適の場所だと言っても過言ではない環境だ。
だが、時が流れれば季節は変わる。正直利便性に優れたこの公園でも冬を越す事は不可能に近い。家が無いというだけで、数ヶ月生きることすら厳しい環境に追いやられているのだ。
しかし全ては因果応報だ。他人にやった事は巡り巡って自分に返ってくる。それが世界だ。俺はこの歳にして身をもってそれを学んだ。だからこれで良かったのかもしれない。
「どうせ死ぬならさっさと死んじまうか……」
「来たよ」
「うおぉ!?」寝転がり、空を見上げる姿勢になっていた俺の視界に突然ガキの顔面が映り込み、ベンチから落ちそうになるのを何とか堪えて起き上がる。
「急に来んなよ。ビックリすんだろうが!」
「そんなことよりさ」
「そんなことより!?」
「今日のご飯持ってきたよ。唐揚げおにぎり」
俺の反応など全く気にする様子もなく、ガキは少しだけ嬉しそうな表情をのぞかせながら、見た目は何ら普通と変わらないおにぎりを差し出してくる。
因みに、昨日もらった焼きそばパンは美味しくいただいた。初めは意地を通すつもりでいたが、何者も空腹には勝てないらしい。
食べた手前これ以上露骨に拒否し続けるのものも格好がつかないので、ここは素直に受け取って、その上でため息を吐く。
「あれ、素直になってる」
「昨日のパンも食っちまったし、意地になっても仕方ないから今日は素直にもらっとく。だが明日からは給食ちゃんと食え。それと、もう来るな」
「はいはい、わかったわかった」
「分かってないやつの返事なんだよ。本当にわかってんだろうな」
「わかってるわかってる」
「それやめろマジで」
盛大にため息を吐いて項垂れる。こういう年相応なところもあると知り安心が顔を覗かせるも、それはそれで面倒だ。いやむしろ面倒だ。少し大人びた子供ほど厄介なものはない。
「てかそもそもお前、何で俺なんかに構うんだよ。ガキはガキらしくガキ同士で遊んでろよ」
「良いでしょ別に。おじさんがお父さんに似てて、放っとけないんだよ」
本当に年相応なこと言いやがるな。昨日は不気味なくらい大人びてたってのに。いや待て、感覚が麻痺してるだけじゃないのか。今の発言は本当に年相応なのか?
「へえ、俺がねぇ。そんなに親父と似てんのか」
「うん。少し無骨な顔立ちとか無精髭の生え方とか、鍛えられた体格とかそっくりだよ」
やはりどこか語彙力が子供離れしているが、気にしていたらキリがない。そういう子なのだと割り切って応える。
「そうか。そりゃ親近感湧くのも無理ねぇな。だが俺に愛想なんか使ってねぇで、そのぶん親父と仲良くしろよ。仲良いならもっと仲良くしろ。俺なんかに構う時間がもったいねぇよ」
「おじさんと過ごしててもったいない時間なんてないよ」
間髪入れずに返すガキに少し戸惑う。
「けど迷惑だって言うなら、寂しいけどもう来ない」
言いながら露骨に、シュンとしたように肩を丸めて俯く。そんなガキの姿を見て思わずため息を漏らしそうになるが、直前で止める。
「迷惑だ。もう来るな」
きっぱりと断る。しかしガキの反応は冷静、いや冷ややかだった。というか若干引いていた。
「ええ、小さな子供がこんなに寂しがってるのに、一緒にいて良いって言ってくれないんだ」
「調子に乗るな。ガキだろうが何だろうが、寂しかろうが何だろうが迷惑なものは迷惑だ。それにお前だって、俺と絡んでてもこの先ロクな事にならねぇ。絶対だ。もう一度言うが俺と遊んでる暇あったら家族との時間をもっと大切にしろ」
内心、途中で噛まなかった事を驚いた。しかし捲し立てられた言葉の数々がさすがに響いたのか、彼は小さく笑みを作って俺に背を向け始める。どうやら、ようやく俺の言葉が届いたらしい。
「わかった。じゃあ明日また来るよ」
全然届いてなかった。
ゆったりと歩き出す彼の背中を見送る。小さな背中だ。後ろから抱きしめたら潰してしまうのではないかと心配になるくらい、細く脆く、儚い。そんな後ろ姿を見ていると何故だか妙に心配になり目が離せなくなってしまうが、公園を出てすぐの所で友人らしき人と遭遇したようで楽しそうに会話をしながら離れて行った。どうやら友達がいないわけではないらしい。少しの安心を胸に、俺はベンチに横になる。
「何で俺があいつの心配してんだよ」
太陽はそろそろ地平線に浸かり始める。今日の晩御飯は、唐揚げおにぎりだ。
2.
昨日まで丁度いいと思っていたはずの気温だったが、今朝はすっかり冷え込んだ。この公園には俺以外にホームレスらしき人は見当たらないが、この分ならどこにいたとて、身を縮める事になるだろう。少なくとも俺はそうだった。突き刺さるような初冬を感じさせる空気は容赦なく俺の居場所に牙を向いてきたのだ。まるで世界が俺の死を急がせているかのように、または着実に殺しにきているかのように。
しかし太陽が昇り、昼が近づけば近づくほど再び過ごしやすい気候は戻ってきて、死を予感させるよな冷たさは影に溶けてしまう。暖かいのはありがたいが、希望と絶望を交互に与えられている状況は、やはり心境としては複雑なもんだ。
「真面目な人は損をする、って言う人さ、損をしてる理由が他にある事から目を背けて、真面目っていう抽象的で逃げやすい概念を言い訳に使ってるから嫌いなんだよね」
そして隣には性懲りも無く例のガキが座っている。
「急に何の話だよ」
「真面目な人は損をするって言う人が、損をしている理由が他にある事から目を……」
「いい。わかってる。二回も聞きたくねぇ」
「僕も二回言いたく無かったから助かった」
淡々とした口調で彼は言葉を再開する。
「今日も掃除当番だった女子が真面目に参加しない男子に向かって、真面目に参加してる私たちが損をしてるって怒鳴ってたんだけど」
本当に何の話だ。
「真面目に掃除をしてれば、その姿はたくさんの人の目に入ってるわけで。掃除をサボってれば、その姿はたくさんの人の目に入ってるわけで。つまり何が言いたいのかと言うと」
「真面目は、真面目自体がプラスだから損なわけねぇだろって言いてぇのか」
「全然違う」
そうですかい。
「他の人が何をサボっていたとて、自分の評価には全く傷が付かないのに、彼女は何をそんなに憤慨していたんだろうと思って」
ガキは足元の砂を凝視しながら、まるで深い事を考えているかのような真剣な眼差しで問いかけてくる。これだけ達観しているガキが、くだらない事で悩んでいる事が何ともおかしくて口元が綻ぶ。
「じゃあ、お前が掃除当番の時、周りの奴らが掃除をサボっていたらどう思う?」
彼は首を傾げ、少しの間を置いてから答える。
「自分から自分の評価を下げにいくなんて馬鹿な奴らだ、と思う」
「斬新な回答だな」
「それ以外に何も浮かばないから」
「もっとあるだろ。他のやつがサボったら、その分、自分が多く働かなきゃいけなくなるとか」
近くまでゆっくり近付いていた鳩がガキの足踏みで遠ざかる。その顔を見ると、意表を突かれたと言わんばかりに固まっていた。
「そんな事、考えもしなかった」
やがて小さく息を吐いたガキからは、変わらない淡々とした声が漏れる。
「だからあの子は怒ってたんだ」
納得がいったのか嬉しそうにガキが微笑む。そんな姿を見ていると、何故だろう、俺も不意に嬉しくなって思わず彼から顔を背けた。少しの沈黙が場を支配する。
いや何で俺たち、ちょっと良い感じになってんだ。
「嬢ちゃんの気持ち、ちっとはわかったか?」
「うん、おっさんに言われるまで気づきもしなかった」
「おっさんって、おじさんもわりと嫌だったのに」
「僕だって、ガキって呼ばれるの結構嫌なんだけど?」
互いに、互いの視線に触れる。よく見るとガキの瞳は純粋で、まるで宝石のように透き通っていて、俺みたいな汚れた大人が視界に映ってはいけないんじゃないかと強く思わせられた。その真奥にちらつく儚げな影が少し気になるが。
「僕は或太射。或る日、とかの或るに、太郎を射るで或太射」
自然に、そして爽やかに手を差し出されて顔が熱くなる。改まって自己紹介をするのも、誰かと握手をするのも久しぶりだった。しかしここで戸惑いや躊躇いを見せるのはカッコがつかない。
「俺は時雨だ。まんま時雨。よろしくな或太射」
俺は満面の笑みを作り彼の手を取ると加減しつつ力み気味に握った。
「ちょ、痛い痛い痛い……え、痛いって!」
「どうだ、おっさんにはまだ勝てねぇってわかったか」
「うわこの人、マジ大人気ないわぁ……」
本気で引くなよ。悲しくなるじゃねぇか。
「しかも自分でおっさんって言ってるじゃん。何なん?」
「うるせぇな。調子こいてるから、わからせてやったんだよ」
「ええ、ガキじゃあるまいし」
「男ってのは歳食っても心は少年なんだよ」
「だから奥さんに愛想尽かされちゃって逃げられたんでしょ。おじさんが子供だから」
不意に心臓を直接殴られたかのような衝撃で倒れそうになる。しかしそれはあくまで精神的な話で、感情は水面下にしまいこみ、抱いた苦しみを隠したまま俺は静かに話を逸らした。
「話を戻すが、真面目って事を言い訳にして他人に憤慨するやつが気に入らないっていうのは俺も一部納得できるところがあるな」
「あれ、さっきは否定してたのに」
「さっきのは俺が言いたい事とは少し話が違うんだよ」
或太射は足をブラブラとさせながら口を尖らせる。
「じゃあ何かエピソード話してよ。自称真面目言い訳マンムカつきエピソード」
「なんじゃそりゃ。……けど、そうだな」
冷たい風と暖かい日差しのマリアージュが正午の公園を彩る。三日ほど前までは土が見えていた地面も、今では枯葉で埋め尽くされて足を動かすたびに乾いた音を鳴らしている。たったの三日間のうちに世界は一つ、小さな変化を俺に見せてみせた。今朝、肌寒さを感じて起きた時にも感じた事だが、曖昧なようでいて時間は確実に流れている。そしてそれを様々な形で俺に知らせてくる。
さっさと死ぬつもりでホームレスになったというのに、言い表しようのない焦燥感に背中を軽く叩かれている。
「俺がまだ自分の会社を持っていた時の話だ。と言ってもつい、ひと月前くらいには、まだその会社はあったんだが」
「持ってたって、おじさん社長だったの?」
「おじ呼びやめろ。時雨だっつってんだろ。名前教えたんだからちゃんと呼べよ」
「ごめんごめん、で?」
笑顔で軽く流されてムッとするが、こちらも話を進めたいので合わせて流す。
「社長だった。んで、と言うからには社員をたくさん抱えていたってのは、あえて言わずともわかるだろうが」
「そういうの良いから早く続き続き。続きを話して」
こいつ、今まで散々大人ぶった態度だったくせに今さらガキ面しやがって。絶対自分の年齢相応の行動だとわかった上でやってるだろ。
「まあ聞け。その社員のうちの一人が人間関係で相談したいことがあるって言ってきた事があってな」
「社長直々に相談に乗ってあげてたんだ」
「まだ会社が小さかった頃の話だな」
「成る程。では続きをどうぞ」
午前中は老人が佇むのみで寂しげだった公園も、昼を過ぎれば子供の声で賑わいだす。最近の子供達は外遊び離れが進んでいると聞いていたので、公園が子供の遊び場だという認識は過去のものだとばかり思い込んでいたが、この四日間は彼らの心地の良いざわめきが良いBGMだった。特に今日は土曜日だからか、普段にも増してざわめきが激しい。だがそれが俺には何故だか嬉しかった。
「そいつはまず、俺にこう言った。今の会社は真面目な人が損をする仕組みになっている、と」
話す時に手がよく動くのは俺の癖だった。しかし或太射は特に気にしていないようだったので、俺も気にせず話を続けた。
「俺はそいつに、何故そう思ったのかを聞いた。返ってきた答えはこうだ。有給をよく取るあいつよりも、毎日真面目に働いている俺の方が給料が低い。普段からあいつには迷惑をかけられているのに、不公平だ。と」
「有給休暇を取っただけで文句を言われる社会なんだ」
胸を撫で下ろす。有給で伝わるか不安だったが或太射相手には不要な心配だったらしい。
「それ以外にも色々と何か言っていた気がするが、見当違いだったから省略する」
一息挟む。
「訴えられた相手。仮にBとするか。Bは子持ちで、奥さんも体が弱かった。だから家族のフォローに回るために有給を使う事が多かったんだ。仕事の面でも、容量が良い上にリーダーシップが取れて現場を任せてもそつなくこなしてくれる出来る男だった」
「そんなに優秀な人だったのに、何でそこまで非難されたの?」
「訴えたやつをAだと仮定して話すが、Aはうちの中でも特別周りが見えないタイプでな、そのうえ大した事もしてないのに自分が一番仕事ができてると思い込んでた。だから周りから評価されてたBを妬んでたんだ」
そこまで話し終わって俺は眉間に皺を寄せた。何でこんな話する流れになったんだ?
「たしかに具体性の欠片もない真面目って言葉を都合よく使って、他人を憤慨してる。テーマに忠実で、とても面白い話だった」
お気に召したなら何よりだ。と思いつつ同時に、少なくとも子供にするような話では無かったと深く反省する。
「Aみたいに周りが見えてない奴は、最終的に孤立して社会に居づらくなる。けど、それすらも周りのせいにしちまって、ただ反省ができなかった、それだけで潰れていっちまうんだ」
言い終わってから気付く。周りが見えず会社が潰れてしまったのは自分のせいであった事を。
しかし複雑な感情を煮えたぎらせてる俺の横で、或太射は顎に手を添えながら核心を突かれたかのような面持ちで何かを考え込んでいた。それに気づいて沸騰していた混沌が少しだけ冷える。
「視野が狭いと、自分すらも見えなくなるんだね」
そうだ。かつての俺は傲慢を着込んで、まるで世界の支配者になったかのようなつもりでいた。他人の意見にも耳を貸さず、仲間と共にいたつもりが、いつの間にか孤独になっていた。
自分すらも見えなくなる、とは中々良い表現だ。やはり或太射を小三と称するには無理がある。
「お前は、そうはなるな。真面目に掃除をしないやつを怒る女子の気持ちも、掃除をサボる男子の気持ちもわかってやれるような広い心の男になれ」
肩に手を置く。初めて触れた彼の肩は、見た目通りに細くて頼りない。
「人に好かれる人になれ。或太射」
名前を呼ばれて少年が俺の顔を見る。子供らしい純粋な瞳が俺の瞳を射抜く。その状態で沈黙が続く。公園内は子供達の喧騒でいっぱいのはずなのに、俺たちの間には長い長い静寂が訪れた。何者にも割ることの許されない、不思議で、不安で、大切な時間が流れているんだと、俺はこの時、柄にもなくそんな事を感じていた。
こいつは、或太射はこの時なにを考えていたんだろうか。
「……そろそろ帰るよ」
どれだけの時間が経ったんだろう。感覚がわからなくなるくらいに俺は彼の無垢な眼差しに心を奪われていた。
そして暫く微動だにしなかった沈黙を打ち破ったのは或太射の方だった。
「ああ、そうだよな」
ベンチから立ち上がる彼を見てため息を漏らしそうになり、ギリギリで留める。
「また……」言いかけて恥ずかしくなり口を閉じる。しかし何故だか言わなきゃ後悔する気がしてやっぱり口を開いた。「また来いよ」
「うん、今日はありがとう」
こいつにしては珍しく、やたらあっさりとした幕引きだ。延々と粘られるのは勘弁だが、こうも帰路に前向きだとそれはそれで寂しくなる。
或太射と話していると、自分が一度でも死のうと思っていた事が馬鹿らしく思えてくる。以前、俺は全てを知った気になっていたが、世の中にあんなに流暢に大人に向かってくるガキがいるなんて知らなかった。きっとこの世界には、触れてこなかっただけで、まだまだ俺の知らない事がたくさんあるんだろう。それなのに知った気になって、勝手に絶望して、勝手に全部諦めてた。滑稽だ。あまりにもダサすぎる。
そもそもこうなったのは全部、自分のせいだ。いい歳した大人が、たかだか一回、失敗したくらいで大袈裟に凹んで拗ねて公園で蹲ってる。惨めったらありゃしねぇ。
だが、気づけた。或太射が気づかせてくれた。
俺はまだ終わってない。終わってなかったんだ。
握った拳に力が入る。その事が嬉しくて涙が出そうになる。だが俺はその感情を噛み殺して口をぎゅっと結んだまま上を向いた。
3.
空から降り注ぐ水滴の音がトイレの中に無限に響き渡った。
ホームレス生活が始まって以来、初めての雨だった。家を失ってから二週間。慣れというのは恐ろしいもので、ついに外で一夜を明かす事に全く違和感を覚えなくなった。五日目くらいまではまだ普通の感覚を持っていたと思っていたのだが、成る程。どうやら人はこうやって少しずつ歪んでいくらしい。
しかし、そんな滑稽な惨事を甘んじて受け入れるつもりはない。
過ぎた時は戻らない。今を精一杯生きて、前に進む事のみを考えるしか無い。今一度、過去に掲げたこの言葉を信じてみたくなった。初心に戻りもう一度、今度は誰も会社の被害者にならないような会社を作りたい。仕事どころか、家も貯金もない地獄みたいな現状からどこまで這い上がれるかはわからない。けど、それでも頑張ってみたいと思った。
或太射はあれから一度も公園には訪れていない。わざわざ来るのが面倒になったのか、はたまた別の事情があるのか、細かい事は一切不明だ。なんせ会っていない。本当は社会復帰を目指そうと決めた時から、或太射には話しておきたいと思っていたのだが、会えないのだから仕方がない。
仕方がない。そう思わないと寂しさが身体中を支配してしまいそうだった。
この時期は少し日数が進むだけで一気に冷え込む。二週間前までは丁度良いと思っていた気候も、今では生きるか死ぬかの戦いだ。早急に住む環境を変えなければ、折角切り替えた気持ちも水の泡になる。
「まだ暗いな」
先ほど、一眠りして目覚めたばかりなので、まだ深夜というわけではないだろうが、夜が明けている様子はない。そして相変わらず時計は無いので正確な時間は把握できないのだ。
激しく水が建物に叩きつけられる音がトイレの中で反響する。まるでマシンガンで撃たれ続けているかのような豪快な音だが聞き入ってみると中々に軽快で気持ちが良かった。暫く、目を閉じて雨の音に身を委ねる。
穏やかな雨音のリズムが冷えた身体に染み渡る。今は雨の季節というわけでもないし、トイレの中に籠っている状態なので、風情だとか風流だとか、そんな雅やかで高尚な言葉に括りたくはないのだが、昔の時代の人間が自然に心を奪われていた理由が少しだけわかった気がした。
しかしそんな自然娯楽に感嘆の意を示し始めたころ、雨音とは別に、何か、水が人工的に音を立てているかのような、バシャバシャとした音が聞こえた気がした。より耳を澄ませると、それはやはり聞き間違いなどではなく、水溜りで子供が遊んでいるかのような音が止まることなく微かに、けれども延々と鳴り続けていた。しかしおかしい。今はまだ空も色付かない夜中だ。こんな時間に子供が一人で水遊びなどあるはずがない。
けど一度、気になってしまうと頭の中はその音でいっぱいになってしまう。
心霊の類だったらどうしよう。顔を覗かせる恐怖心を振り払ってトイレの扉を微かに開く。少し開いただけでも、まるで室内へ入ることを望んでいるかのように雨が次から次へと侵入してくる。
顔面へ直撃してくる雨に目を細めながら、俺は辺りを見回した。改めて凄まじい雨だ。荒々しい雨風に邪魔されて視界がほとんど機能してない。そんな中でも、俺は暗闇を照らす灯りが影を地面に映し出しているのを見逃さなかった。影は俺が普段居座っているベンチに腰をかけながら足元に出来た水たまりをバシャバシャと蹴り飛ばしている。レインコートを着ているのかも、どういう表情でそんなところにいるのか、そんな事をしているのかも、ここからではわからない。
だが誰なのかはハッキリとわかった。
濡れることも厭わず建物の外へと足を踏み出す。一歩、一歩と近づいていくたびに泥となった砂が沈む。出てからまだ十秒も経っていないのに髪は雨で滴り、服が身体に張り付く。風で体が押し戻されるので、いつもよりも少しだけ踏ん張りながら俺は影の前まで歩みを進める。
下を向いていた彼が、こちらに気づいて顔を上げた。逆光で真っ黒な或太射の顔が少しだけ怖かった。
「……なに、やってんだよ」
何を考えているのか、どういう気持ちなのか。何一つ読み取れない彼の表情は少しも変わらないまま彼は返す。
「さあ、何やってるんだろう」
「こんな寒ぃ夜、しかも雨ん中でそんな格好してたら風邪ひいちまうぞ」
今度は返事がない。それどころか彼はもう一度、俯き水溜まりとの戯れを再開してしまった。
「親御さんも心配してんじゃねぇのか」
一瞬、足が止まる。しかしすぐにまた動き出した。
「関係ないよ。親は」
彼の声は雨の音にも負けそうなくらいに儚げだった。消え入りそうな声を前にして、どう声をかけるものかと迷う。
「関係ねぇ事は……」躊躇う。「……ねぇんじゃねぇか?」
雨と共に降り注がれる沈黙が妙に痛い。
「いなくなったってわかったら、大慌てで探し回ると思うぜ」
その言葉を、彼は鼻で笑った。
「そんなわけないよ。先にいなくなったのはあっちなんだから」
「は?」
俺の短い反応を聞いてか否か、彼は再び黙り込んでしまう。
雨の音だけが鼓膜に反響する。口元に叩きつけられる水分のせいで、少しだけ呼吸が苦しくなってきた。
何があったのかはわからない。だが或太射に何かがあった事は間違いない。だがだからといって、このまま無言の時間が続く事は正直避けたい。
多分、こいつは俺に何かを聞いて欲しくてここまで来たはずだ。でなければこんな雨の中、公園のど真ん中のベンチにわざわざ座ったりなんかしねぇ。
けど、だとしたら何故それを話したがらねぇんだ。
「……考えても仕方ねぇな」
ため息を一つ吐き、或太射の隣に腰をかける。ベンチの上に溜まっていた水がズボンを貫通して尻を濡らしてきたのは本当に最悪だったが、隣に座る或太射の驚いた表情を見て、この行動はやはり正しかったのだと確信した。
「らしくもねぇな。どうしたんだよ或太射」
ずっと俯いていた或太射が俺を見る。俺も真っ直ぐ、精一杯に真剣な表情を作って彼を見た。
「話したいことがあって、ここまで来たんだろ」
彼の口元が綻ぶ。
「……さすがだよ。これが年の功ってやつか」
「うっせぇ。年寄りで悪かったな」
「いや」彼は上に伸びる灯りへと目を向ける。「おじさんがおじさんで良かった」
それは、俺が俺で良かったって意味だろうか。それとも俺がおじさんで良かったって意味だろうか。会話の流れを読むと後者に聞こえるが、それだとかなり悲しい話だ。
黙ったままじっと見つめる。しかし依然、答えはわからない。
「僕は半年前、お父さんに置いて行かれた」
グッと、腹の辺りを何かに圧迫されるような感覚に襲われる。
「施設にね。そこからはずっと独りで生きて来た。誰と居ても何をやっても独り。延々と続く孤独感は、遂には今日まで一切として抜けることはなかった」
「お袋はどうした」
「お母さんはトリカブトを食べて死んだよ。服毒自殺ってやつ」
「トリカブトって、何でそんな……」
「DVに耐えられなくなったんだと思う。お母さんは僕よりもお父さんから殴られてた。だから辛かったんだと思う」
「僕よりもってことは、お前も?」
或太射が小さく頷いた。
「じゃあ良かったじゃねぇか。お袋の件は、その、不幸だったが、親父から逃げられたなら、むしろ置いて行かれたのは悪いことじゃ……」
「それでも」いつの間にか、雨の勢いが少し弱くなっていた。「それでも、僕のお父さんだった」
静かな音を立てる小粒の小雨が、降っているかも疑ってしまうほどの衝撃を肌に残しながら時間を刻んでいく。彼の頬を伝う涙は、雨と一緒に流れているせいで俺には見分けがつかなかった。
「たくさん怒鳴られた。殴られた、蹴られた。すぐ怒るしすぐ泣くし、本当にどうしようもない父親だった。でも水族館にも遊園地にだって連れて行ってくれた。オモチャもぬいぐるみも買ってくれた。だから、それでも僕は大好きだった。僕にとってはたった一人の父親だった」
浅はかだった。
クズな父親だと思った。これだけ愛してくれてる子供の気持ちを踏み躙り、いとも簡単に捨てやがった。気分の向くまま、都合の良い時だけ父親面して、機嫌が悪い時は八つ当たりする。平然と暴力を振るえる人間というのは、そういう最低な人間だ。
最低な人間だけど、それを或太射の前では決して口にしてはいけなかった。彼にとってはそれでも、大切なたった一人の父親だったのだ。俺まで、彼の気持ちを踏み躙ってはならない。
「そうか、悪かった」
「……大丈夫。それも全部幻想だって気づいたから」
「或太射、さっきの俺の言葉は……」
「そうじゃないよ」
バッサリと切られて思考が止まる。
「ずっと待ってた。僕はお父さんは帰ってくるって本気で信じてたんだ」
或太射は自分の掌をじっと見つめていたかと思うと、それをゆっくり握りしめた。
「けど一週間前、おじさんが言ってた言葉を聞いて、視野を広くして改めて考えてみたんだ。あの日、お母さんが死んだ日に何が起こったのか。何で僕は置いて行かれたのか」
「或太射、それは……」
「あの日は梅雨に入る前で、まだ日差しの暖かい春だった。土曜日で、僕は友達と遊びに外に出かけて、帰って来たらお母さんは死んでた。自殺かと思ったけど、いま考えてみれば不自然な点はたくさんあった」
握られた拳が小さく震えている。顔を見ると目にも力がこもっているようだった。しかし俺は黙って彼の話を聞くことにした。最後まで、ちゃんと。
「服毒に使われたトリカブトは付近の公園に生えていて、誰でも簡単に採取できる物だけど、少し引っかかったんだ」
「……何故、服毒自殺を選んだのか」
「そう。毒で死ぬなんて、きっと死ぬまでの間に凄く苦しい思いをすると思うんだ。それなのにどうしてお母さんは、その方法を選んだんだろう」
彼の言いたい事が、何となくわかってきた。
「それにあの日、お父さんは出掛ける予定は無いって言ってたのに、警察の事情聴取の時に昼間は駅にいたと言ってた。それに、いつもはお母さんの好きなシトラスの香水を付けてるのに、その日、何故かローズマリーの香水を付けてた。思い返してみれば、お母さんが死ぬ一ヶ月くらい前にも二、三度同じ香りを嗅いだ事があった。そしてお母さんが死んですぐ新しい彼女ができて遂に家にはローズマリーの香りしかしなくなった。その一ヶ月後に僕は施設に置いて行かれた」
半年も前の話だ。今更探りを入れたところで証拠も残っていないだろう。真偽の確かめようがない、この話にはきっと決着が付けられない。それでも或太射は気づいてしまった。いや、俺が気づかせてしまったのかもしれない。愚かな父親にとって息子の或太射は……。
「おかしいんだよ。お母さんが死ぬ事も、僕が施設に入った事も、新しく彼女ができたお父さんにとって都合が良い事だったんだ。僕はね、僕たち家族は、あいつにとって邪魔だったって事に気づいたんだ」
彼の悲しみを表現するかのように、細かい雨が緩やかな風に身を任せながら、濡れ切った俺たちの体に意味を感じさせない水分を落とす。
ため息を吐いた。誰かの話をまともに聞くのなんて何年ぶりだろう。何十年ぶりかもしれない。それくらい俺にとって、他人はどうでも良い物だった。もし会社が潰れる前の俺に子供がいたら、或太射よりも可哀想な子供になっていた事は間違いない。人の事をどうこう言えるほど立派な人間じゃ無い事は自分自身が最も良くわかってる。
それでも。
「そうか」
そう言って立ち上がる。ずぶ濡れの洋服が重たくて動きが少し鈍る。そして俺は彼の前へと移動し、そして抱きしめた。濡れた髪を後ろから抱えて、自分の胸元に彼の顔を引き寄せる。
「お前は本当に偉い。よく頑張ったな、或太射」滴る髪を掬い上げるように髪を撫でる。「本当に、よく頑張った」
暖かい空気が胸元にかかる。震える身体から搾り出すように、彼は胸に頭を押し付けたまま、俯いたまま口を開く。
「本当に、大好きだったんだよ……」
「ああ、わかってるさ」
「ずっと、一緒にいられると思ってた……」
「そうだな。悲しい話だ」
「……おじさんにも、捨てられたと思った」
頭に置いていた手を背に持っていき、今度は背中を撫でる。
「命の恩人に一言も言わず、勝手にいなくなるわけないだろ」
されるがままだった或太射が袖で涙を拭いて顔を上げる。袖も顔も雨に塗れて全く意味がないが。
「命の恩人って?」
「お前に出会うまで、俺は死のうとしていた。生きたいと思えるようになったのはお前のおかげだ」
「僕の、おかげ?」
「もしすべての人間がお前の元から去っても、俺がいる。お前が救った俺の人生、今度はお前のために使ってやる。だからもう泣くな」
その時、雲間から光が差し込み思わず目を細めた。
気がつけば雨はあがっていた。既に地平線から顔を覗かせる太陽が、俺たちに夜明けを知らせてくる。そういえば暗闇に沈んでいた俺の心もここにある。心と共に夜明けを迎えている。
「おじさんって、変な人だよね」
「な、何だよ急に……」
「だってあんな恥ずかしい台詞を真顔で言えるんだもん」
「別に良いだろ。ここには俺とお前しかいねぇんだし」
すると何がおかしかったのか、或太射は盛大に吹き出し、そのあと大口開けて爆笑した。ここまで思いっきり笑われると俺の方も恥ずかしくなって来てしまう。
「おい、失礼だぞ!」
「ごめんごめん。だってあまりにも、なんていうか、おかしいんだもん」
「やっぱ失礼じゃねぇか!」
朝方の公園全体に二人の笑い声が響き渡る。
目覚めの光が雨上がりの空気を乱反射して輝きを舞わせる。泥濘だらけの地面も太陽に当てられ水溜まりですら、何か神聖な物のように思えた。雨雲に覆われていた世界はいつの間にやら晴々とした空へと変貌しており、その鮮やかな世界はまるで俺たちの心境が反映されているかのようだった。
柄にもなく、空に向かって手を伸ばす。そこには、かつての自分を後ろ暗く振り返る男も、過去の悲しみに取り憑かれる少年もいない。
青空晴れ渡る空の真下。清々しい世界を前にして俺たちは一つ、前へと進んだ。