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ハウリング  作者: ハイたん
壱の章【消えない想い】
12/20

1-10 『相思相哀』


 それは櫻井彩にとって幸せな思い出であるのと同時に、もっとも後悔している記憶でもあった。


 中学生に上がったばかりの頃だ。母親と二人で花見をした。近所の公園を通りかかると開花したばかりの桜が咲いていたので、ちょっと見ていこうという流れになったのだ。たんなる散歩のついでだったかもしれない。


 そのときの桜が、とてもきれいに見えたことをよく覚えている。理由はわからない。珍しい品種ではなかったし、特別に美しく蕾をつけていたわけでもない。足を止めているのは彩たちだけで、ほかの通行人は見向きもしない。


 でも確かに心を揺さぶられた。


 なんとなく気になってとなりを見上げてみると、母も目を細めてじっと感じ入るように桜に想いを馳せていた。それが嬉しかった。親子二人の秘密みたいだったから。ちゃんとわたしはお母さんの娘なんだって、そう胸を張って言えそうな気がしたから。


 ずっとこんな幸せが続けばいいと思った。永遠がほしくて、時間が止まってくれればいいと願った。でも風は冷たくて、いつまでも桜を見ていることはできなかった。


 帰りましょうか、と提案して歩き出す母親の手。


 なぜかそれを、彩は一度だけ引いたのだ。


 ──ねえ、お母さん。


 握りしめた手に力を込める。なあに、と目線だけで問いかけられる。その穏やかな表情を壊したくなかった。また困らせてしまうんじゃないかって怖かった。ここで甘えてしまったら、お母さんに嫌われてしまいそうな気がした。それだけは絶対に嫌だった。


 ううん、といつもの大人しく行儀のいい『彩』の笑みを浮かべてみせる。なにか言いたげに曇った母の顔は、きっと彩のわがままを察して怒ったのだろう。


 そんなことはちゃんとわかっているから、だから。


 ──そうだね、帰ろっか。


 もうちょっとだけ、こうしていたいな。


 そんな小さなわがままを言うことも、けっきょく彩にはできなかった。


 あの日以来、母と二人で桜を見ることはなくなった。新しい家族ができて、四人になったからだ。


 だからきっと、あれが最後の機会だったのだ。


 いまでも彩は考える。ずっと後悔している。


 もしあのとき、いつもよりほんの少しだけ勇気を振り絞っていたら、思っていることをちゃんと口にできる自分でいられたのなら。


 もっと違った未来もあったかもしれないのに。


 




 夕貴が想像していたよりも部屋は簡素だった。相場なんて知らないが、見るからに場末の安いホテルといった感じだったから贅沢は言えない。申し訳程度に揃えられた調度品の中でも、部屋の中央に位置する大きなベッドだけは丹念にメイキングされて清潔な白いシーツがかけられていた。


 部屋に到着した後、夕貴は、彩にすぐシャワーを浴びるよう勧めた。ほんとうなら熱い湯も張って身体を芯から温めさせてあげたいところだが、雨と冷気に晒された肌は凍えきっており、悠長に待つ時間ももったいなかった。彩は自分が先に浴びることを良しとせず、頑なに夕貴に譲ろうとしていたが、そこは有無を言わさず脱衣所に押し込んだ。


 夕貴は着ていた服をすべて脱ぎ、タオルで身体を拭いたあとバスローブに着替えて毛布を羽織る。暖房を全開にしてから、電気ポッドで温かいコーヒーを淹れる準備を整える。


 浴室からはシャワーの音が絶え間なく聞こえてくる。本来なら興奮と緊張をしてしかるべき状況だろうが、夕貴の思考はかじかんだ指先以上に冷たくなっていた。


 彩に嫌な思いをさせないようにベッドの枕元に用意されていた避妊具をゴミ箱に捨てると、テレビを点けて、少しでも情報が得られないかとチャンネルを回してみる。


 まだ大して時間が経っていないからだろう。どのテレビ局のニュースを見ても、それらしき報道はされていなかった。あの女性の遺体がどうなったのかは不明だが、路地裏から表通りまで血の痕跡は多少なりとも残っているはずだし、曲がったガードレールや、凍結していたビルの内部など、目撃者が皆無だったとも思えない。ワイドショーが盛り上がる日もそう遠くないはずだ。


 こうして静かな部屋の中で、暖房の風に当たりながらテレビを眺めていると、ついさっきまでの悪夢が何かの間違いだったのではないかと思えてくる。ほんとうにあんな化け物みたいな女はいたのか。人が車に撥ねられたのか。ビルが凍ったのか。


 そして、あの最後の白い極光はなんだったのか。


 一瞬のうちに何かを見た気もするが、改めて振り返ってみると思い出せることはない。パニックのせいで頭がおかしくなっていたという可能性のほうが高いかもしれなかった。


「それか、俺の秘められた力だったりしてな。ははは……」


 気分を変えるつもりで口に出してみると、死ぬほど寒かったので毛布をもう一枚羽織った。がたがたと震える身体は無視する。


 それより気になるのは彩のことだ。


「……咲良、か」


 夕貴は遠山咲良の顔を知らない。ネットで調べれば写真ぐらいは出てくるかもしれないが、それは傷ついた彩の過去をいたずらに暴くのとなんら変わらないように思えて気が進まなかった。友人だからこそ知ってほしくないこともあるだろう。


 だから当時の事件についての情報は、それこそ彩の親友が被害に遭ったことぐらいしか夕貴は掴んでいない。


 どうして彩はあの女のことを咲良と呼んでいたのか。さすがに何かの間違いだったと信じたい。一年前に死んだ少女が、どういうわけか生き返っただけでなく、ふたたび死体となって彩の前に現れるなんて冗談にしてもたちが悪すぎる。


 人の気配を感じて、夕貴はテレビを当たり障りのない娯楽番組に切り替えた。


「夕貴くん。シャワー空いたよ」


 ぱたぱたと駆け足で、浴室からバスローブに身を包んだ彩が出てきた。髪の毛もまだ乾いていない。ドライヤーの音すらしなかったことを考えると、夕貴に譲るために急いで出たのだろう。実際、水音が聞こえ始めてからここまで十分もかかっていない。


「ごめんなさい。先にお湯もらっちゃって。夕貴くんも早く……」

「それよりまず熱い飲み物淹れるよ。まあインスントコーヒーぐらいしかないけどな。砂糖とかミルクは?」

「あ、いいよ。わたしがやるから、夕貴くんは先にシャワーを」

「これ淹れてから入るよ。どっちいる? 両方?」


 彩はまだ何か言いたそうだったが、ここでむやみに遠慮しても夕貴が譲らないであろうことを察して、申し訳なさそうに頭を下げた。


「ええと、じゃあ砂糖とミルクを一つずつ……」

「ああ。ちょっと待っててくれ」


 手早く用意すると、所在なさげに立ちすくむ彩にソファを勧めて、安っぽいガラス製のテーブルにカップを置いた。彩は両手でカップを持つと、しばらくてのひらを温めるように琥珀色の水面を見つめていたが、やがてゆっくりと口をつけた。


「……おいしい。とても、あったかい」


 安堵のため息とともに万感の想いを込めて彩は言った。夕貴も立ったままブラックのコーヒーを飲んではまったく同じ感想を抱いていた。特別こだわりがあるわけではないが、いま口にしているそれはどんな高級豆よりも美味しく感じられた。


 夕貴はさりげなく彩の様子を窺っていたが、彼女は手元のコーヒーを見つめたまま、ちびちびと舐めるように飲んでいるだけ。その佇まいからは精神状態までは読み取れない。


「じゃあ俺もシャワー浴びてくるから」


 彩よりも早くコーヒーを飲み干すと、夕貴は浴室に向かった。その途中、カップに口をつけたまま上目遣いでこちらを見ている彩と目が合った。どうした、と首を傾げてみせると、彼女はなにも言わずに視線を逸らした。


 一人で部屋に取り残されるのが心細いのかもしれない。なるべく早くシャワーを浴びて戻ろう。そう決めると、夕貴は冷え切った身体を温めるための作業に入った。






 一人きりになった室内でぼんやりとカップの水面を眺めながら、彩は何度も繰り返し、小一時間ほど前の出来事に思いを馳せていた。


 やっと咲良と巡り会うことができた。


 降りしきる雨の中に倒れている遺体を見つけたとき、彩はそう思った。死相により変わり果てていたけれど、それは間違いなく咲良の顔だった。


 確かに驚きはしたが、心の奥底にいるもう一人の醒めた自分はちゃんと納得もしていた。すでに一度は失われた縁なのだ。だからもし、ありえないはずの逢瀬が叶うとすれば、それはまともなものではないことも覚悟していた。


 襲われそうになったことも理解できる。きっと咲良は彩のことを恨んでいるし、それを拒絶する気はなかった。何が起きても受け入れるつもりだった。


 咲良から、そして自分から、二度も逃げるような真似はしたくなかったから。


 それでも彩が夕貴の手を取って逃げることを選択したのは、彼に責任を負わせたくなかったからだ。もし目の前で彩が死んでしまったら、夕貴は自分の無力を嘆いて後悔するだろう。人には言えない何かを独りで抱え込むことの絶望は、ほかでもない彩が一番よく知っている。それを夕貴には味わってほしくなかった。


 死ぬのはもちろん怖いし、痛いのも嫌だけれど、もしそうなるなら、せめて彼のいないところがよかった。


 彩が愕然としたのは、ビルのなかで氷漬けとなった女の貌をよく見たときだ。そこに閉じ込められていたのは遠山咲良ではなく、まったく知らない少女だった。似ているとか、見間違えたとか、そんな次元の話ではない。面影すらない別人だった。


 ならばどうして彩は、あの少女を遠山咲良だと錯覚していたのか。


 もしかしたらわたしは、いままでありもしないものを追いかけていただけなのかな?


 ぜんぶ、嘘で、幻で、勘違いで。


 自分に都合のいい夢を見ていただけなのかな?


 そんな不安が芽生えて、彩の身体は寒さとは異なる次元で震えた。


 一年前のあの日、大切な人を喪ってから、目の前を通り過ぎる何もかもが色褪せて見えた。もう人生には理由も目的もなかった。とくに死ぬ意味がなかったから、それを生きる意味にして漫然と過ごすだけの毎日だった。


 だから大学に入る数日前、咲良を街中で見かけたとき、彩の世界にふたたび色が戻った。


 もう一度だけ咲良に逢いたい、そしてやり直したい。


 それだけを願い、今日までずっと必死に走り続けて、ようやく手が届いたと思った。でもふたを開けてみれば、追い付いたと思った背中は、まったく別のだれかだった。


 やっぱり咲良は、もうこの世界にいないのかもしれない。


 そう意識したとたん、彩は自分という存在が、がらんと空洞になるのを感じた。崩壊する寸前だった彩の心は『遠山咲良を探す』という強迫観念によってかろうじて支えられていたことを思い知る。


 死んでしまったはずの咲良に逢うことだけが、いまの彩にとって唯一の生き甲斐だったのだ。

 

 それがなくなれば後にはもう何も残らない。


 からっぽで、虚ろだ。


 そういう中身のない人間だと、彩は自分のことを冷静に分析している。


 子供のころから両親の笑っている顔が好きだった。でも病弱だった彩には迷惑をかけることしかできなくて、せめて自分のわがままのせいで困らせたくないと幼い心に蓋をした。諦めて、我慢して、だれもが望む理想の『櫻井彩』であろうとした。


 いつだって人の顔色を窺って、自分のためではなく他人のために笑ってきた。


 だから彩は『自分』というものを誇れない。仲良くなってくれる友達も、好きだと言ってくれる男性も、きっと彩が作ってきた『大人しくて邪魔にならない櫻井彩』という人格を評価しているだけで、ほんとうの彩を知ったら幻滅する。そうに決まっている。


 せめてもう少しだけでも、嫌われることを恐れない自分でいられたら、今頃はどんな未来があっただろう。


 そんな後悔をしても、もう遅い。


 ”一年前のあの日”


 それはまるで呪いのように、彩から小さな一歩を踏み出すための勇気を奪っていった。


 自分を知ってほしい、なんて言えるわけがない。いまとなっては知られてはいけないのだ。


 いまの彩を知るということは、”一年前のあの日”を受け入れるということだから。


 夕貴に甘えてしまえば、ほんとうの自分を曝け出すことになる。


 それはすなわち、彩がここまで一人で我慢して抱えてきた全ての真実を夕貴にも背負わせてしまうということにほかならない。


 それだけはどうしてもできない。自分が楽になるために、彼を苦しめることだけは、ぜったいに。


 だから夕貴には、こんなからっぽの自分でしか接することができない。作り物の自分でしか逢えない。


 今夜のように一緒にいてくれる彼も、彩が上辺だけの人間だと知ると、そのうち距離を置いてしまうかもしれない。


 いずれ訪れるその日を思うと、彩は胸が張り裂けそうな気持ちでいっぱいになった。


「……いやだな」


 こぼれた声は無意識のものだった。口にして初めて、夕貴に嫌われたくないと思っている自分の心を知る。理由はわからない。わかるはずもなかった。


 その感情の意味と名前を知ることさえ、少女は諦めて生きてきたのだから。






 夕貴たちが選んだ部屋には、幸いにして浴室乾燥機が設置されていた。ずぶぬれになった服も夜明けには乾いているだろう。


 二杯目のコーヒーを淹れて、ふたり並んでソファに腰かけると、口を衝いて出るのは他愛もない話ばかりだった。もっとほかに話すことはあるはずなのに、やっと訪れた穏やかな時間をあえて壊したくなくて、ふたりは沈黙を厭うように声を交わし続けた。


「わたしね。夕貴くんのこと、昔から知ってたの」


 会話が途切れたころを見計らって、ふいに彩が告白した。


「高校の友達が、空手をやってる男の子と付き合っててね。あるとき、全国の大会でこれが最後だから一緒に応援に行こうって誘われたの。何人かで新幹線に乗って、たぶんほとんど旅行気分で」


 罰が悪そうに俯いているのは、いままで黙っていたからだろう。でも嬉しそうに瞳を輝かせている理由が夕貴にはわからない。彼女にとってはよほど楽しい思い出らしい。


「それであれか、俺のこともついでに見かけたと」

「ついでっていうか、あのとき夕貴くんのこと知らない人はいなかったと思うけど」

「優勝したからな」

「あっ、わたしが言おうと思ってたのに」

「俺よりも、同じく旅行気分っていうか完全に旅行で来てた響子と託哉のほうが騒ぎすぎて目立ってただろ」


 当時のことはあまり思い出したくない。いい意味でも、悪い意味でも。


「夕貴くんは、どうして空手を始めたの?」

「……どうして、か」


 初めからそれが聞きたかったのだろう。彩の面持ちは、いやに真剣だった。萩原夕貴という少年の内面を知ろうとするかのように。


 夕貴は少し考えて、彩になら素直に言ってもいいかな、と思った。


「俺の家、父さんがいないんだ。ずっと母さんと二人暮らしだった。だから強くなりたかった。そうすれば心配をかけなくて済むって、何かあったら俺が守ってあげられるって、そう思ってた」


 母という言葉が出た瞬間、彩の肩がわずかに震えた。


「ガキの頃から泣いて喚いてわがまま言って、とにかく迷惑と苦労ばっかりかけてきた。それでもこんな俺を、たった一人でここまで育ててくれたんだよ。小さなことでよく喧嘩するし、たまにむかついたり、心にもないこと言って後悔したりもするけど、やっぱり最後には俺でよかったって、そう思わせたいんだよ」


 それは子供なら誰だって経験する背伸びかもしれない。ずっと後ろで見ていた背中を、今度は守っていきたいから。自分なりに立派になった背中を、これからは安心して後ろで見ていてほしいから。


「ようするに、始まりは子供なりの考えだったんだ。強くなればぜんぶ守れるって。単純だろ?」

「そんなことないよ。すごく立派だと思う。その気持ち、わたしもよくわかるから。わたしは、強くはなれなかったけど」


 彩は両膝を抱えて、その上に顎を乗せた。


「わたしもね、お父さんがいなかったの。小さいころに離婚して。だからずっと、お母さんと二人暮らしだった」


 意外だった。なんとなく彩は、優しい両親と暖かな家庭に包まれて育ったという印象があったから。


 それから彩の話を聞いた。子供の頃は病弱だったこと。母親と二人きりの生活は辛くもあったがそれ以上に幸せだったこと。彩が中学生のときに母が再婚して、新しいお義父さんとお義兄ちゃんができたこと。みんないい人たちばかりだったこと。


 だから諦めることなく、我慢もせずに、いつだって好きな自分でいられたこと。


「わたしの名字は『櫻井』に変わった。すごい偶然だなぁって思ったよ。桜はお母さんが一番好きな花で、わたしの名の由来でもあったから。お母さん、なんだかよくわからないけど『縁起がいいね』とか言って笑ってた。あのときのお母さん、とっても嬉しそうで、子供みたいにはしゃいでた」

「彩は、お母さんのこと大好きなんだな」


 いつになく表情を柔らかく綻ばせる彩に、夕貴はそんな感想を抱いた。


 彩は瞠目して夕貴のほうを向いたが、やがて頬をうっすらと上気させた嬉しげな顔に、さらなる笑みを重ねた。


「……うん、大好き。大好きだよ」


 ここにはいない母の顔を思い浮かべるように、彩は目を閉じる。


「お母さんの笑ってる顔が好き。お母さんには幸せになってほしい。お母さんはわたしの生きる理由の、ぜんぶだから」


 今時、こんなにも素直に親のことを好きだと言える子供がいるだろうか。夕貴も母のことを大切に想っているつもりだが、さすがに人前では照れてしまってうまく言葉にはできない。


 恥ずかしげもなく、むしろそう思える自分を誇るように胸を張って気持ちを吐露する彩の姿。


 それが夕貴には、とても眩しく見えた。


「でも大丈夫か? それなら今頃、お母さん心配してるんじゃ」

「……大丈夫だよ。今日は友達の家に泊まるって連絡しておいたから」

「そうか。ならいいけど」

「まあこんなところに男の子と泊まってるなんて、ふつう言えないよね」

「ぶっ」


 危うく夕貴はコーヒーを噴き出しそうになった。非常事態だったから仕方ないじゃないか、とむせながら夕貴が目で訴えかけると、それがおかしかったのか彩は笑った。


 何でもない話で盛り上がる。こんなときに、こんなときだからこそ、いつもの日常の空気に少しでも触れていたくて。


 嫌なことを、忘れていたくて。


「もしよかったら、聞いてもいいかな」


 ひとしきり笑ったあと、彩はためらいがちに切り出した。夕貴が首肯して先を促すと、彼女は逡巡する素振りを見せたあと、ついさっきとは真逆の問いを投げかけた。


「なんで夕貴くんは、空手をやめちゃったの?」


 予想していた中では、いちばん答えにくい質問だった。空手の話になったときから聞かれるかもしれないとは思っていたが、いざ踏み込まれると、苦い気持ちになるのは避けられない。


 答えられないわけではなかった。ただ、どう答えたらいいのか自分でもよくわからないのだ。


 それでもあえて言うなら。


「……気味が、悪かったんだ」

「え?」


 彩が首を傾げる。しかし、それ以上の言葉を夕貴は返せない。彼が空手をきっぱりとやめたのは、ほんとうにそんな理由だったのだ。


 昔から運動神経はよかったと思う。どんな遊びでも、夕貴はほかの子供より明らかに優れていた。夕貴と肩を並べることができたのは玖凪託哉だけで、あとは負けず嫌いで怖いもの知らずな響子が無理やりついてくるといった感じだった。


 しかし夕貴が秀でていたのは身体能力だけではなかった。それのみなら、むしろ恵まれていると親に感謝して終わっていただろう。


 物心ついたころから、予知めいた直感のようなものがあった。


 人の動きがなんとなくわかる。ぜんぶ見えてしまう。自分がこうしたら相手はこう動くといった予想は、そのほとんどが的中した。まるで初めから答えが書かれている問題用紙のごとく、線の上をなぞるだけで満点に近い結果がもたらされた。


 それを才能だと浮かれたこともあった。だが幼い子供によく見るちょっとした優越感は、成長するにつれて違和感に変わっていった。空手という競技にもその感覚が適用されたのだ。中学生になっても高校生になっても妙な感覚は拭えず、それどころか次第に研ぎ澄まされていくような気さえした。


 だからといって、もちろん練習にも試合にも手を抜いたことはなかった。だから当然のように夕貴は負けることなく、当然のように日本一になって、名状しがたい気味の悪さを覚えて空手をやめた。


 そもそもの始まりは、唯一の家族である母親をせめて自分の手で守りたいと思ったからだ。欲したのは最低限の戦うための力で、空手に特別な執着があったわけではない。


 そんな夕貴の母親は、授業参観の類には断ってもかならず来るのに、空手の試合だけは一度も見に来てくれたことはなかった。理由を聞いてみたら「傷ついているのを見るのが嫌だから」と言われた記憶がある。まあ花が枯れただけで泣くこともある人なので、いくらスポーツとはいえ子供たちが拳を交えるのを観戦するのは気が引けたのだろう。


「夕貴くん?」


 こんな話をしたら、間違いなく自惚れや勘違いだと言われるだろう。実際、夕貴もそう思う。空手から遠ざかり、習慣的にだれかと競うようなスポーツをしなくなってからは違和感に囚われることもなくなった。


 この歳になるまで子供なりの痛い万能感を引きずっていたのか、実は十年に一人とかの普通にすごい本物の才能だったのか、判断に迷うところだ。


 だから夕貴が戦っていたのは、きっと他人ではなく──


「夕貴くん? あの、どうかしたの?」


 そっと肩に触れる手の感触で、夕貴は我に返った。

 

「えっ? ああ、悪い。ちょっといろいろあった」

「いろいろって?」

「あれだよ、意味深なこと言ったあとに黙り込むとなんかかっこいいみたいな」

「…………」

「……って、ついこのまえ映画で見てさ! そのへん、彩はどう思う!?」

「そ、そうだね。かっこいいと思うよ?」

「だ、だよなー! わかるー!」


 やらかす前の平穏な空気を取り戻そうと、夕貴はわざとらしくコーヒーを飲んだ。舌の上にはインスタントとは思えない深みのある苦さが残る。


 脳裏によぎる思い出。


 ときおり、試合に負けた相手が夕貴のことを見る目は、まるで人ではないものをそこに映しているかのようで。


 それが夕貴にとって安易に触れてほしくない一線であることを察したのだろう。彩は追及することなく、彼にならってカップに口をつけて話題を断ち切った。


 むやむに気を遣ったり、同情したり、余計な理解を示すこともない。それは夕貴の気持ちにそっと寄り添う優しい沈黙だった。


 こういう細かな心遣いを目の当たりにすると、ほんとうに気立てのいい女の子だとあらためて思う。


「あっ、でもね、だから」


 そこで何かを思い出したのか、彩が小さく笑う。その声は、お気に入りの御伽噺を語る子供みたいに温かかった。


「大学で一目見たときはほんとにびっくりしちゃった。こんなこと現実にあるんだなぁって。しかも響子ちゃんの幼馴染で、こうしてお話できるまで仲良くなれるなんて思ってもみなかったから」


 夢見るように語るその顔は、シャワーを浴びたせいで化粧の色がまったく乗っておらず、いつもより少しだけあどけない。それでいて、きれいな二重瞼の瞳や、自然に伸びた長い睫毛を見ていると、やっぱり美人はそれだけで得なんだな、とも思う。


「あんなに強くて、一生懸命だった人。夕貴くんはずっと前を向いてた。だれよりも頑張ってた。あのときの夕貴くん、すごく印象に残ってるよ」


 静かに吐息を漏らして、彩は続ける。


「わたしとは違う世界の人みたいだって思ってた。それぐらい遠い人だった。だからいま、こうしてわたしのとなりにいてくれることが信じられないの。こんなわたしの、となりなんかに」


 自嘲気味に唇を歪めてそう締めくくる。だが信じられないのは夕貴のほうだ。


「それを言うなら、たぶん俺のほうがびっくりしてるけどな。彩って自分のことぜんぜんわかってないだろ」

「なにが? どういうこと?」

「そのへんはまあ想像に任せるけど」

「……それ、ずるくない? 気になるよ」

「ずるくない。気にしとけ」


 はっきりとは言わない。というか言えない。平凡な大学生の男子にとって、彩みたいな女の子とデートできるのは役得なのだ。それこそ賞状やトロフィーなんて霞むレベルである。年頃の男子にしてみれば、世界の危機がどうのこうのよりも、女子と触れ合える機会のほうが遥かに重要で、切実な問題なのだから。


 彩はまだ何か言いたげだったが、けっきょく二の句を継ぐことなく、カップに残っていたコーヒーを飲み干した。


 時計を見ると、ちょうど日付が変わったところだった。もう夜も遅く、それでなくても体力と気力をいつも以上に消耗している。そろそろ眠ったほうがいいだろう。


 その前に夕貴は、ひとつだけ聞いておかなければならないことがあった。


 彩、と呼びかけると、彼女はまるで予期していたかのように、いままでになく静かな面持ちで夕貴に向き直った。


「なんで、あの女の子のことを咲良ちゃんって言ったんだ? あれはほんとうに遠山咲良だったのか?」


 夕貴が固い声で紡ぎ出した名にも彩は動揺を見せることなく、ゆっくりと言葉を選ぶような間を取ってから、粛々と答えた。


「……なんでかな。自分でもわからない。でも初めて見たとき、咲良ちゃんだと思ったの。ううん、わたしの目には、ずっと咲良ちゃんに見えてた。それなのに最後の最後によく見たら、咲良ちゃんとはぜんぜん違う人だった」

「どういうことだ? だって彩は、あんなにはっきりと」

「もういいんだよ」


 彩はかぶりを振って、夕貴の言葉を遮った。これまで穏やかだった彼女の声に、やおら踏み込まれるのを拒むような響きが混じる。


「……たぶんね、ぜんぶ間違いだったの。だから、もういいんだよ」


 その場しのぎの嘘ではない。はっきりとした諦観の念が感じられる。


 そんな言い方をされると、もう夕貴にできることはなかった。いるはずのない遠山咲良を見かけてしまったせいで、彩はいてもたってもいられず夜の街を探し回っていたのだ。それを止めて、これからは大人しく家に帰ってくれるなら夕貴の心配もなくなる。


 彩が諦めてくれるのなら、それは長い目で見ればいい兆候なのだろう。


 ただ、彩の表情は諦めるというより、むしろ──


 そろそろ寝ようか、と提案すると、彩は無言のまま頷いた。明かりを消してソファに移動したところで、服を引っ張られた。


「いや、さすがに一緒には寝るのはだめだろ。俺はこっちでも寝れるからいいよ」

「そんな。夕貴くんに悪いよ。わたしは気にしないから」

「……俺が気にするんだよ」

「え?」

「なんでもない」


 それでも夕貴が渋っていると、彩がソファを使うと言い出したので、数分にも及ぶ口論の末、けっきょく二人ともベッドで眠ることになった。


 部屋が真っ暗になったからか、シーツの擦れる音がやけに目立つ。夕貴はなるべく端っこのほうに寝転んで、彩に背を向けて目を閉じた。眠気はすぐにやってきた。


 しかし、無責任な睡魔は最後まで誘うことはせず、夕貴は現と幻のあいだで意識を彷徨わせる羽目になった。


 雨と、血と、氷と──人の死に顔が、どうしても瞼の裏に焼き付いて消えなかった。






 手を伸ばして、それが届く前に引っ込める。もう何度繰り返したか知れないその行為。


 櫻井彩は、目の前にある背中を眺めていた。もうずっと、そうしていた。


 男性として特別に大きくはない。バスローブの上からでも、確かに鍛えられていることはわかる。肩幅も狭くはない。しかし裏を返せばそれだけなのだ。もともとの骨格が細いほうだからだろう。華奢な印象こそ受けないものの、それは引き締まった筋肉がついているからで、とりわけ大きいわけではない。


 それなのに、こんなにも大きく見えるのは、なぜなのだろう。触れたくて、どうしようもなく心情が溢れて、涙が出そうになる。


 大雨の最中、遠山咲良と錯覚した女に襲われた瞬間、夕貴は何の迷いもなしに彩を庇った。どこまでも力強い瞳で。この途方もなく大きな背中で。


 彩の手を引いて走る夕貴の背には見覚えがあった。ずっと昔、まだ彩が幼いころ、同じものを見ていた気がする。


 大きくて、温かくて、眩しくて、ずっと見ていたくなる後ろ姿。恐怖も戸惑いも忘れるほどに、それは彩にとって懐かしいものだった。


 あれはそう、たしか、仕事に出かける母を見送るときだ。


 ──お母さんは、どうしていつも笑ってるの?


 両親が離婚して、母と二人で生きていくことが決まってすぐの話である。どんなことがあっても優しく笑いかけてくれる母に、彩は素朴な疑問を口にしたのだ。


 母は目をぱちくりとまたたきさせると、ふっと表情を緩めて、とても優しい手つきで彩の頭に手を乗せた。


 ──それはね、彩が──


 なぜだろう。うまく思い出せない。


 ──それはね、たぶん、彩がもっと大人になって──


 あのときお母さんは、なんて言ったんだっけ。


 どうして萩原夕貴と、在りし日の母の背中が重なったのか、彩にはわからなかった。二人ともまるで似ていない。性別も違う。夕貴のほうが逞しく、母は痩せていた。それなのに夕貴の後ろ姿から、彩はかつての母のそれを思い出したのだ。


「……夕貴くん」


 自分でも聞こえないぐらいの小さな声で呼びかける。もちろん返答はなかった。もう一度だけ手を伸ばして、指先が触れそうになったところで、彩は自分を戒めるように拳を軽く握った。


 いまこの世界でだれよりも近いはずなのに、こんなにも遠く思える。


 いつかこの背中も、彩から離れていくのだろうか。


 咲良だけでなく──大切な人だけでなく、萩原夕貴もまた彩を置いて行ってしまうのだろうか。


 ちゃんと諦めないといけないのはわかっている。我慢もするつもりだった。


 でもあんな孤独は、一人きりの世界は、もう耐えられそうにない。


 だからせめて今夜だけ。お願いだから。


 そう思って唇の動きだけで、最初で最後のわがままを言ってみる。


「わたしを、見て」


 その声は自分にも聞こえなかった。






 背中に触れる手の感触で、夕貴は微睡みから引き戻された。


 優しく、躊躇いがちに、指先だけでなぞるように。ときおり強く触れては、それが過ちだったと弁えるかのように手を引く。そして、また触れる。その繰り返しだった。


「……起きてる、夕貴くん?」


 ささやく声。まだ距離はあった。ただ指先だけで、細く小さく繋がっているだけ。


「起きてる、よね」

「……ああ」


 振り向かずに夕貴は言った。彩の吐息が、やけに近く聞こえた。


「わたしも、眠れなくて」

「……そうか」


 シーツが擦れて、隔てていた距離が縮まる。冷たかったはずの背には、いつの間にか人のぬくもりが寄り添っていた。二人を遮るものは、バスローブの布地だけ。


「どうした?」


 夕貴が問いかけても、彩はしばらく口を開かなかった。背後から、喉を鳴らして、唾液を飲み込む音がした。


「……寒いかも。さっきから寒くて。だから」

「毛布まだあっただろう。出そうか」


 返答はなかった。夕貴の背に、彩が頬をつける。服の上からでもわかる、ひときわ女らしく育った身体の艶めかしさ。


「ねえ、夕貴くん」


 夕貴の身体にそっと手を回して、少女は掠れた声でいう。


「……セックス、しようか」


 その告白に、なぜか夕貴の心はまったくといっていいほど動かされなかった。普通なら胸の高鳴りの一つも覚えていただろう。


 だが彩の声は醒めていた。愛も情欲も感じさせないほどに。


「どうして」

「どうしてって……」


 乾いた笑い声。


「言わなきゃだめかな。男の子と女の子がいて、こうして一緒に寝てるんだよ。おかしなことじゃないと思うけど」


 部屋が暗いせいで何も見えない。だからこそ平時は意識しない声の感触が、指でなぞるようによくわかる。彩の声はいつになく取り澄ましていたが、それ以上に固すぎた。


 正直、気持ちはわからないでもなかった。あんな恐ろしい目に遭ったのだ。こうして電気を消して一日を振り返る時間ができると、いままで忘れていたはずの不安が一気に押し寄せるのだろう。どうしようもなく人肌のぬくもりを求めてしまうのは、人が孤独に耐えられない生き物である以上、必然のことなのかもしれない。


 でも彩は女の子なのだ。


 あとになって後悔してほしくない。


「今日はもう遅いから。早く寝たほうがいいと思う」


 それは冷たく、いまの彩を傷つけかねない言葉だったが、夕貴にはそう返事するしかなかった。


「あはは……」


 声はひどく軋んでいて、それを笑みと表現するのはいさかか無理があった。


「そんな言い方、ひどくない? 女の子から勇気を出して誘ったんだよ。もうちょっとぐらい優しくしてくれてもいいと思う」

「彩」

「こっちを見ないで!」


 様子がおかしい。そう思って身体の向きを反転させようとすると、彩の腕に力が込められて、夕貴の動きを縛り付けた。


 強く抱きしめられる。はっきりとわかる乳房の感触。それを霞ませるほど激しく感じるのは、彼女の胸の奥で早鐘を鳴らして脈打つ鼓動。


「なんで? そんなにわたしって魅力ない? 抱く気も起こらないって、そんな価値すらないって、そういうこと?」

「違うんだよ。俺は……」

「自分からこうやって誘ってくる女の子はタイプじゃない? 夕貴くんはどんな女の子が好みなの? 教えてほしいな。教えてくれたらちゃんとその通りにするよ。ちゃんとしてみせるから」

「話を聞けって。俺はな……」

「それとも夕貴くんは、わたしのことなんかどうでもいいって」

「どうでもよくないからこそだ!」


 彼女に向き直って夕貴は断言した。あとほんの少しで唇が触れてしまいそうな至近で二人は見つめあう。彩は目尻に溜まった涙を見られたことにはっとして顔を背けた。


「俺も男だ。言っとくけどな、俺らぐらいの年頃の男は、暇さえあればずっと女のこと考えてるよ。いまだって死にたくなるぐらいおまえのことで頭がいっぱいになってる。でも、でもな」


 好きとか、愛してるとか、そんなものはまだわからない。


 ただ思うのだ。


「……嫌なんだよ。彩と、何の覚悟もなしに、そんな関係になるのは。ただの流れでやっちまったらきっと後悔する。朝がきたら、いつもの俺たちにはもう戻れないんじゃないかって、そう思うんだよ」


 彼女のことをどう想っているのか、夕貴はまだ自分の感情に名前を付けることはできない。


 だが、それでも。


「彩といると、居心地がいいんだ。心が落ち着くんだよ。だから大切にしたいんだ」


 ぴしり、と彩の表情に亀裂が走る。それに気付かないまま、夕貴は決定的な一言を口にする。


「なによりこんなの、彩らしくない。いろいろあって辛いのはわかるけど、いつもの彩なら……」

「はは」


 それは、嘲笑だった。


 彩には似つかわしくない、人を嘲るような嗤いだった。


「彩らしくない? いつもの彩なら? それ、どういう意味?」

「だから、それは……」

「あれかな。夕貴くんの知ってるわたしなら、こういうことはしないって?」


 夕貴は何も言わなかった。沈黙という肯定だった。それしか返せない自分がいたたまれなくて、彩から目を逸らす。


 その瞬間だった。


「──っ!?」


 唇に感触。いや、そんな生易しいものではなかった。勢いよくあたったせいで前歯に軽い痛みが走る。漏れた吐息は甘く、熱っぽく、それ以上に切なかった。


 突然のことに夕貴が瞠目している間にも、彩は彼の唇を必死に奪っている。目を閉じているのは、夕貴がどんな顔をしているか見たくなかったからか。それとも、まったく慣れていない彩が知っている唯一の作法がそれだったのか。


 夕貴の歯で薄く裂かれた彩の唇からわずかに出血があった。


 初めてのキスは、血の味がした。


「──やめ、ろ! 彩!」


 頭を後ろに引いて強引に唇を離す。唾液が糸を引いて、ほのかに赤みがかった銀色のアーチを引いた。


「やめろって! こんなの、おまえらしくないって言ってんだろうが!」


 口で言っても、手で触れても、彼女は止まらない。仕方なく夕貴は、彩に馬乗りになって、彼女の両手首をそれぞれ掴んで、ベッドに押さえつけた。


 二人分の荒い吐息だけが聞こえる。身体が熱く、気付けばひたいに汗をかいていた。暗闇に慣れてしまった目が、彩の唇から垂れる血の赤と、瞳からこぼれる涙の透明を見つけてしまう。


 バスローブはほとんどはだけてしまっていた。闇のなかでもくっきりと浮かび上がる色白の肌。豊かな胸まで半ば以上まで晒されていて、呼吸するたびに大きく上下している。涼やかな鎖骨のラインと、そこに小さくぽつんと主張するほくろが艶めかしい。細くくびれた腰には、だが男好きのする肉がしっかりとついている。


 お互いに手を縛り付け合っているせいで、衣服を直すこともできない。


 こんなときなのに、こんなときだからか、夕貴は彩の身体を強く意識してしまう。人は生命の危機に瀕すると生存本能により種を残そうとするという。心身ともに摩耗した地獄の一夜を経たあとに、こうして美しい女の裸体を目の当たりにして、まったく昂らずにいられるほど夕貴は悟りを開いていない。


 このまま何も考えず、ただ欲望のまま、目の前にある女の肉体に溺れたい──そんな安易な思考が芽生えて、夕貴は苦々しい気持ちで飲み下した。


「嘘つき」


 夕貴の顔を見上げて、男の情欲を見透かしたように彩は吐き捨てた。


「嫌なんだよって言ったくせに。大切にしたいんだよって言ったくせに」


 彩は揶揄する。口では立派なことを言っていたくせに、少し触れ合い、女の肢体を見ただけで、反応せずにはいられない夕貴のことを。


「いいんだよ。何の覚悟もなくても。そんな関係になっても。わたしは後悔なんてしないし、夕貴くんにもさせない。朝がきたら、いつものわたしたちに戻れるよう努力する。ただの流れでこういうことをしても何もおかしくないよ。もう大学生なんだから。子供じゃないんだから」

「じゃあ、なんで」

「え?」

「そんなに震えてんだよ、おまえ」


 拘束した手首も、夕貴の下にある身体も、気丈を装って紡ぐ声も、それどころか彼を見上げる瞳でさえ、隠しようもなく震えている。


 指摘されて初めて気付いたのか、彩は息を呑んだ。でもその眼差しは鋭く決したまま、夕貴のことを見据えている。


 なぜなら彩が恐れているのは、身体を差し出すことではなかったから。


 そして、それに夕貴は気付かない。


「こんなことしたくないんだろ」

「違う」

「違わない」

「違うって言ってる」

「違わねえよ。わかるんだ」

「……わかるって? どういう意味?」

「だから俺は、彩がほんとうはこんなことしたくないって、わかってるつもりで」

「なにがわかるって言うのよ!」


 激しく荒げた声とともに、これまで封じられていたはずの感情が迸った。


「なにも知らないくせに! わたしのことなにも知らないくせに! なんでそんなこと言えるの!」


 ふたたび暴れる彩の身体を押さえつける。男と女の腕力の差は歴然としていて、彩は黒髪を振り乱して、涙を撒き散らすことしかできなかった。ばたつく足がバスローブを翻らせて、夕貴の背にぺちぺちと布のビンタを見舞わせる。もはや視界に収めることも憚られるほど上半身ははだけて、夕貴はもう彩の顔しか見ることは許されなくなった。


 泣いている顔しか、見れなくなった。


 たしか、俺は。


 となりにいる人には笑っていてほしいって、せめてそんな顔だけはさせたくないって、そう願っていたはずなのに。


「夕貴くんが知ってるわたしってなに? どんなふうに見えてる? 大人しくて、礼儀正しい? えっちなことには奥手で、自分からいやらしいこともしない? いまどき珍しい清楚な女の子で、それに見合った慎ましい性格をしてるって?」


 夕貴が抱いていた彩の印象がそっくりそのまま読み上げられる。心を見透かされた気がして、夕貴は口を開くこともできなかった。


「そんなわたしの何がいいの? いつも愛想笑いして、だれにだって分け隔てなく接して、教科書に書いてあるような薄っぺらい女のどこに価値があるの? わたしでさえ大嫌いな、こんなからっぽで作り物のわたしの、なにがわかるって言うの? そんなの、わかったところで意味なんてないよ」


 彩が声を発するたびに、その心が少しずつ剥き出しになっていくかのようで、変わっていく彼女の姿に戸惑うばかりで夕貴は返せる言葉を見つけられなかった。


「一緒にいてくれるって、そう言ったよね」


 雨のなかで、夕貴が口にした言葉だった。


「ねえ、教えてよ。なんでわたしと一緒にいてくれるの? 居心地がいいから? 心が落ち着くから?」


 さきほど夕貴が読み上げた台詞を、彩は淡々とした声でなぞり上げる。彩の口から聞いても、その答えが間違っているとは思わなかった。思いたくなかった。


「どうしたらこれからもそばにいてくれるの? わたしを見捨てないでいてくれるの?」

「見捨てるわけないだろ」

「信用できない」

「放っておけないんだよ。おまえが困ってるなら力になってあげたいんだ」

「信用できない」

「嘘じゃない。守ってあげたいと思ってる。俺はできるかぎり彩のそばにいるから、それで」

「──信用できないって言ってるの!」


 言葉だけでは信じられないと少女は言う。だから行動で示してほしいと。


「なんの対価もなしに、こんなわたしのそばにいてくれるはずない! 嫌いだもん! 大嫌いだもん! わたしが大嫌いなんだもん! 仲良くしてくれるのも好きだって言ってくれるのもぜんぶ嘘! ほんとにわたしのこと知ってたらそんなふうに優しくしてくれるわけない! どうやったら嫌われないかって考えて、一生懸命に考えて、こうしたらせめて、いまだけはそばにいてくれるんじゃないかって、そう思って……!」


 夕貴にとって櫻井彩は『いまどき珍しい清楚な女の子で、それに見合った慎ましい性格』をしていて──だからこそ、こうして感情を迸らせる一面があるなんて、まったく知らなかった。


 それが彩のずっとひた隠しにしてきたほんとうの姿で、夕貴の知る『櫻井彩』のほうが側面に過ぎないことを彼は知る由もない。


「……だから、信用させてよ。嫌でもいいからわたしのこと抱いてよ。そうしてくれたら安心できるんだよ。そうじゃないと、もう安心できないんだよ」


 憐れを催すほどの哀願。それほどまでに彩の言葉は、年頃の少女が口にしていいものではなかった。いや、口にさせるべきではなかった。


 しかし、事ここに至っても、夕貴は彼女を抱く気にはなれない。彩のことを大切に想う気持ちがあるからこそ、その場しのぎの慰めは躊躇われた。


 そんな夕貴の意思が伝わったのだろう。彩の瞳に、薄雲のようにじわじわと諦めの色が広がっていった。


 夕貴は彩のことを考えているから嘘を言えなくて。


 彩は夕貴のことを考えているからほんとうのことを言えなくて。


「わたしだって……」


 だから二人の心は交わることなく、すれ違い続ける。


「わたしのこと、見てほしいよ」


 黒曜石を思わせる瞳から、滂沱と涙が溢れる。強張っていた身体からも力が抜けていった。夕貴が離れると、彩は背を向けて小さく身を丸めた。


「……でも、できない。できないんだよ。夕貴くんに、だけは」


 嗚咽混じりの幼子のように拙い声で、彩は静かに泣き続けた。


「……彩」


 手繰り寄せた毛布をそっと彩の身体にかける。いつまでも彩は泣き止むことなく、夕貴には色のわからない涙でシーツを濡らし続けた。


 夕貴は途方に暮れつつも、彩を放っておくことはできなくて、ためらいがちに頭を撫でた。すると、これまで止まることのなかった彩の嗚咽が少し収まった。こちらに背を向けたまま、もっと、とせがむように頭を寄せてくる。


 思っていたよりずっと反応がよかったので、今度は美しい黒髪に手を差し入れて、ゆっくりと梳いてみた。


「ん……」


 小さく、気持ちのよさそうな吐息が漏れる。そのまま続けていると、いつしか寝息が聞こえてきた。


 お母さんと仲がいいと言っていた彩のことだから、きっと幼いころからよく甘えていたのだろうし、そのぶん頭も撫でてもらっていたはずだ。昔のことを思い出して泣き止んでくれたのかもしれない。


 隠し切れない涙の痕を頬につけた表情は、なぜか初めてわがままを聞いてもらった子供のように満足そうだった。


 本来なら離れて眠るべきだと思うが、いまの彩を独りにするとどこかに消えてしまいそうな気がした。だから夕貴は、あまり身体が触れないように注意しながら、後ろから優しく腕を回して彩を抱きしめた。


 目をつむって、夕貴は情報を整理する。


 かつて遠山咲良は命を落とした。殺人犯はまだ捕まっていない。彩が見たと思われる咲良は別人で、代わりに化物のような女が存在した。謎の凍結現象に、視界いっぱいを満たした白い極光。それが夕貴の知る全てだ。逆に言えば、彼はそれしか知らない。


 もしかして何か見落としが──俺の知らない真実がまだどこかにあるのか?


 疑問が鎌首をもたげる。それが彩を苦しめているのなら力になってやりたい。心の底からそう思った。


 それは女の子を泣かせたくないという優しさなのか。


 自分が泣いている女の子を見たくないという臆病さなのか。


 どれだけ考えても、夕貴にはわからなかった。






 夕貴が目覚めたとき、すでにベッドはもぬけの殻だった。彩の荷物も消えている。ソファの上には、彩が着ていたバスローブと、浴室に干してあった夕貴の衣服がそれぞれきれいに畳まれていた。


 テーブルにはメモが置かれていた。


『ごめんなさい。お母さんが心配していると思うので先に帰ります。夕貴くんも気を付けて。──昨夜のことは忘れて下さい』


 女の子らしくない、見惚れるほど達筆な文字だった。もしかして習字か書道の教室にでも通っていたのだろうか。そんなことも知らない自分にいまさら気付く。


 まだ出逢ってから日は浅いが、色んな話をして、たくさん笑い合って、確かに積み上げた時間があったはずだった。少なくとも夕貴はそう信じていた。


 では昨夜、なぜ彩の気持ちをわかってあげられなかった?


 おまえは彩のなにを知っている?


「名前。優しい性格。気遣いができて、お母さんのことが大好きで……」


 もっと知っているはずだと声に出して読み上げてみる。でも続く言葉はなかった。夕貴の知っている櫻井彩の情報は、たった五秒で終わってしまった。


 こんなものは大学のクラスメイトなら誰だって知っている情報だ。いわば櫻井彩の上辺に過ぎない。


 おまえはほんとうに彩のことを見ようとしていたのか。ちゃんと彩と向き合っていたのか。いいや、自分に問いかけるまでもない。おまえは失敗したんだ。


 いままで彩がどんな人生を送ってきたのか、これから彩が何をするつもりなのか、夕貴はなにひとつわかっていないし、想像もつかない。


 彩の涙を、あれほど泣いていた女の子を、夕貴はだれより近くにいながらも止められなかったのだから。


 きれいに整頓された部屋を見渡す。備え付けられていた細かな備品まで所定の位置に戻されている。服を手に取ってよく見れば皺まで伸ばしてくれている。そのあとにテーブルにメモまでしたためた。


 目覚めてから、ここまでして部屋を出るのに三十分以上はかかるだろう。


「……バカ野郎」


 その最中、ずっとのんきに眠りこけていた男の顔面を殴ってやりたい気分だった。それと同じぐらい、彩にも文句を言ってやりたかった。


 メモに添えられているのは、一万円札。それも二枚。


「二万も、するわけねえだろうが……」


 こんな場末のホテル、宿泊にしたって一万円もかからない。相場もわからないくせに、ぜんぜん慣れてなかったくせに、あんなことをするほど彩は何かに思いつめていたのだろう。その何かにまったく心当たりがない自分が情けなかった。


 多めに用意された金が、なんだか彼女なりの迷惑料のようにも思えてやるせなかった。


 いったいどんな気持ちで彩は部屋を去ったのだろう。あれだけ涙を流したあとに、一人で目覚めて、一人で金を用意して、一人でラブホテルから出ていく女の子の心情なんて、もはや夕貴には推し量ることもできなかった。


 彩を追いかけたほうがいい、と嘯く自分の声が聞こえる。


 悪魔のごとき女に襲われて、全てを凍り付かせる絶対零度を見て、なにもかもよくわからないまま朝を迎えた。昨夜に起きた出来事が夕貴の理解を超えている以上、まだ街には危険が潜んでいると判断するべきだ。一夜明けたからひとまず安全だろう、と楽観視をするほど夕貴は腑抜けていない。


 しかし、冷静な答えを導き出す頭脳とは裏腹に、夕貴の足はまったく動いてくれなかった。問題があるのは身体ではなく、心のほうだ。


 夕貴は彩のことを守れなかった。泣かせてしまった。


 もし顔を合わせても、また彩のことを傷つけるだけのような気がした。もうこれ以上、彩には傷ついてほしくない。


 だからいまは会わないほうが──


「違う、だろうが」


 本気で自分にむかついて、夕貴は苛立ち交じりの声を吐き捨てた。


 バカが。なに賢しいこと抜かしてやがる。怯えてるだけだろ。なにもできない無力な自分を思い知らされるのが怖いだけだろうが。


 おまえは、自分が傷つくのを恐れているだけなんだ。


 俺は間違っていたのか。綺麗事なんて言わずに、ただ彩を抱けばよかったのか。そうすれば少なくとも一緒に朝を迎えることができただろう。彩を一人でこんなところから帰さずに済んだはずだ。いつもみたいに照れて笑って、ばいばいって言いながら別れることもできたかもしれない。


 でもそうしていれば、きっと彩にあんな一面があるなんてことも知らなかった。一時の慰めだけで彩は満たされて、もう夕貴には笑顔しか見せてくれなかったかもしれない。


 彩にはまだ、涙を流すだけの理由がなにかあるのだ。


 彩の悲しむ顔なんて見たくなかった。だから夕貴は想いの通わない触れ合いを拒否したのだ。いまはよくても、今日という日の安易な選択が、いずれ彼女を傷つけると思ったから。


 夕貴の選択は、確かに青臭いものだったが、決して間違いではなかったと思う。間違っていたのは、こうして女の子を泣かせてからしか気付けない自分自身だ。


 ここにいたのが夕貴ではないほうが、彩は傷つかずに済んだのだろうか。


 それが意味のない夢想だとしても、夕貴は考えずにはいられなかった。






 瑠璃色の黎明が空を染める時分に、夕貴は見慣れた生家の門前に立った。


 萩原という表札が掲げられた邸宅は、彼の生涯の中でもっとも長い時間を過ごしたものであるにもかかわらず、まるで初めて訪れるような新鮮さがある。


 鉛のごとき身体を引きずって歩く。玄関のドアノブに触れる。夕貴にしては珍しく俯きがちに家のなかに足を踏み入れる。


 ゆえに気付かなかった。その銀色の気配に。


「あ、おかえりー」


 呆気にとられた。あまりにも当然のようにいたから。待ってくれていたから。何の連絡もなしに朝帰りしたはずなのに、それを咎める様子もなく、いつもの優しげな微笑みを浮かべていたから。


「……おまえ、もしかしてずっと起きてたのか?」

「そんなわけないでしょ。さっきまで寝てたわよ」


 わざとらしくあくびをするナベリウスの目は、ほんのわずかに赤くなっていた。深雪の肌は、目の下の隈という、たった一つの足音でさえ穢れてしまうほど無垢だった。


 ナベリウスは夕貴の上着を自然な流れで受け取る。それが汚れていることを指摘もしなかった。


「なに? もしかして見惚れちゃってる? いくらナベリウスちゃんでも……」


 身体から力が抜けていく。夕貴は間違えてナベリウスに寄り掛かった。それは間違いだった。だから、後で正せば済む問題だった。だから、いまだけは、こうしていてもよかった。


 ナベリウスは何も言わなかった。彼女が驚いたのも一瞬だけ。すぐにその眼差しには慈愛が宿り、夕貴を優しく抱きしめて、頭を労わるように撫でる。


「お疲れさま」

「何がだよ。別に疲れてなんかねえよ。早く離せよ。何してんだよ」

「じゃあ早く離れたらいいのに」

「足が動かねえんだよ。だから、仕方ねえんだよ」

「そうね。それは仕方ない」


 理由はわからない。でも触れ合える人の温もりに、どうしようもなく涙が出そうになった。


「大丈夫。夕貴の好きなだけ、こうしていていいからね」

「なに言ってんだ。すぐ離れる」

「ちゃんと知ってるから。夕貴がいつも頑張ってること。優しいこと。人には内緒にして全部一人で抱えちゃうこと。それでも最後まで諦めないこと。ずっと昔から、わたしは知ってるから」

「…………」

「辛いこともあったかもしれない。何も言わなくてもいい。いまは、ただ、こうしているだけでいいから」


 いつの間にか力が抜けて、夕貴は膝をついていた。ナベリウスも同じく膝をつき、夕貴の頭を胸のなかに抱きしめていた。眠たくもないのに、自然とまぶたが閉じる。


 夕貴は何も考えず、心の底から浮き上がってきた言葉を、そのまま口にした。


「……ただいま、ナベリウス」


次回 1-11『あなたに微笑む』


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