触手無双
兄様が殺されちゃう。あんなに強くて頼りになる兄様が、今は血を流してムナガラの前に膝をついている。女の子の触手憑きが凶器の切っ先を兄様に向けている。
助けなきゃ。わたしが兄様を助けなきゃいけないのに!
「放して……このっ!」
身動きが取れない。六体ものヒトの触手憑きたちに取り囲まれて、触手全部をがんじがらめにされてしまっている。
おまけに手足まで縛られてしまっているから、触手を引っ込めて逃げ出すこともできない。
……このままじゃ兄様が死ぬ。いやだ。そんなのは絶対にいやだ。
「――兄様」
あの日、兄様のお父様は記憶喪失のわたしを助けたせいで命を落とした。
兄様だって悲しかったはずなのに、姉様に責められていたわたしのことを庇ってくれた。守り通すと言ってくれた。素敵な名前だって付けてくれた。大きくなるまで育ててくれた。
「――兄様に」
ムナガラに攫われたわたしを助けてくれたのも兄様だ。
触手憑きになったわたしを信じてくれて、謀反の罪を背負ってまで朝廷に背いた。
どうしてそんなに……って尋ねてしまいたくなるくらいに、兄様はいつだってわたしのことを守ってくれた。だからこそ
「――兄様の命は」
わたしが守らなきゃいけない。そのための力が必要だ。
触手なら持っている。だけど足りない。たった二十四本だけじゃこいつらに勝てない。
どうすれば満足な力が手に入るのか……その方法を、わたしは知っている。
目を閉じて、自分の内側に意識を向ける。
ずっと感じていた。触手を操れるようになって以来、腹の奥底で疼いている欲望を。
食欲のようであり、性欲のようでもあり、だけどそのどちらとも違う本能的欲求が、満たされるのをじぐじぐと待ち望んでいる。
旅の途中、一度だけ兄様に尋ねたことがある。
『わたしの触手って、殺されなきゃいけないくらい危ないものなのかな』
『殺されなきゃいけないなんてことは絶対にない。でも、その触手は良くない力だって、本当は俺も思ってる。そこを誤魔化すのはやっぱりダメなんじゃないか』
兄様は触手を憎んでいる。当たり前だよね、大好きなお父さんを殺した触手なんだから。
だけどその答えを聞いたとき、わたしはちょっとだけ残念だった。
この触手の――ううん、私自身の欲求を兄様の前で晒してはいけないと思ってしまったから。
解放する方法はわかっている。そうすれば今よりもっと強くなれるってことも薄々感じている。
だけどその結果、自分がどうなってしまうのかはわからない。他の触手憑きみたいに理性を失うことになるのかもしれない。
そして何より、兄様を悲しませることになってしまう未来を考えると不安でしかたない。
だとしても。兄様が殺されるのを見ているだけなんて。
今は、今だけは、兄様を助ける力が欲しい。
たとえ、何に代えたとしても――!!
「(出してあげる。だから、応えて)」
ほうっと息を吐き出す。そして何もない宙に身を投げ出す感覚をイメージする。
つまり一切の緊張を解いて、身体が一番楽になるように、あるがままの状態に身をまかせる。この欲求を解き放つためには、きっとそうするだけでいい。
そうしたらほら――もうお腹の下がポカポカしてきた。
「(ああ、くる、くる、くる……!)」
抑えつけられていた欲求が、触手みたいにうねる力になってわたしの中で暴れだす。
異物に身体中を内側からボコボコに殴られて、息が苦しくなって、骨の形が変わってしまうくらいに圧迫されるけど、不思議と痛みは感じない。むしろすっごく気持ちがいい。
そういえば、触手を飲まされた直後もこんな感じだったっけ。だけどあの時よりもずっと強烈な多幸感が絶えることなく押し寄せてくる。全身が悦びの悲鳴を上げている。
そうしていると、やがて力の異物感もなくなってきた。力と身体が一つに溶け合い、まるで全身が触手になったみたいな錯覚に陥る。
……違う。これは錯覚じゃない。
本当に、わたしの身体の形が変わっているんだ。
目を開けると、目線がさっきよりも高くなっていた。地面が少し遠くなって、わたしを縛る触手憑きたちを見下ろしている。
自分の身体を見てみると、手も足もなくなっていた。見えないだけじゃない。四肢という感覚そのものが消えている。
その代わり、二十四本どころではない無数の触手が今のわたしの身体の全部だ。普通なら驚くところだろうけれど、これが自然な状態なんだと直感で理解できた。
そして思う……こいつらの触手の力はなんて弱いんだろう、と。
さっきまでのわたしは、こんなのさえ振り解けなかったのか、と。
軽く自分の触手をひねると、絡まっていた相手の触手まで簡単に千切れた。
それならと思い、腕を伸ばす感覚で触手を広げ、その場でくるっと回ってみると、柔らかい肉袋たちに触手が次々と食い込んで、みんな大量の血を撒き散らしながらバラバラになった。
――なんてすごい! まだまだ本気は出していない。暴れ足りないとカラダが疼いてしょうがない。これがわたしの本来の力……!!
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッッッッッ!!!!!!!!」
気分が高揚して、つい、はしたない声を出しちゃった。
その声に驚いた様子の兄様がこっちを振り向いて、途端に顔を強張らせる。
心配させちゃってごめんね。不安だよね。実際、姿形まで変わっちゃってるし……。
だけど大丈夫。頭は冴えてる。暴走なんてしていない。わたしはぜんぜん普通だよ。
「キシシシ! ようやく覚醒したか、クズルヒ……ッ!」
ムナガラが笑う。……ああ、その口ぶりからして、わたしがこうなるのもあいつの思惑通りなのかなあ。だったら癪だなあ。
でもとりあえず、兄様にとどめを刺すのを一旦止めてわたしに目を向けてくれているからいいんだけど。
歓喜の表情のムナガラは、懐から何か小さなものを取り出した。
玉虫色に妖しく光る球体――聖玉だ。朝廷が管理しているはずなのに、どうして九頭龍教団が持っているんだろう?
「ふんぐるい むぐるうなふ くづるひ おんぐ うがあん むながら にぐらるむ くづるう ゆふ ふんぐるい むぐるうなふ くづるひ おんぐ うがあん むながら にぐらるむ くづるう ゆふ……」
ムナガラは手のひらに聖玉を乗せ、瞳孔の開いた目でわたしを凝視しながら、日本語かどうかも疑わしい呪文を唱え始める。
初耳でちんぷんかんぷんな呪文。そのはずなのに、わたしの脳みそは言葉の意味をなぜか正確に理解できていた。
「クズルヒよ、九頭龍の名の下に我に従え」
そんな呼びかけが繰り返し頭の中に直接響いてくる。
同時に聖玉がますます強く光を放つ。その光を見つめていると、だんだんと意識がぼんやりしてきた。そこに眠りに包まれるような心地良さはなく、倦怠に沈むような不快感ばかりが襲ってくる。
「クズルヒよ、九頭龍の名の下に我に従え。クズルヒよ、九頭龍の名の下に我に従え……」
ああ、うるさい、鬱陶しい、煩わしい――!
この程度の呪文でわたしを従属させようなどと自惚れるな!! この下等生物が!!
「ズアァッッ!!」
怒り任せに、触手をムナガラに向けて放つ。しかしその一撃は間に割り込んできた青年の触手憑きを貫いたことで勢いを削がれ、ムナガラには届かなかった。
とはいえこれで触手憑きをまた一体減らせた。残った敵はムナガラ本人と、兄様を傷つけた少女の触手憑きだけ。
「馬鹿な。効いていない、だと……!?」
呪文が途切れたおかげなのか、頭の声は聞こえなくなり、意識もはっきりした。ムナガラの表情から歓喜は消え、代わりに焦りの色が浮かんでいる。
不利を悟ったのだろう。ムナガラは指笛を吹き、森の中から鷲の触手憑きを呼び出した。いつでも逃げられるように待機させていたのか。また、触手で上空に引っ張り上げ始める。
撤退の判断が早いのはムナガラの厄介なところだと兄様も言っていた。今度こそ逃がすものか。
そう思って触手を伸ばそうとしたわたしの前に、おかっぱの少女の触手憑きが立ちはだかった。
「タスケ…テ……ダレ…カ……」
女の子は触手を構えながらも、涙を流して助けを請うてくる。
ムナガラに一度操られそうになったから理解できる。彼女もまた、ムナガラに呪文で服従させられているのだと。
普通の触手憑きは操られていなくても人を襲うけれど、ムナガラは彼女について「魂を一時的に引き戻した」と言っていた。ということは、今も理性と触手の狭間で苦しんでいるに違いない。
兄様はそんな苦しんでいる女の子を傷つけることができなかったんだね。
兄様はいつだって優しい。だからわたしも大好きだよ。
……でも大丈夫。兄様にできないことは、わたしがやってあげるから。
触手を一振り。それで女の子の触手憑きは胴体からモツを散らして真っ二つ。はい、おしまい。これで触手憑きは全滅だね。
「イ……イタイ、イタイッ……ぶっ」
上半身だけになった触手憑きの断末魔がうるさかったから顔ごと潰しておいた。
そんなことより早くムナガラを止めないと、また逃げられちゃう。あいつはもう鷹の触手憑きに連れられて、二十間(約30メートル)以上離れてしまっている。これじゃわたしの触手の射程外だ。
あー、でも、触手を二十四本以上出せるようになったんだから、ひょっとして射程も伸びているかも。
試してみよう。あ、できそう。
「ここまで来れば追っては……ひいっ!!」
遠くからムナガラの情けない声が聞こえた。まあ、ぶら下がっていた鷹の触手憑きがいきなり串刺しにされたらそんな反応にもなるか。
落下しかけていたムナガラの胴体に触手を巻きつけ、グイッとこちらに引き寄せ、無造作に目の前に降ろす。
ムナガラの表情にはもはや焦りさえ残っていない。ただただ恐怖に染まっている。
「く、クズルヒ、やめてくれ……! 俺だ、俺だよ、ムナガラだ、わかるだろ……? お前が俺を殺そうとするなんて……キシ、キシシシ……」
ムナガラはすっかり怯えてしまっている。でも大丈夫、殺しはしないよ。
……兄さまを傷つけておいて、殺されるだけで済むと思うな。
「があああっ!!」
ムナガラが痛みに吠える。わたしの触手が、脇腹の肉を抉りとったからだ。そこはお前が兄様につけた傷と同じ場所。同じ痛みを思い知ればいいんだ。
それから、わたしをこんな身体に変えた恨みだって忘れていないんだからね。
わたしは痛がっているムナガラの顔を押さえつけると、口に触手を強引にぶち込んだ。そして、そのまま乱暴に前後させる。名状しがたい征服感で満たされる。
「んぐうっ……ぶうっ!」
どう? わたしがどんなに怖い思いをしたか理解できる? いっそこのままわたしの”これ”を食べさせたら、あなたも触手憑きになるのかな?
はは、あはは……!
「か、カエデ……」
そのとき、一本の触手を横から誰かに掴まれた。
見下ろすと、うつ伏せで息も絶え絶えな兄様が、必死の形相でわたしを見上げていた。
兄様……どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの? わたしはただ、兄様の仕返しをしているだけなのに。
「やめ、ろ……カエデ、お前はそんなんじゃ……」
ああ、もう、邪魔だなあ。ちょっと向こうで見てていいよ。
兄様の手を振り払って、触手で兄様を巻き上げる。そのまま遠くに放り投げようとして――
「あぐっ……!」
――その苦しそうな呻き声で、気がついた。
兄様のお腹の傷からは血が流れ続けていて、肌もどんどん白くなっていっている。そしてその姿が、不意に、かつて兄様のお父様が命を落としたときの光景と重なった。
このまま放っておいたら、兄様が死んじゃう。
「元に……戻ってくれ、カエデ……」
「……!!」
そこで初めて、わたしは違和感を覚えた。
それは自分自身という存在に対する違和感。
わたしは兄様を助けたくて力を求めたのに、どうして瀕死の兄様を捨て置いてまで、ムナガラに仕返しをしたいって思ってしまったんだろう。
周囲を見回す。さっきまでヒトの触手憑きだった肉片があたり一面に転がっている。それは冷静になって見てみれば、人間の死体と相違ない。あの苦しんでいた女の子まで……。
わたしは――兄様の幼馴染のカエデは、こんな残酷なことができる性格じゃなかったはず。
そして何より恐ろしいのは、今もなお、ヒトの触手憑きたちを殺めた事実に何の感慨も湧いてこないこと。客観視して初めて気づいただけで、わたしの心が元に戻ったわけじゃない。
ああ。確かにわたしは何に代えても力が欲しいと願った。だとしたら、一体何を対価に失ってしまったんだろう――?
ひどい吐き気が込み上げてきた。
いやだ、兄様、やめて、その怯えた顔をやめて! わたしを嫌いにならないで――!!
「〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
触手を食いしばって、パニックになりそうな脳内を、どうにか冷静に保とうとする。
そうだ、今は何よりも、兄様の傷の手当をしなきゃいけない。止血して、早くここから逃げて、人目のつかないところを探すことが先決だ。
一本の触手の太さを調節して、ちょうど兄様の傷口をぴったり塞ぐようにあてがうと、出血が多少マシになった。
それから何本かの触手で兄様を優しく包み、別の触手で救急道具の入った荷物も持つ。
「く、クズルヒ……」
呻くムナガラを無視して、わたしは急いで立ち去った。
……人間の歩き方とは似ても似つかない、触手で木々の枝を伝う方法で移動しながら。
***
「これは……!!」
惨劇の現場に遅れてやってきたスイレンは、あまりの異臭に思わず口を覆った。
幕府の侍が一人と、大量のヒトの触手憑きたちが、見るも無残な死体になって転がっている。乱雑に切り刻まれ、潰され、あたりは血の海と化している。生存者は一人も見当たらない。
刀や聖術でこんな死に方はしない。考えられる凶器は触手しかない。しかし、触手憑き同士で戦うことなど……
「まさか」
その可能性を支持するかのように、地面に落ちていたあるものがスイレンの目に留まった。おそるおそる拾い上げ、息を呑む。
「カエデちゃんの……髪飾り」
楓の葉をかたどった木彫りの髪飾りは、ひび割れ、血と泥にまみれていた。
第二章『逃げる者 追う者』が終わりました。ここがちょうど物語の折り返し地点となります。
後半の展開はノンストップで駆け抜ける予定です。どうぞ今後ともお付き合いください。