10 森の娘と辺境の村3
--このまま泡のように消えてしまうのではないか。
ハインツは焦った。森の民が常の人間ではないのではないかというのは、まことしやかに囁かれている噂だ。幻のようにティレが本当にふっと消えてしまったら。ハインツは、嫌なものが胃をせりあがってくるのを感じた。
ティレは震える指で岩場の向こうの木を指差した。
瞬時にティレの言わんとすることを察したハインツはティレを抱え直すと足場を確認した。そのまま岩場から木に飛び移る。
そのまま、ティレの体を木の幹に寄りかからせた。
ティレは震えながら木に抱きついた。相変わらず顔色は悪いが、幸せそうに木に抱きつきながら、深呼吸をしている。
ハインツは慎重にティレの様子を確認した。自身は木の枝の上にしゃがんだまま、ティレが転げ落ちないように腰を抱えながらだ。
そのままそうして半刻もたっただろうか、ティレは、急にくるっと振り向いた。そして、照れたように言った。
「ありがとうございます!ちょっと癒しが必要になっちゃって」
顔色は先ほどより幾分いい。
もう大丈夫ですと笑うティレを、ハインツは恐ろしい顔で睨んだ。起き上がろうとしていたティレが固まる。そのまま黙ってティレを抱え直すと、岩場には戻らず、木をスルスルと降りた。木の下にティレを座らせる。
ティレは、様子の違うハインツの様子をおどおどと伺っている。
ハインツはティレを真っ直ぐに見据えるとかねてからの疑問を口にした。
「木から栄養分か何かを吸収しているのか?」
ハインツのその言葉に、ティレは真っ青になった。その態度にハインツは自分の予想が当たっていることを確信した。そして、それをティレが隠したがっていることも。
「何故それを……」
先程までの体の震えは止まっているが、声は可哀想なほど震えていた。
「見ていればわかる」
「忘れてくださいますか?」
「無理だろうな」
自身の懇願するような声をサラッと否定したハインツに、ティレが絶望した顔をした。ハインツは息をつき、表情を緩めた。
「誰にも言わない。騎士の証にかけて誓う。お前が困ったようなことにはならないから、安心しろ。心配なら私が誰かに言いふらしたりしないか近くで見張っていればいいだろう」
ティレは、困ったような顔で笑った。俯くとぽつりぽつりと説明を始めた。
「私、こういう力を使いすぎると力が抜けてしまうんです……。--普段も時々は木から栄養をもらわないと、普通の人で言う貧血のような状態になるんですけど。……でも、水とか養分をもらうのではなくて、木の持っているエネルギーというか、暖かい力というか……そういうものを少し分けてもらえば、普通に暮らせるんです」
「そうか。不思議なものだな、森の民というのは」
ハインツが息を吐くように呟くとティレは困ったように俯いた。泣いているような苦笑いだった。
しばらく休むとティレの顔色はだいぶ良くなった。どうやら木がエネルギー源なことといい、ハインツの怪我を一瞬で治した力といい、森の民はやはり人智を超えた存在のようだ。そう考えるとティレのことが遠い存在に思えて何故かハインツの胸がちくりと痛んだ。
ティレがバランスを崩して落ちた岩場まで戻ると、源泉まではすぐだった。ティレが持ってきていたコップに源泉の水を掬う。
「これですね」
ティレがポケットから出した小瓶の中の液体を一滴コップに垂らすと、発泡水の色が変わった。ハインツは説明を求めるようにティレの顔を見る。
「鉱物系の毒物です。多少は誰でも摂取しているものですが、大量摂取を長期間続けると内臓に毒素が溜まります。もともとお体が弱っている方だと命の危険もあり得ます」
あえて感情を出さないように話しているが、ハインツには、多くの貴族がこのようなものを飲んでいた事実にティレが憤っていることが感じられた。
「わかった。早馬を飛ばして、ここが産地の発泡水は回収させる」
二人は目を合わせると急ぎ来た道を帰り始めた。
村まで戻ると、護衛騎士の1人を伝令役にし、ティレたちもハインツの屋敷まで戻ることにした。
その日は遅い時間になったので、伝令役や先発隊以外は、村に一晩泊まることにした。
昨日のように宿の部屋が足りないと言うこともなく、そもそも村には宿がない。ティレは村長の家に、ハインツと騎士たちはそれぞれ村人の家の中で広めのものに何人かずつ分かれて泊まることとなった。
このような辺境の村に客人が訪れることは滅多にないとのことで、必死で固辞するハインツ達をよそに村では歓迎の宴が開かれた。おそらくこの村ではかなり頑張って出されたであろうご馳走様に騎士たちは大いに喜んだ。
盛り上がる宴の中、ハインツはティレがそっと宴を抜け出そうとしているのに気付いた。気配を消そうとしているので周りには気づかれたくないのだろう。だが、もうすっかり夜も更けている。ハインツは、こっそり後をつけることにした。
ティレは、村の中をどこかに向かって歩いていく。時々、地面を触ったり、生えている背の高い草や木を触ったりして何かを調べているようにも見える。
やがて、町の中央にある井戸のそばで立ち止まった。井戸のふちに手をついて、中を眺めているようだ。
夜の闇の中にいるティレはひどく儚げに見えて、昼間のことを思い出させた。
ティレが、一層深く井戸をのぞき込んだ。落ちるのでないか。一瞬ヒヤッとしたハインツは足元にあった小枝を踏んで音を立ててしまった。
はっとティレが振り返る。ハインツがいるのを見て驚いたようだ。ハインツも腐っても王宮騎士なので、普段は尾行を気付かれるようなへまをすることはない。今も、ティレが井戸に落ちるのではと焦らなければ、このまま安全に帰るまで黙って見ているだけのつもりだった。
ティレは、驚きはしたようだったが、怒ってはいなかった。
「すみません。途中で抜けてしまって」
逆に謝っているくらいだ。それについては、一緒にハインツも抜け出しているので何も言えない。黙って首を横に振った。
ハインツは浮かんだ疑問を口にした。なぜ宴を抜けたのかとか、いま何をしていたんだとか、もっと聞くことはあったはずなのに、ひどく間抜けな質問に思えた。
「怪我を治すのは体に負担をかけるのか?」
だがティレは、ハインツの質問を意外だともピント外れだとも思っていないようだった。
「力を使いすぎると体のどこかが悪くなるとか、命に関わるとかはないんですけど、大きな傷であればあるほど力は使いますね。……私はあまり大きな力があるわけではないので」
そう言って笑うティレは何故だか寂しげに見えた。
「ではやはり負担をかけたんだな」
ハインツは、ティレに近づくとティレのほほに触れた。ティレはびくっとしたが、振り払うようなことはしなかった。
「あの、でも、もう元通り大丈夫です。ご心配いただいてありがとうございます」
ティレががばっと頭を下げた。その拍子に頬に当てた手は外れた。なんとなく面白くない気持ちになったハインツは話題を変えた。
「ここでなにを?」
「はい。源泉から近いので毒素が流れ込んでいないか調査していました。今のところ大丈夫そうです」
「そうか」
ハインツはほっとした。ティレが言うのならそうなのだろう。しかし、今のところとティレが言っているということは、調査を続けなければならないということだ。
もう、用事は終わったというティレを泊まるはずの家まで送る。
村に吹く風は、心なしか冷たくなってきている気がした。




