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グレゴール・キング殺人事件  作者: ナツ & Kan
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エピローグ

 そもそもの始まりが黒田 清蔵の事件だとすると、次に起きたのは長倉 理沙の変死だった。根来はその情報を電話で聞いたとき、彼女に対する思い出より先に、あまりの悲惨さから顔をしかめずにはいられなかった。人が死んだ時の喪失感がまるでなく、胸の内には怒りと恐怖で満たされていた。それは彼のような短絡的ではあるものの、感受性の強い男には珍しいことだった。彼はこのことを黒田 倫助に話すことは絶対になかった。


 長倉 理沙の遺体は、残酷にも、全身の皮膚を引き剥がされた状態で、部位ごとに切断され、部屋の一つ一つにその肉片が転がされていたのである。関係者が踏み込んだところ、玄関には指が欠けた右手があり、トイレには内臓の漏れだした腹部があった。洗面台に切り裂かれた胸部と左足があり、シャワールームからは右足と指の欠けた左手が発見された。居間には眼球を失った頭部もあった。そして、廊下には彼女の皮膚が絨毯のように敷かれていた。あまりにも無残な有り様に、誰もが口をつぐんだままだった。どの部位も腐敗が進んでいて、数匹の蝿が集っていた。

 

 調査をする過程で、鑑識から自殺ではないと判断されたが、どこにも指紋は見つけられずにいた。鑑識の一人は、部屋に誰の指紋さえないなんてありえないと、根来に困惑したように話した。少なくとも、長倉 理沙の指紋はあるはずなのに。全くないなんてあるはずがない。

 

 根来はその後も捜査を進めたが、一向に犯人が見つかるような気配はなかった。彼の部下の粉河刑事も協力していたが、半ば嫌気がしていた。それは彼には珍しく、自分でもそんな感情を抱いていることに驚いていた。彼は元々事件に対して真摯に、ある意味では抜け目なく対応する刑事だったのだ。

 

 この異様な猟奇殺人に何の手掛かりも無いなんてあり得るのだろうか、と粉河刑事は常にどこかで疑問を抱いていた。これはひょっとすると、犯人は人間じゃないかもしれないな。

 

 一ヶ月が過ぎて、とうとう捜査も打ち切りになるのではないか、という噂で他の課ではにぎわった。その間、証拠どころか、手掛かりさえ見つけることはできなかったのだ。この猟奇事件のニュースも、世間の話題を沸騰させたが、今や落ち着きつつあった。根来は焦っていた。このまま、本当に犯人が見つからないのだろうか、という思いが彼の確固たる意思を徐々に揺れ動かしていた。この場合、粉河刑事が根来を冷静に宥める役目を担うことが常であったが、彼もまた同じ考えだった。

 

 やがて、いよいよ根来も疲弊しきった頃、上司から命令されて一週間ぶりに家に帰ることになった。彼としては、あまりにも不本意だったが、明日から急いで仕事に取りかかろうと決意を固め、冷蔵庫から缶ビールを取り出してぐっと飲んだ。俺だって、と彼は思った。やっぱり食ったり飲んだりしなきゃならねえんだよな。

 

 そのとき、ある一本の電話が掛かった。着信音が鳴り、彼は微睡みにあった意識をさっと戻した。今まで職場で一日三時間の睡眠しか取っておらず、身体を横にすることもできなかったせいだろう。彼はいつの間にか眠っていたのだ。今や目元は黒くなり、肌は青白く、髪は濡れたカラスのようにべったりと汚れていた。彼は床に落ちている空の缶ビールを拾い、窓から見える夕暮れを確認して、受話器を手に取った。

 

 羽黒からだった。彼も長倉 理沙の事件を知ってから独自に調査をしていたのだ。しかし彼としても、この事件の真相はまだ解決するに至っていなかった。(これは彼が他の仕事が平行しており、今一つ本腰を入れられなかったということもある)

 

 数分間、根来はこの猟奇事件について、羽黒の推理の具合を聞いていた。彼が未だにマスコミにも極秘にしている推理の内容まで打ち明けたところで、やはりこいつは天才に違いないと根来は改めて納得した。しかしその推理が鋭利なほど、容疑者は曖昧な存在となった。羽黒もこれまでにない歪な事態に不可解さを示していたため、「どうせすぐに捕まります」と持ち前の柔らかい声で言って、精神的にも疲れている根来のためにも他の話に変えた。いつもの彼ならそれで上手くいったのだろうが、彼もまた何かに盲目的になっていたのだ。それは彼によくあることで、一旦考え出すと、その解に納得するまで頭から離れないせいだった。

 

 最近、胡麻博士のところに通っているんです、と羽黒は言った。ちょっと思うところがありましてね。

 

 何を悩んでるんだよ、と根来は苦笑した。

 

 たしか、胡麻博士と言えば、民俗学の少々スピリチュアルな教授だったかな、とふと彼は思い出した。まさか変な宗教に入信したとか? いや、まさか、羽黒に限ってそれは有り得ない。

 

 ……黒田 清蔵さんの頬の傷は覚えてますか? と羽黒は重々しく言った。あれについてです。

 

 もしかして、お前はまだ他殺を考えているのか? しかしよ、あれはお前が推理をして、証拠もあがってんじゃねえか。そりゃ、変な話だぜ。

 

 そう、しかしあの傷は誰が負わせたのでしょうか?

 

 馬鹿言え、そんなの今さら知ったところでどうだってんだ。黒田 倫助が犯人だったことは間違いないんだ。

 

 わかってますよ、根来さん。僕にもそれはわかってます。しかし、僕は時々考えるのです。もしやすると、彼が殺す前に黒田 清蔵さんは死んでいたのではないのか、とね。だって、首にナイフを浅く刺してから、その後深く刺し殺したのであれば、その間で清蔵さんは起き上がって抵抗するぐらいはできたでしょうし、少なくとも肘掛けに手を置いて、さらに椅子に座ったままの体制でいられるとは思えません。驚いて指が痙攣ぐらいするでしょうし。

 

 じゃあ、誰が殺したんだよ?

 

 僕が考えるところ、やはり倫助さんです。でも感覚では他殺ではないかと、悩んでいます。その線で考えてみると、清蔵さんの頬の傷が手懸かりになると思っています。清蔵さんもまた、倫助さんと同じように幻覚症状に悩まされていましたので、自我が喪失している状態で頬を引っ掻いたのではないかと思うのです。

 

 つまり、お前はこう言いたいわけだ。黒田 清蔵が自殺をして、その後に倫助が黒田 清蔵の首を刺したと?

 

 ……ええ、そうです。ナンセンスですよね、自分でもわかっているんです。しかしもっと言わせてもらえるのならば、僕は根来さんが考えているよりもっとナンセンスだってことです。

 

 どういうことだ?

 

 それはですね、僕はまたこうも考えているのです。何か別の第三者が清蔵さんを殺したのではないかとね。もちろん、僕の理性はこれを否定していますが。

 

 第三者って、誰だよ、と根来はそう恐る恐る言ったが、自分でもどこかで羽黒が言おうとしていることがわかっている気がしていた。

 

 つまりですね、それは人間ではない、と羽黒は押し殺した声で言った。清蔵さんの幻覚は、黒田 倫助の蝿の幻覚と同じだったのではないかということです。たしか、黒田 倫助は幻覚をこう名付けていましたっけ。グレゴール・キン――

 

 やめろ、と根来は遮って言った。馬鹿だな、お前も。

 

 ……ええ、面白かったですか、と羽黒は戸惑いを含んだ笑い声で答えた。

 

 ……ああ、だけど胡麻博士のところには本当に行ったのか?

 

 冗談ですよ、さっきのは聞かなかったことにしてください。ちょっと熱が出てるみたいなんです。最近、どうにも身体がぎこちなくて。

 

 大丈夫か?

 

 ええ、すぐに復活します。きっとその頃には戯言も言わなくなってるでしょうし。だから、その――

 

 ああ、言わない、約束するよ、またな、と根来は言って、受話器をそっと戻した。

 

 それから根来は瞼を瞑ったまま天井に視線を移し、ゆっくりとため息をついた。目を開くと、既に夜になっていたことに気づいた。どうやらまた眠っていたようだ。テーブルの上に自分の頬が張り付いていた。彼は重そうに頭を上げると、壁の時計を見た。それは深夜2時を教えてくれた。部屋はしんと静まり返っている。外から車のエンジン音も聞こえない。彼は椅子からゆっくりと立ち上がり、2本目の缶ビールを飲もうとして、やめた。

 

 ぎいぎい。

 

 どこからか金属が擦れる音がしたのだ。根来は耳に集中させ、それが外に続くドアノブの音だろうと推測した。彼は居間の扉を開けると、玄関のドアノブが上下に揺れていた。

 

 ぎいぎい。

 

 「だれだ! 」と根来は怒鳴った。「ふざけた真似はよせ! 」

 

 ぎいぎい、ぎいぎい、ぎいぎい。

 

 彼は背筋がひやりとした。彼の側を蝿が飛んでいたのだ。彼は直ぐ様追い払うと、棚にある新聞紙を取って、ぎゅっと棒状に丸め、そいつを廊下で叩き潰した。

 

 「……ふざけやがって、こんなときに」と彼は息を荒くして言った。

 

 ぎいぎい、ぎいぎい、ぎいぎい、ぎいぎい。

 

 彼の額から汗が滲んで、頬に伝い、顎の先に溜まった。まさか、と彼は思った。いや、そんなまさか。しかし、もしかしたら……あれがそうだとしたら。いや、あり得るはずない! 羽黒だって違うと言っていたじゃないか。そう、そんな怪奇じみたことが起こるわけがない。

 

 ……それならば、なぜ俺はドアを開けにいこうとしないのだろうか?

 

 ぎいぎい、ぎいぎい。

 

 ドアノブの音がだんだんと大きくなり、激しく上下に揺れる。そして引っ張るように、ガチャガチャという音も鳴り始めていた。

 

 ぎい、ガチャガチャ、ぎいぎい、ガチャ。

 

 根来は力強く拳を握ると、その場ですとんと座った。そして彼は暗闇の中でじっと揺れるドアノブを睨んでいた。夜行性の動物のように、目付きは怪しく鋭くなった。瞳が乾燥しそうになっても、瞼を瞑ろうとはしなかった。これからどんなことが起ころうと、彼は絶対に一睡もする気はなかった。

 

 やがて夜はさらに黒くなった。

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