62 罪深き我が子
グレゴール・キングの脳天にナイフが突き刺さり、壁に不思議な色の汁が飛び散った。
「そんな馬鹿な……、む、息子よ。な、何故だ。何故……」
グレゴール・キングはナイフの刺さった頭を両手で抱えた。そして、呻き声を上げながら、スーツの背中から出ている羽を不器用にばたつかせた。彼は悲痛な表情を浮かべ、その巨大な瞳はふるふると揺れ動いていた。大きな涙が雫となって、顔を伝い、赤い絨毯に流れ落ちた。
「何故です……」
僕は、もがいているグレゴール・キングを見つめている。メイもまた太腿の痛みを堪えながらも、僕とグレゴール・キングがいるであろう方向を眺めていた。
「グレゴール・キング、君は僕にはもう必要ない。殺人だってしたくない。清蔵を殺して、心の底に潜んでいた孤独が君という幻を産み出したんだ。そうだ。いつかメイが僕に言ったように、君が僕を産み出したんじゃない。僕が君を産み出したんだ……」
「洗脳されたのか! おお、愛しい我が息子よ。愛しいのに、お前はなんて愚かなんだ。なぜ、この父を殺そうと言うのです。その女を殺すというなら結構ですが、この後に及んで、殺虫までしようというのですか。お前は蝿としての自覚を失ったのか。蝿であるお前が殺虫なんて……!」
僕は、その言葉をおぞましく感じた。またしても、蝿、蝿、蝿、蝿……。お前が言うように僕は蝿なのか。なぜ、お前は蝿と呼びかけるのだ、どうしても、蛆であった頃が思い出せないでいるこの僕を。堪らなくなって、最後まで言葉を聞かずに、グレゴール・キングの顔に刺さったままのナイフを引き抜き「僕は蝿なんかじゃないんだっ!」っと叫んで、もう一度、縦に斬りつけた。グレゴール・キングは再び悲しげな声を上げながら、左右に身体が揺れた。彼の悲鳴は、どこか悲しげな虫の鳴き声にも変わった。
「もうお前なんて僕には必要ないんだ! ただの幻なら、この手で掴み取れないものなら、はじめから僕の前に現れなければ良かったんだ!」
「……倫助。よく聞くんだ。これがお前の選んだ道ならば、私は何も言わない。その道を突き進みなさい。虫ではなく、人間として生きるというのなら。でも、もしもそうだとしても、これだけは忘れてはなりません。私が消えたとしても、お前が黒田 清蔵を刺し殺したことは変わりません。たしかに私がお前に殺せ、と言った。しかしお前はあの時、確かにあのオンボロな我が家を、小さい頃、育ったあの家を思い出していたはずです。そこに眠る母親のことを思い出していたはずです。そうですよ。倫助。お前自身がこの孤独な道を選んだのではないですか。あの時、黒田清蔵の血に汚れたお前は、たったひとりで苦しんでいたではないですか。その孤独なお前にとって、私はやっぱり父親だったのですよ。幻なんかではなかったのですよ……」グレゴール・キングは寂しげに、そこで一旦息を止めてから、悲しみと怒りの入り混じった、物凄い声を一層強く響かせた「そう、だから断じてこれは幻ではないのです!! 」
「違う。お前なんて僕にはいらなかったんだ!僕の手が血にまみれたのはお前のせいだ。僕は人間だ。お前は虫だ。永遠に分かり合うことのない両極端なんだ。一緒にするな!!」
「愚かな息子よ、よく覚えておきなさい」と彼はふうふうと息を切らしながら続けた。「お前は黒田 清蔵を2回殺し、父親を3回殺したのだ……」
グレゴール・キングは悲しげにそう言うと、どこからともなく、蝿の大群が黒煙のように押し寄せてきた。そして、グレゴール・キングの周囲を渦のように回り続けて、彼の姿を覆い隠した。その羽音は僕の鼓膜を撫でまわし、煩く轟いている。まるでテレビの砂嵐のように。
「おおおお……、罪深き我が子を許し給え……」
天井を伝うようにして響いてきた、彼の悲しみの声は、いつまでも僕の耳から消えなかった。
やがて蝿達が四方に散らばると、もうそこにはグレゴール・キングの姿はなかった。蝿達も部屋の影に隠れ、その影の色と同化し、気がついたらもうどこにも見えなくなっていた。部屋にはもうグレゴール・キングの姿もなければ、蝿の大群もない。見えるのは、僕とメイのふたりだけだ。
メイは僕に尋ねた。
「殺ったのか?」
僕は口が開かず、黙ったままだった。




