森の娘と父のその後
結局、安定期に入るまでは長旅は危険だということで、ある程度お腹の子が大きくなるまで、公爵の家で過ごすことになった。
ティレはその間も体調を崩すこともなく、公爵の体調回復に努めた。
公爵の体調は、あの後、劇的に回復した。キエムの魔法のせいなのか、ティレの煎じた薬や泉の水の効果が出始めたのか。母の幻影に会えたからかもしれないし、ティレの妊娠を知ったからかもしれない。原因ははっきりとはしないが、何より食欲が出て十分な栄養を摂取できるようになったことが大きいようだ。気力も湧いてきたようで、
「マナに会いに向こうにいった時に、生まれてくる赤子の話をしてやらねばならん」
というのが口癖となっていた。
食事を取れるようになってくると、体が起き上がるようになり、じきに屋敷内をゆっくり歩き回れるようになった。ティレが支えて歩かせることはできなかったが、代わりに使用人やクラウス、時にはハインツが付き添って少しずつ歩行距離は伸びていった。
「庭に出てみたい」
そう言ったのは、歩き始めて一月ほどが経った頃だった。ティレたちの帰還が近づいていた。ここ最近は暑すぎるくらいの日が多かったが、その日は前日の雨が上がったばかりの薄曇りで、暗くはないが湿った涼しい空気が開け放たれた窓から入ってきていた。
いつもより森の匂いに近かった。
「ティレも行こう」
そう言う公爵にティレとハインツとクラウス、皆で庭でささやかな茶会をすることになった。
いつもハインツとティレが二人で過ごす西の庭だ。
公爵は、庭までクラウスに支えられつつ、自分の足で歩き、用意された椅子に座ると息をついた。
森に半分隠れるように設置されたテーブルには、簡単に手でつまめる軽食が並べられ、水筒に入ったお茶を自分たちで注げるようにされていた。使用人たちは、公爵が無事席についたのを見届けて、下がっていった。
「やはり、部屋の中よりも森の香りが近いな」
「そうですね。ティレ殿はいつもここを休憩場所にしているのか」
「はい。森の近くの方が、回復が早いので」
ここには、ティレの体質を知る者しかいないので、ティレも木に寄りかかれるような位置に座っている。
その位置から、森の中に目をやると、屋敷から見えない位置にキエムが立っていた。
「これ、頼まれていたもの」
「ありがとう」
ティレは、水筒をキエムから受け取るとテーブルに置いた。
「これは?」
「公爵様がいつも飲まれている泉の水です。私たちが帰った後も屋敷の方が入れるよう、森の入り口を少し広げてあります。泉より奥に入ると迷うのでお気をつけて」
公爵がここ最近飲んでいるのは、ティレとハインツが公爵邸までの道中で見つけた森のごく浅い場所にある泉の水だった。
「この邸から日帰りできる場所にあの泉があったのは奇跡だな」
しみじみとそう言ったハインツは、隣で妻がなんとも言えない顔をしているのに気がついた。
「どうした? ティレ」
「あの……、私。大事なことを言いそびれていたかもしれません」
「うそだろ」
おろおろし始めるティレの言葉に森の中からキエムの声が重なった。
「何を伝え忘れていたんだい?」
クラウスに優しく尋ねられて、ティレは手をぎゅっと握ると口を開いた。
「あの泉は偶然じゃないんです。あの……、伯母が、泉に染み出すようにあの草を植えたそうです」
「伯母とは、ホアのことか?」
公爵は、森に匿われているときに伯父夫婦と面識がある。伯母は母の親友だったから、親しくもしていたのだろう。ティレに向けて身を乗り出すように聞いた。
「……はい。あの――伯母に手紙を出したら返事が来て、あの泉は母が伯母に頼んだものだそうです」
あの泉には、何種もの薬草の成分が自然に染み出していた。まさに公爵に必要な薬草だった。あの位置にある泉をあえてそういう効能にしたのは、何のためか。考えなくてもわかることだ。
「――そうか。……そうだったのか」
公爵は乗り出していた体を椅子に預け、何かを堪えるように目を閉じた。
森の木々の葉が擦れる音が響いていた。
しばらくして、クラウスが僕の方からも報告があると口を開いた。
「宰相は、更迭になった」
公爵は驚いたようだった。ハインツも20年も前の事件で今さら宰相を更迭などできるのか疑問に思った。
「叔父上のことが理由じゃない。――表向きはね」
そんな皆の思いを汲むようにクラウスは付け加えた。
「でも、陛下はずっと許していなかったんだよ。自分の弟を殺されかけて、証拠がないと高をくくって逃げ続けてきた男をね」
おそらく長く宰相と一緒に国を動かしてきた国王は、誰もが気づいていない事実にも一人、疑いを向けていたのかもしれない。
「そうか。兄上が。――そうか」
ティレは、そうつぶやく公爵を優しく見つめた。国王が、即位したばかりの力のない国王が、どれだけの思いを耐えてきたのか、一番理解できるのは、弟である公爵なのだろう。公爵自身もまた、兄王を助けたい気持ちがあったとしても、あの時勢では王都を離れるしかなかったのだ。中央政府と距離を取るほかなかった。それは宰相が更迭された今でもそうだし、いつかそうでなくなる時が来るのかどうかもわからない。
だが、兄は確かに、弟を思っていた。
「クラウス。次の夜会で陛下に会ったら、伝えてくれ。陛下と心は常に共にあると」
「はい。叔父上。必ず」
皆がそれぞれの思いを共有したその庭には、森の木々を抜けた木漏れ日が降り注いでいた。
「これは……」
庭での茶会から数日後、翌日の帰還のためにと用意された馬車を見て、ハインツは言葉を失った。
公爵家が用意した馬車は、見た目こそ華美ではなかったが、車輪や車体は最高級のもので、中には振動を最小限に抑えるためか、最上級のソファ状の座席にクッションが敷き詰められていた。
「少しでも安全に戻れるよう叔父上の心尽くしだ。私もお前の子の誕生は、伯父として楽しみにしているよ」
出発前の確認をしにやってきて驚いているハインツにクラウスが歩み寄ってきた。
「明日の出発にはぜひ立ち会いたいと叔父上は今日は休んでいる。ティレさんは?」
「ティレも大事をとって今日は休ませている。兄さま、――ありがとう」
頭を下げる今では自分よりもずっと大柄になってしまった弟の頭をクラウスは撫でた。ゲルグ国に住んでいたころはよくやっていたことだった。
「ハインツ。――幸せになったんだね。嬉しいよ」
「兄さま……」
ハインツは、兄の言葉に思わず顔を俯けた。
「ハインツ。私に負い目を感じているならそれは違う。確かに私の出自は複雑だった。でもハインツの母上は優しく接してくださったし。何よりあの頃、天真爛漫なハインツに僕は救われたんだ。ハインツといると危なっかしくて、目が離せないし、後ろをついて走り回っていたら、くだらないことで悩んでる暇なんてなかった。私が去る時にお前が泣かないかだけが気がかりだったよ」
「兄さまが出ていってしばらくしてからだいぶ泣いたよ。母と義姉上を困らせた」
ハインツは、憮然とした。
当時のハインツは、兄の出国の意味がわからず、ただちょっと旅行に行くくらいのことだと思っていた。上の兄も両親も旅行に行くことはあった。でもしばらくしたら帰ってくる。ハインツは知っていた。
その兄がもう帰ってこないのだと理解したのは、兄が去ってだいぶ時間が経ってからのことだった。
母や兄と結婚した義姉が交代でついてくれたが、それでも寂しさは埋まらなかった。
「でも、最初の頃は新年の挨拶に帰ってきていただろう」
「そう言えばそうだったな」
今思うと新年くらいは心許せる人と安全な場所で過ごしてほしいと言う公爵の思いだったのかもしれない。
「それで兄さまは違う場所に住んでいるけれど、兄様じゃなくなるわけじゃないし、たまには会えるし、大人になって自分から行けるようになったらもっと会えるんだと思ったんだ」
それに気づいてからハインツは寂しがらなくなった。
「はは。ハインツらしいな」
「まあ実際大人になったら結構会えたけど、お互い任務中でゆっくりはできなかった」
「そうだな」
「だから今回こんなにゆっくり会えて嬉しかった」
「――そうだな。私もだ」
二人の間に温かい風が吹いた。兄弟の影が夕日に長く並んでいた。
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アルベール・ダルシアン公爵閣下
そろそろ春が深まってまいりましたが、お加減はいかがでしょうか。
私の方は、ハインツ様をはじめ皆様のおかげでなんとかやっています。出産直後には伯母にも世話になりましたが、とても元気な子で伯母も安心していました。
子どもは髪と瞳の色以外はハインツ様にそっくりで、ハインツ様の幼い頃を知る皆様のお話によると、見た目だけではなく性格もそっくりとのことです。
ご存知かと思いますが、クラウス様からは定期的にお手紙を頂いています。馬車旅ができるほどにお体が強くなってきたとのこと。とても嬉しいです。
ユリウス殿下――夏には公爵様ですね、との元・王族同士の会合については、ユリウス様も「非公式なものなので体調に合わせて柔軟に」とおっしゃっております。とは言え本格的に暑くなる前の方がお身体に障らないのでは、と早めの時期にとお考えのようです。
会合の場として、私たちの領主邸をお使いいただけて大変光栄です。
お会いできるのを楽しみにしております。
愛を込めて。
あなたの娘、ティレ・ヴァーグナー
最後までお読みいただきありがとうございました!




