はじまりの死闘
その女の子は、普通じゃないと一目でわかった。
やせ細った肢体。生まれてから一度も切ったことがないんじゃないかと疑うほどの長い髪。
顔立ちはまだまだ幼い。正確な歳はわからないが、九歳の俺より年下かもしれない。
着ているものは、白い絹の薄衣が一枚だけ。
貴族のきらびやかな着物とも違う、やわらかな絹の衣が、華奢な体の線を浮き立たせている。
そして何より目につくのが――全身の傷だ。
体のいたるところにある痛々しいミミズ腫れ。
点々とした手のひらサイズの丸いアザ。
さらに肩の切り傷から血が流れており、真っ白な絹が赤い血で染まっている。
「熊でも狼でもない」
父さんが肩の傷を手当しながらつぶやいた。眉間に深いシワが寄っている。
「この傷の付き方は、まさか……」
そう何かを言いかけたところで、女の子がうめき声をあげた。意識が戻ったみたいだ。
「きみは誰? 何があったの?」
「……ぅんん?」
俺が声をかけると、女の子はトロンとした目で見つめ返してきた。吐息混じりのその声はドキッとするほど力が抜けている。
しかしすぐに、女の子の表情は緊張の色に覆われていった。
上体を起こすと、俺たちから距離をとるように後ずさる。
「わ、わたしから離れて。あいつが、来ちゃう」
「あいつって――?」
――目の前の茂みが、揺れた。
俺と父さんはすぐさま女の子を後ろにかばい、警戒態勢をとる。
やがて草をかき分けて現れたのは、一匹の山猿だった。
「って、なんだ猿か……。脅かすなよ……」
俺はホッとした。この山で猿に出会うことは珍しくないからだ。付き合い方を間違えなければ、愉快な隣人だ。
おおかた山に迷い込んだこの女の子が、知らないうちに猿を刺激してしまったのだろう。
しかし、父さんは警戒を解かなかった。たかが山猿一匹が相手とは思えないほど気を張っている。
「どうしたの?」と尋ねようとして――
――次の瞬間、猿の背後で、殺気が膨れた。
「伏せろ!!」
父さんに背中を押され、俺は女の子の上に重なって倒れこんだ。
それとほぼ同時に、生暖かい何かが背中をかすめた。
今の、何だ!?
俺は困惑しながら顔を上げ……ますます困惑することになる。
「触……手……?」
ぬらぬらとした、薄紅色の、吸盤のついた、腕ほどの太さのある、肉の塊。
そんなグロテスクな触手が、猿の背中から、耳から、口から、何本も生えていたのである。
うごめく触手たちは粘液を垂らしながら、目の前の獲物……つまり俺たちにその先端を向けていた。
「うっ……!」
吐き気がこみ上げてくるのを、俺は必死に抑える。
生理的に受けつけがたい生臭さが、触手から漂ってきたのだ。
あれは、ヤバい。
「……触手憑き!!」
父さんが憎々しげに叫ぶ。
その言葉で、俺は思い出した。
かつて九頭龍戦争で暴れまわった、宇宙から来た謎の生物、陸蛸。
陸蛸はすでに滅びたが、それで悪夢が終わったわけではなかった。
陸蛸の死体を食らった野生動物が、肉体と精神を触手に乗っ取られる事件が多発するようになったのだ。
そうやって触手に侵された動物は「触手憑き」と呼ばれた。
九頭龍戦争終結後の数年間は、触手憑きによる被害が後を絶たなかったという。
朝廷幕府の尽力のおかげで、今では触手憑きの数は激減した。実際、俺もこの目で見るのは初めてのことだ。
でも、今大事なのは、そんな昔の話じゃない。
この状況からどうやって生き延びるかだ。
それを理解していながら、頭が回ってくれない。脂汗が吹き出るのを止められない。
残忍性。長いリーチによる攻撃。死角のない防御。
どれを取っても触手憑きは脅威的だと父さんから教わった。
一流の忍が三人がかりでやっと倒せるほどの強さらしいが……。
「ジン、その子を連れて逃げろ」
その父さんの言葉を、俺は、すぐに飲み込めなかった。
父さんを一人で残していく?
女の子の命を預かって逃げる?
そんなこと、俺なんかにできるわけが……ない。
恐怖と不安のせいで身動きできずにいると、今度は有無を言わさぬ口調で怒鳴られた。
「聞こえなかったのか! 今すぐその子を連れて逃げろ!」
「……と、父さんは、どうするんだよ!?」
「こいつをここで殺る。里に侵入れるわけにはいかない」
そう断言した父さんは、懐から、一本のクナイを取り出した。
ただのクナイではない。
柄に聖玉を埋め、刀身に『聖術』の呪句を刻んだ特殊なクナイだ。
猿の眼光が鋭くなった。本能的に、命の危機を察したのかもしれない。
触手すべての殺気が父さんに向けられていく。
まさに一触即発。
もはや迷っている暇などなかった。俺はなけなしの勇気を振り絞り、腹をくくる。
「行け!!」
空気が、弾けた。
俺は女の子の細い手首を掴み、無我夢中で走り出す。
同時に、背後で金属音が響いた。あの柔らかそうな触手から鳴ったとは思えないほど硬質な音が、その得物としての威力を物語っている。
その後も、荒い息遣いや、木の幹が折れる音、何かが這いずり回るような音が聞こえてくる。
父さんと触手憑きの戦いが始まったのだ。
坂を必死に下りながら、俺は女の子に怒鳴るようにたずねる。
「なんでこんな山に一人でいた!」
「わ、わかんない!」
「わからない……ってなんだよ!」
「本当に! 何も覚えてないの。気がついたら山の中で、あいつがわたしを狙ってる理由も、何も……!」
「くそっ!」
わけのわからなさに苛立ちを覚える。しかし、その苛立ちの根源が女の子のせいではないことも自覚していた。
こんな大事なときに逃げることしかできない、自分の不甲斐なさに、腹が立っているんだ。
父さんはもう猿を倒しただろうか。それとも死闘を繰り広げているのか。あるいは――
どうしても嫌な想像をしてしまい、つい後ろを振り返った、一瞬。
その一瞬の油断を、俺は、一生後悔することになる。
不意に、手をつないでいた女の子がバランスを崩し、つられて体を引っ張られた。
とっさに受身を取ろうとするが間に合わない。俺たちは二人して勢いよく転んでしまった。
「つ……!」
俺は痛みに耐えながらなんとか起き上がる。
一方、女の子は右足を抱え、うずくまってしまっている。どうやら木の根で足首を捻ってしまったみたいだ。
俺はほぞを噛む。背後に意識を逸らしていなければ、このくらい転ばずにフォローできたはずなのに。
すぐに女の子を抱え起こそうとして――
――猿を、見つけた。
自分たちのいる場所よりも少し高い坂の上。
それなりに走ってきたはずなのに、いつの間にか距離を詰めていた猿が、俺たちに目を向けていたのだ。
何本かの触手は、途中で切断され、体液を滴らせている。
だが、背中から生えた最も太い触手はまだ健在で、猿本体に至っては無傷に見える。
……父さんの姿は、見えない。
「嘘だろ」
猿が、まるで笑っているみたいに、歯をむき出しにした。
そして触手を俺たちに定めると、凄まじい速さで一直線に伸ばしてきた。
女の子を背中でかばい、目を瞑る。
その直後、グシャ、と肉のつぶれる音が間近で聞こえた。
しかし、俺の身体には何も当たっていない。
何が起きたのかと、おそるおそる目を開ける。
俺たちの眼前で、触手が父さんの胴体を貫いていた。
「え……?」
思考が止まる。
何か温かくて鉄臭い液体が、俺の顔に垂れてきたのを、無意識にぬぐう。
手のひらにべったりと付着した赤黒いそれは、血、血、血…………
「――父さん!!!!!!!!!!」
俺は悲鳴に近い絶叫をあげていた。
男の二の腕ほどの太さのある触手が、父さんの腹から背に貫通している。内臓らしき肉片があたりに飛び散っている。
つまり、どう見ても、致命傷だった。
ところが父さんは、ひどく痛いだろうに、俺たちに優しく微笑みかけた。無事でよかったと言わんばかりに。
そして、正面の猿に向き直った。
「やっと捕まえたぞ。無駄にヌルヌルしやがって」
父さんは、腹に刺さった触手を、両腕でがっちりとつかんでいる。
猿の触手が、怯えたように縮こまった。腹から抜けようとしているようだが、びくともしていない。
聖術の刻まれたクナイが、触手に深々と突き立てられる。柄の聖玉が碧く発光を始める。
それと同調して、父さんの全身も光に包まれていく。
これが聖術――
「雷遁!!」
クナイから稲妻が迸り、触手を伝って猿本体へと到達する。
次の瞬間、本物の雷が落ちたかのような爆音とともに、猿の全身が炭となって粉々に弾け飛んだ。
同時に父さんに刺さっていた触手も、ずるりと地面に落ちた。触手憑きは倒れたのだ。
しかし、俺は喜ぶことなどできなかった。
父さんもまた、栓の抜けた傷口から大量の血を流しながら、その場に力なく崩れ落ちたからだ。
「ま、待ってて! 今、止血を……」
俺は服を裂いた布で傷口を塞ごうとする。だが、父さんは首を横に振った。
「……無駄、だ。もうじき……俺は死ぬ……」
「そんな……」
愕然とするが、しかし、目の前の現実がすべてだった。
父さんが一言発するたびに、血反吐の泡が唇の端でゴポゴポと音を立てる。肌の色がどんどん白くなっていく。
いやだ、いやだ。やめてくれ。
「ごめんなさい……。見ず知らずの、わたしの、せいで」
嗚咽を漏らしながら、女の子が震え声で謝る。
「謝るな……。子供を守るのは……大人の役目だ……」
「でも……」
「……誰かの命を助けたくて、忍をやっていた。悔いは……ない」
父さんはそう言うと、今度は俺の方に首を傾けた……ように見えた。
いつの間にか視界は涙でぐちゃぐちゃになっていて、もう父さんの表情をまともに見ることもできなくなっていた。
父さんは、そんな俺の目元を震える指でぬぐうと、そのまま手のひらを頭に置いた。
「ジン」
「父さん……」
「お前の、なりたい忍に、なれ」
父さんの手のひらから力が抜け、落ちそうになるのを、俺は反射的に両手で受け止める。
その手は冷たく、脈はもう、完全に止まっていた。
「ちくしょう……!」
そうして、父さんは――ウカイ・ゼンは命を落とした。
死体に覆いかぶさって泣くことしかできない俺の背中を、女の子がとなりで暗くなるまで撫でつづけてくれた。
決して忘れることのない、紅葉の赤が残酷なくらいに綺麗な日のできごとだった。




