その6 向かい風の嘲笑に、讃えられない君
昼食を食べ終えたヨシノは両手を合わせた。それは彼が食後に行う奇妙な仕草。一度リタがそのしぐさの意味を尋ねてみたところ、彼はそれが感謝の意を示す行為であると教えてくれた。誰に対してか、何に対してなのか、リタは理解できなかったがそれからは彼にならい自分でも手を合わせるようにしていた。
「ごちそう様でした」
別に意味なんて分からなくていいのだ。リタにとって重要なのはヨシノと一緒の振る舞いをするということに意味があるのだ。敬愛する彼と同じ価値観を共有したいという年頃の乙女心が彼女を動機づけているのだ。
「おいしかったですね、リタ」
「はい。お芋がほくほくでおいしかったです」
二人が食後の余韻に浸っていると、ギィと軋む音をさせながら入り口の扉が開く。
そうして現れたのは教会から帰ってきたのであろうこの店の常連たちであった、目元を赤く腫らし、悲しみにくれていたのであろう彼らは店の端に座るヨシノを見た途端、その眼付を鋭くさせた。
明らかな怒り、明らかな敵意。それを感じ取ったリタは窺うようにヨシノの顔を見つめる。
「ええ。行きましょうか、リタ」
「はい」
立ち上がり、店を出ようとする二人。けれど、それを妨げるように男たちは立ちふさがる。
「おい、お前」
腕の太さがリタの胴ほどの大男が低くドスの利いた声でヨシノを呼び止める。
「私でしょうか」
「ほかに誰がいんだよ。お前だよ、性的倒錯者さんよぉ」
「何か御用でしょうか?」
「何か御用だと?」
穏やかに応じるヨシノの横で、リタはその敵意をむき出しにする大男を睨みながら様子を窺う。
「大ありだ、くそ野郎がっ!」
けれど、リタの視線など眼中にないのか、大男は怒声と共にヨシノに掴みかかろうとする。
「っ!」
咄嗟にリタは手に魔力を込める。しかし、それをヨシノが手で制す。胸倉を大男に捕まれながらも、彼は平静を保つ。
「ラザールから聞いたぞ。お前、ベアトルスさんの死体を辱めたんだってな!」
「下着を調べたことでしょうか?」
「それだけじゃねえ。ベアトルスさんは上半身が肌蹴ていたってのにまじまじと見てたらしいじゃねえか! ふざけんじゃねえ! お前、死者を愚弄すんのか!」
「愚弄? それは違いますね。私は死者の死に敬意を表しているからこそ目を背けないのです。貴方は、シスターベアトルスがどのように死んだのかをご存じなのですか?」
「そ、それは……」
大男は言いよどむ。彼はシスターベアトルスの死にざまを知らないのだ。
「彼女が感じた痛みや苦しみを貴方は知っているのでしょうか。彼女には叶えられなかった想いがあるでしょう、悔やみきれなかった無念もあるでしょう。それら全てを無様に振り回し、足掻き、散るまで美しく生き続けた彼女の讃えるべき死を私は一切目を逸らすことなく感じ取りました。それでも、貴方は私が彼女を愚弄したというのですか?」
ヨシノの熱を帯びた瞳が男を見つめる。彼の語る死はいつだって凄惨だ。死者の無念など、生者ではどうすることもできない、目を背けたい事象を隠すことなく語るのだから、聞いている人間はどうしても気が滅入ってしまう。
なのに、語る本人はそれと向かい合ってなお見つめ続ける。それが彼、ヨシノの死に向ける恋情のあり方なのだと、リタは敬意を抱くのだ。
「う、うるせえっ! 気持ち悪いんだよぉ!」
大男は激情のままに拳を振り上げる。そこまで来るとヨシノも呆れてしまったのか、リタを制していた手をどけたので、彼女は遠慮することなく魔力を開放する。
「フレイム」
「うおおぉぉおおっ⁉」
振り上げた拳の前で炎が炸裂する。その衝撃と熱に驚いた大男は慌てふためき二、三歩後ろによろめくとそのまま尻餅をついてしまう。
「お、お前、魔法だと⁉」
大男は驚愕を浮かべリタを見る。
「これ以上ヨシノ様を侮辱するなら、私は貴方をどうしてしまうかわかりません」
「ひぃっ!」
「リタ、それぐらいにしておきましょう」
ヨシノに宥められ、リタは大男に向けていた威嚇するような目を止める。蛇に睨まれた蛙のように震える大男とその取り巻きは、出て行こうとする二人に道を明け渡す。
「それでは、失礼します」
帰路につく二人。その道中、ヨシノは自嘲気味な笑みを浮かべリタに頭を下げた。
「すいませんね、リタ。折角の楽しい昼食を台無しにしてしまいました」
「ヨシノ様が謝る必要なんてないです。悪いのはあの男たちですから」
「いえいえ、私も悪いんですよ。理解されることなんてないと分かっていながら大人げなく私の考えを押し付けてしまった。彼は彼なりに彼女の死を悼んでいたというのに」
「ヨシノ様は悪くないです」
リタは強めの口調でそう断言する。
「悪くないんです」
「リタ……」
懇願するように否定するリタ。ヨシノは慰めるように彼女の頭を撫で、微笑みを浮かべた。
「そうですね。私は悪くありませんよね。リタの言う通りでした」
少し落ち込んだ空気を振り払うようにヨシノは抱き上げて振り回す。
「わ、わわっ」
「ははは、リタは軽いですね。まるで死体みたいですよ!」
「そ、そうですか?」
突然回り始めたリタの世界の中心でヨシノが笑いかけるので、彼女は戸惑いながらも嬉しくなって、釣られて笑みを浮かべていた。
世界が数周すると、リタは石畳の上に降ろされる。ヨシノは回すうちに落ちたのであろう帽子を拾い上げ、丁寧にかぶりなおした。
「リタはそうして笑っている方が美しいですよ。仏頂面も、剣幕や憂い顔も、貴女には似合いませんからね」
「は、はい」
事務所に変えるまで、リタは赤くなる顔を隠しながらヨシノの後を付いて行くのだった。
◇ ◇ ◇
事務机に向き合い、ヨシノは筆を執っていた。羽の先を何度もインクに浸して走らせれば、部屋の中はインクの鉄くさい臭いで満たされていく。
「窓開けますね」
「ああ、ありがとうございます、リタ。気が利きますね」
「いえ、それほどでもありません」
リタはヨシノの後ろにある窓を開けると、興味本位で彼が何を書いているのか覗き込んだ。
「報告書ですか?」
「いいえ。これは私の個人的な記録です」
「個人的な記録ですか」
「そうです。シスターベアトルスは既に死に絶え、この世からいなくなってしまいました。けれど、生者としての死んだ彼女が死者としての彼女まで消えてしまわないように、私はこうして彼女の死を記録しているのです」
「死者としての彼女が消える?」
それは不思議な表現であった。死んでいるのだから、それ以上どこへ行けるというのか。リタが小首を傾げて見せると、ヨシノは優し気な微笑みを浮かべる。
「リタは人が消えるのは何時だと思いますか?」
「消える……お墓に埋められた時でしょうか」
「ああ、なるほど。良い考え方ですね。死んでもすぐに消えるわけではない。だって、そこにまだ身体は残っているのですから、消えるというなら見えなくなってからだと思ったわけですね」
けれど、ヨシノの言い方からリタの答えが彼の期待とは異なっていることを彼女は察する。
「では、いつ消えるのですか?」
「人が消えるのは、皆に忘れ去られてしまった時だと、私は考えているのです」
「忘れ去られた……」
「ええ。人は死から目を逸らします。哀しみは心を削り、悔恨は重りのように圧し掛かる。生者は死を抱えたままでは前に進めないのです。だから、彼らは死をなかったことにする。忘れよう忘れようと努力する。そこに生きていた痕跡など、初めから無かったかのように」
ヨシノはどこか遠い目で外を眺めた。
「だから、私だけは忘れないようにしているのです。だって、悲しいじゃありませんか。悔やみきれず死んでいった、無様で悲惨で美しい生の最期を誰も肯定しないなんて」
そう言うと、ヨシノは再びペンを動かし始めた。再び部屋に漂い始めたインクのにおい。それが、彼女の死の残り香だと思うと、なんだかリタは悲しくなってきて、思わず窓を閉めた。
「おや……」
そんなリタの様子をヨシノはどこか嬉しそうに眺める。
「風が……強かったので」
「ふふふ。そうですか。そうですね。私もそう思っていましたよ」
「お茶淹れますね」
なんだか心を見透かされているように感じて、リタは逃げるようにキッチンへと向かった。トタトタと床を鳴らしながら歩いていると、事務所の扉をノックする音が聞こえてきた。
「どうぞお入りください」
ヨシノが応じると扉が開き、みすぼらしい少女が一人姿を現した。
「頼みを聞いてくれる場所で、合ってますか?」
「内容によりますが、その認識で間違いはないでしょう」
ヨシノが立ち上がり、目の前のソファに座るよう手で促す。けれど、少女は緊張しているのか、扉の前から動かず震える声を張り上げた。
「お姉ちゃんを……ベアトルスさんを殺したスライムを退治してください!」
それは、シスターベアトルスの死を忘れられなかった生者の復讐の依頼であった。