【3】鐘-ハジマリノネ-
[3]
騒音にも近しいこの音にはっとなり、僕はゆっくりと目を開いた。
放課後の終わりを告げるチャイムが頭の中に響き渡る。
この鐘が鳴れば自分は晴れて自由になれる。矛盾した思考の束縛からの解放だ。
僕は頭痛とも言えるなんとも口語しがたい痛みに頭を振ると、椅子から立ち上がって教室を見渡した。
夕焼けが椅子や机を照らし、影を生み出しては影を重ねている。
辺りに人の気配はなく、閑散としたその様はまるで普段の学校生活とは別世界のようだ。
二棟。二階。
窓から差し込むなだらかな風の流れを感じ、頬を優しくなでる。
優雅さと不気味さを兼ねた、この夕焼けを背景に向かえた放課後という時間。
何度この時を体感しても慣れない。異色なこの空気感に幾つもの違和感を覚えながらも、
僕は扉のドアノブを回した。
『-行くのね』
その声の主が耳に響くと、僕はドアノブにかけていた手の動きを止めた。
脳内に直接語りかけてくるかのような繊細な声質。か弱くも語気は力強い。か細い線の様な声量は、それでもしっかりと僕の頭の中に届く。
そんな声を聞き入れて、僕はぽつりと呟いた。
「...またそんな悪趣味な事してるんだ」
彼女はその返答をあざ笑うかのように鼻で笑う。
「悪趣味...?言葉が悪いわね。私は貴方にあったシチュエーションで語り掛けているだけよ」
「...シチュエーションって?」
納得がいかず思わず問いかける。彼女は間髪入れずにそれに答えた。
「TPOかな。貴方と私との関係をわきまえた上での交流の仕方というのを、私は実践してるに過ぎないの」
TPO...?わきまえ...?
何を言っているんだ。単純に悪趣味極まりないじゃないか。
彼女はこの時間。
そしてこのタイミングを見計らってはこうして背中越しに語りかけてくる。
あたかも誰もいない教室を装って、ひっそりと隠れては、僕が放課後のチャイムで帰宅しようとするこの瞬間を見計らって。
これを悪趣味と言わずしてなんと言う。
「貴方にとっては悪趣味かもしれないけど、ごく一般的な、世間的な認識としてこの状況は私にとって当然のふるまいに当たるのよ」
「あー...うん。僕が行けなかったのかな。うん。ごめんごめん」
「そういう態度って反省の色見えないどころか逆にお相手の反感買いかねないから、貴方の方が気を付けるべきじゃないかしら」
「すみません-ッス」
喧嘩腰に彼女の言い分をあしらう。
何だろう。彼女にまともに話しても無駄だってわかっているのに。どう考えても無駄な時間の筈なのに。
どうもこの時間に少しの安らぎや安心を覚えてしまっている自分がいる。
「というより貴方こそ悪趣味じゃない。もう使われていない教室の「鍵」を使って一人の教室を占領しようだなんて。ほんとにいいご身分ね」
カチャリと、左手に握りしめていたその鍵が音を鳴らす。
これは僕の動揺も描写的に表しているのかもしれない。
「それを言うなら君だってここにいるんだから、同罪だろ?」
「少しニュアンスが変わってくるけど。まあいるということはそういう事よね」
「何自慢げに言っちゃってるのさ」
夕焼けが物々に影を作り出すように、僕の足元にも影が伸びる。扉に重なる様にして。一つの影を生み出していた。時間だ。あまり長居していたら学校の門を閉められてしまう。それに見回りの先生にでもばったりとこの教室に入った瞬間を目撃なんてされたりしたら厄介だ。
僕は勿論この教室に用事もないし、正式な部員でもない。そう。この既に廃部されているのであろう
―「探偵部」の教室には。
「まあいいけどさ。僕はこれで帰るから。君も早く家に帰りなよ」
「ええ。貴方が帰ったらちゃんと帰るわ」
ドアノブは再び大きく回された。
木製の自然な軋轢音を奏でながら、ギギ...と外の景色を生み出していく。
「...なんで僕が先に帰らないといけないのさ」
「...それが礼儀だからよ」
「いい作法だね。じゃ、またいつか」
そう皮肉めいて彼女に言い残すと、僕は彼女を見送る事もなく教室を後にした。
一週間だ。かれこれこんなやり取りをして。
何故か自分のポケットに入っていた謎の「探偵部」の鍵。
そしてその教室で、放課後終わりのチャイムを告げる鐘と共に始まる彼女との会話。
「顔」も「服装」も何もかもしらない。
―「声」だけしかしらない。彼女との背中越しの会話。