8 出刃包丁の指紋
僕は不安に取り憑かれて、目が眩んだようになって、何もかも分からなくなった。ふらつく足で自室に戻ると、グラスに注がれたままの赤ワインを無理に飲み干した。酒に酔えば自然と心が落ち着くものだ。それから、ソファーに座って海を眺めていたが、かえって心が苦しくなるばかりで、いたたまれなかった。僕はベッドに飛び込んで、枕で目をふさいだ。もう何もかもが嫌だった。
しばらくすると、酔いがまわってきて、僕はベッドから起き上がった。そして、アタッシュケースから出刃包丁を取り出した。黒い塗装が施されて、ひんやりと冷えた柄である。目を瞑って柄を触る。包丁の柄という感じはしない。僕はその出刃包丁の柄を布で綺麗に拭き取った。そして、そいつを紙袋の中に入れた。前もって預けておいた鞄を開くと、そこにはいくつもの酒が用意されていた。こいつは魚を釣る餌だ。それらを鞄に放り込むと、手に提げて、またふらふらと303号室の方へと歩いて行ったのだった。
見れば、上手い具合に、あの二人の男が出てきたところだった。
「お大事に……」
「お身体を大切に……」
しかし、なぜ、あの二人は清蔵が転倒したのをいち早く発見したのだろう。まるで彼をはじめから見張っていたかのように……。
二人の男は、僕に気付かずに自室の方へと歩いていった。僕は二人が見えなくなったのを確認してから、303号室の扉へと向かった。
僕は、303号室の呼び鈴を鳴らした。ドアを開いた長倉理彩は驚いた顔で僕を見つめた。
「どうしたの? さっきは、あんなに抵抗していたのに」
「違うんだ。さっきは少し感傷的になっていたのさ。なあ、父さんに会わせてくれよ」
「酔っているのね……」
「酔わなきゃやってられないよ」
これは僕の本音だった。しかし、彼女はこの言葉の本当の意味を知らないのだ。僕は、紙袋の中の出刃包丁でしでかそうとしていることを言っているのだ。
長倉理彩は少し困惑しながらも、僕を室内に案内してくれた。見れば、清蔵は濡れたタオルを頭に乗せて、純白のベッドの上に横たわっていた。
「お前か。なんだって、俺に会いに来たんだ」
「転んだそうじゃないか」
「そうだ。だが、お前の世話になるつもりはない。話すこともない。さあ、帰るんだな」
「そんなことを言わないで、僕の話を聞いてくれ。父さんは愚か者だ。だが、僕も愚か者だ。お互いに愚か者だろ。お互いを責める立場にないんだ。分かるかい?」
これは口先だけの言葉だった。本当は、今さら清蔵と話し合いをする気持ちなんてさらさらなかった。酒に酔った僕の内心には、燃え滾る殺意とそれを実行しようとする冷静な理性が潜んでいるばかりだった。
「お前の説教を聞くつもりはないな。どうして、そんなことを話す気になったんだ。ちょっと頭を冷やせ。このタオルを貸そうか」
「寝言は好きなだけ言えよ。だが、戦争には大義がなきゃ意味がない。父さんと僕の対立にどんな大義があるんだ。大義のないものは休戦協定を結ばなきゃならん。こいつを飲んでじっくりと話し合おう」
僕は、心にもない甘い言葉を彼にかけながら、鞄の中から紙袋を取り出した。それをめくって赤ワインを見せた。
「酒か」
清蔵はまんざらでもない表情だった。僕は、そいつを紙袋に戻して、鞄の中にしまった。その調子で、いくつか酒を出しては見せびらかした。酒は全て紙袋に包まれていた。僕は最後に、出刃包丁が入った紙袋を取り出すと、長倉理彩の方を向いて、
「こいつを冷やしといてくれ」
と言った。
長倉理彩は、何かおぞましいものでも見るかのように僕を見つめていた。応じないかと思った。しかし、彼女は無言で歩み寄ってきて、紙袋の中に手を突っ込んでワインを取ろうとした。ところが、そこにはワインはなかった。そこにあったのは出刃包丁の柄だ。彼女がそれを握って取ろうとした瞬間、僕はぐいと紙袋を自分に引き寄せた。
「何よ……」
「気が変わったんだ。こんな白ワインはつまらない」
「あなたが渡そうとしたんじゃない」
「もう一度言うが、気が変わったんだ。こっちの赤ワインを開けてくれ」
長倉理彩には、僕がよほどおかしい人間に見えたのだろう。なんだか、恐怖と軽蔑の入り混じったような、冷ややかなまなざしで僕を見つめていた。
僕は、紙袋の中に、長倉理彩の指紋のついた出刃包丁が入っていることが嬉しかった……。