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ハウリング  作者: ハイたん
壱の章【消えない想い】
19/20

1-17 『泣いたり、笑ったり』


 病院には入らなかった。中庭で足を止めて、規則正しく並んでいる病室を見上げる。白いカーテンのせいで何も見えない。


 少しぐらいはいいだろう、と夕貴はベンチに腰かけた。中庭では桜の花が咲いていた。天気が良くて白い陽光が眩しかった。散っていく桜の木々が、いずれ訪れる春の終わりを予感させていた。


「なにしてんのよ。あんた、こんなところで」


 ぼんやりと空を見上げる夕貴を揶揄したのは藤崎響子だった。夕貴のとなりに彼女は座る。


「なんで行ってあげないのよ。あの子のところに」

「元気だったか、彩は?」

「なんで自分の目で確かめないのよ。なんでそんなことあたしに訊くのよ」

「元気ならいいんだ」

「あんたも気になってるんでしょ? 会いたいんでしょ? だからさっきからずっと彩の病室を見上げてるんでしょ? あの子、もしかしたら待ってるかもしれないじゃん」

「待ってないかもしれないだろ」

「それ、は……!」


 響子は顔を赤くして怒鳴りかける。しかし、すぐに意気消沈して肩を落とした。


「ひどい。ありえない。こんなのおかしい。バカじゃないのほんと。どうして彩がこんな目に遭わなくちゃいけないのよ」

「そうだな」

「あの子ね、あたしに敬語使うんだよ。首を傾げるんだ。ごめんなさいって謝ってさ。まるで他人みたいに、初めて会ったみたいに」

「…………」

「友達になったじゃん。一緒に遊んだじゃん。あたしの名前は響子じゃん。そんな簡単なこと、なんで忘れちゃうのよ」


 櫻井彩は、確かに一命をとりとめた。しかし、その代償として、まるで悪い夢から解放されたかのように悪魔に関連していた間の記憶の一切を失っていた。


 彩が遠山咲良の幻影を街で見かけたのは、大学の入学式の数日前だった。つまり、そこから今日に至るまでの思い出がすっかりと抜け落ちていることになる。


 夕貴と過ごした日々も、その胸に抱いた淡い想いも、そのうちの一つだった。


 もう二度と、夕貴と彩がともに笑い合うことはない。なぜなら二人は出逢わなかった。言葉を交わさなかった。名前も知らなかった。デートもしなかったし邪悪な化物に追いかけられることもなかった。


 だから目の前でふたたび親友が死んだことも、彩が夕貴を殺そうとしてしまった事実も、何もかも初めから存在しなかった。


 そんなものはなくてよかった。


 彩を傷つけて泣かせてしまう可能性があるものを、夕貴は全て遠ざけて生きていくことに決めた。


 その中にほかでもない自分自身が含まれているとしても、夕貴は迷わなかった。


 夕貴を見ることで、彼と一緒にいることで何かのきっかけで記憶が戻ってしまうかもしれない。取り戻せるのが笑顔だけならいいが、咲良にまつわる哀しい出来事をわざわざ思い出さなくてもいいだろう。


 ただ夕貴は直感的に理解していた。もう彩の記憶が戻ることはないと。


 あの夜、彩を救ったのはどうやら夕貴の力であるらしい。悪魔を消し去った悪魔の力。どんな効力があったのかは知らない。ナベリウスに聞けば教えてくれるかもしれないが、夕貴には尋ねる勇気がなかった。


 自分がどれほど酷いことを彩にしてしまったのか、それを知るのが怖くてたまらなかった。


 繰り返すが、彩は悪魔にまつわる記憶を全て失っていた。それはすなわち、一年前の悲劇でさえ、都合のいいように改竄されてしまっているということを意味していた。おそらく彩の認識では、本物の通り魔に母親と親友を殺されてしまったと置き換わっているだろう。


 それが夕貴のたった一つの後悔だった。


 確かに彩はこの一年間、抱えてきた真実の重みに耐えかねて、心に大きな傷を負っていたかもしれない。この結末は、長い目で見れば彩の人生にとってプラスとなるだろう。


 でもそれは家族や親友のためを想って、ここまで必死に頑張ってきた彩の努力さえも全部なかったことにしてしまうのと変わらない。


 本人が望んだならともかく、夕貴の力が勝手に作用したことにより彩の思い出が書き換えられたのなら、それは忸怩たる結果だ。もしそうなら夕貴は、意図しないうちに櫻井彩という少女の根幹を弄んでしまったことになる。


 ただし、悪いことばかりではなかった。オドと呼ばれる化物が消え去るのと同時に、傷ついた彩の身体は時間が巻き戻るかのように完全に癒されていた。入院しているのは検査を兼ねた用心のためで、もう数日も経たないうちに退院できるだろう。戦闘の余波で荒れ果てた河川敷も元通りになっていた。


 そう、何もかも、なかったことに。


 もしかしたら悪魔を消し去るのではなく、夕貴が持つのはもっと別の力なのかもしれなかった。


 彩と最初で最後のデートをした日のことを思い出す。大雨のなか、動く死体に追いかけられた。それが車に撥ねられて衝突し、大きく曲がったガードレール。凍結していたビル。


 そんなマスコミが飛びつきそうな明らかな怪異は、しかしまったく報道されることはなかった。


 夕貴の知らない間に、どこかの闇組織みたいなものが証拠隠滅でもしていたのかとも妄想したが、あれも彼の力が働いた結果だったのだろう。


 得体の知れないものが蠢いているように感じた夜は、たんなる夕貴の勘違いだったということだ。


 自分のせいだったくせに、自分で怯えていたのだ。


 なんとも笑い話である。


 哀れなのは響子だ。彼女は何も知らない。公式的には、夕貴と彩が二人でいるときに通り魔殺人の被害に遭った死体を目撃してしまい、そのショックで短期的な記憶障害を起こしたということになっている。そんな彩を慮って、響子を含めた親しい友人たちは、定期的に見舞いに訪れているらしい。


 どちらにしろ、もう夕貴には関係のないことだ。


 夕貴は携帯を取り出してメールボックスを開いた。ここ最近を辿ってみると、いくつか同じ名前が表示されている。件名はどれも丁寧で控えめなものばかり。そのくせ内容はどれも楽しそうで女の子らしいものばかり。一見すると大人しいのに、話してみると居心地がいい。文字からでも彼女の人柄が伝わってくる。


 一つずつ、夕貴はメールを消していった。そんなに数はなかったから、ほんとうに一つずつ自分の手で消していきたかった。どんなささやかな内容の文章からでも思い出は蘇る。それはこの世でもっとも色褪せた走馬灯だった。


 最後に櫻井彩という連絡先をなかったことにすると、夕貴の携帯は春が始まったばかりの頃と同じになった。


「……あんた、それ」


 それなのに響子は見つけてしまう。夕貴の携帯につけられたキーホルダー。かつて少年がプレゼントして、少女が受け取って、そして少年が取り戻した唯一の思い出。


 あの夜、彩の携帯電話は戦いの影響でスクラップになっていた。その残骸の中で、壊れてくれてもよかったのに、壊れないで残っていたものがあったから。


「ああ、これか」


 夕貴は小さく笑った。


「知ってるか? これはな、『ヤーマン』っていってな。『諦めないぞぉ!』が口癖なんだよ。いま俺の中ではけっこう流行ってるんだ。かっこいいだろ」

「知ってるわよ。あたしがどれだけ自慢されたと思ってんのよ。どれだけのろけ話聞かされたと思ってんのよ」

「そうか。そんなひどいことする奴がいたんだな」

「大丈夫。家宝にする、なんて意味不明なこと言い出したから殴っといた」

「……それはよかった」


 夕貴は天を仰いだ。空が青かった。それなのに、いつもより色褪せて見えた。いま見上げている青色は、明日見ればまた違った青色になるのだろうか。それとも曖昧な人の心が違う色に見せているだけなのだろうか。


 そんな詩人みたいなことを考えている自分に夕貴は苦笑した。


 キーホルダーを握りしめる。安っぽい感触。このまま指先に力を込めるだけで壊れてしまいそうだ。こんなにも儚い飾り物なのに、どうしてこいつだけは残ってしまったのか。なぜ夕貴は拾ってしまったのか。


「……未練、だなぁ」


 考えるまでもない。夕貴はただ諦めきれなかっただけ。どんなかたちでもいいから彩と繋がっていたという思い出を残しておきたかったのだろう。


 いつも最後の最後まで諦めきれない。


 相変わらず女々しい野郎だ、俺は。


「まぁあんまり落ち込むなよ。おまえがそんな顔してたら今度は彩が心配するぞ」

「それは……」


 響子は僅かに唇を震わせただけで黙り込んだ。言葉を探して、それが見つからなくて、でも何かを伝えたくて、そんな表情だった。


 風が吹いて、桜が大きく舞い上がった。冬の余韻を残した空気は少し冷たい。身体だけでなく心まで冷えてしまう前に、夕貴は立ち上がった。


「じゃあな。俺はそろそろ帰るから」

「夕貴……」

「なんかあったら連絡してくれ。相談には乗る」

「待って!」


 歩き出そうとした夕貴の背に、響子は顔を埋めた。熱い涙が服を濡らした。


「やっぱさぁ、こんなのってないじゃん! あんた、ほんとにこれでいいの!?」

「俺がいたら、彩が嫌なことを思い出すかもしれないだろ。せっかく元気に退院できそうなのに」

「それを望んでるって、彩がそう言ったの!? あんたに会いたくないって、そう言ったわけ!? 違うよ、彩はきっとあんたに会いたがってる! いまでも待ってる! あんた一人で格好つけて悲劇のヒーロー気取ってるだけじゃない!」

「彩にはもうあの事件のことは忘れたままでいて欲しい。だから会わなくていいんだ」

「そうかもしれないけど、でも……!」


 なおも食い下がろうとする響子に、夕貴はひどいことを言う。


「響子は、あのときの彩を見てないからそんなことが言えるんだ。人の死体を間近で見て、彩がどんな顔をして、どんな状態で、こうして記憶まで無くすはめになったのか、おまえにはわかるのか?」


 大切な幼馴染に、ありもしない作り話を淡々と披露できる自分。なにが正しくて、なにが間違っているのか、それすらも判然としない。


「わかんない。わかりたくてもわからない。もしわかってあげられるんだったら、あたしだって……!」


 この活発な少女にしては珍しい、悲哀に掠れる声で少年の選択を糺す。


「でも彩はあんなにも、あんたのこと……!」

「一つだけ、頼みがある」


 響子の言葉を遮るようにして夕貴は言った。その不可解な頼みごとを、響子は釈然としないながらも引き受けてくれた。そんなことが起こるわけがないと、口にした夕貴自身が理解していた。それでも一人の男として、ささやかな願いだけは信じていたかったから。


 夕貴はポケットからハンカチを取り出すと、振り向かないまま渡した。そして歩き出す。響子も男に泣き顔なんて見られたくないだろう。夕貴としては、もう女の子の泣いている顔なんて見たくなかった。


「おまえも早く泣き止めよ。あいつは、もう泣き止んだんだから」


 手を振って、まだ背中に突き刺さる視線を無視しながら、最後にもう一度だけ、夕貴は中庭に広がる桜色を見渡した。


 彩が生まれたとき、もしかしたら彼女の母親も、こんな景色を目にしながら抱いた娘のことを想ったのだろうか。


 なんて、もう夕貴には、関係のないことだけれど。






 夕暮れに染まり始めた部屋の中で、夕貴は独り、ベッドの上で毛布に包まっていた。電気もつけずに、ただ燈色に照らし出される壁をまんじりともせず眺めて、ずっと同じことだけを繰り返し考え続けている。


 ──俺がしたことは正しかったのか?


 もう掠れて言葉の意味もわからなくなるほど、夕貴の頭の中にはそのフレーズが浮かんでいる。どうしても消えてくれない。


 どこかで何かを見落としているかもしれない。もっと上手くやれたかもしれない。だれもが傷つかない結末なんてありえないことはわかっている。でも、みんながもう少しだけ救われる未来もどこかにあったんじゃないのか。


 彩は記憶もなくさずに救われて、響子もあんなふうに涙を流すことなく、いつかのように託哉も含めた四人で遊びに出かける。そんな夢みたいな日々もあったんじゃないのか。


 全てを救えると自惚れていたわけじゃない。せめて手を繋いだ人のぬくもりだけは守りたかっただけなのに、いまとなってはそれすらも失ってしまった。


 桜の想いは報われず、何度思い返しても結末はハッピーエンドとは程遠い。


 だって夕貴はただ、彩のそばにいてあげることしかできなかった。それ以外、何もしてあげられなかった。傷ついていくのを見ていることしかできなかった。


 だから思う。考えてしまう。


 ──俺がしたことは正しかったのか?


 自分と向き合うのが怖くて、気を紛らわせるためにテレビをつけた。


 そして、現実を見せつけられる。


 呪いのように繰り返されるニュース。何時何分何秒に見ても液晶に映し出される言葉は同じ。花見の日に突如として起こった通り魔殺人事件は、少女の連続自殺で不安に揺れていた街を恐怖のどん底に叩き落した。


 でも夕貴は、それを見てもなんとも思わない。この街において一人だけ真実を知っているからだ。


 すでに事件は解決しているのだから、もう何も心配する必要はないし、大掛かりな対策を立てるのも時間と予算の無駄でしかないのに。


 疲れ切った頭の片隅に、そんな醒めた思考さえ浮かんでしまう。


 テレビの中では、殺された少女がどんなに素晴らしい人柄だったか語っている。遺族が泣いている。警察は捜査本部を設置して全力の捜査に乗り出しているという話だった。少女の連続自殺についてもまだ予断は許されないとして、専門家らしい人物が独自の見解を述べて注意喚起を促している。


 そうやって画面の向こうから、色々な人たちが夕貴の目を見て訴えかけてくる。


 まるで世界から責められているような気分だった。


 彩も一年前はこんな気持ちだったのか。いや、比べることすらおこがましい。顔も知らなかった少女の死の秘密を抱えている夕貴でさえこれなのだ。最愛の母を親友に殺され、その親友すら自分の目の前で、自らの意志で殺すことも赦すこともできずに死んでいくところを見るしかなかった彩は、どれほどの絶望の中にいたのだろう。


 これを、一年も、ずっと?


 だれにも言うことなく、相談する相手もおらず、彩は独りで耐え続けたのか。


 ほんとうはあんなに甘えたがりな性格をしているくせに。だれかにわがままを聞いてもらいたくてしょうがなかったはずなのに。


 夕貴が中途半端に近付いたから、彩の心はさらに不安定になってしまったのかもしれない。はじめから出逢わなければ、彩が希望を抱かなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。


 堂々巡りの考えだけが何度も何度も浮かんでは消えていく。


 ──俺がしたことは正しかったのか?


 彩は記憶をなくした。夕貴が奪ってしまったも同然だ。それでいい。彩が苦しむぐらいなら夕貴が何もかも一人で引き受けよう。そう思って、そう決意したのだ。別に格好をつけたかったわけじゃない。悲劇のヒーローを気取りたいわけでもない。


 夕貴はただ、一人の少女に、笑っていてほしかっただけ。


 だから後悔なんてあるはずがないと自分に言い聞かせる。何度も何度も言い聞かせる。その暗示が、萩原夕貴という人間の普通になるまで、きっと彼は何度も続ける。そうしなければもう前を向けそうになかった。


 何かを、忘れていると思って。


 ゆっくりと扉が開かれたのは、そのときだった。


「……ナベリウスか?」


 問いかけに応じる声はなく、足音だけが近付いてくる。どういうつもりなのかはわからないが、いまはだれにも会いたくなかった。


「俺は眠いんだ。もう寝る。はやく出ていってくれ」


 ベッドに柔らかく腰掛ける気配。毛布にくるまる夕貴をそっと見つめる視線。またからかいにきたのだろう。苛々した。この気持ちを理解してくれない彼女に。こんな気持ちを抱いてしまっている自分に。


「バカね」


 そんな声が聞こえた。普段の夕貴なら歯牙にもかけなかっただろう。でもいまは無理だった。彼女の一言によって、何かを否定されたような気がした。夕貴はなけなしの反駁をしようと毛布を押しのけた。空気が冷たかった。


「おまえに……!」


 何がわかる、と言いかけた声は続かなかった。言葉を結ぶまえに、夕貴の頬には白い指先が触れていた。絶対零度の氷さえも溶かすような、暖かな人肌のぬくもりだった。


 ナベリウスは柔らかく微笑んでいた。銀色の毛先が美しく揺れた。銀色の瞳には、色んなものに怯えて小さくなった少年が映っていた。


「一人でなんでも抱え込もうとする性格。懐かしくて嫌いじゃないけど」


 優しく抱きしめられる。鼻腔をくすぐる甘い匂い。ぬくもりに心が震えて。


「言ったでしょう。これからはわたしが、ずっとそばにいるって」


 ナベリウスは多くを語らなかった。ただ抱きしめて、使い古された一言を夕貴の耳元でささやいただけ。


「だからあなたは一人じゃない。それを忘れないで」

「あ……」


 視界がぼやけた。抑えていたものが溢れるように涙がこぼれた。どうして泣いているのか自分でもわからない。でも涙が止まらなかった。


 寄り添うぬくもりは温かく。触れる体温に懐かしさを覚えて、窓から差し込む夕陽にかつての誓いを思い出した。


 ずっと昔、まだ世界が優しさだけに満ちていると思っていた頃の少年は、夕暮れの帰り道で手を引かれながら宣言した。あのときの少年がどんな気持ちでいたのか、いままで夕貴は忘れていた。それは夕焼けを見るたびに思い出すような、とても大切なことだったはずなのに。


 何かを、忘れていると思った。


 時間は流れる。変わらないものなんてない。


 背丈が伸びていくにつれて見える景色が変わってしまった。目線が高くなった分だけ幼い頃の自分が憧れていたものが見えなくなった。大人になったはずなのに、夕貴は子供のように迷子になって原初の想いを忘れかけていた。


 手を繋いで歩いた帰り道。


 となりにいる人が笑っていることがうれしくて、そう思える自分がなんだか誇らしかった。


 だれかがそばにいてくれるだけで、こんなにも人は笑顔になれる。それはまだ何も知らなかった頃の自分が、何も知らないままに感じた幼稚な理屈で、だからこそ無垢な心のかたちは絶対だと信じられた。


 ああ、だから彩も。


 夕貴がしたことは正しくなかったかもしれない。何もできなかったのは事実だし、もっと賢いやり方だってあっただろう。


 夕貴はただ、彩のそばにいてあげることしかできなかった。


 でもそばにいてあげることだけは、ずっとできたのだ。


 寄り添うぬくもりは温かく、それだけで人の心は救われることがある。


 かつて母が手を繋いでくれたように。


 いまこうしてナベリウスが抱きしめてくれるように。


 もしかしたら。


 彩の心もまた、夕貴が最後までそばにいたから少しでも救われることがあったのだと、そんな勝手な妄想を抱いてもいいのかもしれない。


 これは例えば、そんなもしもの話。


 まだ何の力もない少年が、できもしないくせに女の子を守ろうとして、全てを取りこぼしてしまった果てに懐いた根拠のない希望。


 後悔はある。間違っているかもしれない。正解なんて何度考えたってわからない。


 それでも夕貴は、泣いている女の子がいたら、またバカの一つ覚えみたいに手を差し伸べようとするのだろう。


 これから先、夕貴は櫻井彩の分まで血に濡れた過去を背負いながら生きていかなければならない。ときに今日という日の選択を悔やむときが来るかもしれない。


 でも夕貴は忘れない。黄昏の誓いを。母の笑顔を。少女の涙を。無様に足掻くだけしかできなかった己を。


 そして、始まりの自分を思い出させてくれた彼女の温かさを。


 だからまあ、いまなら勘違いしてもいいかな。ちょっとだけ自惚れさせてほしい。ぜんぶを救うことはできなくて、幼い頃に憧れたヒーローのように上手くはいかなかったけど。


 こんな俺でも、たった一つの小さな笑顔だけは何とか守り通したって。


 困っている女の子には、優しくできたって。


 願わくは、いつか少女がまた桜のような笑顔を咲かせますように。


 そんなふうに気取って祈ってみることぐらいはしてもいいだろう。


 彩には、ずっと笑っていてほしいと思うから。


 それは何一つ救えず無力を噛み締めただけの少年に唯一もたらされた、消えない想い。


「俺は、ただ、嫌だったんだ」

「そうね」

「女の子には、笑っていてほしかったんだ」

「うん」

「そのためならどんなことでもしてみせるって、俺ならそれができるはずだって、そう思って」

「うん」


 ナベリウスは肯定も否定もしない。夕貴の話を聞くだけ。それがたまらなく心地よかった。


 優しく、ほんとうに優しく抱きしめられる。いつしか夕貴は、彼女の胸に顔を埋めて、子供が甘えるように抱擁していた。ナベリウスはそんな彼の頭を撫でながら、まだ幼い少年を慈しんでいた。


「父さんに言われたから、こんなことしてるのか?」


 彼女に包まれながら、夕貴は拗ねた子供のようにぼやいた。彼女は一瞬だけ呆気に取られたあと、すぐに苦笑した。


「さあ、どうかなぁ?」


 彼女に釣られて夕貴も笑った。そんなことを言うなら、せめてもう少しだけ不安にさせる努力をしてほしい。そんなに幸せそうに目元を和らげていたら説得力がない。耳に届く声から、肌に触れる体温から、彼女の気持ちが伝わってくる。


「できれば、教えてほしいことがあるんだ」


 それは子供の頃からずっと気になっていたこと。ナベリウスと出逢い、真実を知って、さらに深まった疑問。


「父さんは、どうして死んだんだ?」

「…………」


 なぜ家族を置いて逝ってしまったのか。ナベリウスと同じように《悪魔》だったというなら、それこそ常識を覆すほどの力を持っていたはずなのに。


「あなたの、父親は」


 そこで何かを考えるように一拍の間を置いてから、ナベリウスは続けた。


「この世界を守ったわ。ちゃんと、全部」

「……そっか」


 答えになっていない彼女の言葉に、夕貴は笑って頷いた。


「聞かないの?」

「ああ。もういいよ」


 ナベリウスがあまり踏み込まれたくなさそうだったから、というのもある。でもそれ以上に夕貴の胸は誇らしさで満たされていた。


「やっぱり俺の父さんは、俺の父さんだった。守ってくれたんだろ? 俺を、母さんを、みんなを」

「そう、ね」

「優しくて、強くて、温かかった。そういう人だったことがわかった。だからいまはそれだけでいいんだよ」

「……あなたのそういうとこは、お父さんにそっくりね」

「ははは、うまいなおまえ。俺の扱い方よく知ってる。これでもう気になるどころか完全に満足だよ」


 彼女の胸の奥から、とくん、とくん、と優しい音が聞こえる。ゆっくりと繰り返されて一つに重なっていく鼓動は、自分が孤独ではないことの証明。


「悪魔も、心臓の音は変わらないんだな」

「まあね。身体の組成は人間とほとんど一緒らしいし」

「俺は、やっぱり悪魔みたいな人間なのかもな」


 抑揚のない口調で夕貴は告白した。


「よかったなって思うんだ。彩の命が救われて。罪のない人たちが死んだのに。確かに罪悪感も後悔もある。でも俺は、彩が生きていることのほうが嬉しいんだよ」

「そう」


 少しだけ寂しそうな声音で彼女は頷いた。


「最低だろ。死んだのが顔も知らない人たちでよかったって安心してるんだ。俺の家族や友達が選ばれなくてよかったって」


 あまねく命の価値は同じであっても、その重さは等しくないのかもしれない。


「今回の事件だって、もし俺が普通の人間だったらもっと怖がったり怯えたりしてただろ。なに当たり前みたいに順応してんだよ。死体なんか初めて見たんだぞ。トラウマになれよ。警察か病院に行けよ」


 たとえば唯一の肉親である萩原小百合と、見ず知らずの六十億の命が天秤にかけられたとしたら、果たして夕貴はどちらを選ぶだろう。


「これも父さんの、《悪魔》の血を引いてるからなのか。それとも俺の心が冷たいだけなのか」

「親の影響かもね。それにわたしたちと人間では、そもそも在り方が違うから」


 ナベリウスは否定しなかった。その声はやっぱり少し寂しそうだった。


「でもさ、同じところもあるんじゃないか」


 夕貴も、否定しなかった。


「心臓の音。生きてるって証だろ。これだけは人も悪魔も変わらない。俺も、おまえも」

「……そうね。そうかもしれない」


 人と悪魔にどれほどの違いがあるのか夕貴はわからない。まだ知らない。でも確かに彼女はここにいる。こんなに温かい。いまはそれだけでいい気がした。


「なあ、ナベリウス」

「うん?」

「ありがとう」


 不思議と素直に言えた。


「おまえがいてくれて……いや」


 夕貴は思い直した。なに甘いこと言っているんだ。こいつは男のベッドに裸で添い寝する痴女なのだ。調子に乗らせてはいけない。


 だからまあ、これぐらいでちょうどいいだろう。


「おまえがいないより、おまえがいてくれるほうが、ちょっとだけ、よかった」

「……うん」

「あっ、ちょっとだぞ? あんまり勘違いするなよな? べつにおまえのこと認めたとか、そういうのじゃないんだからな?」


 返事はなかった。そのかわりに夕貴を抱きしめる腕の力がさらに優しく強くなった。お互いの顔は見えなかった。別に見えなくてもよかった。


 ふと気付いたら凄い体勢になっているような気がしなくもなかったが、心が溶けるように気持ちよくて、夕貴は悪態をつきながらも抵抗はしなかった。


 その日、少年と悪魔は一晩中、そうして寄り添っていた。二人は他愛もない話をしながら、ずっと抱きしめあったまま、ぬくもりを分かちあっていた。


 泣いたり、笑ったり。


次回 エピローグ『消えない想い』


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