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浮浪者の娘  作者: 大久 永里子
序章 雨の夕暮
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序章 第2話

 夕暮れ。友人の家を辞し、帰路についたラルクの頭上に、パラパラと水滴が落ち始めた。予期していたよりもやや雨足が強い。軒の多い裏道へ、若者はみちを逸れた。

 くせのある赤茶色の髪が、水を含んで黒く光った。


 この辺りが貧しいのは知っていたが、そこには汚らしい小さな家が互いに支え合う様にぎっしりと建ち並んでいて、若者を少し陰鬱いんうつとした気分にさせた。


 ドウア市は貧困に無関心な訳ではない。だが都市国家制が廃止された後、豊かだったドウアに周辺の都市から人が雪崩込んで一気に形成された貧困層は、一朝一夕いっちょういっせきにどうにか出来る存在ではなかった。付焼刃的な対策を好まない首長家は、長期戦で臨む構えでいる。


 ともかくも軒は多い場所だ。雨がやみそうであればしばらくここでやり過ごすのだが。若者は立ち止まって空を見上げて、数秒ぼんやりと思案した。

 ふっと、物音がした。辺りの住民は皆家の中に避難した様で人気はなかったから、小さな音だったが興味を誘った。音のしたほうへ首を巡らせ、ラルクはドキリとした。


 昼間の、あの乞食だった。


 ラルクに背を向け、一軒の家の軒下に座り込んでいる。手に、水を吸ったパンだろうか。何だかよくわからない食べ物を持っていた。小さなひとかけだ。あれが食事だとしたらとても足りないだろう。

 骸骨のような手で、女はかけらをちぎって足許の小さな生き物に差し出した。仔猫だった。やはりやせ細って汚れ、震えていた。女の手から力なく食べ物を摂る。


 驚きと悲しみが、ラルクの心を深くえぐった。


 女の様子は餓死寸前だ。彼女にとってひとかけらの食べ物は千金にも勝る貴重なものだ。それを仔猫に割く彼女には、生き延びようという意思がないと思える。


 言葉を失って、男は女の行為を見つめていた。


 女は手にするかけらのほとんどを小さな猫にやり、弱った猫が食べ切れなかった為に手に残った小さな一粒を、ほとんど機械的に、表情なく自分の口に運んだ。


 この女はこのままでは死んでしまう、と青年は思った。

 ひどい飢え。気温は雨でますます下がるというのにあの姿。


 目の前で死にかけている人間に手を差し伸ばすという大義名分が、青年に「良識」を踏み越える力をくれた。

 心の痛みに従い、男は女の方へ歩み寄った。ラルクが近づく気配に、猫が逃げて行く。

 人の足が自分の前で立ち止まるのを見て、女はびくりと体を震わせ、相手を見上げた。


 女は驚く程美しい顔立ちをしていた。だが悲しみをたたえるひとみは、美しさを痛々しくするだけだった。


 凄い、臭い。もう長い間洗われていないのだろう油で固まった金髪が数筋、垢のこびりついた顔の前に垂れている。


 無言で、青年は手を差し出した。

 無言で、女は青年を見返した。

 数秒、二人は身じろぎもせず無言のまま見つめ合っていた。

 女の表情はただ虚ろであった。


「さあ」

 青年が手を伸ばした。女の腕に触れた途端、女は弾かれた様に後ろに退がった。目が、恐怖に見開いている。

 それは、彼女の辛い過去を物語る反応で、青年の心はひるんだ。極端な不幸に彼は触れたことがなかった。


 まだ引き返せた。

 だが彼はそうしなかった。


 強引に手を出し、女の両の二の腕を摑んで、ラルクは彼女を立たせた。悪臭や汚れをいとわない程度に、彼の精神こころは壮健だった。

 抵抗らしい抵抗はなかった。いや、女は恐怖に駆られラルクの手から逃れようとしたのだが、青年が気付かぬ程にそれが弱々しかったのだ。


 青年は自分の上着を彼女に羽織らせると、彼女の背を押してまだ雨の降るみちを歩き始めた。


「君には食事と着替えが必要だと思う。おいで。」


 女の目に初めて、悲劇性とは違った表情が現れた。不思議なものを見る様に、おずおずと彼女はラルクを見つめ、ラルクに押されるまま、足を引き摺りながら雨の中を歩いて行った。

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