1-13 『桜の花のように』
かつて遠山咲良は、自分が特別なのだと思っていた。
恵まれた家柄に生まれた。本物の天才である兄姉がいた。自身もまた非凡な才能を持っていた。咲良という少女を取り巻く何もかもが特別で、幼い頃は劣等感とは無縁だった。
それに気付いたのはいつだったか。
確かに咲良は、あらゆる物事において平均以上の優れた結果を示したが、その反面、どんなに努力しても何かで一番になることができなかった。同じ血を引くはずの兄姉は、両親の期待に応えて常に競争の中で首位の座を守り続けていたのに。
家族の中で自分だけが特別ではないと思い悩んだ日もあった。努力して、でもぜんぜん思うようにいかなかった。諦めたくなくて、自分に負けることだけは認められなくて、ずっと一生懸命に、不器用ながらも走り続けた。
そんな咲良の苦悩があっさりと解決したのは小学生の頃である。犯人は当時、近所に住んでいた二つ上の少年だった。
──がんばってもがんばらなくても、何になっても何になれなくても、僕にとって咲良ちゃんは咲良ちゃんで、それだけで特別なんだよ。
そのときまで咲良は、みんなの特別じゃなくて、だれかの特別になるということがこんなにも嬉しいなんて知らなかった。
そう言ってくれた彼が、咲良のことを放って家庭の事情なんてもので引っ越していったときは苛立ちのあまり泣いてしまったけど、その思い出があるから咲良は頑張れた。
成長した咲良は、高校の入学式で一人の少女と出逢う。
櫻井彩。
懐かしい名字だった。その歳になっても恋する乙女さながらに、ノートに彼の名前を書いては物憂げに見つめたりしていたから忘れるはずもなかった。
ささいなことから彩と仲良くなって、はじめて櫻井の家に遊びにいった日、咲良と少年は再会を果たすことになる。その小さな偶然に、咲良は運命という名前をつけた。それから離れ離れになってしまった時間を取り戻そうとするかのように、幼馴染の二人は同じ時を過ごした。
一年が経ち、二年を過ぎるころ、親友となった彩の美貌はとみに深みを増しつつあった。顔からは幼さが抜けて、ふとした仕草には大人の女の色香が混じるようになり、同性である咲良でさえときおり見惚れるほどだった。
けっきょく、咲良は高校でも勉強や運動で一番になることはなかった。男子から人気はあったが、いつも彩がとなりにいたから自分の容姿を誇る気にはなれなかった。それでも自分を特別だと認めてくれる人がいたから、どんなときでも咲良は咲良でいられた。
少年の──いや、いまでは立派な青年となった彼の想い人を知るまでは。
義理の妹に恋をしてしまった彼を、だが咲良は責めることができなかった。むしろ血の繋がらない男女が一つ屋根の下で暮らすという関係が、自分では及びようもなく特別なものに思えた。
想いは、実らなかった。
自分を見失いそうになった咲良は、そのとき告白してくれた同級生の男子を受け入れた。大した理由はない。ただ彼が、どことなく咲良の想い人に似ていたからだろう。ようするに、寂しさを忘れるための手頃な身代わりだった。
そこから先のことを咲良はあまり記憶していない。だが顛末だけはなんとなく覚えている。
出逢ったときと比べると、彩はずいぶんと明るく笑うようになっていた。新しい家族ができて、気の許せる親友ができて、少しずつほんとうの自分というものを見せ始めていたのだ。このときの僅かな時間が、彩にとってもっとも充実した日々だったことは想像に難くない。
だが皮肉なことに、そうやってみんなの求める『櫻井彩』の仮面を外した彩は、より魅力的な少女となってしまった。義理の兄が想いを抑えきれなくなり、勇気を振り絞って告白を決意する程度には。
そこに至るまでにどういう経緯があったのか、咲良には知る由もないし、知りたくもなかった。
家族というものに飢えるのと同じぐらい、今度こそ家族というものを大切に守ろうとしていた彩は、まさかの兄からの告白をひどく拒絶した。
さらに同じ頃、咲良は交際していた男子から別れを告げられることになる。真摯に頭を下げて彼は教えてくれた。実はずっと好きな人がいて、一度告白したが想いは実らず、それを忘れるために咲良に近づいたのだと。
代わりだと思っていたのは咲良だけでなく、彼にとっても咲良は本命の代わりに過ぎなかった。
咲良は怒りもせず、笑みさえ浮かべて彼の謝罪を受け入れた。むしろ謝るのは自分のほうだと思っていた。彼が咲良と別れたあと、すぐに彩のもとに走ったときも、もはや何の感慨も懐かなかった。
みんなの特別になりたかったわけじゃない。咲良はただ、だれかの特別になりたかった。
それが叶うなら、自分の生き方を変えてくれた幼馴染の青年であってほしかっただけ。
次々と大切なものを失っていく。どんなに頑張っても、指の隙間からこぼれ落ちていくのは止められない。努力すればするほど空回って何もかもがうまくいかなくなる。まるで幼い子供の頃に戻ったかのようだ。あのときとは違って、いまはもう咲良のことを特別だと認めてくれる人はいない。
そんな咲良の目の前で、彩は手にした全てをあっさりと未練なく捨てていく。それはぜんぶ、咲良が心の底から望んで、しかし手に入らなかったものばかりだった。
羨ましかった。記憶にノイズが走っている。思い出せない。泣いているところを彩に見られた。とても酷いことを言ってしまった。彼に選ばれたのに拒絶した彩が許せなかった。ノイズが聞こえる。ノイズ。消えればいい。ノイズ。ひどく傷ついた彩の顔がいまでも忘れられない。それに仄暗い快感を抱いてしまった自分も忘れられない。
そうして世界から色が消えていった。こんな自分に何の意味がある。生きていても仕方ない。彩と仲良くならなければよかった。いや違う、彩は大切な友達だ。とてもお母さん想いで、わたしにはもったいないぐらいの親友だ。憎い。なぜ彩はみんなから好かれるのか。大嫌い。決まっている。優しいからだ。母親からもらったプレゼントのことや、久しぶりに頭を撫でてもらったことで、あんなに嬉しそうに語る姿が愛らしいからだ。
じゃあここで、ちょっとひとつ考えてみよう。
ほんとうにちょっとだけでいいから。
お試し。
あくまでお試しで考えてみよう。
何の意味もない想像を、笑ってしまうぐらい稚拙な妄想を、前提すぎて仮定にもならない話を、ちょっとだけ考えてみよう。
たとえば。
もしもの話だけど。
大好きなお母さんが死んじゃったら──彩はどんな顔をするのかな?
****
『──ああ、素晴らしい。それでこそ人の子だ。もっと願い給えよ』
そんな声が響いたのを覚えている。
『届かぬ祈りに身を焦がす。愛しいな。愛しいとも。かつての知恵と万象の王を思い出すよ。私にとっては嬰児の駄々となんら変わらない』
黒の法衣を身にまとう影は、慈しむように嘲りながら。
『──その願い、叶えてやりたくなるな』
まるで詩人のように、そう唄った。
****
自然公園の端にある小さな噴水広場は、日が暮れてしまうと不気味なほど閑散としていた。大人数で寛ぐようなスペースを確保することが難しく、絶好の花見スポットである芝生を戴いた広場が正反対の位置にあるからだろう。いくつか並んでいるベンチは恋人がそっと寄り添うには似合いだが、いやに肌寒い風が吹く今夜に限ってはそんな物好きも見当たらない。
あるいはみな察して、無意識のうちに避けていたのかもしれない。ここには人智を超越した異形の”何か”がいることを。
そして、それは事実だった。
だれもいない広場の中央に佇み、遠山咲良は桜の木を見上げていた。いくらか感傷的な気分になるのは、それが自分の名前の由来だからだろう。十九年前、咲良が生まれたときも、こんなふうに美しい桜が咲いていたと両親は話していた。
目を閉じて覚悟を決める。背後から足音が聞こえてきた。見なくてもそれがだれかわかってしまう。ずっと逢いたいと願っていた相手のことを、だれよりも大切な親友のことを見誤る咲良ではない。
足音が止まった。近くも遠くもない中途半端な距離。それがいまの二人だった。
「きれいね」
あらかじめ用意していた小さなかばんをぎゅっと握りしめて、咲良は語りかけた。
「こんなにも桜がきれいに見えるのは、はじめてかもしれない。ええ、今日はほんとうに、とても桜がきれい」
「……大げさだね。そんなに変わるものでもないでしょう。毎年、この時期になると見ることになるんだから」
「花はね、いつだれと見るかで変わるのよ。だから、わたしにとっては今年の桜がいちばん特別。そんなこと、彩ならわかってると思ってたけど」
二人は十メートルほどの距離を置いて向き合った。咲良はまっすぐな目をしている。やましいことも隠し事もない、心を映したように澄んだ双眸。彩が気圧されてしまったのは、それがどこかの少年とよく似た眼差しだったからだろう。
「こんな桜をね、わたしはこれからもずっと見ていたかった。明日も、一週間後も、一年後も、ずっと」
「勝手に見ればいいじゃない。咲良ちゃんはもうここにいるんだから」
拗ねたようにぼやく彩の仕草は、昔とまったく変わっていなかった。それが嬉しい。どれほど心に傷を負ったとしても彩は彩のままだ。気丈に振る舞っているくせに怯えを隠しきれていないその表情でさえ、一年前に咲良と対峙したときのそれとまるで同じだった。
そう、同じなのだ。それは彩がまだ心を決めかねていることを意味している。
だから咲良の役割は決まった。たったいま、この瞬間に。
彩が変わっていないのなら、咲良が変わるしかない。
「ねえ彩。──話をしましょう」
咲良の顔に浮かんだ笑みは、これまでとは打って変わって見るものを不安にさせる嗜虐的なそれだった。
「ずっと聞きたかったのよ。彩がこの一年間、どんな気持ちだったか。寂しかった? 悔しかった? 憎かった? 怒ってた? それとも自分の手でやり直したかった?」
「わたし、は……」
まだ咲良に向ける感情が定まっていないのだろう。迷っている。当然だ。そう簡単に割り切れるわけがない。それだけのことが二人の間にはあった。
ゆえに咲良は踏み出す。もう後戻りしないために。後悔なんてしなくてもいいように。
「わたしはね。ずっと彩のことが憎かった」
ぱりん、と音を立てて見えない何かが割れる。それは二人の関係であり、大切だった親友から悪意を向けられた彩の表情でもあった。
戸惑うような、傷ついたような、彩の顔。
いつだったか咲良は、これとまったく同じ表情を親友にさせてしまったことがある。
「いいえ、いまでも憎んでる。いつも彩は、わたしの欲しいものを奪っていった。わたしが唯一、大切にしていた思い出さえあんたは踏みにじった。むかつくのよ。見ててイライラするわ。男にはちっとも興味ありませんって感じで清楚ぶってるくせに、ほんとうはいつも誰かに助けてもらったり守ってもらうことを期待してて、自分の力では何もできやしない。でもまあよかったじゃない。今度、寄生する男はせいぜい頼りになりそうで。萩原夕貴くんだっけ?」
さらに咲良は顔を歪めてみせる。夕貴の名が出た瞬間、これまで頼りなく揺らいでいた彩の眼差しが強くなった。過去でも未来でもなく、この場にいる咲良だけを見ている。
怒り、憎しみ──それがどんなかたちであれ、彩から特別な感情を向けられていることに咲良は退廃的な悦びを覚えた。だれかに必要とされている証拠。世界から認められている感覚。
そうやって自分を誤魔化す。
「咲良ちゃんは何が目的なの?」
「決まってるじゃない。あんたに復讐するのよ。そのためなら彼だって傷つけるわ」
「夕貴くんは関係ないよ!」
強く激しい感情の発露。咲良の記憶にある大人しい彩からは想像もできない声だった。だから笑う。
「これはわたしと咲良ちゃんの問題でしょう!? わたしのことが憎いならわたしに仕返しすればいい! わたしのことが嫌いなら……は、初めから、あんなふうに、優しくしなければよかったじゃない!」
彩の声音に隠しようもない震えが交じる。目だけは臆することなく咲良を見据えたままで、だからこそ彩の瞳の奥に隠された感情が手に取るように伝わってくる。
目は口ほどに物を言うと──その言葉を遺した者は、かつてこんな哀しい瞳と向き合ったことがあるに違いない。
だが咲良は満足そうに微笑む。悲痛に叫んでくれる彩の姿が自分の想像通りだったから。そんな顔をしてくれると思っていたから。
自分の思い通りに事が進んでいることに安堵して、咲良はなおも言葉を重ねる。
「そうね。あんたが周りの男に余計な愛想を振りまく前に縁でも切ってればよかった。そのほうが彩にとってもよかったんじゃない? バカみたいに大切な人を喪うこともなかったんだから」
こんな歪んだかたちでしか想いを遂げられない。死んでも治らない自分の不器用さが嫌になる。
「……ひどい。ひどいよ。なんでそんなこと言うの? なんでまたわたしをいじめようとするの?」
ここまで彩が頑張って、必死に持ち出さないようにしていた話題を、あえて咲良は自分から投げかけた。そうしなければ前に進めないと思ったからだ。
「もういや。傷つくのも、傷つけるのも怖いんだよ。恨みたくも憎みたくもないんだよ。わたしはただ、咲良ちゃんと……」
「うっさいな。ごちゃごちゃ言ってる暇があるならわたしを止めてみなさいよ。じゃないとまた一人になるだけよ」
冷たく突き放して、咲良は手に持っていた小さなかばんを放り投げた。彩の前に着地したそれは、意外なほど金属質で澄んだ音を響かせた。何が入っているか理解できたのだろう。彩の面持ちがにわかに固くなった。
「難しいことじゃない。それを拾って、わたしに向ければいい。ずっと昔、彩が果たせなかった復讐を、いまここで遂げればいいのよ。それでぜんぶ終わる」
「さ、咲良ちゃん……」
「十秒数える。それで彩が動かなかったら、わたしは萩原夕貴を殺す。言っとくけど、いまのわたしにはそれだけの力があるわ」
咲良の細い身体から、黒く禍々しいオーラが放たれる。それは大雨の夜、夕貴と彩を襲った女が身に纏っていた気配とまったく同じだった。
過去の詩人や学者が得意気に語ってきた”悪魔”という言葉が陳腐に思えるほどの、鮮烈な死の気配を漂わせる黒い陽炎。
それは彼女がこうして『遠山咲良』でいられる理由であり、かつて『遠山咲良』でいられなくなった原因でもあった。
萩原夕貴を殺す。その一言を聞いた彩は、眦を決すると落ちていたかばんを拾い上げた。中身は取り出さない。しかし、いつでも開けられるように指を添えて、ゆっくりと咲良のほうに歩み寄ってくる。
彩の顔は苦しそうだった。白い肌には目に見える汗が浮かんでいる。近付くだけでも一苦労なのだろう。それほどまでに現在の咲良は、普通の人間には耐えられない負の存在感を放っている。
そんな彩の様子を見た咲良は、また一段と表情を歪ませて挑発を繰り返す。
「怖い? わたしが? そうよね。どうせ彩にはできっこない。気持ちはよくわかるわ。他人より自分の命のほうが可愛いものね。だれだってそうだもの」
彩は何も言わない。ただ泥濘を進むような重い足取りで咲良に向かってくる。
「だからほら、また逃げる。失敗する。後悔する。やり直したいと望む。けどできない。それを延々と続けて繰り返す。そんな人生に何の意味があるのよ。いまの彩を見たら、あんたのお母さんはどう思うでしょうね」
ぱりん、とまたひび割れる。粉々に砕け散っていく。
「どうせ無理よ。今度も、きっと届かないわ」
彩の母親は、いつも咲良の恋を密かに応援してくれていた。暖かな日溜まりが似合う心優しい人だった。咲良ちゃんみたいな友達がいてくれてよかったなぁ、と言ってくれた夜もあった。
そんな恩人でさえ悪罵の対象にする。目的を果たすためなら咲良は何だって利用してみせる。
こうでもしないと。
こうでもしないと、咲良は言いたいことも満足に言えなかったから。
「運命なんて言葉は大嫌いだけど、でもまあ、けっきょうどう転んでもこうなっていたと思うわ。お互いに大切なものを失くしちゃった日から、ね」
もう距離は近い。数歩も歩けば触れられるだろう。これで終わる。そう思って咲良は夜空を仰いだ。彩は咲良だけを見ていた。一方通行になってしまった視線。だから気付かなかった。
「……ね、咲良ちゃん。わたしたち、もう十九歳になっちゃったね」
そういえば、と咲良はどうでもいいことみたいに思い出す。
四月、偶然にも同じ日に産まれて、偶然にも同じ花から名前をつけられた二人の少女がいた。
「あの頃より一年分だけ、だけど、それでも大人になれた。だからわかるんだよ」
正面から向けられる声に、いままでになかった種類の感情が乗せられていることに気付いて、咲良は訝しげに眉を寄せた。
これは、なんだ?
「ううん、ほんとうはわかってた。ずっと知ってた。咲良ちゃんはわたしのせいで苦しんでるって。わたしなんていなければよかったって。だいじょうぶ。そんなのちゃんとわかってる。自分でもよく思うもん。わたしさえいなければ、お父さんとお母さんは離婚せずに済んだから。お母さんにわたしという重荷を背負わせることもなかったから」
「そう、よ。あんたはいらない。邪魔なの。目障りなのよ。そんなあんたのことが、わたしは憎くて、大嫌いで、仕方ないのよ」
「だったら」
彩の手が伸びる。無垢で何の力もない弱々しい手。それなのに咲良は身を竦ませると、怯えて目を閉じてしまった。
頬に何かが触れる。いや、もうずっと、初めから触れていた。とっくの昔に堰を切っていた。それに気付いていなかったのは、自分をうまく誤魔化せていると勘違いしていた咲良だけ。
「なんで咲良ちゃんは、そんなに泣いてるの?」
「……え」
冷たい涙のうえに触れた指は温かかった。黒曜石のように澄んだ彩の瞳には、顔をひどく歪めて、静かに涙を落とす少女が映っている。
その少女に、咲良は見覚えがあった。幼い頃からずっと鏡で見てきたから。
血のにじむような努力をして、上手くいくこともあれば失敗することもあって、それでも自分にだけは格好悪いところは見せられないと意地を張ってきた、そんな負けず嫌いの女の子。
この世界で唯一、自分が諦めなければ絶対に勝てるはずの相手。
それがいまは泣いている。こんなにも泣いている。
「わたしはね、咲良ちゃんのこと……」
「やめろっ!」
悲痛な声で叫んで、咲良は彩の手を振り払っていた。咲良の感情に呼応するように、その身体から邪悪な波動がさらに激しく流出する。
それだけは彩の口から聞いてはならない。これだけは咲良の口から言わなければ意味がない。
遠山咲良は、自分を納得させてからじゃないと櫻井彩と向き合えない。そのためにここまで回りくどくお膳立てした。死んでも死にきれなくて人ではない”何か”になってまで戻ってきた。
どうしても、伝えたい言葉があったから。
「ごめんね、咲良ちゃん。嫌なことさせちゃって。わたしが何もできなかったばかりに、咲良ちゃんに無理を押し付けて。似合わない悪者の真似なんかさせちゃって」
「ちが、う……」
真似ではない。ほんとうに悪者なのだ。親友のとても大切なものを永遠に奪ってしまったのだから。
一年前のあの日からずっと後悔していた少女がいた。
でも果たしてそれは、櫻井彩だったのか。遠山咲良だったのか。
「咲良ちゃん」
彩は微笑む。そこにはもう憎しみも恨みもなかった。傷ついた二人の少女がいるだけだった。
「もうわたしの前では、嘘をつかなくていいんだよ」
その一言が咲良の心を決定的に崩壊させた。いますぐにでも彩に触れたかった。思っていることをぜんぶ余さず伝えたかった。受け止めてほしかったし、受け止めたかった。
咲良の望みは、決して難しいものではなかった。彩がそう言ってくれるのなら、あとは自分に正直になるだけで叶うだろう。
「彩、わたしは──」
しかし、この世に都合のいい奇跡などない。
そこであっさりと限界が訪れた。
がきり、と機械のように咲良の身体が硬直して、目から人間らしい表情が消える。これまでとは比べものにならない膨大な波動が満ちて溢れ、黒く逆巻いて天に昇る。
遠山咲良という少女の心に巣食った”何か”は、これまでお預けを食らっていた腹を満たそうと、目の前の獲物に──彩に向けて悪意の手を伸ばす。
それは人が人である以上、決して抗うことのできない悪魔的な殺人衝動だった。
身体の支配権を奪われて、心を蹂躙されても、咲良は伝えようとする。こんな姿になってまで彩のもとに帰ってきた理由。ちっとも素直になれない自分が、呆れるぐらい遠回りをして辿り着こうとしたゴール。
あるいは咲良の口からちゃんと声は出ていたのかもしれない。だが強烈な耳鳴りがこだまして、彩にはほかの音を拾う余裕はなかった。
止まることを知らない不協和音の中で、彩は手を伸ばした。咲良もまた反射的に手を伸ばす。二人の手が触れる。言葉がだめならぬくもりで伝えられる想いもあると信じて。
「──え?」
当惑の声は、だれのものだっただろう。
鮮血が舞った。
びしゃびしゃと小気味よい音を立てて、止めどなくこぼれる血。
冷たい槍のようなものが咲良の背を紙のごとく突き刺し、腹まで貫通していた。咲良に理解できたのはそこまでだった。
背後から何者かの気配。銀色の髪が風に流れている。咲良の目の前にいる彩は、返り血をもろに浴びて、ぽかんとした顔で状況の推移を見守っている。
この世から意識が消える寸前、遠山咲良が耳にしたのは、大切な親友の哀しい絶叫。
伝えようとした言葉も、伝えてくれようとした言葉も、最後まで届くことはなくて。
それは奇しくも、一年前の夜の焼き直しだった。
心が砕け散る音を聞いた。
返り血が妙に温かったことを覚えている。それ以外は知らない。知りたくない。たったいま目の前であっけなく死んでしまったのが自分の親友だと、彩は認めたくなかった。
だってまだ何もしていない。ずっと探していて、ようやく逢えたのだ。自分の気持ちと向き合い、心の在り方をちゃんと決めたのだ。いつか訪れるかもしれない、こんな嘘みたいな再会の日だけを信じて、彩は今夜まで色のない世界で独り耐えてきたのだ。
それがぜんぶ無駄になった。彩が迷っていたから、友情と憎しみの間で揺れていたから、たった一言を伝える時間がなくなってしまった。
一年前の夜と同じように、彩の前で冷たくなっていく咲良。その顔が、その身体が、まるで輪郭が崩れるようにして見たこともない少女のそれに変貌していく。少しずつ咲良の存在が世界から失われていく。
耳鳴りがした。
ぽっかりと空いた彩の心の空洞に”何か”が流れ込んでくる。ひたすらに黒く心が塗りつぶされていく。この世の果てよりも冷たい、おぞましいほど邪悪な力。それは遠山咲良が身に宿していたものと同質の異形だった。
拒絶する気は起こらなかった。むしろ受け入れなければと思った。彩の心身を侵食する禍々しいオーラの中には、この街で自殺した何人もの少女の悲哀とともに、咲良の魂も微かに感じられたから。
だったら否定していいわけがない。
もうわたしは、咲良ちゃんを傷つけたりしない。絶対に見捨てない。
「──ちっ、そういうことか。グリモワール。あのクソ野郎が」
彩の視線の先、咲良だった少女の遺体の向こう側には、この世のものとは思えないほどの美しい女が立っている。忌々しそうに舌を打ち、白銀の双眸を細めて彩のことを見ている。
彩はその場にうずくまり、寒さに震えるように両腕で自分の体を抱きしめていた。咲良から渡されたかばんを捨てずに胸のなかに抱えていたのは、そこに少しでも親友のぬくもりを求めたからだ。そして、こうでもしていなければ内から溢れるものを抑えきれないと、本能で感じ取っていた。
あまりにも暴虐な風が渦を巻いて、広場の周囲に立っていた木々をしならせる。吹き荒れる怨念。撒き散らされる慟哭。華やかに咲き誇っていた桜が少しずつ枯れていく。
そんな絶望の色をした暴風雨の中心にいるのは、櫻井彩だった。
銀色の髪がなびいていた。整った顔を難しそうに歪めて、こちらに向かって注意を促すように何か言っている。でも聞こえない。聞き入れたくない。親友を殺した女の戯言をどうして受け入れられるのか。
声が聞こえる。幻聴。とても寂しい声。いままで死んでいった女の子たちの痛み、無念、害意、血、人を殺せ、助けて、一人じゃヤダ、だからもっと一緒に連れていこうよ違うそんなこと望んでいない死にたくなかったのわたしも同じだよでもそうしないと次に行けなかったの知らないそんなの関係ないわたしはただ咲良ちゃんに──
「ナベリウス?」
少年の声がした。彩と、物言わぬ屍と、そして──銀色の女を信じられない目で見つめながら、萩原夕貴が立ちすくんでいた。
夕貴が辿り着いたとき、もう全ては終焉に向かいつつあった。
見たこともない少女の死体が転がっている。その手前に彩は座り込み、がたがたと震えながら自分の身体を按摩している。ついさっき、彩のものと思われる悲鳴を聞いたときは最悪の想像が脳裏を掠めた。
そして、それは真実となった。
彩は無事だ。生きている。しかし、その身体には、輪郭をぼやかせるほどの漆黒の陽炎がまとわりついている。陳腐な言い方をすれば、闇という闇が彩を苦しめているような光景だった。
吹き抜ける風が肌を刺す。比喩ではなく、ただ表面を撫でられるだけでも皮膚が蝕まれる。死者の念を凝縮してどろどろになるまで煮詰めたようなそれと、以前にも夕貴は大雨のなかで対峙したことがあった。だが禍々しさは比ではない。いまの彩は、あの女の何倍も濃いオーラを垂れ流している。
そんな彩のことを遠くから俯瞰しているのは、最近の夕貴にとって、ある意味では日常の象徴とも言える人物だった。
「ナベリウス?」
返り血の一滴も浴びていない彼女は、足元の死体と、その向こうでうずくまる彩を感情のない目で観察している。それがどうしても夕貴のよく知る彼女のイメージと結びつかなかったから、とても同一人物だとは初見で看破できなかった。
「ナベリウス、だよな?」
枯れた声で誰何する。そこで初めて、見覚えのある瞳が夕貴に向いた。
「あら、夕貴じゃない。何してるのよ、こんなところで」
まるで人の死が見慣れたものであるかのように、ナベリウスはいつもの泰然とした態度で応じた。
夕貴は震える声で問う。この場にいる意味がわからなかったから。目に入る全てが自分の理解を超えていたから。
それなのに。
これから訪れる未来を、なぜか予想できてしまったから。
「おまえこそ、何してるんだ?」
ナベリウスは一瞬、口ごもる様子を見せたが、すぐに澄ました顔で簡潔に答えた。
「人殺し」
短いが故に絶対だった。間違えようのない不文律だった。いってらっしゃいと、おかえりなさいと言ってくれた。優しく慰めてくれたときもあった。その口で、その声で、聞きたくなかった言葉だった。
「おまえが殺したのか」
「これから殺すのよ」
「なんで」
「あなたを守るため」
「どうして」
「わたしの意志だから」
「だれを」
「その子を」
「なんで! どうして! だれを!」
「同じことを二度言うのは好きじゃない」
きっぱりと告げられる。そして、と彼女は続けた。
「あなたもすでに気付いていることをあえて言うのは、もっと好きじゃない」
もう話すことなど何もない。そう言わんばかりに、ナベリウスは地べたで固まる彩だけを見据えた。
自分でも信じられないぐらいの速さで思考が回る。ありとあらゆる可能性を検討し、模索した。そこには数えきれないぐらいのパターンがあったが、しかし辿り着いた答えはどれも同じものだった。
ここに至るまでにどんな経緯があったのか、正確なところはわからない。しかし、どんなに自分を誤魔化してみても、揺らぐことのない事実を夕貴の目は捉えてしまっている。
彩は憑依されてしまったのだ。死体さえも操り人形のごとく動かす正体不明の化物に。
そんな取り返しのつかなくなってしまった哀れな少女を、ナベリウスはどうにかしようとしている。
たぶん、きっと、それだけが全てだった。
だれもが救われる魔法のような正解はどこにもなくて、考え得るかぎりの最悪の結果だけが何度も脳にシミュレートされる。
「ゆ、夕貴、くん……」
たった数秒の、永遠にも思えた静寂を破ったのは彩だった。最後の力を振り絞るような懸命さで振り向き、涙に濡れた瞳で夕貴を見ている。たどたどしく唇を動かして言葉を紡ごうとしている。
ああ、そうか。俺に助けを求めるんだろうな。
そんなことをぼんやりと夕貴は思った。
声にはならない。すでに発声するだけの力も彩にはなかった。だから夕貴は、何度も同じ動きを繰り返す彩の唇をよく観察した。
「に……」
逃げて、と。
確かに彩は、夕貴の目を見てそう言った。それだけを切に願っていた。もう何もかも手遅れの極限の状況下において、自分よりも夕貴の無事を優先した。
助けて、と言われていれば、あるいは夕貴は自身の命と他人の命を天秤にかけ、迷うこともできたかもしれないのに。
こんなときでも彩は、夕貴の知っている彩のままだった。自分のためではなく他人のために笑う少女。その優しさが好きで、たまに見せてくれる彼女の素顔はもっと好きだった。
失いたくないと、そう思った。
夕貴は彩に駆け寄ると、何の躊躇いもなく手を握りしめた。夕貴が触れた瞬間、彩がまとっていた昏い波動は煙のように消え失せた。でもそれは表面上だけだ。根絶したわけではない。彩の身体の奥の奥、それこそ心とか言われるような深い場所に悪魔は根付いている。
そんな二人を、ナベリウスは絶対零度の眼差しで見ている。素人の夕貴にもわかるほどの明らかな殺意が秘められた視線。それはナベリウスが彩のことを排除する対象とみなしている証左。
死体を前にしても表情一つ動かさないナベリウスという存在が、いまになって得体の知れないものに感じられた。そう感じてしまう自分が嫌だった。
だって楽しかった。どんなに憎まれ口を叩いても、言うことを聞いてくれなくても、嫌いになんてなれるわけがなかったのだ。美味しいご飯も、食事している夕貴を幸せそうに見つめる顔も、何もかも日常の幸福に色付いていた。絶対に口にはしなかったが、夕貴なりに認めて、彼女のことを信じていた。
それなのに、たった一つの側面を見ただけで、こんなにも心を離そうとしている弱い自分がいる。
きっとナベリウスにはナベリウスの事情があるのだろう。それを聞いたら夕貴はたぶん納得するだろう。
しかし、その事情とやらは、何度考えてみても一つの答えに行きついてしまう。
やがて訪れる未来に、ナベリウスの笑顔を見た。でもそこに彩の笑顔は永遠になかった。
だから夕貴は迷わなかった。
彩の手を引く。倒れそうになる身体を支える。彩は弱々しく何度もかぶりを振っていたが無視した。腰に手を回して強引に歩かせる。ナベリウスは動かない。固く手を結びなおす。彩の足に歩くだけの力が戻ってくる。前に進む。走る。どこかに向けて、何かから逃げ出す。
ナベリウスは押し黙ったまま、遠ざかる夕貴と彩のことを見守っていたが、しばらくして祈るように瞳を閉じた。
あてもなく夜の街を駆けながら、夕貴は、彩の笑っている顔をしばらく見ていないなと、そんなことを思った。
次回 1-14『彩鮮やかな幸福を』




