3 森の娘の奇妙な生態2
翌朝、廊下の騒々しい物音で、ハインツは目を覚ました。昨日はそのまま眠ってしまい、騎士服に帯刀したままだ。
何事かと剣を片手に部屋を飛び出すと、メイドや家令が廊下をあわただしく行きかっている。
「火事だ! 庭が燃えている!」
「ハインツ様、大変でございます。危険ですので、お部屋から出ないでくださいませ!」
「何を言っているんだ。俺が見に行く!」
止めようとするメイドを振り切って、ハインツが慌てて庭に駆けつけると、火は既に消えた後だった。火事などではなく、誰かが起こした焚火の後のように見えた。
「庭師が落ち葉を焼いていたのではないのか」
ハインツは、火を消していた下男に尋ねたが、下男は首を横に振った。
「いえ、こんな朝早くからは行いません」
確かに、まだ通いの庭師が来る時間ではない。それにもし庭師がいたら、焚火の管理はしっかりと行うだろうし、庭師は壮年の男性だ。初老と言って良い年齢の住み込みの下男に重い水を運ばせて火を消させたりはしないだろう。
ふと、焚火のあったあたりの木の下を見ると、天幕のようなものが張られていた。ハインツも野営で野宿をすることがあるが、少人数での従軍の際に使用する一人用の小さなものに似ているように見えた。ハインツには見覚えがないもので、下男も一緒に庭に出ていた住み込みのメイドも見たことがないという。
不審者が入り込んだのだろうか。
ハインツは、剣に手をかけながら、近づく。
「危のうございます」
メイドがオロオロと止める。そう言われても、ここの屋敷に普段から住み込んでいるのは、年寄りや女子どもだけで、庭師や大工など力仕事を行う働き盛りの男は通いでしか来ない。人口の少ないこのような田舎の村では、貴重な男手を、領主と言えども独占したりはできないのだ。昨夜、村に降りた同僚の騎士たちには一日休暇を与えていて、今日は来ない。今、この屋敷に不審者と戦える者はハインツしかいなかった。
「大丈夫だ。これでも王宮騎士だから、大概の人間は相手にならない」
メイドには安心させるようにそう伝える。現に、この村にハインツが敵わないような手練れがやってくるとも思えなかった。
それでもハインツは、油断せず一歩一歩天幕に近づく。
よりによって、めったに事件の起きない平和なこの田舎町で、森の民を招いたこのタイミングでおかしな事件が起きるとは。
ため息をつきそうになりながらも、隙を作らないよう慎重に近づいていく。
その時、突然、がさっと音がして、天幕の入り口が開いた。剣を握るハインツの手に力がこもる。しかし、中から出てきたのは、自分が思っていたよりも小さい影だった。
「ーーティレ殿!」
なんと天幕の中にいたのは、昨日客間に案内したはずの森の民ティレだった。
昨日と同じ旅装束で、驚いた顔をしてハインツを見ている。
「何をしているのですか!」
ハインツの剣幕に、ティレはびくっと肩を揺らした。
その時、
「大変でございます! お客様がどこにもいらっしゃいません……あら」
屋敷の中から慌てて飛んできたメイドがハインツとティレの様子を見て目を丸くしている。
「ーーティレ殿は無事なようだ」
自分の皮肉っぽい言い方にティレが身を縮こませたのが見えて、ハインツは舌打ちしたくなった。どうも自分は女性の扱いが上手くない。
しかしメイドは、その言葉を聞いて安心したようだ。怒るでもなく、ティレに笑いかける。家令の教育が行き届いているのだろう。
「こちらにいらっしゃったのですね。皆、心配しておりました。」
朝食の用意ができておりますと屋敷に促すメイドとハインツを交互に見たティレは、プルプルと震えだした。ものすごい勢いで頭を下げる。マントがばさりと音を立てた。
「すみません。皆さんにご迷惑をおかけしたんですね。あの、やっぱり、石造りの部屋では眠れなくて、夜、窓から見ていたら、ここの木がとても良くて、あの、つい」
「な……」
ハインツは言葉を失った。野宿をしたというのか。この庭で、焚火まで起こして。家令に命じて一番いい部屋を用意させたのに。なんと人騒がせな。
その時、当の家令がやってきた。家令はティレを見てほっとした表情を浮かべた。
「ご無事でようございました。用意させていただいたお部屋が合わなかったとのこと。ご不快な思いをさせて申し訳ありません」
家令が頭を下げるとティレがますます慌てだした。
どうやら、こんな大ごとになるとは思っていなかったようだ。ハインツは頭が痛くなってきた。
「いえ! 私のわがままで。……あの、その、……森には石でできた家がなくて、地面から離れた石の上で寝ることがちょっと生まれてはじめてで……」
集まってきた人の多さに、すっかり恐縮してしまったらしい。最後は蚊の鳴くような声になって、ティレは下を向いた。ちらりとハインツの手がかかったままの剣を見ていることに気付いて、慌ててハインツは剣から手を離した。
家令はティレを安心させるように、にっこりと笑った。
「いくつか客間はございます。お気に召すお部屋がないか、ご覧ください。」
「いえ! そんな、ご迷惑をおかけするわけには! テントで十分です。私」
顔の前で手をぶんぶんと振りながらティレが言う。今までで一番大きい声だ。信じがたいことだが、ティレは本気でテントで眠れれば十分だと思っているようだった。
ハインツはため息をつきながら口を開いた。
「森の民の文化には詳しくないが、わが国では、若い女性が一人で外に寝泊まりすることはさわりがある。一階にも客間はあるので、気に入った部屋を見つけて、夜だけでもそこに泊まっていただけないか。このテントはこのままにしていただいて、昼間なら使っていただいて構わない」
ティレは、それでもテントとその脇の木を名残惜しそうに見ていたが、テントの横の木をひと撫ですると生真面目な顔で答えた。
「……わかりました」
家令に促されて、ティレは屋敷の中に戻った。
二階は苦手なのですね。そう言われて、うなずく。
いくつか部屋を見て歩いていると、一つの部屋の前で、ティレの足が止まった。
そこは、裏庭に面した部屋だった。一応、客間の体裁は整えてはいるが、窓のすぐそばに木が立っていて、日当たりがいいとは言い難いので、普段はあまり使用されていない。
しかも、今は、その大きな木の枝が窓を撫でている。
「ここは窓の外の木の剪定が終わっていないため閉めているのです」
家令の説明を聞いているのかいないのか、ティレは吸い込まれるように部屋に入り、窓に近づいて行った。枝を見上げたまま訊ねる。
「……窓を開けても?」
「木の枝が入ってくるのでお気を付けください」
家令の言葉にうなずくとティレはそっと窓を開けた。伸びた枝の先が部屋の中に入ってくる。枝を撫でるティレのマントが風に揺れる。
しばらく、じっと気を見上げていたティレが小さな、しかしはっきりした声でつぶやいた。
「ここがいいです」
家令はにっこりと笑うと、
「かしこまりました」
そう言って、メイドとともにあっという間に部屋を整えた。
「お気遣いありがとうございます。お騒がせして申し訳ありませんでした」
荷物も整え、我々はこれでという家令とメイドに、ぺこりと頭を下げた娘はわがままで礼儀知らずには見えない。これが文化の違いなのか。
おかしな娘だ……。ハインツは、ただ突っ立ってティレを見ていた。
ーー部屋を整えている間中、娘を見ている必要はなかったと気づいたのは、自室に戻ったあとだった。