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ハウリング  作者: ハイたん
壱の章【消えない想い】
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エピローグ『消えない想い』


「彩ー? なにしてんの遅れるよー?」


 坂道の途中、わたしよりも高い位置から友達の千穂ちほちゃんが振り返る。


「ごめんね。なんだかぼんやりしちゃってた」


 わたしの悪い癖だ。桜を見ていると時間の経過がわからなくなっちゃう。


 今年の桜は、なぜかいつもより鮮やかに色付いて見えて、もう少しだけ眺めていたい衝動に駆られる。


 千穂ちゃんはぐいっと距離を詰めてきた。やたらと真剣な顔だ。


「しっかりしてよ。大丈夫? そんなんでコンパ行けんの? 気合入ってる?」

「え、なにそれ? わたし行くって言ったかな?」

「だってさぁ、彩が来るのを条件に今回のコンパ決まったようなもんだし」

「えっとね? わたしなにも聞いてないと思うんだけど」

「いまから彩が不参加になったら男子たちやる気なくすし」

「そんなこと言われても、わたしのせいじゃないような気が……」

「ところてん先輩からは死んでも連れてきてくれって本気で頼み込まれてるし」

「う、うーん。ていうか、ところてん? 先輩?」

「ほんとのほんとに頼まれてるし。もうわたし涙目だし」

「あ、あはは……」

「とりあえず後で打ち合わせだかんね? お願い! いっかい話聞いてくれたら彩も行く気になると思うから!」

「えぇ……と」

「お願い! ほんとにほんと! わたしの顔を立てると思って! わたしは愛に生きるって決めたの! もう決闘を挑まれるだけの日々とはおさらばしたの! 生まれ変わるの!」


 朝の通学路で思いっきり頭を下げるのは止めてほしい。周囲の視線が痛いから。


「はぁ……」


 小さくこぼした溜息は、千穂ちゃんに聞こえてたかな。恐る恐ると片目だけでわたしの様子を伺う千穂ちゃんがなんだか可愛くて、まあ仕方ないかって思っちゃった。人が多いところは苦手なんだけど。


「……うん、わかった。じゃあ話だけでも」

「やった! 決まりだー! あ、念のためいまの録音しといていい?」

「そんなにわたし信用ないかな……」

「あったりまえじゃん。いままで興味どころか話も聞かなかったくせに。むしろこれで人数がさらに増えて大変になっちゃうかも! ははん、でも望むところってなもんよ! よーしいくぜ! レッツコンパー!」

「言っておくけど、まだ行くなんて決めてないよ? 話を聞くだけだからね」

「……手厳しいっすね」


 千穂ちゃんがこうして積極的に誘ってくれるのは、わたしを元気付けようとしてくれているからだ。それがわかってしまうからこそ断りづらいっていうか憎めないっていうか。


 手に持った荷物が重い。今日はいつもよりお弁当を包んだ袋が大きいからそれも当然だった。苦労しながら坂道を登り切る。


 大学の正門を抜けると、桃色の吹雪が風に舞っていた。講義棟まで続く長い一本道には、両脇に桜の木が等間隔で植えられていて、ずっと奥の方まで花びらを咲かせていた。


 きれいだと思った。


 青い空が、とても蒼い。太陽の光を全身に浴びて思わず笑みがこぼれる。なぜだろう。まるで悪い夢から覚めたばかりのように、頭のなかがすっきりしていた。


 それが事実だと知らされても、まるで実感はないけど。


 一日か、二日か。昏睡から目覚めたとき、わたしのそばには二人の家族がいた。ほとんど自覚はないけれど、わたしは何かの事件に巻き込まれて、ごくわずかな記憶を失っているという。


 でもそんなの関係なかった。病室には毎日のように友達がお見舞いに来てくれたから。大学に入ってから仲良くなったっていう人たちともすぐに打ち解けることができた。失った思い出は、すぐにもっと楽しくて新しい思い出で埋められた。埋められてしまった。なくなってしまった。


 とてもいいことのはずなのに、なんでそれが悲しく思えてしまうのかわからないけど。


「おはよ、彩」


 そこで藤崎響子ちゃんとばったり会った。ショートカットの髪と、うすく日焼けした肌。モデルみたいにすらりとした身体。なんていうか、絵になる女の子だ。たぶんダイエットという言葉とは無縁なんだろうな。


「おはよう、ふじさ……」

「響子ちゃん」

「あっ……その、響子ちゃん」

「うん」


 満足そうに微笑んでくれる。慣れていないわけじゃないけど、とっさに出てこないときがあるんだ。


 響子ちゃんは大して気にした様子もなく、というか、わたしのとなりにいる千穂ちゃんが変な顔をしていたからそっちに注意してくれたみたい。


「で、さっきから千穂はなにしてんの?」

「はっはー! よくぞ聞いてくれたってやつよ! 新たなる我が同志、藤崎響子! あぁ、流れがきてるぜ……」

「はぁ?」


 ふふふ、とちょっとバカみたいに笑う千穂ちゃんを、響子ちゃんはバカを見るような目で見ていた。


 うーん、千穂ちゃん可愛いんだけどなぁ。


「というわけで響子。今度ね、コンパがあるのよ」

「ふーん、そゆこと」

「じー」

「なに? 行っていいならあたしも行こうか?」

「さっすが! わたしなんてさぁ、もう一週間前からプチダイエットしててさぁ」


 言ってから、千穂ちゃんは響子ちゃんの身体をまじまじと観察したかと思うと、遠い目になった。


「……まぁ、響子には関係ないかぁ」

「響子ちゃん、スタイルいいもんね」

「いや彩が言っても嫌味にしか聞こえないからやめて?」

「そんなことないよ。わたしもダイエットとか考えてるから」

「ダイエットねぇ……」


 こう見えてもわたしも女の子だ。やっぱり響子ちゃんみたいに線の細い身体には憧れる。


「はは、なるほど。あれね。持つ者は、持たざる者の悲しみを知らずってやつね……」


 千穂ちゃんは沈んだ目で、わたしの胸をじっと見つめた。つられて響子ちゃんも視線を向けて、何かを諦めたように溜息をついた。なんだか恥ずかしくなって、わたしは自然な所作で胸を隠した。


 ただ千穂ちゃんも、幼いころから何かやっていたのか、信じられないぐらい引き締まった身体をしているんだけど、本人的にはあまり好きじゃないようだった。理由を聞いてみたら、筋肉がどうのこうので女の子らしさとはなんたらかんたらで脂肪のバランスはあーだこーだと言われ始めた記憶だけはある。


 暗くなった空気を変えようと、響子ちゃんが明るい声で言う。


「ダイエットなんて考えなくてもいいんじゃない? ほら、あたしたちは食べて寝て育ってなんぼの年頃でしょ」

「はいはーい、それができるのは響子だけー」


 千穂ちゃんが愚痴る。わたしもこくこくと頷いた。そんなことないよ、と響子ちゃんがおどけて、みんなが笑った。


「ていうか、彩もダイエットとか言うなら、なにこのでっかい包みは?」


 千穂ちゃんが肘でちょんちょんと突いてくる。お弁当を入れた袋は見事にパンパンになるまで膨らんでいた。でもそんなの当たり前だった。お弁当は二つ必要なんだから。卵焼きはあんまり甘くないやつ。ごはんは大盛り、いや、特盛じゃないといけなくて。


「あれ、わたし……」


 なにしてるんだろう。お弁当は一つでじゅうぶんなのに。まさか間違えてお父さんの分を持ってきてしまったのだろうか。でも確かにそれは今朝、渡したはずだったのに。


「……ねえ、彩」


 そんなわたしを黙って見つめていた響子ちゃんが、もしよかったら、と提案してくれた。


「実はあたしの知り合いで、ここ最近ずっと意地でもお昼抜いてるやつがいてさ。それ余っちゃうんだったら、そいつにあげてくれないかな」

「あぁ、うん。どうせおうちに持って帰っちゃうだけだし、食べてくれるなら嬉しいけど」

「そっか。ありがと」

「響子ー? あんたが食べたいだけじゃないのー?」

「うっさい。そんなに欲張りじゃないわっ!」


 茶化されて、また笑いが起きる。知らない人にあげるなら、響子ちゃんに食べてもらって感想とか聞きたいって思ったけど、それは我慢。わたしだって女の子の胃袋事情はちゃんとわかってるつもりだ。


「……そうだ」


 お弁当を渡したところで、響子ちゃんは一枚のハンカチを取り出した。


「これあげるよ。お弁当のお礼。もしよかったら彩が使って」

「え? ありがとう。でもこれ」


 明らかに男物のハンカチだった。それに気持ちは嬉しいけど、お弁当をあげたぐらいでこれをもらうのは悪いと思う。


「お願い。彩にもらってほしい」

「……うん、わかった」


 響子ちゃんの顔があまりにも切実だったから、わたしは素直に受け取ることにした。柔軟剤のいい匂い。満足そうに微笑む響子ちゃんの顔は、いまにも泣き出しそうに見えた。


「じゃあね。これ、確かにもらってくから」


 わたしの弁当箱を大切に抱えて、響子ちゃんは別棟に向かっていった。もともとわたしたちは同期だけど学部は違う。一部の必修科目を除くと、意図して交流しないかぎりほとんど遭遇することはない。例外は響子ちゃんみたいにいっぱい友達がいる人だけだ。


 講義室に入って席についたところで、わたしは急に立ち上がってしまった。自分でもどうしてこんな気持ちになったのかはわからない。


「彩? どしたの?」

「……ごめん、ちょっと出てくるね」

「えっ? なにゆえ? ま、まさかそんなにもコンパが──!?」


 千穂ちゃんの声を無視して、わたしは歩いた。少しずつ足は早くなって、気付けばほとんど走っている状態だった。


 お弁当。響子ちゃんにあげたはずのお弁当。あれがいまになって、どうしても必要な気がして、わたしは居ても立ってもいられなくなった。自分でも、ほんとうにどうしてかはわからないけど。


 校舎を出たあたりで予鈴が鳴り、思い思いに寛いでいた人たちが足早に目的地に向かい始める。すれ違う女の子が、広場で談笑しているグループが、逆走するわたしを不思議そうに見つめてくるけど、まったく気にならない。


 わたしは早く響子ちゃんに会って、お弁当を返してもらわないといけないんだから。


「あ、そうだ、携帯」


 いまさらになって気付くなんてバカだ。携帯で連絡を取れば、別に講義室を出る必要もなかったのに。わたしは中途半端なところで立ち止まって、かばんから携帯を取り出した。


 キーホルダーがなかった。


 そんなの当たり前。当時のわたしの荷物は、事件に巻き込まれた際にかばんを落としてしまったのか、どこにも見当たらなかった。仕方ないから携帯も買い替えるしかなかった。新品である代わりに何もついていない。登録されていた連絡先も消えてしまった。


 一通、また一通と読み返していたメールも、ない。


「……なんで」


 こんなにも寂しく思えるんだろう。満たされているはずなのに。満たされていないといけないのに。


 病院で目覚めて、知らない天井を見た日から、なんだかとても大切なピースが欠けているような感覚がずっとこびりついて離れない。


 そのとき、ひときわ強い風が吹き抜けた。


 わたしは髪を手で押さえる。ついさっき響子ちゃんと別れた長く続く一本道には、ずっと向こうの正門あたりまで薄桃色に染まっていた。ちょっと遅れてきた人たちが予鈴に急かされて歩みを早めている。立ち止まっているのはわたしだけ。


 そんな中で、その男の子は、一人だけゆっくりと歩いていた。


 両手をポケットに突っ込んで、わたしと同じように桜を見上げている。背筋はしっかりと伸びていて、歩き方はとても凛々しい。きれいな顔立ちだった。少し長めの黒髪も、男性にしては珍しい透き通るような色白の肌も、握り返してくれたてのひらの感触も、眩しい笑顔も、わたしの名を呼ぶ声も、ぜんぶ好きだった、はず、なのに。


「……あ、れ」


 わたしは胸を押さえつけた。動悸が激しい。空気がうまく吸えない。まるで縫い付けられたように足は一歩も動かなかった。ただ彼を見つめるだけで精一杯だった。


 桜が降りそそぐ空の下、男の子が歩いてくる。


 そして、わたしたちは出逢った。


 大きく見開かれた目は何かに驚いているようだった。揺れる瞳で、わたしのことをじっと見つめている。それだけで心情が止まらなかった。やっぱりわたしはおかしくなっているのかもしれない。だって彼を見ているだけで、こんなにも心が満たされるんだから。


 どこかで、ずっと昔にどこかで見たような気がした。昨日のことか、それとも一年以上前のことなのかも思い出せない。


「あ、の……」


 講義開始を告げるベルが鳴った。これでわたしの遅刻は確定。もうまわりには誰もいない。でも知らない。べつに構わない。わたしはいま、この瞬間のために、この男の子と会うためだけに生まれてきたのかもしれないって、そんなことさえ本気で考えた。


「……あ、あのっ」


 なけなしの勇気を振り絞って声をかける。自分から知らない男性に話しかける日がくるなんて思いもよらなかった。これもナンパに入っちゃうのかな。きっと顔は真っ赤になってると思う。わたしは恥ずかしくなって俯いた。汗でしっとりとした手を握りしめる。


 すぐそばを、足音が通り過ぎていった。


 わたしが後ろを振り向くと、そこには男の子の背中があった。まるで何事もなかったかのように桜が舞う中を歩いている。


 涙さえ出そうな落胆とともに、わたしは納得した。それはそうだ。いきなり他人から声をかけられたら誰だってびっくりする。わたしだって、街を歩いていて男の人に声をかけられたときはいつも同じような対応をしてしまっているんだから。


 一目見たときに思った。これは運命かもしれないって。わたしはこの人と結ばれるって。


 けれど、それはわたしの勘違いに過ぎなかった。


 遠くなる背を見つめながら、わたしは溜息を吐いた。そろそろ行かないと。響子ちゃんにはメールしておこう。千穂ちゃんにはなんて言い訳しよう。


 そんなことを考えていたとき、だった。


「あっ……」


 男の子のポケットから何かがはみ出していた。可愛いらしいキャラクターがデフォルメされている。いま女の子の間ではけっこう流行っていると言えなくもないけど、男性が身に着けるには少し恥ずかしい代物。


 それはキーホルダーだった。


 夕暮れの帰り道でもらった。クレーンゲームが上手だった。家宝にするって勝手に決めた。響子ちゃんに自慢した。ベッドに入ってからも何度も見つめていた。その夜、わたしは幸せな夢を見た。プレゼントをもらったことも嬉しかったけど、なにより。


 彩って、わたしの大好きな名前を呼んでくれたから。


「ゆ、うき……くん?」


 知らない人の名前が、わたしの唇からこぼれ落ちる。


 その名を口にした途端、心がひび割れそうになった。何が起こっているかもわからない当惑と、自分が自分じゃなくなるような恐怖。感情が暴れる。記憶が乱れる。怖い。いやだ。頭が痛くて視界が明滅した。圧倒的な情報の奔流にわたしという自我が飲み込まれそうになる。


「なに、これ……」


 わたしは何かに縋っていたくて手を伸ばす。やめろ、と理性が叫ぶ。わざわざ思い出す必要はない。ここで諦めれば楽になれる。難しいことじゃない。いつものように諦めて、我慢すればいいだけ。わたしの得意な生き方でしょう。これもそのうちの一つに過ぎないはず。


 だから愛想笑いで取り繕えば、きっと何もない日常に戻れる。戻れるはずなのに、その日常には何かが足りない。


 だからわたしは、こんなにも苦しくて。


「い、や……」


 この痛みだけは、ぜったいに諦めたくなかった。


「ゆうき、くん」


 それは魔法の言葉のように、わたしというわたしを揺さぶった。見たこともない記憶が次々と溢れてくる。感じたこともない想いが次々と湧き上がってくる。痛くて、苦しくて、辛い。


 でも日溜まりのように暖かかった。


「……あ」


 諦めたくないという気持ちとは裏腹に、どうしようもなく心身が痛くて、わたしはもう立っていることもできそうになかった。いますぐ座り込んで楽になりたい。そんな弱い自分が顔を出す。


 そうだ、そのほうがいい。わたしみたいな女が声をかけても迷惑になっちゃう。こんな自分でもあんまり好きじゃない自分。大好きなお母さんと大切な親友の咲良ちゃんが悪い殺人犯に殺されたあとも、ただ毎日、泣いてばかりで何もしなかった自分。


 ──どうせ無理よ。今度も、きっと届かないわ。


 いつだったか、だれかにそんな言葉をかけられたことがある。


 伸ばした手は、何も掴むことなく頼りなく宙を揺れたあと、ゆっくりと垂れ下がる。わたしは呆然と立ち尽くしたまま、遠くなっていく背中を見ていた。そうすることしかできなかった。追いかけて、名前を呼んで、正面から彼と向き合う勇気がなかった。


 でもいいでしょう。それがわたしの生き方だったんだから。多くを望むと罰が当たる。まただれかを傷つけてしまう。お母さんを不幸にさせるような悪い子はいらない。


 お父さんとお兄ちゃんを困らせないためにも、あの二人に見捨てられないためにも、わたしはいままで通りの『櫻井彩』を演じ続けていかなければいけないのだから。


 これからもずっと、一人で。




 ハウリング 壱の章【消えない想い】 了





















 声がした。


『──大丈夫』


 だれかの声。


『今度は、きっと──』











「彩ー? なにしてんの遅れるわよー?」


 咲良ちゃんの声がする。わたしは笑顔で走り出す。まだ届かない。


「ごめんね。なんだかぼんやりしちゃってたみたい」

「いつものことじゃない。しっかりしなさいよ。今日から大学生なんだから」


 呆れながらもまんざらではなさそうな顔。その背中を目指す。でもなかなか追いつけない。


「咲良ちゃん、ありがとう」

「は? なによ急に。そんなこと言ってる暇があるなら今度の……」

「お兄ちゃんとどこデート行くか一緒に考えてほしいって?」

「べっ、べつに一人でも考えられるけど! ただレンくんがどうしても楽しいデートにしたいっていうから、わたしは仕方なく……ってなによその顔!」

「ううん、別になんでもないよ。咲良ちゃんはお兄ちゃんのことがほんとに大好きなんだなぁ、なんてぜんぜん考えてないよ」

「思いっきり考えてるじゃない!」


 頬を赤くして怒る咲良ちゃん。いつもの日常。今日から踏み出す新たな未来。わたしたちは一緒に歩く。けれど距離は遠い。


「だいたい、彩も人のこと言えるわけ? 今度、お母さんの誕生日に何をプレゼントしようかって、そんなことでアホみたいにわたしに相談してくるくせに」

「え、アホかな……」

「自覚なし。重症ね。この前とか深夜二時ぐらいまで電話で相談という名のマザコンかまされたわたしの気持ちがわかる? 娘からもらったものなら何でも嬉しいに決まってるんだからもう適当に選べばいいって答えを百回は言ってあげてるのに」

「適当なんてできるわけないよ。お母さんにはちゃんと喜んでほしいんだから」

「はいはい、それも百回聞いたわ」

「人のこと言えるかな? 咲良ちゃんだって、いつもお兄ちゃんのことで深夜二時ぐらいまで電話で相談という名の惚気話してくるくせに」

「そ、それはだから、なんていうか……じゃなくて! だってレンくんが!」

「…………」

「な、なによ? やるってのっ?」

「べつにやらないよ……」


 何でもない口喧嘩。咲良ちゃんはお兄ちゃんのことを真剣に考えていて、わたしもお母さんのことを大切に想っていて、だからこそちょっとしたことでお互いにヒートアップしてしまう。


 言い過ぎたと思ったのか、咲良ちゃんはちらちらと視線を送ってくる。こういうところが可愛くて反則だと思う。黙っていればクールな美人って感じなのに。


 でも咲良ちゃんは持ち前の負けず嫌いな性格が災いしているのか、いつも自分から素直に謝ることができない。なにやら不安そうな顔でわたしのほうを見て、態度で示してくる。


「ごめんね、咲良ちゃん。さっきはちょっと言い過ぎたかも」


 だからわたしが適当なタイミングで謝ってみせれば、咲良ちゃんは仲直りできることにとても嬉しそうな顔をしたあと、慌てて仏頂面を作って取り繕う。バレバレなんだけどな。


「……ま、まあ、わたしも言い過ぎたとこあるしね。彩がそんなふうに謝る必要もないと思うわ」

「よかった。じゃあ仲直りしてくれる?」


 咲良ちゃんはやはり表情をぱあっと輝かせたあと、こほん、と咳ばらいをして無理やり厳かな空気を引き戻そうとする。


「しょうがないな。じゃあほら、喧嘩両成敗ってことで」

「うん、ありがとう」


 わたしが微笑むと、咲良ちゃんはそれを受け入れてから、急に頭を抱えた。


「……ってなにやってんのよわたし。こんなところにまで意味不明なプライド持ち込んで。しっかりしろ遠山咲良。いましかないんだから。このバカバカバカ……」


 よくわからない感じで自己嫌悪を始める。わたしはそれに気付かないふりをする。気付きたくないから前だけを見て歩き続ける。いまのうちにちょっとでも咲良ちゃんに追いつかないといけないから。


「咲良ちゃん、ありがとう」


 わたしは繰り返す。咲良ちゃんは振り向く。その表情が霞んで見えない。


「咲良ちゃんがいたから、わたし頑張れた。こんなわたしをいつも引っ張っていってくれるから。たまに甘えさせてくれたり、ちゃんと怒ってくれたり、あとお兄ちゃんとの惚気話を延々と聞かされたり」

「だから最後のいらなくない? まあいいけど。あのね、彩」

「大学生活には不安もあるけど、咲良ちゃんとだったら絶対に楽しいと思う。いつまでも笑ってられる気がする。いままでがそうだったように」

「彩」

「ほんと楽しみだね。やっぱりコンパとかあるのかな。咲良ちゃんはどのサークルに入るとか決めてる? わたしはまだ何も知らなくて」

「彩」

「咲良ちゃんだけが頼りなんだから。これからもずっと一緒にいてね。わたしのそばにいて、わたしを支えてね」


 咲良ちゃんは何も言わずに優しい笑顔を浮かべたまま、ずっと遠くのほうからわたしを見ている。いつの間にこんなに距離ができたのだろう。


「ねえ、彩」


 またわたしの名を呼んだその声が。


「──それはもう、わたしの役目じゃないでしょう?」


 この夢の終わりが近いことを優しく教えてくれる。


「あーあ、やだなぁ。こんなかたちでしか想いを伝えられなかったなんて。でもまあ、うん、これはこれでよかったかな。神様もたまには粋なことしてくれるって感じで」


 咲良ちゃんは儚げに笑う。わたしも、咲良ちゃんも、一歩も動いていないはずなのに距離だけが伸びていく。


 大切なものを見失いたくなくてわたしは走る。視界が滲んで何も見えなくなっていく。


「言いたいことも伝えたいことも数えきれないぐらいあるけど、一晩かけても語りつくせないだろうから、仕方なくこれだけにしておくわ。言葉でごちゃごちゃ言うよりも、びしっと行動で示したほうがずっとわたしらしいと思うしね」


 声が出ない。わたしは手を伸ばす。咲良ちゃんの姿が消えていく。微笑みだけが光に溶ける。


「だからほら、諦めないで。頑張りなさいよ、彩」


 何も届かない。どうしても届かない。


 なのに。


「心配しないで。最後に一度だけ、わたしが手伝ってあげるから」


 いつかの大雨の夜、何もできない自分と、何もしてもらえなかっただれかがいた。


 手を差し伸べることもできなかった。


 いつだって届くことはなかった。


 それをずっと後悔していた。


「いまの彩なら大丈夫。今度は、きっと──」


 わたしはまだ何も言えていない。しかし、もう何も言う必要はないのだと、咲良ちゃんは切れ長の目を柔らかく細めて、見覚えのある笑顔を浮かべた。


 わたしは手を伸ばす。遠すぎて咲良ちゃんには届きそうにない。


 諦めたほうがいいのかな、と思ってしまった。


 伸ばした手は、何も掴むことなく頼りなく宙を揺れたあと、ゆっくりと垂れ下がる。わたしは呆然と立ち尽くしたまま、遠くなっていく咲良ちゃんを見ていた。そうすることしかできなかった。追いかけて、名前を呼んで、正面から大切な親友と向き合う勇気がなかった。


 そのとき。


 わたしの目の前に、ふたひらの桜の花びらが舞い散った。






『──大丈夫。今度は、きっと届くから』






 懐かしい声がして、わたしははっと我に返る。


 指先には柔らかい感触。いつの間にか、もう見送るばかりだった少年の背に、わたしの手が届いていた。


 ついさっきまで迷っていた自分の腕とは思えないほど、力強くはっきりと伸ばされた手が、わたしのよく知るどこかの女の子みたいな強引さで男の子の服を掴んでいる。


 不器用で、一生懸命で、とてもまっすぐで。


 いきなり服を引っ張られて、無視を決め込んでいた彼も驚いたように歩みを止めていた。怒ってしまったのか、振り返ってもくれない。わたしも自分でなんでこんなことしてしまったのかわからなくて何も言えなかった。


「なんか用?」


 冷たい声だった。一秒でも早くこの場から立ち去りたいって言ってる。とても居心地が悪そうだった。


「あ、の……」


 わたしは勇気を振り絞って、ずっと気になっていたことを訊いていた。


「ゆう、き、くん……ですか」

「は?」

「あ……だ、だから、なまえ……」

「なんて?」


 小さすぎて聞き取れなかったのだろう。彼は苛立ちをあらわにする。わたしはわたしで困惑でいっぱいになっていた。どうして知らない男の子を呼び止めただけでなく、頭に浮かんでる名前を彼に当てはめているのか。


 いたずらに時間だけが流れる。彼はすぐに意を決したようだった。


「悪い。急いでる」


 短く切り捨てて、もう用はないとばかりに彼はふたたび歩き出す。嫌だ。こんな終わり方はぜったいに嫌だった。わたしは何かきっかけが欲しくて、どうしても気になっていたキーホルダーのことに触れた。


 ただ見ているだけでも思い出が蘇る。


 こんなにも溢れる想いが止まらない。


「でも、それ。そのキーホルダー」

「友達からもらったものだ。きみには関係ない」

「わたしも好きなの。昔、とっても大切にしてた。家宝にするって決めてた。ううん、間違いなく宝物だった」

「こんなの、どこにでもある安っぽい景品だろ」

「違うよ! そんなことないよ! 特別だった! 大事にしてた! だってあれは!」


 それは。


「わたしの大切な人からもらったプレゼントなんだからっ!」


 男の子が立ち止まる。その肩が小さく震えているように見えるのは気のせいだろうか。


 わたしも震えていた。でもそれを隠して、いかにも大人の女って感じの余裕を頑張って漂わせながら、すぐそばにあった桜の木を見上げる。


「……きれい、だね」


 わたしは涙をこらえていた。


「こんなにも桜がきれいに見えるのは、はじめてかもしれない。うん、今日はほんとうに、とっても桜がきれい」


 なんて、嘘。もうちょっぴり泣いていた。男の子は溜息を吐いてから口を開いた。


「……大げさだな。そう変わるもんでもないだろ。毎年、この時期になると見ることになるんだから」


 違うよ。そんなの違うんだよ。わたしだってほんとうはずっと気付いてたんだよ。


「花はね、いつだれと見るかで変わるの。だから、わたしにとっては今年の桜がいちばん特別」


 いつかお母さんと二人で見上げた花に心が震えたときのように。


 春が巡って誕生日を迎えるたび、咲良ちゃんと小さな花見をして笑ったときのように。


「こんな桜をね、わたしはこれからもずっと見ていたい。明日も、一週間後も、一年後も」


 あなたと見上げる桜は、こんなにもきれいだったから。


「そして、今日も──夕貴くんと一緒に」


 ゆっくりと彼は振り向いた。痛ましいほどに涙をこらえた瞳で。わたしの大好きだった彼のままで。そして言うんだ。言ってくれるんだ。


「彩」


 大好きな、わたしの名前を。


「なんで、おまえ、そんなはずは……」


 戸惑いを隠せない夕貴くんの顔を見て、わたしは笑った。なんだか視界が滲んでほとんど前が見えないけど、笑うしかなかった。


「嘘だ。憶えてるわけない。そんなこと、あるはずがない」

「忘れるわけないでしょう? だって、ね」


 そっと歩み寄り、彼のポケットからはみ出している宝物に触れた。


「ねえ、知ってる? これってね、『ヤーマン』っていってね。『諦めないぞぉ!』が口癖なの。いま女の子のあいだでけっこう流行ってるんだよ」

「それは……」

「だから残念。夕貴くんには似合わないかな」


 首を傾げて微笑んでみせる。全力の猫かぶり。泣いてるせいで変な顔になってないといいけど。こんな恥ずかしいところ男の子に見られたくないし。


 そこまで考えてから、どうせ夕貴くんにしか見せる気ないからまあいっかって、思っちゃった。


「返してもらうね。わたしの大切な、わたしの思い出」


 キーホルダーを握りしめる。両手で包み込んで、もう手放さないと心に決める。その瞬間に、今度こそ全ての記憶が戻った。


 痛みも、哀しみも、後悔も、喜びも。


 苦しくて、でも愛おしくて、わたしは諦めたくないから、小さなヒーローに想いを込める。


 この世に都合のいい奇跡なんてない。だからこれは必然だと思う。


 全てが元通りになって、わたしがわたしじゃなくなったあとも、あなたはあなたでいてくれて。


 たった一つ、この小さな思い出だけは見捨てずに。


 あなたはやっぱり最後まで諦めなかったから。


 またわたしたちは出逢うことができた。


「なんで」


 夕貴くんは悲しそうに声を絞り出した。


「なんで、だよ。忘れてろよ。思い出すなよ。また辛くなるだけだろうが」

「泣かないでよ。夕貴くんにまで泣かれちゃうと、わたしもっと泣いちゃうよ」

「ふざけんな。泣いてなんかねえよ。泣き虫のおまえと一緒にすんな」


 夕貴くんの泣き顔はとても可愛くて、きれいで、悲しかった。


 それはわたしのせい。それはわたしのため。


 わたしは生きてるだけでこんなにもあなたかを傷つける。


 あなたは生きてるだけでこんなにもわたしかを救う。


 ねえ、夕貴くん。


 そうやって人間わたしたちは、今日まで生きてきたのかな。


「あんな過去、おまえにはいらないんだよ。いらなかったんだよ。もう傷ついてほしくないって、おまえには救われてほしいって、俺はそう思って……」

「それならわたしはせめて、あなたと一緒に傷つきたい。あなたと一緒に救われたい」

「……彩」

「なんてね。プロポーズじゃないから勘違いしちゃやだよ?」


 ちゃんと笑えてるか自信がなかったけど、それでも笑ってみせた。目元を和らげると溜まっていた涙が一気にこぼれおちた。


「忘れてたほうがいい。おまえは、そっちのほうがよかったんだ」

「ううん。違うよ。もう忘れたりなんかしない」


 わたしに手を差し伸べてくれたあなたの笑顔を、そのぬくもりを、いまならはっきりと思い出せる。


 どんなときも、どんなときだって、ずっとあなたがそばにいてくれようとしたから、わたしはわたしでいられた。


「忘れるはずなんて、なかったんだよ」


 わたしは空を見上げた。夕貴くんも空を見上げた。そこには風に舞って、彩鮮やかな幸福のかたちが広がっていた。


 ああ、白い陽射しに溶けて、だれかの笑顔が──


 わたしは溢れる涙のままに夕貴くんの胸に飛び込んだ。彼も観念したのか、わたしを恐る恐る抱きしめる。遠慮がちでちゃんと抱きしめてくれなかったのは寂しいけど、そこは我慢。


 まずは、この大切なぬくもりともう一度出逢えた奇跡を、神様に感謝しなくちゃいけないから。




 ****




「あ、母さん? 俺だけど。ちょっと聞いてくれよ。なんか気付いたら家に悪魔がいるんだよ。しかもそいつ居候することになってさ。挙句の果てに、なんかもうひとり女の子を……は? オッケー? マジで言ってる? え? 男の本望? ふざけてる場合かよ。まず俺の頭を疑ったほうが……って」


 電話が切れている。もう一度かけてみたが繋がらなかった。夕貴の差し向かいに座っているナベリウスが、ほらね、と言わんばかりに頷いている。


 萩原家のリビングは今日も平和だった。いい天気である。コーヒーも美味しい。なぜか夕貴のとなりに櫻井彩が座っていて、所在なさげにチラチラとあたりを見渡しているという事実を除けば、何も変わり映えしない日常だった。


「あー、とりあえず病院いってくる。たぶんしばらく入院することになるからあとはよろしくな」

「なに現実逃避してるのよ。そこは男らしく堂々と構えてなさいって」

「おまえが堂々と構えすぎてるんだよ。これがいったいどういう事態なのかわかってるのか? ほら、彩もなんとか言ってくれよ」

「あ、あの、えっと、わたしは、その、だから、ですね……」


 だめだ。人見知りしている。役に立たない。夕貴はもう彩に頼ることを止めた。


「おまえが言ってることは無茶苦茶だ。もう一度よく考えてみろ」

「あのね、こう見えてもわたしは真面目に言ってるのよ」


 ナベリウスの声がにわかに冷たくなる。その銀色の眼差しは、彩に注がれている。


「あの状態から持ち直しただけでも本来はありえないのに、この子はさらに記憶まで取り戻した。こんな事例をわたしは見たことがない。少なくともバアルの力では……いえ、バアルの力だからこそ無理だったはずなのに」


 そこでいったん区切り、ナベリウスはコーヒーカップに口を付ける。依然として鋭い目を彩に向けながら。


「夕貴が特別なのか、その子が特別なのか、あるいは他の原因があるかはわからない。一つだけ言えるのは、これからどうなっていくのか予想もつかないってこと。はっきり言って、わたしはその子の存在そのものに危機感すら覚えてる」


 彩の身体がびくっと震える。かつて浴びせられた殺意を思い出したのだ。でも悪魔憑きではなくなった以上、もう危害を加える必要はない。夕貴は彩を庇うように身を乗り出した。


「待てよ。もう彩は大丈夫なんだろ。余計なことをする必要はない。これからは普通に暮らしていけるはずだ」

「もちろん。ただし、それには二つだけ条件をつけたい。一つは夕貴がそばにいること。もう一つはわたしが監視すること」

「つまり?」

「この家に一緒に住むっていうこと」

「バカかおまえ! そんなことできるわけないだろうが!」

「どうして?」

「女の子を居候させるって、どういうことかわかってんのか!?」

「わかってるからこそ、わたしを泊めてくれてるんじゃないの?」

「いや、おまえは特別だろ! おまえと彩は違う!」

「えっ」


 彩が捨てられた子猫のような顔をする。大丈夫だ、と夕貴は頷く。おまえの日常は俺が守る。こんな悪魔の好きなようにはさせない。


「特別? わたしだけ? 具体的には?」

「だから俺とおまえの関係はもう普通じゃないだろうが! 何日泊めたと思ってやがる! これからおまえのことをどうするか、俺はゆっくりと考えていきたいんだよ!」

「……え」


 彩が固まる。かわいそうに、と夕貴は思った。早くこの悪魔から解放してあげないと。


 そんなやりとりを繰り返すうちに彩はすっかりと肩を落として、もうずっと俯いているだけだった。


 ナベリウスは大きく溜息をついて、怜悧な眼差しで語る。


「もう一度だけ言いましょう。これは遊びでも冗談でもない。それほどまでにその子の存在は警戒に値する」

「そんなことは……」

「だったらこう言い換えましょうか。その子に普通の人生を歩ませてあげたいのなら、わたしが大丈夫だと確信が持てるまでは、なるべく目の届く位置にいてもらったほうがいい。でなければまた人知れず不幸が起きる可能性がある」


 あくまでも理路整然と語るナベリウスに何も言い返せず、夕貴は席を立った。


「……顔洗ってくる。ちょっと考えさせてくれ。そんなすぐには決められない」


 夕貴がリビングから立ち去ったあと、ナベリウスは、うなだれる少女に声をかけた。


「大丈夫よ。夕貴はたぶん、気付いていないから」


 彩は顔を上げて、困ったように微笑んだ。


「……やっぱり気付いてるんですね」

「いつから?」

「記憶を思い出したあたりから、です」


 やはりか、とナベリウスはかぶりを振った。申し訳なさそうな顔で彩は続ける。


「ずっと感じるんです。あなたから肌がびりびりする空気みたいなもの。とても冷たい感覚。あとあなたほどじゃないですけど、夕貴くんからもちょっとだけ、なにか似たようなものを……えっと、ごめんなさい、うまくは言えないですけど」


 予期していたこととはいえ、ナベリウスは驚いた。


 大悪魔の彼女でさえ、いまの夕貴は一般人と変わらないように見えるし、なにより《悪魔》の力の源とも言えるDマイクロウェーブはほとんど感じ取れない。


 それを彩は感知できるというのだ。


「なるほどね。殺人衝動は消えたのに、常人には持ちえない能力を後天的に発現してしまっている。確かに、こんなケースは見たことがない」


 事件の直後、櫻井彩は間違いなく普通の人間に戻っていた。それなのに記憶が蘇るのと同時にまたその身に魔性の能力が宿った。ただしそれは害意のあるものではなく、もちろん殺人衝動の類も見受けられない。


 だからこそ未知なる何かだ。


 ナベリウスは思案する。果たして何が起こっているのか。夕貴が産まれたこと、つまり《悪魔》と人間の間に新しい命が芽生えたことが本来ならありえないのだ。さらに異常が重なったとしても、もはや驚きはしないが、やはり腑に落ちない。


 この世に都合のいい奇跡などない。それをナベリウスはだれよりも弁えている。だから今回の結末にもそうなった理由が必ず存在する。


 可能性はいくつか思い浮かぶが、どれもただの人間である櫻井彩にはありえないことだ。


 こんな事態はバアルではありえなかった、と思う。


 あの男の能力を全て把握しているかと問われれば、ナベリウスでさえ首を傾げざるを得ないが。


 人間の血を引いている夕貴だからこそ可能だった何かがあるのだろうか。


「わたしは、どうなっちゃうんでしょうか……」


 不安そうにぎゅっと手を握りしめる彩に、ソロモンの大悪魔は柔らかい声音で語りかける。


「いまのところ原因はわからない。でもね、これだけは言える。夕貴の力があれば、あの子がそばにいれば、あなたはもう衝動に呑まれることはない。いまのままでも日常生活に支障はないでしょうし、時が経てば、また普通の女の子にも戻れると思う。それほどまでに夕貴が持つ力は絶対だから。いまのあなたは、まあ、さしずめ夕貴の眷属みたいなものとでも思っておけばいいわ」

「これも、もしかしたら罰なんでしょうか。わたしは……人を、夕貴くんを、傷つけてしまったから。だれも救うことなんて、できなかったから」


 オドに心身を乗っ取られている間の出来事は、彩が記憶を取り戻したあともやはり朧で、つぎはぎだった。だが自らの手で夕貴の首を絞めてしまった感触と、苦しみに喘ぐ彼の顔だけは忘れようとしても忘れられない。


「あなたのせいじゃない。責められるとすれば、むしろわたしたち《悪魔》のほうでしょうね」


 そもそもで言えば、自然界でも彼女たちだけが持つ、俗に《デビルメント・マイクロウェーブ》と呼ばれる特殊な波動さえなければ、オドという間違った存在は生まれなかったのだから。


 人の身に堕ちて、人の世界を見て、人と同じように生きていく中で、ソロモンの大悪魔は、人と同じ感情を獲得してしまった。それが間違いの始まりだったのだろうか。


 悠久に流れる時の中で人という生き物を見てきたグシオンは。


 この世の全ての戦火が集まる最前線の欧州にて煉獄の炎を纏うバルバトスは。


 絶対的な審判の権利を持つが故に天空の頂に座すマルバスは。


 あるいは、かつて泣きながら彼女たちを封印した小さな少女が、涙を流すほどの愛を抱いていなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。


「あなたたちに取り憑いたものを生み出したのは、わたしたち《悪魔》と、そして人間の悪意なのだから。それを一身に受けてしまい、その手を汚してしまったあなたたちは、ある意味では最初の犠牲者といっても過言じゃないでしょう」

「で、でも、あのとき、わたしは……わ、わたしは、す、すごく」


 彩の声がわなないて、黒い瞳の端に涙が浮かぶ。でも彩は、それを決して流そうとはしなかった。言葉を切って耐え忍ぶ。ここで泣いて被害者ぶろうとする自分だけは絶対に許せなかった。許しを求めているわけではないのだ。


 櫻井彩が、萩原夕貴を傷つけてしまったのは揺らぐことのない事実であるのだから。


「それ、でも……わたしは」


 顔を上げて前を向いた少女の瞳には、何人にも侵せない強い決意が映し出されていた。


 目は口ほどに物を言うと──その言葉を遺した者は、かつてこんな美しい瞳と向き合ったことがあるに違いない。


 彩は選んだのだ。夕貴のいない平凡な日常よりも、夕貴のいる血に濡れた過去を。


 きっと全てを忘れていたほうが幸せになれただろう。いつの日か、どこかで巡り合った人と結婚して、子を産み、その成長を見守りながら穏やかに老いていく。そんな優しい日々があったかもしれない。


 だが彩は思い出した。思い出すことを、自らの意志で願った。


 母親を喪った原因。悪魔に侵されて殺人に手を染めるしかなかった親友。憎悪と友情の狭間で、しかしどちらも選べず、贖いを求める親友に手を差し伸べることもできなかった弱い自分。奇跡的にもう一度だけ出逢えたのに、ちゃんと想いを告げられず、また目の前で果てていった桜の名を持つ少女。


 彩は、夕貴を死の寸前まで追いやった自らの両手を見つめた。そして迷いを振り切るように拳を握りしめた。


「まただれかを傷つけるかもしれない。また大切な人を喪ってしまうかもしれない。でも諦めて、我慢して、そうやって何もできない自分はもう嫌なんです」


 悩む季節は終わった。どんな苦難が待ち受けようとも、いつか罪科を問われたとしても、彩には譲れないものができた。


 すぐには難しいだろう。いままでの生き方を変えることはできない。しかし、それでいいのかもしれない。ある意味、みんなの求める『櫻井彩』もまた彼女の一部なのだ。


 どっちが本物でどっちが偽物とか考えるからややこしくなると、そんな子供みたいで、しかし素敵な理屈をだれかに教えてもらったことがあったから。


 否定するばかりではなく、認めて受け入れてあげよう。お母さんのために頑張ってきたもう一人のわたしを。


 ただほんのちょっとだけ、自分に素直になるだけでいい。


「夕貴くんには、ほんとうのわたしをもっと見てほしいから」


 少女はありのままの自分でいることを選ぶという。それが幸福な日常とはかけ離れた非日常だと知りながら。


 ナベリウスは黙って聞いていた。静かな眼差しで、全てを受け入れた。


「説法をするつもりはないけどね。あなたに罪はないし、罰も必要ないとわたしは思ってるから。ただ、もしあなたがそれを欲するなら、この世界で生きてみるといい。だれよりも長く、だれよりも笑い、そしてだれよりも幸せに。生きるのではなく、生きていくということ。それはとても難しいものよ」


 一思いに死ぬよりもね、と銀色の悪魔は付け足した。


「そして決して忘れないで。その確かな決意は、あなたが人であるということの何よりの証なのだから」


 目元を拭って彩は頷いた。その雨上がりに咲いた花のような微笑みに、ナベリウスは懐かしい面影を見た。


「……彩、だったかな。あなた、似てるわ」

「え? なんですか?」

「ううん、なんでもない」


 そうこうしているうちに夕貴が戻ってきた。


「よーし、わかったぞ。いいかナベリウス。確かに彩には事情があるかもしれないけどな。でもここは俺の家なんだ。俺が決めたことが絶対なんだ……って、おまえなに彩を泣かせてるんだよ!」

「わたしと夕貴の熱い夜の話をしてたらつい、ね」

「ついじゃねえよ! しかもそんなのなかっただろうが! 勝手に捏造すんな!」

「……そういえば夕貴くん、裸で添い寝されたとか言ってた」


 彩がそっぽを向く。そういえば、と夕貴は舌打ちした。ナベリウスと出逢ってからの出来事をアホみたいに正直に話したバカがいた。


「待て。言っとくが俺は被害者なんだぞ? 目が覚めたときにいきなりこんな女がとなりにいるのを想像してみろ。どう考えてもやばいどころの話じゃなくて普通に恐怖体験だろ」


 ナベリウスが頬杖をつきながら言う。


「そうなんだ。そのわりにはおっぱい揉まれたけど。いっぱい」

「……やっぱり大きいのがいいんだ」


 いたずらっぽく笑う悪魔と、自分の胸とナベリウスのそれを見比べて哀しい面持ちになる少女。そんな彩の顔を見るのが忍びなくて、夕貴はつい自分でも意味不明なことを口走っていた。


「違う! 彩もじゅうぶん大きい! 魅力的だと思う! じつは俺、気付かれないように見まくってるし! ナベリウスがおかしいだけだ! ってなんだこの言い訳は!?」


 夕貴はいつものように間違える。


「ふーん。見まくってたんだ。あんなこと言われてるけど?」

「あ、大丈夫です。気付いてましたから」

「たぶん本人はバレてないと思ってるんでしょうね。わたしも一緒に家にいるとき、いつも視線感じるし」

「おーい、死にたくなるから俺のいないところで話してくれー」


 夕貴は考えることをやめる。現実から目を逸らす。窓の外を見て、空は青いなあ、と当たり前のことを思った。


 結局のところ、諸々の事情により櫻井彩が居候するかどうかという話は少しだけ事情を変えた。より現実的な方向で固まったと言い換えてもいい。


「おまえ、実は正気を失ってるのか?」

「失礼ね。どこを間違ったらそんな風に見えるのよ」

「じゃあどこを間違ったらそんな考えになるんだ? 自分がなに言ってるかわかってんのか?」


 当たり前でしょう、とナベリウスは臆面もなく頷く。


「週末はなるべくこの家に泊まるようにすること。まあ週末じゃなくてもいいけど、とにかく週に二日ぐらいはわたしの目で様子を見させてほしい。これが最低限の条件。わかった?」

「わかってない。わかってたまるか。そんなのほとんど……」


 半同棲みたいなもんじゃないか、と夕貴は思った。倫理の問題である。もっと言えば男の問題である。彩みたいな子がそばにいて我慢が続けられる男がいたら、それはもう仙人の領域だろう。すでにナベリウスのせいで限界突破しているというのに。


「まだ部屋は余ってるしね。客間って言ってもほとんど何もないからっぽの部屋だけど、それでも大丈夫でしょう? ねえ、彩?」

「えっ? えっ、あっ、いえ……」


 唐突に話を振られた彩は、ナベリウスと夕貴を交互に見ながら言葉に詰まっていた。


「おまえが決めるな! それに彩の都合を考えろよ! そんなの嫌がるに決まってるだろうが!」

「じゃあ夕貴はこの子がどうなってもいいの? 責任持てるの?」

「だ、だから、それとこれとは……」

「大丈夫。わたしとあなたが一緒にいてあげれば絶対に問題ないから。そっちのほうが面白そう……じゃなくて、安心だから」

「漏れたな? いま本心だだ漏れだったな、おまえ?」

「まあ見られながらするのもスリルがあって気持ちいいと思うしね。あっ……」

「見られなくてもまだしたことねえだろうが!」

「まだ?」

「あっ……」


 険悪に見えて、その実は仲睦まじく口論する悪魔と少年を見ていた彩が、一つの決意を胸に懐いて拳を握りしめた。


「……です」


 ここにきて何らかの主張を思わせる固い声音に、萩原家の二人は振り向いた。注目されると、彩の顔がどんどん赤くなっていく。


 彩は目を瞑って、震える声で答えた。


「だ、大丈夫です」


 夕貴は笑って、ナベリウスは頷いた。


「ほらみろ。別に大丈夫だって言ってるぞ。やっぱり嫌がってるじゃねえか。自由奔放に振る舞うのもいい加減にしとけよ、ナベリウス」

「あなたこそどこまで現実逃避し続けるのよ」


 やれやれ、とナベリウスは大げさに肩をすくめた。夕貴は一縷の望みを抱いて、彩を見つめた。


 彩はもう一度だけ言った。


「大丈夫です。わたしの家、そのへんはうるさくないから。ううん、もしうるさくても何とかする。それにわたしの家より、ここからのほうが大学もずっと近いし。だから、こんなわたしでよかったら……」


 愛の告白さながらの面持ちだった。


「なるべく夕貴くんのそばに、いさせてほしい、です……」


 いじらしく健気な姿は、普通の男ならそれだけで恋に落ちるだろう。


「……念のため聞いておきたいんだが」


 なんとなく聞いてはいけない空気のような気もしていたが、夕貴は問いかけた。


「これって、家に泊まるかどうかの話、だよな……?」


 恥ずかしさのあまり彩の頬は紅潮して、黒い瞳は潤んでいた。彼女は首を縦か横か、いまいち判然としない動きで振った。


 ほとんど思考停止していた夕貴の頭は、これまでの状況を鑑みて、まとめるなら彩の今後を思うなら宿泊を認めたほうがよくて、ひとまず櫻井家としては娘が頻繁に遊びに出掛けるのも問題なくて、とりあえず彩も嫌がってはなさそうだから、仕方なく悪魔の提案を飲むしかないかという結論にのみ達した。


「……わかった。じゃあ」

「俺のそばにいろ、っていうのはけっこう寒いからやめてよね」

「バカ! だれがそんなこと言うか!」


 また言い争いを始める二人を横目に、彩はだれにも聞こえない小さな声で呟く。


「……言ったくせに」


 どことなく拗ねたような、いじけたような顔で。


「俺がそばにいるからって。もう忘れちゃったんだ。なんでこんな人を、わたし……」


 ぼやきながらも、気付かれないように夕貴を見つめる瞳は、これまでにない淡い輝きに彩られていた。






 夕貴の部屋にノックの音が訪れたのは、彼が風呂から上がってしばらくしてからだった。


「夕貴くん、ちょっといいかな?」


 自分が生まれて過ごしてきた家で、こんな夜も遅い時間帯に聞くはずもないと思っていた声。もう納得せざるを得ない状況になっているのに、夕貴はいまでも信じられなくて応えるのに少し時間がかかった。


「お邪魔、します」


 彩が遠慮がちに入ってくる。夕貴と同じくシャワーを浴びたあとで、まだ髪が薄っすらと濡れており、いつもはストレートに下ろしている黒髪をポニーテールに結い上げていた。ラフなパジャマを着ていて、いつもより胸元の膨らみが妙に大きく目立って見えた。


 もちろん彩が無駄に強調しているわけではなく、自分の部屋に同級生の女の子がいると意識してしまった夕貴の男の部分が出てしまっただけである。


 今夜、萩原家には彩が泊まりに来ていた。やっぱりどうかしているとしか思えない。


「ここが、夕貴くんの育った部屋なんだね」


 後ろ手を組みながら、感慨深そうに彩が言った。きょろきょろとあたりを見渡すたびに彼女のシャンプーの香りがして、そっと空気を吸うだけでも夕貴の理性は揺らいだ。ただ彩が入ってきただけだというのに、気のせいではなく明らかに部屋の空気が甘くなっている。


 部屋のなかをゆっくりと歩き回る彩を、夕貴はベッドに座ったまま、照れ隠しも込めて不愛想な態度で遇した。


「別に大したものはないだろ。あんまり恥ずかしいから見るなって」

「そんなことないよ。夕貴くんの部屋だよ? こんなの他の女の子に知られたら、わたしいじめられちゃうよ」


 それは夕貴の台詞だった。恋愛事には疎い彼でも、彩に好意を寄せている男が何人もいるのは短い大学生活のなかで理解している。凄まじい紆余曲折を経たとはいえ、その櫻井彩とこんな状況に陥っていると知られれば、夕貴の人生に支障が出かねない。


 真面目な話、それぐらい彩はモテる。


 風のうわさという名の響子からの情報によると、どんな経緯があったのかは知らないが、大学のミスコンに参加しないかと開催側のほうからスカウトらしきものまであったという。


 ちなみに彩は、そういう類の情報を夕貴に言ってこないどころか、むしろ恥ずかしがって隠そうとするタイプなので、なんとなく真偽が怖くて本人には確かめていない。


「それで、なんかあったのか?」

「えっ?」

「俺に用があったんだろ。もう夜も遅いのに。別に明日でもよかったんじゃないか?」

「あー、いや、まあ、うん。なんかあったような、なかったような」

「なんだよそれ。まあいいや。とりあえず座ったら?」

「う、うん」


 彩は座った。ベッドに。夕貴のすぐとなりに。え、そこ? と夕貴は思った。しかも肘を張れば当たるぐらいの近い距離だった。


 二人並んで座ったまま、しばらく無言だった。夕貴は後ろ手をついて天井を見上げていた。彩は面接を受ける学生のように膝と両手を揃えていたが、顔だけは気恥ずかしそうに下を向いていた。


「あぁ、えっと、な」


 なぜだろう。うまく話題が出てこない。いままでなら自然と言葉が浮かんできたはずなのに。しかしまったく嫌な空気ではないのが不思議だった。


「そ、そういえば、それ似合ってるよな」


 彩が首を傾げる。それに合わせて揺れた黒髪の房に、夕貴は視線を向ける。


「ほら、ポニーテールだよ。そんな髪型するの初めて見たから」

「あぁこれ? そんな上等なものじゃないよ。寝る前とか、家事するときとか、たまに邪魔で縛ったりするだけだから」


 いま思い出したように彩ははにかんで毛先を指で弄った。確かにそれはよく見ると髪型と呼べるほど整えられておらず、後頭部の高い位置でぞんざいにまとめあげられただけのものだった。しかし、だからこそ生々しい生活感があって、下手なお洒落をされるより逆に男心を刺激するという不思議な現象が起こっていた。


 ぽつぽつとした会話が続く。ときおり沈黙が訪れて、落ち着かない心地になるが苦痛ではなくて、背筋がむずむずするというか、うまく形容できない感覚だった。


 雑談していた時間は五分か、十分か。さすがにそれだけ一緒にいると、この雰囲気にも慣れてきた。いや、正確には慣れたのではなく、実感したのだ。


 また彩とこうして時間を過ごせるのだと。彼女の笑顔を失わずに済んだのだと。


「……いろいろ、あったな」


 短い言葉に万感の想いを込める。彩も複雑そうな顔で、けれどしっかりと頷いた。


「そう、だね」


 目を瞑る。こんなに静かに二人でいられることが信じられなかった。もう名を呼びあうことも、笑いあうこともないと思っていたから。


「あの、ね。あのこと、なんだけど」

「どれだよ? 弁当か?」

「それっ、もある、けど……」

「ほんとに美味かったよ。まあ響子には死ぬほど茶化されたけどな。やっぱり彩って普段から料理してるのか?」

「あ、うん。昔からお母さんのお手伝いしてたし、いまはおうちでわたしがお料理を……じゃなくてっ!」


 まったく要領を得ない。彩の頬がうっすらと紅潮していく。


「ええと、あの、だから」

「どうした? やっぱりなんかあったのか?」

「その、えっと」

「彩?」

「……うぅ」


 彩の顔がどんどん赤くなっていく。それから彼女は意を決すると口火を切った。


「わがまま。なんでも一つだけわがまま聞いてくれるって、夕貴くん言ったよね?」


 夕貴の頭が嫌な感じに凍る。覚えていないわけではなくて、よく覚えているからこそ、非常事態という名の勢いに任せて彩に色んなことを言ってしまった自分がちょっと恥ずかしくなってきた。


 しかし、後悔はなかった。いままで口にしてきた言葉に嘘はないし、こうして彩が戻ってきてくれたことは素直に嬉しい。


「あ、ああ。そうだな。そういえばそんなこと言ってたよな、俺」


 彩は耳まで赤くして、俯いてもじもじと膝をすり合わせる。


 はっきり言おう。夕貴はそこそこ頭がいい。鈍感でもないつもりだ。彩が自分を嫌っているわけではないということは理解しているし、こういう展開のときに何が起こるかを事前に予測するだけの知恵もある。


 自惚れだと笑われるかもしれないが、これはあれだな?


 下手したら夕貴くんが欲しいとか言われるパターンか?


 ナベリウスのせいでじゃっかん倫理観がおかしくなっていた夕貴は、そこまでぶっ飛んだ思考を平然とこなせるようになっていた。


「あー、それで」


 なにがいいんだ、と夕貴は目で訴えかける。まだ彩は迷っている様子だったが、訥々と口を開いた。


「……あ、あたま」

「え?」


 そのたった三文字の意味がわからない。


「だ、だからね、あたま」


 アタマ? 頭? どういうこと? と夕貴の混乱は深まる。まったく理解できていない夕貴に業を煮やした彩は、拳を握り、目をつむって、ぐいっと頭を差し出した。ふんわりとした匂いが鼻孔を掠める。


「頭! 撫でてほしいのっ!」

「……ああ、なるほど。頭」


 意味はわかったが、やや拍子抜けした感も否めず、夕貴は生返事しかできなかった。それを迂遠な拒否の態度と受け取ったのか、彩は慌てて弁解を始める。


「だって夕貴くん、なんでもって言ったよ!? なんでもわがまま聞いてくれるって、確かにそう言った! 覚えてるもん!」

「いやまあ確かにそう言ったし、頭を撫でるのもぜんぜん問題ないんだけど」

「ほんと?」


 やったっ、と小声で呟き、心底嬉しそうに瞳を輝かせる。普段の清楚な彩からは想像もつかない子供のように無邪気な顔。


「じゃあじゃあっ、はいっ」


 姿勢を正した彩は、夕貴に向けて頭を倒す。その美しい黒髪に手を置いて、労わるようにそっと撫でてみる。果たしてこの行為にどんな意味があるというのだ。


「……ふふっ、あはは」


 彩はくすぐったそうに小さく笑う。


「んー」

 

 そして、すぐに喉を撫でられた猫みたいに大人しくなって、気持ちよさそうに目を細める。とてもリラックスしている様子だけはなんとなくわかるが、逆に言えばそれしか理解できない。


 一分ほど続けてから、頃合いを見計らって声をかける。


「……彩? そろそろいいか?」

「えー?」


 彩は不満そうに唇を尖らせて、上目遣いで夕貴を見ると、視線だけをぷいっと逸らした。


「やだ、もうちょっと」

「わかったけど、じゃあいつまで……」

「もうちょっと!」

「……はい」


 深遠である。まったく意味がわからない。もっと撫でろという意思表示なのか、頭がでろりと垂れ下がって夕貴の肩に乗った。彩が身体を寄せて、体重まで預けてくる。支えきれなかったわけではないが、バランスを取るために反射的に彩の肩に手を回してしまった。


 細くて柔らかな感触。一瞬、びくっと彩の身体が震えたが、すぐに力を抜いてさらに夕貴に身を任せてくる。


 よく見ると、パジャマの胸元から豊満な谷間が覗いていた。彩の場合、ただ胸が大きいだけではなくて、なんというか全体的な形がよく、服越しでもうっすらと主張してくる。線の細い涼やかな鎖骨のあたりには一粒の小さなほくろがあった。


 その匂い立つような女の色香に頭がくらくらして、夕貴は弾かれたように視線を逸らした。


 彩はまだ満足していないらしく、ちょっとでも夕貴が頭から手を離そうとする素振りを見せれば、むっと睨んでくる。だが可愛らしいだけで迫力はまったくなかった。夕貴が続行すれば、その途端、とろんと目が落ちて、餌付けされた挙句にマタタビをプレゼントされた猫みたいになる。


 何度も駄々を捏ねられたせいで、夕貴は五分近くも彩の頭を撫でることになった。さすがの彩も満ち足りた様子で、乱れた髪を直そうともせずに熱っぽい吐息を漏らしていた。


「……まあ、こんな感じでよかったのか?」


 問いかけると、彩はいまさら我に返ったようにほんのりと頬を染めて、それでも表面上はいつも通りの顔で頷いた。


「うん。ありがと。わたしのわがまま、ちゃんと聞いてくれて」

「わがままって言われてもな……」


 どんなことでもしてやるとは言い切れないが、もうちょっと無理を頼まれても何とかしてみせるつもりだった夕貴としては肩透かしである。


 年頃の女の子のわがままと言えば、一日かけて遊びに行くとか、高価なアクセサリーや洋服が欲しいとか、評判のディナーを予約するとかそんなものだと夕貴は思う。

 

「普通、こんなのわがままにも入らないけどな」

「えっ?」


 独り言のつもりだったが、彩の瞳が大きく見開かれる。きらきらと光り出す。


「じゃ、じゃあね? もう一個だけわがまま、言ってもいい?」

「まあ俺にできることなら。ただなるべく普通のやつにしてくれよ」


 こんなの忠告するまでもない。ついさっきの基準を鑑みれば、せいぜい『わたしを抱きしめて』とか言われるかもしれないが、裏を返せばそれぐらいが限度だろう。


「大丈夫。これ、夕貴くんにもすぐできるから」

「へえ、なんだよ?」

「あのね、その……」

「もう遠慮しなくていいからな」

「わたしにキスマークつけてほしいの」

「おまえはいったい何を言っているんだ?」


 とても冷静に夕貴は返した。せめてキスなら一万歩ぐらい譲って理解できたが、キスマークの意味がわからない。


「あっ」


 わがままを断られたはずなのに彩は笑った。


「言ってくれた」

「なにが?」

「おまえって」


 むしろ嫌がられそうなものだ。今回は反射的に出ただけで日頃から彩のことをそう呼んでいるわけではない。


「わたしね、夕貴くんにおまえって言われるの好き」

「……どういう心理?」


 彩は何も答えずに表情を綻ばせている。


 もしかして夕貴にそう言わせたいがためにキスマークだなんて突飛なことをお願いしたのか。それならまだ合点がいく。


「……それで、だめかな」

「いってなかったー」


 話はまだ続くらしい。どんな対応をするのが正解なのか。じつは夕貴のことを密かに試していて、それじゃあと乗り気になった途端に見損なわれたりするのだろうか。そのほうが可能性としては高い気がする。


「……そっか。だめだよね」


 彩がしゅんと肩を落とす。


「ごめんなさい。わがまま言っちゃって」

「え? これマジなやつ? え?」

「……ううん、いいの。なんでもないから。わたし、ちゃんと諦めるから。我慢するから。そういうの得意だから」

「いやいや待て待て、なんだこの新たなトラウマを刻みそうな空気は」


 さっきまでの頭を撫でられて喜んでいた彩との対比が凄まじすぎて、落ち込んでいる姿が痛ましいほどに哀しく映る。


「べつにだめとは言ってないだろ。ていうかそういう問題じゃないだろ。どこから出てきたんだよ、そのキスマークは」

「あっ、もし嫌だったら、わたしがつけるほうでもいいんだけど」

「よくねえよ! 何いいこと思いついたみたいに言ってんだよ!」

「だって……」


 彩が唇を尖らせる。


「ナベリウスさん言ってたもん。夕貴くんにキスマークつけられたって。自分もつけたって。そう言ってたもん」

「はいあいつ終わらせるー」


 あることないこと吹聴しやがって。もちろん夕貴は記憶にあるかぎりそんなことしていないし、されてもいない。


 しかし、彩にとってそれは口実の一つに過ぎなかったらしく、この話を終わらせないためにも矢継ぎ早に言葉を繰り出してくる。


「それにね。わたし、けっこう困ってることがあって」

「な、なんだよ?」

「……あんまり言いたくないんだけど、その、男の子から」


 大学に入ってからも彩に声をかけたり、連絡先を聞こうとする男子は後を絶たない。その都度、断ってはいるものの、なかには熱心だったり強引だったりする輩もいて、わりと真面目に悩みの種になっているらしい。


 だれかが仲裁に入ればいいかもしれないが、そのだれかが常にそばにいるわけではない。夕貴、響子、託哉は同じ学部だが、彩だけ違っていて、大学生活では昼食のときぐらいしか顔を合わせないし、それだって事前に予定を決めておく必要がある。


 そこまで考えてみて夕貴は思った。


 だからキスマークを──なるほど、やっぱり無理があるな。


「そういうのがあれば、あんまり声をかけられなくて済むんじゃないかなって。少女漫画とかでもそうやって男の子がヒロインから興味をなくすようなシーン見たことあるから」

「それ基準にするのおかしくないか? あくまで漫画だぞ?」

「もちろん夕貴くんには迷惑かけないようにする。わたし、肌が白いほうだし、それにけっこう弱いから、一回つけてもらえばしばらく消えないと思うの」

「それはそれで問題だろ……」

「あと、正直に言うと、そういうのにちょっと憧れてたりもして」


 周囲の人間を誤魔化せても、間違いなく響子あたりに死ぬほどからかわれる未来は目に見えている。


「……わかってないようだから言っとくけど、キスマークみたいなのつけてたら彩が誤解されるかもしれないんだぞ。そういう女の子なんだって思われたらどうするんだ」


 大人しい清楚な女の子として扱われている櫻井彩が、彼氏どころか浮いた話の一つもない彼女が、そんな痕をつけて登校してきたらちょっとした騒ぎになるに決まっている。


「え?」


 彩は首を傾げる。


「わたし、元々そういう女の子だよ? えっちなことに興味がないとでも思った?」


 そうして彩は嫣然と微笑む。夕貴が固唾を飲んで静止していると、打って変わって不安そうに瞳が揺れる。


「……だめ?」


 夕貴は臆病な男だった。甘いと換言してもいいかもしれない。そんなふうに何気なく表情を曇らせる彩でさえ見たくないと思ってしまうのだから。


「べつに、だめじゃないけど……」


 ある意味、ナベリウスと出逢った始まりの朝をも超えるぐらい現実感がない。あの女は幻想めいた容姿をしているせいで一周回って逆に信じざるを得なかったが、大学の同級生と一つ屋根の下でこんな状況になっているのは夢としか思えない。


 だが触れる体温が、決して嘘ではないと告げてくる。


 ベッドから立ち上がった彩は、夕貴の膝のうえに対面で跨った。甘い吐息がかすめる距離。彩の頬は赤くて、それ以上に身体は熱くなっていた。夕貴も似たような感じになっているかもしれない。


 パジャマの第一ボタンを外して、少しだけ襟首を開かせると、彩はそっと首筋を差し出した。白い肌にはわずかに血管が透けて見えて、うっすらと浮かんだ汗が艶めかしい。


 この期に及んでも「え、これガチ? ほんとにするの?」と頭の中で声がしている。


 でも戸惑う頭とは対照的に、身体のほうは雰囲気に流されて勝手に動く。彩の腰に手を回した。しっかりとくびれていて、肌の下にはしなやかな筋肉の感触があった。


 なにより膝の上に乗った尻の柔らかさにびっくりする。たっぷりと実った双臀は、思わず感嘆のため息が出そうになるほどだった。


 そういえばさっき彩が部屋のなかの本棚に注目して前のめりになったときも、後ろから見ると大きなヒップが強調されていたことを思い出す。そこから太もも、ふくらはぎ、足首と少しずつ細くなっていく女性らしい体つきを見て、夕貴は実感したものだ。


 なるほどこれが安産型か、と。


「いま失礼なこと考えてなかった?」

「いやぜんぜん、これっぽっちも、まったく」

「じゃあいいけど」


 どこか納得していなさそうに言って、彩は夕貴の両肩に手を置いた。黒曜石を思わせる澄んだ瞳が、言葉ではなく視線で夕貴を促している。


 間近で見ると肌の滑らかさがよくわかる。こんなきれいなところに俺の口なんかつけていいのか、と思いながら眺めていると、目の前でごくりと白い喉が動いて生唾を飲み込んだのが見えた。彩も緊張しているらしい。


 その日常では何でもないはずの所作が、この上なく煽情的に見えてしまって、夕貴は心臓の鼓動が速くなるのを自覚した。


 しばらくして覚悟を決めた夕貴は、そっと彩の首筋に唇をつけた。ボディーソープの甘さに混じって、ほのかに汗の味がした。


「ん……」


 彩は身体を震わせる。強く吸う。そのまましばらくの間、彩は目をつむって耐えていた。唇を噛みしめて、声を漏らさないようにして刺激に耐えている。


 ちなみに夕貴はこの謎の状況にずっと脳内で疑問符が飛び交っていた。そうしていなければ色々と限界が訪れそうだった。


 唇を離すと、ほのかに唾液が糸を引く。彩の白い首筋にはくっきりと赤い痕ができていた。それを確かめるように、彩はまだ濡れた箇所を手で撫でる。


「ちゃんとついてるかな?」

「はい」

「よかった。ごめんね、変なことお願いしちゃって」

「どういたしまして」

「なんで敬語なの?」

「なんでだと思う? ちなみに俺にはわからない」


 とにかく彩が満足そうなのでそれでいいかと思うことにした。肺に溜まっていた空気を吐き出すと、それは思っていた以上に熱っぽくなっていた。


「……彩?」


 もう終わったはずなのに、いつまで経っても彩は夕貴のうえから退こうとしない。夕貴よりも少しだけ高い目線から見下ろす瞳は、ついさっきまでの怪しすぎる一連の流れとは異なり、真剣な光を灯している。


「一つだけ、夕貴くんに聞いておきたいことがあるの」


 夕貴は無言で続きを促した。しばし口ごもったあと、彩は言う。


「ナベリウスさんのこと、どう思ってるの?」

「へ?」


 予想していなかった一言に夕貴の思考が停止した。ぽかんと口を開ける彼を、しかし彩は真面目に見つめる。


「だから、ナベリウスさんのこと。どう思ってるのかなって」

「どうもこうもないだろ。あいつは悪魔なんだぞ。いや、むしろ悪魔より悪魔みたいな女なんだよ。あいつのせいで俺がどんな目に遭ったか知らないだろ」

「知らないよ。だからこそ知りたい。知っておきたいの」

「……いいか? あいつはな」


 どれほどの苦難を味わってきたか、夕貴は彩に語り聞かせる。同情を禁じえないはずの体験談。それなのに彩は、寂しそうに笑った。


「夕貴くん、やっぱり楽しそうだね」

「は?」

「羨ましいな。なんか、羨ましい」

「ちょっと待て。何をどう間違えたらそうなるんだ。明らかに俺はいま呪いを紡いでただろ」

「気付いてないかもしれないけど、夕貴くん、さっきからずっと笑いながら話してるよ」


 ありえない。夕貴は思わず自分の顔を触ってしまった。でも確かに頬は緩んでいる気がした。きっとバカバカしすぎて笑うしかないのだろう。そうだ、あいつは悪魔なのだ。ずっとそばにいるとか言い出したのも、ただの悪魔としての使命とか、父さんとの約束とか、そういう類のものなのだ。


 抱きしめられたことも、そのぬくもりにどうしようもなく安心を覚えてしまったことも、きっと一時の感情の迷いなのだ。


「あのね、わたしってこう見えても、けっこう女の子なんだ。でもそれはいい意味じゃない。きっと悪い意味でね」


 彩は自虐するように笑った。


「わたしにはわたしなりの夢があるつもり。初めて好きになった人と、初めて付き合って、初めて結婚して、初めて子供を産んで、そして、ずっとその人だけを想って、その人のことしか知らないで生きていきたいって思ってる。初恋の人と、一生を添い遂げられたらなって、そんな子供みたいなこと考えてる」


 瞳を閉じて少女は夢を語る。


「でもこんなわたしのことを選んでくれるなら、他の女の人のことはもう考えてほしくないかなって、そんな嫉妬深いところもあったりするの」


 彩は目を開けた。


「夕貴くんは、ナベリウスさんのことどう思ってるの?」


 もう一度、彩は繰り返した。夕貴はナベリウスのことを真剣に考えた。きれいで、自由奔放で、心が折れそうなときにはいつだってそばにいてくれて、わがままなくせに優しくて、何も言わないでも夕貴のことを理解してくれていて。


 もしナベリウスがいなくなったら、と考えてみると、わけもなく心にぽっかりと穴が空くような気がした。理由はわからない。なんとなくいつの間にかナベリウスが一緒にいてくれることが当たり前みたいに思っている自分がいた。


 きっと悪魔の魔術とか暗示っぽいやつを勝手に使われているのだろう。夕貴はそう考えることにした。


「やっぱり、やだな」


 彩の声がした。


「難しいね、人の心って。でもそれがいまはちょっと楽しいって思える。いっぱい努力して、もっと可愛くなって、みんなの特別じゃなくてだれかの特別になりたいってそう思える」

 

 知らなかったな、と彩は呟いた。


「諦めて、我慢して──その必要がないだけで、こんなにも人生がわくわくするなんて」


 屈託のない顔でそう告げる彩は、いままでの彼女より数段幼く見えて、だからこそ眩しかった。


 ここで一度、夕貴は自分の心を確かめてみることにした。


 彩のことは好きだ。人間としても女性としても。付き合ってほしいと言われれば頷くだろう。でもそれが唯一の愛と呼べるほど確固たるものかと聞かれれば断言はできない。


 ありえない可能性ではあるが、もしナベリウスに同じことを望まれたとしても、夕貴は死ぬほど悩んだり疑ったり迷ったりした上で、やはり頷いてしまうような気もする。


 そもそも好きとはなんだろう。愛とはなんだろう。


 命を賭けても守りたいと思えるのならその時点で愛なのか。しかし夕貴は、彩のときがそうだったように、たとえばナベリウスが危機に陥っていたとしても身を挺するだろう。


 極端な話だが、ほかの女性を見てもまったく性欲が湧かないようであれば、その人を愛していると胸を張って言えるのだろうか。ただ言い訳ではないが、実際に行動に移すかどうかは別として、欲情さえも抑えるというのは健全な男子にとって困難だと思う。


 だったら何が基準となるのか。考えれば考えるほどわからなくなりそうである。


 そのとき、ふと一つの疑問が浮かんだ。


 本物の《悪魔》だった父さんは、人間である母さんのどこを好きになり、愛して、俺という命を育んだのだろう?


「ごめんね。夕貴くんを悩ませるつもりはなかったんだけど」


 ぐるぐると当てもなく回る夕貴の思考を、彩の声が遮る。


「これはただ、わたしのわがままみたいなものだから」


 櫻井彩の望みは単純なものだった。


 いい加減な気持ちで返事をしてほしくない。その場の空気とか、雰囲気に流されたとか、そんな曖昧なものではなくて、確かな夕貴の心が欲しい。


 それが全てだった。


「わたしね、頑張りたい。ほんとうのわたしをもっと知ってほしいと思う。好きな人にはちゃんと見せたいって、いまなら心の底から思える。そして愛してもらいたいし、せいいっぱい愛したい」


 夕貴の目をまっすぐに見て、彩は微笑んだ。


「だからね。それまで夕貴くんには──夕貴くんにだけは、わたしの好きな人を教えてあげない」


 片目をつむって、いたずらげに言うその仕草。


 そこに夕貴の知らないはずの少女の面影が重なって見えた気がして、なぜか彼はそれ以上の追及ができなかった。


 やがて二人は離れる。時計を見ればもうすぐ日付が変わるころだった。その間、彩は鏡で自分の首筋を確認して「うわぁ……」とおもいのほか強く刻まれてしまったキスマークに顔を赤くしている。


「そんなわがままはもうさすがにちょっと勘弁してほしいけどな……」

「わ、わかってるよ……」


 自分がとんでもないことをお願いしていたのにいまさら気付いたのか、彩は目を合わせようともしない。


 そして夕貴はやっぱりバカなので口を滑らせる。


「まあそれ以外でよかったら、俺が暇なときかつ実現可能な範囲ならなんでも聞いてやるよ」

「……なんでも?」

「ああ。ナベリウスにしても響子にしても、人のわがままを聞くことなんてもう慣れて……」

「じゃ、じゃあね」


 夕貴の声なんて聞こえていないらしい。彩は軽く息を吸って、呼吸を整えている。


「今日だけ、今日だけでいいから」


 そうやって何度も前置きしてから、彩は告げる。


「夕貴くんと、一緒に寝てもいい?」

「…………」

「ち、違うの! だって夕貴くんが暇なときかつ実現可能な範囲でって言ったから!」

「…………」

「ずっと一人で寝てたんだよ!? これまで一人で! お母さんが再婚しちゃってから部屋も別々になって、たまに咲良ちゃんが泊まりにきたときぐらいしかだれかと一緒に寝ることなんてなかったんだもん!」


 その言い方はちょっとずるいと思う。


 でも夕貴を説き伏せようと──いや、そんな立派なものではなくて、必死に駄々を捏ねる姿を見ていると、なんだかもう仕方ないなって思えてきてしまう。より正確には反駁するだけ時間の無駄だと悟る。


「……わかったよ。今日だけだぞ。ていうか男と女、これ逆じゃないか?」

「ほんとっ? やった!」


 まったく聞いていない。彩は嬉々として表情を綻ばせている。さっそく何かもう髪を解いて寝る準備に取り掛かっている。


 夕貴は呆れている素振りを見せながら、狂ったように早鐘を打つ心臓をどうにか抑えて、これまでの人生で見たホラー映画を片っ端から脳内で再生して煩悩を殺すという作業に取り掛かっていた。まだ会ったこともないおばあちゃんからお年玉をもらうという妄想もついでに浮かべていた。


 その日、二人は寄り添って眠った。彩は甘えるように身を寄せてくる。いままで足りていなかった感情を、そして失ってきた愛を取り戻そうとするかのように。


 もう一つの桜の名を持つ少女は、母の胎内で眠るように丸くなって、少年の腕のなかに身を預けた。




 ****




 一人で満開の桜を見る。


 わたしはそっと首筋に手を当てた。まだうっすらと残った痕は、赤みが引いてくると、なんだか桜の花びらのような色合いになっていた。普段は髪で隠れるからよく見ないとわからないけど、よく見てくれる人なら逆に気付くだろう。


 消えてほしくないなって、そう思った。


 しばらく桜を眺めていると、少し遅れて彼が現れる。ごめん遅くなって。まるでデートみたいな台詞を口にして。


「ううん、大丈夫。わたしもいま来たとこだから」


 ほんとうは一緒に帰るのが楽しみで仕方なくて、もうけっこう前からここにいたけど、それは内緒。


 二人で満開の桜を見る。


 わたしはそっと彼の手に触れた。


 びっくりして顔を赤くする姿が可愛い。男だから動じてはいけない、とでも思っているのだろうか。無理やり冷静でいようとする様子が微笑ましい。


 ぬくもりを確かめ合って、それでもやっぱり恥ずかしいって気持ちはあることがくすぐったくて。


 付き合ってもいないわたしたちが公然で手を繋ぐなんて、おかしいかなって思ったけど、そんな気分になったのだから仕方ない。ちょっと不器用で照れ屋な彼は、まわりの目を気にして強く握り返してはくれない。なんだかおかしくなってわたしは笑う。


 寄り添うぬくもりは温かく。冬の余韻を残した風に当てられて寂しくなった肌も、だれかがそばにいるだけでこんなにも気にならなかった。


 どうして人は寄り添おうとするのか。なぜ一人では生きていけないのか。傷つくだけなら、初めから友達も恋人も家族もいらないはずなのに。


 なんで神様は、人を孤独では生きていけないように作ったんだろう?


 ずっと昔からそんなことを考えていたけど、手をぎゅっと握りしめてみれば、その答えがわかるような気がした。


 いつまでもこんな幸せが続けばいいと思った。永遠がほしくて、時間が止まってくれればいいと願った。でもやっぱり風は冷たくて、ずっと桜を見ていることはできなかった。


 帰ろうか、と提案する彼の手を、わたしは一度だけ引いた。


 握りしめた手に力を込める。なんだよ、と目線だけで問いかけられる。その穏やかな表情を壊したくなくて、また困らせてしまうんじゃないかって怖くて。


「どうした?」

「ううん、なんでも」


 首を傾げる仕草すらも可愛く見えてしまう。うん、病気だ。彼にしか治せないから病院いっても意味ないけど。


「なんでもない、けどね。でも」


 視界が滲む。


 目の前に広がる景色は夢のように美しくて。


 それはいつかお母さんと二人で見た満開の桜とよく似ていたから。


 あのとき口にできなかった小さなわがままを、いまこそあなたに伝えよう。


 大丈夫。今度は、きっと届くから。


「もうちょっとだけ、こうしていたいな」


 今年の桜が、こんなにもきれいで、よかった。





 [壱の章【消えない想い】 了]



次回 弐の章【信じる者の幸福】

   プロローグ『高臥の少女』


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