1-12 『咲良』
二人きりで桜並木を歩く。
「……なんだか、久しぶりだね。夕貴くん」
「ああ。元気だったか? その、彩は大学に来てなかったって聞いたけど」
「ちょっと体調崩してて。もう平気なんだけど、季節の変わり目はよく風邪引いちゃうから」
「大丈夫なのか?」
「うん。何もなかった。ほんとうに、何もなかったから」
その言葉を素直に喜べない程度には、夕貴と彩の関係は複雑だった。ともに一夜を過ごした日、彩を受け入れなかったという意味では、確かに二人の間には何もなかったから。
「夕貴くんも、元気だった?」
「まあな。健康だけが取り柄みたいなもんだし。俺が風邪を引いたとか言い出したら、そのときは学校サボってるって言ってるみたいなもんだ」
「あ、聞いちゃったからね? もし夕貴くんが風邪引いてるって言っても、わたしだけはもう騙されないからね?」
「言わなかったらよかったな」
二人して小さく笑う。なんだかようやくいつもの調子が戻ってきた感じがして、夕貴は嬉しかった。
「夕貴くんは、最近なんか変わったこととかなかった?」
「え? 別にないと思うけど」
「例えばだけど、新しい友達ができたりとか」
とくにない。いつも通りである。念のため、この一週間近くを振り返って間違いがないことを確かめてから夕貴は頷いた。なぜか彩は納得がいっていないらしく、さらに問いを重ねる。
「ほんとに?」
そのとき、夕貴の脳裏によぎったのは彩とは違う女性の笑顔だった。銀色の髪と瞳を持つ、一切の素性を知らない自称悪魔の電波塔。もう何日も一つ屋根の下で暮らして、数日前にはともに街に出かけた仮初の同居人。
ナベリウスと出逢い、そして現在に至るまでの経緯を、はじめは彩にも説明しようと思った。隠し事はしたくなかったからだ。彩のことを知りたいと願う夕貴が、自分のことで嘘をつくのは間違っているだろう。
とはいえ、このタイミングで打ち明けるのはさすがに躊躇われた。ここで夕貴がいきなり「ある日、悪魔と名乗る女がやってきて、気付いたら一緒に住むことになった」とか言っても絶対に信じてもらえないと思ったからだ。頭がおかしいやつと思われて終わる可能性すらある。
これが例えば幼馴染の二人のように釈明が必要な場面なら白状したが、そもそもナベリウスの存在も知らない彩に、こんな思春期の男子の妄想みたいな話を何の脈絡もなく語る気は起こらなかった。
そうやって、以前の自分なら賢しげな理屈を並べて誤魔化していただろう。
しかし夕貴は、どんなささいなことでも彩に嘘をつきたくなかった。
無力な自分では彩をまた泣かせてしまうかもしれない。溢れる涙を止められないかもしれない。それでも泣き止むまで一緒に寄り添ってあげることはできるし、流した涙はその分だけ俺が拭おう。
向き合うと、そう決めたのだ。
知ってもらいたいし、それ以上に知りたいのだ。
「そうだな。友達……とはぜんぜん違うけど、聞いたらびっくりするぐらい愉快なやつと知り合いになったのは確かだ」
「どういうこと?」
「実はな。ある朝、起きたらベッドにまったく知らない女が裸で添い寝しててな。しかもそいつ悪魔とか名乗ってて、俺のことをご主人様とか言い出して、自分のことを奴隷とか言うんだ。どう思う?」
「へ、へえ。そうなんだ。なんていうか……その、よかったね?」
「やっぱそうなるよなー! 知ってた!」
ドン引きの姿勢を見せる彩に、夕貴は固めたばかりの決意をさっそく後悔し始めていた。夕貴はなにも悪いことはしていないはずなのに、この世界は彼にぜんぜん優しくないらしい。
「それで……その人は、夕貴くんにとって、どういう人なの?」
「えぇ、続けるのか? きついのに……」
まさか彩が引っ張るとは予想外の展開だった。しょんぼりと肩を落とす夕貴は気付いていなかったが、彩の面持ちは真剣そのものになっていた。
「大切な人、なのかな」
「そんなわけないだろ。むしろ一秒でも早く消えてほしいやつだ。とっとと雪と氷しかない田舎に帰れってんだよな、あいつ。じゃないと俺の人生が狂っちまう。だいたい、あいつは人の気持ちってものを理解できてないんだ。俺がいつもどれだけ苦労しているかわかってない。この前もさ……」
ぶつぶつと愚痴を言って、溜まっていた鬱憤を吐き出す夕貴。ナベリウスと知り合ってからの出来事を、こうして思い出しながら口にしてみても決して楽しくない。それどころかむしゃくしゃした気持ちになる。聞かされている側の彩にとっても、夕貴がどれほどナベリウスに対して恨みを抱いているか、はっきりと理解できたはずだ。
「……そっか。そう、なんだ」
夕貴をしばらく見つめていた彩は、寂しげな微笑をして、もう話を聞きたくないとばかりに顔をそむけた。嘲笑も覚悟していた夕貴にとって、その反応は思っていたものと違った。
これはあれか? いわゆるエロ本で盛り上がっている男子を冷めきった目で見る女子の図っていうやつか?
自覚した途端、夕貴の背中を氷のごとく冷たい汗が流れる。何でもかんでも正直に言えば許されるわけではないということを夕貴は勉強させられた。
徐々に会話は少なくなって、ついに声が途切れる。夕貴がどんな話題を口にしても、彩は悄然と相槌を打つだけで、普段みたいに自然と話に花が咲くことはなかった。
となりを歩いていたはずの彩は、ふと気付けば、夕貴の半歩ほど後ろにいた。夕貴が歩みを落とせば、その分だけ彩も歩調を緩める。ずれた距離は歩幅のせいだったのか、それとも心だったのか。
夕貴は静かに呼吸を整えると、あの夜から隔たっていた時間を取り戻そうと、最初の一歩を踏み出した。
「彩と話したいことがあったんだ」
「なにを話すの? わたしは話すことなんかないよ」
いつもの柔らかな口調とは違う、よそよそしい声。夕貴に見向きもしない。それは拒絶の姿勢にも、傷つくことを恐れる幼子のような態度にも思えた。
夕貴は二の句を継げなかった。実際、夕貴も何か話したいことがあったのではなく、彩と話すこと自体が目的だったので目ぼしい話題を用意しているわけではない。
ただもっと櫻井彩という人間に触れてみたいと思う。
その理由をうまく言語化するのはちょっと難しい。人間の心は複雑で、青空がよく見れば青一色ではないのと同じように、いまの夕貴の気持ちをたった一言で表すことはできない。
彩にはずっと笑っていてほしいし、もっといろんなところに遊びにいってみたい。もう泣かせたくないし、これ以上は傷つけたくないし傷ついてほしくもない。いろんな感情が混ざり合って、どれも正解のように思えたし、なにひとつとして正しいものはない気もした。
夕貴は答えが見つからないまま、それでも何か言いたくて、曖昧な心を差し出した。
「俺は彩のことを放っておけない。もっと知りたいと思う。もう彩には傷ついてほしくないんだよ」
色めいた台詞だったが、そこに男女の艶っぽさは欠片もない。ただ空虚に響くだけだ。
「……そう」
彩は俯いたまま相槌を打つと、もうしばらく歩いたところで、すぐそばにあった桜の木を見上げた。眇めた眼は、目の前にある景色ではなく、溢れる感情をその瞳のなかに閉じ込めようとしているかのようだ。
「もう一年前になるかな。この街で、通り魔の連続殺人事件があったんだよ」
粛々とした声で口火が切られる。
「犯人は、まだ捕まってない。この街にいる」
以前にも聞いた言葉をそっくりそのまま繰り返す彩に、夕貴は違和にも等しい疑念を覚えた。その話をいまさら蒸し返すことに何の意味があるのか。犯人が見つかっていないのなら、いたずらに掘り返しても傷つくだけだというのに。
「そのときの犯人を捜してるのかって、夕貴くんはそう聞いたよね。覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ。それが?」
「答えはノーだよ。捜すまでもない。だって犯人は……」
彩が次の声を発するまでに十秒近くを要した。考えるというより、迷うような間だった。
けっきょく、彩は答えた。
「だって犯人は、もう死んでるんだから」
矛盾を孕みつつある彩の話の意味がまったく飲み込めず、夕貴は怪訝も露わに彼女を見た。だが彩の表情は涼しいままだ。いっそ冷たいまでに。
「夕貴くんは優しいから、心配してくれてるんだよね。わたしがまた危ないことに巻き込まれないかって。大丈夫だよ。あの事件は、もう初めから解決してるんだから」
「いや、待てよ。いったい何の話をしてるんだ?」
「だからね」
天気の話でもする気安さで、彩は言う。
吹っ切れた──いや、何かを諦めたような顔で。
「そのままの意味だよ。だって一年前の通り魔連続殺人は──」
「あ、いたいた。どこ行ってたのよ、彩」
彩が決定的な一言を告げようとした瞬間、ひょこっと別の少女の声が割り込んだ。
「やっと見つけた。もうずっと探してたんだから」
親しげにそう言って現れたのは、切れ長の目が印象的な少女である。見たところ夕貴たちと同年代ぐらいだろう。声をかけられてよほどびっくりしたのか、彩は唖然とした様子で固まっていたが、すぐに呼吸を戻して、表情を無理やり取り澄ましてみせる。
「萩原くんも。もしかして彩とふたりで抜け出そうとしてたの?」
少女はそう冷やかした。どうやら花見に参加していた女子の一人らしい。これまた艶っぽい話ではないが、夕貴はずっと彩のことだけ考えながら肉を焼いていたので、交流を深めるという当初の目的をまったく果たせていなかったりする。
「そういうわけじゃない。ただ響子に買い出しを頼まれたんだ」
話の腰を折られたせいか、非難がましい言い方になってしまった。だが少女はまるで気にするふうもなく、むしろ興味深そうに夕貴のことを観察している。彼女の目は、一見すると内に秘めた気の強さを印象付けるが、その奥には同じだけの優しい光も秘められていて、じっと見られても悪い気はしなかった。
「……ねえ、わたしに用があったんでしょう?」
彩が低く抑えた声で言う。少女は、そうそう、と頷いた。
「ちょっとどうしても彩の手が借りたかったのよね。だめ、萩原くん?」
「わたしは大丈夫。夕貴くん、悪いけどあとは頼めるかな?」
夕貴に先んじて、彩が答えていた。その語調は、すでに確認や要望といった域を超えて、もう彩のなかで決定事項となっているような有無を言わせない力強さがあった。ここまで憚りのない物言いは、彩にしてはずいぶんと珍しい。
「ああ、俺はいいけど」
ジュースを買い足すぐらい一人で何とでもなる。もともと話をする口実のつもりで彩を誘っただけで、力仕事まで期待していたわけではない。
「ありがと。ごめんね、萩原くん。そういうわけで、彩はもらっていくわ」
夕貴が了承すると、二人の少女はきびすを返して、もと来た道を引き返していった。その最中、彩の視線は、もう一人の少女の背をずっと捉えて離さなかった。
違和感。
あの少女に用件を告げられたとき、彩は率先して誘いに乗った。実態はどうであれ、これは幹事である響子から任された買い出しという役目である。託されたはずの信任を夕貴一人に丸投げして、自分は途中で放り出すような真似は彩の性格上、考えにくいが。
一人きりになると、棚上げしていたもうひとつの疑問が、無意識のうちに口を衝いた。
「遠山咲良、か」
響子は遠山咲良のことを知らなかった。それがずっと引っかかっている。
考えることだけは山ほどあるのに、なに一つ理解できないでいる。まるで出口のない迷路を延々と歩いているような気分だ。
昼下がり、まだ陽が暮れるまで時間はあった。
花見は続くのだ。桜が舞い散るかぎり。
「はい、これ彩のぶん。ミルクティーでよかったでしょ?」
少女は自販機から取り出した缶を、ベンチに腰かけていた彩に向けて投げた。ぞんざいな扱いだったが、缶は見事なまでにゆるやかな放物線を描いて、大した衝撃もなく彩の腕のなかに優しく収まる。
「……コーヒーがよかったな」
「あれ、変わったんだ。彩って紅茶派じゃなかったっけ?」
身も心も凍えた夜、夕貴に淹れてもらったインスタントコーヒーがとても美味しく感じられたからだろう。
彩のとなりに腰を下ろした少女は、足を組んで自分用に買ったミルクティーを飲み始める。用があると言って呼び出されたのに会話はなく、みんなの元にも戻らずに二人きりの小さな花見をしている。
「懐かしいな。昔もこうしてよく彩と二人で桜を見てたっけ」
そういえば、と彩はどうでもいいことみたいに思い出す。
四月、偶然にも同じ日に産まれて、偶然にも同じ花から名前をつけられた二人の少女がいた。
「不思議なものね。あのときから何も変わってないように見える。同じ花が咲くはずなんてないのに」
それから一分ほど、二人は何も言わずに桜を眺めていた。彩は空けていない缶を両手で包んで持っていて、少女はちびちびと唇と喉を潤している。
「それで、何の用なのかな──咲良ちゃん」
口を衝いた声は、自分のものとは思えないほど冷ややかで、そのことに彩は驚きもしなかった。
咲良と呼ばれた少女は、変わらず桜を見ながら、手元の缶を傾ける。
「驚かないのね」
「そんな気はしてたから。それで、わたしに何の用があるの?」
「用があるのは彩のほうじゃない? わたしのこと、ずっと探してくれてたんでしょう?」
「知ってるんだね。探してたこと」
「知らないわよ。ただそんな気がしただけ。──ああ、そういうことか。じゃあつまりあれは悪い夢じゃなかったんだ」
意味のわからないことを呟いて、咲良は溜息とともに長い髪をかき上げた。
その顔も、その声も、その仕草も、なにからなにまで彩の知っている遠山咲良のものだった。体温や息遣いまで確かに現実のものとして感じられる。
広場で遊んでいた小さな子供たちのもとから、こちらにサッカーボールが転がってきた。咲良はそれを座ったまま脚で受け止めて、膝の反動だけで器用に蹴り返した。遠くのほうから「お姉ちゃん、ありがとー」とはしゃぐ声が聞こえて、咲良はちょっと得意気な顔で手を振り返している。
昔からそうだった。
遠山咲良は、勉強も運動もできて、男子に人気があり女子からは慕われて、どんなときも人の輪の中心にいた。それなのに驕ることも気取ることもなく、むしろいつも何かと戦っているように真剣で、だれよりもまっすぐに生きていた。
いまの咲良は、紛れもなくあの日の咲良だ。よくも、わるくも。
あれから一年経った。心は止まっていても、身体だけは僅かに成長した彩とは違って、咲良は時の流れの中に忘れ去られたように容姿が変わっていない。
「やっぱり咲良ちゃんはいたんだね。生きてたんだ」
「生きてる、ね。どうかな。そう言えるかどうか微妙なとこだけど」
自虐の笑みが浮かぶ。
「ただ、自分のお墓を見るっていうのはなかなか興味深い体験だったな。遠目だったけど、おにぃとおねぇのことも見れたしね。あんな顔してくれるんだって、ちょっとびっくりしたけど」
そこで咲良は苦笑して、これまでになく切なそうに表情を緩めた。
「なにより、もう一度だけ逢えたから」
それがだれのことを指しているのか、彩にはわかった。咲良がこんな顔で思い浮かべる相手はこの世で一人しかいない。ほかでもない彩の義兄であり、咲良の幼馴染でもあった青年だ。
かつてと同じように何の気負いもなく喋る咲良とは違って、彩はまるで語る言葉を持たなかった。言いたいことも聞きたいことも山ほどある。そのために今日まで咲良の姿を探し求めてきた。でもいまは溢れる感情を抑えるのに必死だった。
友情、罪悪感、疑問、憎悪、後悔、親愛、自己嫌悪、贖罪。
あらゆる想いが複雑に入り混じって、心の中で暴風のごとく荒れている。身も張り裂けそうな葛藤の奔流に、彩は胸に手を当てて、早く短い呼吸を繰り返して自分を落ち着けようとする。
そうしなければまた間違えてしまいそうだった。
「萩原夕貴、だっけ?」
咲良の口から紡がれたその名に、彩は息を止めて振り向く。これまで表面上は冷静を保っていた彩の大げさな反応に、なぜか咲良は表情を綻ばせた。
「好きなの? 彼のこと」
「……咲良ちゃんには関係ないでしょ」
「へーえ。あの彩がね。だれからの誘いにもまったく乗らなかった高校の頃からは想像もつかないな」
「だれも好きだなんて言ってない。勝手に勘違いしないでよ」
「じゃあ嫌いなの? あとでわたしから言っておいてあげようか? それなら……」
「夕貴くんに近づかないでっ!」
それは嫉妬心などという可愛いものではなかった。
「夕貴くんに何かあったら、わたしは咲良ちゃんを許さない! ぜったいに、ぜったいに、許さないから!」
自分の親しい人に遠山咲良が関わるということを彩は恐れている。
声を荒げてしまった自分を顧みて、彩はいたたまれずに俯いた。そんな彩を見ていた咲良は、しかし何がおかしいのか噴き出した。笑みと呼ぶにはあまりにも儚げな、どこか哀しく映る所作だったけれど。
「許さない、か。もう許してもらってないと思ってたけど」
「……それ、は」
「ねえ、そんなに彼のことが気になるの? レンくんよりも?」
ふたたび咲良は繰り返す。彩の義兄であり、咲良の幼馴染でもあった青年を引き合いに出して。
「……そんなの、咲良ちゃんには関係ないよ」
「ま、そうよね。もう関係ないか」
どこか寂しそうに同意する咲良。
違う。関係なくなんかない。あれからお兄ちゃんはずっと、下手をすればわたしよりもずっと、咲良ちゃんのことを探してる。せめてそのことだけでも伝えてあげたい。そうすれば咲良も報われるだろう。
なのに口は動いてくれない。咲良を慮るための言葉が出てこない。彩の心は、依然として複雑な様相を呈しており、今という時間に意識を裂く余裕はなかった。こうして咲良と相まみえてから、彩は一年前のあの日という終わってしまった過去について想いを馳せていたから。
どうして咲良は、あんなことをしたのか。
なんでよりにもよって、わたしの──
それが聞きたかったのに、問いかけた瞬間に今度こそ全てが終わってしまう気がして、彩はなかなか切り出せなかった。そんな自分の弱さが、昔から何も変わらない櫻井彩の生き方が、たまらなく大嫌いだった。大事にしていたものを壊されたのに何も言い返せず泣き寝入りする子供とまったく変わらない。
俯き、唇を噛んで自己嫌悪する彩のことを、咲良は目を細めて見ていた。そこに労わるような優しさがあることに、自分の制御に必死だった彩は気付かない。
「まだちょっと時間はあるか」
咲良は晴れ渡る青空を仰いだあと、周囲に目を向けた。
「こんなとこじゃだめね。人目もある。なにより家族連れが多くて子供も大勢いる。日が暮れたあとに、そうね、噴水広場まで来て。そこで話をしましょ」
咲良は勢いをつけて立ちあがると、空になった缶を近くのゴミ箱に向かって投げた。かこん、と小気味よい音がして、彩のもとから足音が遠ざかっていく。まだ返事もしていない。まっすぐ顔も見れていない。
彩は立ち上がって、また離れていこうとする背を呼び止めた。
「待って、咲良ちゃん!」
咲良は肩越しに振り返った。目が合う。彩は深呼吸して自分を落ち着かせてから言った。
「……逃げないよね?」
「逃げないわよ」
「わたしも逃げないよ」
「そ」
「なんで」
彩の黒い双眸が、いままでになく冷徹な光を帯びる。抑えていた一つの感情の制御に失敗する。
「なんで、咲良ちゃんはわたしの前に現れたの?」
「…………」
「なんで咲良ちゃんだったの? なんで咲良ちゃんだけなの? 咲良ちゃんがいるなら、咲良ちゃんより、わたしは……」
続く言葉は、咲良にとってあまりにも残酷なもので、さすがの彩も口にするのは憚られた。それを言ってしまったらもう取り返しがつかない。この場で全ての決着をつけなければいけなくなる。まだ気持ちの整理が一切できていないのに曖昧なままで過去を清算してしまったら、きっと彩は生涯に渡って後悔することになる。
まさしくこの一年間がそうだったように。
咲良が改まって逢瀬の約束をしてくれたのは、あるいはそんな彩の心情を知った上だったのかもしれない。
彩がしっかりと心を決める時間をくれたのだ。
「……なんで、か」
こうして咲良が、彩の前に現れた理由。
「そうね、それはたぶん」
少しだけ考えてから、咲良は続けた。
「こうでもしないと、わたしは言いたいことも満足に言えなかったから、かな?」
片目をつむって、いたずらげに言うその仕草。
それから咲良は、幻のように消えるでもなく、自分の足で確かに歩いて人混みのなかに消えていった。突然現れたときと同じく、あっけなく去っていった。とたんに風の音や、子供のはしゃぎ廻る声が聞こえてきて、自分がどれほど余裕をなくしていたのか彩は知った。
一人きりになった彩は、力なくベンチに座り込んだ。喉がからからに乾いていた。咲良にもらったミルクティーを開けて、汗をかいた缶に口をつける。とろりとした液体が口腔に広がり、茶葉の芳香が鼻を抜けていく。
「わたし、どうしたらいいのかな」
いつかの夜に飲んだインスタントコーヒーは、いまにして思えば苦みが強くて、砂糖とミルクで誤魔化さなければ彩には飲めない代物だったが、これは年頃の少女にぴったりの味わいだった。美味しいと、素直にそう思った。
「……やっぱりわかんないよ。お母さん」
だがその味は、長きに渡る懊悩に心をすり減らした少女にとって、いさかか甘すぎた。
夕暮れ時になると、あれほど賑わっていた芝生の広場からも少しずつ人が減り始める。斜陽に追われて後片付けをするのは夕貴たちのグループも例外ではなかった。それぞれ分担して撤収作業を進めていく。
夕貴が買い出しから戻ってきたあと、特に進展はなかった。後半になるにつれて響子は幹事の雑務にかかりきりになり話はできなかった。彩とは二人きりになる時間を作れないどころか、まるで夕貴を避けるように一度も目が合うことさえなかった。
彩の様子がおかしいことにはすぐに気付いた。だれかと話していても、その目はここではない遠くを見据えているようで、よく言えばぼんやりと、悪く言えばもう花見に興味を失っているとすら感じられた。そんな彩のことが気になって、でもいまは話をすることもできなくて、夕貴はもどかしさに駆られながら現在に至る。
その苛々をぶつける主な相手は、何の気兼ねもしなくていい悪友である。
「おい託哉。ふざけんなよおまえ。いつまで寝てんだ」
みんなが手分けして後片付けをしているのに、託哉だけ芝生の上に寝っ転がったまま微動だにしない。仰向けに寝転んだ託哉の顔には、日除け代わりの陳腐な三文雑誌が乗せられたままだ。一時間前どころか、三時間ぐらい前に見た光景と比べてもなにも変わっていない。
割れ物を集めて回っていた夕貴の手は、大きな袋によって塞がれていたので、つま先で託哉の身体を小突いた。その衝撃で雑誌がずり落ちて、差し込んだ赤い陽射しに託哉のまぶたが震えた。寝ぐせのついた頭をかきながら身体を起こす。
「もう朝か。日の出なんて久しぶりに見たぜ」
「どこからどう見ても沈んでいくところだろうが。もはや何しに来たんだ、おまえは」
「肉食って女見て寝てた」
「貴族の遊びじゃねえか。寝言はいいからおまえも手伝えよ。そのへんのゴミ集めてきてくれ。缶とか割れ物な」
「そういうだろうと思ってもう集めといた」
「ほんとか? 悪いな……って、おいこら」
夕貴に向かって放り投げられたのは、託哉が安眠道具にしていた例の雑誌である。ぱらぱらとページを晒しながら中空を舞うそれを夕貴は仕方なくキャッチする。
「ちょうどよかった。オレにはもう必要ねえからやるよ」
「この分別された袋が見えてるか? ここに紙が入ってるように見えるか?」
「気になるなら、ちゃんとしたところに捨てといてくれ」
「おまえが気にしろ。つーか捨てろ。おい、託哉!」
「じゃあせいぜい頑張ってな」
あくびをしながらさっさと逃げていく託哉を呼び止めるより、もう自分の手で始末したほうが早いと判断した夕貴は、溜息一つで友人のずぼらを許すと、脇に雑誌を抱えたまま残りのゴミの収集に取り掛かった。
あらかた作業を終えたところで、彩の姿が見えないことに遅まきながら気付いた。よく彩と話していた女子の一人に、それとなく訊いてみる。
「彩だったら、今日は用事があるからって先に抜けていったよ?」
「用事? なんの?」
「そこまでは聞いてないけど。なに、もしかして萩原くんも彩のこと気になってるの?」
女子にとって色恋沙汰はそれだけで楽しいらしく、きらきらと瞳が輝いている。捨てる機会に恵まれなくて、ずっと手に持ったままだった雑誌を夕貴は強く握りしめた。
「彩がどこに行ったか知らないか?」
「さあ。でもついさっきのことだったから、まだそのへんにいるんじゃない? もしよかったら連絡してあげようか?」
「いや、自分でするからいいよ。ありがとう」
「えっ!? 彩の連絡先知ってるの? うそでしょ? ていうか彩って呼んだ? ね? ね?」
別に隠しているわけではないので、夕貴と彩が友人としてそれなりに親しいことは響子など一部の人間は知っている。それを知らないということは、この少女は彩とあまり私的な交流がないのかもしれない。
だったら、もっと事情に詳しそうな子にも訊いてみようか。そう思って周囲に視線を走らせた夕貴は、まず何とも言えない違和感を覚えると、さらに数舜ほど遅れてから、ようやくある事実に思い至った。
買い出しの途中、夕貴と彩に声をかけてきた、あの切れ長の目をした少女。とても印象に残る、力強くも優しい眼差しをしていた。一度見たらすぐには忘れないだろう。しかし夕貴は、あの子のことを覚えていなかった。いや、そもそも、こうして見渡していても、それらしい姿を衆人の中に見つけることはできない。
頭の中で、不気味なほど醒めた自分の声がした。
──あんな子、ほんとうにいたのか?
花見の始まりから終わりに至るまで、彩の友人を名乗った少女を、夕貴は一度も見ていない。
「でも残念だなぁ。わたし、萩原くんのこといいなって思ってたんだよね。まあ彩が相手なら……あれ? 萩原くん?」
すでに走り出していた夕貴に彼女の声はまったく聞こえていなかった。
彩に電話をかけてみるが、電源を切っているらしく繋がらない。広場を抜けて、整備された歩道を進む。大勢の人が帰っていく途中だった。人混みをかきわけて、その中に彩を探しつつ、当てもなく周辺を駆けまわった。だが彩はどこにもいない。花見客で溢れかえる自然公園の中で、そう都合よく見つけられるはずもなかった。
もう陽は落ちるところだった。途方に暮れた夕貴は、近くにあったベンチに腰掛けて、手汗で少しよれてしまった雑誌を脇に置いた。こんなどうでもいいものを後生大事に抱えているくせに、ほんとうに大切なものをすぐに見失った自分の愚かしさに反吐が出る。
うなだれる夕貴の目の前を、一組の母子が通り過ぎていく。まだ小さな男の子と、うら若い母親。握られる手は一つだけだったが、とても楽しそうに笑っていた。自分の記憶にある黄昏の思い出と重なるほど微笑ましい光景だった。こんなときじゃなかったら、もっと感傷的な気分にもなれただろう。
手を引かれる男の子と目が合った。にんまりと破顔する。よほど機嫌がよかったのか、あるいは何か通じ合うものがあったのか、少年はポケットから小さな包みを取り出すと、とっておきの宝物のように手を差し出した。
「おにいちゃん。これあげる」
それは飴玉だった。どこにでも売っている市販品。宝物でもなんでもないただのお菓子。だから夕貴は、大切に握りしめた。
幼い子供の行動である。母親は困ったように頭を下げる。
「すみません。この子、お菓子が大好きで、ふだんは人にあげたりしないはずなんですけど」
「……いえ、大丈夫です。ちょうど甘いものが欲しかったところですから。だから、もらってもいいですか?」
母親はもう一度だけ頭を下げると、もちろん、と言うように微笑した。口内に甘酸っぱいレモン味が広がった。
「ばいばい、おにいちゃん」
屈託のない笑みを夕貴に向けながら、少年は手を引かれて歩いていく。夕貴も笑顔で応えた。そんな様子を、母親は嬉しそうに見守っていた。優しい子に育ってくれている、と誇らしそうだった。ささいな出来事かもしれないが、子供の成長を感じるには、それは母親にとって充分だったらしい。
もしかしたら夕貴の何気ない行動の一つ一つも、あんなふうに親を喜ばせていたのだろうか。
いまの俯いている夕貴を見たら、彼の母はどんな顔をするのだろうか。
あの日、幼い自分に誓ったはずなのに。
──わるいやつがいたら、おれがやっつける。泣いてる子がいたら守ってあげる。
まだ何も知らなかった小さな頃は、世界がそんな簡単なものだと信じていられた。
ぱらぱらとページのめくれる音がして、夕貴はなかば存在を忘れかかっていた雑誌に目を向けた。偶然か、それとも必然だったのか、開いたページには一年前の通り魔連続殺人事件の記事が大きく掲載されている。
五人目の犠牲者、遠山咲良。
何度見ても変わることのないその事実を見るたび、夕貴は、かけがえのない親友を失ってしまった彩に同情してしまう。
「──ぁ」
ほとんど惰性で記事に目を通していた夕貴は、それを見た瞬間、完全に息が止まった。脈さえも感じられなくなるほどの空白だった。
四人目の犠牲者。
「……櫻井、深冬?」
彩と、同じ名字?
ぐらぐらと地面が傾いでいるような、いま自分がいる場所を疑うような、なにか根本的な見落としの予感が夕貴の頭蓋を殴りつけた。
いや、落ち着け。そんなはずはない。偶然に決まっている。夕貴は雑誌を手に取って、食い入るように見つめる。
櫻井深冬。年齢は三十七歳。若い。若すぎるといってもいい。これで少しは彩の■■だという可能性が減った。そう自分に言い聞かせる。あるいは親戚かもしれない。彩は一人っ子でずっとお母さんと二人暮らしだったのに? そうか、再婚した養父の妹とか、そんな間柄の人物かもしれない。待て、なぜ俺はこの人を彩の親類だと勝手に決めつけている? ただの同姓でしかないという可能性のほうがずっと大きいはずなのに。
だって彩は何度もお母さんのもとに帰ると言っていた。お母さんが生きる理由のぜんぶだって、そう言っていたのだ。
──犯人は、まだ捕まってない。この街にいる。
彩の声を思い出す。
──だって犯人は、もう死んでるんだから。
彩の言葉を思い出す。
──そのままの意味だよ。だって一年前の通り魔連続殺人は──
矛盾だらけだ。きっと夕貴はまだ真実の一割も知らない。そんな状態で思考することに何の意味もない。でも理屈にならない感情の辻褄だけが夕貴のなかでひたすらに噛み合っていく。
彩は必死になって遠山咲良を探し続けていた。でも見つけてどうするつもりなのか、ついぞ彩の口から聞いたことはなかった。
当時の彩はどんな気持ちだったのだろうか。それを想像してみるのは難しいことではなかった。もし響子や託哉が被害に遭っていたとしたら、夕貴は毎日、復讐のことだけ考えて生きていただろう。
──犯人を自分の手で殺してやりたいと、そう思っていただろう。
いつかの夜に聞いた強烈な耳鳴りが鼓膜を震わせたのは、そのときだった。
音響機器の反響にも似たハウリング。
しかし、いまの夕貴には、なぜかそれが少女の声にならない叫びにしか聞こえなかった。事実、絶叫だったのかもしれない。
ふらつきながら立ち上がり、感覚だけを頼りに音のするほうに向かう。すでにあたりは不気味なまでに人気がない。あの忌まわしい耳鳴りがするたびに世界が変質している気がする。世界に一人だけ取り残されたような寂寥感。
夕貴は走る。前に進むのではなく、背後から追いかけてくる得体の知れない何かから逃げるようにして。
足を止めることはなかった。
たとえもう、手遅れだったとしても。
次回 1-13『桜の花のように』




