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ハウリング  作者: ハイたん
壱の章【消えない想い】
17/20

1-15 『小さなてのひらに、ただそれだけを願って』


 櫻井彩は、足を引きずりながら絶対零度の河川敷を歩いていた。ぽたぽたと全身から絶え間なく血が流れていて、細かな傷も含めれば数えきれない。普通の人間ならすでに意識を失って三途の川でも見ている頃だろう。


 彩の命を繋いでいるのは、その身に宿した人あらざる魔性の力だった。強制的に生かされていると表現したほうが正しいかもしれない。死体さえも操り人形のように動かす”何か”は、さながら寄生虫のごとく宿主に活力を与えている。生きるためではなく、殺すための力だったが。


 もはや一蓮托生となってしまった。


 彩に憑依したものを取り除く術があったとしても、それは末期患者から生命維持装置を外すのと変わらない。かといってこのまま放っておけば衝動を抑えきれなくなり人を殺してしまうだけだ。


 もっとも、そうなってしまう前に自分が死ぬほうが早いと思うけれど。


 残された僅かな時間で、彩はなんとなく生涯を振り返っていた。

 

 どこで間違えてしまったのか。何がいけなかったのか。そんなことをぼんやりと考えている。


 病弱に産まれてしまったのが間違いだったのか。彩が苦労ばかりかけるから、実の父親はいなくなってしまった。だからお母さんには幸せになってほしいと思って、できるかぎりの努力をした。


 勉強も、運動も、人付き合いも、何もかも。


 多くは望まなかった。お母さんがそばにいてくれるだけでいい。たまに褒めてくれればよかった。手を繋いで、頭を撫でて、抱きしめてくれるだけで嬉しかった。


 それだけで彩は頑張れた。


 そんなことを望むのが、そんなにもいけなかったのか。


 彩に与えられたのは罪だけだ。咲良をふたたび目の前で見殺しにするという、過日の夜の追体験。


 包丁だけはずっと握りしめたままだった。


 きっとそれが、いまの自分を象徴しているように思えたからだろう。


 母親も、親友も、大切な人たちはみな、彩を残していなくなってしまった。


 こんなことになるなら、お母さんにもっとありがとうと言っておけばよかった。心の底からの感謝を伝えておけばよかった。まだ何も恩返ししていなかったのに。いつの日か、愛する人との間に自分も子供を産んで、それをお母さんに抱かせてあげることが密かな夢だった。


 咲良にも言いたいことはいっぱいあった。憎んで、憎まれて、罵って、罵られて、いっぱい喧嘩して、もういいでしょってぐらい喧嘩して、それから。


 仲直り、したかった。


 自分の気持ちを、もっと自分で伝えられる、そんな自分でいられればよかった。


「ああ、そっか……」


 どこで間違えてしまったのか。何がいけなかったのか。


 ずっと考えていたけれど、いまになってようやく答えがわかった気がする。


 いつだったか、母親と二人で花見をした。近所の公園を通りかかると開花したばかりの桜が咲いていたので、ちょっと見ていこうという流れになったのだ。たんなる散歩のついでだったかもしれない。


 帰りましょうか、と提案して歩き出す母親の手。


 なぜかそれを、彩は一度だけ引いたのだ。


 ──ねえ、お母さん。


 ほんとうはもっと一緒に桜を見ていたかったのに、風はとても冷たくて、母を困らせたくなかった彩は、小さなわがままを言えなかった。


 思えば、あれが最後の機会だったのだ。


 ──そうだね、帰ろっか。


 もうちょっとだけ、こうしていたいな。


 もしあのとき、いつもよりほんの少しだけ勇気を振り絞っていたら、思っていることをちゃんと口にできる自分でいられたのなら、あるいは違う結末もあったかもしれない。


 あとはどうやって死ぬか。


 さっき自殺を試みたが無理だった。人を殺したいと本能に訴えかけてくるくせに、どうやらその対象に彩は含まれていないらしく、包丁を逆手に持った途端に身動きができなくなった。


 いまとなっては自分の生死すら満足に選べない。


 だから彩は歩く。それぐらいしかすることがない。いや、むしろ止まったほうがいいのか。そもそも離れるのは悪手だろう。ついさっきの戦場から逃げなければ、本物の悪魔が彩をちゃんと殺してくれたはずなのだから。


 それなのに歩く理由。こうして逃げている理由。考えるまでもなく、答えはすぐにわかった。


 夕貴の顔を見るのが怖いだけだった。


 夕貴に嫌われてしまったと、その事実を知るのが恐ろしくてたまらない。とても正面から向き合うことなんてできない。


 夕貴が咳き込んで苦しんでいるのを見たとき、どうしても放っておけなくて手を伸ばそうとした。でもためらった。


 咲良の言葉を思い出してしまったからだ。


 ──どうせ無理よ。今度も、きっと届かないわ。


 さすが親友だな、と思う。彩の本質をよくわかっている。また逃げる。失敗する。後悔する。やり直したいと望む。けどできない。それを延々と続けて繰り返す。こんな人生に何の意味がある。


 何度も歩み寄ってくれた夕貴に、彩ができたことと言えば、いつものように傷つけるだけだった。


「──あ」


 何かに躓いて転んだ。受け身も取れず、顔から氷の上に倒れる。鈍い痛みが脳髄まで響いて、ちかちかと視界が明滅した。からん、と金属質な音を響かせて包丁が転がる。


 立ち上がろうと腕に力を込めるが、四肢は生まれたての小鹿のように震えていて、すぐに支えを失い、また地面に吸い寄せられる。


 ごつん。


「……痛い」


 繰り返してみる。でも結果は変わらない。顔をぶつける。何度も。


「痛い。いたい。いたい、よ……」


 ぼろぼろと涙がこぼれる。


「もうやだ。いたいのやだ。こわい。こわいよ、おかあさん……」


 頬に冷たい感触を味わったまま、彩は傾いだ視界の中で泣き続けた。


「さくらちゃん。ごめん、ごめんなさい。わたし、ほんとは、ずっと……」


 もう動くこともできなかった。子供のように身を丸めて、孤独という名の極寒の吹雪から身を守る。懸命に声を上げる。しかし彩の声は、すでに吐息よりもか細く、この広い世界では残酷なまでに無意味だった。


「だれか、だれか、だれか、ねえ……」


 お母さんはいない。咲良はいない。だれもいない。


「だれか、おねがい……」


 やっぱり独りだ。独りきりなのだ。


「だれか」

 

 ああ、だからせめて。


 どうせだれも困りはしないのだから、最後に一つだけわがままを言ってみようか。


「だれか……わたしを、たすけて」





「わかった」





 もっとも聞きたくない声がした。もっとも聞きたい声がした。涙でぼやけた視線の先に、彩の気のせいでなければ人影が立っている。目元も拭えないものだから、ぱちくりと何回もまたたきをして、涙を追い払ってみる。


「もっと早くそう言えばよかったんだ、おまえは」


 いつもと同じ決然とした眼差しで萩原夕貴がそこに佇んでいる。ずっと遠くのほうから、頼りない足取りでこちらに歩いてくる。


 夕貴がいる。そう意識したとたん、彩の身体がゆっくりと起き上がった。自分の意志ではなかった。極上の餌を見つけた内なる悪魔が、壊れた人形を無理やり動かすように彩を操作している。


 殺したい、殺したくない──そんな葛藤が鬩ぎ合って、心が張り裂けそうだ。


 威嚇のために、落ちていた包丁を拾って固く握りしめる。自分に近付いては危険だとわかりやすく彼に示唆する。


 それでも夕貴は、眉一つ動かさなかった。


「やめ、て。こないで」


 足元をふらつかせながら、彩は首を力なく横に振った。


「来ないで。お願い」


 掠れた声で懇願するが、夕貴には届かない。そうしているうちに彼我の距離は狭まる。手を伸ばせば触れられる。


 あ、殺せる。


「──っ!」


 そう考えてしまった自分に愕然として、彩は腕を振り払った。


「来ないでって、言ってるでしょう!」

 

 少女のものとは思えない腕力で、夕貴の身体は何メートルも後ろに吹き飛ばされる。反射的にガードしてくれたのは幸いだが、もし彼が腕を上げなければいまの一撃で殺してしまっていたかもしれない。そう思うと、絶望で死にそうになった。


 数秒と間を置かずに夕貴は起き上がった。うめき声すら上げない。痛みを感じていないわけではなく、ただ表情に出していないだけだ。これ以上、彩が自分を責めないようにするために。


 また夕貴は近付く。彩は腕を振るう。そのたびに少年の身体は傷つき、少女の心は悲鳴を上げた。そんな光景だけが何度も目の前で繰り返される。


 傷ついている彼しか、見れなくなった。


 たしか、わたしは。


 となりにいる人が笑っていることがうれしくて、それだけが全てだったはずなのに。


 これも罰なのか。


 たすけて、なんて。


 そんな贅沢なわがままを口にしてしまったせいで、夕貴から『彩を見捨てる』という選択肢を奪ってしまったのかもしれない。


 夕貴は懲りずに立ち上がる。彩に歩み寄ってくる。


「……なんでよ、どうしてよ、頭おかしいんじゃないの。死ぬんだよ。殺すよ。わたし、夕貴くんを殺せるんだよ」


 それは苛立ちの声──と称するには、あまりにも少年に対する思いやりで溢れていた。


 愚かな彼を見ているうちに、彩の顔は嘲笑に歪んだ。そうするしかないと思った。


「そっか。もしかして同情してるの? わたしがかわいそうって? バカな女だって? 夕貴くん知ってる? それってね、自己満足っていうんだよ」


 そうだ、もっと歪めろ。歪めないといけない。そう自分に言い聞かせて、憎たらしく悪役を気取る。不器用だった咲良とは違う。子供のころから『櫻井彩』という仮面を被り続けてきた自分は、きっと最後のときまでうまく振る舞える。


「ずっと迷惑してたよ。うっとうしいんだよ。いつも自分の力で何とかできると勘違いしてる。夕貴くんみたいな男の子、ほんとは大嫌いなんだよ」


 せいぜい嫌われて、死んで当然だと思われる最低の女になればいい。


「いままで夕貴くんのせいでいっぱい泣いたよ。そのたびに夕貴くんは何とかしようとするんだよね。だれもそんなこと頼んでないのに。ねえ、物語のヒーローにでもなったつもりだったの?」


 悲劇のヒロインを気取っていた彩は、これまで夕貴の前で何度も涙を見せた。それを夕貴が止められたことは一度もない。夕貴の落ち度ではなく、たんに彩が泣き虫なだけだったけれど、ここは利用させてもらうことにする。


「どうせ無理だよ。今度も、きっと届かない」


 咲良の言葉を借りて、無力を突きつけるための呪いをかける。


「……約束、したからな」


 夕貴は口元だけで薄く微笑んだ。


「やく、そく?」

「いや、そんな大層なもんじゃないかもしれない。だってこれは、もしもの話だ」

「……あ」


 それはデートの帰り道、雨に降られる街を眺めながら交わした小さな約束。何気なく口にした彩でさえ忘れていたのに、彼の胸には未だにあのときの言葉が残っている。


 嬉しくて瞳が潤みそうになる。でも泣くことは許されない。ここで折れたら、夕貴を罵った言葉まで嘘になり、いたずらに彼を傷つけたという事実だけが刻まれて終わる。


 表情を固くして、彩は夕貴のことを睨みつける。眼差しには侮蔑を込めて、言葉にはしっかりと感情を乗せて、夕貴を、そしてなにより自分のことを騙しきらねばならない。


 心を殺せ。想いに蓋をしろ。決して悟られるな。


「バカだよ、夕貴くん。ほんとバカ。そういうの迷惑なんだよ」


 思いつくかぎりの悪罵を口にしながらも、彩の頭は過去の自分のさりげない発言を悔いていた。度し難いほど愚かだったのは彩のほうだ。


 もしもの話なんて、しなければよかったのに。


 彼の言葉を思い出してはいけない。彼の笑顔を思い出してはいけない。絶対に泣いてしまう。


 それでも溢れる想いだけは、どうしても止められない。


 あの日の情景が、まざまざと脳裏に蘇ってくる。


「調子に乗らないでよ。わたしはあなたのことなんて何とも思ってない」


 ──でも、そうだね。もしもの話だけど。


「ほんとに嫌い。大嫌い。わかってよ。近付かれたくもないんだよ。顔を見てるだけでも虫唾が走るんだよ。わたしは困ってなんかない。困ってなんか、ないんだよ」


 ──もし、わたしが困っていたら。


「わたしは一人でいいの。ずっとそうだった。あなたなんていらない。だれの助けも必要ない。だから大丈夫。どうしようもなくなんて、そんなの、ぜんぜん」


 ──もし、わたしがどうしようもなくなっちゃったら。


「あとは、その……ええと、だからっ! と、とにかく、夕貴くんのせいで苦しくて、苦しくて、ほんとうに苦しくて……だから!」


 ──そのときは。


「もういいんだよ。わたしのこと見捨ててくれても」

「よくねえよ。相変わらず不器用なやつだな。さっきみたいにはっきり言えばいいのに」


 ──夕貴くんがわたしを──


「助けるよ。当たり前だろ? こう見えても、いちおう男なんだから」


 彩の心が震えた。涙腺が決壊しそうになるのを寸前で堪える。


 夕貴がこんなにも見捨てずにいてくれるから、まだ彩は人間でいられる。


 だからせめて、いまのうちに。


「……ほんとうに、わたしを助けてくれるっていうなら」


 彩は包丁を投げて渡した。澄んだ音がして、氷の上に血に染まった刃物が転がった。


「それで、わたしを殺してよ。夕貴くんの手で終わらせてよ」


 夕貴は無言でしばらく包丁を眺めていたが、やがてそれを拾い上げた。そして、彩に近づいてくる。どうやら彼もそれしか方法はないと気付いてくれたらしい。


 このときを待っていた。こうなるように仕向けた。そのはずなのに彩は例えようもない恐怖を覚えて足を竦ませた。自分の死というものを想像できていなかったわけではない。ちゃんと決意もしていた。しかし、覚悟だけが致命的に足りていなかった。それを悟られないために悪意ある挑発を続ける。


「そ、それぐらいのことなら、夕貴くんにもできるでしょ。まさか、で、できないって、言わないよね」


 みっともないぐらい震えていたが、幸いにも雪と氷のせいで寒いという言い訳もできそうだし、まあ及第点だろう。そう思って彩は目をつむった。足音が聞こえる。もう近い。いつ刃物が心臓を抉ってもおかしくない。


 終わりを意識した瞬間、ただ未練ばかりが彩の胸を締め付けた。


 どうせならもっとお母さんに甘えていればよかった。咲良にわがままを言って困らせてやるのも面白かったかもしれない。夕貴には最後まで本音をぜんぜん言えなかったし、そんな彼の手で殺してもらえるなら本望でもあるけれど、どうせなら、どうせなら。


 どうせなら、もっと。


「一緒に、いたいよ」

「いればいいんだ」


 彩を襲ったのは痛みではなく、優しいぬくもりだった。抱きしめられていた。いい匂いがする。男のくせにちょっと女の子みたいな甘い匂い。


「な、にしてるの。だめだよ。わたしは、もう」

「俺がこうしたかったんだよ」

「抑えきれないの。もう、むりなんだよ」

「じゃあおまえは嫌なのかよ」

「え……?」

「こうされるのが嫌なのかって聞いてるんだよ」

「……じゃ、ない」

「聞こえない。もっと大きい声で言えよ」

「……いや、なわけ、ないじゃない」


 彩は止めどなく涙を流しながら、夕貴の胸に顔を埋めた。


「わたしだって、ずっとこうしていたいに決まってるじゃない!」


 少女の答えを聞いて、少年は満足したように腕に力を込めた。彩は子供みたいにわんわんと大声で泣いた。その涙から逃げることなく、今度は自分の胸でしっかりと受け止めて、夕貴は彼女の頭を労わるように撫でる。


「あの、ね。わたしね。ちがうんだよ。夕貴くんの思ってるような子じゃないんだよ」

「ふーん」

「これでも頑張ったよ。ずっとわたしなりにやってきたんだよ。それでもどうにもならなくて」

「俺がいる。だからどうにかなっただろ」

「…………」

「あ、照れてる」

「照れてない!」


 この男はこんなときに何を言っているのか。ちなみに彩の顔が真っ赤に染まっているのは怒りのせいであって、決して夕貴の発言に絆されたわけではない。胸が苦しくてたまらないのは、たぶん知らないうちに怪我をしたからだろう。


 夕貴の身体は、確かに鍛えられてはいるが男子の中では華奢なほうだ。でも触れてみると、肌の下には筋肉がしっかりとついていて、とても男の子って感じがする。


 もうなんだかぜんぶ反則だった。


「俺はおまえのことをぜんぶ知ってるわけじゃない。でも知ってることだっていっぱいある。みんなの前で行儀よく笑うおまえのことを知ってる。ちゃんと気遣いができて優しい性格だってことも知ってる」

「……そんなの、ほんとうのわたしじゃない」

「かもな」


 夕貴はあっさりと頷く。


「でも、それでいいんじゃないか。どんなときも、どこにいても変わらないやつなんていないんだ。どっちが本物でどっちが偽物とか考えるからややこしくなる。俺だって女の子がいたら格好いいところを見せたくて張り切るし、ガキの頃からの親友には意地を張るよ。だれだってそんなものだろう」


 違う。そんないいものではない。彩は夕貴の思っているような人間ではないのだ。それをわかってもらいたくて、たどたどしく言葉を綴る。


「で、でもね。夕貴くん、知らないと思うけど、ほんとのわたしは、実はすっごくわがままで、信じられないぐらい甘えたがりで、人見知りで泣き虫で……」

「やっぱりおまえ、本物のバカだろ」


 彩の自虐を、わざとらしい溜息が遮った。


「そんなの、ただ可愛いだけじゃねえか」


 ほとほと呆れた夕貴の言い分に、彩は言葉も出なかった。バカは夕貴のほうだと言い返してやりたかったのに、それすらもできなかった。夕貴のあまりに悠長な発言に驚かされてしまう。


 でもそれは理由の半分に過ぎない。もう半分は、夕貴に可愛いと言われて、こんな状況なのに嬉しくなってしまった自分のバカさ加減。


「……バカ、だよ」


 彩も、夕貴も。


「バカにバカって言われたくねえよ」

「う、うるさいなぁ! バカは夕貴くんのほうだもん! それだけは譲れないんだもん!」

「そうだな。そうかもしれない」


 バカが二人もいては収拾がつかず、もはや手が付けられない。


 だから夕貴は、抱きしめる腕に力を込めた。


「落ち着くまでずっとこうしてろよ。俺がそばにいるから。お前を一人にしないから」

「……もう、遅いよ」


 この世に都合のいい奇跡などない。


 彩の想いも、夕貴の決意も、非常な現実の前には無力だった。


 限界が訪れる。彩の心と身体を蝕むものは、もう人の意志では抗えないところまで来ていた。


 殺人衝動。


 彩の身体が勝手に動き出す。夕貴を突き飛ばした。その間際に、彼の手から包丁を奪い取る。目の前にいる血の滴る獲物を前にして、彩の身体からふたたび邪悪な波動が溢れ出した。どす黒いオーラが夜に揺れる。


 視界が暗転する。遠のいていく意識の中で、彩が最後に見たものは、こちらに向かって手を伸ばす夕貴の姿だった。






「これまでね」


 状況を静観していたナベリウスは、暴走を始める少女を見て、あとは自らの手で決着をつけることを選んだ。


 地面が揺れる。彩の周囲が陥没して、幾つもの鋭利な氷山が突き立った。彩はジャンプして避ける。少女の後を追って無数の氷槍が大地を突き破り出現した。無限の物量の前には回避など無意味だった。


 彩は吹き飛ばされて地面を転がった。四つん這いの体勢で血を吐き出している。美しく清楚だった過日の面影など、もはやどこにも残っていない。


 夕貴から少し離れた位置に、ナベリウスは着地した。


「ナベリウス!」

「わたしにも譲れないものが二つある」


 冷厳とした声で、ソロモンの大悪魔は少年の糾弾を遮った。


「一つはあなたの身体。そんなに傷ついて、そんなに血を流して、いったい何ができるの?」


 責めるような言葉とは裏腹に、ナベリウスの声には心から夕貴の身を案ずる色しかない。


「そして、もう一つ」


 彩は立ち上がろうとする。人を殺したくてたまらないのか、それとも夕貴の前で無様を晒すことが嫌なのか。そんな少女の健気さを哀れに思いながらも、ナベリウスは確固たる意志を湛えた声で告げる。


「それはあなたの心。これ以上、辛い思いをさせたくない」


 逆に言えば、ナベリウスにとってそれ以外は全て些事でしかない。たとえ年端もいかない少女の命が失われようと、それによって夕貴に恨まれようとかまわない。手を汚すのは自分だけでいい。


「夕貴でもあの子を救うのは無理だった。このまま放っておけば、あの子はかならず人を殺すでしょう。そうでなければ止まらない」


 どうにもならない現実に、夕貴は言葉が出なかった。どれだけ感情が否定しようとも、聡明な少年は頭で理解していた。本物の《悪魔》でも救えない。そして自分には何もできない。


 ならば、彩が手を汚してしまう前に安らかな眠りを与えることが、唯一の救済ではないかと。


 ほんの少しでも、そう思ってしまった。


 そう思ってしまった途端、夕貴は身動きができなくなった。


 ソロモンの大悪魔と、悲劇に取り憑かれた少女は、正面から対峙すると視線を交わし合った。


「私は《ソロモン72柱》が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔ナベリウス」

 

 もう戻れぬ少女に、自らの手で安息を捧げること。それはナベリウスにとって最大級の慈悲だった。


「青褪めた死は、貧者の小屋も聳え立つ館も等しき足で蹴り叩くという。人も我らもなべてこの事にあり。故にせめて私が手ずから理を示そう」


 二人を隔てる距離は約三十メートル。ナベリウスなら一足の間合いでも、いまの彩には果てしなく遠い道のりだった。


 その光景を、萩原夕貴は見つめることしかできない。何一つ救えず無力なままの自分を、彼は悔いることしかできない。


 空気が動いた。先に仕掛けたのは彩だった。殺人衝動に呑みこまれた彼女は、瀕死の肉体のことなど無視して走り出す。


 ナベリウスは動かない。ただ迎えるだけだ。それで全てが終わる。


 あと何秒、彩の命は残っているのだろうか。


 夕貴はいったい、あの少女に何をしてあげられたのだろうか。


 そこから先のことを夕貴はよく覚えていない。ただ気付いたら、満身創痍に等しかったはずの身体は走り出していて、何かを掴むように手を伸ばしていて、枯れた喉は言葉にならない声を叫んでいた。


 ナベリウスが殺す。彩が殺される。夕貴はただ、そんな結末が見たくなかっただけ。


 衝突する寸前の二人の間に割って入ると、夕貴は彩を庇うように大きく手を広げて、ナベリウスの前に立った。これまで絶対的な存在として君臨していたナベリウスが、ここにきて僅かに狼狽する様子を見せる。その理由は至極単純。包丁を持った彩が、もう夕貴のすぐ背後まで迫っているからだ。


 夕貴は笑った。これでもう誰も傷つくことはない。たとえ数秒後に、夕貴の背中を鋭利な刃物が貫いたとしても、どちらか片方を失った世界に取り残されるほうが彼にとっては辛かった。


 夕貴は凪いだ水面のごとく静かな心境で目を瞑った。逃げるのではなく、受け入れるために。不思議と恐怖はなかった。肉と内臓を抉るであろう刃物の痛みも、きっと彩が胸に抱いたそれに比べれば大したことはないだろう。


 だが、夕貴が覚悟していた衝撃はついぞ訪れない。彼はゆっくりとまぶたを開いた。ナベリウスは驚きを隠しきれない顔で、夕貴のことを凝視している。


 否、夕貴ではなかった。


 その銀の瞳は、彼の背後で起きた出来事だけを明確に捉えていた。




 ****




 どこかから光が差して、わたしは目を開けた。


 とても眠い。薄暗い部屋の中で、わたしはふかふかのベッドに溺れて毛布に包まっている。こんなに幸せなことはない。このまま眠ってしまえるなら、もう起きなくたって構わないとさえ思える。


 でも眩しい。うまく寝付けない。無視して毛布の中にもぐりこんでもよかったんだけど、わたしは何となく気になって身体を起こした。カーテンに遮られた窓の向こうから薄っすらと光が差している。


 興味本位で覗いてみると、そこには映画のような光景が広がっていた。季節外れの雪が降る河川敷に、女神と見紛う美しい女性が立っている。きっと彼女が主人公で、それに向かって不格好に走っている血まみれの少女は端役なんだろうな。


 役者が違いすぎて、あまり面白そうには見えなかったけど、なんだか見届けないといけない気がして、わたしは仕方なくそれを眺めることにした。


 銀色の髪をした女の人は、まっすぐに少女のことを見ている。深い思慮と決意を湛えた瞳。人の死を背負うことを覚悟した眼差し。対決していたのか、断罪だったのか、とにかく物語は佳境を迎えて、あらすじなんて全然わからないわたしにも訪れるクライマックスの瞬間が予想できた。


 いまから少女が殺されるのだ。


 それでいい。理由はわからないけど、わたしは少女が死ぬことに納得していた。なんでだろう。ついつい主人公を応援しちゃうタイプだからかな。どんな物語でも、どんなご都合主義でも、最後には悪者が倒されてハッピーエンドを飾るのがいいに決まってる。


 でも、あれ? わたし、これを知ってるような。


 妙な既視感だ。内容についてはほとんど記憶にない。ただ、少女のキャラだけが鮮明に思い出せる。どんな人生を送ってきたか。どんなにひどいことをしてきたか。自分でも嫌になるほどわかってしまう。


 あの少女は、とても悪い子だった。


 幼い頃、両親を離婚させて、大好きなお母さんを不幸にしてしまった。だからほんとうの自分を封じ込めて、みんなの求める理想の『■』であろうとした。でもそうやって自分ではなく他人のために生きても、けっきょく、だれかを傷つけることしかできなかった。


 これだけ諳んじることができるのに、なぜか少女の名前だけが思い出せない。とても大切なものだったはずなのに。忘れてはいけない想いと祈りのかたちだったはずなのに。


 いっぱい考えたけど、だめだ、わからない。もういいや。やっぱり眠っちゃおう。どうせ映画の結末は見届けるまでもなくわかりきっている。主人公の手によって悪役が倒される。そんなハッピーエンドになるのは自明の理なんだから、眠いのを堪えて、わざわざ最後まで見ることもないでしょう。


 そう思って、わたしは窓の外に広がっていた景色から目を逸らすと、ふたたび毛布に包まる。温かいはずなのに、どこか冷たく感じるそれに、あれ、と違和感を覚えた。


 そのときだった。


「──彩!」


 忘れていた少女の名を呼ぶ声が、はっきりと聞こえた。


 その瞬間、世界がひび割れたように砕け散る。ベッドがなくなり、毛布が消えて、わたしは夜の河川敷に放り出された。ついさっきの少女の身体にわたしが乗り移っていた。走る足も、全身を苛む痛みも、風を切る感覚も、氷の冷たさも、何もかもはっきりと感じ取れる。


「──彩!」


 またわたしの名を呼ぶ声が聞こえて──全てを思い出した。


 ああ、そうだ。


 それがわたしの名前だった。


 走馬灯のように思い出が駆け巡る。もうそれぐらいしかすることがない。身体を止めることも、何かを言うこともわたしにはできない。


 嬉しかった。夕暮れの帰り道で、わたしの名を呼んでくれて。身内でもない男の子から彩って呼ばれるのは初めてだったから、ちょっと人には言えないぐらい胸がどきどきして、別れてからも彼のことで頭がいっぱいだった。


 初めてのデートは楽しかった。緊張してぜんぜん眠れなくて、前の日から洋服を選んでいたのに朝になってもやっぱり迷ってた。少しでも可愛いって思ってほしくて頑張った。二人で観覧車に乗って、恋人だったらこういうときにキスするのかなって、じつは密かに妄想してたのは絶対に内緒。


 女の子みたいに可愛い顔してるくせに、いざってときはびっくりするぐらい男の人になって、わたしのことをお姫様みたいに守ってくれるところも、好き、だった。


 もうわたしの名を呼ぶ声も聞こえない。終幕は近い。あと数秒でわたしは死ぬだろう。目の前にいる銀色の女の人がわずかに目を細める。


 その数秒後が訪れる一秒前に、わたしと彼女の間に、見覚えのある背中が割り込んできた。


 よく知っているはずなのに、とっさに思い出せない。男性のようにも女性のようにも見える姿。そっか、これは夕貴くんだ。夕貴くんなんだ。忘れていた自分が情けないけど、最後に思い出せたことは嬉しかった。


 ああ、まただ。


 夕貴くんの背中。男性にしては華奢なはずのそれが、なぜかとても大きく見える。わたしはこの背中を知っている。子供の頃からずっと、何度も見ていたから。


 あれは、そう、お母さんが仕事に行くときのことだ。


 ──お母さんは、どうしていつも笑ってるの?


 そんな幼い少女の声が聞こえた。すぐ目の前に迫った夕貴くんの背中が、いつかのお母さんのそれと重なっていく。やっぱり強くて、暖かくて、優しかった。


 ──それはね、彩が。


 そして気付いた。いまさら、こんなときになって、ようやく思い出してしまった。


 夕貴くんが大きく見えた理由。お母さんがどんなときも笑顔でいてくれた、ほんとうの理由。


 ──それはね、たぶん、彩がもっと大人になって。


 守るべきものがあったから。


 ──大好きな人ができたら、わかるよ。


 そのためなら人はなによりも強くなれるから。


 だからこれは、いままで何も選べずに後悔するだけだったわたしが、ほんのちょっぴり強くなった証拠。悪魔なんて関係ない。心の底から湧き上がる欲求よりも、もっと強い気持ちで魂が括られたから。


 いまなら胸を張って言える。こんなわたしにも守りたいと強く思えるものができたって、大好きだったお母さんと同じ気持ちになれたって。


 夕貴くんだけには、ずっと笑っていてほしいから。


 ごめんね、お母さん。こんな親不孝な娘で。これでお母さんも、ちょっとは許してくれるかな。




 ****




 包丁が突き刺さった。


 それを成し遂げた本人は、まるで誇るように微笑んでから、その場にゆっくりとくずおれる。


 櫻井彩が倒れていく。包丁を強く握り締めたまま。夕貴の背を貫くはずだったそれを、自分の腹に突き刺して。


 どさりと音がするまで、夕貴は動くことができなかった。状況の把握に時間がかかりすぎていた。彩を支えてやることすらもしてあげられなかった。


 夕貴は彩に駆け寄って、こわばる手で優しく彼女を抱き起こした。氷が冷たくて、身体はもっと冷たくて、血だけが熱かった。


「なにやってんだ、このバカ!」


 夕貴の頭には怒りしかなかった。なぜ彩は自分を殺すような真似をしたのか。だれだって死ぬのは怖い。こんなことをするなら、勢いのままに夕貴を貫いたほうが遥かに楽だったはずなのに。


「あは、は……」


 泣きそうな顔で支える夕貴を見て、彩は笑った。そこにあるのは禍々しい殺人衝動とは無縁の、愛らしい少女のかんばせだった。


「ほんとに、口から血って出るもん、なんだね」

「うるせえ黙ってろ! 寝言ならあとでいくらでも聞いてやる!」

「しゃべろうよ。さいごは、夕貴くんの声、聞いてたいから」

「そんな、の」


 夕貴には聞けない相談だった。言葉を交わせば交わした分だけ、彩の身体は冷たくなっていく。すでに出血は致死量をとうに超えている。刃物はほとんど埋まっていて、その深さを見れば、重要な内臓が無事だとはとても思えなかった。


 まだ彩が喋っていられるのは、彼女に取り憑いた”何か”が宿主を強制的に生かしているからに過ぎない。


 彩を助ける。そのための方法は。


 傍らにはナベリウスが佇んでいる。夕貴は声だけで問いかけた。目を合わせることはできなかった。見たくもない現実をさらに突きつけられそうだったから。


「……どうすればいい?」


 刻一刻と彩の呼吸が弱くなっていく。命の灯火が消えようとしている。その事実を認めたくなくて、夕貴はナベリウスに縋った。それしかいまは思いつかなかった。


「どうやったら彩を助けてやれる。俺は何をすればいい。なんでもする。おまえ悪魔なんだろ。だからこいつを」

「無理よ」


 しかし、唯一の希望を知っているものと思われたソロモンの大悪魔は、夕貴に新たな絶望をもたらすだけだった。


「そうなってしまったらもう助けられない。わたしには人間の身体を治癒することはできないし、なにより取り憑いたものを祓うことはもっとできない。本来、それと結びついてしまった人間は、極端な例外を除くと死ぬしか解放される術はないわ」

「見捨てろってことかよ。彩を」

「その子を助ける方法は、大きく分けて四つ」


 淡々とした口調は、夕貴を慰めるというより、諦めを促す色合いのほうが強かった。


「一つ目は十九年前にこの世界から失われた。二つ目はいま海の向こうにある。三つ目はたぶんまだできない。そして四つ目は、その子を……」

「言うな。それだけはいま、俺の前で言わないでくれ」


 夕貴は有無を言わさぬ声音で遮った。感情の抑制がきかなかった。ナベリウスは気を害したふうもなく、静かに夕貴のそばに寄り添うだけだった。


「……なぁ、彩」


 夕貴の呼びかけに、少女は薄く目を開くことで応じた。とても眠そうだった。だから夕貴は矢継ぎ早に声をかけた。


「なに寝てんだよ。とっとと起きて帰ろうぜ。明日からまた学校なんだから。ほんと響子のやつもバカだよな。なんで日曜なんかに花見やるんだよ。次の日を休みにしとけってんだよな」

「……そう、だね。……みん、なに……ありがとうって、言いたかったな」

「そういえば弁当作ってくれるって約束したよな。俺、すげぇ楽しみにしてるんだよ。忘れてたとか言ったら怒るからな」

「わたし、ね……夕貴くんにあえて、ほんとに……よかったよ」

「前にも言ったけど卵焼きは甘くないやつにしてくれ。ご飯は大盛り、いや、やっぱ特盛だな。こう見えても俺、めちゃくちゃ食うからな。覚悟しとけよ」

「……はじめて。もしかしたら、はじめて、かも。やっと……」

「でも渡すときは他のみんなにバレないようにしてくれ。託哉とか響子に見つかると絶対にややこしいことになるから」

「もっと、夕貴くんと、一緒にいたかったなぁ……」

「いればいいだろうが!」


 彩の血まみれの手を強く握り締める。


「おまえ言ったよな! もし困ってたら、どうしようもなくなったら助けてくれって! 約束した! 約束したんだ! 約束したんだよ! だから大丈夫だって! どんなことがあっても俺が助けてやるから! おまえを絶対に救ってみせるから!」

「そう、だね」


 彩は照れくさそうにはにかんだ。夕貴は涙を浮かべながら笑う。生きる気力を繋いでくれたと。まだ諦めないでいてくれたと。


 でも、そんなふうに自分を誤魔化して夢を見るにも限界があって。赤い血が、ずっと流れやがるこの赤い血が、どうしようもなく現実だって。


 どうすれば彩の興味を引けるのか。ない知恵を絞って考える。まだ彩がこの世界にいるための理由を必死に探す。


「そうだ、おまえ実はすっごい甘えたがりって言ってたよな。だから、おまえのために何でも一個だけ、好きなわがまま聞いてやるから」

「ほん、と? やっ、たぁ……」


 喜ぶ声に力はない。だらんと垂れたままの彩の小指に、夕貴は自分のそれを絡めた。


「ああ、絶対に約束する。だから、だから、だから、さぁ……」


 そこから先はもう言葉にならなかった。夕貴は嗚咽を堪えるのに精一杯だった。


「きれい、だなぁ……」


 眠たげな眼差しで夜空を見上げて彩は呟いた。しんしんと降りしきる雪は、こんなときでも幻想的に美しくて、彩の意識を繋ぎとめるために夕貴は語を継いだ。


「あ、ああ。きれいだよな。だから冬になったらもっと」


 いや、もう彩の瞳には何も映っていないのかもしれない。夕貴の声も聞こえていないのかもしれない。


「……あぁ、ほんとに」


 なぜなら彩にとって。


「今年の桜は、こんなにも、きれいで……」


 きっとそれは、雪ではなく。


「だから、いいよね……もう、なんだか、ねむくて。ちょっと……寝かせてくれると、うれしいな」


 ふざけるな。眠りが救いであるとでも言うのか。昏い闇のなかにいったい何があるというんだ。夕貴の頬を伝った涙が、彩の目尻に落ちる。


 夕貴の涙を流しながら、彩は子供みたいに笑った。


「じゃあわたし、お母さんが待ってるから、帰るね」


 もっとずっと見ていたかったはずの瞳が、ゆっくりと閉じられた。ほんとうにただ眠るだけのように、何の余韻もない幕切れ。


「……ま、待て、やめろ、おい、目を開けろ」


 彩の身体を揺さぶる。反応はない。もう一度揺さぶる。反応はない。さらに揺さぶる。反応はない。


「起きろって。バカ。こんなところで寝んな。怒るぞ」


 頬を叩く。反応はない。強く抱きしめる。反応はない。優しく抱きしめる。反応はない。強く優しく抱きしめる。反応はない。強く、優しく、もっともっともっと抱きしめる。


 そのとき、耳元に。


「えへへ」


 幸せそうな笑い声。


「そんな、夕貴くんが……わたしは」


 最後まで言葉を紡ぐことも叶わず、それっきり櫻井彩は二度と目を開けることはなかった。


「……なんだよ、これ」


 彩を抱きしめたまま、夕貴は呟いた。


「なんなんだよ、これ」


 これで終わりなのか。もう彩の笑顔を見ることはないのか。世界はいつだって残酷で、平和な日本に暮らしている彼らはそんなことを知らなかったから、これが悲劇だと勘違いしているだけなのか。


 もっとかわいそうな少女はいくらでもいる。何も知らされず銃を持たされ、飢餓し、犯され、利用され、ゴミのように死んでいく人間は掃いて捨てるほどいる。それに比べれば、こんなに幸せそうに笑って逝ける彩は恵まれているのではないかと。


「そんなわけ、ねえだろうが……!」


 夕貴は認めない。こんな結末は絶対に認めない。悪魔でも無理だというなら神に願おう。神でも無理だというなら奇跡を起こそう。奇跡でも無理だというなら俺が彩を救おう。


 どんなことをしてでもこいつを助けてみせるって。


 何があってもこいつを一人にしないって。


 俺は。


「俺に、そう誓ったんだ……!」


 彩の身体をさらに強く抱きしめる。氷の彫像のように固くて冷たい身体。それはもう生きているのか死んでいるのかも判然としない風前の灯。それが悲しくて、やっぱり認められなくて、夕貴は全身全霊でこの悪夢を否定した。


 キィン、と、甲高い耳鳴りがした。


 でもそんなこと夕貴には関係ない。ただ彩をどうにかしようとすることしか頭にない。切なく響き渡る音の連鎖も、熱くなっていく身体も、何もかもどうでもよかった。


「これは……」


 ナベリウスが周囲を見渡して息を飲む。雪が止み、世界を覆っていた絶対零度に亀裂が走り、粉々に砕け散っていく。歪んでいた物理法則が、枯れていた草花が、崩れていた大地さえもが、あるがままの姿を取り戻していく。


 それは抱きしめあう夕貴と彩を起点としていた。


 淡く、儚く、それでもなお強く、夕貴の瞳が光り輝く。ナベリウスのそれと対になるような黄金の色彩。ひどく見覚えのある双眸に、ナベリウスは遠い過去を思い出した。


 もう何も聞こえない。耳鳴りが強くなりすぎて聴覚が麻痺した。目の錯覚か、視界いっぱいを光が満たして何も見えない。抱いているはずの彩の感覚もなくなった。血の臭いがしない。舌に広がっていた悲しみの味も、どこかに消えた。


 ゆえにそれは、神でも悪魔でも奇跡でもなく、一人の少年が起こした、最初のハウリングだった。






 古色蒼然とした日本家屋。明かりのない部屋の中には十本の蝋燭。火がついているのは九本だけ。始まりの一つであった蝋燭は、十九年前に灯火が消えたまま、ずっと闇に閉ざされている。


 一人の男が将棋盤と向き合っている。男にも女にも子供にも老人にも見える。ただ、人でありながら人であることを忘れてしまったような、美しい男だった。


「もしよかったらわたしが相手しましょうか、冬人ふゆと叔父様」


 若い少女の声が問いかける。冬人は薄い唇でわずかに笑みの形を作った。それが否定の所作であることを少女は知っていた。


「またですかぁ? いっかいぐらいやってみましょうよ。案外、いい勝負になるかもしれないですよ」


 軽快な声で駄々を捏ねながらも、少女は、どうせ自分では相手にもならないことを知っていた。叔父が誰かと指しているところを見たことはないけれど、だれも彼に敵わないのはわかっていた。


「叔父様が指すその駒に、いったいどんな意味があるんですかねー」

りん。現実と将棋はまったくの別物だよ。混同するべきではないね」


 冬人は穏やかな声で窘めた。だが燐は不貞腐れてるのをアピールするために、わかりやすく頬を膨らませる。もう高校生になり顔からは幼さが抜けてきたが、その仕草だけは子供のころと変わらない。


「なんていうか、わたしって役得なさすぎると思うんですよね。無免許運転とか初めてしたのに。あれ、これって日本語おかしいですか? まあいいや、とにかく褒めてください。はい叔父様、お小遣い!」

「あんまり甘やかすと、兄さんと姉さんに申し訳が立たないな」

「もうどっちもいないじゃないですか。両親なんて」

「だからこそだよ」


 冬人は微笑む。大切な忘れ形見なのだから無下にするわけにはいかない。それは彼の本心であり、けれど何の意味もなかった。


「安心するといい。今回の件において《青天宮せいてんぐう》は関与しない。もともと彼らは政治に排斥された陰陽師たちの成れの果てだ。国家権力がすでに介入している事柄には、ことさらに手を出すことを嫌う。今後については千鳥にも裏を取っている」

「そんな御大層な。けっきょくは仕事じゃないですか。いまのご時世、やらなくていいことならだれだって残業してまで横槍入れたいなんて思いませんよ」

「大いなる指導者を失い、幾重にも枝分かれしているとはいえ《青天宮》の戦力は絶大だ。いまだ国家の霊的守護を司る組織として最低限の機能を果たしている。十九年前に一度は破られたはずの国土大結界がふたたび敷設され、そして現在に至っても維持されているのがその証拠といっていいだろう」

「そのときに色々と手を加えて悪いことでもしちゃったんですか? そうじゃなかったら叔父様のその千里眼みたいな地獄耳にとても納得できないんですけど。なんかわたしの着替えとかまで覗かれてそうだし」


 冬人は無言のまま目元を和らげると、手に持った将棋の駒を軽く握りしめた。


「ま、いいですけど。そんなことより、お兄ちゃんのことどうにかしてくれません? ぜんぜん言うこと聞いてくれないっていうか、もはや何もせず寝てるだけっていうか、やる気ってもんが感じられないです」


 燐は冷ややかな目で言う。


「前から聞こうと思ってたんですけど、どうしてお兄ちゃんを指名したんですか? わたしたちの一族とは違う血が流れているのに。なんで引き取っちゃったんですか、あの人を」

「半分は僕の血を引いている。それが理由だ。燐はあれが嫌いか?」

「や、普通に好きですよ。ぼろくそ言ってますけど。ただもうちょっと人生まじめにやってくれないかなって思ってるだけです」


 燐の言い分に、冬人は苦笑した。姪を愛でる優しい表情だった。それに意味がないことを燐はよく知っていたから、変わらず冷めた目つきをしたまま、これまでとは違って低く抑えた声で語る。


「もうこの国の人たちは灯火を恐れることはない。散りゆく花をそれもまた風情だと思える。月がきれいな日には見上げることもできる。我らが《十灯籠》と呼ばれたのも遠い過去の話でしかない。だってもう始まりの家は、零の一族はいないんですから」


 闇の中で、九つの火が揺れた。本来であれば口にすることさえ憚られる、その忌み名に。


「だってぇ、冬人叔父様がぁ」


 くすくすと煽り立てる笑い声。明かりの途絶えた一本の蝋燭を見つめながら。


「ぜーんぶ、皆殺しにしちゃいましたもんね」


 冬人は静かに口元で笑うだけだった。将棋も指さず、挑発にも乗らない叔父を退屈に感じたのか、燐はあっさりとその場を辞した。


「じゃあまあそういうわけで、わたしは楽しい高校生活をエンジョイしてますので。今度こそ何かあったら何も言わないでくれると嬉しいです。さようなら、叔父様」


 てくてくと歩いていき、障子をわずかに開いた燐は、そこで何かを思い出したのか動きを止めた。


「あ、そういえば」


 ぱたん、と障子が閉まる音がした。冬人はそちらに目を向ける。しかし、そこに少女の姿はもうなかった。


「──ちっちゃな頃から、ずっと考えてたんですよ」


 ほんの一瞬、それこそ瞬きのうちに、冬人の背後に気配が回っていた。首筋には冷たい刃物が当てられている。


「冬人叔父様を殺しちゃえば、もう全て終わってくれるんじゃないかって」

「そうなれば、また誰かが全てを始めるだけだ」


 恐怖も緊張もなく、それどころか目の前にある盤面を見つめて相手のいない対局に思考をめぐらせながら、冬人は淡々と答えた。


「それはもしかしたら、お前かもしれないな。燐」


 小さなナイフを握る燐の手が微かに震える。それから数秒の後、ゆっくりと離れた。


「なんちゃって。うそうそ。冗談ですよ。びっくりしました?」

「ああ。殺されるかと思った」

「またまた。わたしの台詞ですよ。ただの可愛い姪ジョークだったっていうのに、それを本気にしたこわーい番犬さんがさっきからギラギラと目を光らせてるんですから」


 大げさに溜息をつきながら刃物をふところに戻すと、燐は年相応の軽い挨拶を投げかけてから、今度こそ部屋を去っていった。


 冬人はかたわらの虚空に視線を向けた。そこにはしわがれた老人が一人、闇の中にひっそりと佇んでいる。寄る年波により衰えながらも、炯々とした眼光だけは凶犬のように輝いている。


「お思いか」


 老いた口から漏れたのは、巌のように重たい声だった。


「露と消えにし燈火のように、人の死を見届けることこそ咎負いなればと」

「そうだ」


 冬人は即答する。


 今夜、一つ目の条件は達成された。あとは二つ。そのために誰よりも選ぶ。誰よりも殺す。その役目を引き継いだ者は、まさに咎負いの咎負いと呼ぶに相応しい。


「うつろわざる命に価値を問おう。かつての零の一族がそうであったように、いまの僕もそうであることを約束しよう」


 そのためなら一人の命が失われたとしても些事に過ぎない。たとえそれが、年端もいかない少女だったとしても。


 なにより冬人には、どうしても見定めなければならないものがある。それは大切な約束だから。


 冬人の答えに納得したのか、静かに頷く気配がした。


「まだ貴方は貴方でおられるようだ」


 その言葉に僅かな安堵を覚えて冬人は目を閉じる。もうずっと昔になってしまった、あの頃に思いを馳せる。まだ日本の宵闇を十の灯籠が照らしていた時代。


 全てが終わり、全てが始まった十九年前。


 冬人は望むがままに、望まれるがままに、始まりの一族を殺し尽くした。ただ一人愛した女を、月の瞳を持って生まれた女を、殺した。


 そう、この手で。


「次の一手には、ずいぶんと時間がかかったね」


 銀将を取る。今宵、一柱の悪魔が表舞台に立つ決意をした。もう揺らぐことのない冬人の胸中に、一つの古い言葉が蘇った。止まっていた時が動き出したのだ。


 冬人は盤面を見つめる。彼の対面に誰かが座したのは生涯において二度だけ。幼少のみぎり、咎負いの娘と。最後の夜に、悪魔のような神のごとき男と。


 あれからずいぶんと時が流れたが、いまや生きているのは彼一人だけだった。


 冬人は並んだ駒たちを眺めながら、その複雑に入り組んだ状況を反芻した。


「あやをつける、か。皮肉なものだな」


 暗がりに灯る火は九本。かつてこの国の闇を照らしていた数より、それは一つ少ないままだった。






 全てが終わってしまったあとも、閑散とした夜の河川敷の片隅に、それはまだ残っていた。


「──アぁ、ああぁ、あ、あァ──」


 声にならない声でうめく影。かろうじて人型を呈しているが、輪郭はおぼろで、いまにも風に溶けて消えてしまいそうなぐらい儚い。


 そんな影を、ナベリウスは静かに見下ろしている。


 絶対零度の理は否定された。それはすなわち、《悪魔》にまつわる怪異が全て消え去ったことを意味する。しかし、こうしてまだ残っている”何か”がある。悪魔の力に頼らない不可思議な存在は、身も蓋もない言い方をすれば死んでしまった人間の未練や想念、つまり幽霊ということになるのだろう。


「いつだって報われないことのほうが多い。それが人という生き物だったな」


 どうしてここまで現世にこだわるのか、ナベリウスにはわからなかった。それでも苦しみ続けるより、いっそ一思いに成仏させてやったほうがいいだろう。


「──アァ、あ、ヤァ──」


 顔なんてないはずなのに、影は確かに涙をこぼした。少なくともナベリウスにはそう見えた。


「──ア、ヤ。アヤ、アヤァ──」


 その二文字が意味するところは、ナベリウスにも理解できた。


「──ゴメ、ナサイ。ゴメン。ごめん、ね。ごめん、ごめんなさい──」


 はっきりとした声で、ひたすらに影は謝り続ける。哀れなほど泣いて、ここにはもういない少女に対して、手遅れになった言葉を伝えている。


「そうか。おまえは」


 ようやくわかった。この世界に戻ってきた理由。死んでも死にきれなかった理由。いまだに留まろうとする理由。


 とても簡単なことだった。


「ただ、仲直りしたかっただけなのか」


 人を殺したことを後悔して、親友を傷つけてしまった自分に絶望した。仲違いしたまま二人の少女は別れて、一年の時を経て再会したものの、すれ違った時間の分だけ心は離れて、最後まで埋まることはなかった。


 遠山咲良は自分に厳しく、責任感が強く、そして不器用な少女だった。口先だけの謝罪は自分が楽になるだけで、相手は救われないと理解していたのだろう。だからできることなら彩の手で決着をつけてくれることを望んだ。


 安易に許してもらうことより、自ら償うことを選んだ。


 ほんとうはずっと謝りたいと思っていたのに、親友の母親を殺してしまったことに極度の罪悪感を抱いていた咲良は、面と向き合って自分の気持ちを正直に伝える勇気もなかった。


 こんな歪んだかたちでしか、想いを遂げようとすることもできなかったのだろう。


 それもけっきょく、無意味になってしまったけれど。


「やはり報われないな」


 謝りたい。仲直りしたい。また一緒に笑いたい──その想いがどうしようもなく本物だったからこそ、仮初の命とはいえ遠山咲良は現世に舞い戻った。しかし、そのせいで再び親友を傷つけることになってしまった。


 死んで消える程度の想いだったのなら、ここまで悲劇は大きくならなかっただろうに。


 虚しいものだ。もう想いを伝えるべき相手はどこにもいない。だからこうして現世にしがみついても意味はない。


 桜の名を持つ少女が、こんなにも親友を大切に想っていたという事実も、だれに知られることもなく忘れ去られていくだろう。


「それでも、無駄ではなかった」


 全てが終わるそのときまで、ちゃんと伝えられなかったかもしれない。けれど、だれにも届いていないわけではなかった。


 そんな慰めぐらいは、せめてあってもいいと思うから。


「おまえの想いは、確かに私が受け取ったよ」


 その声を聞いて、影はぴたりと静止すると、貌がないはずの貌に泣き笑うような表情を浮かべた。あるいはそう見えてしまったのも、ナベリウスの余計な感傷がもたらした錯覚だったのかもしれない。


 これはただ人が傷つけ、傷つけられ、救いもなく終わっていったというだけの話なのだから。


 氷の柱が夜空を衝いた。細く、長く、美しい、さながら墓標のごとき氷塊。


 それが粉々に砕け散り、桜の花のように破片を散らした後、そこにはもう何も残っていなかった。


次回 1-16『百合の面影』


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