1-16 『百合の面影』
「いやだからね、わたしは悪魔で、夕貴はわたしのご主人様なのよ」
うららかな朝日が差し込むリビングで、ナベリウスはもう何度言ったのかもわからない事実を口にする。優雅にコーヒーカップを傾ける姿は、さながら深窓の佳人を思わせる気品を漂わせており、いかにも怪しい台詞に妙な真実味を帯びさせている。
しかしながら、差し向かいに座っている少年の顔は見るからにげんなりとしている。
「……まあ百歩譲って、おまえが悪魔なのは認めてやるとしてだ」
ちょっと不満そうに唇を尖らせる少年のかんばせは、そんな仕草でさえも彼の母親にそっくりだった。懐かしい面影を感じて、ナベリウスは思わず笑ってしまいそうになったが、余計に話がややこしくなりそうなので我慢した。
萩原夕貴。彼と彼女の血を引いた少年。まだ幾分、年相応の幼さを残した顔立ちは母に似て美しく整っているが、こうと決めたら決して揺らぐことのない意志の強さは間違いなく父親譲りだった。
あの夜、最後まで諦めることなく、一人の少女に手を差し伸べ続けたように。
隠していることをぜんぶ話せ。全てが終わったあと、夕貴が最初に願ったのがそれだった。ナベリウスとしてはそもそも隠している認識はなく、ただ個人的なタイミングを見計らっていただけなので、あまり言うことは変わらない。
「その悪魔が、なんで俺のとこにきたんだ。つーか、マジで悪魔でいいんだな?」
「あら、まだ半信半疑?」
「信じてたような気がしたんだが、いまのおまえを見てるとやっぱり気のせいに思えてきた」
カップを取る姿が、人間よりもさまになっていたからだろうか。
「うーん、そうね」
ナベリウスはわかりやすく人差し指を立てると、夕貴の眼前に置かれているカップに向けた。さながら魔法のように何もない中空に小さな氷が形成されると、それは間抜けな音を立てて黒い水面に着水した。
「それを人間たちは《絶対零度》と呼んでいた。その名の通り、わたしは氷を司ることができる」
「うわぁ悪魔だ、やっぱ悪魔だこいつ……」
「まあ《悪魔》っていっても、いまのわたしたちは名ばかりであまり力は残ってないけどね。ソロモンの封印の影響があるから」
バビロンの深い穴より解き放たれる際に《悪魔》は多大なる犠牲を支払った。封印の依り代となった器から奔出するためには、人の身で受肉して現界する必要があったのだ。
必定、《悪魔》は人の世の理に縛られてしまい、力の大部分を喪うはめになった。それがベリアルと人間が交わした契約の一つでもある。
「ていうか、悪魔ってそもそも何なんだよ。いまさらな質問だけど、ソロモン72柱ってあのソロモン72柱なのか?」
「たぶんね。人の世に伝わってる伝承なんて往々にして長い年月をかけて脚色されるものだから、どこまで正しいことが書いてあるのか知らないけど」
「ふーん……」
夕貴は明らかに胡散臭そうな顔で、あらかじめ手元に用意してあった何枚かの書類に目を通した。どうやら夕貴なりに予習してきたらしい。
「ナベリウス。地獄の勇猛なる侯爵。召喚されたときは、カラスとかの姿で現れて、しわがれた声で話す……って書いてるけど?」
「あーあ、人間って最低ね。どこに目を付けてるのか一万回ぐらい聞きたいわ。こんな美女を捕まえて、よりにもよってカラスだなんて」
「とりわけ修辞学に長けてて、なにより失われた威厳や名誉を回復させる力が……」
「ね?」
「よし、まったくアテにならないことがわかった」
ぐしゃぐしゃと紙を丸めると、夕貴は見もしないで後ろにぽいっと放り投げた。
「もうおまえから聞いたほうが早いな。この序列とかって出席番号みたいなものって書いてたけど、おまえって二十四番目に強いわけじゃないのか?」
「イエスでありノーとも言える。そうね、現代っ子である夕貴のためにわかりやすくゲームで例えてみましょうか」
人の常識に当てはめるのはちょっと難しいので、ナベリウスなりに噛み砕いて説明することにする。
「たとえば、わたしたちには魔力みたいなものがある。これは攻撃にも防御にも回復にも必殺技にも使える万能の力でね。それが多ければ多いほどあらゆる局面で有利になる。序列っていうのは、この魔力の総量を順に並べたようなものなのよ。つまり序列一位がいちばん魔力が多くて、七十二位はいちばん少なくて、わたしは二十四番目ってこと。理解できた?」
「すごくわかりやすいんだけど、ゲームで例えられてるせいで逆にまた現実味が……」
「ただし、いくら魔力が多くても、それをちゃんとうまく使えるかどうかは別の話。仮に大賢者だったとしても、使える魔法が小さな火の弾を飛ばすだけだったら宝の持ち腐れでしょう? あるいは勇者で、自在に筋力のステータスをいくらでも伸ばせるけど、耐久や敏捷はまったく弄れないような、偏った運用しかできないやつもいるかもしれない。わたしたちには固有の魔法が一つずつあって、それが戦闘に向いているのか、回復とか援護に特化しているのか、それによっても大きく変わってくる」
「ようするに、あれだな? 序列とやらが戦闘能力に直結してるわけじゃないって思っておけばいいんだな?」
「そんな感じ。でも例外もあって、序列上位の十柱だけは力が桁違いで、さっき言った法則も当てはまらないだろうから覚えておいて。あいつらは基本的に不死身みたいなもんだし、その気になればこの星の文明を単体で滅ぼせるんじゃない?」
「いや、じゃないって言われても……」
「心配しない。わたしたちが何年生きてるか知ってる? 人間で言えば悟りを開きに開ききった仙人みたいな域に達してるから。いまさら地球をどうこうしようなんてやつはそういないわよ」
「そのわりにはおまえ俺のベッドに裸でもぐりこみやがったよな?」
「だってわたしは性欲あるし?」
「なん、だと……?」
「ただグシオン、バルバトス、マルバスはまた特別だから、何があっても近づかないで」
この三柱の大悪魔は、それぞれ独自の勢力を率いて、とある目的を達成するために暗躍している。手段は違えど、目指すところは同じだ。
近代において、彼と彼女と彼が一同に会したあの日を《三魔会談》と称して史に残していることからも、人類の畏怖のほどがわかるというものだ。
欧州の特務組織からは、世界の滅びにもっとも近い三つの大禁忌として定義されている。
「で、そんな御大層な悪魔であるナベリウス様が、どうして俺のとこにやってきたんだよ?」
「約束があったからよ」
簡潔に告げる。少年の澄んだ目が注目し、積年の想いが胸に詰まった。
「あなたの父親と約束したの。あなたを守るってね」
「まず父さんとおまえはどんな関係なんだよ。……ま、まさか愛人とか言い出すんじゃないだろうな!」
「ないない。それだけは絶対ない」
手を大きく振って否定する。あの男の気まぐれに振り回されるだけで精一杯だった彼女に愛を語らう気など欠片もなかった。むしろ死んでもお断りである。彼と対等に付き合えた女など、それこそ夕貴の母親ぐらいのものだろう。
「わたしは元々あなたの父親に仕えてた。仕えてた? うーん、ワガママ聞いてた? いや、面倒を見てた? 子守? ううん、これも子供に悪いか……」
「ぜんぜん知らないけどお前とりあえず父さんのこと舐めてるだろ」
「は? わたしがどんな目に遭ってきたのか知ってて言ってるの? むしろ息子として謝ってほしいぐらいなんだけど」
「だからおまえにそこまで言わせる父さんは何者なんだよ。もはや神だろ」
「そりゃあね。なんてったって悪魔の王だし。バアルだし。魔神だし」
「はーあ?」
こいつ頭イカれてんじゃねえか、という胡乱げな顔。やはり何も聞かされていないらしい。ナベリウスは自分の判断が間違っていなかったことを確信した。
とはいえ、あの夜を経たあとで事実を黙っていることに意味はない。いまなら少年は全てを受け入れるだろう。そんな打算もあって、表向きは平然とした顔のまま、ナベリウスは苦々しい気持ちで続ける。
「だから《悪魔》だってば。ソロモン72柱が一柱にして、序列第一位の大悪魔バアル。逆にまったく知らなかったの?」
「……ふぅ。出た出た、このパターン」
夕貴は哀れみの目でナベリウスを見たあと、朗らかに相好を崩した。幼子の可愛い妄想を聞き入れてやった父のような反応である。
「そうだな。俺の父さんは悪魔だな。萩原駿貴っていうのは人間として活動するときの名前なんだよな。知ってるよ。よかったな。はい、これでいいか?」
「あのとき、バアルはわたしに言った。でもそれは、あなたの……」
「待ちやがれこの悪魔女。なに自然に話を進めてやがる。俺はおまえの妄想に付き合ってる暇はないんだよ」
「え? だって知ってたじゃない、駿貴のこと。違うの?」
「え?」
「え?」
顔を見合わせる。夕貴はしばらく怪訝そうにしていたが、やがて小さな声で言った。
「……マジ?」
「マジよ」
「マジじゃねえよ。俺は人間だぞ。それはどう説明するんだ」
「だから人間であり、悪魔でもあるってことでしょう。たぶん」
「あははははっ! おまえにしてはおもしろいな!」
わりと本気で笑い始めた夕貴を、ナベリウスは呆れるでも嗜めるでもなく、ただ静かに見つめていた。まあ無理もない話ではある。母親から何も聞かされていなかったのだろう。夕貴にしてみればこれまでの価値観がひっくり返るような真実なのだ。いきなり信じるほうがおかしい。
できることなら夕貴には何も知らず、人として平穏な時を生きて欲しいと。
今日に至るまで少年が暖かな陽の下で笑っていることができたのは、そんな母親の尊い想いがあったからだ。その選択を間違っているとは思わない。ナベリウスが母の立場だったとしても、きっと同じように息子を育てたはずだ。
「そうね。じゃあ証拠を見てもらいましょうか」
「証拠?」
「ええ、あなたが親の血を継いでることの証」
あまり掘り返したくない話だが致し方ない。
「あの子のことを、あの夜のことを、思い出してみて」
夕貴の表情がみるみるうちに曇り、その目にはナベリウスを咎めるような厳しい色が宿る。
「おまえ、なにを……」
「いいから。言うとおりにしてみて。目をつむって、ちゃんと思い出して」
ナベリウスの口調から冗談ではないと判断して、夕貴はひとまず言われたとおりに実行する。今頃、まぶたの裏には、腕のなかで血に染まって冷たくなる少女の光景がまざまざと映し出されているはずだ。
そして彼がゆっくりと瞳を開けたとき、ナベリウスは予想していてもなお戦慄を抑えきれなかった。
淡く、儚く、うっすらとした黄金の色彩に濡れる双眸。ナベリウスのそれと対になるような人あらざる輝き。
「はい、じゃあそのまま洗面所に行って鏡を見てきて」
「……おまえな。なんの意味があって」
「いいから。文句ならあとで聞いてあげる」
しぶしぶとリビングを出ていった夕貴の悲鳴が聞こえてきたのは、それから十秒後のことだった。慌てて戻ってきた夕貴は、ナベリウスの両肩を掴んでぐわんぐわんと揺さぶる。
「お、おまっ、おまえっ! なんだこれ! なにが起こってるんだ! 俺にいったい何しやがった!?」
「何をと言われましても」
「とぼけてんじゃねえ! いまならまだギリ許してやるから、とっとと俺を元に戻せ!」
「戻せないわ。それがいまのあなたなのだから。百聞は一見にしかず。この国のことわざでしょう?」
ナベリウスの銀色の瞳には遊びなどなく、むしろいつになく冷厳に夕貴のことを見据えている。戯れではないと理解したのか、夕貴は力なくナベリウスの身体から手を離した。
動揺しているのか、傷ついているのか──そんな少年の顔を正面から見せつけられて、ナベリウスはちくりと胸の奥が痛むのを自覚した。
「だから、あんまり言いたくなかった」
ナベリウスなりに時機を見計らっていたつもりだが、やはり事実を明かす段階になると、夕貴の心に少なからずショックを与えるのは避けられなかった。
「……なにがだよ」
「わたしがあなたの前に現れた理由。その目的。まあ言い方は何でもいいけど。べつに隠してたわけじゃなかったのよ」
「だからなにがだよ」
「あなたは心優しいから。だれよりもお父さんとお母さんのことを愛して、尊敬しているから」
「おまえ、さっきからなに言って……」
「見ず知らずの女から、いきなりおまえの父親は《悪魔》なんだって言われたら、あなたはきっと侮辱されたと思って怒ったでしょう?」
「…………」
「夕貴が信じてくれるような──ううん、信じざるを得ないような状況になるまで、こうやって真実は言えなかった。ごめんなさい」
ナベリウスは深く頭を下げる。長い毛先が床のフローリングに触れた。
いつになく殊勝な彼女の態度を見て、夕貴の息を飲む気配が伝わってくる。
「……似合わないな。そういうのぜんぜんお前らしくないから頭上げてくれ」
「え? でもナベリウスちゃんって大体いつもしおらしくない?」
「どこがだよ。厚かましさの塊だろうが」
呆れながら夕貴は自分の席に着く。複雑そうな面持ち。すでに眼の色は、もとの黒に戻っていた。
かつて聞いた話を反芻しながら、ナベリウスは言う。
「その瞳は、おそらくあなたの意志でいつでも現出させることができる」
「……マジか。絶対やめとこう」
「その瞳は、きっとあなたにとって大きな力となるでしょう」
「ただおまえみたいに悪魔色に光ってるだけじゃないのか?」
「一つだけ覚えておいて。それは人には見せてはいけないもの。どうしても必要なとき、たとえば命の危機に関わるような局面のときにしか使わないで」
「大げさだな。こんなの……」
「約束して。いい?」
冗談ではないと悟って、夕貴はしばし黙したあと、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。わかったよ。約束する」
「よかった」
とりあえず保険はかけておくに越したことはない。夕貴は渋々ながらも了承してくれた。
いまの夕貴の心境を推し量ることはできないが、少なくとも表面上はそれほどダメージを受けていないように見える。
「あんまり取り乱さないのね」
「さっきの俺が取り乱してないように見えるなら、おまえの目が悪いか、俺のなかのポーカーフェイスの認識が狂ってるかだ」
夕貴は苦々しくごちる。
「……正直、心当たりがなくはないからな」
ぽつりと夕貴は呟いた。ナベリウスが小首を傾げて視線だけで問いかけると、夕貴は自嘲気味に笑いながらかぶりを振った。
「いや、なんでもない。ただもしかしたら、そういうことだったのかなって思っただけで」
とりあえず夕貴なりに折り合いをつけたらしい。
「父さんが《悪魔》だった……まあこれは二千歩ぐらい譲って信じよう。じゃあ母さんはどうなんだ?」
「安心して。さすがにそこまでびっくりな展開はないから。あなたの母親である萩原小百合はただの人間よ。よく笑って、よく泣いて、よく怒って、そんなだれよりも人間らしい人間だった。それは保証してあげる」
悪魔の王と、本物の人間。あの二人が出逢い、結ばれ、一つの命を育むのは運命だったのだろう。夕貴を見ていると強くそう思えてくる。
「それはそうとさ」
急に夕貴が子供みたいな顔になった。わくわく、という擬音が聞こえてきそうだ。
「あの、俺の父さんって、どんな人だったんだ?」
興味津々といった様子で訊ねてくる。夕貴にとっては悪魔とか人間とかより、自分が産まれる前に亡くなってしまった父親がどんな人物だったか知るほうが遥かに重要なのだろう。
「そうね。とりあえず自分勝手なやつだった。いつも突拍子のないことばっかりして、わたしたちを困らせてた。でもあとになって見れば、それが正解だったって思えてきてしまう。だから何だかんだ言っても、あいつの言うことは嫌々でも聞いちゃうのよね」
「へえ」
それがどんな内容でも、夕貴は喜色満面の様子で聞き入っていた。とても微笑ましくて、ナベリウスは胸が温かくなるのを感じた。ほんとうに素直でいい子に育ってくれたと思った。
「あとは、とにかく困ってる女の子がいれば放っておかなかった」
それは萩原駿貴の性格というより、バアルとしての無意識だったのかもしれない。かつて王として祀られていた少女を独りにしてしまったことの後悔を、バアルは生涯に渡って抱き続けていたはずだから。
「そういうところはお父さん譲りかもね」
「……父さんが」
なにか思うところがあったのか、夕貴は目を閉じて黙り込んだ。それは納得か、感傷か。遠い日の答え合わせができたような物憂い表情だった。もしかしたら父親に似ていると言われて嬉しかったのかもしれない。母親と比較されることはよくあっても、父親は初めてだっただろうから。
似ている、か。
嫌な記憶が蘇る。ふとした瞬間に夕貴と駿貴が重なって見えることがある。全てを知るナベリウスとしては複雑な気持ちでいっぱいだった。
そんな夕貴だからこそ、あの少女を救うことができたのだとしても。
ソロモンの大悪魔から見ても変えようがなかった運命。逃れられない死という終焉。それがもたらされるはずだった桜の名を持つ少女は、とある少年の力により命を永らえることができた。
そう、櫻井彩は一命を取り留めた。
だがそれは果たして夕貴にとって救いになったのか。
ナベリウスは目を閉じた。問いかけるべきか迷った。夕貴の笑顔を、柔らかな母の想いを台無しにしてしまうようで怖かった。それでも彼女には、夕貴の選択があまりにも切なく思えて、どうしても聞かずにはおれなかった。
「あの子、あれでよかったの?」
夕貴の顔から表情が消える。ナベリウスから見ればまだ幼い少年ながら、その眼差しには底知れない深みがあった。両親の面影ではない。それは彼が選び、覚悟し、背負うことによって生まれた萩原夕貴という少年自身の色だった。
「ああ。いいんだ」
抑揚のない口調でそう言い切って、これ以上なにかを訊かれるのを拒むように、夕貴は窓の外に目を向けた。自分がいま、どんな顔をしているのか彼はわかっているのだろうか。いや、きっと理解しているから、それを見られたくなくて視線を虚空に向けているのだ。
そんな横顔だけは見たくなかったのに。
遠からぬ未来、夕貴は生まれ持った運命と対峙する日がくるだろう。それが魔神の力を持つ者の宿命。せめてそのときが来るまでは普通の少年として過ごさせてあげたかった。もっと笑っていてほしかった。
その拙い想いが、あるいはナベリウスにとっての過ちだったのだろうか。
判然としないこともあるので伝えるべきか迷った。それでも少年は真実を求めていた。全てを確かめる術がない以上、憶測で補っている部分も多いが、それで夕貴が納得するというなら構わない。
ナベリウスは促されるがまま説明する。
「前にもちょっと話したと思うけど、あの子たちの運命を狂わせた元凶は、簡単に言ってしまえば、ちょっと特殊な波動でおかしくなってしまった幽霊みたいなものよ。取り憑かれた人間は慢性的な殺人衝動に駆られることになる。あなたたちの世界で一般的に悪魔憑きと認識されてる当該ケースの多くがこれのせいでしょうね」
肉体的、または精神的疾患では説明のつかない現象をもたらす、紛い物の悪魔。
「正式な学名は《Opaque Dissociative Obsession》という。海の向こうでは、頭文字を取って《オド》とか好きに呼ばれてるわ。生命の意味を冠するオドと同じ名前をしているのは、まあ、あいつなりの皮肉ってところでしょうけどね」
話が続くたびに、夕貴の目が辛そうに揺れる。しかし、少年は気丈にも前を向き、無言で続きを待っている。
「その特殊な波動とは、元来、自然界には存在しないものだった。わたしたち《悪魔》の力が顕現した際に確認されるそれを、一人の学者は《Devilment Microwave》と命名したわ。これがさっき例えた魔力の正体でもある」
デビルメント・マイクロウェーブ。
かの《無貌の大悪魔》の力を以てしても、まだ解明には至っていないオーラ。便宜上はマイクロ波を題しているが、その詳細はまったくの不明。
現在において解っているのは『既存の物理法則を大きく分けて七十二通りに歪める』という性質と、『人体の大小の筋肉に痙攣を及ぼし、強い耳鳴りを発生させる』という影響だけ。
「もう少しわかりやすく言いましょうか。《オド》は、さまよえる人間の霊魂にこのDマイクロウェーブが影響を与えることによって発生する。ちなみに日本でほとんどオドは確認されていない。その理由は二つ。そもそも《悪魔》がこの国にはいなかったから。
そして日本には諸外国のように目に見える戦乱がなく、独自の体系による鎮魂の概念が発達していることもあって、波動に影響を受けるような悪しき霊がさまよっていない。もしくは、あなたたちが気付かないうちに、徳の高いお坊さんが頑張ってあちこちで昇天させてるのかもね」
ソロモンの同胞の大部分は海の向こうにいる。とりわけ欧州には、現存する《悪魔》のなかでも最強と謳われる《叫喚の大悪魔》バルバトスが陣を構えていることもあり、日本とは比べ物にならないぐらい悪魔憑きの被害が多い。
「この《オド》っていうのはけっこう厄介な存在でね。人を殺せば殺すほど強くなり、加速度的に成長していく。でも反対に、潜在的には憑依されていても、だれも殺していないような個体はほとんど知覚できない」
世界的に見れば、実のところ《オド》を悪だと断じているパターンのほうが圧倒的に少ない。なにせ殺人衝動さえ満たせば超人的な能力を得られるのだ。歴史を紐解けば、教科書で語られるような救国の偉人の中にも、その身に悪魔を宿していた例も少なくない。一人殺せば犯罪者でも、千人殺せば英雄というわけだ。
「じゃあ今回の……いや、一年前から続いてた事件はどういうわけだったんだ? 女の子たちが自殺してたのも、そいつが関係してたんだろ?」
「そうね」
「なんでだよ。日本にそんな化物ほとんどいないって、おまえが……」
救いきれなかった少女のことを思い出して、夕貴は歯噛みした。
「ええ、確かにほとんどいなかった。でもまったくのゼロというわけじゃない。《悪魔》だけじゃなくて、《オド》をその身に宿した者から生まれる怨嗟の波動が、ほかの人間に影響することだってある。まるで病が移るようにね。全てが終わってしまったいまとなっては、何が原因だったのか調べることもできないけど」
夕貴には告げなかったが、ナベリウスはいくつか目星がついていた。もちろん夕貴に語った内容が正鵠を射ている可能性もあるが、ほかにも原因と思われるものがあった。
どうしていまになってナベリウスは夕貴の前に現れたか、それが答えだ。
大切な約束があったし、そんなものがなくても抱きしめたいほどに愛おしい命だ。個人的にもずっとそばにいたいと思っている。
ただ成長するにつれて、人間である萩原小百合の血に抑えられていた《悪魔》の力が、ほんの僅かであるが漏れ出している。外界に影響を及ぼすどころか、こうして相対していても感じることの難しい微かな静電気のようなものだが、確かに《悪魔》の波動を感じる。何かの弾みで暴走しないとも限らない。
この街には十九年もの間、魔神の血を引く萩原夕貴が住んでいた。それが巡りに巡って、予想もしていなかった現象をもたらしても不思議ではない。
あとはもう一つ、おそらくこちらの可能性のほうが圧倒的に高い。
黒の法衣を身にまとう蒙昧なる詩人は、いつの日も予言の成就に嗤っているから。
「一年前、遠山咲良という少女が《オド》に憑依された。そして殺人衝動を抑えきれずに四人を殺したあと、彼女もまた命を落とした。その身に宿した内なる悪魔と一緒にね。本来ならこれで全ては終わっているはずだったのよ」
「終わってないだろうが。だから今回は、彩が巻き込まれたんじゃないのか」
「オドは、精神を強く病んだ者や、心に深い傷を負った者に憑依する。まるでぽっかりと空いた心の孔に入り込むように。そのときの心的外傷が強ければ強いほど、発現する力は強大なものとなる傾向にある」
事実、櫻井彩はまだ一人も殺めていない状態だったにもかかわらず、すでに驚異的な能力を発揮していた。それだけ彼女の心が追い詰められていたことの裏付けでもある。
原則として、《オド》にはその力に合わせて十の位階が定められている。
それにあてはめて言えば、彩はまだ第一の位階だった。通常、その段階の《オド》は殺人衝動こそあるものの、能力的には普通の人間と変わらない。あそこまで強力になるのは異例中の異例といっていい。
もし放っておけば、かの《メルファーン修道院の悪魔憑き》の再来となったかもしれない。歴史上で唯一、事実上の最高位である第九位階の《オド》が確認された事例である。本物の大悪魔には敵わないものの、きわめて特異かつ強大な不滅性を持ち、その殲滅には人間だけでなく一部の《ソロモン72柱》まで手を貸して、ようやく果たせたほどである。
あの世界を飲み込むような絶望は、さすがにもう見たくない。
これまでの人類史を振り返ってみると、じつは戦場や紛争地域にいる人間より、現代社会で暮らしている者のほうが凶悪な能力を発現させる個体となることが多い。
人の心とはなんとも不思議なもので、日常的に隣人が死んでいく環境よりも、クラスで虐められたとか会社をクビになったとか、そんな陰湿で生々しい出来事のほうが心に対する負荷が大きいらしいのだ。
「オドだかイドだか知らないが、そんな話が聞きたいんじゃないんだよ」
「これでも本題のつもりなんだけどね。それじゃあもう一度だけ、あなたにわかりやすく例えてあげる。オドにはレベルがあって……」
「わかりやすくするな。ちゃんと話せ」
「欧州に拠点を持つ、裏世界でも最大の特務組織がある。彼らはカバラの神秘主義における悪の勢力、すなわちクリフォトの樹の概念をもとにして、人の悪徳を象徴する十の位階をオドのそれとして定めた。このうち、たぶん遠山咲良という少女は第三位階《貪欲》、櫻井彩という子は第一位階《物質主義》だと……」
「待て、もういい。俺が悪かったから、やっぱりわかりやすく話してくれ」
「オドにはレベルがあって、それが三を超えたあたりから固有の特殊能力に目覚めることがあるのよ。この能力は、発端となったトラウマに強く起因するものになる」
前提として、オドに憑依された人間は死ぬことでしか解放されない。翻せば、死ねば必ずオドから解放されることになる。
遠山咲良は、かつて櫻井彩の前で命を落とした。そのとき、咲良の身体に宿っていたオドも一緒にこの世界から消えたはずだった。
だが咲良は、すでに”ある能力”を発現させており、それがナベリウスをして初めての事例といわしめるほどの奇怪な現象を起こしていた。
「あの子の場合、それは『他人の肉体に乗り移る』という極めてシンプルな能力だった。でもこれは、一人の人間と一個のオドは生きるも死ぬも運命共同体という常識を根本から覆してしまう、いままでになかった可能性を秘めていた」
生粋のソウルイーターであるオドは、人を殺して喰らった魂を餌にして成長していく。一人、二人、三人、四人と殺し、最後に『自分の命を殺した』瞬間、咲良は偶然にもそれに辿り着いた。
悪い見方をすれば、櫻井彩が覚悟を決めて自分の手で咲良を殺していたら、餌は足りずに能力にも目覚めなかったはずだ。
咲良が死んだとき、やはりオドも同時に消えたのだろう。だが僅かに残っていたものもあった。その残滓はもう咲良でもオドでもなくて、あるいは幽霊や思念と呼ばれるような曖昧なものだったのかもしれない。まさに夜の河川敷でナベリウスが最後に相対したものがそうだ。一年前は事件の直後ということもあり、もう少し明確な存在を保ったまま、さながら地縛霊のごとく現世に留まっていたのだろう。
一年経ち、桜の舞い散る季節になって、何かの拍子で新たに一人の少女がオドに憑依された。いや、もしくは春という桜の季節がきっかけだったのか。
その少女に取り憑いたのが、おそらく『かつて遠山咲良だったオドの残滓』だった。普通なら人を殺すことで衝動を満たそうとするが、いつかの過ちを覚えていたそれは、もうだれも傷つけることなく自らの死をもって悲劇を断ち切ろうとした。
この時点ではまだ咲良の意識もなく、憑依された少女は、ほとんど無意識で『人を殺そう』ではなく『その前に死ななくては』という強迫観念に駆られたはずだ。
だが皮肉なことに『他人の肉体に乗り移る』という能力は残っており、自殺でさえも『自分の命を殺した』と糧になり、それを何度も繰り返すうちにふたたびオドの力は強くなっていってしまった。
六人目、つまり夕貴と彩が大雨のなかで遭遇した少女が死んだ瞬間に、いろんな人間の無念や後悔が交じり合ってはいたけれど、表向きの主人格は遠山咲良という埒外の個体が誕生した。
これは非常に稀有なパターンで、戦闘能力こそ低いが、生き延びることに特化していた。オドもまた《悪魔》と同じようにDマイクロウェーブを力の源としており、もちろんナベリウスにはある程度の探知はできるが、最低限の力しか持たないがゆえに知覚することは困難を極めた。
おまけに動き始めたと思ったらすぐに自殺して次の少女に乗り移り、また息をひそめるのだ。何の手がかりもなしに街から見つけ出そうと思うなら、それこそ公園の砂場から色違いの一粒を探し出すようなものだった。
今回の事件にオドが関連していると気付きながらも、ここまでナベリウスが後手に回ったのはそういう事情もある。
さらに言えば、一度は《絶対零度》で完全に滅ぼしたと思っていた個体が、その前に自殺していた命により遠山咲良として覚醒し、寸前のところで他者に憑依して生き延びていたことも、花見の日まで見逃すことに繋がった。
最終的には乗り移るだけでなく、憑依した肉体の姿形でさえも変えられる能力まで進化した。あるいは容姿はそのままで、他者の認識だけを変えていたのか。
「オドにより発現する能力は、発端となったトラウマに起因したものとなる」
遠山咲良が傷つき、救いを求めて望んだ結末は。
「つまり、あの子は自分ではないだれかになりたかったのでしょうね」
だから『他人の肉体に乗り移る』という能力を得た。みんなから、そしてゆいいつ望んだ想い人からも特別に見てもらえないと知った咲良は、自分ではないほかのだれかになることを無意識化で望んだ。
せめて櫻井彩には──かつての親友には、本来の自分で向き合いたいという切実な想いから、捨てたはずの『遠山咲良』の姿として認識されるという力までかたちを歪めて。
「じゃあ、彩が巻き込まれたのは……」
ある意味、必然だったのかもしれない。むろん、櫻井彩が一年に渡って独りで抱え続けていた重荷は、彼女の心に大きな傷を与えていただろう。それこそ不条理で歪な化物に取り憑かれてしまうほどの。
でも咲良が死んだあと、その次の標的として即座に彩が選ばれたのは、もっと単純な理由だったのかもしれない。
「そうね。もしかしたら……」
そこから先をナベリウスは言葉にしなかった。夕貴もまた気付いていたのだろう。
咲良が真になりたいと望んだのは、『だれか』なんて曖昧なものではなく──そこまで考えて、詮無きことだとナベリウスは思考を中断した。もう終わってしまったことに思いを馳せても意味はないし、夕貴が聞きたい話ともズレてくる。
「とにかく、彩はもう無事なんだよな?」
夕貴にとってはその一点が肝要なのだ。
「ええ、間違いないと思う」
「思うじゃ困るんだよ。絶対じゃないと安心できない」
「だったら」
あなたがそばにいてあげればいいのに──そんな残酷な言葉を口にする勇気はナベリウスにはなかった。
この世に都合のいい奇跡などない。全てを救うことはできず、だれもが幸福になる結末なんて絵空事と同じだ。少女の命が助かっても、それは夕貴と彩が二人で笑い合える未来を意味しなかった。
街はまだ平穏とは言い難い。日曜日、自然公園の噴水広場で見つかった少女の死体──遠山咲良が最後に乗り移り、ナベリウスが手を下したものだが、それは一年前の通り魔殺人事件の再来として世間を脅かしている。
あのとき、ナベリウスが介入しなければもっと最悪な未来が訪れていた。櫻井彩が殺されて、その絶望の命を喰らったオドはさらに強大な化物となり、手当たり次第に自殺と他殺を繰り返す死の権化となっていたはずだ。夕貴の心にも癒えない傷が刻まれていただろう。
無事だと思っているのはナベリウスだけで、すでに夕貴の心は傷だらけかもしれないけれど。
「保証してあげる。大丈夫よ。あの子はもう悪魔に魅入られることはない。その原因は、全て消え去ってしまったから」
口にしてから、それは夕貴のもたらした力に対する痛烈な嫌味であることにナベリウスは気付いたが、夕貴は引っかかった様子もなく笑ってくれた。というより、自分の能力をちゃんと理解していないのかもしれない。どういうわけかそのあたりのことは聞かれないし、聞かれても答える気は一切ないナベリウスにはありがたかった。
いずれ夕貴は、自分の持つ力を知るだろう。でも知らなくていい。知ってほしくないとナベリウスは思うのだ。
この世界すらも救えるほどの大きな力は、それだけ本人を危機に晒す。なまじ守れてしまうから、守らなくてもいいものまで守ってしまう。その結果、命を落としてしまうことだってあるだろう。
彼の父親がそうだったように。
「……そうか。彩が無事ならいい。ありがとな。いろいろと話してくれて」
悲観もせず、ひたすらに気丈に、自分の運命と、すでに起こってしまった悲劇を肯定する強い眼差し。自らの行いに責任を負うことのできる大人の顔。
だが違う。夕貴にそんな顔は似合わない。それはナベリウスから見れば、ただの諦観としてしか映らなかった。
ただ一人だけ真実を知る少年。そんな彼の心中を察するには、ナベリウスはあまりにも長い時を生きすぎた。
夕貴は後悔して過去を思い出すだろう。少女は後悔もできずに未来を生きていくだろう。死んだ人々の無念は晴らされることなく、遺族の悲しみは永劫に渡って続くかもしれない。
それでも夕貴が最後まで諦めなかったから、失われるはずだった少女の命は救われた。
「今回のような悲劇を繰り返さないためにも、あなたは知っていく必要がある」
知ってほしくない、でも知らなければいけない──矛盾した感情がナベリウスを打ちのめす。
「本来、《悪魔》と人間の間に子供は絶対に生まれない。あのグシオンが断言するほどだから間違いないわ」
「いきなり俺の存在を全否定してないか、それ?」
「だからあなたの命は、まさに奇跡なのよ。バアルが特別な力を使ったのか、愛のなせる結果なのか、そのあたりはわたしもわからないけど」
しかし、まったくの偶然とも思えない。夕貴が産まれたことにはかならず意味と原因と理由がある。
察しだけはついている。
「ともかく、あなたはこの世に生まれてくれた。こうしてわたしと、そして小百合を笑顔にしてくれる。その尊い命を脅かすあらゆる邪悪から、あなたを守ることがわたしの役目」
ナベリウスは遥かな昔に想いを馳せる。黄昏の世界を貴ぶ、いと小さき少女。それは人が願うにはあまりにも大それた祈りだったから。
「あなたは《悪魔》の血を引いている。それも偉大なる魔神の血を。我らがソロモン72柱を統べるだけの絶対なる力を」
「悪魔でもなんでもいい」
淡々と、もはや諦観にも似た首肯。だがその目だけは運命に屈することなく、力強く前だけを見据えている。
「嫌なんだよ。もうだれかが傷つくのは。それをどうにもしてやれないのは。思い知らされたんだ。この世で一番辛いのは、何にもできないことなんだってな」
夕貴の言葉は、まるで過去の呪縛が鎖となったかのようにナベリウスの心を締め上げた。遠くなる背中を思い出す。
「俺はただ、自分が諦めないだけの力があればいい。人間とか《悪魔》とか関係ない。俺は俺なんだからな」
きっと夕貴は、ナベリウスの言葉を全て信じているわけではない。まだ半信半疑の部分もあるだろう。ただ自らの出生がどうでもいいと思えるぐらい、いまの彼は悔いている。そして、それ以上にこれからの未来を変えてみせると決意している。
「とりあえず、おまえは命の恩人でもあるわけだし、どうしても帰る家がないってんなら、不本意だが今後も家に泊めてやってもいい」
夕貴はコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。いまの顔をもうナベリウスには見られたくないのだろう。
「ちょっと用事があるんだ。出かけてくる」
「そう」
何も訊かずに玄関まで見送る。腰を下ろして靴紐を結ぶ背中が、こんなにも小さく見えるなんて。
「夕貴」
それでも彼女は言う。言いたかった。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
まだ少しだけ照れくさそうに返す夕貴を見送ると、一人になったナベリウスはリビングに戻った。広い空間は寂しく冷たい。
「……小百合」
庭に咲き誇る花を見つめた。白くて小さな彩りが、春の風に揺れている。
「あなたの子供は、ほんとうにあなたにそっくりね」
一人で全てを背負い込もうとするところは、かつての親友と瓜二つだった。
次回 1-17『泣いたり、笑ったり』




