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ハウリング  作者: ハイたん
壱の章【消えない想い】
10/20

1-8 『初デート』


 とある少年の思い出を語ろう。


 彼の最初の願いは単純なものだった。母親には幸せになって欲しい、絶対にそうしてみせると、まだ幼い自分に決意した。


 人並み以上に母を大切に想うのはそれなりの理由がある。彼は父親を知らなかった。


 二人きりの家族。助けてくれる人もいない。女手一つで子供を育てるのは、幼いながらに相当な苦労なのだと少年は理解していた。どんなときでも呆れるぐらい笑っている暢気な人だったけれど、それは母としての強さと優しさに起因するもので、決して生活が楽というわけではないことも彼は知っていた。


 そんな母を、少年は一度だけ泣かせてしまったことがある。


 両手を引かれて歩いていく友達たち。夕焼けに並ぶ三つの影を遠くから眺める。別に羨ましくなんてなかったし、母が手を繋いでくれるならそれでよかった。でもあるとき、ふいに疑問に思ってしまったのだ。


 どうして自分には父親がいないのか。


 そう問いかけて、少年は後悔した。困ったような、悲しそうな、申し訳なさそうな顔で、ただ一言。


 ごめんね。


 違うのだ。責めているわけでも謝ってほしいわけでもない。ほんとうにただ、ちょっと気になったから訊いてみただけ。だからそんな顔をしないでほしかった。させてはいけなかった。


 その夜、少年を寝かしつけてから──いや、正確には寝かしつけたと思ってから、一人でこっそりと涙する面影を、よく憶えている。


 少年は悔やんだ。幸せにすると誓ったはずの母親を、そんなふうに泣かせてしまった自分を恥じた。もっと強くなりたいと、早く大人になりたいと思った。


 ──おれ、ぜったいに母さんのこと守ってあげるんだ。


 いつだったか、夕暮れの帰り道で手を引かれながら、少年は宣言した。まだ舌足らずの誓いは幼く、けれど無垢であるがゆえに心のかたちは絶対で。


 母は目を丸くして驚いたあと、ゆっくりと手を離した。また何か余計なことを言って悲しませてしまったのかと思い、不安と後悔に苛まれて少年は歩みを止めた。でも口にした言葉に嘘はなかったから、てのひらが寂しくなったあとも、その眼差しだけは揺らぐことなくまっすぐだった。


 拳をぎゅっと握りしめる少年の前にしゃがみこみ、しっかりと目線を合わせて、母親は小さく笑みを落とした。


 ──守る、か。守る。うん。楽しみにしてる。


 ぐりぐりと、いつもとは違って少し乱暴に頭を撫でられた。白い手は震えていて、少年を見つめる二つの瞳はなぜか濡れていて、だから力加減がうまくできないのだと知った。なんだろう。どうして笑っているのに辛そうなんだろう。母は目尻を拭いながら微笑む。そうか、きっとあんまりにも世間知らずな子供の言い分に笑いが堪えきれなくなったのだ。


 少年はむっとして、言葉を続けた。


 ──うそじゃないぞ。おれ、ぜったいに母さんのこと守るんだ。


 母は、哀しみにそっと寄り添う竜胆の花のように、少年の小さな身体を抱きしめた。


 ──わかってるよ。ママのこと、守ってくれるんだよね。


 ──ママじゃない。母さんだ。もうおれも子供じゃないんだからな。


 ──そっかぁ。それはそれで母さん、ちょっと寂しいなぁ。


 ママって呼ばれるのは子供の頃からの夢だったんだけどね、と呟いた。


 ──でもそうだね。もう立派な男の子だもんね。だから。


 沈んでいく夕陽を眺めながら、母は遠い過去を懐かしむような憂い横顔で、少年に新たな決意を付け足した。


 ──もし困ってる女の子がいたら、ちゃんと優しくしてあげてね。


 いちいち言われるまでもなかった。そんなの当たり前である。もうすでに一度、少年は自分の力では止められない涙の重さを知っているのだから。


 ──わたしもね、ずっと昔、困ってるときに優しくしてもらったんだよ。


 子供の頃に蓋をした大切な宝箱を開くような、ちょっといたずらっぽい笑み。


 ──やさしくって、だれに?


 ──さあて、だれかなぁ。ヒントは、いまのあなたによく似た、だれかさん。


 くすくすと少女のごとき微笑み。それを美しいと感じた。笑顔でいてくれる母を。だれかに救われて嬉しかったと話す横顔を。だから守りたい。守ってあげたいって。


 ──よくわかんないけど、だいじょうぶだよ。


 この気持ちに嘘はつきたくなかった。だから少年は、ありのままの自分でいることを望む。


 ──わるいやつがいたら、おれがやっつける。泣いてる子がいたら守ってあげる。


 ようするに、これはそういうことだと思ったから。


 ──だから母さんは、心配しなくていいんだ。

 

 母は静かに息を呑んだ。透き通るような虹彩を細めて、じっと少年のかんばせを観察する。だれの面影を見出したのだろう。見つめる瞳は積年の愛おしさで溢れていた。


 ──うん。だいじょうぶ。心配なんてしてないよ。


 まだ何も知らない少年に向けて、母は語る。


 ──もっと時間が経って、大人になって、いろんなことを知って。


 そっと心に染み入る、暖かな声だった。


 ──ほんとうに悪いと思ったものがあれば、ちゃんとあなたの眼で見てあげてね。大切なものを、その眼で守ってあげるために。


 母の話は色々と難しくて、世界が優しさだけに満ちていると思っていた頃の少年は、全てを理解したわけではなかったけれど。


 ──とうぜんだろ。おれは母さんの血を引いた、むすこってやつなんだから。


 ずっと笑っていたいから。ずっと笑っていてほしいから。そう答えるのが正しいのだと思った。


 まだうら若い母親はゆっくりと噛みしめるように目を閉じて聞いていた。そんなにちゃんと受け止められるとは思っていなくて少年は恥ずかしくなった。でも何も間違ったことは口にしていないと、小さな胸を張った。


 ──だからさ、おれは。


 誓いの言葉は、母親を想って口にしたもの。でも少年は、自分に向けて紡いだ。


 美しいと感じたから。笑顔でいてくれる母を。だれかに救われて嬉しかったと話す横顔を。


 そして。


 こんな胸いっぱいの気持ちを未来の母子に届けてくれた、自分によく似ているというだれかの生き方を。


 ──どんなことがあっても、最後まで──


 いつの日か、どこかで困っている誰かがいて、自分が救いの手を差し伸べて。


 いつの日か、そのときの思い出を、こんなふうに優しく語ってくれるなら。


 それはきっと、とても誇らしいことだろうと思ったのだ。


 これが少年の原点。大切な決意。色褪せることのない始まりの自分。夕焼けを見るたびに思い出す。


 寄り添うぬくもりは温かく。少年の背丈はまだ低く。同じ景色を見るには何もかも足りず。目線を並べるためにはジャンプしても届きそうになく。


 せめて影の長さだけでも並べたくて。大人と子供の歩幅は遠くて、すぐに二つの陰影はあべこべに戻る。少年は頬を膨らませて足早になり、それを見つめる瞳は百合のように真っ白。


 どんなに歩く速度が違っても、夕陽に溶けていく親子はとてもよく似た笑顔。


 握りしめた母の手は小さく、子供の彼とあまり変わらない。だからもう家に帰るまで離さないと勝手に決める。


 それは向こうも同じだったのか。指先に力を込めると、まったく同じタイミングで、てのひらが深く重なり合う。


 そんな懐かしい日々があった。






 日曜日の午前十一時頃、夕貴は、彩との待ち合わせ場所である駅前広場に到着した。


 雲一つない青空と、燦々と降りそそぐ陽光。街路樹の桜は今が盛りとばかりに薄桃色を咲かせて、吹き抜ける風に春の風情を匂わせている。まさに若い男女が逢瀬を重ねるには申し分ない、見事なまでのデート日和だった。


 広場の中央には大きなモニュメントが聳え立っている。どんな人混みでも苦もなく辿り着けることから、市民の間では絶好の待ち合わせスポットとして親しまれている。


 まだ彩は来ていなかった。時計を見ると、約束の時間より五分早い。いつもより遅く感じる時の流れにもどかしさを覚えながら待っていると、予定から三分ほど過ぎたころに待ち人は現れた。


「夕貴くんっ!」


 彩の声がして、夕貴は振り向いた。


「ごめん、遅れちゃって!」

「ああ、ぜんぜん大丈夫。俺もいま……」


 彩を見た瞬間、夕貴は用意していたはずの言葉を忘れた。


 まず目を惹かれたのは、上品な布地で編まれた純白のワンピース。その上に、薄手のグレーのカーディガンを羽織っている。飾り気のないシンプルな装いは、彩の黒髪とよく似合っていた。


 細い革製のベルトで腰がゆるく締められており、その分だけ豊かな胸元が隆起していた。普段はゆったりとした服装に隠れているだけで、もともと女性としての魅力には恵まれた肢体をしているのだろう。膝丈のスカートからは白く細い脚が覗いていて、柔らかそうなふくらはぎが眩しかった。


「ごめんなさい。ちょっと準備に時間かかっちゃって……」

「……いや、俺もいま来たとこだし。ていうかほとんど時間ちょうどだったから謝る必要なんて」


 呆然と応えながら、夕貴は内心で驚いていた。ここ最近、彩と顔を合わせる機会は多かった。もともと端正な容姿をしているのは知っていたが、その性格や佇まいから、強く人目を惹く派手さではなかった。


 どちらかといえばひっそりと陰日向に咲く花のような可憐さで、だれもが足を止めて見入る類のものではない、はずだった。


 しかし、いま夕貴の目の前に立つ彩は、思わず目を奪われてしまうほどに綺麗だった。化粧に時間をかけたのか、髪をよく梳かしたのか、とにかく理由はわからないが、いつもより美しく感じられた。


 夕貴だけではなく、あたりにいる男も物珍しそうに彩を見つめている。向かい合っているだけで軽く緊張して、夕貴は呼吸さえ滞らせるありさまだった。


「ほんとに? それならよかった。もし夕貴くんに待ってもらってたらって……あの、どうかした?」


 不思議そうに、ちょっと心配そうに彩は首を傾げる。艶やかなセミロングの黒髪がふわりと舞う。香水の類はまったく身に着けていないらしく、シャンプーの甘い匂いと、柔軟剤のいい香りがした。


 まっすぐに見つめてくる瞳から目を逸らして、夕貴は平静を装いながら口を開いた。


「どうもしてないって。マジでいま来たばかりだから。ちょうどよかった」

「あ、そうなんだ。じゃあ、うん、ちょうどよかった、ね」


 言葉を交わして、照れくさそうに俯く。それからしばらく互いの出方を伺う妙な間ができたが、こういうとき、リードするのは男の役目だと夕貴は弁えているつもりだった。


 夜桜の美しい公園で、彩と話したのはもう何日前のことだっただろうか。楽しい記憶ではないので思い出したくはない。もしかしたら今日は、あのときの余韻を引きずってぎこちない空気になるかもしれないと覚悟していた。


 けれど、春の陽気に当てられたのか、夕貴も彩も今日という日を楽しみにしていたのか。


 二人とも表情は明るかった。


 あるいは今この時だけは、全てを忘れようとしているのかもしれない。


「じゃあ行くか。人多いから、気をつけてな」


 ぎこちなく促す。初々しくて、慣れていなくて、だからこそほんとうの気持ちだった。


「うん。いこう、夕貴くん」


 ふたりは揃って歩き出す。


「まずはどこかでお昼食べようか。彩、なにか食べたいものとかある? ちなみに俺はけっこう腹減ってるかも」

「わたしも朝から何も食べてないからおなか減ってるよ。だから、夕貴くんの好きなお店に入ってもいいけど……逆にこういうの困っちゃうかな?」

「そうだなぁ。実は俺、ランチの店とかは何も決めてないんだよな。彩と一緒に選びたいって思ってたから」


 本心だった。初めて遊ぶことになった今日一日は、彩と共に予定を決めていきたかった。小難しく考えて、堅苦しく構えるよりは、いつもの自然体で過ごしたかったのである。ベッドの中で徹夜するぐらい考えた挙句に導き出したプランがそれだった。


 予定を未定にするという、極めし者だけが持ちそうな奥義を、一周回って夕貴は習得していた。


 彩は優しく微笑む。


「そういうの、すごく夕貴くんらしいね」

「わ、悪かったな。計画性のない男で」

「そんなことないよ。わたしもそうやって一緒に考えたほうが楽しいから。それに逆じゃない?」

「逆?」

「だから、ね」


 彩は歩きながら空を見上げた。軽やかに踏み出す脚。よく見ると右の足首にはアンクレットをつけていて、それがやけに色っぽい。


「今日のことちゃんと考えてくれてたから、なにも考えてくれてないんでしょう?」

「どういう意味だよ」

「そうだねぇ。こういう話も楽しいねって意味、かな?」


 いつになく茶目っ気たっぷりな口調ではぐらかされる。こんな彩は初めて見たかもしれない。よほど上機嫌になっているらしい。


「あ、それとも考えてくれてたのは、わたしのことだったとか」

「はいはい、そうだな。ずっと考えてたよ。よかったな」

「あっ、ひどい! そんな適当に言わなくてもー!」

「適当なこと言い出したのは彩のほうだろ」

「そんなことないと思うけどなぁ……」


 毛先を弄りながらぼやく彩も、ぶっきらぼうに返事する夕貴も、口元に浮かんだ笑みは隠せていない。どことなく遊びのある話題が心地よかった。


「そういえば、このまえ友達から美味しいイタリアンのお店があるって教えてもらったよ。駅前からちょっと外れたとこなんだけど、お昼のランチコースがオススメなんだって」

「いいな。行ってみようぜ。あんまりそういう店いったことないから楽しみだな」

「ふふ、こういうときじゃないと、行かないよね」


 夕貴と過ごす一日を、彩も特別なものだと思ってくれているのだろうか。


 友達にしては近く、恋人にしては遠い、まだ名前のない曖昧な距離を保ったまま、夕貴と彩は同じ歩幅で歩いていった。






 それはデートという特別な響きを忘れさせる、ありふれた一日だった。


 少しオシャレな店でランチに舌鼓を打った後、公開したばかりの流行りの映画を鑑賞。その評判に違わぬ出来に二人してテンションが上がり、カフェで感想や意見を交えながら小休止。


 ふらりと立ち寄ったショッピングモールでは、これといって店に入り散財するわけでもなく、ただショーウィンドウに並ぶ服やアクセサリーを眺めて、お互いに見合うファッションについて議論してはああではないこうではないと盛り上がった。


 こんな日が、こんな時間が、ずっと続けばいい。二人はまだ大学生だ。日本のどこにでもいる普通の大学生なのだ。たまの休みに遊びに出かけて、どうでもいいことで一喜一憂して、そんな平凡な日常を繰り返す。それは振り返ったときにかけがえのない思い出として胸を温かくする。


 通り魔殺人事件や、少女の連続自殺──そういう人間の死に関わってしまうことのほうが異常で、いまの二人こそ本来あるべき姿だろう。


 彩は楽しそうに笑っている。その笑顔に嘘はない。彩だってこんな日がずっと続けばいいと思っている。きっとそのはずなのだ。


 何度も、夕貴はそう思おうとした。


 一通り施設を見て回り、やがて午後六時を過ぎた頃、彩は一つだけ、ささやかな願いを口にした。


「夕貴くん。もしよかったら観覧車に乗ってみない?」


 ショッピングモールの最上階には、この街を代表するランドマークとして赤い大きな観覧車が設置されている。ひとたび搭乗すれば、高見から階下の景色は一望することができる。デートスポットとしては定番の一つだった。一日の締めくくりとして、夕焼けに染まる街並みを眺めるのはこれ以上ない結末だろう。


 搭乗口には少し強い風が吹いていた。係員に案内された夕貴は先にゴンドラに乗り込むと、遅れて続いた彩に手を伸ばした。彩は髪を手で押さえながら、少し照れくさそうに夕貴の手を取った。


 夕貴と彩は差し向かいの席に腰を下ろした。動き始めると意外と静かに、二人を乗せた鉄製の箱舟はゆっくりと上昇していく。


 窓の向こうには朱に染まった景観が広がっていた。たおやかな夕暮れは、太陽がゆっくりと沈んでいくと一面に広げていた燈色に青や紫のグラデーションを覗かせて、その表情をよりいっそう深くさせている。街の至るところに咲いた桜が、移ろう四季の彩りを感じさせた。


「……きれいだね」


 窓の外を見ながら彩は呟く。


「いまが一番、桜がきれいに見える時期なのかな。このままずっと咲いていたらいいのに」


 なんだか、もったいないね。そう彩は続けた。


「今度、またみんなで桜を見に行くんだろ? 確かもう来週か。花見にバーベキューって響子のやつが張り切ってるからな」

「そうだったね。楽しみ。大学に入ってから、なんだかずっと夢を見てるみたい」

「それ、響子に言ってやれよ。いまの倍は面白いこと考えるから。それに俺たちはまだ大学に入ったばかりなんだ。これからもみんなで集まる機会はいくらでもあるだろ」

「……うん、そうだね」

「あと、まあ」


 どこか寂しそうに同意する彩に、夕貴は一言だけ付け足した。彩のことをまっすぐに見つめながら。


「俺でよかったら、いつでも付き合うから」


 彩は息を飲んで、わずかに目を大きくした。そして何も言わずに、ふたたび窓のそとに視線を向ける。無言のまま二人して黄昏の景色を望む。


「……やっぱり、きれい」


 独り言を漏らす彩の姿が、いまにも夕焼けに溶けて消えてしまいそうで。


 心地よかったはずの静寂が、急に恐ろしく感じて。


 だから夕貴は語を継ぐ。頭のなかで言葉を探す。楽しい時間を続ける。続けようとする。続いてほしいと願う。


「今日は、さ。楽しかったよな。イタリアンうまかったし。作法あってるかどうかちょっと不安だったけど」

「うん」

「映画も面白かった。倉橋渚の演技すごかった。さすが日本を代表する清楚派の若手女優って感じで」

「うん」

「いろんな服を見て、アクセサリーとかもいっぱいあって、あとは……そうだ、カフェも入ったか。コーヒーがうまくて、それで」

「……うん、楽しかったよ。ほんとうに」

「それで、それで……」

「ありがとう、夕貴くん。わたしはね、それでもやっぱり」

「それで、彩の好きな異性のタイプってどんなの?」

「うん……うん? え?」

「あ」


 しまった。勢いを間違えてわけのわからないことを聞いた気がする。決然とした顔でなにか決定的なことを口にしようとした彩でさえ、ぽかん、とした表情で固まっている。


「あ、いや、その、なんていうか」


 言い訳をしてみるも、言い訳にならない。どんどん夕貴の顔に赤みが帯びる。彩はしばらく呆然といっていい空白の眼差しを夕貴に注いでいたが、やがて小さく噴き出した。


「……ぷっ、あはは」


 口元に手を当てて笑う。


「そういうところ、ほんとに夕貴くんらしいね」


 どういうところか気になったが、それを聞く勇気などあるはずもなかった。


「不器用で、一生懸命で、とてもまっすぐで……」


 唇の微かな動きだけで彩が言う。しかし残念ながら、この小さな密室では彩の声は全て筒抜けだった。夕貴は穴があったら入りたい衝動に駆られて、一人で悶々としていた。


「……せっかく今日を、最後の思い出にしようと思ってたのにな」


 だから、そんな彩の未練がましい独り言を聞き逃した。夕貴が自分の世界から帰ってきたときにはもういつも通りの彩がそこにいた。


「もしかして、気になったりしてくれるの? わたしのこと」


 今日だけで何度か見た、いたずらげな顔である。いまさら照れても恥の上塗りでしかないので、夕貴は男らしくはっきりと頷いた。


 空気をぶちこわす意味不明すぎる話題転換を決めてしまったが、年頃の男女の間では面白い話のネタの一つであるのは間違いない。こうなったらとことん風呂敷を広げよう。


「ああ。気になる。彩がどんなやつが好きなのか」

「へ?」

「教えてくれよ」

「ふ、ふーん? 知りたいんだ?」


 夕貴はもう一度頷いた。そのなんら臆面のない反応が予想とは違っていたのか、彩はたじろぐ様子を見せたが、すぐに無理やり取り澄ました顔で指を折り始めた。


「え、えっとね、頼りがいがあって、強くて、優しくて、格好よくて、いざってときにはわたしを助けてくれて、あとなにより可愛くて……」

「理想高くないか? そんなやつこの世にいるのかよ」

「わりといるんだ、ってことをね。つい最近、知っちゃったかも」

「マジか……」


 一人の男として夕貴はショックを受けた。いろいろと思うところはあったが、残念ながら最後の『可愛い』という項目だけが致命的に外れているのだ。こればかりは挽回できるものではない。


「はいっ、今度はわたしの番」


 彩は真剣な面持ちで手を上げる。


「夕貴くんって、どういう女の子がタイプなの?」

「俺? そうだな……」

「例えば、例えばだよ? 響子ちゃんとか、どう?」

「はあ? 響子? ないない、絶対ない。実は地球が隕石だったとかいう可能性のほうがまだある」

「どうして? だって響子ちゃん美人だし、スタイルいいし、明るくて気さくで、男の子なら放っておかないでしょう?」

「そういうのとは違うんだよあいつは」


 男が放っておかないのは、むしろ彩のほうだ。彩の容姿と性格は間違いなく男好きするだろう。


「じゃあ、夕貴くんの好きなタイプって?」

 

 まだ食い下がる。当然といえば当然だった。彩はそれなりに詳細に答えてくれたのだ。このままだと不公平だろう。


「なんだろうな。たとえば、家庭的な子とかかな? 料理ができて、優しくて、落ち着いてて」


 彩は目を閉じて、夕貴の言葉を静かに反芻していた。その後、しばらくして納得したのか、表情は心なしか晴れているように見えた。


「他には? もしあるんだったら教えてくれると嬉しいな」

「他って言われてもなぁ……」


 さらに考えたところで夕貴は、先日の響子との会話を思い出した。あえて何がとは言わないが、彩はアルファベットで上から五番目の大きさらしい。それも六番目に近いほどのレベルだという。そのことを知ってからあらためて確認すると、確かに服の上から見ても明らかにわかるぐらい膨らんでいる。


 でもここだけの話、彩は胸よりも尻のほうが目立つ気がする。いわゆる安産型というのか、腰回りから臀部にかけての丸みを帯びたラインはこの上なく女性らしい体つきをしていて、今日なんてふとした瞬間に何度もドキッとさせられてしまった。


「じー」


 彩は鼻白んだ様子で、夕貴の顔を覗き込んでいた。余裕でバレバレだった。


「夕貴くん、変なこと考えてない?」

「……んなわけないだろ」

「間があったけど?」

「んなわけないだろ」

「どっちの否定?」

「どっちも」

「それは欲張りじゃないかなぁ」

「欲のない男よりはいいだろ」

「男の子って、やっぱり大きいのが好きなの?」


 単刀直入に訊いてきた。夕貴はもう素直に認めることにした。開き直っただけともいう。


「そりゃあな。大は小を兼ねるっていうか、小さいよりは大きいほうがいいっていうか……いや違う。はっきり言ってやる。俺は大きいのが好きだ」

「そ、そうなんだ」


 堂々と宣言すると晴れやかな気持ちになった。別に隠すことではない。女性の胸は、いわば孔雀の羽と同じく、異性を引く優位性の一つだ。ゆえにこれは性淘汰に代表されるれっきとした学史的な問題を語っているに過ぎない。


「……そっか、そうなんだ」


 彩は満足そうに何度も小さく頷いていた。どういうわけか琴線に触れたらしい。


「ちなみにな、いまの進化生物学における重要理論の観点から言えば」

「あ、いまそんなちゃんとした話のつもりだったんだ……」


 そして夕貴は普通に間違って口を滑らせることになる。言い訳をさせてもらえば、この話題が始まってから彩の機嫌が元に戻ったので、なるべく話を続けていきたいと思っただけなのだ。


「男は尻が大きい女も好きってことに……って言ったのは俺じゃなくて」


 胸のときはどちらかといえば興味がありそうだったのに、尻を引き合いに出すと彩の顔がみるみるうちに赤くなっていったのを見て、夕貴は即座に地雷を踏んだと悟った。


「彩? 俺じゃないからな?」

「どう考えても夕貴くんじゃない!」


 羞恥と怒気で顔を上気させながら彩は声を張り上げた。


「そんなの好きじゃなくていいの! ていうかいま、ちなむ必要あった!?」

「だよな。じつは俺もそう思ってた。大きけりゃいいってもんじゃないって。ちくしょう、ダーウィンの野郎が……」

「あーもうっ! 気にしてるんだからほっといてよ! あとどうやって文句言うのよそれ!」

「そんなに気にすることか? 少なくとも損はないって、ダーウィンが言ってたけど……」

「あるよ! お尻なんか大きくてもいいこと一つもないんだから! 視線気になるし、デニムはきついこと多いし、たまに安産型とかセクハラみたいなこと言われるし!」

「へ、へえ、そんなデリカシーないこと言うやついるんだー」


 言わないでよかったと夕貴は心の底から安堵した。


「……はぁ、なに言ってるんだろわたし」


 彩の声は次第に小さくなり、後半はほとんど聞こえなかった。


「ごめん、さっきの話は忘れて……」


 頭痛でも堪えているのか、ひたいに手を当てて、彩は自己嫌悪丸出しの声を漏らす。黙っていれば本人だけの密かなコンプレックスだったのだ。それを過剰に反応してしまったことで、むざむざ夕貴にも知られてしまったのを悔いているのだろう。


 彩のスタイルは贔屓目なしにもかなり優れていると思うのだが、あくまで夕貴の主観であり、そこに本人の希望や意志が介在する余地はない。


「あれだな。あおいこってことにしよう」

「おあいこ……」

「彩も俺のこと知っただろ?」

「……そう、だよね。うん、そう。夕貴くん大きいのが好きなんだよね。これぐらいあったら、たぶん……」

「思い出すにしてもまだほかの話があっただろ……」


 下らない話に二人は笑った。忘れようとするように、考えなくてもいいように、現実から目を逸らすように。


 しかし、夢は、長くは続かない。


「……咲良ちゃんは、まだこの街にいる」


 澄んだ湖に水滴を落とすような声が、静かな波紋を生む。


「自分でもおかしいとは思ってるよ。もういなくなっちゃった人を、そのことをほかの誰よりも知ってるはずのわたしが、それを認めようとしないなんて。いまでも咲良ちゃんを探しているなんて」

「……この際だからはっきり言うけど、それは危険だと思う。一年前の通り魔殺人の犯人だってまだ捕まってないんだろ。この前だって、俺たちは」


 自殺した女の子の遺体を見たのに、と夕貴は言葉を飲み込む。差し込む夕焼けの赤が、そのときの鮮烈な血の色を想起させたからだ。


 人の死に触れることは普通じゃない。専門家でもなく、何の知識も力も持たない素人が、それを追いかけること自体が間違っているのだ。このまま夜の探索を続けていれば、彩が何らかの事件に巻き込まれる可能性だってある。


 夕貴が、彩の行動を咎めようとしていることを察したのだろう。彼女は小さくかぶりを振った。


 夕貴は目を細めて、卑怯なことを言った。


「……遠山咲良さんだって、彩が危ない目に遭うのはきっと望んでいない」

「どうかな」


 すぐに彩は答えた。ふっと哀しげな微笑を湛えて。


「それは咲良ちゃんにしかわからないよ。だから訊いてみたいって、そう思うの」


 夕貴の言葉は優しく否定される。これからも彩は届くはずのない手を伸ばして、いるはずもない相手を捜すのか。


 夕貴はどうすればいいのだろう。毎晩、彩に付き添って、彼女が納得するまで一緒に遠山咲良を追いかければいいのだろうか。いや、それは現実的ではない。家のこともあるし、勝手に住み着いたナベリウスを放っておくわけにもいかない。


 これといって殺人犯に追われているわけでもないのだ。差し迫った脅威があるならともかく、ただ漠然とした懸念だけで四六時中も一緒にいることはできない。


 しかし、夕貴は現実的な思考とは異なるベクトルで、彩から目を離してはいけないと確信していた。


 あのハウリング──鼓膜を鋭く突き刺すような耳鳴りが、いまでも耳朶に残っている。


 路地裏で死んでいた少女。自殺であって自殺でなく、他殺であって他殺でなく、人殺しであって人殺しではないような、どこか違和感を覚える哀れな最期。


 もしかしたら、まただれかが死ぬかもしれない。そんな不吉な予感を胸に、夕貴は眼下に遠く広がる街の景色を睨んだ。


 会話が途切れて、静かな沈黙。観覧車は一周するのに約十五分。二人を乗せたゴンドラが中天に差し掛かり、目に見える景色がもっとも壮観となったあたりで、彩が言った。


「桜、ね。お母さんがいちばん好きな花なの。わたしが産まれたとき、ちょうど満開の桜が咲いてたって」


 彩は遠い日を透かし見るように目を眇めていた。その視線の先には、街を彩る桜。


「桜の花のように、いろ鮮やかな幸福を──わたしの名前には、そんな意味が込められてるんだって、お母さんが言ってた」

「いい名前だな。その通りじゃないか」

「そう、かな。わたし、そうなのかな」

「名は体を表す。俺の母さんが好きな言葉だ。彩のお母さんがどれだけ強い願いを込めていたか、俺は知らない。でも一つだけ彩のお母さんよりも知ってることがある」


 幸福とは、笑顔だ。


 笑顔とは、心のかたちだ。


「今日一日、彩はすごく楽しそうに笑ってた。だからそれが答えでいいんじゃないか?」


 なにキザな台詞を吐いてるんだって、自虐する自分がいた。それが本心で、これだけは彩に嘘ではないと伝えたいって、胸を張る自分がいた。


 夕貴の言葉の意味を吟味して、彩は少しのあいだ瞳を閉じていたが、やがて桜を思わせる彩鮮やかな笑みを浮かべた。


「ありがとう。夕貴くんって、けっこうロマンチストなんだね」

「あ、やっぱりそんな感じだったのか……」

「顔赤くなってるよ?」

「バカ、夕陽のせいだ。じつはびっくりするぐらい真っ白だ。ほら、よく見ろよ」

「はい、よく見ました。やっぱり赤いよ? ちなみに可愛いと思うよ」

「ぜんぜん見てねえだろ! ていうかいま、ちなむ必要あったか!?」

「パクらないでよ。ただの進化生物学における重要理論の観点なのに」

「どっちがだよ! まじめな話はいましてねえよ!」

「はいはい、わかったよ。安心して、ちゃんとダーウィンに言っておくから」

「そんな凄い人のせいにするやつ初めて見た!」

「わたしは二人目だけどね」


 それから少しして二人は表情を緩めた。


「夕貴くん、か」


 唇と舌でしっかりと確かめるように、その名を声に出す。


「夕貴くんの名前には、どんな意味があるの?」

「そういえば、ちゃんと聞いたことないな。ただ俺が生まれる前から、男でも女でも、夕貴って付けることは決めてたみたいだけど」


 彩と同じく、夕貴という名も、彼の母親が命名したものだった。いまさらながら素朴な疑問が湧き上がる。自分の名前には、いったいどんな願いが込められているのだろうかと。


 やがてゴンドラが終着点に辿り着いたとき、夕焼けは終わりを迎えて、空の向こうに夜の気配がした。


次回 1-9『雨、血染め桜』



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