第一章 父の遺骨
俺の父が病気で死んだ。つい最近のことだ。
数学の問題を解いていると、ふと優しかった父の顔が脳裏に浮かぶ。もう涙は出てこないが、やはり父に会うことができないという寂しさを、簡単に忘れることはできない。
数学の参考書を閉じて、椅子から立ち上がる。
夏の真っ最中に、気持ちのいい風が窓から入ってくる。
視線を勉強机に向けた。どこか洋風を感じさせるこの机は、小学校入学祝いに、父が買ってくれた。
「健がずっと使えるように、いい机を買ってあげるからな。だから、勉強頑張れよ」
ふと、父との会話を思い出した。
健は、白のワイシャツに着替えると、携帯、そして家と自転車用の鍵をズボンのポケットに入れて、スクールバッグを肩にかけながら自身の部屋から出て行った。
別に用はないのだが、無意識に、廊下の突き当りにある、両親の寝室へ行った。
ドアを開けると、ダブルベッドの上に、父の遺骨が入った白い布で覆われた箱があった。どうやら母が、化粧台に戻すのを忘れていたようだ。健は、父の遺骨が入った箱を両手でしっかりとつかんで、元に戻した。
「父さん、少し出掛けるね」
静かにドアを閉めると、早足に階段を下りる。
そのまま靴を履いて出かけてもよかったが、やはり一言母にも言うべきだろう。
勢いよくリビングのドアを開ける。
「母さん、ちょっと出かけるよ」
母はうつぶせになって、ソファーの底にある、隙間をのぞき込んでいた。
「どこ行くのォ?」
「学校だよ……学校」
「今日は土曜日じゃない。なんで学校に行く必要があるのォ?」
「今日は先生と面談だよ。高校卒業して、どうするかって話。母さん、昨日も説明したじゃん」
「そうだっけェ?」
何に夢中なのかわからないが、母はソファーに顔を向けたままだった。
「あ、そうだ、母さん。父さんの遺骨、化粧台に戻しておいたから」
「そう……」
母は毎晩、その父の骨が入った箱を、抱き締めながら寝ているらしい。よほど父の死が、ショックだったのだと思う。
「行ってきます」
うつぶせになる母の背中を横目に、踵を返して玄関まで行った。片方の靴に足を入れて、もう片方にも足を入れようとしたとき、靴の中で何かが動いたように感じた。
……蜘蛛だ。
大きな蜘蛛だ。これは何という名前なのだろうか。そんなことより、危うく踏むところだったじゃないか。ひっくり返すと、白いスニーカーから、真逆の色の黒っぽい蜘蛛が、するっと落ちた。
「ここにいたら、踏まれちゃうぞ」
右手を蜘蛛に近づけて、甲にのせる。そのまま、うまくバランスを取りながら、もう片方の靴を履いた。
俺の家は蜘蛛が多い。
小学生のときには、蜘蛛が怖くてよく両親に助けを求めていたが、中学生になると見慣れてしまった。よく部屋で見かけるハエトリグモは、勉強の息抜きになって、いい遊び相手になってくれる。
ただ、蜘蛛が原因で、中学時代にはいじめにあってしまった。その日には給食がなく、各自弁当を持参してきたのだが、母が作ってくれた弁当箱を開けると、そこから蜘蛛が数十匹飛び出してきた。そのうえ、弁当箱の中に目を凝らすと、わさわさと、子蜘蛛もけっこうな数がいたのだった。
もちろん、俺はひっくり返りそうなぐらい驚いたわけだが、それよりも、周りにいた同級生は大げさに声を上げて、驚いた鶏のように教室を走り回っていた。
そういうわけで、俺は蜘蛛男って呼ばれるようになったのだが、まあ過去の話である。
玄関ドア近くの植木鉢に、蜘蛛をそっと載せると、自転車を取りにガレージへ向かった。今日は風もなくいい天気なので、学校まで多分十五分もかからないだろう。
健は、前かごにスクールバッグを入れると、左足をペダルに乗せて、力を込めた。
ほどなく学校の門が見えてきた。
駐輪場に自転車を止めて、校舎に入る。上履きに履き替えると、三年二組の教室まで、階段を一段飛ばしながら上って行った。教室のドアからのぞくと、自身より順番が前の同級生が、まだ先生と話し合っているようだったので、そっと踵を返す。
『次の番の人は、ここに座ってお待ちください』
機械的な文字で印刷された紙が、背もたれに貼られている、パイプ椅子に気がついた。
とりあえず、健はこの椅子に腰かけた。
校舎内では携帯をいじってはいけないので、この待っている間はとても手持ちぶさたである。どうしてスクールバッグの中に、面談用の資料しか入れてこなかったのか。健はため息をついた。こういうときに、ハエトリグモがいれば、時間潰しにもってこいなのだが。
四ページにわたる両面印刷の資料を何度も読み返していると、「ありがとうございました」という挨拶が聞こえてきた。
十分ほどずれ込んで、やっと自分の番が回ってきたようだ。
「頑張ってね」
教室のドアから出てきた同級生は、健に対して、去り際にそう言った。
「入っていいぞ」
そう教室から聞こえてきたので、健はスクールバッグを肩にかけると、中に入った。
「座って」
「お願いします」
椅子に座ると、足もとの横にスクールバッグを置く。担任の松本教諭は、バインダーに挟んである用紙に何か書き込んでいた。
俺は、あんまりこの先生が好きではない。英語の授業も、この松本が受け持っているが、英語の発音はめちゃくちゃだし、文法も教科書に書いてることをそのまま板書しているだけ。頼りないし、これでは受験に通用しない。
「えー、君は高校を卒業したらどうするか、もう決まってる?」
「はい。大学に進学します」
「うん。先生もそれでいいと思うよ。君は優秀だからね。いい大学に行けるよ」
「……はい」
特に表情は変えなかった。
「お父さんが亡くなってから、どうなんだ、生活のほうは……」
松本は、急に視線を逸らした。
「母も私も、もう落ち着きました」
「お金のほうはどうしているんだ?」
「父が残してくれたもので、今のところは大丈夫そうです」
「そっか……。高校生の君にとって、とても辛かった出来事だと思う。だけど、きっと乗り越えられるはずだ」
「ありがとうございます……」
三十秒ほど、お互い無言の状態だった。
先生が終わりの合図をすると、健はさっさと椅子から立ち上がって教室から出て行った。
むっとするような暑さを感じる。夕立がくるのかな。早く家に帰ったほうがいいのかもしれない。