序章 第3話
すっかり濡れた服を着替えて、髪の水気を拭き取り、自室でラルクは落ち着かない気持ちだった。
使用人達の責める様な視線が痛い。別の棟に住む両親も、話を聞きつければラルクを叱るだろう。ドウアの街の実質の支配者であるトーラン家に、あんな乞食を引き入れるなんて。
だが青年は彼女を助けると決めたのだ。周囲の非難からは耳を塞ぐことにし、いつもの様に彼は書類仕事を始めた。
やがて女中が一人、報告にやって来た。
「ラルク様。…お風呂から上がりましたが。」
「ご苦労。じゃあ食事をやってくれ。僕も食堂に行くから。」
「ラルク様が?」
女中は眉をしかめた。ラルクがあんな乞食と関わり合うのを、どうしても快く思えないらしい。だがこの際ラルクはそんな反応は無視することにした。
「うん、頼んだよエイリード。」
有無を言わさぬ調子で言って、ラルクは彼女を下がらせた。
数十分後には、ラルクは食堂で再び女と対面していた。
周囲を取り囲む使用人たちの空気に、最初とは違う不穏さがある。
体を洗い、服を着替え、髪を梳いた浮浪者の女は、やせ細って、頬もこけているにも拘わらず、はっと人目を引く程美しかった。するとまるで情人にする為に、ラルクが女を引き入れた様に見えてくる。
女の顔立ちの美しさには気付いていたが、自分の居心地がますます悪くなるのを感じながら、ラルクは彼女の食事の席に着いた。
食事といってもスープと温野菜だけで、パンもスープに漬け込まれていた。使用人達は気が進まないながらも女の胃が受け付けそうな物を工夫してくれたらしく、彼らが自分の信頼に応えてくれたことに、ラルクは感謝した。
おそるおそる、怯えながら、女は食事を口にした。時折手を止め、ラルクの様子を窺う。その度ラルクは食事を続ける様に勧め、ラルクに促されて、彼女はまた食べ始めた。
青年が自分用に、お茶とお茶菓子を運ばせる。彼女に食事を続けさせる為にラルクはそこにいなければならない様に感じていた。
「足りなければ遠慮なく言ってほしい。お茶を運ばせようか?」
彼女が食事を終えようとする段になって、ラルクがそう言葉を掛けた。だが女は戸惑った様にしながらも、ただ手を膝に置いただけだった。自分がまだ一度も彼女の言葉を聞いていないことに、若者はこの時気が付いた。
彼女が口を利けないという可能性がラルクの脳裏をよぎったが、結論するには早過ぎた。兎も角ラルクは彼女の為に勝手にお茶を淹れさせた。
女は手をつけなかった。
おどおどとこちらの様子を窺う彼女に、ラルクは自己紹介を始めた。
「僕はラルク=オブ=トーランと言います。この家の息子です。あなたが元気になるまで、あなたの面倒をここで見ましょう。何も不安になる必要はありませんよ。」
女はまだ無言だった。
「あなたのお名前は?」
一拍。
そして。
「あ…――――――――」
透明な、綺麗な声がした。
口を利けない訳ではない様だ。問いに応えようとしてやめ、自分の意志でまた黙ったのがありありだった。
「お名前は?」
黙った彼女にラルクは重ねて訊いた。
ラルクの視線に耐えかねた様に、彼女は目を伏せ、俯いた。