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ハウリング  作者: ハイたん
壱の章【消えない想い】
13/20

1-11 『あなたに微笑む』


「彩が、大学に来てない?」

「そうなのよ。あんた何か知らない?」


 キャンパスの中央に位置するカフェは、壁全面がガラス張りとなった瀟洒なデザインや、観葉植物の生い茂る落ち着いたテラスも相まって、多くの学生たちから憩いの場として親しまれている。


 夕貴は、幼馴染の響子と連れ添って午前の予定を終えたあと、彼女に連れられてテラスの一席に腰を据えていた。


「ちなみになんで俺に聞くんだ?」

「そりゃ夕貴とデート行った翌日あたりから来なくなったんだから、どう考えてもあんたと何かあったって思うのが普通でしょうが」

「……まあ、やっぱそうなるよな」


 彩と最後に別れてから四日が経過していた。あれから何もない穏やかな日々が続いている。張りつめていた意識が微睡みそうになるほどに。


 絶え間なくニュースをチェックしているが、大雨の夜に出くわした悪魔のごとき少女の遺体が発見されたという報せは、ついぞ流れることはなかった。


 おかしなことはそればかりではない。昨日、大学の帰りに寄り道して現場付近を訪れてみたところ、車に撥ねられた少女が衝突して大きく曲がっていたはずのガードレールは、何事もなかったかのように元通りになっていた。突貫工事で新しいものに替えられたのかと最初は思ったが、よく見ると経年劣化による傷や錆もそのままに復元されていた。


 凍結したビルも、さすがに足を踏み入れる気は起こらなかったが、スーツを着たサラリーマンがちらほらと出入りしていたところから察するに、やはり異常はないのだろう。


 あの夜は、まるで夕貴と彩だけが体験した悪い夢だったかのようにその痕跡を消していた。


 さらに関連があるかどうかは不明だが、新たな少女の自殺が報じられることもなくなっていた。それは本来なら喜ぶべきことだと思うが、もたらされた仮初の平穏を上回るだけの不気味な要素が累積しすぎていて、夕貴にはかえって嵐の前の静けさに等しく感じてしまう。


 夕貴の暗い面持ちを見て、響子は溜息をついてから、揶揄するような語調を優しいものに切り替えた。


「まあ夕貴のことだから変な心配はしてないけどね。でも、だからこそ心配なのよ。適当に誤魔化されるより、誠実に対応されたほうがダメージがでかいってこともあるから」

「考えすぎだって。ただ遊んで、別れただけだ」

「……あのさ。もしかしてあたし、余計なことしたかな」


 ショートカットの髪と、少しばかり日に焼けた健康的な肌は、普段なら快活な印象を覚えるが、だからこそ表情を沈ませると陰鬱な色が強調される。


「ぶっちゃけた話、夕貴と彩がラブコメしてるの見るのは楽しかったわけよ」

「ぶっちゃけすぎだバカ」

「でもそれ以上に、もしほんとにあんたたちが遠からずって感じなら、あたしなりに応援してあげたいなとも思ってて、彩にもいろいろアドバイスを送っては顔を赤くして怒られたりもしてたわけなんだけど」

「……はぁ」

「でも、でもさ。よかれと思ってたけど、あんたたちのタイミングを無視して強引になっちゃって、それが原因とかで疎遠になったんだったら……」

「バカ。んわけないだろ。おまえの失態なんて一パーセントもねえよ。だからそんな顔すんな」


 落ち度があったのは夕貴なのだ。響子が見当はずれの罪の意識を感じる必要はない。


 もう一度、彩と話がしたい。もっと彩のことを知りたい。今度こそ彩とちゃんと向き合いたい。


 何ができるかわからない。何もできないかもしれない。


 それでも彩のそばにいたいと、そう思う。


 しかし、そのたびに泣き崩れる彩の顔がまぶたの裏にちらついて、夕貴は自分から連絡することもできずにいた。何度もメールを打っては消して、電話をかけようと思っては第一声も思いつかずに止める日々だった。


 自分から動かないと始まらないとわかっているのに、また彩を泣かせてしまうかもしれないことが怖くて、最初の一歩を踏み出せずにいる。


 だったらいいけど、と響子は気を取り直して、本題に入る。


「みなさんお待ちかねの花見が、とうとう今週末に迫ってるわけじゃない?」

「あ、そういやそんなイベントあったな」

「忘れるなアホ。バーベキューにレクリエーションもあって、子供から大人まで楽しめる夢の一時なのよ? まあ来るのは大学の同期だけなんだけど」

「で、俺はなにを手伝えばいいんだよ」

「言っとくけど、彩も来るのよ? ついさっきわざわざ再確認までしたんだから。さりげなく夕貴の名前を出してみたけど、それでもちゃんと来るって言ってたわ」


 ぽちぽちと携帯をいじってメールを開く。内容まで見せてもらえなかったが、どうやら彩からの返信がそこにあるらしい。


「なにがあったか聞かないけどさ。すっきりさせなさいよ。ちょうどいい機会になるでしょ?」

「うるさいな。おまえも余計なことばっか気にしてないで、とっとと男の一人でも作れよ」


 軽口を叩いて笑いあう。響子のおせっかいと、それを上回る気遣いに、夕貴は心がすっと軽くなるのを感じた。


「そういえば夕貴ってさ。彩のことどう思ってんの? 好きだったりとかしちゃうわけ?」


 その問いに答えることができたのなら、あの夜、彩は涙を流さずに済んだのだろうか。


 もうすぐそこまで迫った約束の花見までに、夕貴は答えを見つけることができるのだろうか。


「さあな。もしそうだとしても、それを最初に言う相手はおまえじゃねえよ」

「言うじゃん。なんかあったらいつでも相談しろよ、男の子」


 満面に笑みを浮かべた響子が拳を差し出した。夕貴は苦笑しながら拳を合わせて、面倒見の良すぎる幼馴染からの応援を受け取った。






 久しぶりに訪れた墓は、生前の故人が深く親しまれていたことを示すかのように、雨上がりのあとも人の手によって美しく保たれていた。天気はよかったが、青空には少しだけ雲がかかっていて、その中途半端な空模様がいまの自分の心を映しているように思えた。


 櫻井彩は持参した花束を捧げて、墓石の前にしゃがみこむと手を合わせた。死者を悼むのではなく、許しを請うように。


「……なんだか、わからなくなってきちゃった」


 ここに彼女はいないとわかっていても、彩は言葉を紡がずにはいられなかった。


「咲良ちゃんは、もういない。わかってるよ。わかってるつもりだった。でも」


 夕貴と過ごした四日前の夜からずっとニュースを追っているが、あのときの少女の死体が見つかったという報せはまだない。いままで街で咲良の幻影を見かけた日は、決まって少女が自殺していたというのに、あの夜だけは法則が崩れているのだ。


 だから。


 あの日の出来事はぜんぶ何かの間違いで、まだ咲良はこの街のどこかにいて、彩のことを待っているのではないか。


 そんな希望が日を追うごとに増して、少しずつ自分の都合のいいように思考を改竄していく。


 それが限りなく妄想に近い可能性だとわかっていても、いまの彩は縋らずにいられなかった。また全てを喪ったと思い込んでだれかの前で無様を晒すぐらいなら、きっと一パーセントもない可能性でからっぽの自分を膨らませて、外面を取り繕っていたほうがいい。


 あの夜、自分という存在を少しでも肯定してほしくて、でもそんな彩を少年は受け入れることはなかった。彼は優しすぎるのだ。それが時に残酷であることも知らないぐらい。


「咲良ちゃんも、こんな気持ちだったのかな」


 だれかから拒絶されるということが、こんなにも心を傷つけるなんて知らなかった。これまで特別な執着を持たずに生きてきた彩には初めての経験だった。


 いまの彩でさえ、これほど苦しいのだ。


 幼い頃からずっと一途に想っていた人に拒まれた咲良は、いったいどんな気持ちだったのだろう。ほかに好きな人がいる、と告げられたときの心境など、もはや推し量ることもできない。だから彩は、こんな自分でも力になれるならと思って咲良を慰めようとした。


 ほんとうに大切な親友だったから泣いてほしくなかった。それだけだった。


 それが無知という名の傲慢であることも知らずに。


 あのとき、この世界で彩だけは、咲良に寄り添ってはいけなかったのに。


 咲良は静かに涙を流しながら、愛憎が激しく入り乱れた目で彩のことを睨みつけた。


 ──なんで? どうしてよりにもよって、彩なの?


 ああ、そうか。


 ──あんたなんか、いなければよかったのに。


 わたしは、また失敗したんだ。


 そして咲良は、ほかの四人の犠牲者とともに命を落とすことになる。通り魔連続殺人事件の最後の死者として。


 犯人は捕まることなく、まだこの街にいる。


 忘れたくても忘れられない後悔の念が、埋火のように彩の胸を焦がす。どれほど考えても、どこでなにを間違えたのかわからなくて、それがまたよりいっそう忸怩たる思いに拍車をかける。


 人はきっと、生きているだけでだれかを傷つけるのだろう。傷つけずにはいられないのだ。


 かつての咲良がそうだったように、かつての彩がそうだったように。


 それなのにどうして人は寄り添おうとするのか。なぜ一人では生きていけないのか。傷つくだけなら、初めから友達も恋人も家族もいらないはずなのに。


 なんで神様は、人を孤独では生きていけないように作ったんだろう?


 もし彩がちゃんと孤独に耐えられる人間だったら、あの夜、一人の少年を傷つけずに済んだかもしれないのに。


「……もう、嫌われちゃったかな」


 彩は小さく苦笑すると、目の前にある墓碑に向かって語りかけた。


「わたし、さ。ちょっと気になる男の子ができたんだ。ずっと心配してくれてたもんね。高校生にもなって彼氏の一人もできないわたしのこと。だから報告しておきたかったんだ」


 そして、宣言しておきたかった。本人の前で。


「咲良ちゃんは、かならずわたしが見つける。だから……」


 少し強い風が吹いて、続く言葉をさらっていく。髪を耳にかけながら立ち上がると、彩はもう一度だけ墓の下で眠っている故人に向かって微笑みかけてから、その場をあとにした。


 のどかな霊園を歩いていると、途中で一組の男女とすれ違った。下を向いていた彩は相手の顔を見ていなかった。だから気付いたのは、相手が先だった。


「彩ちゃん?」


 あまりにも懐かしい声に、彩は心臓を鷲掴みにされたような心地で面を上げた。振り向くと、そこには遠山咲良とよく似た女性が立っていた。記憶にある容姿よりずいぶんと大人びていて、一瞬だれだかわからなかった。もう大学は卒業しているはずだから、当然といえば当然かもしれない。


 その二人は、それぞれの手に一つずつ花束を抱えていた。


「やっぱりそう。久しぶりね。元気だった?」

「……はい。お久しぶりです。瑞穂さんも元気そうで、よかった」


 咲良の実の姉である遠山瑞穂だった。昔はよく世話になったものだ。一人っ子だった彩は、瑞穂によく懐いていて、彼女もまたそんな彩をもうひとりの妹のように可愛がってくれた。


 瑞穂のとなりにいるのは、その兄である遠山家の長男だ。面識はあるが、あまり会話したことはない。瑞穂が「先に行っておいて」と告げて、自分の手に持っていた花束を渡すと、彼は彩に向かって目礼して一年ぶりの挨拶を済ませてから、遠山家の墓に向かっていった。


 二人きりになって生じた沈黙は、それが長くなればなるほど、疎遠となっていた年月の隔たりを感じさせる。


「……彩ちゃんも、お参りに来てくれたの?」

「はい」


 嘘をつく。お参りではない。


「もう大学生になったんだっけ。ちょっと背も伸びたかしら。彩ちゃん、またきれいになったねえ」


 瑞穂の眼差しは、彩を見つめながらも、別のことに思いを馳せているかのようだ。成長した妹の友人を見て、もし咲良が生きていたら、という想像が膨らんだのだろう。


 心が引き裂かれるようだった。瑞穂が悪いわけではない。ただ咲良の面影を色濃く感じさせる彼女と向き合っていると、自分だけ時の流れを享受していることに罪悪感を覚えてしまう。あの日からずっと抱えていた後悔がまた一段と重くなって心に圧し掛かる。そして、どうしても抑えきれないほどの憎悪が湧いてくる。


「ありがとう。彩ちゃんが来てくれて、きっと咲良も喜んでいるわ。あの子は、いつも彩ちゃんの話ばかりしてたから。わたしが嫉妬するぐらいにね」


 片目をつむって、いたずらげに言うその仕草は、妹である咲良にそっくりだった。もうしばらく立ち話に興じてから二人は別れた。


 その後、遠山家の兄姉は、まだ花が添えられていなかった妹の墓を見舞った。






 夕貴は見誤っていた。ナベリウスという女が、いったいどれほど衆目を集める存在なのかということを。


 平日の昼下がり、大学から帰宅した夕貴は、以前に希望されていた通りナベリウスと一緒に街に繰り出していた。そして一分後には、それが致命的な過ちであったと思い知らされた。


 べつだん派手な服装をしているわけではない。黒のキャップ、青のハイネックノースリーブ、白のスキニーパンツ。ちなみにキャップは夕貴の所持品だった。家を出る前に、銀髪が目立つからこれでも被ってろ、と無理やり乗せたものである。


 だがそんなものは全て無駄だった。


 荘厳なる冬を連想させる銀色の髪は、ちんけな帽子ごときで隠せるものではなかった。歩くたびに、振り向くたびに、背中まで伸びた髪が舞って、道行く人が目を瞠って足を止める。続いて、その持ち主が人並み外れた美貌であることを知って見惚れる。


 どこぞの海外スターがお忍びで買い物でもしていると思ったのか、ちょっとした人だかりまで出来ているような気がしなくもないほどだ。


 だったら俺は、冴えないマネージャーその一にでもなるのか?


 自分がいまどういうふうに見られているのか想像してみて、夕貴は辟易とした。


「次はあそこ行ってみましょうよ」

「……あそこ行ったら帰るか?」

「いやよ。まだ行きたいところいっぱいあるし。夕貴とだったらどこでもいいけど」

「どこでもよくないからさりげなくホテルをチラチラ見るのはやめろ」

「そうね。どうせわたしたち、一つ屋根の下で暮らしてるしね。帰ってからのほうが声を気にしなくて済むから……」

「ホテルの隣室に聞こえるぐらいっておまえどんだけやばいんだよ」

「街中でそういうこと聞くのやめてくれない? セクシュアルハラスメントっていうのよ、それ」

「じゃあもう家に帰ってからでいいから街中で変なこと言うな」

「……やる気満々って感じね」

「お前がな!」


 喉が渇いたとか言い出した自称悪魔のために夕貴はジュースを買いに行った。駅前広場に出ているワゴン販売車。春の果物をふんだんに使ったそれは季節ぴったりの桜色になるのが売りの一つだと、大学生ぐらいの売り子のお姉さんに教えてもらった。


 両手にドリンクを持って戻ると、ナベリウスは広場のベンチに腰かけて空を見上げていた。


「ねえ、夕貴」


 彼女は礼の代わりに微笑を浮かべると、もう一度、どこまでも澄み渡る蒼穹を見つめて言った。


「どうして空は青いと思う?」


 無駄に哲学的な質問だった。とうとうこいつバグったのかと思ったが、夕貴はストローを吸いながら当たり障りのない返答をすることにした。


「青いからに決まってんだろ。それとも波長がどうのうこうのってややこしい話がしたいのか?」

「夕貴にはそう見えてるのね」

「じゃあおまえはどう見えてるんだよ」

「いまは青い色に見える」

「すげぇ生産性のない話をしている気がするのは俺だけか?」

「でも、違う色に見えるときがある。同じ色に見えても、この空はわたしが初めて見て、最後に見る青色なのかもしれない」


 夕貴の怪訝な視線に気付いた彼女は、そこでようやく脈絡のない唐突な話を切り出した自分を顧みたらしく、柄にもなく申し訳なさそうな顔をした。


「昔ね、親友に同じことを訊かれたのよ。だから、夕貴はどう思っているのかなって訊いてみただけ」

「その親友に言っとけよ。詩人志望ならやめとけってな」

「そうね。夕貴から言っといてくれる?」

「会わせる気満々かよ……」


 この女の知り合いが、果たしてまともな人間なのかどうか甚だ疑問だった。いや、その知り合いの中に、見ず知らずの女を同居させる夕貴という男もいることを踏まえると、やはりまともな人間である確率は限りなく低いかもしれない。


「それで、おまえ何が欲しいんだよ。日用品が足りてないとか言ってただろ」

「欲しいものはね、もう手に入ってるのよ」

「俺とか言いだしたらマジぶっとばすぞ」

「あーあ、なんてつれないご主人様なんだろうなー」

「声がでけえよ。誤解されたらどうするんだ」

「誤解もなにも、わたしは夕貴の奴隷なんだからしょうがないじゃない。心も身体も、ね」

「こんな言うこと聞かない奴隷がいてたまるか。頼むから黙ってろ」

「声を押し殺してるほうが燃えるタイプ? でもそれわかるかも」

「勝手にわかるな! うーん、でも確かにちょっとわかるけど!」

「声がでかいわよ。誤解されたらどうするの?」

「だからお前がな!」


 ついさっきよりも明らかに周囲からの視線が痛いのは気のせいではあるまい。


「そうね。欲しいものはいっぱいあるけど、いまはなくてもいいわ」

「おまえなぁ。わざわざ出かけて……」


 大仰に溜息をついて、夕貴はナベリウスを見た。そして、言葉に詰まった。青空だけをいっぱいに閉じ込めた白銀の瞳。小さな唇で、小鳥みたいな慎ましさでストローに口をつける仕草。風に乗って流れてくる、恐らく本人にも自覚のない鼻唄。


 欲しいものはいっぱいあるけど、いまはなくてもいい。


 そう言った彼女の言葉は、口から出まかせではなく、紛れもない真実なのだと、その満ち足りた佇まいが物語っていた。


 ほんとこいつは何なんだろうな、と夕貴は思う。


 相変わらず目的は不明。正確には『目的は夕貴』とか言っているがそれは信じていないのでやっぱり不明。どこから来たのかも、これからどこに行く気なのかもさっぱりわからない。


 しかし、いつまでも問題を先送りすることもできない。そろそろ彼女とも真剣に向き合って話をするべきなのかもしれない。


「今度の日曜日、みんなで花見するんでしょう?」


 思ってもみなかった話題の種に夕貴は眉をひそめた。もしかしてナベリウスも来たかったりするのだろうか。そういえばいつも花を見ている気がするし。


「それが終わって、夕貴が帰ってきたら、話をしましょう」

「急にどうした。とうとう電波塔がぶっ壊れて罪悪感に目覚めてくれたか?」

「ひとつだけ、あなたに足りないものを教えてあげるわ」


 夕貴の煽りにも取り合わず、ナベリウスは人差し指を立てた。


「女を見る目よ」

「……よくわかってるじゃねえか」

「自覚あったんだ」

「自覚すんのは俺じゃなくておまえのほうだけどな」


 どういう心境の変化があったのかは知らないが、ひとまず悪くない傾向だと夕貴は考えることにした。この女とも近いうちにお別れできるかもしれない。そう思うと、少しは優しくなれるというものだ。慈悲の心である。


「……まあ、どうせここまで来たんだ。なんか一個だけ欲しいもん買ってやる」

「ほんと? やった」

「ただし日用品限定でな」

「じゃあシャンプー。もちろん夕貴が好きなの選んでいいから」

「わかった。適当に安いやつ選んでやる」

「それで興奮できるなら、わたしは別にいいけどね」

「おまえの中で俺はいったいどういう人間になってんだ……」


 夕貴は項垂れる。まったく身に覚えはないが、もしかして俺はよほどの変態に見えているのだろうか。ナベリウスからの評価はまあどうでもいいが、実は学校とかでもやばいやつと思われていたらショックで死ぬ自信がある。


「シャンプーのお礼として、このナベリウスちゃんもお返ししてあげましょう」

「お? やっと出てってくれる気になったのか?」

「もし夕貴がピンチになったら、そのときはわたしが助けてあげるわ」

「……はいはい」

「まあずっと助けてあげるんだけどね。それがわたしの役割なんだし。使命なんだし」

「いますぐ助けてほしい……」

「え? 敵どこ?」

「もうぜったい役に立たねえだろ、このボディーガード」


 常に理性を崩壊させる危機を夕貴に与えているという意味では、目下のところ一番の敵といっても過言ではない。ぶっちゃけ襲っていないのは正真正銘の奇跡である。危ないことは何回かあった。


「はい、約束。こういうとき、人間はこうするんでしょう?」


 ナベリウスは小指を差し出す。常識は知らないくせに指切りは知っているらしい。急に立ち止まってそんなことをする彼女に、やたらと周囲の視線が集まっている。ちょっと上半身を前傾させて微笑むだけで絵になるとか凄い。


 この場から逃げ出したい一心で、夕貴はげんなりとしながら指を絡めた。


「……はい、これでいいか?」

「ええ、だいじょうぶ。まあこんなことしなくても約束はすでに交わされているんだけど」

「じゃあ意味ないじゃねえか」

「あったわよ。夕貴に触れられたじゃない。わたしにとってご褒美だもの」

「…………」

「あ、照れてる」

「照れてねえよ!」

「このまま小指だけ繋いで歩いたりとかしちゃう?」

「しちゃわねえよ!」


 どこに行っても注目を浴びながら、夕貴はナベリウスと日が暮れるまで街をそぞろ歩いた。赤い斜陽に照らされる銀髪は、日本の風景において燃える雪のごとく幻想的な取り合わせだった。とっくの昔に観念していた夕貴は、突き刺さる奇異の視線を無視しながら、長く伸びる影を追う。


「どうした?」


 ふいにナベリウスが立ち止まる。そして、雑多に行き交う人混みを見つめていた。


「いえ、なんでもないわ」


 何事もなかったかのようにナベリウスは歩き出す。彼女が背を向けた方向を見ても、そこにはただ、いつもと変わらない人の流れがあるだけだった。


 夕貴は一歩を踏み出す。この道がどこに続いているのかはまだわからない。それでも足を止めることはしたくなかった。


 花見の日に、彩とは話をするつもりだ。話をすると決めているだけで、具体的にどんな話題を持ち出せばいいのか見当もついていない。


 でも彩と向き合うと、そう決めた。


 また泣いている顔を見るかもしれないと思うと怖くなる。でもそれ以上に、もう泣かせたくないと強く思うのだ。


 夕貴は決意を新たにして、夕陽に溶けていくナベリウスのあとを追った。






 それを見かけたのは偶然だった。


 多くの人で混雑する街は、しかし何もかもが色褪せて映る。いつも鮮やかに色付いていたはずの桜でさえ、掠れた風景画の中の一枚のように色彩を失っている。一年前からずっとそうだった。


 でもいま彩の視線の先には一人の少年がいて、彼だけは暖かな色を帯びている。そこから柔らかな色彩が溢れて、灰色だった世界が少しずつ過日の意味を取り戻していく。


 少年のすぐそばに咲いている街路樹の桜は、心が震えるぐらい美しかった。


 とくん、と心臓が跳ねる。


 不思議だった。どうして彼の姿を見ただけでこんなに胸が疼くのだろう。ああ、そうか。きっと目も当てられない別れ方をしてしまったから意識しているのだ。たんに顔を合わせるのが恥ずかしいのだ。


 でもだめだ、と彩は思う。


 もう彼と話すことなんてない。話してはいけない。これ以上、彼と一緒にいたら、今度こそ耐えられなくなる。


 ほんとうの自分を知ってほしくてたまらない。わたしはみんなが思ってるような行儀のいい女の子じゃない。もっとわがままで、甘えたがりで、どうしようもないぐらい自分勝手な人間だ。誕生日プレゼントをねだってみたり、クリスマスには家族みんなでお食事したり、そんなことを願ってしまうような悪い子なんだ。


 彼なら受け入れてくれるかもしれないと思う。でも彼にだけは知られたくないという気持ちのほうが強い。あとちょっとでも踏み込まれてしまったら、きっと彩は我慢できなくなって、これまで必死に一人で抱えてきたものを曝け出してしまうだろう。


 あの少年には、暖かな日溜まりがよく似合う。血に濡れた過去なんて必要ない。遠くから見ているだけでも満足だ。それだけで彩の心は、ほんの少しだけ救われた気持ちになる。


 だから彩は、未練を断ち切るように踵を返して、次の瞬間、それを見て凍り付いた。


「……あ」


 少年のとなりに寄り添うのは、長い髪を腰まで伸ばした女性だった。遠目にもわかる美貌。だれもが羨むような女らしく洗練されたシルエット。そしてなにより、他が霞むほどの圧倒的な色彩を湛える銀の髪と双眸。


 笑っている。とても楽しそうに。


 彩が最後に見た彼の顔は、辛そうで、苦しそうで、見ているこっちがまた泣きたくなるほど痛ましいものだった。思えば、彼の笑顔を目にしたのはいつのことだろう。もうずいぶんと笑っている顔を見ていない気がする。


 もう覚えていないけれど、彩に向けられていた微笑みは、あんなふうに満ち足りたものだっただろうか。


 やっぱり彩と一緒にいないほうが、彼は幸せなのかもしれない。少なくとも、もう余計な傷を負うことはなくなるだろう。


 いつしか彩は、埃と排ガスで汚れたビルの壁に寄り掛かるようにして足を止めていた。こうしていなければ倒れてしまいそうだった。


 よろよろと歩く。家に帰る気は起こらず、いつかの非常階段に腰かけた。携帯を取り出して、少年にもらったキーホルダーを見る。ぴん、と指ではじいてみると、可愛らしくデフォルメされたヒーローは慌てたように空を飛び始めた。ほんのりと頬が緩む。


 電話が鳴ったのは、そのときだ。


 つい確認もせずに出てしまったのは、きっとだれかの声を聞きたかったから。街の喧騒ではなく、ほかでもない自分に語りかけてくれる声を聞きたかったから。


「……もしもし?」


 相手は何も言わなかった。怪訝に思って確かめてみると、発信先は公衆電話からだった。さすがに不信感が募る。いまどき公衆電話を使うなんて、よほどの緊急事態か、後ろめたいことがあるかのどちらかだろう。つまり第一声がない時点で、あまり歓迎できる類の電話ではない。


「あの、どなたですか?」


 それでも通話を切らなかったのは、ある種の予感があったからかもしれない。スピーカーからは微かに相手の息遣いが聞こえている。そこに何かを言おうとして躊躇っているような気配を感じて、彩のなかにあった予感が漠然としたものから確信に変わりつつあった。


 それを確かめるのはなんら難しいことではなかった。


 ただ、花の名を紡ぐだけだ。


「咲良ちゃん?」

『──っ』

「咲良ちゃん、なの? ねえ、そうでしょう?」


 息を飲む気配のあと、電話は切れた。一瞬のことで判然としないが、確かにそれは女性の吐息だったと思う。


 彩の連絡先を知っている人間はそう多くない。交友関係は広く浅くが基本だから、日常的にメールや電話をする女子もほとんどいない。


 わざわざ公衆電話からかけてきたのに何も話すことなく、彩の声を聞いた瞬間にたまらず電話を切るような相手。


 一人だけ心当たりがあった。一人だけしか心当たりがなかった。


 どくん、どくん、と痛いぐらい心臓が脈打つ。さきほど街中で少年を見かけたとき以上の動悸が彩を襲っていた。


 いる。


 間違いなく、咲良はいるのだ。


 希望でも可能性でもなく、ただの事実として彩は了解した。






 電話ボックスから出たところで、少女は首を傾げた。


「あれ?」


 わたし、なにしてたんだろ。


 うまく思い出せない。今日は──そうだ、高校が終わったあと友達と遊びに出かけて、ついさっき駅前で別れたところまでは覚えている。でもそこから何の間違いでこんな寂れた電話ボックスに避難していたのかがわからない。


 疲れてるのかな。今年は受験も控えているから予備校に通うことになってて憂鬱だし、そのおかげでママは成績にうるさいし、パパは相変わらず放任主義だし。


 ま、いっか。考えるだけ時間の無駄。おなかも減ったし、早く家に帰ってごはんを食べよう。


 楽天的に考えて歩き出した少女は、ふいに背後から大きな声で呼び止められた。


「待って! 待ってくれ!」


 念のためあたりを見渡してみたが、待ってくれと言われそうな人は自分しかいなかったので、少女は振り返った。眼鏡をかけた理知的な風貌の男性が少し遠くからこちらに駆け寄ってくる。二十歳過ぎだろうか。線は細いが、顔立ちは整っていて、正直ちょっとタイプだ。


 わわっ、ナンパ? ナンパ?


 内心ではドキドキしながら表面上は平静を取り繕っていると、息を切らしていた男性は、少女のことを熱っぽい目でじっと見つめてくる。


「え、えっと……」


 自慢ではないが身持ちは固いほうだ。恋に憧れはあるけど、惚れっぽい方ではなくて、むしろなかなか好きな人ができないのが小さな悩みでもある。


 それなのに、どうしてだろう。この人を見ていると、胸がきゅんとする。息ができなくなりそう。心が苦しくてたまらない。


「……その、ごめん。きみが僕の知ってる人と、とても似ているように見えたから」


 男性は申し訳なさそうに目を伏せた。これもまた巧妙なナンパの手口のひとつかと思ったが、違う、彼がそんなことをする人でないことを少女はよく知っている。


 ふっ、と儚げな笑みを浮かべて、少女はかぶりを振った。


「いいえ。大丈夫ですよ。間違いはだれにだってありますから」

「ほんと、ごめん。そう言ってもらえると、すごく助かる」


 男性は頬をかいた。子供のころからまったく変わっていない仕草に思わず噴き出しそうになる。


「だれを探していたんですか? とても必死そうに見えましたけど」

「……ちょっと遠くにいっちゃった人がいてね。聞いたら笑うと思うけど」


 彼は教えてくれた。もう一年以上も前にこの街を離れた少女がいて、それを彼の妹が偶然にも見かけたらしく、その日からいてもたってもいられず時間を見つけては探し回っているのだと。


 涙がこぼれそうになった。


「大切な人、だったんですか? お兄さんにとって」


 男性は迷うことなく頷いた。


「そうだね。きっと大切な人だった。気付くのが遅れてしまったけど」

「妹さんとどっちが好きなんですか?」

「え? どういう意味の質問?」

「その判断はお兄さんに任せます。聞かせてください」

「そんなこと言われても、妹とは比べられないっていうか、また種類が違うっていうか」

「……ちっ、うっさいな。空気読みなさいよ。こういうときはだいたい決まってんでしょうが」

「ん?」

「ああいえ、なんでもありません」


 ただの世間話のようなものだった。劇的な出逢いでもない。きっと数日後にはお互いの記憶にも残っていないだろう。


 それでよかった。


 風が吹いて、二人の間を薄桃色の花びらがそよいだ。なんとなく彼が見上げた先には、ひっそりと上品に蕾をつける桜がある。


「それは山桜ですね」


 少女は語る。ちょっと得意気に。


「葉っぱと同時に花が咲くことでも有名です。三月下旬ぐらいから見られるようになりますし、日本では一般的な桜のひとつでもありますね。それこそ和歌なんかでもよく詠まれていたりするぐらいに」

「へえ、よく知ってるね」

「それはもう。わたしの名前の由来にもなった花ですから」


 片目をつむって、いたずらげに言うその仕草。


 感心に頬を緩めていた青年の目が、そのとき、だれかの面影を見出したかのように見開かれた。


「やっぱりきみは……」

「はい? なんでしょう?」

「……いや、なんでもない。気のせいだったみたいだ。忘れてほしい」


 どうかしてるな、僕も──そう小さく言葉を足した青年は、複雑そうな面持ちでもう一度だけ桜を見上げた。


「あと、山桜の特徴は、そうですね。寿命が短いことぐらいかな?」


 少女は寂しげに微笑んだ。


「ちなみに花言葉は──」


 大きなトラックが公道を走り抜けていく。少女の声は、その轟音にかき消された。


「あ、ごめん。聞こえなかったんだけど」

「じゃあ仕方ないですね。二度言うのもあれなんで、あとはググってください」

「ググるって……まあいいけど」


 二人して笑う。


 そして、別れの時はすぐに訪れた。


「嬉しかったと思いますよ。そうやってお兄さんが探してくれてたこと。その女の子、きっと喜んでます」

「……ありがとう。きみにそう言ってもらえると、なんだかそんな気がしてくるよ」


 じゃあ、と手を上げて彼は去っていく。


「ありがとう、か。こっちの台詞なのにね」


 その背中に向けて、少女は小さな声で呟いた。


「……ばいばい」


 ひときわ強い風が吹いて、少女の髪を巻き上げる。ぼんやりしていると顔に桜の花びらがぺちぺちと当たった。


「わぷっ! な、なに!? って、あれ? わたしの王子様は? 運命の出会いは?」


 我に返った少女は、水に濡れた子犬のように身震いして頭に乗った桜を落とした。ぜんぶ夢だったのだろうか。自覚していないだけで実はびっくりするぐらい恋に飢えてたりするのだろうか。


「……あ」


 頬に冷たい感触。いつの間にか、涙が伝っていた。


「ん、変なの」


 もういいや。溜息をついて少女は帰路についた。


 これまでの人生で、なぜか桜がもっとも美しく見えた日のことだった。






 日曜日、花見は満開の桜が咲き誇る自然公園で行われた。


 正午に差し掛かると、桜の木々が立ちならぶ芝生の広場は、大勢の家族連れによって賑わい、至るところで遊宴の限りを呈していた。暖かな日差しの下ではしゃぎ回る子供たちを、その笑顔の面影を感じさせる親のかんばせが、淡紅色の木漏れ日の中から遠く見守っている。


 若者の集まりも多く目についた。ランチボックスを広げるだけの者や、タープテントを組み立てて大掛かりなバーベキューを催す集団もいる。ちなみに夕貴の属するグループは後者だった。


 幹事である響子の謎の交友関係の広さが遺憾なく発揮された結果、まさかの三十人近くが集まるという大規模な事態となった。


 その中には、もちろん櫻井彩もいた。


 触れ合った夜から、もう何日経っただろう。最後に見たのが彼女の涙だったからか、離れた場所で笑う彩がなんだか遠い存在に思えた。


「おーい、夕貴くーん。肉焦げてるよー」


 横合いから響子に指摘される。夕貴は舌打ちをして、黒くなったそれを自分の皿に取り分けた。これでもう何枚目なのか、炭っぽくなった肉は、すでにうず高く盛られている。


「どうした少年。なんか気になることでもあるのかね」

「うるせえな。俺はちょっと焦げてるほうが好きなんだよ。男らしいだろ」

「そのわりには箸が進んでないように見えるのはあたしの気のせい?」

「いまはちょっと箸休めしてるだけだ」

「夕貴ってさ、わかりやすすぎるのが玉に瑕だと思うわけだよ。あたしは」


 いや、それが逆にいいとこでもあるんだけど、と響子はよくわからないフォローをする。


「五人」


 響子が言った。


「大学に入ってからあたしを介して、彩の連絡先を聞こうとしてきた男の人数。つまりあたしが知ってるだけでも最低それぐらいはいるってことになるね」

「なんで俺にそんなこと教えるんだよ」

「二人」


 指を二本立てる。


「そのうち、今日ここに来てる男子の数」


 楽しそうに話したりバトミントンをしている男女混合の中規模のグループを、響子は目で指し示す。よく観察すれば、その男子たちの視線は、競技に参加せずに隅のほうでほかの女子と談笑している彩を追っている。とくに熱心に見つめる二人がいて、それが響子の指に相当することは想像に難くない。


「一人」


 また響子が言う。


「大学に入ってから、彩に告白した男の数」

「へ、へえ。そうだったのか。知らなかったな」

「一人」

「おまえの話にはいったい何人出てくんだよ」

「玉砕した男の数。よかったね。その場で断ったらしいよ」

「さっきからほんとうなんだろうな? おまえの言ってる話、まったく聞いたことないぞ」

「アホめ。そういうことをむやみに言いふらさないのが彩っていう女の子なのよ」


 響子は大きな溜息をついた。


「夕貴はそのへん疎いから気付いてないかもしれないけどね。もっぺん言っとくけど、彩ってめちゃくちゃモテるんだよ? 素直で大人しいし、可愛いのに性格いいし。あんな子、今時いないよ? いやマジで」

「わざわざ声をでかくして言うな。それぐらいわかってるつもりだって」

「はーあ、これだからなぁ。あんたはあんたで、昔からぜんぜん自覚ないんだから」

「訳わかんねえこと言ってる暇があるなら肉を食え。特別にこのとびっきり焼けたやつをプレゼントしてやる」

「やっぱりアホ。それは肉じゃなくて炭っていうのよ」


 響子は指を一本立てた。


「一人」

「まだいんのかよ。そいつが最後の登場人物なんだろうな?」

「彩が自分から連絡先を教えた男の数。彩が初めてデートに行った男の数。あの櫻井彩が下の名前で呼んでて、さらに下の名前で呼ぶことを許してる男の数」

「…………」

「そして、ゼロ」


 ありもしない数を示すように響子は拳を握ると、それでちょんと夕貴の肩を小突いた。


「大学に入ってから彩の連絡先まで辿り着けた男の数。よかったね、夕貴くん」

「そんなのたまたまだろ。おまえがいなけりゃ知り合うこともたぶんなかっただろうよ」

「そんなわけだから、あの子ってば、まだ男と手を繋いだこともキスしたこともないとあたしは見るね。つまりチャンスってやつよ。ほら、女って生き物は無駄にロマンを求めるじゃん? やっぱりそれがなんであれ初めての経験ってやつは忘れようもなく思い出に残って……ってなに、その顔?」

「……なんでもねえよ」

「ふん、最悪の思い出にしちまったな……って顔してるよ? あはははっ、なーんちゃって」

「…………」

「え? まじで? うそでしょ? なにこの流れる空気?」

「うそに決まってんだろうが。バカみてえな妄想すんな」

「ですよねー」


 あーびっくりした、と火起こし用のうちはで顔を扇ぐ響子。でもそれは夕貴の台詞だった。長年の付き合いも決して馬鹿にしたものではない。


「ここはいいからさ、あんたとっとと行ってきなさいよ」

「肉はだれが焼くんだ? 男の仕事だろ」

「出た。夕貴の謎理論。そんなのより、ちょっと頼まれてくれない?」

「なんだよ。レアか? ミディアムか? ウェルダンならここにいっぱいあるからちょっとわけてやってもいいぞ」

「いらないわよ。いまの夕貴にレア頼んだらそのまま生肉が飛んできそうで怖いわ。実はちょっとジュースが足りてなくてさ。もしよかったら買い出しに行ってくれない?」


 重たいものを持つのなら、それは確かに男の役割だろう。夕貴は頷いた。すぐそばのレジャーシートで熟睡している玖凪託哉のほうを見る。以前にも大学の食堂で読んでいたようなくだらない三文雑誌を広げて顔に乗せている。こういうのを好むような男ではなかったはずだが、サボるための口実に用意したと思えばなんら不思議ではない。


「おら、起きろ託哉。いつまで寝てんだよおまえは。買い出しいくぞ」

「あーいいのいいの。こいつはあたしが叩き起こしとくから」


 そして響子はよく通る声で言った。


「おーい、彩ー! ちょっときてー!」


 変わらず歓談の時を過ごしていた彩は、自分が呼ばれていることを知ると向かい合っていた面々に、ちょっとごめんね、というジェスチャーをしてから、こちらに歩み寄ってきた。その背中を、男子たちが名残惜しそうに見つめている。


「響子ちゃん、どうしたの?」


 いつも通りの淑やかな佇まいで、彩は首を傾げて訊ねる。

 

「いやぁ実はちょっといま人手が足りてなくてさ。もしよかったら彩も手伝ってくれないかなーって」

「いいけど。何をすればいいの?」

「ありがと、そんじゃさ」


 響子は両手をパン、と叩いて頭を下げた。


「夕貴の買い出し、手伝ってあげてくんない? 一人だと文字通り、荷が重くてさ」


 夕貴と彩の目が合う。さまざまな感情が交じり合った視線。数秒ほど見つめあってから、彩は顔を背けて、小さく頷いた。


「……うん、わかった。じゃあわたし、ちょっと財布取ってくるね」

「あ、そんなのいいから。個人のお金じゃなくて……って早い早い」


 まるで逃げるように彩は離れていく。それなりにレクリエーションも企画されていたので、運動の邪魔にならないように荷物はまとめて管理しているのだ。少し遠い位置に建てられたタープテントに彩が入っていく。


「いい子だねえ、ほんと」


 しみじみと響子が呟く。


「彩もさ、恋のひとつでもしたほうがいいと思うんだよね。いや、べつに恋じゃなくてもいいんだけど、あたしらぐらいの年頃ならそれが一番かなって」


 辛いことを忘れるにはさ、と。


 言葉にはしなかったが、響子の声にはそんなニュアンスが含まれていた。


 ふと、夕貴は気になった。


 響子はどこまで掴んでいるのだろう。遠山咲良が亡くなっていることはもちろん知っているはずだが、つい最近になって彩がそれらしき人物を街で見て、ずっと追っていたのは聞いているのか。


「そもそも、おまえと彩ってどういう繋がりで知り合ったんだ?」 

「厳密に言うと、はじめは友達の友達の友達って感じだったかな。中学のとき、バスケの練習試合でそこそこ通ってた学校があったんだけど、そこにいた子の友達の友達が彩だったの。で、あたしの友達の友達も春からこの大学に通うことになってさ。高坂千穂っていうんだけど、ほら、あそこにいる子。入学式のちょっと前ぐらいに久しぶりに千穂と遊んで、そのときに彩もいて意気投合して、そっからちょくちょくみたいな感じよ」

「相変わらずバカみたいにややこしいな、おまえの交友関係。ようするに中学のときの繋がりなんだな?」

「そうよ。だからまあ、彩のこともそれなりに知ってるってわけ」


 ぎり、と音がしそうなほど響子は奥歯を噛みしめた。もともと感情豊かな女だが、こうして本気で怒りを露わにするのは実は珍しい。


「通り魔なんて胸糞悪いどころの話じゃないわ。あれってまだ犯人も捕まってないんでしょ。これじゃあ彩も浮かばれない」


 問うべきか迷ったが、夕貴は意を決してその名を口にした。


「なあ、響子。おまえはどこまで当時のことを……いや、遠山咲良のことを知ってるんだ?」

「へ?」


 ぽかん、と響子が口を開ける。思ってもみなかった間抜けな反応に、夕貴が呆気にとられた直後のことだった。


「とおやま、さくら? それ、だれのこと?」


次回 1-12『咲良』


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