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浮浪者の娘  作者: 大久 永里子
第八章 夏の終わり
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第八章 第2話 ふれあったとき

 夏の終わりが近い。



 光の色や風の色が穏やかに変化していくのを、アミィは窓越しに見つめていた。


 アミィはまた西棟の客室に移されていた。ただ以前より広く、以前には見なかった陶製の置物や絵画などの高価な調度品で飾られた部屋だった。


 



 呼び寄せられた医師によって、アミィは礼拝堂で傷口を7針縫った。

 麻酔を吸入して意識を失い、目が覚めた時にはもうこの部屋に移されていた。



 しばらくして麻酔の効果が切れると、激痛が襲った。

 そのあとは、夜も眠れないような痛みと熱が何日も続いた。



 その痛みもようやく和らぎはじめ、熱も引きつつあった。



 あれだけ深く刃が刺さって、手に麻痺が出なかったのは、幸運なことらしい。指が上手く動かない感じはあったのだが、医師はいずれ回復するだろうと言った。


 明日あしたがやっと抜糸で、一度だけ鏡越しに見た腕の後ろの傷は、生々しかった。


 


 

 一度警護の責任者が副長を伴い、謝罪にやって来た。


 後日彼らが服を一着仕立てて贈ってくれて、アミィを驚かせた。

 制服以外で自分のためにわざわざ仕立てられたような立派な服を、アミィは着たことがなかった。




 二日前には、マーガレットも来ていた。


 目に涙を溜めたマーガレットに手を握られながらお礼を言われた時、この女性ひとの大切なひとをたすけられてよかった、と心から思えた。



 だが自分の中のラルクへの想いを、消すことまでは出来なかった。


 ラルクの隣にいることが出来るその女性ひとは、どんなに憧れても届かない、星の様な存在だった。




 重傷を負ったアミィへの面会は皆短時間で、ウェルデ夫妻が気を付けていたため、キャリーも時々しか顔を覗かせなかった。


 二度もこんな事件に巻き込まれた幼いキャリーがショックを受けたのではないかと、アミィは少し心配だったが、部屋にやって来る時にはキャリーはいつもお菓子や花を持って現れ、一所懸命アミィを心配してくれていた。


 ラルクを救うことが出来たのはキャリーの功績でもあり、トーラン家はウェルデ一家にも、なんらかの報いを用意するつもりであるらしかった。




 邸中の人がアミィを労わり、優しくしてくれた。



 ラルクだけが、よそよそしかった。




 時折部屋を訪れるラルクはアミィを気遣ってくれてはいたが、アミィの世話をしている女中仲間や医師に、彼女の具合を確認していることが多かった。

 アミィ自身とはあまり会話をしなかった。



 

 少し前、ラルクの父がやって来て、アミィを使用人として正式に雇うと言ってくれた。


 その場にも、ラルクはいなかった。







  避けられている。





 闇に引きずり込まれて行く様な果てしない孤独の中で、アミィは黙って事実を見つめていた。






 何かを望んでいた訳ではなかった。



 望んではいない。




 けれど。




 深い穴の中に落ちて行く様なこの孤独と、どうやって向き合えばいいのだろう。



 生き方が、分からなかった。







 ラルクの姿を見るだけで、声を聴くだけで、ずっと息も苦しかった。 


 生命いのちが尽きるときをひとり漫然と待っていたアミィに救いの手を差し伸ばしてくれたラルクの優しさを、狂おしい程に求めていた。




 ――――――――――――――――それは身勝手だ。

 自分はラルクに、何も返せない。






 一日中ベッドの上でぼんやりと外を見て過ごすアミィの許に、その日とうとうラルクがやって来た。

 この一週間、一人で部屋の中に入って来てくれたのは、初めてだった。



 優しさばかりを思い出すその姿を見ると、感情の全てがほとばしる様にそのひとに向かうのを、自分でどうすることも出来ない。理性と感情で引き裂かれる様な重たい魂を抱えて、真っ直ぐにアミィはラルクを見つめた。




 入室の可否をアミィに尋ねて部屋に入って来たラルクは、そのあとは無言で、半身を起こした彼女の枕元の席に座った。

 しばらく、どちらも何も言わなかった。






 長い沈黙のあと



 ようやくぽつりと、ラルクが口を開いた。




「マーガレットが。」

 静かな痛みに、アミィの心は揺れた。


「僕を二度も救った君のことを、天使に思えるって。」



 マーガレットの好意はもう分かっている。

 ここでマーガレットの話を持ち出すラルクの意図を、アミィはたがえず理解した。



 無言のアミィに、ラルクは続けた。


「夜は眠れてる?痛みはない?」

「はい…」

 眠れぬ程の痛みが何日も続いた後だったが、言ってもせんないことをわざわざ言いはしなかった。



 同時に、わたしが痛がっていたって、あなたにはどうでもよいことではないかなどというどうしようもない考えが、心の隅をよぎるのをアミィは感じた。そしてそんな自分を、自分で責めた。



「………お父様から聞いたね?」

「はい…」


 意志と理性の同居したラルクの父性的な眼差しを、アミィは受け止めていた。





 数秒の間をおき、微かに躊躇ためらいをはらませながら、青年は静かに尋ねた。



「変に取らないでほしいんだけど………ここで働くことになって本当に構わないのか?」



 彼女のひとみに、涙が溢れた。



 しゃくり上げようとするのを抑えながら、彼女は応えた。



「―――…どう…応え、れば…よろしい…ですか………?」


 こんなことを言う自分が嫌だ。

 なじる口調。どれだけ感謝しても足りない恩のある人なのに。

 

 自分をここへ連れて来たそのひとがそう問うことを、なじる気持ちを、抑えることが出来なかった。




 感謝の言葉を口にしたのは、ラルクの方だった。



「…二回も命を助けられた。君にどんなに感謝しても足りない。」

「―――――――――」



 応えず、アミィは両手で顔を覆い、背をくの字に折り曲げて泣き伏した。



  感謝すべきは自分の方。返せない程の恩がある。恩ある人に尽くすのは当然で、礼の言葉はいらない。


  あなたから欲しいのは感謝の言葉ではないのだ。



 


 言えなかった。










「アミィ…僕はマーガレットを愛している。」


 穏やかに、はっきりとラルクは告げた。




 完全に突き放されたのだった。





 だが思いもしなかったことに、はっきりとラルクにそう口にして貰ったことが、アミィの心のどこかで心地よく響いた。




 悲しみは消えなかったが、どこかすっきりとした自分に、自分で驚いた。





 涙がゆっくりと、引いて行った。


 明らかにアミィが落ち着いてきたので、ラルクはしばらく彼女を見守っていた。


 やがて涙を拭きながら、アミィはそっと体を起こした。




 日の光が彼女の金髪と白い肌に絡み、綺麗だった。



 まだ頬が濡れたまま、アミィの琥珀色のひとみはラルクを見た。


 そして、一拍おいて、彼女はくすりと笑った。





 激しい感情は、皆ラルクの今の一言に殺された様で、凪いだ水面みなもの様な静けさが彼女の心の中に広がって行った。



 何も持たない彼女は自分自身の将来に対する自分の無力さを知っていたが、それでも凪いだ心の中から将来に反映したい思いが現れた。



「アミィ…?」



 変わらぬ優しいラルクの声とひとみが自分を覗き込む。



「ラルク様………本当に感謝しています。…でも………どこか別の場所で働くことが出来ますか?」


 微笑んでアミィが言った、その小さな申し出に、初めてラルクのひとみに苦悶の色がよぎった。





 一度だけ、彼は溜息をついた。




 そして。



「すぐに探すよ。」



 琥珀色のひとみの娘は、微笑んだままうなずいた。




 話は済んだのだ。

 ラルクが立ち上がり、アミィはもう彼が部屋を出て行くのだと思った。


 正しい時に正しいことが出来るこのひとは、長居すべきでないと決めているのだと。



 だが違った。


 ラルクはアミィの肩を抱き寄せると、彼女に唇を重ねた。



 一瞬だけのことだった。呆気に取られてラルクを見上げるアミィの耳に、彼の静かな声が響いた。




「僕も君を天使に思う。」



 そのひとみに、押し殺された感情が宿っていた。



 ラルクが去ろうとしたのと、アミィがベッドから立ち上がるのとが同時だった。


「ラルク様…!」


 去り行くラルクの半身に、アミィは縋り付いた。




 一生に一度、今だけ、彼を抱き締めることを許して貰えた。



 ほんの数十秒の抱擁だった。


 そして二人は離れた。

第八章 終

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