第二章 オムライス②
五時前には帰ることができた。
ガレージの横にある開閉ボタンを押すと、金属の音を出しながら、シャッターが上がっていく。
このガレージは、父の作業部屋だった。自家用車が二台入るほどの広さで、エアコン、高さが四十五センチくらいの小型な冷蔵庫もある。
右側に父の愛車であるSUVがずっしりと構えていて、左側の壁側には、木材を使った手作りの棚や机が、占領していた。
健はその隙間に自転車を止めると、ひとまず、エアコンのスイッチを入れて、亮からもらったシュークリームを冷蔵庫に入れた。生ぬるいより、冷えたシュークリームの方が断然おいしい。
父は、いわゆるDIYが趣味で、休日になるとガレージにこもり、一人で作っては健を呼んで、完成品を自画自賛していた。
父の手作りの机を、コンコンと指で叩く。いい音が鳴った。別に、父から自慢されても、嫌な気にはならなかった。それだけ尊敬していたのかもしれない。
SUVの後方に回って、壁フックに引っ掛けていた、野球グローブを取り上げる。中学のとき、父から買ってもらったのだが、大事に使っていたのでまだ使える。その当時を思い返すと、野球部には、既に野球経験をしていた学生ばかりで、健のように、中学から野球を始めるものはほとんどいなかった。キャッチボール程度なら、父としたことはあったが、バットなんぞは握ったこともない。慣れるまで相当苦労したが、父の応援があったからこそ頑張れた。
だが、高校生になると、あれだけ頑張ってきた野球をやめてしまった。理由は亮と同じだ。野球部の上下関係というか、部内の雰囲気が嫌だった。そのことを父に伝えると、すぐにわかってくれたが、その時の父の悲しそうな表情を思い出すと、今でもつらい。
グローブを左手にはめて感触を確かめると、そのまま踵を返した。
父のSUVのボンネットに、うっすらと埃が見える。黒いボディだから余計に目立っていた。もともと母は車の運転をしないし、一方で俺は免許を持っていない。ガレージの中だが、誰も乗らなくなると、いやでもたまってくるようだ。
母が、この車を売りに出すと言っていた。税金だけがかかる迷惑な車と不満を漏らしていたが、父が死んでしまったこの状況下では、余計な出費を少しでも抑えるべきだろう。残念だが、仕方がない。
健は、スクールバックにグローブをしまうと、冷蔵庫からシュークリームを取り出した。袋を開けて、わきからホイップが吹き出ないように、先端を優しく噛む。あっという間に平らげると、エアコンのスイッチを切って、ガレージから出ていった。
この時間でも、まだ日の光が健の背中を熱く押しつける。
玄関ドアの取っ手を握ると、ふと出掛ける前に出会った蜘蛛を思い出した。さすがにもういないとは思うが、視線を植木鉢の方へと向ける。
……想像通りいなかった。当然といえば当然である。蜘蛛だって暇ではない。
「ただいまー。母さん、ケチャップ買ってきたよ」
玄関ドアを閉めて、靴を脱ぎながら、母に聞こえるように言った。
だが、何も返答がない。
それよりも、母は誰かと話しているようだった。
「……うふふ。また会いましょう……」
母は誰と話をしているんだろう。
リビングのドアが閉まっているために、よく聞こえなかった。
「母さん?」
健の声に反応するように、急に話声が止まった。
ドアをゆっくりと開けると、窓からさし込んだ夕焼けの光が、椅子に座る母の顔を赤く照らしていた。
「何してるの……?」
なんだか不気味で、とっさに出てきた言葉がそれだった。
「ケチャップを待っていたのよ、うふふ」
母はにんまりと笑う。
「誰かと話していなかった?」
「うん。ヤグモさんとね」
「ヤグモさんって誰?」
部屋を見回したが、リビングには母しかいなかった。
「お母さんね、そのヤグモさんと再婚することになったの」
「え?! ちょっと待ってよ!」
あまりにも突然で驚愕した。
「そんなに驚かないでよ。あなたの次のパパになるんだから」
「ふざけんなよッ! 俺、その人と会ったこともないんだぞ」
「そう? さっきヤグモさんが、今日、健に会ったって言ってたわよ。とても優しくて、いい子だってほめてたんだから」
「え……?」
記憶を呼び戻すが、まったく覚えがない。外出先でも、先生や同級生、そして友人にしか会っていないはずだ。
「さ、ケチャップかして」
椅子から立ち上がって健に言い寄る。
母の何とも言えない雰囲気に圧倒されながら、ケチャップを手渡した。そして、ぶっきらぼうにキッチンへと向かう母の後ろ姿を、健は睨むように追っていく。
「着替えてきなさい」
その視線に気がついたのだろうか、振り返りざま母から吐き捨てるように言われ、健は悪態をつく代わりに、部屋から出ていきながらドアを乱暴に閉めた。