63 一冊のノート
ナイフを床に捨てると、僕はベッドに腰を下ろした。メイの苦しげな吐息を聞きながら、なにも考えることはできなかった。シーツに血があろうが、顎が痛かろうが、脳みそはちっとも役に立たなかった。
「開けるんだ! 」と根来の怒声がドアから聞こえた。
メイは肩をすくめ、ため息をついた。
「……どうするんだ? 」
「わからない。僕は開けるべきだろうか? 」
「どちらにせよ、結果は変わらない。こっちから開けてやるか、あっちが無理矢理開けるかだ。それとも、まだ私を道連れにしたいか? 」
「いや」と僕は言って、立ち上がった。「そいつは、もう飽きたよ」
そしてドアに向かって歩き、解錠してやった。根来は予想外だったのだろうか、ドアを開くのも僕の方が早かった。彼は目尻を吊り上げながら見下ろし、口許をへの字にしていた。固そうな拳をさらに握りながら、ゆっくりと肩まで上げた。僕は思わず目を瞑った。
「……僕がやりました。もう全てを打ち明けます」
ぽんと肩に温かくて、包み込む感触があった。痛みが訪れることはなかった。僕は瞼を開くと、根来は少しだけ表情を和らげた。
「よく決断してくれた」と彼は言った。「難しかっただろう? 」
僕は頷いた。本当は言葉にしようとしたが、喉が苦しくなってできなかった。涙が出そうだったが、それは出さないでおいた。
「奥でメイさんがいます」と僕は言った。「彼女の太股を少しだけ刺してしまいました。血が出ているので、手当てをしてやってください」
「わかりました」
根来の背後にすっぽりと隠れた羽黒が顔を出すと、すぐに部屋に入った。そのあと、僕も部屋に戻り、根来が内側からドアを閉めた。
メイは三人の男に囲まれて、鬱陶しそうにしていた。しかし羽黒の手際の良い応急処置に、何も言うことはなかった。彼女の傷は拘束されていたシーツで血を止めることに成功した。それから、羽黒は船医に電話をすると、この部屋の番号を教えた。
「簡単なものですが、出血多量で死ぬことはないと思います」
「ありがとう」と彼女は言った。
羽黒はため息をついた。
「正直、これはあなたなら防げた傷だと思います。ここまで自分勝手で、子どもっぽい人だとはわかりませんでした」
「幻滅した? あるいは、私に協力を要請した自分に失望した? 」
「少し印象を改めただけです。結局は最悪の事態を間逃れました。それは黒田 清蔵さんの他にも人が死ぬことです。結果的に言えば、血生臭いことに慣れているあなたが人質になったのは、悪くなかったということになります」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか? 」
「しかしやり方が酷すぎます。事態を余計に混乱させかけた」
彼は肩をすくめ、根来の赤くなった鼻元を見つめた。血は出ていないものの、それはすっかり腫れていた。
「根来さん、彼女をどう処理するつもりなんですか? 」と羽黒は言った。
「さあ」と根来はにやりと笑い、赤い鼻を擦った。「こいつを刑事事件として片付けて、憂さ晴らしをするのも悪くないかもな。こいつにはかなり面倒を被った」
メイは何も言わなかった。ただ、彼の瞳に視線を外すことなく、答えをじっと待つだけだ。しかし傷ついた太股を右手で擦りながら、いかにもそっちの方を心配しているというような表情をつくった。
「だが、お前はたまたま拳が当たったんだよな? 」
「ええ」とメイは嬉しそうに答えた。「その通りです、根来刑事」
「だったら仕方がない。そうだろ、羽黒くん? 」
「仕方がありません」と羽黒は微笑んだ。
メイは頭を枕の上にすとんと落として、ゆっくりと瞼を瞑る。足は動かしちゃ駄目ですよと、羽黒は言った。メイは何も言うことはなく、こくりと頷いた。
「じゃあ」と根来は言った。「お前は俺の部屋で大人しくしてもらおう。手錠を掛けて貰うことになる」
はい、と僕は言った。彼は僕の手を掴むと、一緒に部屋を出た。もう終わりに近づいている。しかし悪くはなかった。ドアを閉める瞬間、背後からメイの大きな声が聞こえた。
「蝿はいるか? 」
「もういない! 」と僕は答えた。
彼女は重そうに右腕を上げて、手を振った。
「また会おう」
そしてドアが閉まった。しかしそれからの人生で、もう彼女と会うことは二度とない。その後、僕は彼女の不思議な噂をいくつか聞くことなったが、その一つに彼女はもう死んでしまっていたと聞いた。それを確かめようと、羽黒が彼女の故郷に行ったが、そもそも住所はどこにもなかったらしい。家を売り払い、どこかで旅をしていたのかもしれない。(しかし、僕はなぜか彼女が死んでいると確信までしている)いずれにせよ、いつの時点で死んでも、彼女は最後まで酒としか友達になれず、乱暴な世界とは決別できなかったに違いない。
ともあれ、彼女はこのあと、幻覚について異常な学習意欲が沸きだって、独自に調べることになる。(おそらく、彼女が再び幻覚に悩まされたせいだろうと、僕は推測している)そして死を推定された後、彼女の机の抽斗から一冊のノートが出てきて、ある説が書き残されていた。それは幽霊と幻覚の相違に着目し、日記形式で乱雑に書かれている。この奇妙な日記の最後は、2月の14日だった。
2/14 火曜日 雨
学問的に、あるいは一般的に病的な人間にしか見えず、触れない視角情報だけの現象を我々は「幻覚」と呼んでいるが、そもそもその現象が「亡霊」であるのではないだろうか。「亡霊」もまた、病的に弱っている人間の前に現れ、実体を持たないだけの存在ではないのだろうか。
我々が科学で定義するものは、逆にその存在を誤解する結果となった例は多々ある。かつての白人社会で一般的でさえあった優生学に基づく、人種の優劣を骨格で決めるものがこれに相当するだろう。これは白人の骨格に近いものほど良いとされ、アジア人や黒人に近いほど野蛮とされた。そして私が知る限り、昔あったことが二度と起こらないことなんて今までないのだ。……はたして、我々の「亡霊」に対する認識は適切であるのだろうか。これも宗教の喪失がもたらした結果なのかもしれない。
文はこれで終わっている。この他の日記では、彼女はより幅広くこの説を考察しており、幻覚が物質世界で及ぼした事例を幾つか書き記している。その一つにグロスマン事件というものがあり、グロスマン博士が喋る羊に出会い、そいつが彼女の夫を拳銃で殺す幻覚を見た次の日、その夫が運転中に流れ弾で死んだらしい。近くに森があり、鹿の狩猟中の流れ弾だったと考えられているが、その犯人は未だに見つかっていない。グロスマン博士はこれを羊のせいだと主張したが、周囲から気の毒に思われ、彼女は精神病院に入院させられてしまい、それから少しして彼女は首に縄を巻いて自殺をしてしまう。
そのノートがメイの自筆なのか判断はつかなかったらしいが、僕はきっと彼女が書いたものだと思っている。もっとも、書いている彼女がまともな精神状態であったのかは別として。
根来に引っ張られながら、僕は廊下を進んだ。階段の手前で、長倉 理沙に出会った。その横にはカールさんがいた。彼女は僕を睨み付けながら、一生懸命に泣くまいとしている。カールさんは床に目を伏せていた。僕は何も言うことはなかった。何も言えなかった。二人とすれ違う際、僕は身体が2倍ほど重くなった気がした。この二人に関して言えば、この後も噂さえ聞くこともなかった。それからどうなったとかや、何をしているかなんて、僕はさっぱり知らないのだ。一度だけ長倉 理沙について根来から聞こうとしたが、お茶を濁すように話を変えて誤魔化された。ということは、きっとよくないのだろう。
やがて根来の部屋に入り、僕は一息ついた。彼はすぐに机の抽斗をごそごそと扱い、手錠を取り出した。僕は手首の感覚を狭めて、手錠を掛けやすいように前に差し出す。
「俺はマトモな警官ではない。これからもそうだ」と彼は唐突に言った。「もちろん、マトモな警官というものがいたならだが」
「それで? 」
「大いなる善のためとはいえ、人を怖がらせ、ルールを破ってしまった。それはいつか報いを受けなければならない。だが、俺は俺の最善を尽くした。仕方ないとはいえ、顎を殴って悪かったな? 」
「仕方ないことです」と僕は言った。「あなたはやるべきことをやってくれました」
彼は目元を緩め、口元を数センチ上げた。そして、さっと厳しい顔つきに変えると、腕時計で時間を確かめて、手錠を僕の手首に掛けた。カチリ、と重たい音がした。それから僕は日本に戻り、刑務所に入れられることになる。しかし根来は何度も面会に来てくれた。彼は思ったより優しい人だったし、そして繊細だった。僕のことさえ、見捨てようとはしなかった。しかし彼もこの日を境に少しだけ変質したことは間違いない。
とはいえ彼のおかげで、僕がその後の人生であの夢を見ることはなくなった。それはきっと喜ばしいことのはずだ。
僕が実際的に殺人をしていようと、していなくても。




