その5 町は追い出そうと炎を焚く
リタは思った。冷たくともビーフシチューはおいしいものなのだと。けれど、同時に思った。温かければもっとおいしかっただろうと。そう感じたのはリタだけではなかったようであの調査から一夜明けた昼時、ヨシノは思い立ったように立ち上がった。
「リタ。アリサさんのところでお昼にしましょう」
「アリサさんのところでですか」
リタはヨシノの提案に少し驚きました。彼は嫌ってはいないものの生者との積極的な交流を避けている。それは交われば不和が生まれることが明らかであると彼が理解していたからである。そんな彼が昼間から外へ出ようと提案するのだからリタも掃除の手を止めた。
「ええ。昨日はおいしいビーフシチューを食べ損ねてしまいましたからね。冷めていてもおいしいというのは流石アリサさんだと言わざるを得ませんがどうせ頂くならよりおいしく頂きたいものでしょう」
「そうですね。私は温めようかと提案しましたけど」
「魔法での温め直しは好きではないんですよ。リタには申し訳ないですけれどね」
外出の支度を終えたヨシノに続き、リタは手に持っていたはたきを机に置き、小走りに彼の背中を追いかけ事務所から出て行った。
外に出てみるとリタは違和感を覚えた。いつもと雰囲気の違う町の空気はどこかしんみりと落ち込み、まるで寝静まった真夜中のような静けさが漂っていた。
「静かですね」
リタが疑問を口にする。けれど、ヨシノはこの異様さを分かっていたかのようににこやかに気分よく通りを歩く。
「それもそうでしょう。なんといっても今日はシスターベアトルスの葬儀が教会で行われているのですから」
「ああ、そうでした」
リタは今朝方回ってきた回覧板の内容を思い出す。皆に愛されたシスターベアトルスの死は、この町の人間にはとても悲しい出来事として伝わっていた。彼女の死は町の関心の一切を奪い、今日執り行われている葬儀には多くの人間が訪れていることだろう。
「だから、皆さん悼むように静かなのです。今日ほど皆さんが人の死に想いを寄せている日はないでしょう。この町の空気、この静けさ、ああ、素晴らしいじゃないですか」
「そうですね」
リタはヨシノの語るこの空気感の良さを完璧に理解できてはいない。けれど、彼に向けられる奇異の眼差しが目に見えて減っているという事実のみにおいて、この空気感が素晴らしいものであるということへの同意をするのだった。
そうして歩いていれば、不意にリタのお腹がくぅと可愛らしい鳴き、その空腹感を主張した。その間の抜けた音に彼女の白い頬が紅く染まっていき、恥ずかしそうにうつむき加減になった。
そんなリタの様子を相も変らぬ緩んだ笑みで眺めるヨシノ。
「リタは何が食べたいですか?」
「わ、私は……その……」
ああ、もういっそ消えてしまいたいと思う乙女心がリタの思考をかき乱していた。
「私はまたビーフシチューが食べたいですね。あの赤色がまた食欲をそそるのですよ。ほら、昨日の彼女を思い出すでしょう?」
「え、あ、はい。私もビーフシチューがいいと思います」
「決まりですね。アリサさんにはビーフシチューを頼みましょう。一肌くらいがちょうどよい温かさですかね」
そうして酒場へと辿り着くと、昼にはまだ少し早い時間であることも相まって、珍しく客が一人としていない店内が広がっていた。
「おや、今日は休みでしょうか?」
その閑散とした様子に思わずヨシノが呟くと少し食い気味にカウンターの奥からアリサが出てきて否定する。
「そんなわけないでしょ。店主がここにいるんだから営業中よ」
「ああ、それは失礼しました。確かにお客がいなくとも店主が居れば営業はできるのでした。うちの事務所と同じですね」
「一緒にしないでくれる? あんたの所に客が来ないのは、あんたの気味が悪いからでしょうが」
「ええ、その通りです。私は気味悪く、アリサさんは小気味良い調理技能ですからね」
「褒めてんのよね?」
「そうですよ」
「あんたの言葉は分かりづらいのよ」
「抒情味に溢れていると言っていただきたいですね」
「詩的で素敵です」
「ありがとうございます、リタ」
「あんたらが噛み合ってる理由が私には分からないわ」
ため息を一つ吐きだし、アリサは頬杖を付きながら二人を眺める。
「それで、注文は? 持ち帰り?」
「いえ。今日はこの場で頂こうと思いまして」
「へえ、珍しいわね。引きこもりのあんたが外食なんて」
アリサは目を丸くする。
「ええ。昨晩のビーフシチューはおいしかったのですが、冷めてしまっていたので。今日はリタとおいしくお昼を頂きたいと思ったのです」
「冷めた?」
「ええ。昨日は少し遅くに仕事がありましたから」
「仕事って……ああ、そういうことね」
そう言ってアリサは窓の外に目を向ける。リタが追うように視線を向ければ、外の通りでは花を持った人々がうつむき加減に教会へと歩いていく様が見えた。
「あんた、今日は客がいないの分かってて来たわね」
「ええ。ああ、ですがおいしく頂きたいというのも事実ですよ」
「はいはい、分かったわよ。それで、注文は?」
「ビーフシチューを二つ。私のは人肌ほどの温かさで」
「言い方がキモイわね」
「私も同じでお願いします」
「リタちゃん、人肌って思った以上にぬるいわよ。いいの?」
「一緒が良いんです」
リタがそう強く言うと、アリサは頭を抱えながら頷いた。
「こんな奴のどこがいいんだか」
「何かいいましたか、アリサさん?」
「言ってないから好きな席に座って待ってなさい」
「そうですか。では、行きましょうか、リタ」
「はい」
ヨシノは店の一番奥の席に腰掛けたので、リタは丸テーブルのヨシノの対面に座った。
「昨日は久しぶりの仕事でしたが、今日は暇になりそうですね」
「そうですね」
「一応、探偵業もしているというのに、如何せん私に回ってくる仕事は検死の仕事ばかり」
「嫌なんですか?」
「嫌なものですか。もちろん大歓迎ですよ。死と触れ合うにはこの世界はあまりに平和すぎますからね。こうでもしないと私は満たされませんから」
ヨシノは死に恋情を抱くとは言っても、自ら罪を犯そうとはしない。その辺りが、彼が狂人のままに社会に留めている要因なのだろう。
「ですが、暇なのはよろしくありません。無為に日々を過ごすというのは死んでいることとそう違いはありません。自ら死に向かうなんてのは愚者の行いですからね」
「ですが、昨日のヨシノ様は暇に飽かせてお昼寝をしていたと思うのですが」
「そうでしたっけ?」
「はい」
「そうでしたね。いや、私としたことがあまりにやることがなく、ついに昨日は死んでいたということでしょう。生きている者として恥ずかしいばかりです」
そう言って照れ笑いを浮かべるヨシノ。その珍しい彼の表情にリタは釘付けになっていた。
「ですが、今日の私は違います。まずは部屋の掃除をして、書類の整理をして……」
「どちらも午前中にしておきました」
「おや、仕事が早いですね。流石はリタです」
「えへへ」
「ですが、それでは私のやることがなくなってしまいましたね。どうしましょう」
「あ、ご、ごめんなさい……」
リタが申し訳なさそうな表情をすると、ヨシノは少し意地悪な笑みを浮かべた。
「冗談ですよ、リタ。貴方が頑張ることで困るようなことは全くありません」
「でも、やることを取ってしまいました」
「実はまだ私にはやることが残っているんです。暇だと思っていましたが、実は暇じゃありませんでした。それはそれで困るというものですね」
ヨシノはわざとらしく肩を竦めて見せる。その仕草が可笑しくて、リタは口元に小さく笑みを浮かべた。
「はい、ビーフシチューよ」
「ああ、ありがとうございます。うん、この色。美味しそうですね」
「ありがとうございます」
「今度は冷めないうちに食べなさいよ」
「ええ。分かっています。では、頂きましょう」
「はい」
そうして二人は人肌温度のビーフシチューを食べ始める。ヨシノの満足げな表情とは裏腹に、やっぱり熱々にしておけばよかったかなと少し後悔するリタであった。