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彼女が死んだ。俺にとって師であり、母であり、そして恋人であった女だ。いつかこの日がくる事は彼女と話をしていた。その時の心構えと、そしてこれから生きていく術について彼女から学んだ。あまりにも多くの事を彼女から学び、彼女の半身とも言えるあらゆる知識を受け継いだ。
片田舎の山奥深くに斎賀限心と俺は潜むように暮らしていた。どうして隠れるように暮らしているのか彼女に聞いた事がある。
「私は人気者だからね。世間様にちやほやされたら君が妬いてしまうだろ?」
答えになっていない答えだったが俺は納得した。
斎賀限心、彼女は稀代の魔術師だ。少なくとも俺にはそう自称していた。この現代社会で魔術師を名乗るとは随分と仰々しいと思うが、限心はその肩書に恥じない知識を有していた。
しかし俺自身は未だに魔術というものに懐疑心を覚えている。
何かの冗談やトリックなのではないか?
限心は俺に魔術の奇跡を伝えようとしたが、生憎と俺にはその才能は無かったようだ。知識だけは彼女から得たがついにその技を実践するには至らなかった。
しかしそれでもいい。
彼女は俺に全てを与えてくれた。
家を与え、食事を与え、慈しみを与え、愛を教えてくれた。俺にとっての全ては彼女だった。
「好きな事をしなさい。自由に生き、後悔のないように死になさい」
遺言らしい遺言とはとても思えないその言葉だけを残し、限心は俺の腕の中で息を引き取った。
人里に降りて医者に掛かろうと何度も彼女を説得したが、ついに限心はそれに応じる事はなかった。何が彼女をそこまで頑なにさせるのか。それは分からないが少なくとも彼女は最後に微笑みながら息を引き取った。それは俺が見てきたものの中で最も美しいものだった。
彼女の望み通りに弔うには少し時間が掛かった。何故儀式魔術を行う必要があるのか、皆目見当もつかないがそれが望みならばそうしよう。魔術式を発動出来ない俺の代わりにトリガーとなる媒体を限心は生前に用意していた。それは彼女自身の身体の一部だという。どうしてもそれがどの部位なのか気になった俺は彼女から何とかして聞き出す事に成功した。
「…へその緒だよ」
…それを術式中央に横たえた彼女の手の上にそっと乗せる。それで儀式は完成だ。
間髪を置かずに魔術式が発光し部屋を飲み込んだ。
空間と自身との境界があいまいになり、立っているのか立たされているのかその感覚がどこかへと行ってしまう。
酩酊する感覚とはこのようなものなのかもしれない。限心が教えてくれた魔術の中にこのようなものはなかった。全てを授けてくれた訳ではないという事に少しだけ寂しさを覚える。
そんな寂しさを噛み締める間もなく限心の身体に黒い炎がまとわりつく。怪しく揺らぐその炎は彼女が最も得意とする技だった。その光は彼女を構成していた血肉骨を灰へと変換していく。
その灰もまた炎の中へと消えて跡形も残る様子はない。
微かに残る彼女の甘い香り。
その場にはただそれだけが残った。
「…なるほどな」
つまり彼女はこう言いたいのかもしれない。
『いつまでも過去に囚われるな』
『私の事は忘れて好きに生きろ』
「好きな事をしろ、って言われてもな」
俺は貴女と一緒に生きたかった。
貴女と共に年を取りたかった。
それだけが俺の望みだったんだ。
願いは届かない。奇跡の体現である魔術でも出来ないことはあるように。
…荷物をまとめて人里に降りてみるか。
限心がそれを望むならそうしよう。
しかしこれまでの日々を忘れる事はないだろう。俺が恋焦がれる女は貴女一人だけなのだから。