第一章 第6話 名前
「お姉ちゃん、名前なんて言うの?」
「名前?」
尋ねられ、自分の名前がぼんやりと頭に浮かんだ。
そう言えば、随分と長い間自分の名前を名乗ったり呼ばれたりしたことがなかった。本当にそういう名前だったか、すぐには自分で自信が持てない程だ。
頭の中で、一度自分の名前を反芻した。
確かそういう名前だった。
「お姉ちゃん、アミィって言うの。」
久しぶりに聴いた、自分の名前だった。
何も知らない少女が、気にも留めず応じる。
「ふーん、アミィ、みんながアミィのこと外の人に言っちゃだめだよって言うの。どうして?」
それは初めて聞く話で、アミィは鼻白んだ。
「さあ…お姉ちゃんここの家の人間じゃないから…」
浮浪者だからと言えずに、彼女は曖昧に答えた。しかしキャリーは言いたいことを一杯抱えている様で、その話題に別に固執しなかった。
「お姉ちゃん、すっごくきれい!奥様よりもきれい!」
「えっ?!」
彼女は頓狂な声を上げてしまった。
他人から誉め言葉を聞いた記憶は、名前を呼ばれた記憶以上に更になかった。
返事も出来ずに息を詰め、アミィはキャリーを見つめた。
「アミィはどうしてここにいるの?どこのおうちから来たの?」
あっけらかんとした笑顔でキャリーが続けるが、驚きのあまり、アミィはまだ口を利くことが出来なかった。返事をしないアミィを、幼い瞳が不思議そうに見つめる。
数秒、返事がないままだったので、キャリーはまた自分から話し始めた。
「キャリーはね、パパとママがこのお邸で働いているんだよ。だからパパとママと一緒にほかの使用人の人達と住んでるの。あっちに。」
小さな指が指す方向を見やりながら、アミィはやっとの思いで相槌を打った。
「アミィはどこから来たの?」
少女が問いを繰り返す。
「わたし…………」
ようやく口を開きかけて、足音に、アミィははっとして口をつぐんだ。
食堂から戻ってきたマシューが、驚きの表情で二人を見ていた。
「あんた、喋れたんだ。」
アミィは俯いて、向けられる視線を逃れた。
だが、歩み寄る男に微かに頷いた。
「アミィって言うのか?アミィ?」
元気な挨拶を投げ掛け、じゃれついて行ったキャリーを適当にあしらいながら、男が問い掛けた。
「――――――――はい…」
小さく、弱々しい声で、だが彼女は応じた。
初めて返事をした娘に、マシューは僅かに感動した。
「ふ~ん、なんで今まで口利かなかったんだ。おい、キャリー、いつまでもこんなところでウロウロしてると、また怒られるぞ。残り物貰って来るなら、さっさと行って来い。」
マシューに背中を押し出され、「うん」と応えて、キャリーがぱたぱたと食堂へと走って行く。遠ざかる足音を聞きながら、質問への返事にはなっていなかったものの、兎も角も彼女は応じた。
「はい………」
深い霧の向こうからようやく姿を覗かせる様に微かに応える娘は、またすぐにも霧の向こうへ戻ってしまいそうだった。しつこい追及はしないことにして、マシューは先導に立つと、娘の部屋へと歩き始めた。
「ラルク様にこれだけお世話になって、名前くらいお答えしろよ。」
時折清廉が過ぎて彼らを苦笑させるが、穏やかな優しさと沈着な行動力を併せ持つ若い主人は、彼らに愛されていた。
それから部屋へと戻る間に、「体はどうだ?」という程度の問い掛けが何度かされ、娘はごく短い言葉でであったが、その都度それに応えた。
それがきっかけだった。