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ハウリング  作者: ハイたん
壱の章【消えない想い】
16/20

1-14 『彩鮮やかな幸福を』


 ずっと手は繋いだままだった。


 どこをどう走ったのか、二人が辿り着いた先は河川敷の高架下だった。


 夕貴と彩は、風化したコンクリートの支柱に背を預けている。荒い呼吸を繰り返すだけで会話はない。四月の夜風が汗をかいた肌を撫でていく。


「逃げてって……」


 彩が苦しそうに声を絞り出す。身体をくの字に折り曲げて、熱っぽい吐息を漏らしている。肩にはなぜか二つのかばんを下げている。一つは以前にも見たことのある彩のものだが、もう一つは知らない。


 小さな、小さな、だれかのかばんだった。


「逃げてって、言ったのに……」


 手を繋いでいるから──いや、触れていなくてもわかる。彩の身体は人のものとは思えないほど熱かった。異常なまでの体温。ひたいには珠の汗をかいているのに、顔色は病人のごとく蒼白。どう見ても普通の状態ではなかった。


「なんでわたしのこと放っておいてくれないの。助けてほしいなんて言ってない。そんなこと、だれもお願いしてない」


 うわごとのように呟く声は、非難よりも哀訴めいた色合いのほうが強かった。


「夕貴くんは、なんで、わたしのこと……」


 彩の声は少しずつ力をなくしていく。走りっぱなしで疲れたのか。それとも、もうどうしようもないのか。考えたくなくて、夕貴は握りしめる手にぎゅっと力を込めた。


 いま自分がこうしている理由は、夕貴にも理論立てて説明することはできない。表面的なものはいくらでも思い浮かぶ。たとえば、彩を見捨てられないから。かわいそうだと思ったから。笑顔が好きで、いつまでも笑っていてほしいから。泣いているところなんてもう見たくないから。


 彩のことが好きか、と聞かれれば夕貴は頷くだろう。だが愛しているかと問われれば答えに窮する。心の底から女性を愛したことはまだなくて、彩に抱いている感情が、世間一般でいうところの愛と呼ばれるものと同じなのか、夕貴には判断がつかない。


 どちらにしろ、その友情やら愛やらが、出逢って間もない少女のために命を賭ける理由になるとは夕貴にも思えなかった。


 それなのに夕貴はここにいる。彩のそばにいて、いまも手を握っている。


「俺は……」


 心の整理なんて一切できていない。彩の疑問に答えることはできないし、もっと言えば、意味のある言葉を口にする自信さえなかった。


 それでも彩に声をかけてあげたかった。彩の声を聞いていたかった。


「俺はここにいる。彩のそばにいる。ずっと手を握ってるよ」

「…………」

「ほら、女の子がひとりでこんな暗いとこにいたら危ないだろ。だから俺は、どんなことがあってもおまえを独りにはしないから」

「……バカ。かっこつけ。女たらし」

「そんな言い方ひどくないか? いまの俺、たぶん人生でいちばん男らしかったと思うぜ」

「似合わない。ぜんぜん似合わない。そんなに可愛い顔してるくせに」

「おまえには負けるけどな」

「バカ」


 どちらからともなく笑う。


「ね、夕貴くん」

「なんだ?」

「……わたしを、殺してくれない、かな」

「は?」

「それがいちばんだと思うの。たぶん、そうすれば、ぜんぶ終わるから」


 意識が朦朧としているのか、彩は熱に浮かされた声で言う。


「ああ、そっか。あのとき、の……咲良ちゃんの、気持ちが」

「ふざけんな。俺はもうおまえを傷つけない。そう決めたんだよ、勝手にな」

「……あはは」


 どこか諦めにも似た苦笑。


「夕貴くんなら、そう言うと、思った」


 その直後だった。

 

「う、あぁ……」


 胸を手で抑えて彩が苦悶の声を上げる。これまでとは明らかに趣が異なる反応。彩の体温がさらに上がる。心臓の音すら聞こえてきそうだ。握りしめたてのひらは、もうどちらのものかわからない汗で濡れて、溶け合うように熱い。


 それなのに、現出した禍々しい気配は冷たすぎて魂まで凍えそうだ。彩の身体から砂漠の夜の蜃気楼のごとく歪んだオーラが立ち昇る。得体の知れない病魔が宿主を少しずつ蝕むように、夕貴のとなりにいる少女を侵食していくのがわかる。


 ガタンゴトンと音を立てて、ずっと遠くのほうから電車が走ってくる。


「おね、がい。逃げて」


 夕貴はなにもできなかった。どうすればいい。助ける方法なんて知るはずもない。顔を上げた彩と目が合って、揺れる瞳が懸命に少年の逃走を促す。自分から離れろと、わたしを見捨てろと言っている。


 しかし、それは逆効果だった。せめてこの手だけは決して離すまいと、夕貴は、ほどけそうになる指先を深く絡み合わせた。


 頭上の高架を電車が通過していく。吹きすさぶ風が二人の髪を揺らす。喧しすぎて声も聞こえない。だから、ぽとりと地面に落ちたそれを夕貴が見つけたのは、合間から降り注いだ一瞬の照明のおかげだった。ついさっきまで彩がぶらさげていた小さなだれかのかばん。それがゴミみたいに足元に落ちている。


 夕貴は手を伸ばして拾おうとしたが、中身は何も入っていないことに気付き、あれ、おかしいなと思ったところで、暗闇のなかで銀色が光ったような気がして、それが電車から降り注いだ光であったことに安堵し、でも反射的に身体を引いてしまったのは紛れもなく本能がただ勝手に危険を察知したからであって、決して彩のことを脅威だとか恐怖だとかそんなふうに感じたわけじゃない。


 俺はどんなことがあっても彩のそばにいる。そう誓ったのだ。


 そう誓ったばかりなのに、二人の手は離れた。


 夜の闇に煌めく軌跡を描いたのは、どこの家庭にでも一柄は常備されている普通の包丁。おかしなことがあるとすれば、それが夜の河川敷で翻ったという事実。


 後ろに下がりながらも彩に伸ばした夕貴のてのひらに、ぷつりと一筋の紅い線が刻まれる。灼けるような痛みが走ったのは、数秒ほど遅れてからだった。


 過ぎ去った電車の代わりに静寂が訪れる。


「あ、彩……?」


 それに耐えられず、夕貴は彼女の名を口にした。かつて夕暮れの帰り道で笑い合った記憶が蘇る。ただ名を呼ばれることが、この世に生を受けて親から一番初めにもらった大切な想いを確かな声にしてもらえることが、こんなにも嬉しいと知っているから。


「彩」


 あのとき、彩は笑ってくれた。気恥ずかしそうに頬を染めて、女の子らしくはにかみながら、夕貴の名前を呼んでくれた。だからもしかしたら、こうして彼女の名を呼べば、いつかと同じ笑顔を見せてくれるのではないかと思った。


 右手に包丁を握り、それを振るったままの体勢で、彩は静止している。ただでさえ暗い夜の河川敷の高架下だ。俯いたまま微動だにしない彩の顔は陰になって見えない。


「彩!」


 それは失敗だった。呼びかけなければよかった。彩がゆっくりと顔を上げる。そこに表情はなかった。ただ瞳から痛ましいほどに涙だけが流れている。大粒のしずくが頬を伝い、ぽたぽたと地に吸い込まれる。夕貴の手からも流れる赤いしずくが、哀しい雨の音にさらなる罪悪感を注ぐ。


 こうして彩の泣き顔を見るのは、もう何度目になるのだろうか。


 包丁についていた夕貴の血が、刃先を滑り落ちて彩の指まで垂れる。


「あ」


 たったいま気付いたかのように、彩は大きくまたたきをして、自分の手を見た。そこに固く握られている包丁と、付着した血液と、傷ついた夕貴を、呆然とした目で順に眺める。


「……やっぱり、こうなっちゃった」


 そして彩が見せたのは、納得したような、諦めたような、そんな笑みだった。


「知ってた。わかってたよ。きっとわたしは、夕貴くんを傷つけることになるって」


 違う、と言いたかった。ガキみたいに赤く泣き続ける手を服にごしごしと擦りつけて、そんなものはどこにもないと証明したかった。でも彩の手を染める血だけはなかったことにはできない。だれも騙せない。


「わかっていたのに離れられなかった。ううん、違う。離れたくなかったんだ。こうなることぐらい予想できたのに。笑っちゃうよね。あなたにだけは傷ついてほしくなかったのに、けっきょく、わたしがだれよりもあなたを傷つけることになるんだから」


 夕貴が彼女を泣かせてしまったように、彩が彼に悔いを与えたように。


 人は生きているだけでこんなにも誰かを傷つける。ならば、誰かと一緒にいることにどれほどの意味があるというのか。


「逃げて。まだ間に合う。いまからでも遅くないと思うから」

「そんなの、できるわけないだろうが」

「こんなわたしを、夕貴くんだけには見られたくない」

「…………」

「だめかな?」


 いつものように楚々と首を傾げる彩。だから夕貴は頷けなかった。


 いつものように見えるということは、すなわち彩がほんとうの自分を隠しているということだ。


 それぐらい、間抜けな夕貴にも理解できるようになっていた。


「夕貴くんにはわたしを殺せない。だから一緒にはいられない。これはただ、それだけの話なんだよ」


 言葉の代わりに、夕貴は拳を固く握って、大地をしっかりと踏みしめた。逃げる気なんてない。いまの彩を放っておけるほど夕貴は男を捨てていない。


 彩から苛立ちと、それ以上に辛そうな気配が伝わってくる。彩の感情に呼応して、どす黒い波動が激しく勢いを増した。


 何もかもあやふやな中で、一つだけ確かなことがある。


 彩の肉体を支配しているのは、彼女に取り憑いたあの禍々しい気配だということだ。あれこそ諸悪の根源であるのは間違いない。なんとか彩の動きを止めて、そのうちに除霊だか退魔だか知らないが、とにかくそれっぽい方法を思いつくかぎり探して試してやればいい。


 身に馴染んだ空手の構えを取ると、彩は悲しげに目を伏せた。


「……やめてよ。夕貴くんに、いまのあなたに、何ができるっていうのよ」

「そんなもん俺が知るか。未来のおまえにでも聞いてこい。あのときわたしはこうして助けてもらいましたってな」


 すでに夕貴は決意している。今度こそ、どんなことがあっても彩と向き合うと。泣いていたとしても目を逸らさない。最後まで寄り添い続ける。


 たとえ彩が、人殺しをするような化物に成り果てていたとしても。


「おまえが一人で何を抱えて苦しんでいるのか、俺は知らない。あの夜、どうしてあんなに泣いていたのかも死ぬほど考えてみたけど未だにわかってない」


 でも、と夕貴は続ける。


 なに勘違いな台詞をほざいてんだって自分でも呆れるが、これぐらいなら俺にもできると思うから。


「もし抱えているものが重くておまえが潰れそうなら、そのときは俺も一緒に背負うから」

「背負う? 背負うって……」


 言葉の意味を判じかねて、彩は冷たい表情で繰り返す。その顔色は次第に怒気を帯びて、身にまとうオーラが風となって勢いよく逆巻いた。


「ふざけ、ないで」


 彩にとってそれは致命的に許せない言葉だったらしく、涙を散らして怒号が飛んだ。


「ふざけないでよ! そんな簡単にかっこつけて! わたしがどんな思いだったのかも知らないくせに!」


 頬を澎湃と濡らしながら、彩は叫ぶ。


「この一年、ずっと耐えた! もうだれにも褒めてもらえないのに頑張った! 秘密に、ぜったいに秘密にって、そう思って抱えてきた! それをいまさらあなたなんかに言えるわけないじゃない!」


 少しずつ声が小さくなる。子供のような嗚咽。


「あなたなんかに……」


 あなたにだけは、と。


 それは夕貴に聞かせるつもりもない独り言だったかもしれないが、しかし彼の耳にはしっかりと届いた。


「これ以上、わたしといたら夕貴くんは後悔することになるよ」

「させてみろ。それができたら特別に何でもわがまま一つ聞いてやるよ」

「わがまま、かぁ……」


 彩は苦笑した。たったそれだけの言葉に深い感慨を抱いて。


「ああ、やだな」


 ここにはない花を想うように、彩は瞳を閉じた。


「今年の桜が、こんなにきれいじゃなかったらよかったのに」


 言葉を置き去りにして、少女の身体が消える。夕貴にはそうとしか感じられなかった。正面ではなく真横から衝撃。次の瞬間にはもう夕貴は大きく吹き飛ばされていた。腕には骨の軋む感触。とっさに両手を上げて頭をガードしたのが功を奏した。


 夕貴は地面を二度ほどバウンドして芝生の上を滑った。受け身を取って立ち上がる。左手は痺れてしばらく使い物にならない。もし頭以外を狙われていたら間違いなく致命傷を負っていただろう。常人離れした桁外れの膂力だった。


 ──死ぬかもしれない。


 意識した途端、どっと全身から汗が噴き出る。なんだかんだと言いながらも、心のどこかで人はそう簡単にくたばるものじゃないって楽観している自分がいた。


 その驕りが、たった一秒で打ち砕かれた。


 だらりと脱力した姿勢で、彩は夢遊病者のごとく佇んでいる。すでに本人の意識はないのか、表情どころか瞳にも人間らしい光はない。漆黒のオーラが身体を覆っている。宿主を守っているようにも、苦しめているようにも思える。


 よく見れば、さきほど夕貴を殴りつけたと思われる彩の手は、無残にも皮膚が裂けてぽたぽたと血が垂れていた。


 色白で小さな女の子らしい手だった。握りしめれば壊れてしまいそうで、だからこそ守ってあげたいと思った。


 それがいまは、あんなにも。


 あれは彩の意志じゃない。櫻井彩という少女を蝕む”何か”によって操られている。さながら人形劇のように全身に糸を結び付けられて。


 もうだれも傷つけたくないと願って生きてきた優しい女の子に、こうしてだれかを傷つけさせているのだ。


 その事実を思うと、死の恐怖がどうでもよくなるぐらいの怒りが込み上げてくる。痺れていたはずの左手が勝手に拳を握っていた。ほんの数分前までは、こんな怒りではなく、彩の手がそこにあったのに。


 ふたたび彩の姿が消える。速すぎた。明らかに異様な運動性能。繰り出される手は、素人特有のただ腕を薙ぎ払うだけのものだが、巨大なハンマーでぶん殴られたような理不尽な衝撃と破壊力がある。


 反撃するどころか、殺されないように立ち回るだけで必死だった。自惚れでもなんでもなく、夕貴でなければとうに死んでいただろう。こうして人の身でありながら命を繋いでいるだけで奇跡に近い。


 彩の手には包丁が握られたままだが、夕貴に振るわれることはなく沈黙している。それが彩にまだ人間性が残されていることの証だと信じるしかない。


 規格外の暴力に翻弄されながらも、夕貴に去来していたのは痛みでも危機感でもなく、どうしようもないぐらいの青臭い感傷だった。


 いま思えば子供の頃はよかった。世界は優しいだけだった。そんな日々がずっと続いていくと当たり前みたいに信じていた。


 ──わるいやつがいたら、おれがやっつける。泣いてる子がいたら守ってあげる。


 何も知らなかった幼い少年にとって、この世界は二色に別れていた。倒すべき悪者がいて、守るべき人がいて、そんな単純なものなのだとたかを括っていた。


 ずっと昔、まだもしもの話も考えられなかった夕貴は、こんな簡単な落とし穴にも気付かなかった。


 たとえば。


 もしも自分が守りたいと願ったはずの少女が、こうしてだれかを傷つけるだけの悪者になってしまったら。


 そのとき俺は、何に対して拳を向けるのか。


 わるいやつが泣いていたら、泣いている子がわるいやつだったら、俺はだれに手を差し伸べればいいのか。


 そんなに俺は難しいことを望んだのか?


 せめてとなりにいる人には笑っていてほしくて、だれかの泣いている顔なんて見たくなかっただけなのに。


 それだけのことが、いまはこんなにも遠い。


「……は」


 乾いた笑いが漏れる。考えても仕方ない。それでも後悔せずにはいられないんだ。


 きっとどこかで上手くいっていれば、何か一つでもボタンが掛け違えていれば、こんなことにはならなかった。


 なあ、彩。


 どうして俺たち、こんなことしてるんだろうな。


 ただバカみたいに笑い合って、何でもない日々を過ごしたかっただけなのにな。


 そんな問答をする余裕もない。まばたきや呼吸の間隔を一つ間違えただけで死に直結する攻防の中では、自分の命を守ることが関の山だった。


 だから。


 自分の命を守ろうとさえしなければ、いくらでも文句を言ってやれる。


 集中する。神経を研ぎ澄ます。心臓が一度だけ鼓動する。二度目は聞こえない。その狭間が、いまの夕貴の生きる世界だから。


 目が、瞳が、熱い。


 いつかの大雨の夜にも、こんな灼熱の感覚をまぶたに味わったことがある。


 あまねく全てを見通すような眼。生まれ持った才能でも、秘めたる力でも、ガキの痛い勘違いでも何でもいい。


 彩を、見る。


 たったそれだけだ。


 明瞭となった視界のなかを、漆黒の髪がよぎった。ふわりと少女の匂いがする。その中でも微かな血の臭いは隠しようもなく鼻孔を刺激する。それは人工の香料を好まなかった彩が間違って振った歪な香水。バカが。ほら見ろ。似合わないのがバレバレなんだ。


 拳を握る。歯を食いしばる。脚を踏ん張る。心は、覚悟をする。


「ざっ──」


 限界まで彩を引きつける。たぶん、チャンスは一度きり。


 彩が、いや、もうお互いが絶対に回避不能な間合いになるまで力を溜めてから。


「──けんなぁ!」


 力のかぎり拳を振り抜いた。相打ちでもよかった。女の子に手を上げる以上、むしろ相打ちじゃなければ気が済まなかった。秒にも満たない未来に、会心の手応えが夕貴の手に伝わってくるはずだった。


 でも夕貴は見てしまった。翻弄されていただけの夕貴が、突如として正確に放った一撃を前にして、驚きに目を見張る彩の顔。この目が、燃えるように熱い瞳が、見たくもないものを鮮明に映し出してくれる。わずかに表情を強張らせて、これから訪れるであろう痛みに怯えるような、ただの少女の顔を。


 時間が極限まで凝縮される中、夕貴の頭にいくつもの思い出が蘇った。一緒に走った。クレーンゲームで喜びの声をあげた。デートした。ご飯を食べて、映画を見て、観覧車から街の風景を見下ろした。笑いあって、桜を見上げて、雨の夜にはすれ違いもした。


 手加減をするつもりはなかった。覚悟もしていたはずだった。


 だから夕貴の拳が一瞬、不自然に速度を緩めてしまったのは、きっと何かの偶然に過ぎなかった。


 彩は紙一重の差で避けると、夕貴のふところに潜り込み、服を掴んで乱暴になぎ倒した。繊維がいやな音を立てて破れる。強烈に地面に打ち付けられて、夕貴は肺のなかの空気を全て吐き出した。


 生まれて初めて味わうほどの壮絶な衝撃は、夕貴の肉体から完全に自由を奪った。悶えることもできず、血が混じったよだれを垂らしながら、吸えもしない酸素を取り込もうと口を開閉させることしかできない。


 光が差し込むように、彩の瞳に少しずつ感情が戻ってくる。ほんの小さな何かが、彼女の心を揺さぶったのかもしれない。


 彩もよろめいて倒れそうになる。ふらつきながらも彩は、仰向けに伏している夕貴のうえに馬乗りになった。喘息にでもかかっているような、苦しく熱っぽい吐息が降ってくる。


 消耗の度合いで言えば、しかし彩のほうが大きかった。動くたびに体力ではなく、心が擦り減っている。


 夕貴に跨る彼女の身体は、服越しでわかるほどの異常な熱を宿している。触れている個所が燃えてしまいそうだった。それなのに悪寒がずっと止まらないのか、歯の根が噛み合っておらず、かちかちと音がしている。


 彩は唇を何度か震わせると、ためらいがちに呟いた。


「……なんで」


 それっきり何も言わない。夕貴はまだ声を発するだけの余裕もなく、切なそうに顔を歪める彩を見ることしか許されていなかった。


「そんな、ので……」


 彩の目から涙が溢れる。止めどなく。


「そんなので、背負うなんて言わないでよ……!」


 弱く頼りない夕貴を責める。口にした言葉に責任を持てなかった彼を責める。もしかしたら自分を助けてくれるかもしれないと期待させた男を責める。


 彩にそんなことを言わせた自分を、夕貴は責める。






 夕貴の顔が辛そうに歪んでいくのを、彩は目の前で眺めていた。せめて夕貴だけにはそんな顔をさせたくないって、そう思っていたはずなのに。


 わたしのしてきたことはぜんぶ無駄だったのか。


「もう疲れちゃった」


 ずっと抱えてきた重みに耐えかねて、彩の上半身が前のめりに倒れる。夕貴の頭の両端にそれぞれ手をついて、かろうじて崩れそうになる身体を支えた。からん、と音を立てて包丁が地面に落ちる。


 吐息がかかる距離で、さらに見つめあう。


「わかんないよ。どれだけ考えても。何がいけなかったのか。何が間違ってたのか。わたしにはもう、ぜんぜんわからない」


 一人分の冷たい涙が、二人の頬を等しく濡らした。


「わたし、そんなに悪いことしたの? ただ笑っているお母さんが好きだっただけだよ? これからもずっと笑っていてほしかっただけだよ? それってそんなに許されないことだったの?」


 限界だった。夕貴の前で涙を流したときから、彩の溢れる想いは止まらなかった。


 ほんとうの自分を、夕貴に知ってほしくてたまらなかった。


「だから、お母さんが再婚するときは喜んだよ。ほんとはちょっぴり寂しい気持ちもあったけどお祝いしたよ。お母さんが幸せになってくれるならわたしも嬉しかったもん。ずっと昔、わたしがちゃんと我慢できない悪い子だったからお父さんはいなくなっちゃった。だから新しくできた家族を、わたしは今度こそ守りたいって思った」


 かけがえのない親友ができて、彩は少しずつ心を開くようになっていった。


 それも全て、お母さんのためだった。


 彩の母親は、幼い頃から娘が自分を押し殺していることに気付いていた。娘にそんな無理をさせてしまっていることに親として罪悪感を抱いていた。もっと甘えてほしいと思いながらも、母子家庭となって娘に寂しい思いをさせた経験から、必死に我慢を続けようとする彩の心とまっすぐ向き合うことができなかった。


 そんな母親の想いに、彩もまた気付いていた。だが嫌われてしまうことが怖くてやっぱり素直になれなかった。


 それでも彩は、親にとって子供の幸せは、なによりも大切なことの一つだと理解していた。だから母のことを想うなら、彩がまず幸せにならなくてはいけないのが道理。いままで作り続けてきた『櫻井彩』という仮面を捨てて、本来の自分にならなければ真実の意味でみんな幸せにはなれない。


 そう思ってしまったのが、きっと最大の過ちだった。


「ある日ね、お兄ちゃんから言われたの。わたしのことが好きなんだって。おかしいよね。兄妹なのに。でもわかるよ。悪いのはわたしだって。わたしが妹をちゃんとできていれば、お兄ちゃんはきっと間違えなかったはずなんだから。咲良ちゃんを選んでいたはずなんだから」


 慎ましく平穏だった櫻井家は、そうして一つの歪みを抱えることになる。一度でも互いの胸のうちに秘めた想いを知れば、もういままで通りの兄妹には戻れない。


 義理の妹に告白するのは、どれほど勇気がいるのだろう。だが兄にそれを決意させたのは、ほかでもない彩だ。


 古くからの幼馴染だった兄と咲良は、彩が羨むほど仲がよかった。二人が結ばれることを密かに祈っていた。


 だから咲良の告白を兄が受け入れなかったとき、彩は思わず彼に問い質した。なぜか口ごもってはっきりとした理由を言ってくれない兄を糾弾してしまった。咲良の泣き顔を見ていた彩は、不明瞭な受け答えしかしない兄に苛立ちを募らせていった。


 そして間違える。


 ──ほかに好きな人なんていないくせに!


 必死になって恋心に蓋をしていた兄に、きっかけを与えてしまったのだ。


 もし彩が余計なことをしなければ、きっと兄から秘めたる想いを告げられることもなかっただろう。負けず嫌いな咲良のことだから、どんなに遠回りしても最後には兄のもとに辿り着き、その一途な恋を実らせたはずだ。


 わたしは、ただ存在するだけでみんなを傷つけているのではないか。


 何度もそんなことを思った。


「一年前、この街では通り魔の連続殺人事件があった。その犯人を、わたしだけが知っていた。でも言えない。言えるはずなんてなかった。だって!」


 もう彩には、夕貴の顔さえ満足に見えなかった。涙で塞がった視界は、雨の日に咲良と対峙したときの光景を想起させる。

 

「親友だったもん! だれよりも咲良ちゃんのこと知ってたんだもん! きれいなのに可愛くて、努力家で負けず嫌いでちょっとドジなとこあって、一生懸命で、ほんとは優しいくせに不器用だからわかりづらくて! そんな咲良ちゃんのことがわたしは大好きだった! だから信じられるわけなかった!」


 よくわからないものに心の空洞を支配されて、咲良は慢性的な殺人衝動に操られていた。


「その四人目の被害者は、櫻井深冬──わたしのお母さんだった」


 夕貴の顔がこわばる。彼も知っていたのだろうか。櫻井深冬という名は、ネットなり雑誌で調べればわかることだから無理もない。


「わたしの大好きなお母さんは、わたしの大切だった親友の手で殺されたんだよ」


 お母さんが笑っている顔が大好きだったのに、それだけで彩は幸せだったのに。


 そんな簡単な望みさえ、もう叶わなくなった。


「それから毎日、ずっと同じことだけ考えてた。どうやって死のうかって。なんでわたしだけ生きてるんだろうって。楽に死ねる方法を何度も調べた。やっぱり苦しんで死んだほうがいいのかなって思い直してそれも調べた。でもけっきょく、わたしにはできなかった。怖かったんじゃない。そんなことしたら天国にいるお母さんが悲しんでしまう気がした」


 死という究極の救いも彩には許されていなかった。今日に至るまで続いた一年という時間は、一人きりになってしまった彩にとっては永劫にも等しい地獄だった。


 でもいまは違う。やっと彩は死ぬための免罪符を見つけた。それはこれ以上、目の前にいる少年を傷つけたくないという一途な想い。


 なんとも報われない。滑稽だ。誰かの嘲るような笑い声が聞こえてきそうだ。


 彩を助けたいと願ったはずの少年が、彩が死ぬための理由となるのだから。






 彩の独白に、夕貴は静かに耳を傾けるしかなかった。もう喋れるし、その気になれば身体も多少は動かせる。だが剥き出しになった彩の想いに圧されて、心の身動きが取れなかった。


 彩の顔が歪んでいる。愛おしい友情に。狂おしい憎悪に。


 事件の真相は、じつに単純なものだった。遠山咲良が犯人で、彩の母親である櫻井深冬はその被害者。これまで彩がずっと探していたのは殺された親友ではなく、母親を奪った殺人犯。


 事件は、もう解決しているのだ。咲良が死んだそのときから。


 そこまで考えてから、名状しがたい違和感に夕貴は囚われた。全て明るみになったはずなのに、小さな怪訝の針がまだ胸の奥に突き刺さったままで、冷たい空気を飲み込んでも頭は明晰としない。


 そうだ。もっとよく整理して考えてみろ。簡単な話だろう。盤面にはまだひとつだけ解決していない大きな謎がある。


 遠山咲良が殺人犯で、櫻井深冬はその被害者で。


 だったら。


 咲良は、いったいだれに殺されたんだ?


「お母さんを殺したあと、咲良ちゃんはわたしの前に現れた。それでね、こう言ったんだよ」


 ──わたしをもっと早く止めていれば、あんたの母親が死ぬこともなかったのに。


「その夜は大雨が降ってた。咲良ちゃんは持ってた包丁をわたしに投げて渡した。殺してほしいってお願いされた」


 現在の彩と同じものに心身を侵されていた咲良は、せめて親友の手によって終わることを願った。あるいは贖罪だったのかもしれない。


「……だから、おまえが」

「できなかったんだよっ!」


 夕貴の呟きは、しかし彩の叫声によってかき消される。


「できない! できるわけないじゃない! 殺してやろうと思ったよ! お母さんを奪った咲良ちゃんが憎くて憎くて仕方なかったよ! 復讐してやるって何度も思ったよ! でも、でもさ!」


 いやいやと駄々を捏ねるように頭を振って、彩は続ける。


「親友なんだよ! わたしのたったひとりの親友だったんだよ! 嬉しかったもん! わがまま言っていいんだよって認めてくれた! こんなわたしのことわかってくれた! お母さんとどっちが大切かなんて、そんなの選べるわけない!」


 だから、と。


 これまでずっと背負ってきた罪科を、彩は告白する。


「包丁を持って立ちすくむわたしに、咲良ちゃんはいつもと同じように笑いかけてくれて──わたしの手を握って、そのまま自分で胸を突き刺したんだよ」


 櫻井彩は心優しくて、愛が深い少女だった。憎むことも、赦すこともできないほどに。


「子供のころから諦めて、我慢して──そのときもやっぱり中途半端に迷っていたわたしに、お母さんの復讐を遂げさせてくれるために、咲良ちゃんはわたしの手で自殺した」


 ゆえに五人目の”犠牲者”は、犯人でもある遠山咲良だった。


「でも確かに、咲良ちゃんは──わたしの親友は、わたしの手で死んだ」


 これまでの彩の発言には、何一つとして矛盾はなかった。


 ──そして犯人は、まだ捕まってない。この街にいる。


 咲良は死んだ。でも彼女を殺す一因となった犯人は、ずっと櫻井彩として存在していた。


 ──いまから一年前、わたしは大切な人をなくした。


 だれも咲良のことだとは言っていなかった。それどころか、咲良のことを現在進行形で親友だと言っているところさえ記憶にない。


 一年前に起きた悲劇を、彩はずっと一人で抱え込んできた。親友が殺人を犯し、自分も最愛の母を奪われ、贖罪を求める咲良には手を差し伸べてやることもできず、ただ目の前で自殺するのを見ているしかなかった。


 だれにも相談できず、怒りをぶつける親友も哀しみを分かち合う母もすでにこの世にはいない。それでも咲良の名誉を傷つけないために、幼馴染の真実を知って兄が絶望しないように、彩はぜんぶ一人で耐えて、我慢してきた。


 彩が頑なにほんとうの自分を曝け出そうとしなかったのは、距離が近くなればなるほど、その相手にも一年前の真実を背負わせてしまうかもしれないから。


 もう限界だったのに。


 だれかに甘えたくて、わがままを言いたくて、たまらなかったのに。


 全てを知った夕貴がまず抱いた感情は、言葉にできないほどの憐れみと、理解した気になるのもおこがましいぐらいの同情。


 そして、単純な怒りだった。


 こんなになるまで自分を擦り減らしている彩に気付かなかった己に対する怒り。


 巻き込めばよかったんだ、と都合のいい舌がぺらぺらと回って勝手に格好をつけそうになる。


 しかし、それは彩の精一杯の優しさと気遣いを無下にするのと同じだ。彩の気持ちを理解したつもりでいるのなら、迂闊にそんなことを言うのは間違っている。


「一年前と同じだね。いまなら咲良ちゃんが、わたしに殺してほしいって言った意味がよくわかる」

「どういうことだよ」

「わかるでしょう。夕貴くんなら」

「……わからねえよ」


 わかりたくもない。


「たぶん、わたしはもう引き返せない。さっきからね、ずっと幻聴が聴こえるの。殺せ、殺せ、殺せって、いろんな女の子の声がする。夕貴くんの血を見たときも、実を言うと、わたしは感じたこともない幸福感に満たされてた。頭にかかってるもやもやとした霧がいっぺんに晴れたような、そんな気分だった。もっと夕貴くんの血が見たいって、そう思っちゃった」


 かたかたと彩の手が震えている。それは恐怖ではない。抗っているのだ。


「こんな人間、もう生きてちゃいけないんだよ。早くしないと夕貴くんのこと殺しちゃうかもしれない。そんなことお願いだからわたしにさせないで」


 涙ながらに彩は懇願する。すぐそばに包丁が落ちている。一年前と同じように、それで今度は彩の胸を貫けば全ては解決するのだろうか。


 何も選べなかった彩の代わりに、いま夕貴が選べばいいのだろうか。


 人殺しとなった咲良に気付いていながら、彩はどうすることもできなかった。その結果、愛しい母親を喪ってしまった。


 ここで彩を止められなかったら、また一年前の悲劇が繰り返される。名も知らない誰かが理由もなく殺されていく。そして今度は、夕貴の大切な人たちが犠牲になるかもしれない。


 全てを失ってから後悔しても遅い。そのことは彩を見ていればよくわかる。


 単純な話だ。どこに悩む必要がある。


 出逢って間もない一人の少女を取るか、家族や友人も含めた大勢の人間を取るか、そんなの考えるまでもないだろう。


 あとは覚悟を決めるだけでいい。


「……ふざけんな」


 夕貴は否定する。まだわからない。方法の模索もしていないのだ。彩に憑依している悪魔のごとき存在を排除する手立ては、きっとどこかにあるはずだ。それを探しもしないで諦めてたまるか。


「時間がね、もうないの」


 挫けない夕貴の意志を、だが彩はかぶりを振って否定する。


「人を殺したくてたまらない。その衝動が訪れる間隔がさっきから短くなってる。いまはまだなんとか我慢できてるけど、たぶん、そろそろ限界。ほんとにわたしは夕貴くんのこと殺しちゃう」


 ああ、そうか。だったら簡単な話だ。俺がおまえにやられないぐらい強かったらそれでいいんだろうが。


「ねえ、おねがい」


 彩の瞳から光が消えていく。それと比例して、肉体から迸るオーラは邪悪に淀んでいく。彩の手がしなやかに伸びて、夕貴の首に絡みつく。まるで抱擁でもするように優しく締め上げられる。不思議と苦痛はほとんど感じなかった。ただ少しずつ呼吸ができなくなっていくだけだ。


 細く、小さく、冷たい指先は、やっぱり震えていた。それが渾身の力であることの証左ならまだよかった。


 けれど、違う。


 彩の目からは、もうとっくに枯れていてもおかしくない哀切の涙が、とどまることを知らずに滂沱と流れ続けている。彩は何も言わない。言葉を持たない。冷徹な眼差し。いっそ美しいと感じるほどの無表情。


 ただ、どうしようもなく震える手が、彩の心を教えてくれる。


「くっ、そ──」


 彩の腕を掴んで、引きはがそうと試みる。しかし、少女のものとは思えない膂力がそこにある。夕貴の全力でもどうにもならない。


 意識が少しずつ遠のいていく。どうしてこんなことになったのか、俺はいま何をしているのか、そんなことさえ考えられなくなっていく。自分という自分が曖昧になっていく。


 なんて皮肉だ。


 守りたいと願ったはずの少女に、こうして命を奪われるなんて。


「お、まえ……」


 しかし夕貴には、一つだけ許せないことがある。


「……んな顔、すんな、よ」


 ぼんやりと考えてしまうのだ。


 いまの彩を、もしお母さんが見たらどう思うのか。泣きながら人殺しをさせられている娘を見たらどんなに悲しむのか。


 この世界はいつだって残酷だ。全員に等しく優しいわけじゃない。それぐらい知ってる。ときには親を疎む子がいたり、子に憎まれる親だっているだろう。


 ただ俺は、それでも信じたいんだよ。


 自分が愛して産んだ子供が、こんなことをしていて喜ぶ親なんているわけないんだって。


「おまえ、は──」


 なあ知ってるか。女の子はな、笑っているほうが可愛いんだよ。血なんてぜんぜん似合わないんだよ。どんな親だって自分の子供には、だれかと一緒に笑っていてほしいって、そう思って、愛して、そして産まれてくるように願うんだよ。


 おまえは、その中でも特別なんだ。そんなにきれいな想いと祈りの名を抱いて、この世に生を受けたんだろうが。


 咲き誇る花があって、それを優しく見守る瞳があった。腕の中で安らかに鼓動を響かせるぬくもりには、そう育ってほしいと微笑んだ。


 桜の花のように、彩鮮やかな幸福を。


 小さなてのひらに、ただそれだけを願って。


 だからおまえの手は、こうしてだれかを傷つけるためにあるんじゃない。いずれ愛する人と幸せに繋いで、その幸せを自分の子供にも伝えてあげるためのものだ。それをこんな間抜けな男の首を絞めるのに使うなよ。もったいないだろ。


 ただそれだけを彩に伝えたい。神様でもなんでもいい。悪魔に魂を売らなければならないのなら喜んで差し出そう。天国でも地獄でも連れて行きやがれ。


 だから、どうか。


 そう願う声すら、もう発することはできない。何もかも手遅れだった。


 萩原夕貴という少年の人生は、たった一人の少女の涙を止められなかった後悔に彩られながら、ここで終わりを迎えるのだから。






 だが、そのときは永遠に訪れなかった。






「え……?」


 ありえないものが視界をよぎったせいで、感情をなくしていた櫻井彩の瞳にわずかな人間性が戻る。


 しんしんと、音もなく、それは雲一つないはずの夜空から降りそそいだ。


「……雪?」


 信じられない気持ちで手を伸ばすと、人肌に触れるや否や夢のようにあっさりと溶けて消えていく。


 喉を締め付けていた手が離れたことで、萩原夕貴は咳き込みながら酸素を取り込もうとする。ほどなくして夕貴も、その季節外れの空の落とし物を目にして凝然となった。


 だから二人とも、それに気付かなかった。


「──ほら、せっかく忠告してあげたのに」


 澄み切った声は氷細工を連想させて、ひどく心地よく耳に響いた。


 霜の下りた芝生を踏みしめて、ゆっくりと何者かが近付いてくる。その足音は、次第に固く、冷たいものとなった。まるで一人だけ凍土の上を歩いているかのように。


 刻一刻と、気温が低下していく。


 荘厳なる冬を引き連れて現れたのは、銀の色彩を身にまとった女だった。腰まで伸びた長い髪は、白い雪よりも幻想めいて風に揺れる。凍てついた水晶のごとき瞳は、この世のどんな宝石よりも尊く、あまねく世界を閉じ込める。


 彼女のことをよく知っているはずの夕貴が、そして、自我を失いかけていた彩でさえ、思わず息を忘れて魅入るほどの他を霞ませる存在感。


 ただ、美しいということは、こんなにも人の心を奪うのだ。


「だから言ったでしょう?」


 距離を置いて立ち止まったナベリウスは、両手を広げて呆れていた。普段となんら変わらない、仕方のない弟を言い含める姉のような自然さで。


「あなたには、女を見る目がないってね」


 酸素が絶対的に欠乏していた夕貴は、途切れかける意識を保つのに精一杯で、意味のある言葉を紡ぐことはできなかった。この場にナベリウスが現れたことも夢か幻の類だと思っていたかもしれない。


 だから、これを紛れもない現実だと認めて、先に反応したのは彩のほうだった。


「……あなた、は」


 臓腑の底から絞り出すような、仄暗い憎しみに満ちた声。


「咲良ちゃんを、殺した」


 彩の弾劾を、だがナベリウスは平然とした表情のまま受け流す。


「あの子はもう死んでいたわ。一年前に喪われた命を、わたしはあるべき形に戻しただけ。あそこにいたのは彼女の想いをまとった残滓、つまり偽物に過ぎない」

「にせ、もの?」


 その言葉の意味が、彩はしばし飲み込めなかった。


 偽物──彩の前にふたたび現れた咲良は、確かに生前の咲良そのものだった。彩のジュースの好みを覚えていてくれたのに素直にお礼を言えなかった。子供にサッカーボールを蹴り返したときなんて、本人は気付いていなかったかもしれないが、バレバレなぐらい得意気な顔をしていた。


 一年という長い時間があったにもかかわらず、彩の心は、母親を殺した咲良を憎むと決めることも、不条理な悲劇に見舞われた親友を赦すこともできなかった。どっちつかずなまま約束の時を迎えてしまった。


 だから咲良は、あえて非情な悪役を演じた。信じられないぐらい下手すぎて、涙もこらえることができなくて、それが彩の心を後押ししたのは皮肉としか言いようがないけれど。


 赦されるよりは、せめて憎まれたかったのだろう。謝るのではなく、どうか償いたかったのだろう。


 彩ではなく自分の心を傷つけながら、慣れてもいない親友の悪口を必死に言って、一つの決着をつけようとした咲良の想い。


 それをこの女は──偽物と言ったのか?


「これでも申し訳ないとは思っているわ。わたしが余計な感傷に囚われていなければ、もっと違った結末もあったはずなんだから」


 ナベリウスがなにを言っているのか、彩にはまったく理解できない。唯一わかるのは、ナベリウスさえいなければ、咲良は死なずに済んだという事実だけ。


 もしナベリウスが現れるのがあと一秒でも遅ければ、暴走した咲良の手により彩が殺されていたとしても、そんなものは些事に過ぎない。


 だってあと少しで彩は自分の心を伝えられたはずなのだ。咲良もまた彩に最後の言葉を言えたはずなのだ。


 それが、そんなことだけが、別たれた二人には重要だった。


 その機会は、もう永遠に失われてしまった。


「あなたの、せいだよ」


 いつしか彩は、ナベリウスに対して憎しみを募らせることで現実から目を逸らそうとしていた。たったいままで彩が己の手で何をしていたのか、自分の下にはだれがいて、どうして苦しんでいるのか、それをひたすらに忘却するために。


「あなたのせいで、わたしと咲良ちゃんは離れ離れになった。ずっとこのときだけを夢見て、こんなありえない奇跡だけを信じて、今日まで頑張ってきたのに」

「そうね。わたしたちのせいかもしれない。だからあなたにはわたしを殺す権利がある」

「殺す? やめてよ。わたしはそんなことしない。するはずないでしょう。あなたとは違うんだから」


 彩が忌々しげに吐き捨てると、その怒気に合わせて大地に一筋の亀裂が走った。ぴしり、と連続して音が鳴り、彩の周囲が次々とひび割れていく。怨嗟の風が吹きすさび、柔らかく降っていた雪を蹴散らした。


 ナベリウスは眉一つ動かさず、むしろ感心したように頷いた。


「よくそれでまだ自我を保っていられるものね。そこまでいけば人の意志では抗えないはずなのに」


 本来ならとうに彩は限界を迎えているはずだった。彩に憑依した”何か”は、人間という種に慢性的な殺人衝動をもたらす。一定の間隔で訪れるそれは、ヒトの三大欲求が同時に飢えるような地獄の苦しみで、基本的には殺人という行為でしか満たされない。戦争も飢餓も知らない普通の少女に堪えられるはずもない。


 ようするに、彩にはここまで必死に頑張ることのできた理由があって、それが彼女を瀬戸際で食い止めていた。


「健気なものね」


 ナベリウスはうそぶく。


「そうまでして、夕貴には少しでも長くほんとうの自分を見ててほしかった?」

「あなたなんかにわかるわけないよ!」


 少女の悲鳴が、哀しいまでに響く。


「夕貴くんがいたから! この人がそばにいてくれたから、わたしはわたしでいられた! 夕貴くんだけは傷つけたくないって、夕貴くんだけには笑っていてほしいって、わたしはそう思って、これまでずっと……!」

「だったら、どうして夕貴を殺そうとしているの?」


 彩の身体が停止した。感情さえも凍り付いた。


「え? なに、が」


 意味がわからない。だから彩は、ナベリウスの視線の先を辿ってしまった。白銀の瞳は、彩ではなく、その下で仰臥している少年を見ている。


「……あ」


 夕貴の白い首には、赤い手形がついている。血ではなく、痕が残るほどの力で締め上げられたのだ。だれがそんなひどいことをしたのか、彩はわからなかった。わかりたくもなかった。


「ち、ちがう。ちがうよ。だ、だって、わたしは……」


 それはあまりにも報われない現実だった。はじめから殺人衝動に身を任せていればよかったのだ。こうしてだれかと会話もできないぐらい、もっと自分を捨てていればよかったのだ。


「残酷なものね。夕貴のことを想うあまり、人を殺す化物にはなりきれなかった。でもそうやって自分を殺しきれなかったせいで、夕貴を手にかけようとした後悔から逃れることもできない。もっと拙い気持ちだったのなら、あるいは」


 ナベリウスは目を閉じて、自分の発言を悔いた。どのみちもう手遅れだ。すでに櫻井彩は戻れないところまできている。


 ならば人の想いがこれ以上の悲劇を生む前に、人ならぬ身として全てを終わらせるだけだ。


「もう御託はいいだろう。いい加減に身の程を弁えろよ」


 夜空から降りそそぐ雪が激しさを増した。だが異変はそれだけにとどまらない。急激に下がった気温は氷点下を回り、吐息は濃霧のように白くなった。


 絶大なまでの冷気が空間を包み込んでいく。コンクリートが、芝生が、木々が、高架が、ありとあらゆるものが一瞬にして凍結し、見渡す景色の全てが銀色に染まる。


 ここに世界の片隅を塗り替える一夜だけの氷河期が顕現する。


 その権能は、森羅万象の悉くを凍てつかせた。


 《絶対零度アブソリュートゼロ


 ナベリウスの全身から氷河を思わせる澄んだ波動が放たれる。長い銀髪が大きく巻き上がり、夜空に流れる。パキパキと凍てつく音がして、凍結の範囲がさらに広がっていく。


 何人たりとも侵すことの能わぬ、氷煉の世界。


「いつまでそこに跨っているつもりだ、人間」


 彩が夕貴に馬乗りになっているという事実は、かの大悪魔にとって断罪に等しい。対して、太陽のもとで育った普通の少女にしてみれば、それは心臓を鷲掴みにされている心地だった。


 たった一瞥に、常人ならば卒倒しかねない圧力がある。見られているだけなのに、いつ心が砕け散ってもおかしくないほどの暴威が、彩を絶え間なく蹂躙する。


 彩が夕貴から即座に飛びのいたのは、なかば本能によるものだった。そばに落ちていた包丁を拾って、できるだけ距離を取る。手足の末端が壊死しそうなほど寒いのに、彩の背中には冷たい汗が流れる感触がある。


「やだよ、こんなの。な、なんで……」


 彩は後悔する。どうしてこんなことになってしまったのか。


「わたしはただ咲良ちゃんと……夕貴くんと、一緒に」

「そう」


 ナベリウスは憐れむような目でしばらく彩を見ていたが、やがて冷めた声で言った。


「その前に、あなたは死ぬわ」


 銀の双眸がわずかに細められる。その直後、凄まじい轟音と、砕ける氷の破片。巨大な氷の剣山が地面を突き破り、彩の足元から天高くまで屹立した。その高さはもはや鉄橋に匹敵する。人体を貫くどころの威力ではなかった。ビルの崩壊さえ誘うだろう。それさえもナベリウスにとっては指を一本動かしただけに等しい所業だ。


 彩は寸前のところで躱した。その着地点に、槍を思わせる氷柱が雨となって降りそそいだ。逃げ遅れた服のすそが破かれて塵に還り、散った氷の欠片が頬に当たる。


 理不尽を訴えることも彩には許されていなかった。一歩でも遅れれば、跡形もなく貫かれて凍って死ぬ。命を燃やし尽くして、たった一瞬先を生きるために無我夢中で動き回るしかなかった。


 無骨な氷の槍が次々と大地を抉っていく。彩の肉体なら掠っただけで死ぬだろう。見晴らしのよかった空間はまたたく間のうちに、さながら森林のごとく氷の柱が林立している。


 ナベリウスは一瞬、夜空に目を向けた。視線をわずかに逸らしただけ。その所作を偶然にも目撃していたことが間一髪で彩の命を救う。


 頭上と呼ぶには高すぎる天空の果てに、宇宙すらも氷結させてしまいそうなほどの膨大な冷気が収束。


 空の遥か彼方に一つの新たな星が瞬いた。それは刹那のうちに大きくなる。光が降り注ぐのと、彩が地上から全力で跳ぶのは果たしてどちらが先だったか。


 入れ替わるように、墜落。


 天から落下したのは氷の巨大な破城槌だった。大型バスほどもある莫大な質量が、隕石のごとき速度で大地を穿ったのである。まず無音。先に衝撃が広がり、一拍遅れてから世界は音を思い出す。想像を絶する威力に天地が軋んだ。


 絶対零度が終わり、また始まる。


 氷の柱がいくつも粉々になって、微粒子に回帰していく。百のガラスが砕け散るような和音がして、億千の破片が舞い散り、月明かりが壮麗なオーロラを生み出した。巨大なクレーターが生成され、森羅万象が破壊に揺れた。


 上空三十メートル。衝撃波にも後押しされて、彩は人の力では到達し得ない高度まで跳躍していた。どこまでも澄み渡る夜空が彩を包み込む。いつもより月が近い。星の海に沈んでいく感覚。


 きれい、と場違いなことを彩は思った。


 その背後にナベリウスがいた。音速に等しい速度だった。細い脚が振り抜かれて、彩は大地に蹴り落とされた。地面に張っていた氷が爆砕する。粉塵が舞い上がり視界を隠したところに、ナベリウスは遅れて着地した。


 そこに一陣の突風が駆け抜けた。


 少女のかたちをした影が奔る。怒涛の速さに空気が弾かれて、煙幕が一気に晴れた。すでに彩の全身は傷だらけで、肌には血で濡れていないところがないほどだ。


 それでも彩は、包丁を腰だめに構えてまっすぐ走る。


 泣き叫びたくなるほどの痛みに支配されながらも、だれかを傷つけようとしてしまう。


 母のことも少年のことも忘れて、親友の運命を狂わせた元凶に、こうして自分も翻弄されるばかりの少女。


 その人生が、あまりにも儚いものだったから。


 ナベリウスは悼むように瞳を閉じた。


 彩の手に持っていた包丁は、ナベリウスの腹に突き刺さっていた。流れ出る血は赤く、それ以上に熱かった。


「満足した?」


 口元から一筋の赤い雫を流してナベリウスは言う。致命傷にはなり得ない。氷山につまようじを刺したようなものだ。だがその痛みは、確かに人間が感じるものと遜色はなかった。


 それは無意味な同情だった。かつて一人の少女が味わった痛みを、そしてこれから目の前にいる少女が味わうことになる痛みを、せめて自分も共有することに意味なんてないのに。


「あ、あ……」


 彩は柔らかい腹部を突き刺した感触に我に返った。茫洋としていた目には人間らしい感情が戻る。だからこそ彩は、自分の仕出かした行為がはっきりと理解できてしまった。


 ゆっくりと包丁が引き抜かれる。氷の上に血潮が飛び散った。


「あ、ああぁ──」


 彩は自分の手を見た。包丁を握ったまま、真っ赤に染まった手。


 一年前、大雨が降っていた夜も、そうだった。


 親友の胸を貫いたときの光景が、何もできずに咲良の手を借りることでしか復讐できなかった自分が、最後の最後まで彩のことを気遣うように痛みを我慢して微笑みながら死んだ咲良の顔が、一瞬にしてフラッシュバックする。


 声がした。もうひとりの自分の声が。


「やめ、て」


 ──あのときは何もしようとしなかったくせに。


「ち、ちがう」


 ──自分の命が危なくなったらみっともなく抵抗して。


「ちがう、の。ぜんぜん、ちがう!」


 ──我が身可愛さに、他人に刃物を向けて──


 直後、ナベリウスの身体から吹雪のごとき波動が放たれた。不可視のそれは、物理的な衝撃力をもって彩を吹き飛ばす。


 ナベリウスの全身を巡るオーラが活性化する。腹部の傷はたちどころに薄氷に覆われたかと思うと、次の瞬間にはあっさりと砕け散る。その下から現れたのは、元通りに再現された美しい柔肌だった。


 地面に倒れたまま事の成り行きを見守っているしかなかった夕貴は、そこでようやく声を出せるまで復調した。まだ苦しそうに喘息する夕貴のことを見た彩は、心配そうな表情になって、慌てて彼に手を伸ばす。


「夕貴く──っ!」


 だが自分にはそんな資格はないと思い直したのか、いまにも泣きそうに顔を歪めると、まるで夕貴から逃げるようにきびすを返した。少しずつ夜の闇に紛れて彩の姿が見えなくなっていく。


「ま、てよ」


 夕貴は満身創痍の身体を起こす。ついさっきまで夕貴の周囲には氷の壁が聳え立ち、あらゆる衝撃から彼を守っていた。それも戦闘が解除されるのと同時に砕け散る。


「待てよ、彩!」


 立ち上がると、夕貴は迷うことなく彩のあとを追おうとした。


「どこに行くつもり?」


 それをナベリウスが遮った。冷たい眼差しが物語っている。あとはわたしが始末を付けると。


「あの子たちはね、”悪魔のようなもの”に取り憑かれたのよ」

「……それが」


 櫻井彩を、そして遠山咲良の人生を狂わせた原因なのか。


「ええ。詳しい説明は後回しにするけど、簡単に言っちゃえば、ちょっとおかしな波動で突然変異した幽霊みたいなものでね。取り憑かれた人間は慢性的な殺人衝動に駆られることになる。発作が起こった場合、普通の人間ではまず抗うことはできない。さっきあの子が、あなたを傷つけたようにね」

「なんで……そんなのに、彩が」

「専門家でもないわたしには詳しいことはわからない。ただわたしの知る限り、これに取り憑かれた人間はみな精神を強く病んでいた傾向にあった。つまり、あの子はよほど心に深い傷を負っていたのでしょうね」


 もう一つの可能性を、あえてナベリウスは語らなかった。


 黒の法衣を身にまとう蒙昧なる詩人は、一年前にとある少女の願いを叶えた。ナベリウスはそれを遠山咲良のものとばかり思って、今回の事態はそれを前提に動いていた。


 しかし、ここまで後手に回らざるを得なかったことを踏まえると。


 もしかしたらあれが接触したのは、咲良のほうではなく。


「聞かないの? あの子を助ける方法」

「ああ。聞かねえよ」

「どうして?」

「俺が助けるからだ」

「あなたでは無理よ」

「それはおまえも同じだろう」

「はっきり言いましょう。あの子はもう手遅れよ。助けるためには殺すしかない」

「だったらお前は、どうしてすぐにそうしなかった?」


 夕貴は鋭い目で一瞥した。


「ずっと俺たちを見てたよな。手遅れだと知ってるならそれは無意味だったはずだ。まだ何かの可能性があったってことじゃないのか?」

「そうね。否定はしない」

「どうすればいい?」

「夕貴の秘められた力が解放されれば何とかなるかも」

「なんだ、じゃあ俺が諦めなければ彩を助けられるんだな」

「え、信じるの?」


 夕貴が受け入れてみせると、笑えない冗談を口にしたつもりだったナベリウスは目を丸くして驚いた。


「約束してたよな」


 夕貴は言う。


「ピンチになったら俺を助けてくれるって。そしておまえはそれを守ってくれた。感謝してるよ」


 ナベリウスは何も言わなかった。彼女は当然のことをしたまでで、礼を言われる筋合いなどない。 


「でもそれは俺だけだ。彩はまだなんだよ」

「だから言ったでしょう。いまのあなたには無理だと」


 もとより夕貴の力に一縷の望みをかけて、ナベリウスは限界が訪れるそのときまで少年と少女のことを見守っていた。それで何も解決しなかったことはもう証明されている。だからナベリウスは自らの手で幕を引くことを決めたのだ。


 だが、とナベリウスは自分の行動に矛盾があったことを認める。


 それなら櫻井彩を取り逃がしたことの説明がつかない。ナベリウスがその気なら、一秒とかからず決着はついていたからだ。櫻井彩を存在ごと凍結させることなど造作もない。


 当初、それは情けにも思えた。人間らしい亡骸だけでも残すという慈悲。


 しかし、ほんとうにそれだけなのだろうか?


 心のどこかで、ナベリウスはありもしない結末を望んでいるのではないか。


「約束があるんだ。おまえと同じように。俺にも一つだけ」


 夕貴は視線を切って、彩が消えた方向に目を向けた。静謐な夜を穢す不吉な力が感じられる。でも夕貴には、それが少女の悲鳴にしか聞こえなかった。


 彩が呼んでいる気がした。


「……なあ。おまえは迷子になったことがあるか?」


 ナベリウスは答えず、じっと夕貴の目を見つめている。


「実はな、俺はないんだ。いつだって母さんが迎えに来てくれたからな。信じられるか? 母さん、どこにいたって俺のこと絶対に見つけてくれるんだぜ。たぶん、ちょっとエスパー入ってるなあれは」


 夕貴、と。


 いつも優しく呼びかけてくれる声があったから。


「あいつには、もういないんだ。迎えにきてくれる人が。大好きだったお母さんが。だから俺が行くんだ」


 夕貴は足を踏み出した。絶対零度の上を歩く。こんな冷たい世界をたった一人でさまよっている少女のことを想って。


「やめておきなさい。ただ辛い結末が待っているだけよ」


 ナベリウスはどこか寂しそうな声で言った。


「そんなものは関係ない。俺はただ、諦めるのが大嫌いなんだ」


 頼りない足取りで走り出した少年の背を、ナベリウスは静かに見守っていた。


「あ、そういえば」


 ふいに夕貴は、ぴたりと足を止めて、肩越しに振り返った。流れ的にそのまま行くものだとばかり思っていたナベリウスはちょっとびっくりする。


「おまえって、マジで悪魔だったんだな。どうりで美人過ぎると思った」


 そんな抜けている気がしなくもない台詞を最後にして、今度こそ少年は振り返らずに去っていった。


 一人きりになった途端、ナベリウスは盛大に頭を抱えた。


「……はぁ。似なくてもいいところばっかり似るんだからなぁもう」


 周囲を見渡す。河川敷は不自然なほど静かだった。人の気配どころか、動物の息遣いも、虫の羽音も聞こえない。ここまで人払いが徹底されているとさすがに違和感しかなかった。


 この街を永久凍土の底に沈めない程度には力を抑えたが、その配慮も無意味だったかもしれない。


 十九年の時を経て、ナベリウスはふたたび表舞台に立った。その十九年間、ずっと待ち続けていた人間がこの国にはいることを彼女は知っている。


 こうして全てが始まる日のために。


 いつの世も同じだ。役者が変わるだけで、相反した物語はつつがなく進行している。


 知恵と万象の王ソロモンの夢見た世界と、蒙昧なる詩人グリモワールの下した予言。


 それは人が願うにはあまりにも大それた祈りだったけれど。


「せめて、もう一度だけ」


 ナベリウスは目を閉じて、これから訪れる未来に想いを馳せる。


 かつて涙を流しながら七十二柱もの悪魔を封じた、あの泣き虫な少女と同じように。


次回 1-15『小さなてのひらに、ただそれだけを願って』


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