ジン
【とある山奥】【ウカイ・ジン】【齢九歳】
木の枝の上に両足で着地する。
そのまま勢いを殺さずに、次に飛び移る枝を見定めてから跳躍する。
俺は冷や汗をかきながら、木から木へと、山を全速力で駆けていた。
だって全力で走らなければ、あの人からは――父さんからは逃げ切れない。
昼の修行をサボって、栗の甘露煮を盗むために台所へ忍び込んでいたところを、姉さんに見つかったのが数十分前。
「父さんには黙ってて!」と頼みこんだものの、厳しい姉さんに聞き入れられるはずもなくチクられてしまった。
その後、父さんから言い渡された罰は、裏山全体を使った鬼ごっこ。
日が落ちるまで逃げ切ることができれば俺の勝ち。捕まってしまえば夕飯抜き。
始まってしばらくは木陰に身を潜めていたのだが、あっけなく見つかり……今に至る。
後ろに流れていく景色の中、視界の隅で光るものが見えた。
俺はとっさに木から地面に飛び降り、飛んできたクナイを避ける。
……って、クナイって! 息子相手に容赦なさすぎるだろう!
「怪我したらどうすんだよ!」
俺は抗議の声をあげながら、次の一手を考える。
ひとまず初撃は躱したが、これほど近づかれてしまった以上、逃げ続けることはもう不可能だ。
だったら、俺の方から反撃するしかない。父さんに一泡吹かせてやる。
手元にある忍具は鉤縄、煙玉、クナイ。こいつらを使って……反撃……を……
……あ、あれ?
なんか……頭が……ぼんやり……
指も……動かな……
「俺を出し抜こうなんざ百年早いぞ、ジン」
地べたにへたりこんでいると、聞き慣れた低い声が背後から響いてきた。
首をひねって見上げる。ねじれた視界の中、髭面の父さんが半笑いで俺を見下ろしていた。
「これ……金縛り……? 『聖術』を……使うのは……ズルだろ……」
「聖術じゃない。ただの薄めた麻痺毒だ」
「こいつを飲め」と父さんが竹筒を口につけてくる。
薬草の匂いがきつい水だ。されるがままに喉を潤すと、だんだん意識がはっきりしてきた。
「毒針がお前の首に刺さっていたのに気付かなかったか?」
「は? そんなのいつ……」
「クナイを投げるより前の話だ」
首筋に手を置く。確かに、父さんの言う通り、細い針が指に当たった。
まったく痛みを感じなかった。それほど狙いが正確だったということだ。
「もう勝負がついてたんなら、なんでクナイを投げたんだよ」
「毒が回る前に地面に降ろさないと、落ちて大怪我だろうが。お前が自力で気付くのを待ってたんだがな。修行が足りん」
俺はむくれながら立ち上がる。口に残った苦い水を吐き出す。
結局全部父さんの手のひらの上だったというわけだ。つまらない。
父さんはすごい忍者だ。
裏稼業の人間で「風切りのゼン」を知らない者はいない。
かの朝廷から任務をたびたび依頼され、そのすべてを成功させてきた。噂では山賊の根城をたった一人で陥落させたこともあるらしい。
だけど、俺にとってはただの気に食わない親父だ。
父さんの教育は厳しい。朝四時に起床したらまず山を走り込み、次に読み書きの練習、毒の調合、戦の稽古、日が落ちた後にも隠密の訓練をさせられる。食事は固い雑穀米を一日五合がノルマ。人のいない山奥で、そんな生活を物心ついたときから強いられてきた。
里のみんなも、「あの」ゼンさんの息子だからといって無茶な期待ばかりかけてくる。
そして俺はそんな環境が耐えられなかった。
だからいつしか修行をサボるようになった。忍者になる意欲をなくしてしまったのも、しょうがないことなのだ。
「ジンにはこの上ない才能があるんだがなあ」
「なんだよ、それ。初耳だぞ」
「顔が地味。たとえエドの街中で脱糞しても、数分後には皆が顔を思い出せなくなるくらいには平凡だ。諜報が生業の忍にとっては代えがたい財産だろ」
「……嬉しくねえ」
自分の頬をペチペチと触ってみる。
確かにちょっと顔が薄い自覚はある。しかし言うほどだろうか?
「とにかく、俺は苦しい思いをしてまで忍になりたいわけじゃないんだ。ほっといてくれ」
「なりたくないのか」
「なる理由がない」
そう、忍者になる理由がない。
あれをしろ、これをしろと押し付けられても、結局、何のためにそうしなければいけないのか、俺は見つけられていないのだ。立派な父さんと違って……。
「いいかジン。誰かの命を救える人になりたい。父さんはそう願って、忍になったんだ。あれは九頭龍戦争の最中に……」
「その話は聞き飽きたよ。イイ話はうんざりだ」
父さんは渋い顔を作った。
間を置いた後、諭すような口調でゆっくりと言葉を紡ぐ。
「いずれジンにもわかるときが来る」
大きな手を俺の頭にそっと置く。
「そろそろ里に帰るぞ」
「……ん」
まるで聞き分けのない子供扱いされたみたいで、悔しかった。
だけどその手はいつになく優しくて、俺は乱暴に振り払うこともできなかった。
***
斜陽に照らされた山を二人で下る。木々はすっかり茜色に染まり、日も短くなってきた。
俺はくしゃみが出そうになるのを我慢する。ボロな麻衣一枚ではそろそろ肌寒い。
父さんに衣替えを提案しようと思い立ち、口を開いた、そのとき。急に父さんが唇に人差し指を当てた。
「どうしたの?」
父さんの表情がこわばっている。
「山が静かだと思わないか」
そう言われて、気がついた。鳥のさえずりも、小動物が葉を揺らす音も、まったく聞こえない。自分たち以外の生き物が山からいなくなってしまったみたいに。
父さんは数秒間だけ目を閉じていたが、すぐ何かを聞き取ったようで、無言のまま西の方へ走りはじめた。俺はあわててその後ろについていく。
しばらく山の中腹を走った後、父さんが足を止めた。
草むらにしゃがみこんで何かに手を当てている。
俺は追いつくと、そこに倒れているものを見て――息を呑んだ。
女の子だ。
俺よりも幼い女の子が、全身傷だらけで横たわっていたのである。




